朝。
朝陽が海面を黄金色に染め上げる頃、一週間に及ぶ無人島サバイバルと船上特別試験の舞台となった豪華客船は、無事に高度育成高等学校の専用港へと帰還を果たした。
潮の香りが微かに混じる港の風を受けながら、生徒たちは次々とタラップを下りていく。
一週間の過酷な試験を終え、誰もが疲労困憊といった表情を浮かべている。無理もない。無人島でのポイント制限による飢餓と不衛生な環境、そして船上での極限の心理戦。一年生の心身はとうに限界を迎えているはずだった。
――ただ一つのクラスを除いては。
「っしゃあああああ! 陸地だ! 帰ってきたぜえええ!」
「俺たちCクラスだ! 新Cクラスだぞおおお!」
港に響き渡る、野生の猿のような歓声。
言うまでもなく、オレたち旧Dクラス(現Cクラス)の面々である。 須藤、池、山内のさんばかを筆頭に、男子生徒たちは疲れを見せるどころか、異常なほどの活気に満ち溢れていた。
彼らは無人島において、坂本の作り上げた天然露天風呂と南国風ヴィラで極上のスパリゾートを満喫しただけなのだから当然である。
むしろ、試験前よりも肌ツヤが良くなり、健康状態が劇的に改善しているようにすら見えた。
「おい、見ろよ。Aクラスの連中、すげぇ暗い顔してんな」
池が、前方を歩くAクラスの集団を見てニヤニヤと笑う。
確かに、Aクラスの暫定リーダーである葛城康平の背中は、ひどく重く沈んでいた。彼は無人島での戦術的敗北に加え、坂本から謎のダリアの花のような林檎のカービング彫刻を渡されたことで、自らの論理的価値観を完全に破壊され、今もなお恐怖と混乱の渦中にいる。
一方のBクラスは、一之瀬帆波が疲労を見せつつもクラスメイトを励ましながら歩を進めている。彼女もまた、坂本の圧倒的なインフラとホスピタリティに敗北感と畏怖を抱きながらも、なんとかリーダーとしての矜持を保とうとしているようだった。
そして、問題は最下位に転落した新Dクラス(旧Cクラス)である。
「……おい、龍園。さっさと歩けよ。後ろがつっかえてるだろ」
苛立ちを隠せない伊吹澪の声が響く。彼女は坂本のオーガニック保湿クリームのおかげで肌の調子こそ最高だが、クラスの現状に対するストレスで眉間には深いシワが刻まれていた。
「慌てるなよ、伊吹。海風の香りを胸いっぱいに吸い込めば、急ぐ理由など波の彼方に消えていくさ。ほら、お前もこのカモミールティーを飲んで、心を鎮めるといい」
「誰が飲むか!」
かつての独裁者であり、恐怖でクラスを支配していた暴君・龍園翔。彼は今、手にした純銀製の保温水筒から湯気を立てるハーブティーを優雅に啜りながら、穏やかな老人のような微笑みを浮かべて空を見上げていた。 無人島での過剰な安らぎと、船上での飽和した浄化作用により、彼の闘争本能は完全に削ぎ落とされ、深い平和主義の底へと沈んだままなのだ。
その光景は、旧Cクラスの生徒たちにとって、どんな暴力よりも恐ろしいホラー映画の一場面として機能していた。
オレは、静かに溜息を吐きながら、集団の最後尾を歩く。
これらすべての異常事態、クラス間のパワーバランスの崩壊を引き起こした元凶。
オレたちの視線の先、港のタラップの中央を、その男は涼しげな顔で下りてきていた。
――坂本である。
彼は、自らの鞄を持っていなかった。
いや、持っていないのではない。彼の右手の人差し指の上には、彼自身のボストンバッグに加え、軽井沢や櫛田をはじめとする女子生徒たちのキャリーケース、さらには須藤たちの巨大なスポーツバッグなど、合計十五個近い荷物が、ジェンガのように緻密なバランスで天高く積み上げられていたのだ。
「皆様、足元にはお気をつけください。港の風は、時に淑女の足取りを狂わせますから」
坂本は、指先で数十キロはあろうかという荷物の塔を完全に制御しながら、左手でフランス語のペーパーバックを優雅に読み耽りつつ、一切の足音を立てずにスロープを下りていく。
――秘技:摩天楼の荷運び(スカイスクレイパー・ポーター)。
重心の完全なる把握と、指先のミクロ単位の筋力調整。そして風の抵抗を相殺するための流体力学的な歩法。
それらが完全に合致した結果、荷物の塔はまるで重力から解放されたかのようにピタリと安定し、微かな揺れすら見せない。女子生徒たちは「きゃあ、坂本くんありがとう!」「本当にかっこいい……!」と黄色い歓声を上げ、男子生徒たちは「アニキ! 一生ついていきます!」と拝むように手を合わせている。
「……あれは、一体何の冗談かしら」
オレの隣を歩いていた堀北鈴音が、呆れ果てた声で呟いた。
彼女の目元には、深い疲労の色が滲んでいる。無理もない。彼女はこの数日間、坂本という理解不能な災害を論理の枠組みに押し込める作業を完全に諦め、ただひたすらに現実逃避を磨き続けてきたのだから。
「さあな。物理法則が仕事をするのをストライキしているだけだろう」
「そうね。重力なんて、彼の手にかかればただの飾りだわ。……もう、何も考えたくない」
堀北は視線を虚空へと逸らし、自らの脳を守るための防衛機制を全開にした。オレもそれに倣い、胃の辺りを軽く押さえながら、ただ足元だけを見て歩き続けた。
だが、オレの背中には、港のデッキから向けられる強烈な視線が突き刺さっていた。
「ふふっ……あはははは!」
タラップの上から、軽やかな笑い声が響く。
振り返らなくても分かる。Aクラスのリーダー、坂柳有栖だ。 彼女はステッキを優雅に鳴らしながら、指先で巨大な塔を築き上げている坂本の姿を、まるで極上の演劇でも鑑賞するかのように熱烈な瞳で見つめていた。
彼女の隣に立つ神室真澄が、頭を抱えるようにして顔をしかめているのが想像できる。
坂柳のあの狂気的なまでの執着。 それが今後、オレたちのクラスに……いや、坂本という特異点を中心に、この学校全体にどのような嵐を巻き起こすのか。
オレの平穏な隠キャ生活は、大海原の彼方どころか、完全なブラックホールへと呑み込まれてしまったことを、今更ながらに痛感させられていた。
数時間後。
一年生の生徒たちは、久方ぶりの学校の教室へと帰還していた。
旧Dクラス――いや、今日から正式に『Cクラス』となったこの教室の空気は、かつてないほどの熱狂に包まれていた。
「すげえ! 本当に名札が『1-C』に変わってるぞ!」
「オレたち、ついに這い上がったんだな……!」
黒板の上に掲げられたクラスプレートを見上げ、池と山内が涙ぐんでいる。
彼らの視線の先、教室の最後列の窓際。そこには、いつものように背筋をピンと伸ばし、静かに文庫本を読んでいる坂本の姿があった。
誰もが理解している。この歴史的な大逆転劇をもたらしたのは、他でもない彼の圧倒的なサバイバル能力と、他クラスのリーダー当て解答を狂わせたデコイ効果によるものだと。
彼らにとって、坂本はもはや単なるクラスメイトではない。信仰の対象、神に等しい存在として完全に固定化されていた。
ガラッ、と教室のドアが開き、担任の茶柱佐枝が入ってきた。
その瞬間、教室内は水を打ったように静まり返る。
教壇に立った茶柱は、出席簿をドン、と無造作に机に置いた。彼女の顔には、隠しきれないほどの深い疲労感と、色濃いクマが刻まれていた。
「……席に着け。これより、ホームルームを始める」
彼女の声には、いつものような冷徹な威圧感が欠けていた。無理もない。彼女の長年の悲願であったDクラスの昇格が、教え子たちの努力や成長ではなく、坂本というルールの概念を書き換える不条理な存在によって、いとも容易く成し遂げられてしまったのだから。
実力至上主義という学校のシステムを信奉してきた彼女の常識は、今やズタズタに崩壊していた。
「改めて結果を伝える。無人島特別試験、および船上特別試験の総合結果により、お前たちは現在五〇七ポイントを獲得した。 これにより、四九二ポイントに転落した旧Cクラスを抜き、お前たちは正式に『Cクラス』へと昇格することになる」
茶柱がそう告げた瞬間、教室は再び爆発的な歓声に包まれた。
「よしっ! やったぜ!」
「見たか、Cクラスの連中! これが俺たちの実力だ!」
浮かれる生徒たちを、茶柱は静止しようともしなかった。彼女はただ、酷く疲れた目で、窓際で静かに本を読む坂本を見つめていた。
「……お前たちが、まさか本当に昇格を果たすとはな。だが、勘違いするな。ここからが本当の戦いだ。Aクラスの一一二四ポイント、Bクラスの八〇三ポイントにはまだ遠く及ばない。 そして何より、ポイントがすべてを決めるこの学校において、まともな『実力』で勝ち上がったわけではないという事実を……」
茶柱がそこまで言いかけた、その時だった。
「茶柱先生」
静かで、よく通る声が教室に響いた。
坂本である。彼はいつの間にか席を立ち、教壇のすぐ脇にまで歩み寄っていた。その手には、どこから取り出したのか、純白の陶器のカップとソーサーが握られている。
「長きに渡る航海での引率、そして我々生徒の絶え間ない見守り……誠にお疲れ様でした。先生のその深い隈は、我々への愛情と激務の証。どうか、この一杯でご自愛ください」
坂本は恭しく一礼すると、純白のカップを茶柱の教壇の上に静かに置いた。
そこからは、心が解けるようなベルガモットの香りと、極上のアールグレイの湯気が立ち上っていた。
――秘技:教壇のオアシス(ティー・フォー・ティーチャー)。
それは、単なる紅茶ではない。船の厨房から特別に譲り受けた最高級茶葉を、完璧な温度管理の保温水筒内で熟成させ、教師という激務に疲弊した肉体を癒やすためにカフェインとテアニンのバランスを極限まで調整した、まさに癒やしの霊薬とも呼べる代物だった。
「…………」
茶柱は、目の前に置かれた紅茶と、坂本の純粋な善意に満ちた眼差しを交互に見つめた。
教師としての威厳。実力至上主義の体現者としての立場。
本来であれば、「ふざけるな」と一喝して突き返すのが彼女の役割である。
だが。
彼女は、小さく震える手でそのカップを持ち上げると、ゆっくりと口に運んだ。
「……美味いな」
ポツリと漏らしたその一言には、一切の棘がなかった。
彼女もまた、龍園たちと同じように、坂本の圧倒的なホスピタリティの前に完全に白旗を揚げ、教師としての自己防衛本能を働かせることを選んだのだ。
「本日のホームルームは、これで終わりだ。……各自、休養に努めるように」
茶柱は、紅茶のカップを両手で包み込むようにして持ちながら、そのまま逃げるように教室を出て行った。
後に残されたのは、坂本の振る舞いを「アニキ、流石の気配りっす!」と称賛するさんばかたちと、もはや何も考えまいと黒板の一点を見つめ続ける堀北、そして、胃の激痛に耐えかねて密かに胃薬のシートを取り出すオレだけであった。
昼休み。
オレは、クラスの喧騒から逃れるようにして、特別棟の人通りの少ない中庭へと足を運んでいた。
手の中には、先ほど購買部で新しく買い足した、一箱三千ポイントもする高価な胃薬が握られている。無人島と船上での試験中、坂本の引き起こす異常事態の連続により、オレの胃薬の消費量は限界を突破していた。
(……やれやれ。これで少しは、静かな時間が過ごせるか)
ベンチに腰を下ろし、ミネラルウォーターで胃薬を流し込もうとした、その時。
「ごきげんよう、綾小路くん。いえ、今はCクラスの綾小路くん、と呼ぶべきでしょうか」
ステッキの軽やかな音が、静かな中庭に響いた。
振り返ると、そこにいたのはAクラスのリーダー、坂柳有栖だった。彼女は銀色の髪を風に揺らしながら、底知れない笑みを浮かべてオレを見下ろしている。
オレは内心で舌打ちをしつつ、無表情を保ったまま彼女に向き直った。
「奇遇だな、坂柳。Aクラスのトップが、こんな人気のない所で何をしている」
「ふふっ。おかしなことを聞くのですね。私はただ、極上のエンターテインメントの余韻に浸りながら、散歩を楽しんでいただけですよ」
坂柳は、オレの隣のベンチに優雅に腰を下ろした。
「無人島での勝利、そして船上試験でのパーフェクトゲーム。見事な手腕でしたね。葛城くんも、龍園くんも、そして一之瀬さんまでもが、完全に盤上から弾き出されてしまいました」
「オレは何もしていない。すべてはクラスの連中が頑張った結果だ」
オレは定石通りの返答で躱そうとする。
「ええ、分かっていますよ。あなたが直接手を下したわけではないことくらい」
坂柳は、クスクスと楽しげに笑った。
「私が興味を持っているのは、ホワイトルーム出身のあなたではありません。綾小路くん、あなたが必死に隠れ蓑にしようとしている……あの、常識外れの彼のことです」
その言葉に、オレは微かに眉を動かした。
いまとんでもないことをさらっと言ってきた気がするが、聞かなかったことにした。
やはり、坂柳の標的は完全に坂本へとロックオンされていた。 彼女は昨夜のVIPラウンジで坂本の異常な聴覚を目の当たりにし、彼を「論理を超越した未知」「極上の娯楽」として認定してしまっている。
「坂本くん……本当に、彼は素晴らしい存在です。私が仕掛けた遊戯を、盤面ごと優雅にひっくり返してしまった。 見返りを一切求めない純粋な善意。そして、圧倒的な身体能力。実力至上主義という退屈な箱庭に現れた、まさに別次元の芸術品ですね」
坂柳の瞳には、歓喜と愉悦の色が鮮明に浮かんでいた。 彼女は、この退屈な学園生活を彩る最高のおもちゃを見つけ、それに執着することで自らの存在意義を満たそうとしているのだ。
「オレには、お前が何を言っているのか分からないな。あいつはただ、少しばかり気が利く普通の高校生だ」
「ふふっ。苦しい言い訳ですね。ですが、安心してください。私はあなたを脅かそうとしているわけではありません。ただ……」
坂柳は、ステッキの先でトン、と地面を叩いた。
「ただ、彼と『もっと遊びたい』と思っているだけです。論理や実力で彼を屈服させようとした者たちは皆、彼の『スタイリッシュ』という名の毒に当てられて自滅しました。葛城くんも、龍園くんも。 ならば、私は違ったアプローチで彼を楽しませてあげようかと」
「違ったアプローチ、だと?」
「ええ。彼がホスピタリティの化身であるならば、私はそれに相応しい『最高の淑女(ゲスト)』として、彼に極上の試練を与え続けてあげるのです。……ああ、想像するだけで胸が躍りますわ」
坂柳有栖という天才が、坂本という災害に向けて全精力を傾けようとしている。
それは、この高度育成高等学校のパワーバランスが、ポイントや実力ではなく、「いかに坂本をスタイリッシュにもてなさせるか(あるいはもてなされるか)」という、全く別の次元のゲームへと移行したことを意味していた。
「……勝手にしろ。だが、オレを巻き込むなよ」
オレはそれだけを言い残し、逃げるようにその場を立ち去った。
だが、背後から聞こえる坂柳の優雅な笑い声は、オレの平穏な生活がもはや完全に失われたという事実を、無慈悲なまでに告げていた。
オレは、封を開けたばかりの胃薬を、水なしでそのまま口の中に放り込んだ。
実力至上主義の教室は、もはやスタイリッシュという名の狂気によって完全に支配されてしまったのだ。