無人島特別試験、二日目・午後。
赤道直下を思わせる暴力的な日差しが、容赦なく島のジャングルを焼き付けている。本来であれば、ポイントを消費して購入した粗末なテントの中で、生徒たちは暑さと湿気、そして見えない虫たちの脅威に怯えながら体力をすり減らしている時間帯だ。
しかし、我がDクラスの拠点——坂本が流木、竹、シダの葉を用いて単独で建設した南国風ヴィラの周辺だけは、まるで別次元の物理法則が適用されているかのような快適さに包まれていた。
「あー……極楽、極楽……。クーラーなんていらねえな、これ」
「アニキの作ったヴィラ、風の通り道が完璧すぎるぜ……」
須藤と池が、編み込まれたツルのベッドの上でだらしなく大の字になっていた。彼らはすっかり坂本を神として崇める信者と化しており、無人島という名の試練を完全にバカンスと勘違いし始めている。
ヴィラの裏手からは、坂本が構築した「秘技:竹林の清流(バンブー・ウォーター・ガーデン)」のせせらぎが絶え間なく聞こえてくる。完璧に濾過された清涼な水が、拠点全体に打ち水のような効果をもたらし、体感温度を数度下げていた。
オレは竹の柱に背を預けながら、手元の端末——学校から支給された、スポット占有などの情報を管理するためのタブレットを無意識に操作した。
(……サバイバルという最大の懸念が消滅した以上、残る問題は『スポット占有』と『他クラスのリーダー当て』によるポイント変動だけだが)
この特別試験のルールは、ただ生き残るだけではない。島に点在するスポットをリーダーのキーカードで占有することで得られるボーナスポイント、そして最終日に他クラスのリーダーを当てることで得られる莫大なポイントが存在する。
オレは本来、この試験において裏で立ち回り、堀北をリーダーに据えつつ、他クラスの動きをコントロールするつもりだった。だが、坂本が圧倒的な快適さを提供してしまったせいで、Dクラスの連中は「外に探索に出る」というモチベーションすら失いつつある。
「……綾小路くん」
不意に、堀北から声をかけられた。
彼女は手入れの行き届いた黒髪をかき上げながら、ヴィラの入り口に立つ男——坂本の背中を、複雑な眼差しで見つめていた。
「このまま拠点に引きこもっていては、スポット占有によるポイント増加は望めないけども。……それに」
「他クラスの妨害工作、か」
「ええ。今朝の龍園くんの襲撃のようにね」
今朝、龍園と伊吹がこの拠点を破壊しに来た。結果として、坂本の圧倒的な善意とホスピタリティの前に朝の運動と訪問客として処理され、デトックスウォーターと朝食のスープを振る舞われて撤退するという異常事態で幕を閉じたが、彼らがこのまま引き下がるはずがない。
「……彼に、スポット探索を頼むべきかしら」
「やめておけ。彼をジャングルに放てば、スポットを探すついでに古代遺跡でも発掘して帰ってきそうだ。オレたちの常識のキャパシティがこれ以上オーバーフローするのは避けたい」
「……それもそうね」
オレたちがひそひそと会話を交わしていると、ヴィラの入り口で竹のステッキを手入れしていた坂本が、ふと顔を上げた。
「皆様。午後の紅茶の時間にはまだ少し早いですが、素晴らしいお知らせがあります」
坂本は、黒縁メガネのブリッジを中指で優雅に押し上げた。そのレンズの奥には、いつも通りの、一点の曇りもない無垢なる親切心が輝いている。
「先程の朝の散策の折、この島の地下水脈と地熱の構造を少しばかり『拝見』いたしまして。ヴィラから歩いて三分ほどの岩場に、ささやかな憩いの場をご用意させていただきました」
「憩いの場……? アニキ、何を作ったんスか?」
須藤が起き上がり、目を輝かせる。
「大自然の抱擁——『天然の露天風呂』でございます」
「「「……は?」」」
オレ、堀北、そしてさんばかトリオの声が見事にハモった。
露天風呂? 無人島で?
いや、確かに火山島であれば温泉が湧く可能性はある。だが、それをどうやってご用意したというのか。
「少しばかり岩盤のツボを刺激し、地下深くに眠る熱水鉱床への水路を整えたに過ぎません。温度調整のために川の水を引く竹のパイプも併設しておりますので、いつでも最適な湯加減でお楽しみいただけます。……女子の皆様には、シダの葉と竹で編み上げた専用の目隠し(脱衣所付き)もご用意しておりますので、ご安心を」
――秘技:大地の息吹(ガイア・ブレス)。
もはや土木工学や地質学の専門家すら土下座するレベルの離れ業を、彼は岩盤のツボを刺激したの一言で済ませた。オレの胃の粘膜が、再び悲鳴を上げ始める。
「マジかよ! アニキ、温泉掘り当てたのかよ!」
「うおおおおっ! 海水でベタベタした身体を洗えるなんて最高だぜ!」
男子たちが歓喜の雄叫びを上げ、櫛田や佐倉たちも目を輝かせて立ち上がった。サバイバル生活における最大のストレスの一つである衛生環境の悪化が、完全な形で解決された瞬間だった。
「……綾小路くん。私、もう考えるのをやめるわ。とりあえず、タオルを取ってくる」
「ああ……ゆっくり浸かってこい」
堀北はついに論理的思考を完全に放棄し、温泉という名の甘美な誘惑へと歩み去っていった。
クラスメイトたちが次々と坂本特製・天然スパリゾートへと向かっていく中、オレは一人ヴィラに残り、残された濾過水で胃薬を流し込んだ。
「……ん?」
その時だ。
ヴィラの前方、ジャングルの茂みが不自然に揺れた。
野生動物か? いや、足音が違う。何かを引きずるような、重く、疲労しきった足取り。
ガサッ……。
シダの葉を掻き分けて姿を現したのは、一人の女子生徒だった。
泥だらけのジャージ、乱れた髪。そして、その頬には赤く腫れ上がった打撲の痕が生々しく残っている。
Cクラスの伊吹澪だ。
彼女は今朝、龍園と共に妨害工作に訪れ、坂本に余り物のスープの味見という建前で敗北し、餌付けされたはずの女だ。
「……っ……水……」
伊吹は乾ききった唇からかすれた声を漏らし、そのままヴィラの前の白砂の上に崩れ落ちた。
オレは無表情のまま、彼女を見下ろした。
(……なるほど。そういうことか)
あまりにも分かりやすい。
これは龍園の常套手段だ。クラス内で内紛を装い、暴力を振るって追い出したと見せかけて、ターゲットのクラスにスパイとして潜り込ませる。彼女の頬の腫れは、おそらく龍園が実際に殴ってつけたまぎれもない本物の傷だろう。
目的は、Dクラスの動向調査、拠点設備の破壊、そして何より誰がリーダーなのかを探り当てること。今朝、物理的・論理的な攻撃が一切通じない善意に対し、未知の恐怖を抱いた龍園が、焦りから放った窮余の一策だ。
オレがどう対処すべきか思考を巡らせた、まさにそのコンマ一秒後。
「——おや。今朝のお客様ではありませんか」
スッ、と。
いつの間に移動したのか、ヴィラの奥でタオルを畳んでいたはずの坂本が、倒れた伊吹の傍らにしゃがみ込んでいた。
「っ……あ……アンタ……」
伊吹が、泥まみれの顔を上げて坂本を睨む。その目には、演技の疲労感だけでなく、朝の接待で感じた理解できないバケモノへの畏怖が本物の色として浮かんでいた。
「ひどい傷ですね。お一人でジャングルを彷徨及ばれたのですか?」
「……龍園に……殴られて、追い出されたのよ。アイツ、自分のやり方に文句を言った奴を……容赦なく……」
伊吹は、台本通りの悲痛なセリフを紡ぐ。普通のお人好しであれば、ここで同情し、彼女を拠点に招き入れてしまうだろう。
「……なるほど。それは災難でしたね」
坂本は静かに頷くと、自らの制服のポケットから、先程ジャングルで採取してきたと思われる、肉厚な緑色の植物を取り出した。野生のアロエだ。
「じっとしていてください」
――秘技:月下美人の雫(ムーンライト・アロエ)。
シャッ、という極めて鋭く、そして静かな摩擦音。
坂本は、ただの指先——あるいは隠し持っていた定規か何か——で、アロエの葉の表面をミクロン単位の精度で削ぎ落とした。中から現れたのは、不純物を一切含まない、水晶のように透き通った純度100%のアロエ・ゼリー。
彼はそれを、指の腹でそっとすくい取ると、伊吹の腫れ上がった頬に優しく、まるで壊れ物を扱うかのように塗布した。
「なっ……何すんのよ……!」
「アロエには優れた消炎作用と保湿効果があります。傷ついたお肌と、何より傷ついた心に、大自然の鎮静剤を」
ひんやりとしたアロエの感触と、坂本の洗練された指先の動き。伊吹の身体から、一瞬にして緊張が抜け落ちるのが見えた。
「アンタ……私が敵のクラスの人間だって……分かってんでしょ? なのに、なんで……」
「敵、ですか?」
坂本は不思議そうに小首を傾げた。
「この美しい自然の前では、僕たちはいち等しく、大地の恩恵に与る小さな旅人に過ぎません。AもBもCもDも、それは人間が勝手に引いた無粋な境界線。……旅人が傷つき倒れているのを見過ごすほど、僕の日常は無慈悲ではありませんよ」
完全なる善意。そこには一片の裏も、打算も存在しない。
伊吹の唇がワナワナと震えた。彼女が準備してきたCクラスの悲惨な内情を語る嘘も、同情を引くための涙も、この圧倒的なホスピタリティの前では、披露する前に無力化されてしまったのだ。
「ちょうど今、当リゾート自慢の『天然露天風呂』が湧き上がったところです。泥を落とし、ゆっくりと羽を伸ばしてください。……安心してください、女子専用の時間は、今から一時間確保してあります」
「ろ、露天風呂……? 無人島に、そんなもの……」
「ええ。ご案内しましょう。どうぞ、僕の手に」
坂本が差し出した手。伊吹は、まるで催眠術にかかったかのように、その無駄にスタイリッシュな手を取って立ち上がってしまった。
(……終わったな、龍園)
オレは心の中で、Cクラスの暴君に合掌した。
スパイとして潜入し、疑心暗鬼と内部崩壊を引き起こすはずだった伊吹は、今や完全に高級スパリゾートのVIP客として組み込まれてしまった。これではスパイ活動など成立しない。彼女は間もなく、温泉の心地よさと、提供されるであろう極上のディナーによって、己の使命を物理的・精神的に忘却させられる運命にある。
伊吹を露天風呂へと見送った後。
拠点の静寂を取り戻したオレの前に、さらなる訪問者が現れた。
「こんにちは、Dクラスのみんな!……って、あれ? 誰もいない?」
明るく、それでいて周囲の警戒を解くような澄んだ声。
Bクラスのリーダー、一之瀬帆波だ。
彼女は、Bクラスの数人の生徒と共に、ジャングルを抜けてDクラスの拠点へとやってきた。彼女たちはポイントを適切に消費し、ある程度のサバイバル物資を確保しているはずだが、その顔には無人島特有の疲労が見え隠れしている。
「……一之瀬か。何の用だ」
オレは警戒しすぎない程度のトーンで応じた。
「あ、綾小路くん。えっとね、他クラスの状況を少し見て回ろうかと思って。……と言っても、偵察とか悪い意味じゃないよ? もし本当に困っていて、体調不良者とかが出ているなら、私たちBクラスのポイントを使ってでも助け合えないかなって……」
一之瀬の言葉には嘘がない。彼女は本気で、この過酷な試験において全クラスが脱落者を出さずに生き残る理想論を追求している。
だが。
彼女の視線が、オレの後ろにある巨大な建造物——坂本建設の南国風ヴィラ——を捉えた瞬間、その美しい瞳が限界まで見開かれた。
「え……? な、何これ……?」
一之瀬の声が震えている。
彼女の背後にいたBクラスの生徒たちも、口をポカンと開けて硬直していた。
「テント……じゃないよね? 家? なんで無人島に家が建ってるの……?」
「しかも、あっちから水洗トイレみたいな音が聞こえるんだけど……!」
無理もない。彼らは300ポイントから身を削るようにしてテントや簡易トイレを購入し、必死に節約生活を送っているのだ。そこへ来て、ポイント消費ゼロでこのインフラを構築しているDクラスの異常さは、一之瀬の常識的な理解を超えていた。
「……事情は複雑でな。オレの口からはうまく説明できない」
「綾小路くん、これは……Dクラスは、一体どれだけのポイントを使ったの? いや、学校のカタログに、こんな建築キットなんて存在しなかったはず……」
一之瀬が混乱の極みに達しようとした時。
竹林の奥から、湯上がりでさっぱりとした顔の女子生徒たち——堀北、櫛田、そしてなぜかCクラスの伊吹——を引き連れて、坂本が戻ってきた。
「おや、新たなご来客ですね」
坂本は、一之瀬たちを見るや否や、完璧な四十五度の角度で一礼した。
「ようこそ、Dクラスのリゾート・ベースへ。僕は当リゾートの総支配人を務めております、坂本と申します。遠路はるばるジャングルを越えてのご来訪、誠に恐悦至極に存じます」
「リ、リゾート……総支配人……?」
一之瀬の脳の処理回路が、完全にショートした音が聞こえた。
「長旅でお疲れでしょう。すぐにお冷をご用意いたします」
――秘技:絶対零度の微笑み(クーレスト・フラッペ)。
坂本は、先程竹林の清流のさらに上流、日陰の岩肌で発生する気化熱を利用して極限まで冷却しておいた竹の器を取り出した。
さらに、無人島に自生する野生のベリーと柑橘類を、一瞬のナイフさばきで美しい装飾切りに仕立て上げ、冷たい器の中に盛り付ける。
仕上げに、竹の筒に通した風を巧みに操り、果実の表面に微細な冷気の層を纏わせることで、まるで氷の結晶が咲いたかのような『無人島特製・トロピカルフラッペ』を完成させたのだ。
「どうぞ。Bクラスの皆様も、遠慮なくお召し上がりください」
「あ……ありがとう……」
一之瀬は、手渡された竹の器を、震える手で受け取った。
一口食べる。
その瞬間、彼女の表情が、疲労から解放された少女のそれへと劇的に変化した。
「……おいしい。冷たくて、甘酸っぱくて……これ、本当に無人島の果物なの?」
「ええ。大自然の恵みを、少々スタイリッシュにアレンジしただけです」
坂本は涼やかな声で答える。
一之瀬は、フラッペを味わいながら、目の前に広がる光景を改めて見渡した。
快適なヴィラ。完璧な浄水システム。そして、Cクラスの伊吹までもが、敵意を完全に喪失し、櫛田たちと他愛のない会話をしながら髪を乾かしている事実。
(……勝てない)
一之瀬の顔に、明確な敗北感が浮かんだのを、オレは見逃さなかった。
彼女は、クラス間の協力やポイントの融通といった盤上のゲームで戦おうとしていた。だが、坂本はその盤上そのものを、極上のリゾート空間という暴力的なまでの善意で上書きしてしまったのだ。
Dクラスは、もはや他クラスからの援助など一切必要としていない。逆に、他クラスがDクラスに依存しかねないという、完全なヒエラルキーの逆転が起きていた。
「綾小路くん……Dクラスって、本当にすごいんだね。私たちBクラスの考えが、なんだかすごくちっぽけに思えちゃった」
一之瀬は自嘲気味に笑い、フラッペの器を空にした。
「……オレは何もしていない。すべて彼がやったことだ」
「ふふ、謙遜しないで。でも……少し安心したよ。Dクラスのみんなが、こんなに楽しそうにサバイバルを乗り切っているなら、私たちの出る幕はなさそうね」
一之瀬は、坂本に向かって深くお辞儀をした。
「ごちそうさまでした、坂本くん。とっても美味しかったです。……もしよければ、後で少し、Bクラスの拠点にも遊びに来てくれませんか? その……アドバイスとか、貰えたら嬉しいなって」
「ええ、喜んで。隣人を愛することは、スタイリッシュな日常の基本ですから」
坂本は快諾した。
一之瀬はBクラスの生徒たちを連れて、来た時よりも遥かに軽やかな足取りで帰っていった。彼女の心境は、坂本の能力への畏怖と、彼が味方であればどれほど頼もしいかという強烈な魅力に支配されているはずだ。
夕刻。
水平線に沈む真っ赤な夕日が、Dクラスの拠点を美しく染め上げていた。
夕食は、坂本が「秘技:海神の舞」で追加調達してきた白身魚のハーブ包み焼きと、ヤシの実のスープ。伊吹澪は、すっかり毒を抜かれた顔で、須藤たちと一緒におかわりを要求していた。
「おい、Cクラスの女。お前、よく食うな」
「う、うるさいわね! どうせ追い出されたんだから、食える時に食っておかないと損でしょ!」
伊吹は顔を赤らめながら言い返すが、その声に朝のような殺気はない。龍園の密命など、もはや彼女の頭の片隅にも残っていないだろう。
(……プランE、対他クラス防衛網の自動化、か)
オレは、静かに手元のタブレットを閉じた。
物理的な破壊工作も、心理的なスパイ潜入も、坂本のリゾート空間という結界の前ではすべて無意味なものへと変換される。敵対行動すらもお客様の要望として処理され、相手の戦意を根こそぎ奪い取る。
これが、坂本の真の恐ろしさだ。
「さて、夜の帳が下ります。皆様、星空を眺めるためのハンモックをご用意いたしました。食後のひとときを、優雅にお過ごしください」
坂本の声が、静かなジャングルに響く。
オレは再び胃薬の瓶を取り出した。慢性化した胃痛は辛いが、この男が最強の隠れ蓑として機能している事実だけは、認めざるを得ない。
龍園翔。お前がどれだけ絶望し、次なる罠を仕掛けてこようとも。
この極上のスパリゾートの総支配人を引きずり下ろすことは、誰にもできないのだ。