ようこそスタイリッシュ至上主義の教室へ   作:GC

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第15話「スタイリッシュな船上茶会」

豪華客船の最上階に位置する、全面ガラス張りのオーシャンビュー・ラウンジ。

 

 一週間のサバイバル生活という泥に塗れた現実から解放された生徒たちの多くは、自室のベッドに倒れ込むか、あるいは船内の中層階にある無料のビュッフェレストランに群がっていた。そのため、本来であれば上流階級の乗客のみが利用するようなこの静謐で高級感あふれるラウンジには、ほとんど人影がなかった。

 

 オレ――綾小路清隆は、船内の医務室に併設された薬局で無事に『第2類医薬品・強力胃腸薬』をプライベートポイントで購入し、その足で人気のないこの場所へと避難してきていた。

 Dクラスはあの無人島試験で圧倒的な大勝利を収めた。クラスポイントの莫大な加算は、来月からの学校生活においてかつてないほどの余裕をもたらすだろう。須藤や池といった三馬鹿をはじめ、クラスの連中はお祭り騒ぎで坂本を崇め奉っている。彼らの坂本に対する信仰心は、もはや宗教レベルに到達しつつあった。

 

 だが、オレの目論む『目立たず平穏な学生生活を送る』という根源的な方針 は、今や風前の灯火どころか、暴風雨の中のロウソクのような有様だった。

 坂本という男は、物理法則や人間の心理といった、この世界を構築する基本ルールをいとも容易くぶち壊す異常な存在だ。彼がスタイリッシュに振る舞えば振る舞うほど、他クラスからのヘイトや警戒心は雪ダルマ式に膨れ上がり、その余波は必然的に同じDクラスの生徒であるオレたちにも降り注ぐ。

 先ほどのメインホールでの結果発表。Aクラスの葛城康平は、手の中で見事なダリアの花へと変貌した林檎を見つめながら、完全に精神の均衡を崩していた。論理と堅実さを重んじる葛城にとって、坂本の『純度100%の善意によるスタイリッシュな行動』は、どのような盤面の破壊よりも恐ろしいものとして映ったはずだ。

 

(……やれやれ。これでAクラスの敵対心まで買ってしまったわけだ)

 

ラウンジの隅のソファに深く腰掛け、オレは未開封の胃薬のパッケージを指先で弄りながら、静かに息を吐いた。

 オレの隣には、Dクラスの真のリーダーとして表向きの勝利を収めた形になった堀北鈴音が、腕を組んで海を睨みつけていた。彼女もまた、この一連の理不尽な展開に疲労困憊しているようだった。

 

「……綾小路くん。私、自分の頭がおかしくなってしまったのかしら」

 

 堀北が、焦点の定まらない目でポツリと呟いた。

 

「無人島での一週間。私たちは毎日、流木で作られた天然温泉に浸かり、彼がどこからか調達してきたフルーツを食べ、星空の下で竹の楽器によるクラシック演奏を聴いていたわ。……これが、学校側が用意した過酷なサバイバル試験だったなんて、今でも信じられない」

 

「安心しろ。オレも同感だ」

 

 オレは短く同意した。堀北は、坂本という存在を『理解不能な災害』として認定し、脳を守るために思考を放棄するという現実逃避のスキルを身につけつつある。それは、あの男の近くで正気を保つための、唯一にして最も有効な防衛手段だった。

 

「それにしても……」

 堀北は眉間を揉みほぐしながら、ラウンジの中央に視線を向けた。

「彼は、どうしてあんなにも自然に『そこ』に馴染んでいるのかしら」

 

彼女の視線の先。

 誰もいない広大なラウンジの中央で、海に面した特等席のテーブル。そこに、一人の男子生徒が優雅に腰を下ろしていた。

 支給品のジャージ姿であるにも関わらず、彼の周囲だけ重力や空気の屈折率が違うのではないかと錯覚するほどの洗練された空気を纏っている。無人島で調達した巨大な葉の繊維を漂白・乾燥・編み込みして作った純白のシルクスカーフ(のようなもの)を首元に巻き、黒縁メガネの奥の涼やかな瞳で、窓の外を流れる水平線を眺めている男。

 

 坂本だ。

 

 彼は『午後のティータイムの準備がある』と言ってホールを後にした。そして今、有言実行とばかりに、この高級ラウンジで優雅な時を過ごしている。

 驚くべきことに、このラウンジを管理しているはずの客船の専属スタッフ――蝶ネクタイを締めた初老のウェイターは、ジャージ姿の高校生を追い出すどころか、まるでどこかの国の若き王族でも持て成すかのように、最上級のダージリンティーが入ったティーポットを恭しくテーブルに運んできていた。

 

 坂本は常にクール、クーラー、クーレストな日常を体現する男だ。彼がひとたび席に座れば、ただのジャージはオートクチュールのスーツへと錯覚され、無料の白米や野草ですら最高級のフルコースへと昇華される。この豪華客船のラウンジという本来の彼に相応しい舞台においては、そのプラセボ効果はもはや魔法の領域に達していた。

 

「……美しい所作ね。まるで、この船そのものが彼のために造られたかのようだわ」

 

 堀北が、悔しそうに、しかしどこか魅入られたような声で呟いた。

 

「見つめすぎるな、堀北。深淵を覗く時、深淵もまたこちらを覗いているんだぞ」

 

 オレは忠告した。坂本の行動を論理的に解釈しようとすればするほど、こちらのSAN値が削られていく。

 

その時だった。

 

 カツン、カツン。

 静寂に包まれたラウンジに、硬質な音が響き渡った。

 杖を突く音だ。

 入り口のガラス扉が開き、一人の小柄な少女が姿を現した。銀色の短い髪、透き通るような白い肌。その手には、彼女の歩行を補助するための細く美しい杖が握られている。

 

 Aクラスを裏で統べるもう一人のリーダーにして、学園理事長の娘――坂柳有栖。

 彼女の後方には、護衛のようにAクラスの神室真澄が気怠げな表情で付き従っている。

 

(……来たか)

 

 オレは胃の辺りが重くなるのを感じた。

 ホールでの結果発表の際、二階のバルコニーから坂本を興味深げに見下ろしていた彼女だ。このまま何もアクションを起こさないはずがないとは思っていたが、まさかこんなにも早く、直接接触を図ってくるとは。

 

「ふふふ。ごきげんよう、Dクラスの皆様。素晴らしい大躍進でしたね。まさか、あの葛城くんが手も足も出ずに敗北するとは、夢にも思いませんでした」

 

 坂柳は、オレと堀北の存在に気づくと、優雅に微笑みながら軽く会釈をした。その声は鈴を転がすように愛らしいが、瞳の奥には冷徹な観察者の光が宿っている。

 

「……坂柳さん。体調不良で休んでいたと聞いていたけれど、もういいのかしら」

 

 堀北が、警戒心を隠そうともせずに問い返した。

 

「ええ。おかげさまで。退屈なベッドの上で皆様の奮闘を眺めるのも、少しばかり飽きてきたところでした。それに――」

 

 坂柳の視線が、ゆっくりとラウンジの中央へと滑っていく。

 

「あのような『素敵な殿方』を見つけてしまったら、ご挨拶に伺わないわけにはいきませんから」

 

坂柳はオレたちへの興味を早々に失い、杖を突いて真っ直ぐに坂本のテーブルへと歩み寄っていった。

 神室は「あーあ、また坂柳の悪い癖が始まったよ」とでも言いたげな顔で、ラウンジの入り口付近に立ち止まり、その成り行きを傍観する構えを見せた。

 

「ごきげんよう。あなたが、噂の坂本くんですか?」

 

 坂柳は、ティーカップを口元に運ぼうとしていた坂本の横に立ち、愛らしい声で話しかけた。

 

坂本は、カップの縁から静かに視線を外し、隣に立つ銀髪の少女を見つめた。

 そして、流れるような動作で立ち上がると、右手でメガネのブリッジをスッと押し上げ、左手を胸に当てる完璧な貴族の礼をとった。

 

「これは、麗しきレディ。このような海の上で、白銀の妖精にお目にかかれるとは。何か、私にお手伝いできることはありますか?」

 

「……ふふっ。お上手な挨拶ですね」

 

 坂柳は、想定外のロマンチックな返答にほんの少しだけ目を丸くしたが、すぐに余裕の笑みを取り戻した。

 彼女は、相手を自分のペースに巻き込み、言葉の刃で真意を切り裂く天才だ。

 

「お手伝い、ですか。ええ、実は私、少し困っているのです。無人島で繰り広げられたという、あなたの見事な魔法のタネが……どうしても論理的に説明がつかなくて。葛城くんの心に植え付けたという恐怖の林檎も、一体どのような『手品』を使ったのでしょうか?」

 

 坂柳は、探るような視線を坂本の瞳に向けた。

 これは、明確な探りであり、宣戦布告だ。お前の手口は分かっている、ただのトリックだろう、と。

 

 しかし。

 坂本は悪意や挑発を、すべて『善意』や『日常の出来事』として受け取り、スタイリッシュに返す男である。

 

「恐怖の林檎……? ああ、葛城様にお渡ししたお見舞いの品のことでしょうか」

 

 坂本は、まるで心当たりのない不思議な言葉を聞いたかのように、小さく首を傾げた。

 

「長きにわたる洞窟での隠遁生活。さぞや太陽の光と、大地の甘味に飢えていらっしゃるだろうと思い、ささやかなフルーツカービングを施しただけなのですが……。お口に合いませんでしたでしょうか」

 

「……カービング? ただのフルーツカットだとおっしゃるのでしょうか? あの、精密機械で削り出したようなダリアの花を?」

 

「ええ。林檎の細胞を傷つけないよう、刃の入り角度と速度を少しばかり『最適化』したに過ぎません。それよりも、レディ」

 

 坂本は、坂柳の足元――彼女が体重を預けている細い杖へと視線を落とした。

 

「海の上は、波のうねりによる微細な振動が常に床を伝わっています。そのような華奢な御足で立ち話をされては、優雅な午後のひとときが疲労に染まってしまう。よろしければ、こちらへ」

 

 坂本は、まるで映画のワンシーンのように、向かいの席の椅子をスッと引き、坂柳に座るよう促した。

 

「……あら。お気遣い、痛み入ります」

 

 坂柳は一瞬、その完全に自然なエスコートに毒気を抜かれたような表情を見せたが、すぐに面白そうに微笑み、促されるままに席についた。

 

(……マズいな)

 

 遠くから見守っていたオレは、内心で舌打ちをした。

 

 坂柳有栖は、自らの知略と盤面の支配力に絶対の自信を持っている。しかし、彼女の計算はあくまで人間が論理に基づいて動くという前提の上に成り立っている。

 坂本のように、盤面そのものを無視し、ただひたすらに『己の美学』のみで動く存在は、彼女の計算式には存在しない。龍園が白米のシェアで精神を崩壊させられたように、坂柳もまた、『おもてなし』を受けることになる。

 

「ウェイター。こちらのレディに、私と同じダージリンのセカンドフラッシュを。それから、少しばかり甘いものを」

 

 坂本が指を鳴らすと、控えていたウェイターが「畏まりました、ムッシュ」と深く一礼し、すぐさま奥へと下がっていった。

 ここは日本の高校の貸し切り客船のはずだが、完全にフランスの高級ホテルのラウンジと化している。

 

「ふふふ。随分とこの船のスタッフを調教されているのですね。Dクラスの生徒とは思えない振る舞いです」

 

 坂柳は、運ばれてきた真新しいティーカップを見つめながら言った。

 

「調教などと、とんでもない。私はただ、彼らの素晴らしいホスピタリティに、心からの敬意を払っているだけです」

 

 坂本は静かに答えると、自らのティーポットを持ち上げた。

 

「さて、レディ。紅茶は温度が命。冷めないうちにどうぞ」

 

 坂本が、坂柳のカップに琥珀色の液体を注ごうと傾けた、その瞬間だった。

 

ゴゴゴゴゴォッ!

 

突如として、客船の巨体が大きく横に揺れた。

 外の天候は晴朗だったが、どうやら海流の境目、あるいは予測不能な波のうねりに船底が乗り上げたらしい。

 

「きゃっ……!?」

 

 入り口に立っていた神室がバランスを崩してよろけ、ラウンジ内の調度品がガタガタと嫌な音を立てた。

 オレも咄嗟にソファの背もたれを掴み、堀北もテーブルの縁にしがみついて姿勢を制御する。

 

問題は、坂本と坂柳だ。

 

 坂柳は足が不自由であり、突然の揺れに対して踏ん張りが効かない。彼女は椅子から滑り落ちそうになり、咄嗟に目を固く閉じた。

 そして何より、坂本の手には、熱湯に近い温度の紅茶が入ったティーポットが握られ、まさに今、お湯を注ごうと空中に傾けられていたのだ。

 この揺れの中では、熱湯が容赦なく坂柳の可憐な顔やドレスに降り注ぐのは、物理法則からして避けられない事実だった。

 

「坂柳……!!」

 

 神室が叫ぶ。

 

だが。

 次の瞬間、オレの目に飛び込んできた光景は、もはやニュートン力学を根底から覆す、理解不能な現象だった。

 

――秘技:海神の天秤(ポセイドンズ・バランサー)

 

および

 

――秘技:絶対水平注ぎ(ジャイロ・スタビライズ・ポアリング)

 

「なっ……!?」

 

 目を開けた坂柳が、信じられないものを見るように息を呑んだ。

 

激しく揺れる船内。斜めに傾く床。

 その中で、坂本だけが、まるで宇宙空間の無重力状態にあるかのように、完璧な『垂直』を維持していたのだ。

 彼は足首、膝、腰の関節をミリ単位で独立稼働させ、船の傾きに合わせて自らの重心を逆方向へと瞬時にスライドさせている。床が右に15度傾けば、坂本は左に15度身体を傾け、地球の重力ベクトルに対して常に完璧な90度を保ち続ける。

 

それだけではない。

 

 彼の右手にあるティーポットの注ぎ口からこぼれ落ちる紅茶は、船の揺れによる慣性の法則を完全に無視し、一糸乱れぬ美しい黄金の放物線を描いて、テーブルの上のティーカップの『ど真ん中』へと、一滴の飛沫も上げずに注がれ続けていたのだ。

 

「ウソ、でしょ……?」

 

 堀北が、唖然として呟いた。

 

「船の揺れに合わせて、カップの位置に対するポットの相対座標を、1ミリの狂いもなく空中で補正し続けているというの……? それも、あんな涼しい顔で!?」

 

その通りだ。坂本は、自らの肉体を究極のジャイロセンサー付きジンバルとして機能させることで、波のうねりという大自然の暴力を、たった一杯の紅茶を淹れるための『優雅な演出』へと変換してしまったのだ。

 

やがて、数秒の激しい揺れが収まり、船は再び静かな航行を取り戻した。

 

「……お待たせいたしました」

 

 坂本は、何事もなかったかのようにポットをテーブルに置き、完璧な所作で微笑んだ。

 坂柳の目の前にあるティーカップには、縁からぴったり5ミリ下の位置まで、完璧な分量の紅茶が注がれている。ソーサーには、一滴のシミすらついていない。

 

「…………」

 

 坂柳有栖は、言葉を失っていた。

 常に他者を見下し、チェスの駒として盤面の上で弄んできた天才少女。彼女の人生において、自分の理解の範疇を超えた事象など、ただの一度も存在しなかった。

 しかし今、目の前で起きたことは、手品でもトリックでもない。圧倒的な身体能力と、異常なまでの『美学への執念』が生み出した、純然たる暴力的なまでの『スタイリッシュ』。

 

彼女は、自分がただの『紅茶を注がれる側の客』に過ぎないことを、細胞レベルで叩き込まれたのだ。

 

「……熱い紅茶は、驚きで強張った筋肉を解きほぐす効果があります」

 

 坂本は、自らのカップを静かに持ち上げ、目を閉じて香りを堪能した。

 

「この船の揺れは、まるで海が我々にワルツを踊るよう誘っているかのようですね。素晴らしいステップでしたよ、レディ」

 

「……ふ、ふふっ。あははははっ!」

 

 突如として、坂柳が肩を震わせ、場違いなほど無邪気な笑い声を上げ始めた。

 それは、龍園が白米の美味さに屈した時の困惑とも、葛城が恐怖を感じた時の絶望とも違う。純粋な『未知への歓喜』だった。

 

「素晴らしい……! 素晴らしいです、坂本くん! まさか、この退屈な学園に、これほどまでに論理を超越した存在がいたなんて! ええ、降参です。今の私は、あなたにとってただの『足元のおぼつかないお嬢様』に過ぎなかったようですね」

 

坂柳は、心の底から嬉しそうに目を細め、淹れたての紅茶に口をつけた。

 

「美味しい……。今まで飲んだどんな紅茶よりも、刺激的で、エレガントな味がします」

 

「お気に召して光栄です」

 

 坂本は、坂柳の言葉の裏にある狂気じみた執着には一切気づかず、穏やかに微笑み返した。

 

(……最悪のエンディングだ)

 

 オレは、静かに目を閉じた。

 

 Aクラスの支配者である坂柳有栖。彼女が坂本という存在を『論理で打倒すべき敵』ではなく、『観察し、介入し、楽しむべき極上の娯楽』として認識してしまった。

 これは、龍園の暴力や葛城の論理よりも、遥かに厄介な事態だ。彼女はこれから、自分の退屈を紛らわすためだけに、ありとあらゆる盤面を操作し、坂本をその中心に引きずり出そうとするだろう。そして、その巻き添えを食うのは、間違いなく同じクラスにいるオレだ。

 

「綾小路くん。あなたの顔色、今までに見たことがないくらい青いわよ」

 

 堀北が、少し引いたような顔でオレを見た。

 

「……気にするな。ただの船酔いだ」

 

 オレは手の中にある胃薬のパッケージを開封し、水も飲まずに錠剤を直接口の中に放り込んだ。苦い薬の味が口いっぱいに広がるが、今のオレの心境に比べれば、いくらかマシな味だった。

 

午後三時。

 燦々と輝く太陽の光がラウンジの窓から差し込む中、ただのジャージ姿の男子生徒と、銀髪の天才少女による、世界で最もスタイリッシュで予測不能なお茶会は、静かに、そして優雅に続いていた。

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