ようこそスタイリッシュ至上主義の教室へ   作:GC

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第17話「スタイリッシュ・オーケストラ」

豪華客船の最上階ラウンジから続く、ふかふかとした真紅の絨毯が敷き詰められた廊下を、オレは無言のまま歩いていた。

 

 隣を歩く堀北鈴音もまた、重い沈黙を守っている。彼女の横顔には、無人島での一週間に及ぶ過酷な(本来であれば過酷になるはずだった)生活の疲労ではなく、つい先ほど目の当たりにした常軌を逸した光景による精神的な摩耗が色濃く刻まれていた。

 

「……信じられないわ」

 

 やがて、客室へ向かうエレベーターの前に到着したところで、堀北がポツリと呟いた。

 

「テーブルの反響音だけで、角砂糖の隠し場所を当てる。そんなこと、人間の聴覚で可能なはずがない。あのような真似が許されれば、あらゆる心理戦や駆け引きが意味を失ってしまう」

 

「現に彼はやってのけた。それも、ただの優雅なティータイムの余興としてな」

 

 オレはエレベーターの下降ボタンを押し、静かに答えた。

 

Aクラスのリーダーである坂柳有栖は、自らの知略と観察眼に絶対の自信を持っている。彼女は他者の心理を読み取り、自らの思い通りに状況を操作することに無上の喜びを見出す性格だ。

 

 だが、坂本はその彼女の土俵にすら上がらなかった。

 彼は心理戦に応じることも、相手の表情から焦りを読み取ることもせず、ただ純粋な『物理的な音の差異』という、誰も気づかないような大自然の法則を利用して、彼女の仕掛けた手品を看破してしまったのだ。

 

 それは、精緻に組み立てられたチェスの対局において、相手が駒の彫刻の美しさだけを褒め称えながら、一切のルールを無視してキングを優しく撫でるような行為に近い。坂柳の用意した高度な罠は、坂本という男の果てしない日常の振る舞いの前に、いとも容易く無効化されてしまった。

 

「問題なのは、あいつがそれを意図的な反撃として行っていないことだ」

 

 オレは、静かに開いたエレベーターの扉に乗り込みながら言った。

 

「坂本は坂柳のプライドを折ろうとしたわけでも、Aクラスの情報を引き出そうとしたわけでもない。ただ純粋に、レディとの遊びを紳士として楽しんだだけだ。だからこそ、タチが悪い」

 

「……ええ。坂柳さんは、彼に強烈な興味を抱いてしまった」

 

 堀北もまた、苦虫を噛み潰したような顔で同意した。

 

「彼女のような人間にとって、自らの理解が及ばない存在ほど魅力的なおもちゃはない。これからの学校生活、彼女は間違いなく坂本くんを中心に動くようになる。そして、同じクラスである私たちも……その異常な事態に巻き込まれることになるわ」

 

オレの胃の奥で、先ほど飲み込んだ薬が必死に酸を抑え込もうと戦っているのが分かった。

 オレの目的は、あくまで目立たず、平穏な学園生活を送ることだ。しかし、Dクラスの精神的支柱となりつつある坂本が、他クラスのトップからこれほどまでに熱視線を浴びてしまえば、その余波を完全に避けることは不可能に近い。

 

「オレは自分の身の安全を最優先にする。堀北も、不用意に彼らの周りをうろつくのは避けた方がいい」

 

「言われなくても、そうさせてもらうわ。私の脳の処理能力は、もうとっくに限界を超えているもの」

 

二階の客室フロアでエレベーターを降りると、堀北は足早に自分の部屋がある女子エリアへと向かっていった。

 オレは男子エリアの廊下を歩き、自室のドアノブに手をかけた。相部屋である以上、誰かがいる可能性は高いが、今はとにかく横になり、目を閉じて思考を停止させたかった。

 

ガチャリ、とドアを開ける。

 幸いなことに、室内には誰もいなかった。同室のクラスメイトたちは、まだホールでの勝利の余韻に浸っているか、あるいは船内の娯楽施設で遊び呆けているのだろう。

 オレはほっと息をつき、自らのベッドに背中から倒れ込んだ。

 豪華客船のベッドは、無人島で支給された薄っぺらい寝袋とは比べ物にならないほど柔らかく、清潔なシーツの香りがした。

 本来であれば、この一週間の疲れを癒やす最高の休息になるはずだった。しかし、オレの脳裏には、テーブルを叩く坂本の優雅な指先と、それを見て歓喜の笑声を上げる坂柳の顔が、何度もフラッシュバックしていた。

 

(……考えないことだ。オレには関係のないことだ)

 

 オレは自分に言い聞かせ、腕で両目を覆った。

 その時だった。

 

コン、コン。

 

控えめな、しかし確かなノックの音が、自室のドアから響いた。

 オレは目を開け、無言で天井を見つめた。居留守を使おうかとも考えたが、相手はオレがこの部屋に入っていくのを見ていた可能性がある。

 

「……誰だ」

 

 ベッドから身を起こし、警戒しながらドアに近づく。

 

「俺だ。少し、いいか」

 

 その声を聞いて、オレは全身の筋肉が硬直するのを感じた。

 聞き間違えるはずがない。Cクラスの暴君であり、この学年で最も危険で暴力的な手段を厭わない男――龍園翔の声だったからだ。

 

 なぜ、Cクラスのトップが、他クラスの一般生徒であるオレの部屋を一人で訪ねてくるのか。

 オレは無人島試験で、裏から手を回してCクラスのリーダーを龍園だと見破り、結果的に彼らのポイントをゼロに叩き落とした。その事実が露見したのか? いや、証拠は残していないはずだ。

 だとすれば、彼がここに来た理由はただ一つ。無人島での鬱憤を晴らすため、あるいは新たな闘争の火種を撒くため。

 

オレは最悪の事態を想定し、身体の重心をわずかに落として、いつでも迎撃できる体勢を取りながらドアの鍵を開けた。

 

 しかし。

 ゆっくりと開いたドアの向こうに立っていた男の姿を見て、オレの警戒心は、全く別の種類の恐怖へと置き換わった。

 

「よぉ。邪魔するぜ、綾小路」

 

 そこに立っていた龍園翔は、かつてのような狂犬を思わせる凶悪な眼光を完全に喪失していた。

 彼の表情は、休日の午後に縁側で日向ぼっこをする老人のように穏やかで、その口元には、微かな、そしてどこか悟りを開いたような微笑みさえ浮かんでいる。

 さらに恐ろしいことに、彼の右手には、客船のカフェラウンジから持ち出してきたと思われる、上品なティーカップが握られていた。

 

「……龍園? 何の用だ」

 

 オレは困惑を隠しきれないまま、問い返した。

 

「いや、なに。船の揺れが心地よくてな。誰かとこの穏やかな時間を共有したくなったのさ。お前、さっきラウンジから出てくるのを見かけたからよ」

 

 龍園は、まるで長年の友人に語りかけるような優しいトーンで言った。

 

「飲むか? カモミールとミントの特製ブレンドだ。精神を落ち着かせ、高ぶった感情を海に流してくれる効果があるらしいぜ。……ああ、無人島でのあの夜、坂本から教わったんだ」

 

 ゾクリ、と背筋に冷たいものが走った。

 無人島試験の最終日。龍園はDクラスの拠点を破壊するため、夜襲を仕掛けたはずだ。しかし、彼は坂本の圧倒的なホスピタリティと、強制的なティータイムの前に完全に毒気を抜かれ、怒りという感情そのものを霧散させられてしまった。

 その精神の変容は、試験が終わって船に戻った今でも、いや、むしろより深く彼の内面に根付いてしまっているようだった。

 

「遠慮しておく。オレは先ほど、胃薬を飲んだばかりでね」

 

「そうか。そいつは残念だ」

 

 龍園は心底残念そうに眉を下げると、ティーカップを自らの口に運び、ゆっくりと香りを楽しみながら一口飲んだ。

 

「ククッ……素晴らしい味だ。暴力や恐怖で人を支配しようとしていた俺が、なんてちっぽけで愚かだったのかと、波の音を聞くたびに痛感するよ。他者に寄り添い、無償の愛と茶を振る舞う。それこそが、この過酷な世界を生き抜くための、真の強さだったんだな」

 

オレは、無言のままドアを半分閉めようとした。

 これは危険だ。物理的な暴力や陰謀よりも、根本的な精神構造を作り変えられてしまった人間と対峙する方が、遥かに精神的な負担が大きい。

 

 Cクラスの生徒たちは、突然仏のように穏やかになってしまった自分たちのリーダーを見て、現在どのような混乱の極致にいるのだろうか。石崎あたりは泣きながらすがりついているかもしれない。

 

「龍園。お前が平穏な心を手に入れたのは喜ばしいことだが、オレは疲れている。一人にしてくれないか」

 

「ああ、すまねえ。押し付けるような真似は野暮だったな」

 

 龍園は素直に頷き、一歩後ろに下がった。

 

「ゆっくり休めよ。……俺はもう少し、甲板で海風に吹かれながら、人生の美しさについて考えてみることにするぜ」

 

龍園は、まるで修道僧のような穏やかな足取りで、廊下の奥へと去っていった。

 彼が去った後の廊下には、カモミールの甘い香りだけが奇妙な残滓として漂っていた。

 

バタン、とドアを閉め、オレは再びベッドに倒れ込んだ。

 

 ダメだ。この船はもう、オレが知っている高度育成高等学校の延長線上にはない。

 一人の男の圧倒的な『スタイリッシュ』という概念が、実力至上主義という学校の前提そのものを、静かに、しかし確実に侵食し、塗り替えてしまっている。

 龍園翔は闘争心を奪われ、葛城康平は論理の限界に絶望し、坂柳有栖は未知の娯楽として狂喜している。

 そして、その元凶である男は、今頃どこで何をしているのか。

 

 

ふと、部屋の丸窓から外の景色が見えた。

 

 

 客船の中層階にあるこの部屋の窓からは、上の階のオープンデッキの一部を見上げることができる。

 そこには、透き通るような青空を背景に、無数のカモメたちが群れをなして飛んでいた。

 ただ飛んでいるのではない。カモメたちは、まるで熟練の航空ショーのパイロットのように、一糸乱れぬ美しい螺旋を描きながら、空中で巨大な幾何学模様を形成していた。

 

(……まさかな)

 オレは嫌な予感を覚えながら、ベッドから起き上がり、窓ガラスに顔を近づけた。

 オープンデッキの先端。船首の最も見晴らしの良い場所に、一人の男が立っていた。

 支給品のジャージの裾を海風に靡かせながら、彼は両手に乗せたパンの欠片を、空に向けてリズミカルに放り投げている。

 いや、放り投げているという単純な表現は正しくない。

 彼はパンの欠片に完璧な空気抵抗と回転を計算して与え、カモメたちが最も美しく、最も優雅に空中でキャッチできるような軌道を意図的に作り出しているのだ。

 

――秘技:天空の指揮者(フライング・マエストロ)。

 

彼の指先が動くたびに、カモメたちは喜びに鳴き声を上げ、黄金比の螺旋を描きながらパンをくわえ取っていく。その光景は、もはや餌付けではなく、大自然の鳥たちと一人の人間による、荘厳なオーケストラの演奏だった。

 

 デッキの下の方では、須藤や池、山内といった三馬鹿たちが、「すげええ! アニキが鳥を操ってるぞ!」「やっぱ坂本のアニキは神様だったんだ!」と、涙を流しながら彼を崇め奉っている姿が見えた。

 

「…………」

 

 オレは、静かに窓のカーテンを引いた。

 見なかったことにしよう。あれは幻だ。大西洋の海風が見せた、ただの美しい白昼夢に違いない。

 胃の奥で、再び鈍い痛みが主張を始めた。

 どうやら、薬の効き目よりも、現実の不条理さが上回ってしまったらしい。

 オレは毛布を頭から被り、豪華客船が早く目的地に到着することだけを、ただひたすらに祈り続けた。

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