十月。
雲一つない秋晴れの空の下高度育成高等学校のグラウンドは異様な熱気と極度の静寂に包まれていた。
体育祭本番。
本来であれば各クラスが己の身体能力と智謀の限りを尽くしクラスポイントを奪い合う血で血を洗う闘争の場となるはずの行事だ。
しかし現実の光景はオレの想定した過酷なイベントから大きく逸脱し一種の宗教的儀式あるいは前衛芸術の展覧会と化している。
グラウンドの片隅ではかつてCクラスの暴君として君臨した龍園翔が手製のシロツメクサの花冠を頭に乗せ対戦相手にポットから温かいカモミールティーを注いで回っていた。
「争いは悲しみしか生まねえ。さあ大地の恵みを味わいな」
龍園のその慈愛に満ちた微笑みと穏やかな声色は受け取った他クラスの生徒たちに底知れぬ恐怖と混乱を植え付けている。
彼らは毒を疑いながらも龍園から放たれる圧倒的な聖母のオーラに逆らうことができず震える手でティーカップを傾けそしてその極上の美味さに涙を流して戦意を喪失していく。
さらに視線を移せばAクラスの重鎮であるはずの葛城康平が競技に参加することなく体育座りで空の雲の形を数えていた。
彼の屈強な肉体から発せられていた威圧感は見る影もなくただローズの香りのトリートメントの空きボトルを握りしめ哲学的な思索の海に沈んでいる。
すでにこの学園の覇権争いという前提は坂本というたった一人の圧倒的な存在によって根底から瓦解させられていた。
オレはトラックの端からその異常な光景を冷徹な眼差しで観察していた。
かつてオレを悩ませていた胃の痛みはもうない。
ケヤキモールのゴミ箱に重固なガラスボトルの胃薬を捨てたあの日からオレの思考は切り替わっている。
坂本をただ恐れ嵐が過ぎ去るのを待つだけの消極的防衛はとうの昔に放棄した。
彼を中心に発生するこの巨大な熱狂と周囲の無警戒はオレが裏で暗躍するための最も強固で確実な隠れ蓑となる。
神室の尾行を坂本のティーパーティーで無力化し茶柱から情報を引き出したように今日もまたこの状況を最大限に利用するだけだ。
アナウンスが鳴り響き全学年男女混合の借り物競走の開始が告げられる。
紙に書かれたお題に該当する人物や物を探し出し共にゴールへと向かうという運と人脈が試される競技。
スタートラインに並んだAクラスの代表者の姿を見た瞬間オレは状況が想定通りに動いていることを確信した。
銀色の髪を秋風に揺らし優雅に杖をついてスタートラインに立つ少女。
Aクラスのリーダー坂柳有栖だ。
足に先天的なハンデキャップを抱える彼女が走力を必要とする競技に自らエントリーするなど通常の思考ではあり得ない。
茶柱から引き出した情報通りAクラスは葛城が戦意を喪失したことで坂柳が全権を掌握している。
彼女の視線は隣のレーンで準備体操という名の完璧なクラシックバレエのストレッチを行っている坂本ただ一人に固定されていた。
スターターピストルが乾いた音を鳴らす。
各レーンの生徒たちがお題の置かれた中央のテーブルへと一斉に駆け出す。
だが坂本と坂柳だけは違った。
坂本は周囲の生徒たちが巻き起こす砂埃を流れるようなステップで一切衣服に付着させることなく回避し散歩でもするかのように優雅な歩調でテーブルへと向かう。
坂柳も走ることなく杖をつきながら確かな意志を持ってテーブルへと歩みを進めた。
「さて私にはどのような運命が用意されているのでしょうか」
坂柳はお題の書かれた紙を一枚引き抜く。
しかし彼女はその紙を開くことなく背後の観客席へと優雅に放り投げた。
「お題など不要です。私の求めるものは常に一つ。私に極上の時間を提供できる最も優れた人物のみです」
坂柳の冷徹な声が喧騒を切り裂いて響き渡る。
彼女は杖の先を真っ直ぐに坂本へと向けた。
「坂本くん。私の借り物として私と共にゴールへ向かっていただけますか。ただし私にただ歩幅を合わせるだけの退屈なエスコートであれば即座に棄権いたしますが」
それは明確な挑戦状だった。
身体の不自由な自分をいかにしてスタイリッシュにゴールまで運ぶのか。
同情も手加減も許さず純粋に彼女の知的好奇心と美意識を満たす圧倒的な遊戯の提示を求めている。
周囲の生徒たちが息を呑み実況すらも言葉を失う中坂本は落ちていたお題の紙を風に乗せてキャッチし完璧な折り鶴へと数秒で錬成してポケットにしまった。
「おやいけません。秋の風が少し冷たくなってきたようです。淑女をこのままお待たせするのは紳士の恥というもの」
坂本は坂柳の正面へと歩み寄ると彼女の持つ杖の柄の部分に自身の指先をそっと添えた。
決して杖を奪うわけではない。
あくまで彼女の意志を尊重しつつその杖を二人の歩みをつなぐ架け橋として利用する構えだ。
オレは脳内の物理演算をフル稼働させた。
坂柳の歩行能力とグラウンドの砂の摩擦係数そして坂本の圧倒的な身体能力。
それらが導き出す解は常人の想像を絶するものだった。
「さあ参りましょうか。秋の空が我々を歓迎しています」
坂本がそう告げた瞬間。
【秘技:無重力空間・プロムナードエディション】
坂本の身体から一切の重力が消失したかのような錯覚がグラウンドを支配した。
彼は坂柳の杖に添えた指先を支点とし自身の身体をまるで振り子のように滑らかに前方へとスライドさせる。
地面を蹴るのではなく地面の微かな凹凸を感知し靴底のゴムの反発力を極限まで利用して一切の上下動を排除した水平移動を実現しているのだ。
坂本の水平移動が生み出す極めて精密な空気の流体力学と杖を通じて伝わる絶妙な重心の誘導が坂柳の足にかかる負担を完全にゼロにしていた。
坂柳自身はただ普段通りに歩みを一歩踏み出しただけである。
しかし坂本が創り出す空気の波に乗せられた彼女の身体はまるで氷の上を滑るように軽やかに恐るべき速度で前進を始めたのだ。
「これは」
常に余裕の笑みを崩さない坂柳の瞳が驚愕に見開かれる。
彼女は走っていない。
足は確かに歩く速度でしか動いていない。
しかし坂本の異常なまでのリードによって二人の進む速度は全力疾走する他の生徒たちを容易に置き去りにしていた。
「おっと障害物ですね。ステップを変えましょう」
他の生徒が落としたバトンやグラウンドの窪みを感知した坂本は杖を軸にしたまま坂柳と共に完璧なワルツのターンを決めた。
ターンするたびに二人の足元から巻き上がる砂埃が黄金の光の輪のように空中に幾何学模様を描き出す。
「ふふっ」
坂柳の口から堪えきれない歓喜の笑い声が溢れ出した。
自分のハンデすらもこの男にとってはより高度で美しいステップを踏むための制約に過ぎないと理解したのだ。
屈辱など微塵もなく己の知性と想像力を遥かに超える極上の体験に対する純粋な歓喜と興奮だけがそこにあった。
結果として借り物競走は坂本と坂柳が圧倒的な美しさと速度で一位をもぎ取った。
ゴールテープを切った後も坂本は乱れぬ呼吸のまま深く一礼し坂柳もまた杖をつきながら極上の淑女の礼で応えていた。
「素晴らしい。私の期待を遥かに超える極上の時間でした。坂本くん」
「お褒めに預かり光栄です。あなたのステップも秋の風のように軽やかでした」
周囲の生徒たちはそれが競技であったことすら忘れ圧倒的な演舞を見せられたかのように万雷の拍手を送っている。
須藤たちはアニキの神聖なる御渡りだと叫びながら感涙し龍園はなんと美しい愛の形だとハーブティーを天に掲げている。
オレは静かに息を吐き出し踵を返した。
坂柳の執着がこれで終わるはずがない。
彼女は間違いなくさらに過酷で異常な舞台を用意して坂本に挑むだろう。
そして坂本はそれをすべてもてなしとして完遂する。
Aクラスの司令塔である坂柳の視線が完全に坂本に固定された今オレへの疑念や監視は完全に消滅した。
神室も坂柳自身ももうオレのことなど視界に入っていない。
全員の意識がグラウンドの中央で展開される狂信と芸術の展示会に釘付けになっているこの瞬間こそが真の好機だ。
オレは誰にも気づかれることなく各クラスの用具置き場へと静かに歩を進めた。
午後の団体競技である綱引きに向けてAクラスが用意していた滑り止め粉の袋を見つけるとオレは手持ちのベビーパウダーと中身を素早くすり替えた。
単純だが確実に相手の保持力を削ぎ落とす物理的な工作だ。
さらに進行委員が目を離した隙を突き集計ボードの裏側に回り込んで次競技の対戦レーン指定のクリップをこちらに有利な配置へと密かに変更する。
これらはすべて坂本という絶対的な囮が存在し全員の目が彼に向いているからこそ成立する裏工作だ。
熱狂の中心で誰もが彼を見上げている間オレは影の中で勝利への布石を打ち続ける。
坂本という予測不能の嵐すらもオレは手駒として完璧に利用しこの過酷な学園サバイバルを密かに支配していくのだ。