豪華客船が誇る、巨大な吹き抜けを備えたメインエントランス。
高い天井から吊り下げられた絢爛なシャンデリアが、大理石の床に幾何学的な光の模様を落としている。第二回目の話し合いを終えた生徒たちの多くは、緊張と解放感の落差からか、船内に点在する無料のカフェテラスや娯楽施設へと吸い込まれていった。
オレは喧騒を避けるようにして、中層階の人通りの少ないプロムナードデッキを一人で歩いていた。手すりの向こうには、どこまでも広がる大西洋の濃紺の海面が、太陽の光を受けて眩しく煌めいている。
「……はぁ」
オレは重い溜息とともに、自動販売機で購入した冷たいミネラルウォーターのペットボトルのキャップをひねった。ポケットから三錠目の胃薬を取り出し、水とともに喉の奥へと流し込む。錠剤が食道を滑り落ちていく冷ややかな感覚だけが、今のオレにとって唯一の「現実に繋ぎ止められている」という実感だった。
午前中の第二回話し合い。
兎グループに集められた十四名の生徒による、優待者探しの密室劇。それは、坂本が持ち込んだ『天翔ける琥珀の滝』と呼ばれる異常な紅茶のサーブと、彼独自の『主賓適性テスト』という名の圧倒的なホスピタリティによって、またしてもただの優雅なティーサロンへと変貌してしまった。
誰も探り合いを行えない。誰も嘘を見破るためのプレッシャーをかけられない。
他者を蹴落としてポイントを奪い合うという、この高度育成高等学校の根幹を成す実力至上主義のルールが、一人の男のおもてなしという暴力によって完全に無力化されているのだ。
(……このままでは、三日間、計六回の話し合いがすべて『お茶会』で終わる)
それは、ある意味で究極の防御戦術と言えた。
誰一人として情報を漏らさず、失言もせず、全員が優待者の正体を隠し通したまま試験を終える。ポイントの移動は発生せず、どのクラスも痛手を負わない。平和的といえばこれ以上なく平和的な結末だ。
だが、オレの胃を容赦なく締め付けるのは、この状況を構築した坂本本人が、それを戦術として意図して行っているわけではないという事実だった。
彼は本気で、このグループの中に隠された『主賓(ゲスト・オブ・オナー)』を探し出し、最高のもてなしを提供するためのゲームだと信じて疑っていない。その純度百パーセントの善意と美学が、結果として盤石の安全地帯を作り出している。
「おや、綾小路くん。奇遇だね。こんなところで一人?」
不意に背後から声をかけられ、オレはペットボトルを握る手に僅かに力を込めた。
振り返ると、そこに立っていたのはBクラスのリーダー、一之瀬帆波だった。彼女の隣には、同じグループの浜口と別府もいる。
「一之瀬か。少し、波の音を聞きたくてね」
オレは無難な答えを返しつつ、彼女の表情を観察した。
一之瀬の瞳には、午前中の話し合いで見せた困惑と疲労の色がまだ残っていたが、同時に何かを決意したような、確固たる光が宿っていた。
「あのさ、綾小路くん」
一之瀬は、プロムナードデッキの手すりに寄りかかり、少しだけ声を潜めた。
「午後の話し合い……第三回目の時間だけど。私たち、少しやり方を変えようと思うんだ」
「やり方を?」
「うん。坂本くんのお茶会は……その、すごく素敵だし、紅茶も美味しかったけど。でも、私たちはやっぱり、クラスの代表としてこの試験に参加しているわけだから。このまま何もせずに三日間を過ごすのは、正しいことじゃないと思うの」
彼女の言い分は、至極真っ当だった。Bクラスのリーダーとして、ポイントを獲得する機会をみすみす逃すわけにはいかない。
「だから、午後からは私が率先して、みんなに提案をしようと思ってるの。優待者が誰であれ、このグループ全員で協力して『連帯』のポイントを勝ち取ろう、って。そうすれば、誰も傷つかずに済むし、坂本くんの『おもてなし』の気持ちにも応えられるんじゃないかなって」
一之瀬帆波という少女の、底抜けの善性と甘さ。
彼女は、あの異常な空間を協力体制を築くための準備期間として前向きに解釈しようとしているのだ。
だが。
「……やめておいた方がいい」
オレは、自分でも驚くほど冷たい声でそう告げていた。
「えっ……? どうして?」
「お前の提案は正しい。だが、あの部屋には龍園や神室がいる。彼らが素直にお前の『連帯』の提案に乗るとは思えない。それに……」
オレは言葉を区切り、遠くの水平線を見つめた。
「坂本にとって、議論や話し合いの進行は『ティータイムのノイズ』でしかない。お前が場をコントロールしようとすればするほど、彼はそれを『主賓への配慮が足りない』とみなし、より強力な『もてなし』で君の言葉を塞ぎにくるだろう」
「より強力な、もてなし……」
一之瀬は、午前中の『白亜の塔』や『天翔ける琥珀の滝』を思い出したのか、僅かに身震いをした。
「で、でも! 何もしないわけにはいかないよ! 私、頑張ってみる。綾小路くんも、もし良かったら力を貸してね」
彼女は自らを奮い立たせるように微笑むと、浜口たちを連れて客室の方へと戻っていった。
オレは彼女の後ろ姿を見送りながら、深く溜息をついた。
無駄だ。あの一之瀬帆波の強力なカリスマ性をもってしても、大自然の猛威に等しい坂本のスタイリッシュさを制御することは不可能だ。
午後一時。指定された第三回目の話し合いの時間が近づいていた。
第五会議室の重厚なドアを開けると、そこにはすでに、信じられない光景が広がっていた。
部屋の中央に置かれたオーク材の円卓には、雪のように真っ白なダマスク織のテーブルクロスが敷き詰められている。十四人分の席には、銀の縁取りが施された純白のプレートと、磨き上げられたカトラリーが完璧な等間隔で配置されていた。
そして、テーブルの中央に鎮座しているのは、三段の銀色に輝くケーキスタンド。
下段には、一口サイズに美しくカットされたキュウリとサーモンのサンドイッチ。
中段には、ふっくらと焼き上げられた黄金色のスコーンと、純白のクロテッドクリーム、深紅のストロベリージャムが盛られたクリスタルの器。
上段には、色とりどりのマカロン、繊細な飴細工で飾られたタルト、そして宝石のような輝きを放つ小さなプティフールたちが、計算し尽くされた配置で並んでいた。
「遅れて申し訳ありません。皆様、すでにお集まりのようですね」
部屋の奥から、静かに声が響く。
完璧な姿勢で一礼する坂本。彼の出で立ちは、支給品のジャージから、いつの間にか客船の厨房スタッフが着用する純白のシェフコート(ただし、彼の体型に合わせて完璧なタイトシルエットにリサイズされている)へと変化していた。首元には、シルクのネクタイの代わりに、真紅の薔薇が一輪、誇り高く挿されている。
「アフタヌーンティーの準備が整いました。主賓たる皆様の午後のひとときを、これより私が責任を持ってエスコートさせていただきます」
室内に集まった十四人の生徒たちは、その圧倒的な光景を前に、完全に言葉を失っていた。
Aクラスの町田は、午前中のように怒鳴り散らすこともできず、ただ三段スタンドを凝視して口をパクパクとさせている。森重も呆然としている。
Cクラスの伊吹は「……なんなのよ、これ。マジで」と悪態をつきながらも、その視線は上段のマカロンに釘付けになっていた。龍園は相変わらず穏やかな微笑みを浮かべ、「素晴らしい。これぞ平和の象徴だ」と、完全に場違いな感動に浸っている。
「さ、坂本くん……これ、全部君が用意したの?」
一之瀬が、震える声で尋ねた。
「船のパティシエの方々と、少しばかり『芸術の形』について意見を交わしまして。彼らの情熱と私の美学が交差した結果、このような形となりました」
坂本は事もなげに答える。
プロの職人を丸め込み、試験の場である会議室を完全な高級サロンへと改装してしまう。彼の行動力とプラセボ効果は、もはやとどまるところを知らない。
『全員、揃っているようだな。これより、第三回目の話し合いを開始しろ』
モニターから真嶋のアナウンスが流れ、一時間のカウントダウンが始まった。
だが、その合図は、もはや心理戦の開始ではなくお茶会のスタートを意味するファンファーレと化していた。
「……あの、みんな! 少しだけ、私の話を聞いてくれないかな」
一之瀬が、意を決したように立ち上がり、明るく、しかし芯のある声で呼びかけた。
「このままじゃ、私たち全員が情報を隠したまま、ただ時間が過ぎてしまう。それならいっそ、みんなで協力して、優待者を探さない? 誰かを裏切るんじゃなくて、全員でポイントを分け合う方法を、この一時間で話し合いたいんだ」
彼女の提案は、静かな室内に響き渡った。
Bクラスの生徒たちは力強く頷き、Dクラスの軽井沢や幸村も、その提案に一理あると耳を傾けようとした。町田も「ふん、偽善者ぶるつもりか」と鼻を鳴らしつつも、議論のテーブルにつく姿勢を見せた。
心理戦が、ようやく正常な軌道に乗る。
誰もがそう思った、その瞬間だった。
「一之瀬様」
坂本が、音もなく一之瀬の背後に立ち、静かに語りかけた。
「スコーンは、焼き立ての熱が逃げないうちに召し上がるのが、最も美しい作法です。冷めてしまっては、芳醇なバターの香りが台無しになってしまいますから」
坂本は、銀のトングを優雅に操り、中段のプレートから黄金色のスコーンを一つ、一之瀬の純白の皿へと取り分けた。
「さあ、まずはクロテッドクリームをたっぷりと。そして、その上にストロベリージャムを乗せるのが『コーンウォール式』の伝統。……あなたの言葉は、この素晴らしいティータイムの後に、ゆっくりと拝聴いたしましょう」
「えっ……あ、あの、坂本くん、私、今は話を……」
一之瀬は必死に抗議しようとしたが、坂本が鮮やかな手つきでスコーンを真横に割り、クリームとジャムを芸術的な比率で乗せていくその所作の美しさに、完全に目を奪われてしまった。
――秘技:黄金の断層(ストラータ・オブ・ゴールド)。
ナイフを使わず、指先の絶妙な力加減だけでスコーンを水平に割り、断面の粗い生地にクリームとジャムを完璧に絡ませる技術。
ふわりと立ち上るバターの甘い香りが、一之瀬の鼻腔をくすぐる。
「……あ、ありがとう……じゃなくて! 私、みんなに……!」
一之瀬は抵抗しようとしたが、本能が甘い香りに屈服し、無意識のうちにそのスコーンを一口かじってしまった。
「…………っ!!」
一之瀬の瞳孔が、限界まで開いた。
外側はサクッと香ばしく、内側は羽毛のように軽いスコーン。そこに濃厚でミルキーなクロテッドクリームと、果肉感溢れる甘酸っぱいストロベリージャムが合わさることで、口腔内に未曾有の味覚のオーケストラが鳴り響いたのだ。
「……おい、嘘だろ……あのBクラスのリーダーが、完全に骨抜きにされてるぞ」
Aクラスの町田が、引き攣った顔で呟いた。
一之瀬はもはや言葉を発することもできず、ただ両手で頬を押さえ、「美味しい……こんなの食べたことない……」と完全に至福の表情を浮かべていた。彼女の連帯の提案は、坂本の提供した一つのスコーンによって、見事に、そして残酷なまでに粉砕されたのだ。
「フッ……無駄な足掻きだなァ」
龍園が、ハーブティーのカップを片手に、穏やかな声で笑った。
「坂本のこの大いなる愛の前に、姑息な話し合いなど無意味だ。お前たちも、素直にこの平穏を受け入れればいいんだよ」
「龍園、あんたいい加減にしなさいよ! 気持ち悪いのよ!」
伊吹が怒鳴りつけるが、龍園は全く動じない。それどころか、伊吹の目の前に置かれたマカロンを指差し、「怒りは美容の敵だぜ。その甘味で、心のささくれを癒やすといい」などと、かつての彼からは想像もつかないようなセリフを吐いた。
「っ……! うるさいわね!」
伊吹は顔を赤くして怒鳴りながらも、そのマカロンを乱暴に口に放り込み、あまりの美味しさに一瞬動きを止めた後、悔しそうに咀嚼を続けた。彼女もまた、この異常なティーサロンの恩恵から逃れることができなくなっている。
(……やはり、こうなるか)
オレは、自らの前に置かれた紅茶に静かに口をつけながら、この絶望的な状況を噛み締めていた。
一之瀬の提案は、試験を動かす唯一の希望だった。だが、坂本はその希望すらも、いとも容易く、一切の悪意を持たずに「最高のタイミングで紅茶を楽しむため」という理由で握り潰してしまった。
彼は十四人全員を、平等に主賓候補としてもてなしている。誰かを特別扱いするわけでも、誰かを冷遇するわけでもない。だからこそ、誰も彼を責めることができないし、彼の行動を止める正当な理由を見つけられないのだ。
「……バカみたい」
ふと、部屋の壁際から、冷ややかな声が聞こえた。
Aクラスの神室真澄だ。彼女は自分の席には座らず、壁に寄りかかったまま、このカオスと化したお茶会を蔑むような目で見つめていた。
「どいつもこいつも、あんな変人の遊びに付き合って。ポイントを懸けた試験だってこと、忘れてんじゃないの?」
彼女はオレと視線を合わせると、「あんたも同罪よ」とでも言いたげな鋭い眼光を向けてきた。
だが、坂本はそんな彼女の孤立すらも許さない。
彼は音もなく神室の前に歩み寄ると、小さな銀のトレイを差し出した。
そこに乗っていたのは、漆黒の輝きを放つ、一口サイズのガトーショコラだった。
「……何よ、これ。私はいらないわよ」
神室は警戒心を露わにして拒絶する。
「甘すぎるお菓子は、お口に合わないかと思いまして。カカオ八十パーセントのクーベルチュールを使用した、少しビターな大人の味わいに仕上げております。冷たい壁に寄りかかるよりは、こちらの席で温かいお茶とともにいかがでしょうか」
坂本は、神室の好みを完全に把握しているかのように、彼女にだけ特別に用意したスイーツを差し出した。
「なっ……! だ、だからいらないって言ってんの!」
神室は顔を背けようとしたが、ガトーショコラから漂う上質なカカオの香りが、彼女の嗅覚を容赦なく刺激する。彼女は少しだけビターなチョコレートが好みであることを、なぜこの男が知っているのか。
「……一口だけだからね。文句言われないように食べてやるだけなんだから」
神室はぶっきらぼうにそう吐き捨てると、トレイからガトーショコラをひったくり、小さくかじった。
次の瞬間、彼女の瞳がわずかに見開かれ、口元が微かに綻んだのを、オレは見逃さなかった。
「……まあ、悪くはないわね」
彼女はそっぽを向きながら、そのまま自分の席へとゆっくりと歩いていき、静かに座った。
孤高を気取っていたAクラスの少女すらも、坂本のピンポイントな『おもてなし』の前に、完全に絡め取られてしまったのだ。
町田は相変わらず怒鳴るタイミングを失い、スコーンを頬張っている。
一之瀬は完全に思考を放棄し、二つ目のスコーンに手を伸ばしている。
龍園は平和を説き、伊吹はマカロンを貪る。
誰も、優待者の話をしない。
誰も、他者を疑おうとしない。
ただ、最高級の紅茶とスイーツの香りに満たされた、狂気のティーサロンが続いている。
『——指定の時刻となった。これにて、第三回目の話し合いを終了する』
一時間後。
真嶋のアナウンスが響いた時、十四人の生徒たちの顔には、確かな絶望と、それを上回る圧倒的な満腹感、そして「もうこのままでもいいんじゃないか」という謎の諦観が漂っていた。
「皆様、本日のアフタヌーンティー、お楽しみいただけたでしょうか。真の主賓がどなたであるか、まだ確信には至りませんが……明日はさらに趣向を凝らしたメニューでお迎えいたします」
坂本は、純白のシェフコートのまま、完璧な一礼で生徒たちを見送った。
「綾小路くん……私、もうダメかもしれない……」
部屋を出る際、一之瀬がふらふらとした足取りでオレに近づき、力なく呟いた。
「あのスコーン、美味しすぎたよ……私、リーダー失格かも……」
「気にするな。あれは天災だ」
オレは、もはや慰めの言葉すら見つからず、ただ事実だけを告げた。
第三回目の話し合いが終了。
試験の折り返し地点を過ぎてもなお、兎グループの進捗は完全にゼロ。
坂本という男の果てしないホスピタリティは、心理戦という名の戦場を、完全に優雅で甘美な迷宮へと作り変えてしまった。
オレは胃の辺りを強く押さえながら、残る三回の話し合い(お茶会)をどう生き抜くか、果てしない絶望とともに大西洋の海を眺めることしかできなかった。