九月。夏休みという名の狂乱の季節が過ぎ去り、高度育成高等学校にもわずばかりの秋の気配が漂い始めていた。
本来であれば、二学期の始まりとともに、生徒たちは新たな特別試験の気配にピリピリと神経を尖らせ、他クラスとの水面下の探り合いに精を出す時期である。この学校は徹底した実力主義であり、ポイントの増減が己の学園生活、ひいては卒業後の進路すらも決定づけるのだから、それは当然の生存本能と言えた。
だが、現在オレが所属するCクラスの教室に、そのような殺伐とした空気は微塵も存在していなかった。
「……スーッ、ハァーッ。天地の気が、俺の丹田を巡り、足の裏から大地の鼓動を感じるぜ……。万物は流転し、そしてまた己の中へと回帰する……」
教室の後方で、かつては血の気の多さでクラスのトラブルメーカー筆頭であった須藤健が、机の上に結跏趺坐で座り込み、深く静かな呼吸を繰り返していた。その表情は、悟りを開いた高僧のように穏やかである。
「須藤、すげぇぜ! なんだか後光が射して見える気がするぜ!」
「ああ。坂本のアニキが教えてくれた『大地の息吹』の呼吸法……須藤の奴、完全にモノにしやがったっすね。俺たちも負けてられねぇっすよ。窓ガラスの清掃、もう一周いくっすよ!」
池と山内が、雑巾を手に感涙を流しながら、すでに塵一つないほど磨き上げられた窓ガラスに向かって突撃していく。彼らの坂本に対する信仰は、無人島での極上スパリゾート体験を経て完全に宗教の域に達しており、現在では坂本が快適に過ごせる空間を維持することが彼らの絶対的な教義となっていた。
教壇では、担任である茶柱佐枝が、けだるげな様子でホームルームの開始を告げていた。
「……席につけ。これより、十月に開催される『体育祭』についての概要を説明する」
茶柱の声には、以前のような生徒を試すような鋭さや、Dクラスを這い上がらせようとする野心的な響きは一切なかった。彼女の目の下には深い疲労のクマが刻まれており、その手には、坂本から提供された『教壇のオアシス』――カフェインとテアニンが極限まで調整された特製アールグレイが入った純銀製の保温水筒がしっかりと握られていた。
「ルールの詳細は配られたプリントを見ろ。……どうせ、お前たちは私の想定など軽く超えて、何か理解不能な方法でやり遂げるのだろう。だから、もう細かいことは言わん。好きにしろ。ただ、私にこれ以上の報告書を書かせないでくれ……」
茶柱はそう言い捨てると、保温水筒からアールグレイを一口すすり、ふうっと深いため息を吐いた。教師としての威厳や指導の放棄。いや、これは完全なる現実逃避であった。船上特別試験における奇跡の昇格劇や、坂本の引き起こす物理法則を無視した現象の数々に、彼女の常識と精神はすでに限界を迎えていたのだ。
プリントに目を通すと、体育祭は全学年が赤組と白組に分かれて競い合う形式であること、そして、クラス全員が参加する競技や、選抜メンバーのみが出場する競技など、多岐にわたる種目が記載されていた。
本来であれば、ここで「運動神経の悪い生徒をどうフォローするか」「誰をどの種目に配置してポイントを最大化するか」といった、血で血を洗うような議論と対立が勃発するはずである。
「みんな! 体育祭、一丸となって頑張ろうね!」
クラスのまとめ役である平田洋介が、爽やかな笑顔で声を上げた。
「うんっ! 私、足引っ張っちゃうかもしれないけど、精一杯応援するね!」
櫛田桔梗が、天使のような満面の笑みで同調する。だが、オレの観察眼は逃さなかった。彼女の机の下で、両足がタタンッ、タタンッと、小刻みに、そして異常なほど情熱的なフラメンコのステップを踏み続けていることを。
(……まだ、呪縛から逃れられていないのか)
旧校舎裏での一件以来、櫛田は裏の顔を取り繕うために、平田や南雲副会長の前で披露してしまった情熱的なダンサーという新たなキャラクターを維持し続けなければならない生き地獄に陥っていた。少しでも気が緩むと、坂本の超絶技巧カスタネットの幻聴がフラッシュバックし、無意識にステップを踏んでしまう体質に改造されてしまったのだ。
「ふっ。美しい私にとって、体育祭など己の肉体美を披露するための舞台に過ぎないが……まあ、悪くないイベントだねぇ」
教室の前方で、金髪を優雅に掻き上げながら、高円寺六助が傲岸不遜な笑みを浮かべた。彼の視線は、窓際の席で静かにフランス語の原書を読んでいる坂本へと真っ直ぐに向けられている。
「なぁ、スタイリッシュボーイ。君という美しきライバルが、この体育祭でどのような輝きを見せるのか。私は今から楽しみで仕方がないよ」
高円寺の言葉に、クラスの空気が一瞬ピタリと止まった。
学園でも屈指の身体能力と頭脳を持ちながら、己の美学にしか興味を示さず、誰とも協調しようとしなかったあの高円寺が、他者を明確にライバルと認めたのだ。
当の坂本は、本からゆっくりと視線を上げ、黒縁メガネを中指でスッと押し上げた。
「光栄な言葉ですね、高円寺くん。スポーツとは、肉体を通じて大自然と対話する極上の手段。共に、グラウンドという名のキャンバスに美しい軌跡を描きましょう」
「フハハハ! いいだろう! ならば早速、グラウンドで己の仕上がりを確認しようではないか!」
高円寺の高笑いとともに、なぜかクラス全体が体育祭の練習をしにグラウンドへ行くという流れになってしまった。
オレは重い足取りで席を立ち、制服のポケットの上から胃薬の箱の感触を確かめた。嫌な予感しかしない。いや、この学校において坂本が動くとき、それはすでに予感ではなく確約された異常事態へのカウントダウンなのだ。
秋晴れの空の下、グラウンドには他クラスの生徒たちも集まり、各々が体育祭に向けた測定や練習を行っていた。
オレたちは、まず手始めに二人三脚のペア決めと練習を行うことになった。ルールは単純。二人の足を紐で結び、息を合わせて規定の距離を走り抜けるという、古典的だが最も協調性が問われる種目だ。
「よし、俺が手本を見せてやる。池、来い!」
「おうっ! 大地の息吹、見せてやるぜ!」
すっかり丸くなった須藤と池がペアを組み、足を結んだ。須藤が「スゥゥ……」と深く息を吸い込むと、池もまた目を閉じ、何かに祈るようなポーズをとる。
「行くぞ……縮地法!」
ダンッ! と地面を蹴った瞬間、二人は二人三脚とは思えない滑らかな足運びで、瞬く間にトラックを駆け抜けた。もはや走っているというより、地面を滑るように移動する独自の歩法を編み出している。完全に坂本の影響を受けた謎の武術的アプローチだったが、タイムとしては申し分ない。
「ふむ。チープな動きだが、まあ及第点といったところだねえ」
その様子を鼻で笑ったのは、高円寺だった。彼は誰ともペアを組まず、トラックのスタートラインに一人で立っていた。
「高円寺くん、誰かと組まないと練習にならないよ?」
平田が困ったように声をかけるが、高円寺は美しい金髪をなびかせて首を振った。
「ナンセンスだね。この私の完璧で美しき歩幅に、合わせられる者などこの学園には存在しない。私は一人で走る。それが最も速く、最も美しいのだから」
「いや、一人で走ったら二人三脚じゃないから……」
平田の至極真っ当なツッコミを完全に無視し、高円寺は自らの右足と左足を紐で縛り始めた。どうやら、本当に自分の両足を縛った状態で、単独で二人三脚の距離を跳躍しようという算段らしい。常軌を逸しているが、高円寺の超人的な身体能力ならば、両足を縛られた状態でのカンガルーのような大ジャンプで、常人の走りを上回るタイムを叩き出しかねなかった。
「お待ちください」
その時、凛とした涼やかな声がグラウンドに響き渡った。
視線を向けると、そこには純白の体操着をシワ一つなく着こなし、背筋を定規で測ったようにピンと伸ばした坂本の姿があった。
「……ほう。どうしたんだい、スタイリッシュボーイ」
「孤高の美しさもまた一興。しかし、二人三脚という競技の本質は、他者とのハーモニーにあります。異なる二つの旋律が重なり合い、一つの壮大な交響曲を生み出す。それこそが、この競技の真の美しさではないでしょうか」
坂本はそう言うと、流れるような動作で高円寺の隣に立ち、自らの左足と高円寺の右足を、用意されていた赤い紐でしっかりと結びつけた。
「僕が、貴方の伴奏を務めましょう」
「フッ! 面白い。この私のペースに、君がどこまでついてこられるか。振り落とされても文句は言わないことだね!」
学園が誇る二大異常存在。高円寺六助と坂本。
この二人がペアを組んだ瞬間、グラウンドの空気が明確に変わった。周囲で練習していた他クラスの生徒たちも、何事かと足を止めて注目し始める。
オレは、静かに胃薬の箱を開け、本日一錠目(まだ昼前だというのに)を口に放り込んだ。
「位置について。……よーい、ドン!」
平田の合図が響いた。
通常の二人三脚であれば、「イチ、ニ! イチ、ニ!」と掛け声をかけながら、肩を組んで不格好に走り出すのが普通だ。
しかし、彼らは違った。
スタートの瞬間、高円寺が爆発的な脚力で前方に飛び出そうとした。だが、坂本はその高円寺の暴力的なまでの推進力を、一切の力みなくいなしたのだ。
坂本は高円寺の腰にそっと右手を添え、まるで社交ダンスのリードをとるかのように、高円寺の身体を半回転させた。
「なっ……!?」
「さぁ、情熱のステップを」
ダダンッ! タタタンッ!
結ばれた二人の足が、グラウンドの土を激しく蹴り上げる。だが、それは前進するための蹴りではない。複雑に交差する、鋭く、そして妖艶なステップ。
「あれは……タンゴ!?」
誰かが叫んだ。
そうだ。坂本と高円寺は、足を結ばれた状態のまま、猛烈なスピードでアルゼンチン・タンゴを踊り始めたのだ。
【秘技:双頭の情熱舞踏(ツイン・ヘッド・タンゴ)】。
互いの足を結んだ紐は、もはや拘束具ではなく、二人の動きを完全に同期させるための魂の絆と化していた。高円寺が前に出れば、坂本が後ろに下がりながらそれを引き込み、坂本がターンを決めれば、高円寺がその遠心力を利用してさらに加速する。
「フハハハッ! 素晴らしい! 私の肉体が、勝手に美しき舞を紡ぎ出していくようだ!」
「貴方の身体能力と情熱。実に素晴らしいリードです、高円寺くん。オーレィ!」
二人は、完全に組み合ったホールド姿勢のまま、タンゴの情熱的なクイックステップを踏みながら、凄まじいスピードでトラックを横滑りしていく。砂埃が舞い上がり、夕日に照らされてまるで無数の真紅の薔薇の花びらが舞っているかのような錯覚すら覚えさせた。
「……なんだあれは。物理法則がどうなっているのだ?」
すぐ近くでその光景を目撃していたAクラスの葛城康平が、頭を抱えて呻き声を上げた。彼は常に堅実で論理的な戦術を好む男だ。足を結ばれた男二人が、タンゴを踊りながら陸上部の短距離走者のようなスピードでトラックを爆走しているという目の前の現実は、彼の脳の処理能力を完全にオーバーフローさせていた。
「葛城……あれが、坂本。私たちの論理を根底から破壊する、未知の存在……」
その隣で、神室真澄が死んだような目で呟く。彼女は坂柳のお供として散々坂本の異常性を誰よりも間近で目撃し、すでに彼の行動にツッコミを入れることを放棄していた。
「バカな……あのような移動方法が、二人三脚として成立していいはずがない。重心の移動、空気抵抗、そして何よりあんな密着した体勢で……いや、待て。あのステップの合間に生じる一瞬の無重力状態を利用して推進力を得ているのか……? だとしたら、あれはタンゴの皮を被った……」
葛城の優秀な頭脳が、必死に目の前の事象を物理法則の枠内に収めようとフル回転し、そしてショートする音が聞こえた気がした。彼はそのままフラフラと後ずさりし、トラックの隅の芝生に崩れ落ちた。
「やあやあ、精が出るじゃねえか。スポーツってのは、心身を健康にする素晴らしい営みだろうが」
のんびりとした、どこか悟りを開いたような声がグラウンドに響いた。
赤みがかった髪をなでつけ、穏やかな笑みを浮かべて歩み寄ってきたのは、Dクラスのリーダー、龍園翔だった。かつての暴君としての面影はどこにもなく、その手には、おぼんの上に乗せられたティーポットと数個のティーカップが握られている。
「葛城、お前も疲れているようじゃねえか。争いや競争は心をすり減らすだろうが。どうだ、一杯。カモミールとミントの特製ブレンドだ。心が落ち着くだろうが」
「……り、龍園? 貴様、何を言っているのだ?」
葛城が、タンゴの衝撃から立ち直れないまま、今度は平和主義の伝道師と化した龍園の姿にさらなる混乱をきたしている。
「ククッ。俺も昔は、ポイントや勝敗にこだわって、他者を蹴落とそうと必死になっていた時期があっただろうが。だが、坂本という大いなる愛に触れて、気づいたんだ。本当に大切なのは、勝つことじゃねえ。こうして、共に手を取り合い、平和なティータイムを楽しむことだろうが」
「き、貴様……頭でも打ったのであるか……?」
「さぁ、冷めないうちに飲め」
龍園は、恐怖で顔を引き攣らせる葛城に、半ば強制的にハーブティーが入ったカップを握らせた。かつての龍園の悪辣な罠を知っている葛城は、そこに下剤か何かの毒が盛られていると直感し、激しく拒絶しようとする。だが、龍園の笑顔があまりにも清らかで、淀みがなかったため、葛城は毒見のつもりで恐る恐る口をつけてしまった。
「……っ!? 美味い……だと? いや、それよりもこの、五臓六腑に染み渡るような安らぎは……」
「そうだろう。それが『平和』の味だ」
龍園が聖母のような微笑みを浮かべる。葛城の目に、一瞬だけ光るものが浮かんだ気がした。Aクラスの重圧に耐え続けてきた彼の心に、龍園の(坂本仕込みの)極上のハーブティーが、致命的なまでの癒やしを与えてしまったのだ。
「お待たせしました」
そこへ、トラックを一周(すべてタンゴのステップで)走り終えた坂本と高円寺が、息一つ乱さずに帰還してきた。二人三脚の、しかも横滑りのタンゴで高校生の平均記録を遥かに上回るタイムであった。
「フハハハ! 素晴らしいエクササイズだったよ、スタイリッシュ・ボーイ! 私の美しさに、君は見事に華を添えた!」
「貴方のリードあってこその舞です。大地もまた、我々のステップに歓喜していることでしょう」
坂本が優雅に一礼する。その額には汗一つなく、ただ清々しい秋の風が彼の七三分けをふわりと揺らした。
「ご苦労だったな、二人とも。素晴らしい『愛』の形だっただろうが」
龍園が、すかさず二人にもハーブティーを差し出す。
「龍園くん。貴方の淹れるお茶は、日増しにその透明度を増していますね。実に素晴らしいホスピタリティです」
「お前にそう言ってもらえるのが、俺にとって最大の喜びだろうが、坂本」
かつての暴君と、異常な転校生が、グラウンドの真ん中で優雅にティーカップを傾け合い、微笑み合っている。その足元では、Aクラスの葛城がハーブティーの癒やしに屈服し、体育座りで空を見上げている。そして遠くでは、須藤が座禅を組み、櫛田が無意識にフラメンコのステップを踏み続けている。
体育祭の練習風景というには、あまりにも前衛的で、シュールで、そして絶望的なまでに狂気じみた空間がそこには完成していた。
(……もう、ダメかもしれないな)
オレは、静かに目を閉じた。
ポイントを巡るクラス間の熾烈な争い。身体能力や知略を駆使した、実力至上主義の縮図となるべき体育祭。その前提条件は、競技が始まる前から、坂本という特異点によって完全に破壊されてしまった。
争う意味などない。誰も彼に勝てないし、勝とうとする意志すらも、極上のホスピタリティとハーブティーによって骨抜きにされてしまうのだから。
オレは、誰にも気づかれないようにグラウンドの隅へと移動し、本日二錠目の胃薬を、水なしで喉の奥へと押し込んだ。
秋の生ぬるい風が、オレの頬を撫でていく。
この学園の常識が正常に機能する日は、二度と来ない。その確信だけが、胃薬の苦味とともに、オレの胸の奥に重く沈んでいった。