「さて、次は『障害物競走』の練習に移るよ」
平田洋介が、爽やかな、しかしどこか現実の重力から解き放たれたような浮遊感のある声でグラウンドの中央から呼びかけた。
彼の視線の先では、かつて不良生徒として名を馳せた須藤や池たちが、坂本の影響で自発的に『大地の息吹』を感じる修行僧のような状態へと変貌し、準備運動として静かなる反復横跳びを繰り広げていた。
「障害物競走のセクションは四つ。網くぐり、麻袋飛び、平均台、そして最後にパン食い競走だよ。……みんな、怪我のないようにね」
平田の説明に合わせて、グラウンドには用具委員たちが急ピッチで機材を並べていく。地面に這わされた巨大なロープの網、無造作に置かれた粗末な麻袋、細い平均台、そして物干し竿のようなポールからぶら下げられたアンパンたち。
いかにも泥臭く、生徒たちの無様な姿を晒すことを目的としたような競技内容だ。
「ふっ。ナンセンスだね」
美しい金髪をかき上げ、手鏡で己の顔を眺めていた高円寺六助が、鼻で笑った。
「この美しき私の肉体を、泥にまみれた網や、粗末な麻袋に押し込めろと言うのかい?そのような醜態を晒すくらいなら、私はこのまま美しい秋の陽射しを浴びて光合成でもしていたいものだがね」
高円寺の言い分は、いつもの傲岸不遜な彼らしいものであった。だが、今の高円寺は以前のただの個人主義者ではない。二人三脚での完璧なシンクロニシティを経て、彼は坂本を「己の美学に完璧に追従し、さらに高みへと引き上げる唯一の存在」として正式に認定していた。彼の視線は、己の美しさを誇示しつつも、明らかに坂本からのリアクションを期待してチラチラと向けられている。
「泥にまみれることは、決して醜態ではありませんよ、高円寺くん」
涼やかな声がグラウンドに響き渡った。
純白の体操着を纏った坂本が、風に乗って滑るように高円寺の隣へと歩み寄る。彼の黒縁メガネの奥の瞳は、常にクール、クーラー、クーレストな日常を体現することを誓うかのように、静かで澄み切っていた。
「大地の恵みに触れ、自然と一体になる。障害物とは、私たちを阻む壁ではなく、己の美しさを際立たせるための極上の舞台装置に過ぎないのですから」
「フッ!言うじゃないか、スタイリッシュボーイ!ならば見せてもらおう、君がその粗末な舞台で、いかなる美しき舞を披露するのかを!」
高円寺が挑発的に笑い、周囲の生徒たちの視線が一斉に坂本へと集まる。
坂本は静かに一礼すると、スタートラインである白線の前に、まるでオーケストラの指揮者のような優雅な姿勢で立った。
オレは、静かに胃のあたりを抑えた。嫌な予感しかしない。彼が悪意や探り合いをすべて善意とティータイムの誘いとして受け取り、スタイリッシュにもてなす男である以上、この単純な障害物競走がただの競走で終わるはずがないのだ。
「位置について。……よーい、ドン!」
平田のホイッスルが鳴り響いた。
その瞬間、坂本は地を蹴った。いや、蹴ったという表現は正確ではない。彼の足はグラウンドの土を撫でるように滑り、一切の砂埃を立てることなく、第一の障害である『網くぐり』へと到達した。
通常、網くぐりとは、地面に伏せて泥だらけになりながら、網の隙間を這い進む泥臭いセクションである。
しかし、坂本は伏せなかった。
彼は網の端を両手でふわりと掴むと、そのまま上方へと軽やかに放り投げたのだ。
バサッ、という音とともに、巨大な網が秋の空へと大きく舞い上がる。それはまるで、漁師が海に向かって投網を打つかのような、雄大で美しい放物線を描いた。
「なっ……網を上に!?」
誰かが驚愕の声を上げる中、空中に滞空する網の下に、わずかな空間と、幾何学的な網目の隙間が生まれた。
坂本はその一瞬の隙を見逃さず、流れるようなステップで網の下へと滑り込む。空から降り注ぐ網目を、体をよじり、ステップを踏み、まるで飛んでくる矢を避けるかのような絶妙な体捌きですり抜けていく。
【秘技:蜘蛛の糸通し(スパイダーズ・シルク・ロード)】
泥に触れることなく、ただ直立したまま、落ちてくる網の隙間を完璧な計算で通り抜ける超絶技巧。彼が通り抜けた直後、網はバサリと地面に落ち、そこには汚れ一つない純白の体操着姿の坂本が立っていた。
「美しいぜ……!網さえもアニキを束縛することはできねえっていうのかっ!」
池が感涙にむせびながら拍手喝采を送る。
坂本は歩みを止めず、第二の障害である『麻袋飛び』へと到達した。麻袋に両足を入れ、ピョンピョンと不格好に跳ねて進むのがルールの競技だ。
だが、坂本は麻袋の中に足を入れなかった。
彼は置かれていた麻袋を拾い上げると、瞬時にそれを両手で広げ、バサッ!バサッ!と空中で鮮やかに折りたたみ始めた。
「おい、あいつ何やってんだ……?」
他クラスの生徒たちが唖然とする中、坂本は折りたたんだ麻袋を自身の首元にふわりと巻きつけた。
それは、粗末なドンゴロスのはずだった。しかし、坂本の異常に洗練された巻き方と、彼自身の放つスタイリッシュなオーラにより、それはもはやパリのコレクションで披露される最先端の『オーガニック・ストール』にしか見えなくなっていた。
「麻の繊維が持つ、大自然の荒々しい息吹……。秋の装いとして、実に素晴らしいアクセントです」
坂本は麻袋をマフラーのようにたなびかせながら、ランウェイを歩くトップモデルのような洗練されたウォーキングを開始した。もはや「飛び」の要素はどこにもないが、誰もそれを指摘することはできない。彼の歩みがあまりにも堂々と、そして美しかったからだ。
「フハハハッ!素晴らしい発想だ!粗末な袋を己を飾る装飾品へと昇華させるとはね!だが、私も負けてはいないよ!」
高円寺が歓喜の声を上げ、自らも麻袋を手に取った。彼はその麻袋をビリビリと引き裂き、瞬時に即席のパレオを作り上げると、鍛え抜かれた肉体を誇示するように、まるで古代ギリシャの彫刻のようなポーズで躍動的なステップを踏み始めた。
もはや障害物競走の面影はない。グラウンドは、学園の頂点に君臨する二人の特異な存在による、前衛的なファッションショーへと変貌を遂げていた。
オレは、静かに目を逸らした。もう何も見たくない。
第三の障害『平均台』。幅十センチにも満たない細い木の上を、バランスを崩さずに渡り切るセクションだ。
坂本は平均台の前に立つと、つま先だけで軽く飛び上がった。
トンッ、と音もなく平均台の上に着地した彼は、そのまま両腕を優雅に広げ、バレエダンサーのような完全な「アン・ポワント(つま先立ち)」の姿勢をとった。
そして、信じられないことに、彼はつま先立ちのまま、コマのようにクルクルとピルエットをしながら平均台の上を進み始めたのだ。
「バ、バランス感覚がどうなっているのだ……!あんな細い台の上で、回転しながら進むなど物理的に不可能だ!」
Aクラスの葛城康平が、頭を抱えて呻き声を上げた。彼は自身の堅実な戦術が坂本の前に無意味であることを痛感しており、かつて坂本と龍園の生み出す圧倒的平和と癒やしの前に論理を崩壊させられたトラウマが蘇りかけていた。
「あんた、落ち着きなよ。あれは幻覚でしょ。そう思わなきゃ、私たちがこの学園で学んできた物理学のすべてが嘘になる」
その隣で、神室真澄が死んだような目で呟く。彼女は坂本が意図的な策士ではなく真性の規格外だと正確に把握しており、彼を関わってはいけない最大の脅威として確定させていた。
坂本は平均台を難なく、いや、過剰なまでの優雅さでクリアすると、ついに最後の障害である『パン食い競走』のエリアへと到達した。
頭上のポールからは、紐で結ばれた無数のアンパンがぶら下がっている。手を使わず、口だけでパンをくわえ取らなければならない、この競技最大の難所である。
だが、坂本がそのままパンに噛み付く姿など、誰も想像できなかった。
「食事の作法とは、食材への感謝と、周囲への配慮。手を使わず口で直接食らいつくという行為は、野生の力強さを示す反面、少々エレガンスに欠けますね」
坂本はそう呟くと、体操着のポケットから、なぜか一本の銀色のバターナイフと、小さな小瓶を取り出した。
(……なんで体操着からカトラリーが出てくるんだよ。それに、あの小瓶はなんだ?)
オレの内心のツッコミをよそに、坂本はふわりと跳躍した。
彼の身体は重力を無視したかのように高く舞い上がり、頭上のアンパンと同じ高さで静止したように見えた。
次の瞬間、銀閃が煌めいた。
坂本は空中に滞空したまま、手にしたバターナイフで、ぶら下がっているアンパンを水平に真っ二つにスライスしたのだ。
さらに、彼の手元が残像を残すほどの速度で動く。小瓶の蓋が開き、ナイフの腹を使って、切り裂かれたアンパンの断面に何かを素早く塗りつけていく。
【秘技:空中星付きレストラン(エアリアル・ミシュラン)】
着地と同時。坂本の手には、綺麗にスライスされ、クロテッドクリームと自家製イチゴジャムが完璧な黄金比で塗られた、極上の『アンパン・スコーン風カナッペ』が完成していた。
「お疲れ様です、茶柱先生。日々の激務、心よりお察しいたします。糖分と優雅な時間で、どうか癒やしのひとときを」
坂本は、そのままグラウンドの隅で気力なく立ち尽くしていた担任の茶柱佐枝の元へ滑るように歩み寄り、完成した極上のカナッペを恭しく差し出した。
「……え?」
茶柱は深い疲労のクマを刻みながら、茫然とそれを受け取った。彼女はすでに坂本の異常能力に教師の威厳を砕かれ、思考を放棄して現実逃避を続けていた。
一口かじる。
「……っ!?なんだこれは……。ただのアンパンのはずが、この芳醇なバターの香りと、酸味と甘味の絶妙なハーモニーは……。まるで、高級ホテルのアフタヌーンティー……」
茶柱の瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。教師としての重圧、Dクラスの奇跡の昇格事実を前に常識が崩壊した疲労感が、たった一つの(空中で錬成された)アンパンによって優しく溶かされていく。
「フハハハッ!パン食い競走を、極上のケータリングサービスに変えるとは!君という男は、どこまで私の予想を超えてくるのか!」
高円寺が大爆笑しながら、自らも空中のパンを蹴りの風圧で落とし、そのまま口でキャッチするという離れ業を披露してゴールした。
こうして、障害物競走の練習は、一部の教師と生徒に深い癒やしと癒えないトラウマを植え付ける形で終了した。
「よし、次は『玉入れ』の練習だ。各クラスの女子生徒は、指定の位置についてくれ」
用具委員の声が響き、グラウンドの雰囲気が少しだけピリッとした。玉入れは女子のみで行われるクラス対抗の団体戦。ここでポイントを稼げるかどうかは、本番の順位に直結する。
Cクラスの女子たちは赤玉、Dクラスの女子は白玉を持ち、それぞれ高い位置に設置されたカゴを囲むように配置についた。オレや須藤たち男子生徒は、ルールに従いコートの外からサポートや応援に回っている。
「みんな、気合入れていくよ!坂本くんに良いところ見せなきゃ!」
軽井沢恵が気勢を上げ、女子生徒たちが手玉を力強く握りしめる。彼女は船上試験で坂本に絶対的な信頼を寄せて以来、彼へのアピールに余念がない。
だが、対戦相手であるDクラスのコート外の様子がおかしかった。
「争いは何も生まない。玉をぶつけ合い、競い合うなど、野蛮な行為だろうが」
赤みがかった髪をなでつけ、聖母のような微笑みを浮かべた龍園翔が、こぼれ落ちた白玉を拾い集めながらハンカチで優しく磨いていた。彼は完全に平和主義の伝道師と化しており、男言葉のトーンのまま平和を説いて同クラスの女子たちを恐怖させていた。
「見てみろ。この玉たちも、争うためではなく、愛されるために生まれてきたんだ。そうだろうが?」
「りゅ、龍園さん……それ、早くこっちに渡してくれないと練習にならないんですけど……」
Dクラスの女子生徒である真鍋が泣きそうな顔で訴えるが、龍園の耳には届いていない。かつての暴君が玉を慈しむ姿は、あまりにもシュールで背筋が凍る光景だった。
「フン。相変わらず気味が悪い連中ね」
伊吹澪が舌打ちをした。彼女は平和主義化した龍園にキレつつも、坂本から提供されたオーガニッククリームや美容ティーをちゃっかり愛用し、恩恵を受け続けていた。秋の乾燥する季節にもかかわらず、その肌は以前よりも明らかにツヤツヤと輝いている。
「ピーッ!」
開始のホイッスルが鳴った。
軽井沢たちが一斉に赤玉をカゴに向かって放り投げる。だが、高い位置にあるカゴに玉を入れるのは至難の業であり、多くの玉がカゴの縁に弾かれて落ちてくる。玉を拾い集めて再装填するテンポが勝負の鍵を握る。
サポート役としてコートの傍らに立っていた坂本は、こぼれ落ちた赤玉を両手に三つずつ拾い上げると、静かに目を閉じていた。あくまで女子の練習を補助するための玉拾い役のはずだった。
「玉は、ただ投げるものではありません。カゴという名の故郷へと帰る、星々の軌跡を描くのです」
坂本が目を開くと同時に、彼の手が滑らかに動いた。
ヒュンッ!ヒュンッ!ヒュンッ!
坂本の手から放たれた赤玉が、次々と空へと吸い込まれていく。だが、それは単なる女子へのパスの域を完全に逸脱していた。彼は複数の玉を空中でジャグリングするように回し始め、その回転の遠心力を利用して、一つ、また一つと、正確無比なタイミングで遥か頭上のカゴへと直接射出していったのだ。
【秘技:天の川の架け橋(ミルキーウェイ・ジャグリング)】
赤玉は、まるで目に見えない糸に引かれているかのように、美しい放物線を描いてカゴのど真ん中へと次々に吸い込まれていく。縁に当たる音すらせず、スポッ、スポッ、という心地よい音だけがグラウンドに響き渡る。
「す、すげえぜ……!男子は参加不可なのに、あまりに美しすぎて誰も反則のホイッスルを鳴らせねえ!」
応援席の池が口を開けて見上げる中、坂本のジャグリングはさらに加速していく。足元に転がってくる玉を、靴のつま先で軽く蹴り上げて手に収め、そのまま流れるように軌道へと乗せる。
その光景は、もはや競技のサポートではなく、一流のサーカス団による芸術的なパフォーマンスであった。軽井沢たち女子生徒は自分たちが投げるのを忘れ、うっとりとその星々の軌跡を見つめている。
「素晴らしい愛の形だろうが。あんなに美しく帰還していく玉たちを見ていると、心が洗われるようだ」
敵であるはずの龍園が、磨き上げた白玉を優しく抱きしめたまま、ハンカチで涙を拭いながら坂本のパフォーマンスに惜しみない拍手を送っていた。
Dクラスの女子生徒たちも、龍園の異様な平和主義オーラと坂本の圧倒的な芸術性に完全に呑まれ、もはや誰も玉を投げようとしなかった。
結果は言うまでもなく、Cクラスの圧勝である(審判を務める教師すらも、その美しさのあまり無意識に得点としてカウントし続けていた)。だが、誰も勝ったという歓喜の声を上げることはなかった。ただ、一人の男が描き出した星々の軌跡に、深い感動と畏怖の念を抱いて立ち尽くすだけであった。
ふと視線を感じてグラウンドの端に目をやると、Aクラスのリーダーである坂柳有栖が、日傘をさしながら優雅な笑みを浮かべてこちらを見つめていた。
彼女は、彼を屈服させるのではなく、「最高の淑女」として彼のもてなしを引き出し、遊戯を楽しむという新たなアプローチを開始していた。
(……また何か、良からぬことを企んでいるな)
オレは、坂柳の視線の先にある坂本の純白の背中を見つめながら、本日三錠目の胃薬に手を伸ばした。
体育祭。それは、クラスの団結と身体能力を競う、実力至上主義の祭典のはずだった。
だが、この学園において、坂本がグラウンドに立つ限り、それは「彼がいかに世界をスタイリッシュに塗り替えるか」を鑑賞するための、壮大なリサイタルでしかないのだ。
秋の空は、どこまでも高く、澄み切っていた。
オレの胃の痛みもまた、どこまでも深く、澄み切った絶望へと沈んでいくのを感じていた。