船内を包み込む空調の微かな稼働音すらも、今のオレには耳障りなノイズに感じられた。
豪華客船は、指定された航路を滑るように進んでいる。窓の外はすでに完全な夜の帳が下りており、大西洋の海面には、雲の切れ間から覗く月光が銀色の道を描き出していた。
午後八時。船上特別試験の二日目、その最後となる第四回目の話し合いの時間がやってきた。
第五会議室の前に集まった十四人の生徒たちの顔ぶれは、初日のそれとは劇的に変化していた。
優待者を探り当て、他クラスを出し抜き、莫大なプライベートポイントとクラスポイントを奪い合う。そんな実力至上主義の学校が用意した残酷な椅子取りゲームの緊張感は、彼らの表情からは完全に消え失せている。
Aクラスの町田と森重は、「夜のメニューは何だろうな」「昨日の丸氷のモクテル、もう一度飲みたいんだが」などと、完全に高級レストランの順番待ちをする客のような会話を交わしている。
Bクラスの一之瀬は、スコーンの圧倒的な美味しさに敗北したショックから立ち直りきれていないのか、ふんわりとした笑顔のまま「もう、みんなで仲良くお茶を飲めばいいんじゃないかな……」と、思考を完全に手放したような呟きを漏らしていた。
そして、Cクラスの伊吹澪に至っては、廊下の鏡に向かって自分の髪の毛のツヤを熱心に確認している。海風に当たって傷みがちだった彼女の髪は、坂本が提供した『特製オーガニック保湿クリーム』と『ハイビスカスベースの美容ティー』の相乗効果によって、信じられないほどの天使の輪を輝かせていた。
「……チッ、何よ。見ないでよ」
オレの視線に気づいた伊吹が、顔を赤くして鋭く睨みつけてくる。
「別に、あの変人のもてなしに屈したわけじゃないから! 肌が荒れたり髪が痛んだりするのは、コンディション管理としてマイナスでしょ!? だから、もらえるものは利用してやってるだけなんだから!」
誰も何も聞いていないのに、早口で完璧な言い訳をまくし立てる伊吹。もはや彼女が坂本のティーサロンの恩恵から逃れられない身体になっていることは、誰の目にも明らかだった。
「ふふっ。良い心がけだぜ、伊吹」
その後ろから、穏やかな微笑みを浮かべた龍園翔が歩み寄ってきた。
「自分を慈しむ心。それこそが、他者を愛するための第一歩だ。坂本の提供する平穏は、お前のささくれた魂を確実に浄化しているようだな。俺も嬉しいぜ」
「龍園、あんたはもう一生喋らないで! マジで鳥肌立つから!」
伊吹が頭を抱えて悲鳴を上げる。かつて恐怖でクラスを支配していた男が、荒っぽい男言葉のベースはそのままに、ひたすら愛と平和を説くというこの狂気的なアンバランスさは、ある意味でCクラスにとって最大の精神的拷問として機能し続けていた。
(……どうやら、薬の限界が来たらしい)
オレは密かに胃の辺りを押さえ、深く、深く息を吐き出した。
もはや、このグループで心理戦など発生するはずがない。誰もが坂本のホスピタリティという名の絶対的暴力に飼い慣らされ、他者を疑うという行為そのものを放棄しつつある。
時間となり、オレたちは第五会議室のドアを開けた。
室内は、昼間の明るいアフタヌーンティーの空間とは打って変わり、幻想的な夜の装いへと姿を変えていた。
照明は極限まで落とされ、テーブルの中央には、大根の桂剥きを極限の薄さまで削り出して作られた『氷雪の蓮(スノー・ロータス)』のランプシェードが置かれている。その内側に仕込まれたスマートフォンのライトが、大根の繊維を通して柔らかく拡散し、十四人の顔を神秘的に照らし出していた。
「皆様、夜のしじまへようこそ」
暗がりの中から、黒いスリーピースのスーツ(おそらく船内のブティックで調達してきたのだろう)を完璧に着こなした坂本が、恭しく一礼して現れた。その手には、クリスタルのグラスが乗った銀のトレイが掲げられている。
「一日の疲労を癒やし、深き眠りへと誘うための『夜会』をご用意いたしました。本日の主賓を探す試みは、これより開始となります」
坂本は、まるでオペラ座の支配人のような流麗な身のこなしで、各席にグラスを配っていく。
グラスに注がれていたのは、深い青紫色から、底へ向かうにつれて鮮やかな赤紫へとグラデーションを描く、息を呑むほどに美しい謎の液体だった。
「ブルーマロウとカモミールをベースにした、特製のナイト・モクテル『星月夜のまどろみ』です。酸味を加えることで夜空の色が変化する、ささやかな天体ショーをお楽しみください」
坂本がレモン果汁の入った小さなピッチャーから、それぞれのグラスに一滴だけ果汁を垂らすと、青紫色だった液体が、まるで魔法のように鮮やかなピンク色へと劇的に変化した。
「わあっ……!」と、一之瀬や軽井沢といった女子生徒たちが思わず感嘆の声を漏らす。壁と同化していたはずの神室ですら、無言のままその色彩の変化に釘付けになっている。
『全員、揃っているようだな。これより、第四回目の話し合いを開始しろ』
スピーカーから真嶋のアナウンスが響くが、十四人の意識はすでに完全にモクテルへと奪われていた。
全員が静かにグラスを傾け、喉を潤す。爽やかなハーブの香りと、微かな蜂蜜の甘みが、疲労した脳髄の奥底まで染み渡っていく。
「……美味い」
Aクラスの森重が、感極まったような声で呟いた。
龍園は五臓六腑に愛が染み渡るようだと満足げに笑っている。
だが、この圧倒的な弛緩状態にあって、オレはただ一人、ある人物の些細な、しかし決定的な変化を見逃さなかった。
オレと同じDクラスの少女、軽井沢恵だ。
彼女は、美しいピンク色に変わったモクテルのグラスを両手で包み込みながら、その視線をずっと、カウンターの奥で優雅にグラスを拭く坂本へと向けていたのだ。
その眼差しは、ただ美味しい飲み物に感動しているという次元を超えていた。まるで、嵐の海で見つけた唯一の灯台を見上げるような、強烈な依存と安堵の色が入り混じっていた。
(……なるほど。そういうことか)
オレの脳内で、バラバラだったピースが一瞬にして繋がり、一つの完璧な推論が組み上がった。
なぜ、この兎グループにおいて、誰も優待者のヒントを漏らさないのか。試験がここまで膠着している真の理由。
それは、真の『優待者』が、坂本の圧倒的な存在感の陰に完全に隠れ、守り抜かれているからだ。
オレは確信した。この兎グループにおける優待者は——軽井沢恵だ。
軽井沢の普段の行動原理を思い返せば、答えは自ずと導き出される。彼女はDクラスにおいて、常にヒエラルキーの頂点にいる平田洋介の側に立ち、彼の威光という盾の裏に隠れることで自身の身の安全と精神的な余裕を確保している少女だ。
だが、この船上特別試験ではどうだ。頼みの綱である平田は別のグループに配置され、彼女は完全に孤立している。さらに周囲を囲むのは、Aクラスの秀才たちや、あの龍園翔のような他クラスの強者たちだ。
本来であれば、誰の庇護も受けられないこの密室で、彼女は極度のプレッシャーと不安に苛まれ、怯えた態度を見せるのが自然なはずだ。ましてや、自分が『優待者』という、全員から探られ、狙われる特異な立場に選ばれていればなおさらだ。
しかし、現実は全く逆だった。
彼女がプレッシャーで自壊するより先に、坂本が圧倒的なスタイリッシュさでこの部屋の空気を完全に支配し、他者への攻撃そのものを物理的・精神的に封殺してしまったのだ。
彼女を論理で追い詰めるはずだったAクラスの町田たちは、極上のスイーツで口を塞がれた。恐怖の象徴であるはずの龍園は、ハーブティーによって完全に毒を抜かれ、平和主義の伝道師と化している。
軽井沢にとって、今のこの第五会議室は、皮肉なことに客船内のどこよりも安全な場所となっている。
そして、彼女の『強者に寄りかかり、自身の盾とする』という本能は、今この部屋で最も圧倒的な力を振るい、誰も自分を傷つけられない状況を構築した坂本という男に対し、瞬時にベクトルの向きを変えたのだ。
(……平田から、坂本への『盾』の乗り換え)
オレは冷たいモクテルを喉に流し込みながら、この状況の無自覚な恐ろしさに改めて戦慄した。
坂本は、ただ主賓をもてなすという名目で、十四人全員に最高級のサービスを提供しているだけだ。しかし、その結果として、グループ内で最も精神的に脆いはずの優待者を、一切のストレスから完全に隔離し、完璧な隠蔽工作を成立させてしまっている。
誰一人として、軽井沢が優待者であると疑うどころか、彼女に質問を投げかける隙すら与えられていない。
「……おい、少しは真面目に試験の話をしないか」
不意に、静寂を破る声が上がった。
Aクラスの町田だ。彼は森重が完全に戦意を喪失していることに焦りを感じたのか、自分を奮い立たせるように立ち上がった。
「いくらこの飲み物が美味いからといって、騙されるな! 俺たちはポイントを懸けて争っているんだ。このまま何もせずに終われば、学校側からどんなペナルティが下るか分からないぞ!」
町田の悲痛な叫びは、この狂気の空間において唯一の正論だった。
彼は鋭い視線を室内全体に向け、やがて、最も気弱に見え、口数の少なかった軽井沢へと的を絞った。
「おい、そこのDクラスの軽井沢! お前、初日の夜、メールが届いた時はどこにいた? 他の誰かと接触はしなかったか!?」
突然の詰問。
もしここが初日の夜であれば、軽井沢は激しく動揺し、目を泳がせてボロを出していたかもしれない。
しかし、今の彼女の対応は違った。彼女は怯えるどころか、すっと視線を外し、ただ無言で……カウンターの奥に立つ坂本へと助けを求めるような、甘えるような視線を送ったのだ。
その瞬間、坂本が動いた。
彼は静かに、しかし流れるような歩みで森重と軽井沢の間に割って入り、手にした銀のトレイを優雅に差し出した。
「町田様」
坂本の低く、涼やかな声が響く。
「夜の帳が下りたこの静謐な空間において、レディの行動を乱暴に詮索するのは、紳士の振る舞いとは言えません。猜疑心の熱で乾いた喉には、こちらの品を」
坂本がトレイから差し出したのは、氷水で極限まで冷やされた、水晶のように透明な小さなゼリーだった。
「なんだ、これは……俺は質問をしているんだ!」
町田は怒鳴ろうとしたが、坂本は一切の動揺を見せず、流麗な所作でそのゼリーを町田の口元へと運んだ。
――秘技:月下氷人の口づけ(クリスタル・サイレンス)。
「んぐっ!?」
有無を言わさぬ完璧なタイミングで口内に滑り込んできたゼリー。町田はそれを吐き出そうとしたが、次の瞬間、彼の顔色が変わった。
ミントと白桃をベースにした清涼感あふれる甘みが、熱くなっていた彼の脳髄を急速に冷却していく。さらに、ゼリーの絶妙な弾力が咀嚼を強要し、言葉を発するための口の動きを物理的に封じ込めてしまったのだ。
「……もぐっ……ひんやりして……美味っ……」
町田の眼から、先ほどまでの鋭い敵意がスッと消え失せた。彼は椅子に崩れ落ち、ただひたすらに白桃ゼリーの清涼感に身を委ねてしまった。
「……うそ、でしょ」
神室が、呆れ果てた声で呟いた。
これで、Aクラスの論理的攻撃の要であった町田と森重の二人が、完全に餌付けによって無力化されたことになる。
「坂本くん……」
軽井沢が、熱を帯びた声で坂本を見つめている。自分に降りかかりそうだった危機を、圧倒的なスマートさと極上のスイーツで守り抜いてくれた絶対的な存在。彼女の中で、坂本は平田に代わる、いや、それ以上の完璧な盾として認識されたのだ。
だが、坂本本人は軽井沢に特別な感情を抱いて庇ったわけではない。彼はただ全員を平等にもてなすという己の美学に従い、場の空気を乱すノイズを取り除いただけなのだ。
(……勝負あったな)
オレは、静かに目を閉じた。
軽井沢恵という優待者は、坂本の異常なホスピタリティという名の不可侵領域によって、完全に守り抜かれる。
誰も彼女を疑えない。誰も彼女に質問すらできない。
この船上特別試験において、兎グループから優待者の正体が発覚することは、いかなる事態が起ころうとも、もはや絶対にあり得ない。
オレが裏で暗躍し、ポイントを操作するための計略を練る余地すら、彼の手によって見事に粉砕されたのだ。
「ふふ……本当に、坂本には敵わないなァ」
龍園が、夜景を見つめながら深く頷いている。
「坂本のもてなしは一級品だぜ。俺たちは皆、こいつの手のひらの上で踊らされているに過ぎない。この愛に満ちた揺りかごの中で、ただ静かに試験の終わりを待とうじゃねェか」
「……もう、どうにでもなれ」
伊吹も完全に諦めたように、残っていたピンク色のモクテルを一気に飲み干した。
『——指定の時刻となった。これにて、第四回目の話し合いを終了する』
真嶋のアナウンスが、もはやただの閉店の合図として響き渡る。
十四人の生徒たちは、この二日間で完全に培われたお茶会後の謎の満足感とともに、静かに席を立った。
「皆様、本日の夜会はいかがでしたでしょうか。明日はついに最終日。主賓の皆様にふさわしい、最高のグランド・フィナーレをご用意してお待ちしております」
坂本の完璧な一礼に見送られ、オレたちは第五会議室を後にした。
客船の廊下を歩きながら、オレは空になった胃薬のシートをゴミ箱へと放り投げた。
残る話し合いは、明日の二回のみ。
誰もが優待者を探すことを諦め、ただ坂本の提供する極上のもてなしを待つだけの、狂気に満ちた平和な試験。
オレは、自身の隠キャ生活が保たれたことに安堵すべきか、それともこの理解不能な現実に絶望すべきか判断がつかず、ただ無表情のまま自室へと歩みを進めるのだった。