胃に直接放り込んだ錠剤が、ゆっくりと溶け出し、冷たい感覚を伴って粘膜に浸透していくのを感じる。
本来であれば、食後の落ち着いた状態で、たっぷりの水とともに服用すべき薬だ。だが、オレの眼の前で繰り広げられている光景は、そんな悠長な用法・用量を守る余裕すら与えてくれないほどに、胃壁をゴリゴリと削り取っていくような強烈なストレスを放っていた。
豪華客船の最上階、全面ガラス張りのオーシャンビュー・ラウンジ。
Aクラスを裏で統べるリーダーである坂柳有栖は、自らの対面に座る男――坂本に対して、もはや隠しきれないほどの歓喜の笑みを浮かべていた。常に他者を見下し、自らの計算通りに動くチェスの駒としてしか見てこなかった彼女にとって、自分の想像を遥かに超える挙動で紅茶を注いでみせた坂本は、退屈な学園生活に突如として現れた極上の娯楽そのものなのだろう。
「ふふっ……本当に、何度思い返しても素晴らしい身のこなしでしたわ。あの激しい船の揺れの中で、全身の関節を独立して稼働させ、重力の方向と完全に同調するだなんて。まるで、あなた自身がこの船のジャイロスタビライザーの一部になったかのようでした」
坂柳は、先ほど坂本が『絶対水平注ぎ(ジャイロ・スタビライズ・ポアリング)』で淹れたダージリンのセカンドフラッシュを一口含み、うっとりとしたため息をついた。
「紅茶の温度も、香りも、完璧。まさか支給品のジャージを着たDクラスの生徒から、これほどまでの極上のおもてなしを受けることになるとは、無人島試験を休んでいた私には想像もつきませんでした」
「過分なお褒めの言葉、痛み入ります。ですが、特別なことは何もしておりません」
坂本は、自らも静かにティーカップを傾けながら、ひどく涼やかな声で答えた。
「荒れ狂う海の上であっても、淑女のティータイムは決して妨げられてはならない。それは、この地球上に存在する重力や慣性の法則よりも、遥かに優先されるべき『日常の嗜み』ですから」
「……あははっ! 重力よりも優先される嗜み! ええ、本当にその通りですね!」
坂柳は堪えきれないといった様子で、鈴を転がすような笑い声をラウンジに響かせた。
彼女は、坂本の言葉を高度な比喩表現あるいは洗練されたジョークとして受け取っている。
だが、オレは知っている。この男は比喩でもなんでもなく、本気でそう思い、そして本気で物理法則を無視した結果を叩き出しているのだ。
ふと、オレの視線は、ラウンジの入り口付近で腕を組み、壁に寄りかかっている一人の少女――Aクラスの神室真澄へと向けられた。
彼女の表情は、主である坂柳の無邪気な歓喜とは対極にある、深い疲労と警戒心に満ちていた。
神室はただの付き人ではない。Aクラスの中でも独自の立ち位置を持ち、情報収集能力と状況判断能力に長けた生徒だ。彼女が、坂本の引き起こした結果をただの偶然や手品だと侮るはずがない。
(……神室は、気づいているな)
オレは静かに分析する。
神室の視線の動き、そして僅かに強張った肩のライン。彼女は、この無人島試験でDクラスがポイントを一切消費せずに乗り切ったという結果と、目の前で坂本がやってのけた常軌を逸した挙動を、完全に結びつけて理解している。
Dクラスが拠点で構築していたという、太陽光と虫眼鏡、無料の飲料水を用いた『真空スチーム蒸し』による野草の高級料理化。そして、流木と竹で作られた巨大な露天風呂。それらが決してハッタリではなく、この坂本という一人の男の圧倒的なサバイバル能力――否、スタイリッシュな日常の延長線上で構築された事実であることを、彼女は正確に把握しているのだ。
だからこそ、神室は動かない。この得体の知れない男に不用意に近づけば、自分たちの構築してきた学園の常識や価値観が、根本から破壊される危険性を肌で感じ取っているからだ。
「ねえ、坂本くん」
不意に、坂柳がティーカップをソーサーに置き、両手を胸の前で優雅に組んだ。
「せっかくの素晴らしいティータイムです。ただ会話を楽しむだけでは、少しばかり味気ないと思いませんか? ひとつ、私と簡単な『遊び』をしてはいただけないでしょうか」
「遊び、ですか」
坂本は、黒縁メガネの奥の瞳を静かに瞬かせた。
「ええ。そうですね……」
坂柳は、テーブルの上に置かれていた、銀色の小さなシュガーポットに視線を落とした。そして、ポットの中から真っ白な角砂糖をひとつ、細く白い指先で摘み上げた。
「私はこれから、この角砂糖を、私の手元にある三つのティーカップのどれか一つの下に隠します。あなたは、私がどこに隠したかを当てる。……とても古典的な、カップ・アンド・ボールの遊びです。」
それは、路上で詐欺師が行うような単純なギャンブル。
だが、坂柳有栖が仕掛ける以上、ただの当てずっぽうのゲームであるはずがない。彼女はその鋭い観察眼と卓越した指先の技術、そして心理的な誘導を用いて、相手を確実に間違った選択へと追い込むつもりなのだ。
「もしあなたが正解できたら、そうですね……私たちが持っているAクラスの情報を、少しだけおすそ分けして差し上げてもかまいません。逆にあなたが間違えたら、あなたが無人島でどのような生活を送っていたのか、その秘密をひとつ、私に教えていただく。いかがでしょうか?」
甘い声による、明確な罠。
坂柳は、このゲームを通じて坂本の観察眼や心理状態を計測し、彼がどのような思考回路で動いているのかを丸裸にするつもりだ。
隣にいる堀北が、焦ったように小さく息を呑むのが分かった。無人島での出来事をAクラスのリーダーに知られるのは、今後の戦いにおいて大きなディスアドバンテージになり得るからだ。
だが、オレは一切の心配をしていなかった。
いや、正確にはゲームの勝敗についての心配はしていない。オレが恐れているのは、この男がまたしても常人の理解を超えた斜め上の行動に出ることだけだ。
「……なるほど。淑女からの可愛らしい挑戦状、というわけですね」
坂本は、一切の躊躇なく、深く頷いた。
「よろしいでしょう。お受けいたします。どうぞ、お隠しください」
「ふふっ、言質は取りましたよ。では、目を閉じていてください。」
坂柳の指示に従い、坂本は静かに瞼を閉じた。
その瞬間、坂柳の瞳から無邪気な子供の光が消え、冷徹な勝負師のそれへと切り替わった。
シャッ、という微かな衣擦れの音。
彼女は細い指先で角砂糖を弾き、同時に三つのカップをテーブルの上で滑らせるように交差させた。その動きは、足が不自由であるというハンデを一切感じさせないほどに滑らかで、洗練されていた。さらに彼女は、自らの手元にある杖の先端をテーブルの脚に軽くぶつけ、微小な音を立てることで、聴覚による判断すらも狂わせるという高度なフェイントを織り交ぜていた。
「……はい、終わりました。目を開けてくださって結構です」
数秒後、坂柳は元の優雅な姿勢に戻り、微笑みかけた。テーブルの上には、伏せられた三つの純白のティーカップが等間隔に並んでいる。
坂本は静かに目を開け、三つのカップを順番に見つめた。
彼には、カップの配置が入れ替わる様子は見えていない。通常の人間であれば、確率三分の一の当てずっぽうに頼るか、あるいは坂柳の表情から心理を読み取るしかない場面だ。
「さあ、お当てください。どこに甘い秘密が隠されているでしょうか?」
坂柳が、勝利を確信したような笑みを浮かべる。彼女の計算では、どれを選んでもハズレになるか、あるいは彼女自身の手の中に角砂糖が隠されている、といった二段構えのトリックが仕込まれているはずだ。
しかし。
坂本はカップに触れようとはせず、ただ右手の指先を、テーブルの大理石の表面にそっと置いた。
コツン。
彼の中指が、大理石を極めて軽く、しかし明確な一定の力で叩いた。
コツン。コツン。
それは、まるでピアノの鍵盤を叩く前の、静かな調律のような動きだった。
その瞬間、ラウンジ内に響いていた客船の微かなエンジン音が、ほんの一瞬だけ、奇妙な共鳴を起こしたように感じられた。
――秘技:静寂の反響(サイレント・エコー)。
「……右端のカップですね」
坂本は、淀みない動作で、一番右にあるカップを静かに持ち上げた。
そこには、真っ白な角砂糖が一つ、大理石の上にぽつんと置かれていた。
「なっ……!?」
坂柳の可憐な顔から、初めて完全な驚きの表情が浮かび上がった。入り口にいた神室も「はぁ!?」と声を漏らし、信じられないものを見る目でテーブルを凝視している。
「どうして……どうして分かったのでしょうか」
坂柳は、自らの手による完璧なシャッフルと、手の中に隠すというフェイント(直前で右のカップに落とした)が完全に見破られたことに、隠しきれない動揺を見せた。
「特別なことは何も」
坂本は、持ち上げたカップを丁寧に元の位置に戻し、メガネのブリッジを押し上げた。
「ただ、角砂糖の囁きに耳を傾けただけです」
「……角砂糖の、囁き?」
「ええ。この客船の床は、巨大なエンジンの鼓動を常に伝道しています。大理石のテーブルもまた、その振動を受けて微かに震えている。空のカップと、下に角砂糖という『質量』を内包したカップでは、テーブルを叩いた際に生じる『レゾナンス』の周波数が、ほんのコンマ数ヘルツだけ異なります」
坂本は、極めて当たり前の日常の出来事を語るように、とんでもないことを言い放った。
「私はただ、テーブルに軽く触れ、その微細な音の差異――角砂糖が自らの居場所を主張する、甘く小さな産声を聞き分けたに過ぎません」
「…………っ!」
堀北が、隣で絶句する音が聞こえた。
オレもまた、二錠目の胃薬を追加で飲み込みたい衝動に駆られていた。
音の反響で中身を当てる。言葉にすれば単純な物理現象だ。しかし、周囲には波の音、BGM、空調の音など無数のノイズが存在する。その中で、角砂糖一個分の質量の違いによる反響音の変化を、人間の聴覚と触覚だけで感知するなど、精密なソナー機器でも持ち込まない限り不可能な芸当だ。
だが、この男はそれを角砂糖の囁きというスタイリッシュな表現一つで、いとも容易くやってのけてしまった。
「あ、あははっ……! あはははははっ!!」
数秒の沈黙の後、坂柳有栖は腹を抱えて笑い出した。
それはもう、淑女の嗜みも何もかもをかなぐり捨てた、心の底からの大爆笑だった。
「素晴らしい……! 本当に、心の底から素晴らしいです、坂本くん! 音の反響ですって!? そんな、機械のような真似を人間の感覚でやってのけるなんて! 私の小手先の心理誘導や手品など、根本的な身体能力と異常なまでの集中力の前に粉砕されてしまったというわけですね!」
坂柳は目尻に浮かんだ涙を指先で拭いながら、最高のお気に入りを見つけた少女のように頬を紅潮させている。
「ええ、私の完敗です。約束通り、Aクラスの情報をひとつお教えしましょう。どのような情報をご所望ですか?」
「お気遣いなく」
坂本は、静かに首を横に振った。
「私はただ、レディの遊びに付き合わせていただいたという、その優雅な時間そのものを報酬として受け取っております。これ以上の情報は、野暮というものでしょう」
「……ふふっ。どこまでも食えないお方ですね」
坂柳は、坂本のその徹底した利益を求めない姿勢に、さらに深い興味を抱いたようだった。実力至上主義のこの学校において、ポイントや情報を一切欲しがらない存在など、彼女にとっては未知の領域そのものだからだ。
「……ねえ、そろそろ帰らない? これ以上こいつの相手してたら、こっちまでおかしくなるんだけど」
見かねた神室が、警戒心を露わにしながら坂柳の背後に近づいた。彼女は坂本を直接見ようとはせず、ただ早くこの異常な空間から立ち去りたがっているようだった。
「あら、真澄さん。せっかくの楽しい時間でしたのに。……ええ、そうですね。あまり長居をしては、Dクラスの皆様にもご迷惑かもしれませんね」
坂柳は名残惜しそうに立ち上がり、細い杖をしっかりと握り直した。
「坂本くん。今日は本当に、素晴らしい時間をありがとうございました。あなたのその『魔法』のような身のこなし、これからも楽しみに見させていただきます」
坂柳は完璧なカーテシーを披露し、坂本を見つめた。
「いつでもお声がけください。レディの歩む道に、常に優雅な風が吹かんことを」
坂本もまた、一分の隙もない完璧な姿勢で一礼を返した。
神室に付き添われ、坂柳がラウンジを後にする。
その背中を見送りながら、オレは深く、重いため息をついた。
「……終わったわね」
堀北が、どっと疲労が押し寄せたような声で呟いた。
「なんだったのかしら、今の時間は。私たちはただ、彼が角砂糖の音を聞き分けるという異常な光景を見せつけられただけじゃない」
「ああ。だが、結果としてAクラスのリーダーに強烈な印象を与えてしまった。坂柳有栖は、今後間違いなく坂本を中心とした出来事に首を突っ込んでくる。オレたちの平穏な生活は、より一層遠のいたと考えていい」
オレの言葉に、堀北は反論することなく、ただ黙って海を見つめていた。
「さて」
坂本が、静かに振り返り、オレたちの方へと歩み寄ってきた。
「お二人も、せっかくのラウンジです。立ち話もなんですから、美味しい紅茶でもいかがですか?」
一切の悪びれる様子もなく、ただ純粋な親切心だけでそう告げる坂本。
彼の背後から差し込む西日が、その黒縁メガネをキラリと光らせた。
「……遠慮しておく。少し、船酔いが酷くてね。部屋で休ませてもらうよ」
オレはそう告げると、逃げるようにラウンジの出口へと向かった。堀北もまた、「私も、明日の準備があるから」と早口で言い残し、オレの後に続いた。
これ以上あの空間にいれば、オレの胃は確実に限界を迎える。
豪華客船の優雅な波の揺れを感じながら、オレは自室のベッドで丸くなり、嵐が過ぎ去るのを待つことだけを、心に固く誓ったのだった。