ようこそスタイリッシュ至上主義の教室へ   作:GC

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第14話「スタイリッシュと最高傑作の勝利」

ボーッ、という低く重い汽笛の音が、夏の突き抜けるような青空と、波の音しかしない無人島の静寂を引き裂いた。

 

 一週間に及ぶ無人島特別試験の完全なる終了を告げる合図だ。

 指定された時刻に合わせ、各クラスの生徒たちはそれぞれの拠点としていた場所から撤収作業を行い、スタート地点であった白い砂浜へと続々と集結しつつあった。

 

本来であれば、この瞬間は生徒たちにとって地獄からの解放を意味するはずだった。

 まとわりつくような不快な湿気、シャワーも満足に浴びられない不衛生な環境、底をつきかける食料と飲料水、そして何より、他クラスと水面下で繰り広げられるポイントと情報の削り合い。まだ十五、六歳の高校生にとって、文明の利器を奪われた状態での一週間は、心身ともに限界を迎えるのに十分すぎる過酷さだ。

 豪華客船という巨大な文明の象徴を目にした瞬間、安堵のあまり砂浜にへたり込んだり、涙を流したりする――それが、学校側が想定し、期待していたこのサバイバル試験の正しいエンディングだったはずである。

 

だが、現実は大きく異なっていた。

 砂浜に整列した四つのクラスの有様は、学校側の想定を遥かに超える、異様とも言えるコントラストを描き出していた。

 

「あーあ、終わっちゃうのか。坂本のアニキが作ってくれた竹の露天風呂、マジで最高だったのになぁ……。帰ったら普通の風呂じゃ満足できねえ体になっちまったかも」

 

「わかるー。正直、客船のユニットバスよりあっちの天然温泉の方が肌ツヤ良くなる気がするし。あのアロエゼリー、学校に持って帰れないのかな。普通に売れるレベルだよあれ」

 

須藤や池、そして櫛田や軽井沢といったDクラスの面々は、疲労困憊どころか、まるでハワイやグアムでの長期バカンスから帰還した富裕層のように肌ツヤを輝かせ、名残惜しそうに背後の深いジャングルを振り返っていた。彼らの手には、坂本が最後の昼食として振る舞ったフルーツバイキングの余りである、美しくカットされたマンゴーやパパイヤが握られている。

 

 彼らは学校から支給された300ポイントを、テントや簡易トイレ、食料といった生存のためのインフラに一切使用しなかった。坂本という一人の男が、流木と竹とシダの葉、そして無人島の自然という素材だけで、極上のスパリゾートを無から創造してしまったからだ。サバイバルという前提は、彼らにとっては初日の午前中だけで崩れ去っていた。

 

異様な空気を纏っているのは、Dクラスだけではない。

 

 Bクラスのリーダーである一之瀬帆波は、Dクラスの女子たちとすっかり打ち解け、「帰りの船でも、昨日もらったフルーツのお礼にケーキ奢るね!」と、まるで合同合宿を終えた後のような爽やかな笑顔で談笑している。Bクラスはポイントを適度に消費し、堅実な生活を送っていたはずだが、終盤に坂本のリゾート空間に触れたことで、サバイバルの緊張感から完全に解放されていた。

 

そして何より、周囲の目を引くほど劇的な変化を遂げていたのが、Cクラスだった。

 

「……おい、龍園。お前、なんか……顔が丸くなってないか? というか、オーラが……」

 

他クラスの男子生徒が訝しげに囁くのも無理はない。

 

 Cクラスの暴君として君臨し、常に周囲を威圧してきた龍園翔。彼は今朝の偵察で味わった手作りスープの屈辱を晴らすため、昨夜、Dクラスのヴィラを物理的に破壊しようと夜襲を仕掛けた。しかし、坂本の『秘技:蛍火のワルツ』による視覚的制圧と、『無重力空間(ゼロ・グラビティ・ホールド)――ティー・パーティ・エディション』によるカモミール&ハーブティーの強制給餌によって、極限まで張り詰めていた神経を完全に解きほぐされ、怒りという感情そのものを霧散させられてしまった。

 

 現在の龍園は、狂犬のような鋭い眼光を完全に喪失し、静かに吹く海風を顔に受けながら「潮騒の音が……やけに心に沁みるな」などと、現役を退いた老人のような穏やかすぎる表情で水平線を見つめている。彼の隣では、スパイとしてDクラスに潜入し、内部崩壊を引き起こすはずだった伊吹澪が、坂本特製オーガニック保湿クリームの入った竹の小さな容器を、宝物のように大事にポケットにしまっていた。

 

(……サバイバルという前提条件が崩壊した以上、残る勝敗の要素は『ポイント』だけだ)

 

オレは、静かに砂浜の最後尾に立ちながら、周囲の状況を冷静に分析していた。

 この無人島試験には、ただ生き残るだけではない、もう一つの最大の罠が仕掛けられている。

 『他クラスのリーダー当て』だ。

 試験終了時、他クラスのリーダー(キーカードの所持者)を正確に言い当てれば50ポイントを獲得し、逆に当てられれば50ポイントを失う。クラスポイントの順位をひっくり返すには十分すぎる、莫大な点数が動くギャンブル。

 

オレの視線は、砂浜の端で、他のどのクラスとも交わることなく整然と隊列を組んでいる一団――Aクラスへと向けられた。

 Aクラスの暫定リーダーである葛城康平は、腕を深く組み、厳しい表情でこちらを観察していた。彼らの制服には泥が跳ね、顔には明らかな疲労の色が濃く刻まれている。

 

Aクラスはこの一週間、他のクラスとの接触を極端に避け、島に点在する洞窟という天然の要塞を拠点として引きこもっていた。他クラスからの情報漏洩を防ぎ、同時にポイントの消費を最小限に抑える『完全なる守り』の戦術。優秀で堅実な葛城の性格からすれば、それは最も理にかなった選択だったはずだ。

 

 だからこそ、彼らは他クラスの動向――特にDクラスがどのような一週間を送っていたのかを、一切知らない。

 暗く冷たい洞窟の中で、配給の乾パンと最小限の水で耐え忍んできた彼らにとって、今目の前にいる『どう見ても元気すぎるDクラスの姿』は、ひどく奇妙で理解しがたいものとして映っているはずだった。

 

「どういうことだ……Dクラスは、なぜあれほどまでに消耗していない?」

 

 葛城の低く、困惑の混じった声が、海風に乗って微かにオレの耳に届いた。

 

「彼らは初日にポイントを使い切って、豪華な物資でも買い込んだのか? いや、それにしてはテントなどの大型機材が見当たらなかった。まさか、何も買わずに一週間を乗り切ったとでも……あり得ない。人間があの軽装で耐えられる環境ではないはずだ」

 

葛城の隣に立つ戸塚や町田といったAクラスの生徒たちも、理解不能な光景にざわめいている。

 Aクラスは、ポイントを節約するという至上命題のために、肉体的・精神的な苦痛に耐え抜いてきたのだ。その苦労が、まるで週末のグランピングから帰ってきたようなDクラスの姿によって、無言のうちに愚弄されているように感じたのだろう。

 

「葛城くん。やはり、Dクラスは何か特別な支援を受けているか、あるいは……」

 

 戸塚が、不審そうにDクラスの列を見渡す。

 

そして彼らの視線は、自然と一人の男に吸い寄せられた。

 支給品のジャージの裾を完璧な黄金比のロールアップで整え、首元にはどこから調達したのか純白のシルクスカーフ(正体は、丁寧に漂白・乾燥・編み込みを施した無人島の巨大な葉の繊維)を巻き、目を閉じて優雅に海風を浴びている男――坂本だ。

 

「……あの男か。彼がDクラスを統率しているとでも言うのか」

 

 葛城は慎重に呟いた。

 

「いや、事前情報では、Dクラスをまとめているのは平田洋介という生徒だと聞いていた。実際に今も、平田がクラスメイトたちに声をかけ、点呼を取っている。リーダーとして最も可能性が高いのは平田だ」

 

(……ご苦労なことだ)

 

オレは内心で、葛城の論理的思考に一定の評価を下しつつも、同情を禁じ得なかった。

 葛城の推論は、学校という限られた社会の常識に照らし合わせれば、完全に正しい。

 Aクラスは無人島で他クラスと接触していない。したがって、BクラスやCクラスのように坂本という現象の圧倒的な支配力とホスピタリティを直接肌で感じていないのだ。

 Bクラスの一之瀬や、Cクラスの龍園であれば、あのスパリゾートの惨状(あるいは楽園)を見せつけられた時点で、論理など飛び越えて「あの坂本という男がすべての元凶であり、リーダーに違いない」という強烈な錯覚に囚われる。

 

 だが、洞窟に引きこもっていた葛城たちAクラスは、あくまで試験前の学校生活における事前データという客観的事実から推理を組み立てるしかなかった。平田洋介がクラスの中心人物であり、人望が厚い。ゆえに彼がリーダーのキーカードを託されている可能性が最も高い、と。

 

どちらに転んでも、彼らは間違える運命にある。

 Dクラスの真のリーダーは堀北鈴音であり、坂本はキーカードの存在すら気にかけていないただのスタイリッシュな一般生徒に過ぎないのだから。

 

「……綾小路くん。Aクラスの視線が、平田くんや坂本くんのあたりを彷徨っているわね」

 

 隣に並んだ堀北が、小さな声で囁いた。

 

「ああ。彼らは完璧に騙されている。オレたちは何一つ偽装工作をしていないのにな」

 

「ええ……。すべては彼の自然体のおかげ、というわけね。……なんだか、私たちが試験前に一生懸命考えていた戦略や立ち回りが、砂上の楼閣みたいに思えてくるわ」

 

堀北は自嘲気味に笑った。

 彼女もまた、この一週間で坂本という存在を前に、小手先の論理や駆け引きがいかに無力であるかを悟っていた。

 

やがて、客船から降り立った担任の教師たちが砂浜に姿を現した。

 Dクラス担任の茶柱佐枝、Aクラス担任の真嶋智也。彼らの表情もまた、一週間の管理業務による疲労というよりは、何か得体の知れない現象を見届けてしまったような、釈然としないものを隠しきれないでいた。

 

「全員、よく一週間の試験を生き抜いた。これより、無人島特別試験の終了を宣言する。直ちに客船へ乗船しろ。結果発表は、出航後、船内のメインホールで行う」

 

真嶋の事務的なアナウンスに従い、生徒たちは順番にタラップを登り、豪華客船のエアコンが完璧に効いたエントランスへと吸い込まれていった。

 

数時間後。

 豪華客船の広大なメインホール。

 各客室でシャワーを浴び、清潔な制服に着替えた生徒たちが、クラスごとに整然と列を作っていた。

 壇上には四人の担任教師が並び立ち、彼らの背後に設置された巨大な液晶モニターには、各クラスの現在の持ちポイント(スタート時の300ポイント)が表示されている。

 

「それでは、これより各クラスの無人島特別試験の最終ポイントを発表する」

 

真嶋の声が、マイクを通してホール全体に響き渡る。

 生徒たちの間に、ピリッとした張り詰めた緊張感が走った。この一週間の苦労が報われるかどうかが、今この瞬間の数字にかかっているのだ。ここで得たクラスポイントが、今後の学園生活のヒエラルキー、引いては毎月の支給額を決定づける。

 

「まずは、試験中のペナルティ、リタイア者の有無、および物資購入による『使用ポイント』の減算結果を表示する」

 

モニターの数字が、スロットマシンのように激しく回転し始めた。

 

【Aクラス:使用ポイント 30】 (残 270ポイント)

【Bクラス:使用ポイント 120】(残 180ポイント)

【Cクラス:使用ポイント 300】(残 0ポイント)

 

ここまでは、ある程度生徒たちの予想通りの数字だった。

 Aクラスは極限まで消費を抑え、最低限の必需品のみで耐え抜いた。Bクラスは仲間を見捨てず、適度な物資を購入して全員で健康的に乗り切った。Cクラスは龍園の独裁のもと、初日にポイントを豪遊して使い切った(その後、ポイントが尽きて飢えかけたところを、坂本に手厚く接待されて生き延びたわけだが、ポイント消費の事実自体は変わらない)。

 

「続いて……Dクラスの、使用ポイントだ」

 

真嶋の声が、ほんのわずかに、しかし確実に震えたような気がした。

 いや、真嶋だけではない。Dクラス担任である茶柱佐枝に至っては、もはや頭痛を堪えるように右手の指でこめかみを強く押さえている。

 

モニターの数字が、ゆっくりと止まった。

 

【Dクラス:使用ポイント 0】 (残 300ポイント)

 

「「「…………え?」」」

 

Aクラスの一帯が、水を打ったような静寂に包まれた。

 次の瞬間、葛城が、まるで物理法則を無視したマジックを見せられたかのように、信じられないものを見る目で声を荒らげた。

 

「ば、馬鹿な! ゼロだと!? 一週間のサバイバルで、簡易トイレも、テントも、飲料水も、食料も、一切の支援物資を買わなかったというのか!?」

 

「そんなの不可能に決まってる! Dクラスは何か重大な不正をしたんじゃないのか!」

 

Aクラスの生徒たちが次々と抗議の声を上げる。

 無理もない。彼らはAクラスとしての誇りにかけて、30ポイントというギリギリの消費ラインを見極め、真っ暗な洞窟の中で極限の生命線で耐え抜いたのだ。それよりもさらに下の完全無消費を、学校で最も落ちこぼれであるはずのDクラスが、あんなに元気な顔で達成したなど、彼らのプライドと論理が絶対に許さなかった。

 

「静粛に!」

 

 真嶋がマイクを通して一喝する。

 

「不正は一切ない。学校側は、Dクラスの拠点を常に監視カメラと教師の巡回で厳重にチェックしていた。彼らは……その、島に自生する植物や地形、自然の恵みを、極めて『独創的かつ高度な手法』で活用し、自給自足のインフラを完全に構築していた。ポイントの消費がゼロであることは、紛れもない事実であり、ルール上何一つ問題はない」

 

教師陣の顔には「あんな南国リゾートのヴィラや天然温泉を自作する高校生がどこにいる」という本音が色濃く張り付いていたが、大人の体面としてそれを口に出すわけにはいかなかった。

 葛城はギリッと奥歯を強く噛み締め、Dクラスの列を鋭く見据えた。彼の視線は、平田を通り越し、やはりあの涼しい顔で佇む坂本へと向かっている。

 

(……ゼロ消費で一週間を耐え抜いた。いや、違う。砂浜での彼らの顔は、耐え抜いた人間のそれじゃなかった。バカンスを満喫していた顔だ。一体、彼らはあの森の中で何を作り上げたというのだ……!)

 

葛城の胸中に、初めて未知に対する恐怖に似た感情が芽生え始めていた。

 

「次に、スポット占有によるボーナスポイント、および最終日の『リーダー当て』による最終結果を発表する」

 

真嶋がスクリーンを操作する。

 ここからが本番だ。

 

「各クラスのリーダーの解答結果だが……Bクラス、そしてCクラスの二クラスは、Dクラスのリーダーを『坂本』と解答した。しかし、これは不正解だ。そしてAクラスは、Dクラスのリーダーを『平田洋介』と解答したが……これも不正解である」

 

「なっ……!?」

 葛城の目が驚愕に見開かれた。

「不正解!? 平田ではないだと……!? では、Dクラスの真のリーダーは一体誰だと言うのだ!」

 

「Dクラスの真のリーダーは、堀北鈴音だ」

 

スクリーンに、堀北の顔写真と、彼女に割り当てられたキーカードの番号が表示される。

 Aクラスに絶望の波が広がった。彼らは事前情報に囚われ、表立ってクラスをまとめている平田を指名した。一方、BクラスとCクラスは、無人島で直接目撃した坂本の圧倒的な存在感という幻影に目を奪われ、解答権を無駄に消費した。

 結果として、誰も堀北鈴音という影の存在に行き着くことはできなかったのだ。

 

「一方、Dクラスは……Aクラスのリーダーを『葛城康平』、Cクラスのリーダーを『龍園翔』と見事に見破った」

 

オレは小さく息を吐き出した。

 

 龍園が自らリーダーのキーカードを持つことは、彼の支配的な性格からして自明だった。葛城に関しても、彼らが洞窟に引きこもるという戦術をとった以上、最も責任感が強く、リスクを嫌う葛城自身がカードを管理している可能性が極めて高い。

消去法と彼の行動パターンから割り出した、オレがこの試験で裏で行った唯一の工作らしい工作だ。

 

「以上を踏まえ、各クラスの最終ポイントを発表する」

 

スクリーンに、最終的な順位と獲得ポイントが叩き出された。

 

1位:【Dクラス】 420ポイント (基本300 + スポット20 + リーダー当て100)

2位:【Aクラス】 170ポイント (基本270 - リーダー外し50 - Dクラスに当てられたペナルティ50)

3位:【Bクラス】 130ポイント (基本180 - リーダー外し50)

4位:【Cクラス】 0ポイント (※マイナスはゼロストップ)

 

圧倒的。

 もはや言葉を失うほどの、完全なる、Dクラスの一人勝ちだった。

 

「よっしゃああああああっ!!」

 

「嘘でしょ!? 私たち、あのAクラスに大差をつけて勝っちゃったの!?」

 

「すげえ!! やっぱ坂本のアニキはマジですげえええっ!!」

 

Dクラスの生徒たちが歓喜の声を上げ、抱き合って飛び跳ねている。

 彼らは自分たちがリーダーを当てられたのか、その真の理由(オレの裏でのリーダー推測)を理解していない。ただ「坂本が最高のスパリゾートを作ってくれたおかげで、ポイントを一切使わずに済んだ」という事実だけを崇拝し、彼を胴上げしようと周囲に群がっていた。

 

「……信じられない。俺が率いるAクラスが、最底辺のDクラスに、これほどの大差で敗北するとは……」

 

葛城は、その場に力なく崩れ落ちそうになるのを必死に堪えていた。

 彼は常に正しい選択をしてきたはずだった。ルールに則り、堅実に、論理的に戦った。自分たちの消費ポイントを極限まで抑え、他クラスの干渉を避ける戦術に間違いはなかった。

 だが、盤面そのものをスタイリッシュな日常という暴力でひっくり返えされた。その論理はあまりにも無力だったのだ。

 

「おや。何かお悩みですか、葛城様」

 

不意に。

 歓喜の輪からふらりと抜け出した坂本が、絶望の淵に沈む葛城の前に立っていた。

 

「さ、坂本……! 貴様、俺を嘲笑いに来たのか……!」

 

 葛城は血走った目で坂本を鋭く睨む。

 

「嘲笑うなどと、とんでもない」

 

 坂本は、左手でメガネのブリッジを優雅に押し上げながら、右手でスッと何かを差し出した。

 

「長きにわたる洞窟での生活、さぞや暗く、冷たい時間だったことでしょう。これは当リゾートの総支配人からの、ささやかなお見舞いの品です」

 

それは、客船のウェルカムビュッフェのテーブルから持ってきたと思われる、ただの赤い林檎だった。

 だが。

 

――秘技:万華鏡の果実(カレイドスコープ・アップル)。

 

シャッ、シャッ、シャッ!

 

 坂本の手の中で、どこからともなく取り出された小ぶりのペティナイフが神速の軌道を描いた。ほんの数秒の間に、ただの丸い林檎は、まるで精巧なダリアの花のように、何十枚もの薄い花びらが幾重にも重なり合う、芸術的なカービング彫刻へと変貌を遂げたのだ。

 

「甘味は、極度に張り詰めた脳の疲労を和らげます。敗北の苦味を噛み締めるのも一興ですが、まずはその強張った眉間を解きほぐしてみてはいかがでしょう」

 

坂本は、美しく彫刻された林檎を葛城の手のひらにそっと乗せた。

 

「なっ……」

 

葛城は、手の中にある常軌を逸した精巧な林檎と、目の前の男の淀みない親切心を見比べ、完全に言葉を失った。

 怒りや屈辱をぶつけようにも、相手は純度100%の善意で自分を気遣い、林檎を剥いてくれただけなのだ。ここで怒鳴り散らせば、自分がただの了見の狭い男に成り下がってしまう。

 葛城は初めて、Cクラスの龍園が味わったであろう理解不能な善意による精神的制圧の片鱗を味わっていた。

 

「貴様は……一体、何者なんだ……」

 

「ただの、Dクラスの生徒ですよ。……それでは、私はこれで。午後のティータイムの準備がありますので」

 

坂本は完璧な四十五度の角度で一礼し、軽やかな足取りで歓喜に沸くDクラスの輪へと戻っていった。

 葛城は、その洗練された背中を呆然と見送ることしかできなかった。彼がこれまで信じ、構築してきた実力至上主義の堅実な価値観に、修復不可能なほどの大きなヒビが入った瞬間だった。

 

(……やはり、この男は群を抜いている。盤面を物理的にも精神的にも破壊する、規格外の存在)

 

オレはホールの隅で、再び胃の辺りを押さえた。

 Dクラスは莫大なクラスポイントを獲得し、落ちこぼれの汚名を返上する第一歩を踏み出した。

 だが、その代償として、他クラス――特に実力者であるAクラスの強烈な警戒心と疑問を「坂本」という個人に集中させてしまった。

 

ふと、オレはホールの二階、VIP専用のバルコニーに微かな気配を感じた。

 見上げると、銀色の髪を持つ小柄な少女――Aクラスのもう一人のリーダーであり、体調不良を理由に無人島試験を欠席していた坂柳有栖が、細い杖をつきながら眼下の光景を見下ろしていた。

 

彼女の視線は、葛城でも、オレでもなく、一直線に坂本へと注がれている。

 その可憐な口元には、未知の珍しいおもちゃを見つけた子供のような、極めて無邪気な笑みが浮かんでいた。

 

(……面倒なことになったな)

 

坂本がスタイリッシュに目立てば目立つほど、オレの平穏な隠キャ生活は遠のいていく。

 豪華客船の優雅な波の揺れを感じながら、オレは船内薬局でさらに強力な胃薬を購入することを、心に固く誓ったのだった。

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