ようこそスタイリッシュ至上主義の教室へ   作:GC

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第27話「スタイリッシュな信者集め」

無人島と豪華客船での過酷な特別試験から数日が経過した。

 高度育成高等学校の敷地内には、初夏の気配を孕んだ生温かい風が吹き抜け、生徒たちの間には日常という名の緩やかな空気が戻りつつあった。

 オレたち新Cクラスの教室内も例外ではない。黒板の上に誇らしげに掲げられた『1-C』の真新しいプレートは、須藤や池、山内といったクラスの熱狂的信者たちにとって、毎朝拝むべき対象と化していた。彼らは登校するなりプレートに向かって深く一礼し、その後、教室の最後列の窓際――すなわち、坂本の席に向かってさらなる最敬礼を行うのが日課となっていた。

 

「おはようございます、坂本アニキ! 今朝も一段とクーレストな佇まいで!」

 

「アニキ、俺の持参した無農薬野菜の青汁、どうか受け取ってください! アニキの健康維持に貢献させてほしいんです!」

 

そんな騒がしい朝の喧騒の中、当の坂本はと言えば、彼らの一切の奇行をクラスメイトからの爽やかな朝の挨拶として完璧かつ謙虚に受け止めていた。

 

「おはようございます、須藤くん、池くん、山内くん。皆さんの活気に満ちた元気な挨拶は、朝の新鮮な空気にも勝る素晴らしい清涼剤ですね。青汁も、ありがたく頂戴いたします。大地の恵みは、大いなる学びの礎となりますから」

 

 坂本は決して偉ぶることなく、純白のハンカチでグラスの表面を優しく拭き上げると、その青汁をまるで極上のヴィンテージ・ワインでも嗜むかのような優雅な所作で飲み干した。その背筋は定規を当てたように真っ直ぐであり、喉仏の動きすらも黄金比に基づいているかのように美しく、そしてどこまでも礼儀正しかった。

 

 彼には自分の方が優位に立っているという驕りが一切ない。他者を見下す視線など微塵もなく、すべての人間に平等な敬意を払っている。だからこそ、その圧倒的な完成度が周囲の常識を狂わせていくのだ。

 

オレは自席で頬杖をつきながら、そのシュールすぎる光景を半ば思考放棄した状態で眺めていた。

 

(……相変わらず、異常な空間だ。だが、不思議と居心地が悪くないと錯覚し始めている自分が恐ろしい)

 

 オレは無意識のうちに胃の辺りをさすった。坂柳有栖からの間接的な宣戦布告を受けて以来、オレの胃壁は常に薄氷の上に立たされているような緊張状態にある。これ以上、新たな火種が生まれないことを祈るばかりだ。

 

だが、オレのそんなささやかな願いは、いつも決まって予想外の方向から打ち砕かれる。

 ふと視線を教室の隅に向けると、そこには、クラスの喧騒から一歩引いた場所で、おどおどと身を縮めている一人の女子生徒の姿があった。

 

 佐倉愛里。

 

 大きな丸眼鏡に、分厚い前髪。猫背気味の姿勢は、彼女が極度のコミュニケーション障害であることを雄弁に物語っている。普段から目立たず、誰とも関わろうとしない彼女だが、オレは知っている。彼女が裏で熱狂的なファンを持つグラビアアイドルであるという事実を。

 坂本がスタイリッシュな日常を送る中、ストーカー被害というスタイリッシュとは言えない状況に陥っていたところ、オレと一之瀬で救ったこともあった。坂本とは直接の絡みはなく、オレのなかでは、坂本の魔の手?を逃れている数少ないCクラスの生徒の認識だった。

 

 その佐倉が今、手持ちの鞄の陰から、こっそりと小型の高画質デジタルカメラを取り出し、そのレンズをある一点に向けていた。

 

(……はぁ、結局坂本、か)

 

 佐倉のレンズの先には、窓からの光を背に受け、姿勢正しく文庫本を読んでいる坂本の姿があった。

 無理もない。カメラという美を切り取るファインダーを通して世界を見ている彼女にとって、坂本という存在は、あまりにも完成されすぎた被写体だった。彼のすべての動作には一切の無駄がなく、どこをどう切り取っても、一流の芸術家が描き出した最高傑作のような構図が成立してしまう。

 

 佐倉の指が、震えながらシャッターボタンにかかる。

 彼女の頬は熱っぽく上気し、その瞳には、美しいものを捉えたいという純粋な芸術家としての渇望が宿っていた。

 

「……っ」

 

 しかし、極度の緊張からか。あるいは、坂本の放つ圧倒的なオーラに当てられたためか。

 佐倉の指先が滑った。

 

「あ……っ!」

 

 小さな悲鳴とともに、彼女の手から高価なデジタルカメラが滑り落ちる。

 硬い教室の床に向けて、重力に従って落下していく精密機器。佐倉の顔面が蒼白に染まり、彼女が絶望に目を閉じた、その瞬間だった。

 

――スッ。

 教室の空気が、一瞬だけ止まったように錯覚した。

 オレの動体視力をもってしても、それは唐突なワープのように見えた。

 先ほどまで窓際で本を読んでいたはずの坂本が、床からわずか数ミリという信じられないほどの低空姿勢で滑り込み、佐倉の足元に到達していたのだ。

 

――秘技:硝子のゆりかご(クリスタル・クレイドル)。

 

 それは、ただのキャッチではない。坂本は自らの制服のジャケットを瞬時に脱いで空中に展開し、それをパラシュートのように利用して自らの落下と滑り込みの速度を極限までコントロール。そして、床に激突する寸前のカメラを、ジャケットの柔らかい裏地の部分でふわりと受け止めたのである。

 衝撃は完全に殺され、カメラには傷一つ、いや、指紋一つ付いていない。

 

「お怪我はありませんか、佐倉さん」

 

 坂本は、片膝をついた騎士のような完璧な姿勢のまま、受け止めたカメラをそっと両手で包み込み、佐倉を見上げて穏やかに微笑んだ。その口調には、相手をからかうようなニュアンスは一切含まれていない。

 

「あ……え……? さ、坂本、くん……?」

 

 佐倉は、目の前で起きた物理法則を無視した現象を理解できず、ただ口をパクパクとさせている。

 

「大切なレンズが傷ついてしまっては、この学園の美しい景色を記録することができなくなってしまいますからね。どうぞ、お気をつけて」

 

 坂本は恭しく立ち上がると、純白のハンカチでカメラの周囲を優しく拭い、佐倉の両手へと丁寧に返還した。

 

「……っ! あ、ありがとう、ございます……!」

 

 佐倉の顔は、熟れたトマトのように限界まで赤く染まり、彼女はカメラを抱きしめたまま、逃げるように自分の席へと走り去ってしまった。しかし、その顔に浮かんでいたのは恐怖ではなく、圧倒的な美しさと優しさに触れた強烈な恍惚だった。

 

(……やれやれ。また一人、坂本教の信者が増えたか)

 

 オレは小さく溜息をついた。佐倉はこれまで、他者との関わりを極端に避けてきた。だが、坂本のあの圧倒的な無償の善意は、彼女の心の分厚い殻を、いとも容易く取り払ってしまったようだ。

 

昼休み。

 オレは、カフェテリアの喧騒の中にいた。

 一人で静かに食事を済ませるつもりだったが、今日のカフェテリアはいつも以上に奇妙な熱気に包まれていた。

 その原因は、言うまでもない。

 カフェテリアの中央、最も目立つ円卓。そこには、純白のナプキンを首から提げ、購買で買った三百ポイントの素うどんを、まるで三ツ星レストランの極上パスタのように優雅にフォークとスプーンで巻き取って食している坂本の姿があった。

 

「……あいつ、うどんをパスタ巻きにして食ってるぞ」

 

「でも、なんか違和感ないよな。むしろ、うどんが高級食材に見えてきた……」

 

 周囲の生徒たちが、遠巻きにざわめいている。

 だが、オレの注意を引いたのは、坂本そのものではなく、彼に向かって一直線に歩を進めていく一つの巨大な影だった。

 見上げるような長身。鍛え抜かれた筋肉質な肉体。そして、周囲の視線など一切意に介さない、傲岸不遜な笑みを浮かべた金髪の男。

 

 ――高円寺六助である。

 

彼は、かつて行われた全学年合同の体力測定の50メートル走において、自らの全速力の走りを、坂本に「反復横跳び(レペティションサイドステップ)」で並走されるという屈辱……いや、彼にとっては未知との遭遇を経験している。

 クラスの誰とも群れず、己の美学のみに従って行動するこの男が、自ら他者に歩み寄るなど、極めて稀な異常事態だった。

 

(……面倒なことにならなければいいが)

 

 オレは、飲みかけていた水のグラスを置き、二人の動向を注視した。

 

「フッ。相変わらず、興味深い食事の作法をしているね、スタイリッシュ・ボーイ。そうだ、君には改めて感謝をしないといけないねえ、無人島試験など早々にリタイアしようと思っていたが、おかげで快適を過ごすことができたよ、ここに座ってもいいかな?」

 

 高円寺は、坂本の向かいの席に優雅に腰を下ろした。彼の手には、特注の極厚ステーキが乗った鉄板が握られている。

 坂本は、フォークに巻き付けたうどんを口に運ぶ動作を止めず、視線を上げて高円寺を捉えた。

 

「高円寺くん。ええ、もちろんです。どうぞお掛けになってください。相席、歓迎いたします」

 

 坂本は全く動じることなく、極めて自然な敬意を持って高円寺を迎え入れた。

 

「美しい私の食事風景は、君のようなユニークな存在に見られることで、より一層の輝きを増すのだからね」

 

 高円寺は不敵に笑い、ステーキナイフを手に取った。

 二人の間には、一切の敵意はない。ただ、己の美学を絶対と信じて疑わない者同士の、極めて高次元な、そして周囲から見れば完全に意味不明な空間が形成されていた。

 

その時だった。

 

「きゃあっ!」

 

 カフェテリアの通路で、大きな悲鳴が上がった。

 一人の女子生徒が足をもつれさせ、手にしていたお盆を派手に宙へと放り出してしまったのだ。

 お盆の上に乗っていたのは、熱湯のように熱い大盛りのカレースープ。それが、放物線を描いて、あろうことか高円寺と坂本の座る円卓の真上へと降り注ごうとしていた。

 普通の高校生であれば、悲鳴を上げて逃げ惑うか、熱湯を浴びて火傷を負うかの二択である。

 しかし、そこに座っていたのは、この学校における二大イレギュラーだった。

 

「フッ、美しくないね」

 

 高円寺が動いた。彼は座ったままの姿勢で、右足を天高く跳ね上げた。彼のしなやかで強靭な脚力は、空中で反転しつつあったお盆の端を的確に蹴り上げ、カレースープの落下軌道を強引に捻じ曲げようとした。

 だが。

 

「おっと。危ないところでしたね」

 

 高円寺の足が届くよりも、コンマ数秒早く。

 坂本が動いていた。

 

――秘技:胡蝶の配膳(バタフライ・サービング)。

 

 坂本は、手にしていたうどんの鉢を左手で空中に放り投げると同時に、右手で自らの学生鞄の中から、なぜか『巨大な中華鍋』を取り出した。

 そして、一切の無駄のない動きで中華鍋を頭上で旋回させ、遠心力を利用して、降り注ぐカレースープの一滴残らずを鍋の中へと回収したのである。

 ジュワァァァッ! という小気味良い音とともに、カレーの香ばしい匂いが広がる。

 坂本はそのまま流れるような動作で、空中に放り投げていたうどんの鉢を左手でキャッチし、右手の中華鍋から熱々のカレースープを、うどんの上へと一滴の狂いもなく注ぎ込んだ。

 

「お怪我がなくて何よりです。少々スパイスが足りないと感じていたところでしたので、ちょうど良いアクセントになりました」

 

 坂本は、中華鍋を鞄にしまいながら(なぜあの鞄に中華鍋が入るのかという物理的な疑問は、オレはとうの昔に捨てることにしている)、完成したカレーうどんを見つめて静かに微笑んだ。

 

カフェテリアは、水を打ったような静寂に包まれた。

 お盆を落とした女子生徒は、熱湯を浴びるどころか、何が起きたのかすら理解できず、ただ床に座り込んで呆然としている。

 高円寺は、上げた右足をゆっくりと下ろし、目の前の坂本をじっと見つめた。

 彼の金色の瞳の奥に、明確な歓喜の色が宿るのを、オレは見逃さなかった。 

「……ハハッ。フハハハハハ!」

 

 高円寺は、突然、周囲の目など気にせずに高らかに笑い声を上げた。

 

「美しい! じつに美しい身のこなしだ、スタイリッシュ・ボーイ! 私の優雅な脚技を上回る速度で、熱湯を自らのランチのスパイスへと変えてみせるとはね。君はやはり、この退屈な学園において、私の目を唯一楽しませてくれる存在のようだ。卒業後は是非我が家の専属執事になりたまえ」

 

「お褒めの言葉、痛み入ります。ですが、高円寺くんの迷いなき足技も、まるで白鳥の舞のように洗練されていました。素晴らしい瞬発力ですね」

 

 坂本は、カレーうどんを優雅に啜りながら、敬意を込めて褒め返した。

 

「フッ、言うじゃないか。だがね、スタイリッシュ・ボーイ。この学園で最も美しく、最も完璧なのは、この私、高円寺六助だという真理だけは変わらない。君がどれほどスタイリッシュであろうとも、最後には私の輝きの前にひれ伏すことになるだろう」

 

 高円寺は、ステーキを一口で平らげると、立ち上がり、自らの金髪をかき上げた。

 

「今日のところは、君のそのカレーうどんの香りに免じて退散するとしよう。また会おう、美しきライバルよ」

 

 高円寺は、まるでオペラ座の舞台から去る俳優のように、優雅な足取りでカフェテリアを後にした。

 

(……ライバル、だと?)

 

 オレは、静かに頭を抱えた。

 高円寺六助。この学校のルールに一切縛られず、己の能力の底すら見せないあの男が、坂本をライバルとして認定してしまった。

 それは、ただでさえ予測不能な坂本の周囲に、さらなる予測不能な爆弾が配置されたことを意味している。Aクラスの坂柳有栖の執着に加え、高円寺六助の介入。

 オレの陰キャ生活は、もはや風前の灯どころか、ダイナマイトの導火線に火が点いたも同然だった。

 オレは、鞄の中から二シート目の胃薬を取り出し、ミネラルウォーターで一気に流し込んだ。

 

放課後。

 オレは、荒れた胃を休め、現実から目を背けるために、特別棟の奥にある図書室へと足を運んでいた。

 ここは生徒の出入りも少なく、静寂が約束された数少ない安全地帯だ。古い紙の匂いと、微かに聞こえる空調の音だけが、オレのささくれ立った神経を癒やしてくれる。

 オレは適当なミステリー小説を棚から抜き出し、窓際の席に座ろうとした。

 しかし、オレの目論見は、またしても完璧に打ち砕かれることとなった。

 

 

図書室の奥、文学コーナーの棚の前。

 そこには、一人の小柄な女子生徒がいた。

 Dクラス(旧Cクラス)の椎名ひよりである。

 

 彼女は、龍園が支配していたあのクラスにあって、唯一、その暴力的な空気に染まらず、ただひたすらに本を愛し続けている特異な生徒だった。銀色の髪を揺らし、常に穏やかな微笑みを絶やさない彼女は、本好きという共通点から、オレにとっても数少ない会話が成立する相手の一人だった。

 その椎名が今、背伸びをして、最上段の棚にある分厚い本を取ろうと悪戦苦闘していた。

 

「うーん……もう少し、なのに……」

 

 彼女の指先は本に触れているものの、引き出すだけの力が入らないようだ。

 オレが手助けに行こうかと腰を浮かせた、その瞬間。

 

――音もなく、彼がそこに現れた。

 

 坂本である。

 

 彼は一体いつから図書室にいたのだろうか。その手には、フランス語の原書らしき分厚い本が握られている。

 坂本は、悪戦苦闘する椎名の背後に静かに近づくと、彼女に声をかけることもなく、おもむろに自らの右足を、本棚の側面のわずかな突起へと掛けた。

 

――秘技:知識への階(ステアウェイ・トゥ・ノレッジ)。

 

 それは、忍者の壁走りをさらにスタイリッシュに昇華させた歩法だった。

 坂本は、本棚の側面に足を掛けるや否や、重力を無視したかのように、垂直な棚を三歩、無音で駆け上がった。そして、空中に滞空した状態のまま、椎名が取ろうとしていた最上段の本を左手で優雅に抜き取り、そのまま音もなく床へと着地したのである。

 着地の衝撃音はゼロ。図書室の静寂は一切破られていない。

 

「……え?」

 

 椎名が目を丸くして振り返ると、そこには、完璧な姿勢で本を差し出す坂本の姿があった。

 

「お探しの本はこちらでしょうか。高いところにある知識は、時に少しばかり背伸びを要求してくるものですからね。どうぞ」

 

 坂本は、抜き取った本――『ドストエフスキー全集』を、恭しく椎名へと手渡した。その態度はどこまでも紳士的で、彼女への配慮に満ちていた。

 

「あ……ありがとうございます。あの、あなたは坂本くんですよね……?船上でのピアノ、すごかったです。」

 

 椎名は、目の前で起きた信じがたい光景に瞬きを繰り返しながらも、その本を大切そうに胸に抱いた。

 

「はい、新Cクラスの坂本と申します。名乗るほどの者ではありません。ただの、通りすがりの本を愛する生徒の一人です」

 

 坂本は微笑み、自らの持っていたフランス文学のページをめくった。

 

「坂本くん……。ふふっ、なんだか、本の中の魔法使いみたいですね。私、Dクラスの椎名ひよりと言います。本が、お好きなんですか?」

 

 椎名の瞳が、キラキラと好奇心に輝いている。

 

「ええ。活字は心のオアシスですからね。素晴らしい作品との出会いを邪魔してしまっては無粋です。ゆっくりと、文字の海をお楽しみください」

 

「はい! あの、もしよかったら、坂本くんの読んでいる本のお話も、聞かせてもらえませんか?」

 

二人は、そのまま図書室の奥のテーブルに向かい、静かに、しかし熱を帯びた文学談義を交わし始めた。

 椎名ひより。龍園でさえ彼女の読書を邪魔することは避けていたという、ある意味での不可侵領域。

 その彼女が、坂本の圧倒的なスマートさと本への敬意の前に、いとも容易く心を開いてしまった。

 彼女はDクラスにおける重要なブレインになり得る存在だ。その彼女が坂本に好意(読書仲間としてではあるが)を抱いたことは、今後のクラス間の情報戦において、全く予想のつかない化学反応を引き起こすことになるだろう。

 

オレは、手に持っていたミステリー小説を、静かに元の棚へと戻した。

 もはや、図書室すらもオレの安息の地ではなくなってしまった。

 坂本の存在は、この学校のあらゆる場所、あらゆる生徒たちの間に静かに、そして確実に浸透し始めている。

 

 佐倉愛里の孤独な殻を取り払い、高円寺六助の美学に火をつけ、椎名ひよりの知的好奇心を満たす。

 彼には派閥を作るとか味方を増やすといった政治的な意図や、相手を支配しようという驕りは一切ない。ただ純粋に、謙虚に、己のスタイリッシュな美学に従って目の前の人間に最高のもてなしを提供しているだけだ。

 

 だからこそ、タチが悪い。

 誰も彼の善意を否定できず、誰も彼の魅力に抗えない。

 オレは、窓ガラスに映る酷く疲れた自分の顔を見つめながら、深く、深く溜息をついた。

 

「……いっそ、オレもあのカレーうどんを食えば、この胃痛から解放されるのだろうか」

 

 そんな馬鹿げた考えが頭をよぎるほどに、オレの精神は摩耗していた。

 学校全体の勢力図が、ポイントや実力ではなく坂本のホスピタリティを中心とした全く別の形へと変貌しつつあることを、オレは誰よりも理解していたのだから。

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