現実からの逃避というものは、往々にして一時的な麻酔でしかない。
どれだけ分厚い毛布を被り、目を固く閉ざして規則正しい波の音に意識を溶け込ませようとも、無慈悲な電子音はオレの鼓膜を正確に打ち据えた。
『ピロリン』
午後八時。船内での豪勢な夕食の時間が終わり、生徒たちがようやく一週間の過酷な試験から解放されて休息の喜びに浸ろうとしていた矢先のことだった。
枕元に置いていた学校支給のスマートフォンの画面が明るく発光し、一通のメールの着信を知らせている。宛先は高度育成高等学校・学校運営側。件名には『特別試験に関する重要なお知らせ』と記載されていた。
オレは重い上体を起こし、薄暗い部屋の中でその画面を見つめた。胃の奥底が、先ほどとは別の種類の冷たい感覚で収縮していくのが分かる。
(……やはり、無人島だけで終わるような甘い学校ではなかったか)
メールの文面には、端的にこう記されていた。
『これより、船上での新たな特別試験を開始する。指定された時刻に、指定された自室以外の特定の個室へ集合すること。なお、他者にこのメールの内容や自分の集合場所を口外することは固く禁ずる』
ご丁寧に、現在時刻からわずか三十分後の時間が指定されている。
この学校が用意する試験において、事前情報のない唐突な呼び出しは、決まって高度な心理的重圧と人間関係の摩擦を伴うものだ。しかも自室以外の特定の個室に、他者に口外せず集まれという指示。これは明確に、普段のクラスという枠組みを一度解体し、見知らぬ他者と強制的にグループを組ませる意図がある。
オレは短く息を吐き、シワになったジャージを脱いで、クローゼットに掛けられていた清潔な制服へと着替えた。ネクタイを締め、鏡の前で自分の無表情な顔を一度だけ確認する。
平穏な日常を守るため、オレはこの試験でも徹底して目立たない凡庸な生徒を演じ切らなければならない。誰が同じグループになろうとも、決して自ら主導権を握るような真似はせず、空気と同化する。それがオレの基本方針だ。
指定された時刻の五分前。
オレは、船内の迷路のような廊下を抜け、中層階の奥まった場所にある『第五会議室』とプレートが掲げられた重厚な木製のドアの前に到着した。
周囲の廊下には、同じようにスマートフォンを握りしめ、不安と警戒が入り混じった顔で別の部屋へと吸い込まれていく他クラスの生徒たちの姿が散見された。誰もが一様に口を閉ざし、視線を合わせようとしない。
だが、オレの警戒心は、別の一点に集中していた。
(頼むから、あの男だけは別のグループであってくれ……)
心の中でひたすらに祈りながら、オレはドアノブに手をかけ、ゆっくりと部屋の中へと足を踏み入れた。
そこは、会議室というよりは、上流階級の乗客が密談を交わすための高級ラウンジのような空間だった。中央には磨き上げられた円形のオークテーブルが鎮座し、その周囲には十四人分のゆったりとした革張りの椅子が等間隔で配置されている。壁際にはフリードリンクのサーバーと、簡単なフルーツやスナックが盛られた銀のトレイが用意されていた。
部屋の中には、すでにオレ以外のほとんどの生徒が先着していた。全部で十数名。各クラスから数名ずつが選出された混成グループだ。
そして、その顔ぶれを見た瞬間、オレの僅かな希望は、大西洋の冷たい海流の底へと完全に沈み去った。
「あ、綾小路くん! 綾小路くんもこの兎グループだったんだね。よろしく!」
明るく、誰に対しても分け隔てのない親しみやすい声で最初に話しかけてきたのは、Bクラスを率いる一之瀬帆波だった。彼女の周囲には、同じBクラスの浜口や別府といった生徒が安堵の表情で寄り添っている。一之瀬は柔らかな笑みを浮かべているが、その瞳の奥には、これから始まる試験に対する真剣な色が滲んでいた。
「ああ。よろしく頼む」
オレが短く返事をして部屋の隅の空いている席に向かおうとした時、部屋の奥から、なんとも場違いなほど穏やかな声が響いた。
「よォ、綾小路。さっきは悪かったな、体調は大丈夫か?」
革張りの椅子に深く腰掛け、備え付けのミネラルウォーターをティーカップに注いでいた男。Cクラスのリーダー、龍園翔だ。
彼の顔には、かつて他者を恐怖で支配していた暴君の面影は微塵もない。無人島で強制的なハーブティーの接待を受け、完全に怒りの感情を霧散させられた彼は、現在進行形で他者への無償の愛と平穏を説く謎の伝道師のような状態に陥っている。
「どうだ、一之瀬。お前も一杯いかねェか? この船の備え付けの水は少しばかり硬度が高いが、心を落ち着かせるには最高の一杯だぜ。無駄な争いは忘れて、ただ波の揺れに身を任せるのも悪くねェだろう?」
龍園は、まるで休日の縁側で寛ぐ老人のような穏やかな微笑みを浮かべ、一之瀬にグラスを差し出した。
「え、えっと……ありがとう、龍園くん。でも、今は遠慮しておくよ……」
一之瀬は、困惑を隠しきれない様子で引きつった笑いを浮かべ、一歩後ずさった。
無理もない。他クラスから狂犬と恐れられていた男が、突然爽やかな笑顔で水を勧めてくるのだ。彼女の優秀な頭脳をもってしても、この異常な状況変化を処理しきれていないのは明らかだった。
そして、部屋の壁際に立ち、その龍園の様子をまるで汚物でも見るかのような目で睨みつけている少女がもう一人。
Aクラスの神室真澄だ。彼女の周囲には同じAクラスの町田や森重がいるが、神室は誰とも口を利こうとせず、苛立ちを隠そうともせずに足先で絨毯を小刻みに叩いていた。
「……チッ。なんで私がこんな面倒な連中と一緒にならなきゃいけないのよ。マジで最悪」
神室はオレを一瞥すると、深い溜息を吐き捨てた。彼女の言う面倒な連中の指す先が、オレではなく、その背後にいるであろうある人物に向けられていることは容易に想像がついた。彼女は先ほどのラウンジでの一件——角砂糖の反響音を聴覚のみで看破するという、人間の限界を超えた異常な光景を見せつけられた直後なのだ。
直後。
廊下から、足音すら立てずに、しかし空間そのものを支配するような強烈な気配が部屋に近づいてきた。
オレは胃の辺りを押さえ、一之瀬は息を呑み、神室は露骨に顔をしかめ、龍園だけが「おお、あいつも来たか」と嬉しそうに目を細め、軽井沢や幸村といったDクラスの面々は救世主が現れたかのように顔を輝かせる。
ドアが静かに開き、一人の男子生徒が姿を現した。
完璧にアイロンがけされた制服。一切の乱れがない七三分け。黒縁メガネの奥で涼やかに輝く瞳。
坂本だ。
「遅れて申し訳ありません。皆様、すでにお集まりのようですね」
坂本は、左手でメガネのブリッジをスッと押し上げながら、右手で胸元に当てる完璧な礼を披露した。
ただの高校生が会議室に入ってきただけだというのに、まるでヨーロッパの古城に招かれた貴族が夜会に姿を現したかのような、圧倒的で優雅な錯覚が部屋全体を包み込む。十四人がひしめき合う張り詰めた空間の空気が、彼の登場によって一瞬にして清浄なものへと塗り替えられた。
「あ、坂本くん。時間にはまだ余裕があるから全然大丈夫だよ! 坂本くんも同じグループなんだね」
一之瀬が、持ち前の愛想の良さで応対する。無人島で彼が創り上げたスパリゾートの異常性を知る彼女にとって、坂本は得体の知れない強敵どころか理解を超えた存在として脳内にインプットされているはずだが、それでも気丈に振る舞うあたりは流石の一言だ。
「待ってたぜ、坂本」
龍園が、旧知の友人を迎えるような満面の笑みで立ち上がり、坂本に歩み寄る。
「お前が教えてくれた心の平穏、俺も実践させてもらってる。この試験でも無駄な争いは避けて、仲良くやろうじゃねェか」
「ええ。心に凪を抱くことは、何よりの美徳ですから」
坂本は、完全に闘争心を喪失したかつての暴君の言葉を、一切の違和感なく日常の挨拶として受け取り、優雅に頷いた。
神室はもはや言葉を発する気力すら失ったのか、壁に背中を預けたまま、頭を抱えるようにして目を閉じている。彼女は、坂本が意図的な策士ではなく、ただ純粋に異常な日常を生きているだけの規格外であることを正確に把握している。だからこそ、この十四人が集まる空間で何を言っても無駄だと悟っているのだろう。
(……これで、全員揃ったというわけか)
オレは部屋の隅の空いている席に腰を下ろし、静かに周囲を観察した。
Aクラスからは神室、町田、森重。
Bクラスからは一之瀬、浜口、別府。
Cクラスからは龍園、伊吹、真鍋、矢部。
Dクラスからはオレ、坂本、軽井沢、幸村。
合計十四名。誰もが他クラスの生徒に対して腹の底を探り合う、一触即発の極限状態。
やがて、部屋の正面に設置された大型モニターが唐突に点灯し、Aクラスの担任である真嶋の声がスピーカーから流れ始めた。
『全員、揃っているようだな。これより、船上特別試験のルールを説明する』
真嶋の事務的な声が響き渡ると、十四人の生徒たちは一斉に姿勢を正し、緊張の面持ちでモニターを凝視した。
説明された試験の内容は、極めて悪辣で、人間の猜疑心を煽るものだった。
グループ十四人の中に一人だけ、学校側から指名された『優待者』が存在すること。
生徒たちは、話し合いによってその『優待者』が誰なのかを探り当てること。
結果は四つのパターンに分かれる。全員で優待者を当ててポイントを共有する連帯。裏切り者が他クラスの優待者を密告してポイントを独占する裏切り。優待者が最後まで隠し通して一人でポイントを得る隠蔽。そして、間違った解答をしてペナルティを受ける誤答。
『試験期間は三日間。一日二回、この部屋での一時間の話し合いが義務付けられる。最終日の指定時刻にのみ、解答権が与えられる。……説明は以上だ。これより、第一回目の話し合いを開始しろ』
モニターが暗転し、部屋に重苦しい沈黙が降りた。
十四人の男女が、互いの表情を盗み見る。
他者を蹴落とし、自分だけが利益を得るか。あるいは、全員で手を取り合うか。
優待者は誰なのか。自分が優待者であることを隠すべきか、明かすべきか。
実力至上主義の学校が用意した、疑心暗鬼の密室劇。
一之瀬は真剣な眼差しで全員を見渡し、どうやってこの場を連帯に導くかと思考を巡らせているのが分かった。神室は誰とも視線を合わせず、ただ早くこの時間が終わることだけを願っている。龍園は相変わらず穏やかな微笑みを浮かべ、窓の外の海を眺めていた。軽井沢や幸村はどう動くべきか分からず、オレや坂本の様子を窺っている。
「……さて。それじゃあ、まずは自己紹介から始めないかな?」
一之瀬が、重い口を開こうとした、その瞬間だった。
「なるほど。学校側も、なかなか粋な計らいをするものですね」
静かな、しかしひどく透き通った声が、十四人が作り出す張り詰めた空気をいとも容易く切り裂いた。
全員の視線が、声の主——坂本へと集中する。
彼は、革張りの椅子から優雅に立ち上がり、部屋の壁際に用意されていたフリードリンクのカウンターへと歩み寄っていた。
「えっ? 粋な計らいって……どういうこと、坂本くん?」
一之瀬が、戸惑いながら問いかける。
「言葉の通りですよ、一之瀬様」
坂本は、カウンターに置かれていたトングを手に取り、銀のボウルに入っていたロックアイスを一つ、クリスタルのグラスへと滑り込ませた。
「『優待者』。すなわち、特別に厚くもてなされるべき『主賓(ゲスト・オブ・オナー)』。学校側は、我々生徒に試練を与えたのです。この十四人の中に密かに紛れ込んだ一人の主賓を見つけ出し、三日間の船旅の間、最高のホスピタリティをもって接待せよ、と」
「…………は?」
神室の口から、間の抜けた声が漏れた。
一之瀬もまた、美しい目を限界まで見開き、思考を完全に停止させている。幸村はメガネをずり落とし、町田は口をポカンと開けていた。
オレは静かに目を閉じ、深く、深く息を吸い込んだ。
優待者探し。それは、裏切りと嘘を暴き出す心理戦だ。
だが、この男の辞書に猜疑心や裏切りといった単語は存在しない。
彼にとって『優待者(特別に優遇される者)』という言葉は、文字通り『このパーティにおける最上位の客人』という、純度百パーセントの善意として解釈されてしまったのだ。
「いや、ちょっと待って! 坂本くん、これはそういう試験じゃなくて、クラスのポイントを懸けた……!」
一之瀬が必死に常識的な説明を試みようとするが、坂本の手の動きは止まらない。
シャッ、シャッ、シャッ!
坂本は、ただのアイストングを指先で器用に回転させ、グラスの中のロックアイスを驚異的な速度で削り始めた。
金属のトングと氷が擦れ合う微細な摩擦と、彼の手首の絶妙なスナップ。たったそれだけの動作で、角ばっていた無骨な氷は、数秒のうちに完璧な真球を描く丸氷へと変貌を遂げた。
――秘技:無音の氷球(サイレント・スフィア)。
「主賓がどなたであるか、今はまだ伏せられているのでしょう。奥ゆかしいことですが、案ずることはありません。主賓が名乗り出るその時まで、この部屋にいる皆様全員を、最高の客人としてもてなすだけのこと」
坂本は、完璧な丸氷が入ったグラスに、備え付けの安物の炭酸水と、フルーツトレイにあったレモンを絞り入れ、まるで一流ホテルのバーテンダーのような流麗な手つきでグラスを滑らせた。
カラン、と涼やかな音を立てて、グラスが一之瀬の目の前でぴたりと止まる。
「まずは、喉を潤していただきましょう。猜疑心という名の渇きは、美しい瞳を濁らせてしまいますから」
「あ……ありがとう……」
一之瀬は、目の前に差し出された芸術品のようなグラスと、坂本の完璧な微笑みを前に、完全に毒気を抜かれ、呆然とそれを受け取るしかなかった。
神室が、ひきつった顔でオレの方を見てきた。その目は「あんたのクラスの奴だろ、なんとかしろ」と訴えかけていた。
だが、オレにできることなど何もない。この男の行動原理は、もはや大自然の摂理と同じだ。台風に向かって「風を止めてくれ」と説得する者がいないように、坂本に向かって「空気を読んでくれ」と言うのは無意味なのだ。
「素晴らしい。流石は坂本だ。他者を疑うのではなく、他者に奉仕する。その精神こそが、俺たちを争いの連鎖から解放してくれるんだなァ」
唯一、完全に場違いな感動の涙を浮かべているのは、Cクラスの元・暴君である龍園翔だけだった。彼は自ら持参した水筒のハーブティーを啜りながら、坂本の姿に深く頷いている。それを見た伊吹が、ついに耐えきれなくなったように小さな悲鳴を上げて両手で顔を覆った。
密室に集められた他クラスの生徒たちによる、血で血を洗う心理戦。
それが学校側の想定した、この船上特別試験の前提だった。
だが、オレの目の前に広がる光景は、もはや心理戦などという生易しいものではなくなっていた。
一之瀬は坂本の淹れた謎のモクテルを飲んで「美味しい……」と顔を綻ばせ、龍園はハーブティー片手に平和を説き、神室は頭を抱えて壁と同化しようとし、他の有象無象の生徒たちはあまりの事態に言葉を失っている。
これはもう、試験ではない。
坂本という一人の男が主催する、優雅で、狂気に満ちた『ティーサロン』だ。
誰が優待者であろうが関係ない。この部屋にいる十四人の生徒は全員、彼の圧倒的なスタイリッシュさという名の暴力によって、強制的に「もてなされる側」へと引きずり込まれるのだから。
(……やはり、薬の量が全く足りていないらしい)
オレは、ポケットの中に忍ばせていた胃薬のシートを指先でなぞりながら、静かに、そして深く、絶望の溜息を吐いた。
まだ第一回目の話し合いすら始まっていない。あと三日間、この異常な空間に耐え続けなければならないという事実に、オレの平穏な隠キャ生活のビジョンは、完全に音を立てて崩れ去っていくのを感じていた。