ようこそスタイリッシュ至上主義の教室へ   作:GC

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第36話「綾小路清隆の覚悟」

ケヤキモール内のドラッグストアで会計を済ませたオレは、重固なガラスボトルに入った胃薬を『ゴミ箱に捨てた』 。

 

周囲ではいまだに逆さピラミッドという不可解な芸術作品を前に、感極まった生徒たちがむせび泣いている。

 

その狂騒を背に店を出た瞬間、オレの意識は極めて冷徹な思考の海へと潜行していった。

 

ただ胃薬を飲んでやり過ごす。

これまではそれでなんとかお茶を濁していた。

 

しかし事態はすでに、オレの想定する陰キャ生活の防衛線をはるかに越えている。

坂本という予測不能の存在がクラスの、いや学園全体の空気を書き換えつつある今、ただ嵐が過ぎ去るのを待つだけの消極的防衛は、いずれ破滅する。

 

もう状況が好転しないことが確定したのなら、オレ自身の立ち回りも適応させなければならない。

オレの目的は目立たず平穏な学生生活を送ることだ。

 

そのためには、この制御不能な嵐すらも己の隠れ蓑として積極的に利用する冷酷さが必要だった。

思考を切り替えた直後、オレの背中の皮膚が微かな視線の針を感知した。

 

距離はおよそ十五メートル。

休日のモールという人混みに紛れながらも、正確にオレの背中を捉え続けるプロの尾行。

振り返るまでもなく、その正体は容易に推測できた。

 

Aクラスの神室真澄だ。

 

彼女の主である坂柳有栖は、すでに坂本を極上の娯楽として認識し執着を深めている。

だが、あの怜悧な少女がただ坂本一人だけに興味を注ぐとは考えにくい。

坂本という異常な存在を最も近くで観察し、同時にホワイトルーム出身と知っているオレに対しても、当然のように探りの手を入れてくるはずだ。

 

ここで神室を撒くことは簡単だ。

しかし、ただ撒いただけでは坂柳の疑念を深める結果にしかならない。

 

オレは歩調を一切変えることなく、脳内でケヤキモール内の立体マップを展開した。

そして、もう何度も見てきた異常な光景が待つ地点へと自身の歩向を静かに合わせた。

 

オレが向かったのは、モールの二階にある吹き抜けのオープンテラスだった。

ここは休日ともなれば多くの生徒が談笑する憩いの場である。

 

ここから先は、極めて精密な誘導作業だ。

オレはテラスの入り口付近にある観葉植物の陰を通り抜ける際、足元に落ちていた丸められたチラシのゴミを、靴の裏でわずかに弾いた。

 

ゴミは物理法則に従って正確に軌道を描き、オレの真後ろを歩いていた神室の足元へと滑り込む。

 

「っ」

 

微かな息を呑む音が聞こえた。

 

神室の靴底がチラシを踏み抜き、彼女の体勢がわずかに前へと崩れる。 転倒するほどの致命的なバランス崩壊ではない。

 

だが、周囲の注意を引くには十分な隙だ。

そして、その微小な隙を見逃すような男が、このテラスにいるはずもなかった。

 

オレは歩みを止め、観葉植物の陰から気配を完全に絶ってその瞬間を観察した。

神室が体勢を立て直そうと身をよじった刹那、彼女の横を一条の赤い旋風が駆け抜けた。

 

いや、駆け抜けたのではない。

それはまるで、空間そのものを滑走するような無音の接近。

 

坂本だ。

 

彼は手元の文庫本から視線を一切外すことなく、残った片手で神室の崩れかけた身体を羽毛のように軽く支えたのだ。 その瞬間、周囲の時間が止まったかのような錯覚に陥る。

 

「おっと、足元にはお気をつけください。秋の風が運んできた落とし物が、あなたに悪戯をしたようですね」

 

坂本は涼やかな声でそう告げると、神室の身体を支えたまま、まるで社交ダンスの導入のような華麗なターンを決めた。

 

【秘技:救済の円舞曲(レスキュー・ワルツ)】

 

転倒のエネルギーを完全に殺し、そのまま相手を最も安全で優雅な体勢へと導く完全無欠のサポート技術。

 

神室は状況を理解できず、完全に目を丸くして坂本の腕の中で硬直していた。

 

オレはこの瞬間を待っていた。

尾行者が対象から完全に視線を切り離し、圧倒的なイレギュラーに意識を奪われたこの数秒間。

 

オレはその隙を突いてテラスから完全に離脱し、本来の目的であった場所へと足を向けた。

向かった先は、モールの裏手にある従業員用の通用口付近だ。 そこには、休日の見回りという名目でサボタージュを満喫している教師の姿があるはずだった。

 

オレのクラスの担任である茶柱佐枝だ。

彼女は自販機の横で気怠げに缶コーヒーを飲みながら、虚空を見つめていた。

 

最近の彼女は、坂本が引き起こす不可解な事象から目を背けるため、教育者としての職務を意図的に放棄しつつある。 オレは足音を消して彼女の背後へと忍び寄った。

 

「休日の見回り、お疲れ様です」

 

「なっ……綾小路か。気配もなく背後に立つな」

 

茶柱は心底驚いたように肩を揺らし、缶コーヒーを落としそうになった。

オレは彼女の動揺を見透かすように、淡々と言葉を紡いだ。

 

「少しお聞きしたいことがありまして。来月の体育祭についてです」

 

「……私に聞くな。どうせ坂本が、すべてをティーパーティーに変えてしまうのだろう。私が口を挟む余地などない」

 

完全に精神が摩耗しきっている。 だが、だからこそ付け入る隙がある。

 

「ええ、その通りです。坂本は間違いなく何かを起こします。ですが、彼がどのような種目に出場するか、そのエントリーシートの提出状況は教師側で管理されていますよね。Aクラスの代表者がどの競技に配置されたか、その情報を共有していただきたい」

 

「お前……それが校則違反だと分かって言っているのか?」

 

茶柱が鋭い視線を向けてくるが、その瞳の奥には疲労の色が濃い。

 

「ルールはすでに意味を成していません。坂本という存在によって。先生も、これ以上の想定外の事態は避けたいはずだ。情報を頂ければ、オレが裏で坂本の行動を最小限の被害で収まるように誘導します。これは取引です」

 

オレの提案に、茶柱は長い沈黙の末、深い絶望の溜息を吐いた。

 

「……お前のそういう底知れない部分は、本当に不気味だな。いいだろう、Aクラスの葛城は綱引きの恐怖から全種目を辞退する申請を出してきた。代わりに坂柳が……」

 

茶柱から引き出した体育祭の裏情報。

それは、坂柳が坂本と直接交えるための遊戯の舞台を、綿密に構築し始めている証拠だった。

オレは必要な情報をすべて記憶領域に焼き付けると、茶柱に軽く一礼してその場を離れた。

 

神室の尾行を無力化し、その裏で教師から直接情報を引き出す。

坂本という究極のデコイが存在する限り、オレの暗躍はかつてないほどに容易となる。

 

ただ脅威から逃げ回り、胃薬を消費するだけの段階は終わった。

猛毒も、使い方次第では最高の劇薬となる。

 

 

一方その頃、オープンテラスでは。

 

「離して!私はあいつを追わなきゃ……!」

 

「おや、いけません。あなたの呼吸は乱れています。ここで極上のダージリンを一杯いかがでしょうか?心が落ち着くはずです」

 

「だからいらないって言ってんでしょ!ちょっと、なんで勝手にテーブルにティーセットが展開されてるのよ!」

 

神室は完全に坂本のホスピタリティという名の拘束具に囚われ、オレの行方など完全に忘却の彼方へと消え去っていた。

 

後に坂柳へと提出された神室の報告書には、綾小路を見失ったという一文の後に、坂本の淹れた紅茶が異常なほど美味かったという長文の感想が綴られることになる。

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