その数日後の放課後。
初夏の陽射しが、高度育成高等学校の校舎を黄金色に染め上げていた。
オレは、日課となっているいかに誰とも関わらずに学生寮へ帰還するかというステルス・ミッションを遂行すべく、人通りの少ない裏庭のルートを選択して歩を進めていた。
だが、この学校において、オレの予測がオレの望む通りに機能したことなど、入学以来ただの一度も存在しない。
裏庭の木漏れ日が落ちる石畳の小道。その中央に、まるで西洋の絵画から抜け出してきたかのような、極めて異質な空間が形成されていた。
純白のレースが掛けられたガーデンテーブル。その上には、アンティーク調のティーセットと、三段のティースタンドに盛られた色鮮やかなマカロンやサンドイッチ。
そして、そのテーブルを挟んで向かい合う、二人の人物。
一人は、銀色の髪を風に揺らし、優雅にティーカップを傾けるAクラスのリーダー、坂柳有栖。
もう一人は、背筋を完璧に伸ばし、黒縁メガネの奥の涼しげな瞳で彼女を見つめる男
――我がCクラスの規格外、坂本であった。
(……見なかったことにしよう)
オレは即座に踵を返し、来た道を無音で引き返そうとした。
Aクラスのトップと、クラスの常識を破壊し尽くす男の密会。どう考えても、オレのようなモブ生徒が関わっていいイベントではない。近づけば最後、オレの胃壁は間違いなく致命的なダメージを受ける。
だが。
「あら、綾小路くん。そんなに急いでどちらへ行かれるのですか?」
背後から、鼓膜を直接撫でるような、甘く、そして逃げ道を完全に塞ぐ冷酷な声が響いた。
オレは、機械仕掛けの人形のようにゆっくりと振り返った。
坂柳はステッキをテーブルに立てかけ、底知れない笑みを浮かべてオレを見つめていた。その傍らには、深い隈を作った神室真澄が、死んだ魚のような目で「あんたも巻き込まれなさいよ」とでも言いたげにこちらを睨んでいる。
「……ただの散歩だ。邪魔をするつもりはない」
オレが適当な言い訳を口にするより早く、テーブルの席についていた坂本が、静かに立ち上がった。
「これは綾小路くん。素晴らしい偶然ですね」
坂本は、オレに向かって恭しく一礼をした。その所作には、一切の嫌味も、偉ぶるような傲慢さもない。ただ純粋に、友人と出会えたことを喜ぶ、完璧な紳士の振る舞いだった。
「坂柳さんから、心温まるティーパーティーのご招待をいただきましてね。素晴らしい茶葉の香りを堪能させていただいているところです。もしお時間が許すのであれば、綾小路くんもご一緒にいかがですか? 美しい午後のひとときは、良き級友と分かち合うことで、より一層の輝きを増すものですから」
坂本は、あまりにも純粋な善意と敬意を込めて、オレに席を勧めてきた。
断れるはずがなかった。
坂柳の逃がしませんよという視線と、坂本のもてなしの心が完全に包囲網を形成している。ここで拒絶すれば、逆に彼らの注意をさらに深く引き寄せることになる。
「……少しだけなら、付き合わせてもらう」
オレは諦めの溜息を飲み込み、坂本の隣に用意された(なぜか最初から三脚目の椅子があった)席に、重い腰を下ろした。
「ふふっ。歓迎しますよ、綾小路くん」
坂柳は満足げに微笑むと、神室に目配せをした。神室は舌打ちを一つしてから、オレの前に新しいティーカップを置き、紅茶を注いだ。
「さて、坂本くん」
坂柳は、カップの縁を指でなぞりながら、楽しげに目を細めた。
「無人島、そして船上での試験では、見事な立ち回りでした。あなたのその予測不能な行動には、私でさえ驚かされることばかりでしたよ。ですが……私は、まだあなたのことを何も知らない。だからこそ、今日はこうして、親睦を深めるためのささやかな遊戯をご用意させていただいたのです」
「遊戯、ですか」
坂本は、微かに口角を上げた。
「ええ。ただお茶を飲むだけでは、少々退屈でしょう? ですから、少し体を動かしてみませんか」
坂柳が指を鳴らすと、神室が裏庭の茂みの奥から、木製の奇妙な道具をいくつか運び出してきた。
長い柄のついた木槌と、色鮮やかな木製のボール。そして、地面に突き刺すための小さな金属製の門だった。
「クロッケー、ですか」
坂本が、メガネのブリッジを中指で押し上げながら静かに呟く。
「ご存知ですか? イギリス発祥の、非常に紳士的で優雅なスポーツです。ボールを打ち、すべての門をくぐらせてゴールを目指す。……とてもシンプルですが、相手のボールを弾き飛ばすことも許されている、奥深い競技ですよ」
坂柳の目は、完全に獲物を前にした肉食獣のそれだった。
彼女は、この優雅なスポーツを利用して、坂本に揺さぶりをかけるつもりだ。ルールのある競技の中で、彼がいかにしてそのスタイリッシュさを維持するのか、あるいは泥に塗れて無様な姿を晒すのか。それを特等席で観察するための、悪意に満ちた遊戯。
「いかがですか、坂本くん。私と、一勝負。もちろん、私が勝った暁には、あなたのその……常に完璧な立ち振る舞いの秘密を、少しだけ教えていただきたいのですが」
坂柳の挑発に対し、坂本は一切の不快感を示すことなく、むしろ深い敬意を込めて深く一礼した。
「光栄なご提案です、坂柳さん。淑女からの誘いをお断りするのは、紳士の風上にも置けません。それに、大自然の空気を胸いっぱいに吸い込みながらの競技は、心身に素晴らしい活力を与えてくれることでしょう。謹んで、お受けいたします」
坂本は、その言葉に一切の裏表を含ませていなかった。彼は本当に、この状況を親睦を深めるための健全なスポーツの誘いとして完璧に受け止めているのだ。
数分後。
裏庭の芝生の上に、即席のクロッケーのコースが完成した。
プレイヤーは坂本と、坂柳の代理としてマレットを握る神室。そして、審判兼観客としてオレと坂柳が見守るという構図だ。
「……なんで私が、こんな茶番に」
神室は酷く不機嫌そうに呟きながら、スタートラインにボールを置いた。
「真澄さん、手加減は無用ですよ。彼がどれほど華麗にボールを打つのか、じっくりと拝見させていただきましょう」
坂柳は、日傘の下で優雅に紅茶を啜りながら指示を出す。
「先行は神室さん、どうぞ。レディファーストは世界の共通言語ですからね」
坂本は、マレットを杖のように美しく持ちながら、神室に道を譲った。
神室は舌打ちをすると、思い切りマレットを振り抜いた。カーン!という乾いた音と共に、ボールは真っ直ぐに転がり、一つ目、二つ目のフープを見事に通過した。彼女の高い運動神経が窺える見事なショットだ。
「では、私の番ですね」
坂本が、静かにスタートラインに立つ。
彼の立ち姿は、まるで一流のプロゴルファー、いや、宮廷で王族に作法を教える指南役のように洗練されていた。
オレは息を呑んだ。クロッケーは、ボールを打つ強さと角度を正確に計算する緻密なスポーツだ。いくら坂本が身体能力に優れていようと、経験がなければコントロールは難しいはずだ。
坂本は、マレットを振り上げた。
――そして、ありえない角度でそれを振り下ろした。
ダァァァン!!
鈍い衝撃音が響き渡る。
坂本のマレットは、ボールの真上を強烈に叩きつけていた。
「なっ……!?」
神室が驚きの声を上げる。ボールは、叩きつけられた反発力によって地面から垂直に跳ね上がり、空高く舞い上がった。
――秘技:天空の軌跡(セレスティアル・アーチ)。
空中に跳ね上がったボール。坂本は、そのボールが落ちてくるタイミングに合わせて、自らの体を独楽のように高速回転させた。そして、遠心力を極限まで乗せたマレットの側面で、空中のボールを真横から正確に打ち抜いたのである。
ピシャァァン! という、もはや木製とは思えない炸裂音。
空中で打たれたボールは、芝生の上を転がるのではなく、地上わずか数センチという超低空飛行を維持したまま、一直線にコースを駆け抜けていく。
一つ目のフープ。二つ目のフープ。三つ目のフープ。
ボールは一切地面に触れることなく、まるで糸で引かれているかのように正確にすべてのフープのど真ん中を通過し、そのままゴールポストに「カツン」と美しい音を立てて命中した。
沈黙。
神室は口を半開きにしたまま硬直しており、日傘の下の坂柳でさえ、目を丸くして持っていたティーカップの動きを止めていた。
「……素晴らしいコース設計ですね、坂柳さん。フープの配置に、計算し尽くされた黄金比を感じました。おかげで、風の抵抗を利用した美しい放物線を描くことができました」
坂本は、マレットを杖のように地面に突き、乱れ一つない呼吸のまま、深く、そして謙虚に一礼した。
「ば、馬鹿じゃないの!? ボールを空中で打つなんて、そんなルール……!」
神室が我に返り、抗議の声を上げる。
しかし。
「……いえ。クロッケーの公式ルールにおいて、『ボールを浮かせてはならない』という規定は存在しません」
坂柳が、震える声で呟いた。彼女の顔には、苛立ちではなく、見たこともないほどの深い歓喜と興奮が浮かんでいた。
「素晴らしい……。本当に、素晴らしいです、坂本くん。物理法則を味方につけ、大気をキャンバスにして自らの軌跡を描く。私の用意した盤上……いえ、このささやかな遊び場を、一瞬にして極上の芸術へと昇華させてみせるとは」
「過分な評価をいただき、恐縮の至りです。ですが、真に美しいのは、この穏やかな時間と、それを演出してくださった貴女の心遣いそのものです」
坂本は、どこまでも誠実に、坂柳の悪意ある遊戯を至高のもてなしとして肯定し、感謝の意を述べた。
その一切の傲慢さを持たない、純度百パーセントの敬意と謙虚さ。
それが、坂柳有栖という天才のプライドを、最も美しい形で完全に打ち砕いた瞬間だった。
「ふふっ……あはははは!」
坂柳は、ついに堪えきれなくなったように、肩を震わせて高らかに笑い始めた。
「負けました。本日のティーパーティーは、私の完全な敗北です。坂本くん、あなたは本当に……私がこれまで出会ってきた誰よりも、美しく、そして底知れない方ですね」
「勝敗などという概念は、この紅茶の芳醇な香りの前では無粋というものです。我々はただ、共に良き時間を共有した。それだけで十分ではありませんか」
坂本は静かに微笑み、テーブルの上のティーポットを手に取ると、坂柳の空になったカップに、一切の音を立てずに完璧な温度の紅茶を注ぎ足した。
「……ええ。そうですね。今日は、極上の時間をいただきました。ですが、坂本くん。私の知的好奇心は、ますますあなたに惹きつけられてしまいました。いずれまた、別の形でお誘いさせていただきますね」
「いつでも喜んで。貴女からの招待状であれば、嵐の中であろうと馳せ参じましょう」
二人の間に流れる、常人には決して理解できない、高度に洗練された空気。
オレは、静かにポケットから胃薬のシートを取り出し、指先で錠剤を押し出した。
(……結局、今回もオレは何一つ介入できなかった)
坂柳有栖の仕掛けた罠は、坂本の圧倒的な身体能力と、何よりもその底抜けに謙虚なホスピタリティの前に、完全に浄化されてしまった。
彼には、他者を打ち負かそうという意思がない。ただ、目の前の事象に対して最もスタイリッシュで、最も敬意に満ちた対応をしているだけだ。
だからこそ、最強なのだ。
実力至上主義という、ポイントと策謀で構築されたこの学校のシステムは、坂本という絶対的な美学の体現者の前では、もはや意味をなさない。
オレは、水なしで胃薬を飲み込みながら、初夏の青空を見上げた。
明日もまた、この男によって引き起こされるであろうスタイリッシュな異常事態に、オレの胃壁がどこまで耐えられるのか。
その答えは、神のみぞ、いや、坂本のみぞ知るところであった。