船上特別試験の三日目、午後。いよいよ、全グループにとって最後となる四回目の話し合いの時間がやってきた。
豪華客船の船内は、これまでとは比較にならないほどの重苦しい緊張感と、焦燥感に包まれていた。すれ違う他グループの生徒たちの目は血走り、廊下のあちこちで小声での密談や、胸ぐらを掴み合うような激しい口論が繰り広げられている。優待者の正体を巡る騙し合いは最終局面に突入し、裏切りや罠が複雑に絡み合い、疑心暗鬼が頂点に達している証拠だった。
一年間のクラスポイント、引いてはこれからの学園生活の優位性を決定づける重大な試験の締めくくり。それが実力至上主義の学校における正常な光景である。
だが。
オレが指定された第五会議室のドアの前に立った時、そこから漏れ聞こえてきたのは、怒号でも、冷徹な論理のぶつかり合いでもなかった。
——静かな、そして極めて洗練された、クラシック・ギターの音色だった。
(……またか)
オレは無意識に胃の辺りを押さえ、静かに息を吐いてから、重い木製のドアを開いた。
「ようこそ皆様。本日は兎グループの最終夜会……『至高のグランド・フィナーレ』へお越しいただき、誠にありがとうございます」
部屋に足を踏み入れた瞬間、オレの目に飛び込んできたのは、無機質なはずの会議室が完全に別空間へと変貌を遂げた光景だった。
ブラインドは計算し尽くされた角度で調整され、午後の強い日差しを柔らかな間接照明のように部屋の隅々へと散らしている。中央の長机には、どこから調達したのか、雪のように白いテーブルクロスが敷き詰められ、その上にはクリスタルガラスのピッチャーや、幾何学的な美しさを持って配置されたティーカップが並んでいた。
そして、その長机の最も奥。まるで一流ホテルの支配人のように、純白のナプキンを左腕に掛け、姿勢を正して立っている男。
Dクラスが誇る、世界観の破壊者。坂本だ。
「さあ、お掛けください。本日は最後のお集まりということで、少しばかり特別な趣向をご用意いたしました」
坂本が優雅に右手を差し向けると、すでに部屋に集まっていた他クラスの生徒たちは、誰一人として文句を言うことなく、まるで魔法にかけられたかのようにそれぞれの席へとついた。
オレもまた、目立たない端の席へと腰を下ろし、静かに周囲の状況を観察した。
異常だ。あまりにも、異常すぎる。
本来であれば、この最後の話し合いは、互いの腹を探り合い、言葉の刃を突きつけ合う凄惨な戦場になるはずだった。だが、この空間には一切の敵意が存在しない。
Aクラスの町田は、鋭い目つきを完全に和らげ、テーブルの上に置かれた小さなメニュー表のようなカードを真剣な顔で読み込んでいる。その隣で、論理で軽井沢を追い詰めるはずだった森重は、「今日の茶葉は何だろうな……」と、完全に意識がアフタヌーンティーの構成へと向かっていた。
Bクラスを統べる一之瀬帆波は、持ち前の明るい笑顔を浮かべてはいるものの、その目には明らかな疲労と、ある種の諦念が浮かんでいた。 彼女は初日から幾度となく連帯を呼びかけ、試験の目的を果たそうと努力していた。だが、その声は常に坂本の極上のスイーツと完璧なタイミングでの紅茶のサーブによって優雅に遮られ、有耶無耶にされてきたのだ。 「……もう、どうやって話を切り出せばいいのか分からないよ……」と、彼女が小さく呟いたのがオレの耳に届いた。
そして、最も劇的な変化を遂げているのがCクラスの龍園翔だ。
「フッ……いい日差しじゃねえか。太陽の恵みってやつを感じるぜ……」
かつては他者を恐怖で支配していた暴君が、今は窓から差し込む光を細めた目で受け止め、穏やかな笑みすら浮かべている。 その隣では、同クラスの伊吹澪が「あんた、本当に一回病院で頭診てもらいなさいよ……」とキレ気味に吐き捨てているが、彼女自身の手にも、坂本が調達したオーガニックの美容ティーがしっかりと握りしめられていた。
(……もはや、誰も優待者を探す気がない)
オレは、静かに視線を滑らせ、同じDクラスの女子生徒、軽井沢恵の姿を捉えた。
彼女こそが、この兎グループにおける真の『優待者』だ。 平田洋介という精神的支柱から引き離され、他クラスの猛者たちに囲まれたこの状況は、本来であれば彼女に耐え難いプレッシャーを与え、ボロを出させるには十分すぎる環境だった。
だが、今の彼女の佇まいには、怯えも焦燥も微塵も感じられない。
彼女は、坂本が提供した美しいブルーマロウのモクテルを片手に、まるでヨーロッパの貴族の令嬢のような余裕を持った笑みを浮かべて座っている。
無理もない。彼女が少しでも他クラスから追及されそうになると、決まって坂本が『月下氷人の口づけ』で相手の口を塞ぎ、あるいは極上の茶菓子で思考を強制終了させてきたのだ。 坂本という男の存在自体が、軽井沢を守る絶対の安全地帯として機能している。
その結果、他クラスの生徒たちは、「これだけ堂々と、しかも試験を無視してお茶会を楽しんでいるのだから、彼女が優待者であるはずがない」という強固なミスリードに自ら嵌まり込んでしまっていた。
「おい、ちょっと待ちなさいよ」
その弛緩しきった空気を切り裂くように、鋭い声が響いた。
Aクラスの神室真澄だ。
彼女は腕を組み、不機嫌を絵に描いたような顔で坂本を睨みつけていた。 彼女だけは、坂柳有栖の側近としての矜持なのか、あるいは生来の捻くれ者ゆえか、この狂気の空間において唯一、常識的なツッコミ役としての自我を保っている。
「あんたたち、正気? 試験終了まであと一時間もないのよ。誰も他人の端末を確認しようともしないし、優待者についての議論すら始まらない。ただの茶話会じゃない。こんなんで終わったら、全員ポイント変動なしの引き分けよ。それでもいいわけ?」
至極真っ当な正論だった。
実力至上主義の学校において、ポイントは命と同義だ。他者を出し抜き、クラスを上位へと導くためのこの試験で、全員が仲良くお茶を飲んで終わるなど、学校側も想定していない異常事態である。
だが、神室のその悲痛なまでのツッコミに対し、坂本は表情一つ変えることなく、ただ静かに一礼した。
「神室様。ご懸念は尤もです。ですが、真の『主賓』をお迎えするこの場において、野暮な探り合いや、品性を欠く議論は不要。必要なのは、ただ心を満たす至高の体験のみ」
「だから、主賓って誰のことよ! あんた、初日からずっと勘違いしてるけど……!」
「——ご安心ください。本日のグランド・フィナーレは、皆様のその退屈という名の疑念を、一瞬で消し去るものをお約束いたします」
坂本はそう宣言すると、長机の後ろに用意されていたカートの覆いを、流れるような動作で一気に引き払った。
「なっ……!?」
神室が息を呑み、一之瀬が目を丸くする。龍園すらも、その穏やかな瞳をわずかに見開いた。
カートの上に乗っていたのは、まるで宝石箱をひっくり返したかのような、色彩の暴力だった。
メロン、オレンジ、キウイ、パイナップル、そして林檎。客船のビュッフェから調達してきたであろう大量のフルーツの山。
だが、ただのフルーツではない。坂本は、懐から一本のペティナイフを取り出すと、目を疑うような神速の動きでそれらの果実に刃を滑らせ始めた。
シュバババババッ!!
ナイフが空気を切る微かな音だけが室内に響く。皮がリボンのように空宙を舞い、果肉が計算され尽くした黄金比に従って切り出されていく。
オレは、以前彼がAクラスの葛城に見せた『万華鏡の果実(カレイドスコープ・アップル)』の技術を思い出していた。 だが、今回はその次元を遥かに超えている。
――秘技:三千世界の果樹園(ユニバース・エデン)。
わずか数十秒の間に、ただのフルーツの塊が、精巧なダリア、薔薇、百合の花の彫刻へと姿を変えていく。十四人分、全く異なるデザインの花々が、一瞬にしてテーブルの上に咲き誇ったのだ。
「……え、嘘。これ、手作業なの……?」
神室が、先ほどまでの怒りを忘れ、呆然と目の前に置かれたオレンジの薔薇を見つめている。
「さらに、こちらを」
坂本は息一つ乱さず、用意してあった細長いグラスに、三種類の異なる液体を注ぎ始めた。
下層には深紅のハイビスカスティー、中層には黄金色のカモミール、そして上層には、温度と糖度をミクロン単位で調整された透き通るような青いブルーマロウの抽出液。
――秘技:重力逆転の層(アンチ・グラビティ・グラデーション)。
比重の違いを完全に支配したその技術により、グラスの中に、決して混ざり合うことのない三色のグラデーションが完成する。それはまるで、夕暮れ時から夜へと移り変わる水平線の空を、そのままグラスの中に閉じ込めたかのような美しさだった。
「主賓の皆様。フルーツの甘みと酸味、そして三層のハーブが織りなす香りの三重奏を、どうぞお楽しみください」
坂本は、全員の前にそのグラスとフルーツの彫刻を完璧な所作で並べ終えると、再び深く一礼した。
静寂。
第五会議室を支配していたのは、もはや心理戦の緊張感ではない。圧倒的な美とホスピタリティの前に、人間の闘争本能が完全に沈黙させられた瞬間だった。
「……いただきます」
誰かが、ぽつりと呟いた。それを合図に、町田が、森重が、一之瀬が、そして神室までもが、吸い寄せられるようにグラスを手に取り、フルーツを口に運ぶ。
「……美味しい……」
一之瀬が、肩の力を完全に抜いて小さく息を吐いた。 リーダーとしての重圧も、クラスを背負う責任も、すべてがその三層のハーブティーの香りの前に溶けていく。
「……信じられない。なんでオレンジがこんなに甘いのよ……」
神室は毒づくことを完全に放棄し、オレンジの薔薇を無言で食べ進めている。
(……終わったな)
オレは、グラスの冷たい感触を掌で感じながら、自身の推測が確信に変わるのを自覚していた。
試験の残り時間は、あとわずか。
この極上のティーサロンにおいて、もはや誰一人として、携帯端末を取り出して他者を疑い、学校宛てに優待者の解答メールを作成しようとする者はいない。
軽井沢の安堵の表情は、完全に固定化されている。
坂本のおもてなしという名の物理的・精神的制圧は、結果として、優待者の存在を誰にも暴かせないという、この試験における最強の防御結界として完璧に機能し切ったのだ。
ただ、オレは忘れていた。
目の前にいる男は、腐っても?『龍園翔』だったことに。
「……美味いな。相変わらず、腹の底から温まるような味だ」
静寂を破ったのは、Cクラスの龍園だった。 彼は穏やかな微笑みを浮かべてグラスを傾けているが、その瞳の奥には、確かな理性の光が宿っていた。
「だがよ、坂本。そろそろ遊びは終わりにしようぜ。大自然の恵みを分かち合うのは最高だが、俺たちは今、ポイントを懸けた戦いの最中にいるんだからよ」
平和主義の伝道師と化していたはずの彼が、ここに来てついに実力至上主義の生徒としての顔を覗かせた。