ようこそスタイリッシュ至上主義の教室へ   作:GC

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第30話「カオス」

 生徒会長である堀北学という、この高度育成高等学校における絶対的な権力の象徴すらもが、一杯の抹茶と異常なまでのホスピタリティの前に矛を収めてから数日。

 

「……っ、ふぅー。大地の息吹が、俺の丹田を満たしていくのを感じるぜ……」

 須藤健が、もはや不良の面影を完全に消し去った座禅姿で、朝から教室の後方で深く息を吐き出している。池と山内もまた、坂本の机の周囲を塵一つ残さないように磨き上げ、彼を迎え入れるための完璧な結界を構築していた。いつもの風景である。

 

 そんな狂信的な光景を、オレ――綾小路清隆は自席から死んだ魚のような目で眺めていた。

 

 視線を教室の前方に向けると、クラスのアイドル的存在である櫛田桔梗が、女子生徒たちに囲まれながら天使のような微笑みを振りまいていた。

 

「うんっ、大丈夫だよ! 次のテストもみんなで一緒に頑張ろうね!」

 

 その声は甘く、誰の耳にも心地よく響く。だが、オレの観察眼は、彼女の瞳の奥に渦巻く、どす黒く煮えたぎったマグマのような苛立ちを正確に捉えていた。

 

(……そろそろ、限界かもしれないな)

 

 櫛田は、誰よりも他者からの承認と自分への注目に依存している。だというのに、現在のクラスの話題の中心は、良くも悪くもすべて坂本に持っていかれている。不良たちを従順な修行僧に変え、龍園を穏やかな老人のように浄化し、あろうことか生徒会長にまで一目置かれる存在。

 櫛田にとって、自分がコントロールできない存在がクラスのヒエラルキーの頂点に君臨することは、耐え難いストレスであるはずだった。

 

 放課後。

 オレは、誰にも告げずに教室を後にした櫛田の背中を、一定の距離を保ちながら尾行していた。彼女の歩みは、普段の軽やかなそれとは異なり、重く、そして怒りに満ちていた。

 向かった先は、監視カメラの死角となっている旧校舎の裏手。雑草が生い茂り、普段は誰も寄り付かない薄暗い場所だ。

 

「……あぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!!」

 

 静寂を切り裂くような、おぞましい絶叫が響き渡った。

 物陰から覗き込むと、そこには普段の天使のような笑顔を完全に脱ぎ捨て、夜叉のような形相でコンクリートの壁を蹴り飛ばす櫛田桔梗の姿があった。

 

「なんなのよ! なんなのよアイツ! なんで生徒会長にお茶なんて出してんのよ! なんでそれが許されてんのよ! 頭おかしいんじゃないのぉぉぉっ!?」

 

 ガンッ! ガンッ! と、容赦のないローキックが壁に突き刺さる。

 

「龍園も龍園よ! ハーブティー飲んで『愛と平和』とか言ってんじゃないわよこのポンコツ不良が! 私の! 私が築き上げた完璧なポジションが、あのメガネのせいで全部台無しじゃないのよぉぉっ!」

 

 彼女の抱えていたストレスは、すでに致死量を超えていたのだろう。吐き出される暴言の数々は、オレが以前屋上で目撃した本性よりも、遥かに凄惨でドス黒いものだった。

 オレは深く息を吐き、これ以上の観察は無意味だと判断して引き返そうとした。

 だが。

 

――タタンッ、タタンッ。タタタタタタンッ。

 

 旧校舎裏の淀んだ空気を切り裂くように、ひどく軽快で、そして異様に情熱的な打楽器の音が鳴り響いた。

 

「……は?」

 

 暴言を吐き続けていた櫛田の動きが、ピタリと止まる。

 オレは、信じられないものを見る目で音の出所を見た。

 

 そこには、いつからそこにいたのか、背筋を定規で測ったように真っ直ぐに伸ばし、両手に木製の『カスタネット』を構えた坂本の姿があった。

 

「……さ、坂本、くん……?」

 

 櫛田の顔から、完全に血の気が引いている。自分の最も見られたくない裏の顔を、よりにもよって最も忌み嫌う相手に見られたのだ。その絶望感は計り知れないだろう。

 

 だが、坂本はカスタネットを鳴らす手を止めず、ふわりと、どこまでも優雅な微笑みを浮かべた。

 

「素晴らしいパッションですね、櫛田さん」

 

「……え?」

 

「内に秘めたる熱き魂の叫び。そして、大地を踏み鳴らす力強いステップ。アンダルシアの風を感じさせる、実に情熱的な『フラメンコ』です」

 

「…………はぁ?」

 

 櫛田の口から、間抜けな声が漏れた。

 坂本は、彼女のドス黒い暴言と壁への蹴りを、怒りや本性として微塵も認識していなかった。彼という異常な精神のフィルターを通せば、櫛田のヒステリーは『芸術的なフラメンコの自主練習』へと、完全にスタイリッシュに誤認されてしまうのだ。

 

「孤高の踊り子に、無音の舞台は似合いません。微力ながら、私が伴奏を務めさせていただきましょう。さぁ、あなたのその美しい魂のステップを、私に刻み込んでください」

 

――タラララララッ! タンッ!

 坂本の両手で、カスタネットがプロの奏者すら青ざめるほどの超絶技巧で鳴り響く。

 

【秘技:情熱の伴奏者(パッション・アコースティック)】。

 

 彼の奏でるリズムは、ただの打楽器の音を超越し、聴く者のDNAに直接「踊れ」と命令を下すような、恐ろしいまでの引力を持っていた。

 

「ち、違うっ! 私のは別に踊りなんかじゃ……っ!」

 

「恥じることはありません。さぁ、情熱のままに!」

 

「ひぃっ!?」

 

 圧倒的なカスタネットのリズムと、坂本の放つ異常な気迫に呑まれ、櫛田の足が、無意識のうちに「タタンッ」とステップを踏んでしまう。いや、坂本のリズムがあまりにも完璧に彼女の挙動を先読みし、乗せているのだ。

 

 その時だった。

 

「櫛田さん? こんなところでどうしたん……えっ?」

 

 不意に、旧校舎の角から爽やかな声が響いた。

 新Cクラスのまとめ役であり、誰よりもクラスメイトを気遣う好青年――平田洋介だ。彼は、最近のクラスの異常な空気に悩む櫛田を心配して、探しに来たのだろう。

 

「ひ、平田くん!? これは違うの、彼が勝手に……っ!」

 

 櫛田が弁明しようとした瞬間、平田の表情が、驚きから純粋な感動へとパッと明るく輝いた。

 

「すごいよ、櫛田さん! 隠れてこんな情熱的なダンスの練習をしてたんだね!」

 

「…………え?」

 

「クラスのみんなを元気づけるために、裏でこんなに努力してくれていたなんて……僕、感動したよ。坂本くんも、伴奏を手伝ってあげてたんだね!」

 

「オレィ!」

 坂本が、カスタネットを打ち鳴らしながら優雅にウインクを飛ばす。

 

 平田という男は、極度に善意に満ちているが故に、坂本が作り出した「これは美しいフラメンコである」という狂気の空間を、一瞬にして真実として受け入れてしまったのだ。

 

「僕も、手拍子で参加させてもらうよ! さぁ、櫛田さん!」

 

「あっ、いや、ちょ……!」

 

 パンッ! パンッ! と、平田が満面の笑みで手拍子を始める。

 坂本の超絶技巧カスタネットと、平田の純粋無垢な手拍子。この二つが合わさった瞬間、逃げ場のない完璧なステージが完成してしまった。櫛田は、ここで踊りをやめれば「先ほどの暴言は何だったのか」と問いつめられる状況に追い込まれ、涙目でステップを踏み続けることしかできなくなっていた。

 

 

 

「……ほう。面白そうなことをしているじゃないか」

 

 だが、地獄はこれだけでは終わらなかった。

 拍手喝采の中、堂々とした足取りで現れたのは、金髪をなびかせた見知らぬ男子生徒。

 胸元には、生徒会役員の証。生徒会副会長にして、2年Aクラスを牛耳る男

――南雲雅だった。

 

「お前が、堀北先輩が認めたという噂の一年だな? 坂本、と言ったか」

 

 南雲は、場違いなフラメンコセッションを冷たい目で見下ろしながら、特有の支配的なオーラを放って坂本に歩み寄る。彼の目的は明らかだ。生徒会長が目をかけた存在を、自らの支配下に置くための偵察と威圧。

 

「俺を楽しませてみろよ。お前がどれだけの――」

 

――タンッ! タラララララッ!

 南雲の言葉を遮るように、坂本が彼に向かって一歩踏み込み、カスタネットを激しく打ち鳴らした。 

 

「なっ……!?」

 

「見事な歩法と、支配的な視線。まるで闘牛を前にした、誇り高きマタドールのようだ。貴方のその闘争心、この伴奏でさらに高みへと導きましょう!」

 

「は……? お前、何を言って……っ!?」

 

 南雲の放っていた圧倒的な威圧感と支配欲すらも、坂本は新たなダンサーの強烈な自己主張として変換してしまった。

 

 坂本が南雲の周囲を滑るように回りながら、彼の歩調に完全に合わせたカスタネットのリズムを刻み始める。するとどうだろう。南雲の威圧的な歩みが、どう見てもフラメンコのステップを踏む前の、情熱的なタメの動作にしか見えなくなってくるのだ。

 

「ふざけるな! 俺を誰だと……!」

 

「「オーレ!」」

 

「っ!?」

 

 南雲が怒鳴ろうとした瞬間、絶妙なタイミングで平田の手拍子と坂本の合いの手が入り、南雲の言葉が情熱のシャウトとして上書きされてしまう。周囲から見れば、生徒会副会長が自ら進んで情熱的なセッションに参加しているようにしか見えない。

 

「くそっ、なんだこの狂ったリズムは……! 俺のペースが……っ!」

 

 絶対的な支配者であるはずの南雲が、坂本の圧倒的なホスピタリティという名の伴奏の前に、完全にペースを崩され、不本意ながらもリズムに合わせて足を踏み鳴らしてしまっている。

 

 

 

「ちょっとぉ、なんかうるさいなと思ったら、楽しそうなことしてるじゃない〜?」

 

 さらにそこへ、とどめとばかりに現れたのは、Bクラスの担任である星之宮知恵だった。

 彼女は、茶柱が最近謎の疲労と諦観に包まれている原因を探るべく、この特異な生徒を偵察に来たのだろう。持ち前の大人の色気を漂わせ、少しだけフラフラとした足取りで坂本に近づく。

 

「ねぇ、坂本くぅん。先生も混ぜてくれないかなぁ? いろいろ、お話ししたいことが……きゃっ!」

 

 星之宮がわざとらしくバランスを崩し、坂本に寄りかかろうとした、その瞬間。

 

「おっと。お疲れのようですね、星之宮先生」

 

 坂本は、カスタネットを片手に持ったまま、もう片方の手で学生鞄の中から、なぜか鮮やかな緑色に輝く液体が入った竹筒を取り出した。

 

「日々の教務による疲労が、その足取りに現れています。これをどうぞ」

 

「えっ? あ、ありがとう……って、なにこれ、青汁!?」

 

「大地の滋養を極限まで濃縮した、特製ブレンドです。さぁ、一気に」

 

「んぐっ、にっっっがぁぁぁぁいっ!?」

 

 星之宮は、大人の色気を振りまく隙も与えられず、極端に苦い青汁を一気飲みさせられ、その苦悶の表情のまま激しく地団駄を踏んだ。

 

「素晴らしい! その苦味を乗り越えた先にある生命の爆発! それこそが、フラメンコの真髄!」

 

「違う! 苦いだけぇぇぇぇっ!」

 

「「オーレ!」」

 

 旧校舎裏は、もはや完全にカオスだった。

 

 カスタネットを超絶技巧で鳴らし続ける坂本。

 感動の涙を流しながら手拍子を叩く平田。

 裏の顔を取り繕うために、泣きながらステップを踏み続ける櫛田。

 威圧を完璧にいなされ、不本意ながらリズムに乗せられてしまう生徒会副会長・南雲。

 青汁の苦味で悶絶しながら、結果的に激しいタップダンスを披露している星之宮。

 

 彼らが織りなす熱狂的フラメンコセッションは、夕焼けに照らされた旧校舎裏を、完全にスペインのアンダルシア地方へと書き換えていた。

 

(……見なかったことにしよう)

 

 オレは、静かに踵を返し、その狂気の空間から距離を置いた。

 櫛田の裏の顔という最大の爆弾は、爆発する前に坂本というブラックホールに飲み込まれ、なぜか情熱的なダンスへと昇華されてしまった。さらに、生徒会副会長や他クラスの担任という新たな厄介者たちまでが、一瞬にして坂本のペースに巻き込まれ、その威厳を失墜させている。

 オレの平穏な生活を脅かす要素が、坂本の無意識の行動によって次々と無害なギャグへと変換されていく。

 

 だが、それは同時に、オレの周囲に常識というものが一切存在しなくなることを意味している。

 オレは制服のポケットから、見慣れた胃薬の箱を取り出した。

 本日四錠目。用法用量はすでに完全に無視されているが、そうでもしなければ、オレの精神と胃壁は、このスタイリッシュすぎる日常に耐えきれそうになかった。

 

 遠くから、「オーレ!」という坂本の涼やかな声と、南雲と櫛田の悲鳴のような絶叫が、夕暮れの空に吸い込まれていくのが聞こえた。カオスってのは、このことを言うんだな、とオレはまた一つ学んだのだった。

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