ようこそスタイリッシュ至上主義の教室へ   作:GC

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第23話「スタイリッシュ・モーニングコール」

豪華客船が迎える、船上特別試験三日目の朝。

 水平線から昇る朝日が、大西洋の波間に何万ものダイヤを散りばめたような眩い光を投げかけている。オレは、客船の中層階にあるプロムナードデッキへと一人で足を運んでいた。

 本来であれば、最終日を控えたこの時間は、各クラスのリーダーたちが最後の大博打や裏取引に奔走する、一年で最も殺伐とした時間になるはずだった。だが、オレの耳に届くのは、平穏そのものの波音だけだ。

 

(……いや、平穏すぎるのが問題なんだ)

 

 オレは手すりに寄りかかり、自身の慢性的な胃痛の具合を確かめる。

 兎グループに配属された十四名の生徒。その中には、Dクラスを支える柱である平田洋介の側にいることで平穏を保っていた軽井沢恵も含まれていた。 だが、この試験で平田と引き離された彼女は、今、別の「盾」を見つけてしまっている。

 

 坂本だ。

 

 彼が提供する圧倒的なホスピタリティと、森重の詰問を物理的に封じた『月下氷人の口づけ』。 それらのスタイリッシュな挙動に、孤立していた軽井沢の依存のベクトルは完全に切り替わった。 坂本の作り出したお茶会という名の絶対安全地帯の中で、真の優待者である軽井沢は、誰からも疑われることなく、ただ優雅にモクテルを啜る時間を過ごしている。

 

「こんなところで黄昏れているなんて、随分と余裕があるのね。綾小路くん」

 

 不意に背後からかけられた声には、隠しきれない疲労の色が混じっていた。

 振り返ると、そこに立っていたのは堀北鈴音だ。 彼女は腕を組み、鋭い双眸でオレを射抜くように見つめているが、その眉間には深い皺が刻まれている。

 

「お前こそ。自分のグループの攻略は順調なのか?」

 

「順調だったら、こんなところで溜息なんてついていないわよ。Aクラスの葛城くんが、無人島での出来事を引きずっているのか、異常なまでに石橋を叩いて渡るような戦術をとっていて、一向に議論が進まないの」

 

 堀北は苛立たしげに髪をかき上げた。

 

「……それで、あなたのところはどうなの。坂本くんが一緒だっていうから、てっきり阿鼻叫喚の地獄絵図になっているかと思ったのだけれど。軽井沢さんたちは無事なの?」

 

「ああ。軽井沢なら、坂本の横でうっとりとアールグレイを飲んでいるよ。……阿鼻叫喚ではなく、ただの高級ティーサロンだ」

 

 オレが淡々と事実を告げると、堀北は「……は?」と、短く、そして乾いた声を漏らした。

 

「冗談はやめて。今はそんな暇じゃないの」

 

「冗談ならどんなに良かったか。だが、これが現実だ。龍園は平和を説き、Aクラスの町田たちはスコーンの美味さに涙し、神室は毒づきながらもガトーショコラを完食している」

 

「…………」

 

 堀北の瞳から、光が消えた。 彼女の論理的な思考回路が、オレの言葉の羅列を情報として認識することを拒絶したのが分かった。

 

「……やめましょう。これ以上聞くと、私の試験に対するモチベーションが物理的に崩壊しそうよ」

 

 見事な現実逃避だった。 彼女はそれ以上何も聞かず、ただ深く項垂れた。

 

「あら。堀北さん、それに綾小路くん。こんな朝早くから、仲良く密談ですか?」

 

 その時、海風に乗って響いたのは、凛とした、しかしどこか悪戯っぽい響きを含む声だった。

 プロムナードデッキの奥から、一本のステッキを軽やかに鳴らしながら近づいてくる小柄な少女。Aクラスのリーダー、坂柳有栖だ。

 彼女の背後には、いつも通り神室真澄が付き従っている。 だが、今日の神室は、いつもよりさらに不機嫌そうな顔で、「……最悪。またあのグループの連中に会うなんて」と露骨に嫌な顔をして見せた。

 

「坂柳さん。私たちに何か用かしら」

 

 堀北が即座に戦闘態勢を取り、警戒心を露わにする。

 

「いえ、ただの朝の散歩ですよ。ですが……神室さんから昨日の状況を聞きましてね。あまりにも滑稽で、興味深いお話だったものですから」

 

 坂柳はステッキを止め、オレたちを観察するように首を傾げた。

 

「VIPラウンジで私と対峙した際、船の揺れを無視して完璧な紅茶を注いだあの彼……。彼が今度は会議室をサロンに変えて、神室さんをチョコ一つで籠絡したと伺いました」

 

「ちょ、ちょっと! 誰が籠絡されたってのよ。私はただ、もったいないから食べてやっただけよ! あのチョコがカカオ八十パーセントで私の好みにドンピシャだったのはただの偶然なんだから!」

 

 神室が、顔を赤くして鋭くツッコミを入れる。 彼女は決して骨抜きにされたわけではない。 むしろ、あの異常な空間で唯一、正気を保ちながら坂本の奇行に毒づき続けているのだ。

 

「ふふふ。そうですね。ですが、あの誇り高い龍園くんまでがハーブティーを啜って穏やかになっているとなれば、もはやそれは一つの戦術と呼べるかもしれません」

 

 坂柳の瞳の中に、冷徹な知的好奇心が灯った。 彼女にとって、坂本はすでに『観察すべき極上の娯楽』として完全にロックオンされている。

 

「一度、ゆっくりと盤面を挟んでみたいものですが……」

 

坂柳がそう言いかけた、まさにその時だった。

 

ゴォォォォッ!!

 

 突如として、海上を吹き抜ける強烈な突風がプロムナードデッキを襲った。

 

 「きゃっ!」

 

 堀北が咄嗟に髪を押さえ、姿勢を崩す。

 そして、その風の暴力は、坂柳有栖の頭上にあった純白のベレー帽を無情にもさらっていった。

 

「あっ……」

 

 坂柳が小さく声を上げる。

 帽子は高く舞い上がり、そのまま手すりの外へ——大西洋の荒波へと吸い込まれていく軌道を描いた。 神室も、坂柳自身の足も、その速度には追いつけない。

 

「——朝の潮風は、少々悪戯好きのようですね」

 

 どこからともなく響いた、涼やかな声。

 オレたちの頭上、一段高いアッパーデッキの手すりの上に、一人の男が立っていた。

 完璧な七三分け。黒縁メガネ。乱れ一つない制服。

 

 坂本だ。

 

 彼は迷うことなく、海面に向かって落下していく白い帽子を追って空へと跳躍した。

 

 「えっ……!?」

 

 坂柳が驚愕に目を見開く。

 そのまま海へ転落するかと思われた刹那、坂本は着ていたジャケットを瞬時に脱ぎ捨て、それを両手でパラシュートのように広げた。

 

――秘技:飛燕の舞(スワロー・ダイブ)。

 

 ジャケットが強風を孕み、揚力を生む。 空中で静止したかのような優雅な滑空を見せた坂本は、海面スレスレでベレー帽を指先でふわりと捕獲した。

 そして、客船の側面にあるわずかな段差を足場に、反復横跳びの要領で垂直の壁を蹴り上げ、そのまま音もなくオレたちの前の甲板へと着地した。

 

 着地と同時にジャケットを再び羽織り、メガネの位置を微調整する。 まるで一歩も動いていなかったかのような静謐さが、そこにはあった。

 

「……嘘でしょ。今の、物理法則はどうなっているのよ……」

 

 堀北が、現実逃避の処理能力を遥かに凌駕した光景を前に、壁に手をついて崩れ落ちた。

 

「坂柳様。大切なお召し物、お返しいたします」

 

 坂本は、埃一つ付いていない純白の帽子を、深々と一礼しながら坂柳の前に差し出した。

 

「…………」

 

 坂柳有栖は、一瞬だけ言葉を失い、受け取った帽子をじっと見つめた。

 VIPラウンジでの『絶対水平注ぎ』に続き、今度はこの『飛燕の舞』。 彼女の計算、分析、予測。そのすべてを軽々と飛び越えていく男の姿に、彼女は不敵な笑みを浮かべた。

 

「ありがとうございます、坂本くん。素晴らしいモーニングコールでしたわ。……ええ、やはりあなたは、私が思っていた以上に、退屈しのぎには過ぎた存在のようです」

 

 坂柳の瞳に、明確な戦意……あるいは執着に近い興味が宿った。

 

「過分なお褒めの言葉、恐縮です。ですが、私はただの学生に過ぎません。朝の清々しい空気に、ほんの少しのスパイスを加えただけのこと」

 

 坂本は、悪意や探り合いをすべて善意として受け取る、いつもの流儀で答えた。 彼は懐から、純銀製の保温水筒を取り出した。

 

「ところで、朝の冷たい海風は、才女の頭脳を冷やしすぎてしまうかもしれません。ジンジャーとシナモンを効かせた特製のモーニング・ブレンドです。心と身体を温め、最終日の健闘を祝福させてください」

 

 坂本は、まるで高級ホテルのコンシェルジュのような手つきで、温かい紅茶をカップに注ぎ、坂柳へと差し出した。

 

「……ふふっ。いただきますね」

 

 坂柳は、静かにカップを受け取った。 神室はそれを見て、「……あーあ。あんたまで巻き込まれたら、もう終わりよ」と、盛大な溜息をついて天を仰いだ。

 

「それでは皆様。午後にはいよいよ、兎グループのグランド・フィナーレが控えております。主賓の皆様にふさわしい、最高の舞台をご用意してお待ちしております」

 

 坂本は優雅に踵を返し、そのまま静かに船内へと消えていった。

 

 残されたデッキには、朝の清々しい風と、理解不能な現実に打ちひしがれた堀北、そして不敵に微笑む坂柳の姿だけがあった。

 

「……もう知らないわ。関わらないのが一番よ」

 

 堀北は頭を抱えたまま、全力で現実逃避を完遂し、その場から立ち去った。

 

「綾小路くん」

 

 坂柳が、空になったカップを両手で包み込みながら、オレを振り返った。

 

「彼は、盤上の駒ではありませんね。ルールそのものを無視して優雅に踊り狂う、全く別の次元の存在。……彼がDクラスにいる限り、この学校の勢力図は、私の計算通りには進まないかもしれません」

 

「オレに言われても困る。オレも被害者の一人だ」

 

 オレは冷たい水を飲み干し、静かに答えた。

 いよいよ今日の午後、兎グループの最終話し合いが行われる。

 坂本が予告した『グランド・フィナーレ』。それが、この狂気のティーサロンにどのような結末をもたらすのか。

 オレは胃の辺りを軽く押さえながら、大西洋の空に広がる青空を、ただ無表情で見上げるのだった。

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