ようこそスタイリッシュ至上主義の教室へ   作:GC

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第3話「スタイリッシュな空の旅」

カゴに入れた無難なシャンプーと歯ブラシ、それに少々の食料品を持って、オレは無人のレジへと向かった。

 

先ほどまで龍園たちが放っていた、あの爬虫類のような暴力的なプレッシャーは嘘のように消え去り、巨大なコンビニエンスストアの店内には再び新入生たちの浮かれた喧騒が戻ってきている。実力至上主義という過酷なルールが裏に隠されているとも知らず、与えられた10万ポイントというかりそめの全能感に酔いしれるDクラスの生徒たち。

 

その喧騒の中で、レジ打ちを担当している上級生らしき女子生徒だけが、異質な静寂の中にいた。

彼女の視線は、手元のレジスターでも、次に並んでいるオレの顔でもなく、レジ横のスペースに恭しく飾られた白い折り紙の鶴に釘付けになっていたのだ。

 

「……あの、お会計を」

 

「えっ? あ、はい! 失礼しました!」

 

オレが声をかけると、彼女はビクッと肩を震わせ、慌ててオレの商品をスキャンし始めた。しかし、その頬は微かに朱に染まっており、視線はチラチラと純白の鶴へと泳いでいる。

 

それは、先ほど坂本が0円のレシートを流れるような手つきで折りたたみ、無言で残していったものだ。ただの感熱紙のゴミが、坂本の手を経由したというだけで、まるで一流の芸術作品か、あるいは意中の相手からのラブレターであるかのように、彼女の心を奪い去ってしまったらしい。

 

「ポイントで払う」

 

オレは手元の学生証端末をリーダーにかざし、早々に会計を済ませた。余計なトラブルや目立つ事態は御免だ。オレの根源的な目的は、あくまで平穏な隠キャ生活を送ることなのだから。

 

店外に出ると、5月の生温かい風が頬を撫でた。太陽はゆっくりと西へ傾き、高度育成高等学校の広大な敷地をオレンジ色に染め上げ始めている。

学生寮へと続く並木道を歩き出すと、前方に見覚えのある後ろ姿があった。

 

坂本だ。

 

彼は、右手で無料支給品の無機質なペットボトルを軽く握り、左手にはラベルのない純白の石鹸が一つだけ入った、ペラペラの薄い透明なレジ袋を提げている。たったそれだけの、端から見れば極貧としか言いようがない出で立ちであるにも関わらず、彼の歩く姿勢はランウェイを歩くトップモデルのように洗練されていた。背筋は定規を当てたように真っ直ぐで、足音一つ立てない。

 

オレは無意識のうちに、彼との距離を一定に保ちながらその後を追う形になっていた。

 

「綾小路くん」

 

不意に、横から冷ややかな声がかかった。

振り返ると、長い黒髪を夕風に揺らす少女——堀北鈴音が立っていた。彼女もまた、生活用品の入った袋を提げている。他者との交流を徹底的に拒絶する彼女が、自らオレに声をかけてくるというのは珍しい。

 

「奇遇だな、堀北。お前も買い出しか」

 

「ええ。最低限の生活必需品をね。……それよりも、あれは何なの?」

 

堀北の鋭い眼光が向いている先は、もちろん、前方を優雅に歩く坂本だった。

 

「あれ、と言われてもな。見ての通り、同じDクラスの坂本だ。無料の石鹸と水を手に入れて、ご満悦らしいぞ」

 

「私が聞いているのはそういうことじゃないわ」

 

堀北は不愉快そうに眉をひそめた。

 

「あの龍園という男……Cクラスのリーダー格らしく、入学早々かなり強引な手段で他クラスを威圧して回っていると聞いたわ。先ほど、店内で彼が坂本くんに絡んでいるのが見えた。私は関わり合いになりたくないから遠くから見ていただけだけれど……何が起きたの? 龍園が、まるで幽霊でも見たかのような顔で逃げ帰っていくのが見えたわ」

 

「さあな。ただのすれ違いじゃないか? オレはよく見ていなかった」

 

オレは適当にごまかした。坂本の「秘技:白鳥の湖(スワン・レイク)」などという、物理法則を無視した遠心力コントロールを馬鹿正直に説明したところで、合理主義の塊である堀北が信じるはずもない。

 

「ふん、隠し立てするならそれでもいいわ。でも、あの男は異常よ。Dクラスの生徒はどこか欠陥のある不良品ばかりだと思っていたけれど、彼はベクトルが違う。」

 

堀北が冷徹な評価を下した、まさにその瞬間だった。

 

「危ねえっ!!」

 

グラウンドの方角から、切羽詰まった大声が響いた。

声の主は、Dクラスの須藤だ。彼の周囲には、坂本を「アニキ」と崇める池と山内——通称、さんばかの姿もある。彼らはグラウンドの端で、バスケットボールではなく、なぜか硬式の野球ボールを使ってキャッチボールの真似事をして遊んでいたらしい。

須藤の暴投によって手を離れた白球が、フェンスを越え、ものすごい勢いでこちらへ飛来してくるのが見えた。

 

ボールの軌道は、一直線に堀北の顔面へと向かっていた。

 

「え……?」

 

堀北が硬直する。避けるには遅すぎる。オレが手を伸ばして弾き落とすことは物理的には可能だが、それをすればオレの異常な身体能力を堀北に露呈してしまう。どうするか——。

オレがわずかに筋肉を緊張させた、その時だ。

 

「——秘技:透明なるゆりかご(クリア・クレイドル)」

 

凛とした声が響き渡った。

前方十数メートルを歩いていたはずの坂本が、いつの間にかオレと堀北の目の前に滑り込んできたのだ。いや、滑り込んできたという表現は正確ではない。彼は、手に提げていた薄い透明なレジ袋の取っ手を指先で弾き、袋ごと空中で高速回転させていた。

 

ヒュンッ! という風を裂く音。

飛来した硬球は、坂本の顔面を直撃する寸前で、回転するレジ袋の口の中にすっぽりと吸い込まれた。

ドスッ、という鈍い衝撃音。通常であれば、無料の石鹸が一つ入っているだけの薄っぺらいビニール袋など、硬球の威力で容易く引き裂かれ、石鹸ごと粉砕されてしまうはずだ。

 

だが、違った。

坂本はボールが袋に入った瞬間に手首を返し、袋全体を振り子の要領で自身の背中側へと大きくスイングさせたのだ。ボールの持つ圧倒的な運動エネルギーは、袋の遠心力と、中にあった無料の石鹸の滑りによって完全に相殺され、袋の中でコロコロと無害な音を立てて静止した。

 

「……っ!」

 

堀北は目を見開き、言葉を失っていた。

オレも内心で驚愕を禁じ得なかった。袋が破れなかったのは、ボールが直接ビニールに触れる前に、中の石鹸の表面を滑らせて摩擦を極限まで減らし、運動エネルギーを回転運動へと変換したからだ。コンマ一秒の判断と、神業のような力学のコントロール。坂本は常に真剣であり、彼の奇行はすべて高度な技術によって成立している。

 

「坂本さぁぁぁん!!」

 

遠くから、須藤、池、山内の三馬鹿が血相を変えて駆け寄ってきた。

 

「す、すんません! 俺のコントロールが悪くて……って、うおおおっ!? アニキ、ボールを袋でキャッチしたんすか!?」

 

「マジっすか、すげええええ!!」

 

「神業っす……!」

 

さんばかの三人は、坂本の行動を神の御業と崇める忠実な信者としての役割を遺憾なく発揮し、その場に土下座せんばかりの勢いで平伏した。

当の坂本は、乱れ一つない七三分けの髪を夕風になびかせながら、袋の中から無傷の硬球を取り出し、恭しく須藤へと差し出した。

 

「落とし物ですよ、須藤くん。球技は少年の特権ですが、地球という名の巨大な球体の上で遊んでいるという事実を忘れてはいけません。重力への感謝と、周囲への配慮。それらを併せ持ってこそ、真のスポーツマンと言えるでしょう」

 

「アニキ……! 深え……! 深すぎるッス!」

 

須藤たちは感涙にむせびながらボールを受け取り、何度も頭を下げてグラウンドへと戻っていった。彼らは坂本のいかなる行動も、すべて善意や深い教えとして受け取ってしまうようだ。

 

「……なんなの、今の」

 

ようやく我に返った堀北が、震える声で呟いた。

 

「マジック……? いいえ、そんなわけない。でも、あんなこと……」

 

「お怪我はありませんでしたか、堀北さん」

 

坂本は振り返り、何事もなかったかのように微笑んだ。彼にとっては、今の超絶技巧も日常の延長線上に過ぎないのだ。坂本の秘技は、不自然に乱用するものではなく、彼にとっては日常の動作である。

 

「え、ええ。……助けてもらったことには、一応感謝するわ。でも、どうやったの?」

 

「どう、とは?」

 

坂本は不思議そうに小首を傾げた。

 

「空から降ってきた恵みを、袋で受け止めた。ただそれだけのこと。スーパーのタイムセールにおいて、大根をカゴに収める主婦の方々のあの神速の身のこなし……それに比べれば、僕などまだまだ未熟なヒヨッコに過ぎません」

 

一切のふざけた様子はなく、坂本は極めて真剣に答えた。

堀北は頭痛を堪えるようにこめかみを押さえた。

 

「……そう。もういいわ。理解しようとした私が馬鹿だったみたい」

 

「やれやれ、オレたちも早く寮に帰ろう。日が暮れる」

 

これ以上、坂本の異常性に巻き込まれるのは得策ではないと判断し、オレは歩みを早めた。

 

やがて、真新しい学生寮のロビーへと到着した。

オートロックの自動ドアを抜け、エレベーターホールへと向かう。夕方のこの時間は、買い出しや部活帰りの生徒が集中するため、三基あるエレベーターの前にはすでに数人の人だかりができていた。

 

「チッ、混んでやがるな」

 

舌打ちをしたのは、オレたちの少し前に並んでいたCクラスの生徒たちだ。どうやら、彼らも先ほどのコンビニでの一件を遠巻きに見ていたらしく、坂本の姿を視界の端に捉えるなり、忌々しそうに顔を背けた。

 

やがて、「チンッ」という軽快な音と共に、中央のエレベーターの扉が開いた。

待っていた生徒たちが次々と乗り込んでいく。オレ、堀北、そして坂本もその流れに乗ってエレベーター内へと足を踏み入れた。

だが、不運なことに、オレたちが乗り込んだ直後に、後から駆け込んできた上級生数名が無理やり乗り込んできた。

 

「わりぃ、乗せてくれ!」

 

その瞬間。

 

『ブーッ、ブーッ』

 

無機質な重量オーバーのブザーが、狭い箱の中に鳴り響いた。

定員は9名。しかし、現在乗り込んでいるのはオレたちを含めて10名だ。

気まずい沈黙が流れる。

 

一般論で言えば、最後に乗り込んだ上級生か、あるいはドアの最も近くにいる者が降りるべきだろう。しかし、ここは実力至上主義の学校。上級生は当然のように居座り、周囲の下級生たちに「誰か降りろよ」という無言の圧力をかけている。

 

「……私が降りるわ」

 

面倒事を嫌う堀北が、小さくため息をついて一歩足を踏み出そうとした。

その時である。

 

「――お待ちを」

 

坂本が、凛とした声で堀北を制した。

 

「坂本くん?」

 

「女性を降ろして自分たちが安逸を貪るなど、英国紳士の風上にも置けない。ここは、僕が」

 

そう言って、坂本がエレベーターから降りるのかと思った。

違う。

彼は降りなかった。

その代わり、彼はエレベーターの壁面に設置されている手すりを両手でしっかりと握りしめた。

 

「……何をする気?」

 

堀北がいぶかしげに尋ねる。

次の瞬間、坂本は静かに息を吸い込み、両腕の筋肉をわずかに収縮させた。

 

「——秘技:無重力空間(ゼロ・グラビティ・ホールド)」

 

フワリ。

坂本の両足が、エレベーターの床から完全に離れた。

彼は手すりを軸にして全身の筋肉を硬直させ、自らの体を空中でピタリと水平に保ったのだ。体操競技の吊り輪で見られる十字懸垂や水平支持に似ているが、それをこの狭いエレベーター内で、しかも制服姿で、一切の力みを感じさせない優雅な微笑みを浮かべながら行っている。

 

その姿は、まるで無重力空間を漂う宇宙飛行士か、あるいは壁面に描かれた美しい壁画のようだった。

だが、問題はそこではない。

 

『ブーッ、ブーッ……』

 

鳴り続けていたブザーの音が、突如として鳴り止んだのだ。

 

「は……?」

 

上級生の一人が、間の抜けた声を漏らした。

オレもまた、自らの目を疑った。

エレベーターの重量センサーは、床面にかかる荷重を計測している。坂本が床から足を離し、壁面の手すりに体重を預けたことで、床面のセンサーにかかる荷重が減り、規定重量内に収まった……?

 

いや、待て。物理法則を舐めるな。

手すりはエレベーターの筐体の一部だ。手すりにぶら下がろうが、床に立とうが、エレベーター全体にかかる彼自身の体重が消滅するわけがない。重量センサーが筐体全体を支えるワイヤーの張力を計測しているタイプであれば、こんなトリックは絶対に通用しないはずだ。

 

もし通用したのだとすれば、このエレベーターのセンサーが床下の圧力のみを計測する旧式であったという奇跡的な幸運か、あるいは——坂本が手すりを握った瞬間、上方へ向かって常軌を逸した引き上げる力を持続的に発生させ、自らの体重分のベクトルを相殺し続けているかのどちらかだ。

 

坂本の涼しげな横顔を見る限り、後者である可能性が極めて高い。彼は今、自らの腕力だけで、己の体重という重力に逆らい続けている。しかも、涼しい顔で。

ウィーン、というモーター音と共に、エレベーターの扉が静かに閉まり、上昇を始めた。

 

箱の中は、完全なる沈黙に支配されていた。

 

上級生たちも、堀北も、そしてオレも。空中に水平に浮遊したまま、無料のペットボトルを腹の上にバランス良く乗せている男の姿を、ただ呆然と見つめることしかできなかった。

 

「……快適な空の旅ですね。気流も安定しているようですね」

 

坂本は宙に浮いたまま、誰に言うともなく静かに呟いた。

誰も突っ込めない。誰も彼のこの異常な空間支配を論理的に解体できない。

 

「……」

 

堀北は完全に目を閉じ、現実からの逃避を選択したようだった。

オレは、静かに階数表示のデジタル数字を見つめた。

 

やれやれ。

この学校で生き残るために必要なのは、学力でも身体能力でもなく、坂本の引き起こすスタイリッシュな怪奇現象に対するスルースキルなのかもしれない。

そう結論付けたオレは、静かに息を吐いた。

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