ようこそスタイリッシュ至上主義の教室へ   作:GC

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第2幕「熱狂と感涙」

午後の日差しがグラウンドの白線を照らし出す頃、体育祭の熱気は最高潮に達しようとしていた。

 

午後の部の目玉であるクラス対抗綱引き。

オレの細工により対戦カードはCクラス対Aクラスという、本来であれば絶望的な体格差と組織力の差を見せつけられるはずの組み合わせとなっているが、Aクラス陣営の足元に置かれた滑り止め粉の袋には、オレがすり替えたベビーパウダーが充填されている。

 

彼らが勝利を確信してその粉を手に馴染ませた瞬間、綱との摩擦は著しく低下し、どれほどの筋力を持っていようとも自重と引く力の反作用によって無様な転倒を余儀なくされる。

あとは須藤を中心としたCクラスの肉体派が無防備に崩れたAクラスを力任せに引きずり倒す。

 

それだけでこの競技は終わるだろう。

オレは綱の最後列から適当に綱を引くふりをしつつ、その結末を見届けるつもりだった。

 

 

しかしオレはここまでしても、「普通の勝利」が思い描けずにいた。

Cクラスの陣形の最後尾、すなわち最も体重と踏ん張りが要求されるアンカーの位置。

そこに練習戦どおり、坂本が陣取っている。

この男が参加した競技で、普通の勝利で終わるわけもない。

 

 

坂本は太く無骨な綱を腰に巻きつけるような泥臭い真似は決してしない。

綱の末端を両手で軽く握り、肩幅に足を開いて静かに前を見据えている。

その姿勢には力みが一切なく、ただ自然体でそこに存在しているだけだったが重心の位置が一切ブレていない。

 

「アニキ!ここは俺たち前衛に任せてください!アニキの体操着が砂埃で汚れちまうッス!」

 

先頭で綱を握る須藤が後ろを振り返り叫ぶ。

 

「お気遣い感謝します。ですがクラスの皆が一本の綱で繋がるこの貴重な機会。僕も最後尾で微力ながら参加させてもらいましょう」

 

坂本は眼鏡のブリッジを中指で静かに押し上げ、涼やかな声で返答した。

そのやり取りを見たAクラスの生徒たちが苛立ちと嘲笑の声を上げる。

 

「くそ、また今回もタワーを作る気か」

 

「いいから一気に引くぞ。坂本にタワーを作る隙を与えるな!」

 

審判のピストルが秋の空に向かって高く掲げられる。

グラウンドの喧騒が一瞬の静寂に包まれ、両クラスの生徒たちの筋肉が極限まで張り詰めた。

 

乾いた銃声が鳴り響く。

その瞬間Aクラスの先頭集団が一斉に体重を後ろに倒し、爆発的な力で綱を引いた。

そしてオレの仕掛けた罠が完全に作動した。

 

グラウンドに鈍い音が響く。

ベビーパウダーによって手のひらの摩擦を完全に奪われたAクラスの前衛たちが、己の引く力に耐えきれず次々と前のめりにバランスを崩していく。

 

一瞬にして綱の張力が失われた。

本来であれば、この瞬間Cクラスは一気に綱を引き切り勝利を収めるはずだった。

しかし張力が急激に失われたことで全力で綱を引こうとしていたCクラスの生徒たちもまた後方へ向かって体勢を崩しかけていたのだ。

 

両陣営が同時に転倒し泥にまみれる。

誰もがそう予想したその刹那。

 

坂本が動いた。

彼は後方へ倒れそうになるDクラスの引力を利用するのではなく、自ら前方に滑るようにステップを踏んだのだ。

 

それは倒れる仲間を支えるためのものではない。

極端に弛んだ綱のたるみを一瞬にして回収し、彼自身が巨大な波の起点となるための助走だった。

 

坂本は両手で握った綱を頭上高く掲げると、全身のバネと遠心力を利用して滑らかな軌道で大きく振り下ろした。

 

【秘技:流体力学的大縄跳び・シンクロナイズドウェーブ】

 

彼の腕から放たれた強大な運動エネルギーは、太い綱を通って美しい正弦波を描き前方へと伝播していく。

その巨大な波は倒れかけていたCクラスの生徒たちの手元を暴れ狂う蛇のように通り抜け、前のめりに転倒しようとしていたAクラスの足元へと到達した。

 

「うわっ!?綱が波打って……!」

 

顔面からグラウンドに突っ込む寸前だったAクラスの生徒たちの眼前に波打つ綱が迫る。

 

人間の防衛本能とは恐ろしいものだ。

彼らは泥を這うことを無意識に拒絶し、迫り来る綱を避けるために反射的に地面を蹴って跳躍した。

 

ここでオレの仕掛けたベビーパウダーが全く別の意味を持ち始める。

本来であれば両手で綱を強く握りしめて波の動きを止めることができるはずのAクラスの生徒たちは、掌の摩擦を奪われているため荒れ狂う綱を力で抑え込むことができないのだ。

 

綱を掴めない彼らに残された選択肢は、足元を薙ぎ払おうとする波を跳躍して避けることだけだった。

同時にCクラスの生徒たちもまた自分たちの手元から波打って足元へと向かってくる綱を避けるために、後ろへ倒れかけた体勢から無理やり上方へと跳び上がる。

 

「おっと」

 

オレは飛んできた綱の波を体勢を崩したフリをしながら、横に飛び抜け、縄の脅威が及ばない立ち位置まで移動した。

 

そして横を見て、オレの予感が的中したことを悟った。

 

 

 

 

坂本が一定のリズムで綱を大きく回し始めたことで弛んでいたはずの綱は、巨大な円を描いてグラウンドの中央で宙を舞い始めた。

 

数十人の生徒たちが一つの綱を挟んで一糸乱れぬ大縄跳びを開始したのだ。

 

 

 

 

「な、なんだこれ!?引いてたはずなのに飛んでる!?」

 

「止まれない!綱を掴めないからこのリズムに合わせて飛ばないと足を取られる!」

 

AクラスもCクラスも関係ない。

敵対していたはずの彼らが、今は坂本が刻む完璧なワルツの三拍子に合わせて全く同じタイミングで跳躍を繰り返している。

 

オレが仕掛けたベビーパウダーは相手が綱を止める力を奪い、彼らを強制的に大縄跳びの参加者へと変えるための足枷として機能していた。

さらに彼らが跳躍するたびに手からこぼれ落ちた白い粉末が足元から舞い上がり、黄金色の秋の陽光を乱反射させてグラウンドを幻想的な舞台へと変貌させている。

 

「素晴らしい連帯感です。皆さん秋の空高く、さらに高く舞い上がりましょう」

 

坂本の声がグラウンドに響き渡る。

彼はアンカーの位置から一歩も動くことなく、ただ両腕の滑らかな回転と完璧な体重移動だけで数十人の人間の重心とリズムを完全に支配していた。

 

超能力でも、魔法でもない。

ただ極限まで計算し尽くされた力学的な波の伝達と、人間の反射神経を強制的に誘導する圧倒的な技術。

 

オレはポケットの中で握りしめていた予備のベビーパウダーの袋から静かに手を離した。

オレの行った物理的な工作すらも、坂本にとっては自らが指揮する壮大な群舞を成立させ、それを彩る粉雪の演出として利用するための舞台装置に過ぎなかったのだ。

 

勝敗という概念すら消え去り、ただ純粋な芸術の完成に向けて跳躍を続ける両クラスの生徒たちを見つめながらオレは改めて思い知らされた。

 

 

この学園において真の勝者は、暗躍して策を弄する者、オレではなく、前提のルールそのものを己の美学で上書きしてしまうこの男なのだと。

 

 

グラウンドに鳴り響くはずの終了のホイッスルは、いつまで経っても吹かれなかった。

進行委員の生徒も教員たちも巨大な縄跳びと化した綱引きの異様な光景に完全に心を奪われ、職務を放棄している。

 

何より異常なのは当の参加者たちだ。

本来であればいがみ合い、騙し合い、蹴落とし合うはずのAクラスとCクラスの生徒たちが互いに顔を見合わせながら爽やかな笑顔すら浮かべて跳躍を続けている。

その瞳にはすでに敵意など微塵もなく、ただ一つの完璧なリズムを共有する共同体としての謎の連帯感だけが宿っていた。

 

「フッ」

 

不意に坂本の口から微かな吐息が漏れる。

彼が両腕の回転をわずかに緩めると、暴れ狂っていた太い綱の波はまるで主人の命令に従う従順な獣のようにゆっくりとその高さを下げていった。

最後の波がグラウンドの砂を優しく撫でた瞬間、数十人の生徒たちが一斉に着地し完璧な静寂が訪れる。

 

「皆様、素晴らしい跳躍でした。秋の神々もきっと微笑んでいることでしょう」

 

坂本が綱から手を離し深く一礼する。

その瞬間、AクラスとCクラスの垣根を超えた万雷の拍手がグラウンドを包み込んだ。

須藤はなぜか号泣しながらAクラスの屈強な男子生徒と熱い抱擁を交わしており、観客席からはアンコールを求める声すら上がり始めている。

 

もはや綱引きにおける勝敗の判定など誰一人として求めていなかった。

ただ極上の芸術作品を鑑賞し終えた後のような深い余韻だけが、高度育成高等学校のグラウンドを支配している。

 

オレは静かに踵を返し、自クラスの待機テントへと歩を進めた。

 

 

綱引きという名の巨大な大縄跳びが終了した後も、高度育成高等学校のグラウンドは特異な熱に浮かされ続けていた。

 

本来であればこの後に続く中規模の競技群は、各クラスが午後の最終種目に向けて体力とポイントを温存しつつ、裏で細かな情報戦や妨害工作を展開する最も陰湿な時間帯となるはずだった。

オレもまたいくつかの競技において、進行委員の死角を突いた用具のすり替えや対戦相手への心理的誘導を仕掛けていた。

しかしそれらの緻密な布石は、すべて一人の男が巻き起こす圧倒的なスタイリッシュの嵐の前に無意味な塵と化していったのだ。

 

障害物競走。

グラウンドに設置された麻袋跳びや網くぐりそしてパン食いといった古典的な障害を乗り越える競技。

オレは事前に他クラスの有力選手の麻袋の底の縫い目をわずかに解れさせ、網の固定具を緩めることで彼らのタイムを削る手はずを整えていた。

だが第3レースに坂本が出場した瞬間、競技の前提そのものが崩壊した。

 

号砲と共に飛び出した坂本は、麻袋を足に履くという常識的な行動をとらなかった。

彼は麻袋を両手に持ちそれをまるでマタドールが操るムレータのように優雅に翻しながら前進したのだ。

向かってくる秋の風を袋に孕ませ、その揚力を利用してグラウンドを滑空するその姿は障害物競走ではなく完全に闘牛士の演舞だった。

 

続く網くぐりにおいて他クラスの生徒たちが泥にまみれながら這いつくばる中、坂本は網の上に軽やかに跳躍した。

彼は網の結び目をピンポイントで踏み抜き、そのトランポリンのような反発力を利用して空中を歩くように進んでいく。

 

「なんだあれは……網の上を歩いているだと!?」

 

「泥一つ跳ねていない……なんて美しいんだ……」

 

観客席からの感嘆の声が響く中、坂本は最後の関門であるパン食いへと到達した。

吊るされたあんパンに向かって、獣のように食らいつくのがこの競技の醍醐味だ。

 

しかし坂本は決して口を開けてパンに向かうような、はしたない真似はしない。

彼はどこからともなく取り出した純銀製のデザートフォークを掲げ、揺れるあんパンの重心を正確に見極めて一瞬で突き刺した。

そして懐から取り出した純白のナプキンを首元に添え走りながら、完璧なテーブルマナーでそれを食し始めたのだ。

 

オレの仕掛けた罠に嵌まり泥だらけになった他クラスの生徒たちすらもそのあまりにも高貴なティータイムを見せつけられ戦意を喪失し、拍手を送る観客へと成り下がっていた。

 

 

続く二人三脚。

ここで坂本はあろうことか、なぜかBクラスの血の気の多い生徒とペアを組むことになった。

高円寺はどうしたのか、なぜ敵と二人三脚をしているのか、オレには全くわからない。

 

スタートの合図と共に、Bクラスの生徒が露骨に坂本の足を引っ掛けようと体重を左に傾けた。

だが坂本はその悪意ある重心の崩れを拒絶するのではなく、あえて受け入れた。

 

「さあ情熱のステップを刻みましょう」

 

坂本は相手の腰にそっと手を回し、完全に崩れかけた相手の身体を強引に引き起こすとともに圧倒的なリードで相手の足運びを支配した。

 

それは高円寺と舞った完璧なタンゴだった。

 

結ばれた赤いハチマキは二人の情熱を繋ぐ運命の赤い糸へと変貌し、Bクラスの生徒は坂本のリードに抗うことができず顔を真っ赤にしながら魅惑的なステップを踏まされていく。

ゴールラインを越えた瞬間、坂本が相手を深くディップさせる形でフィニッシュを決めるとグラウンドには割れんばかりの歓声が響き渡った。

Bクラスの生徒は乙女のような瞳で坂本を見つめ完全に骨抜きにされていた。

 

そして極めつけは団体競技の華である騎馬戦だった。

残存する全クラスの猛者たちがハチマキを奪い合う血湧き肉躍る戦場。

オレはCクラスの騎馬同士で強固な陣形を組み、ターゲットを絞って確実にポイントを稼ぐ戦術を平田に提案していた。

しかし坂本が須藤たちを土台にして騎馬の頂点に立った瞬間、すべての戦術が過去の遺物となった。

 

「アニキ!どこへ向かいましょうか!」

 

「風の赴くままに。争いを収めに行きましょう」

 

坂本の乗る騎馬に向かって他クラスの屈強な騎馬たちが一斉に襲い掛かる。

四方八方から伸びる暴力的な腕。

だが坂本は一切表情を変えなかった。

 

【秘技:胡蝶の舞・リボンラッピング】

 

坂本の上半身が残像を残すほどの滑らかさで揺らぐ。

彼は襲い来る無数の腕を柳のように躱し、相手の手首を優しく払い除けるとその流れるような動作のまま相手の頭上に巻かれたハチマキにそっと触れた。

 

奪うのではない。

彼は敵のハチマキを頭に巻かれた状態のまま、一瞬の手品のような指先の動きで可愛らしい蝶々結びへと結び直していったのだ。

ハチマキを奪われれば脱落というルールだが、可愛く結び直された場合の規定は存在しない。

 

だが屈強な男子生徒たちが頭に可憐なリボンを乗せられた自身の姿に気づいた瞬間、彼らは得体の知れない敗北感と羞恥心そして圧倒的な美への屈服によって自ら騎馬を崩して崩れ落ちていった。

 

「なんて可憐なリボンだ……俺たちは負けたんだ……あいつの美学の前に……」

 

次々と戦意を喪失していく他クラスの生徒たち。

坂本が通った後には、頭にリボンを乗せてうっとりとする男子生徒たちの平和な花畑が形成されていく。

 

もはや誰も坂本を攻撃しようとはしない。

彼は戦場に降臨した絶対的な平和の象徴としてグラウンドの中央で優雅に秋の空を仰いでいた。

 

特等席である本部テントでは坂柳が満足そうに手を叩き、龍園は配下の石崎たちにリボンを結んでやりながら穏やかな笑みを浮かべている。

 

オレの仕組んだ数々の妨害工作や情報操作は、坂本という男が息を吸って吐く程度の日常的かつスタイリッシュな動作の前にことごとく無力化されただの美しい背景へと変換されてしまった。

 

 

もはやこの体育祭に勝敗の行方やクラスポイントの増減を気にする者など誰一人として存在しない。

全員の意識は次なる最終種目全学年男女混合のクラス代表リレーにおいて、坂本がどのような極上のフィナーレを見せてくれるのかという一点のみに集約されていた。

 

 

オレは静かに息を吐き、手の中に隠し持っていた工作用の細工道具をすべてゴミ箱へと投げ捨てた。

陰の暗闘など、圧倒的な芸術の前にはひどく滑稽な徒労に過ぎないのだ。

 

 

体育祭の熱狂は冷めることなく、いよいよ最終種目である全学年男女混合のクラス代表リレーへと移行しようとしていた。

 

各クラスの威信をかけた最速のランナーたちが集い、バトンを繋ぐこの行事の真の華。

 

本来のオレであればここで何らかのトラブルに対処するか、あるいは目立たないように最下位付近を走るようタイムを調整するかのどちらかを選択していたはずだ。

しかし現在のCクラスの空気はオレの想定したどのパターンにも当てはまらない異質なものへと変貌している。

待機テントに戻った須藤たちは疲労困憊であるはずにもかかわらず、何かに憑かれたかのように目を輝かせていた。

 

「アニキの背中を追うんだ。俺たちはアニキが繋いでくれたこの完璧な空気をゴールまで運ぶ使命があるだろ!!」

 

須藤のその言葉に平田や他のクラスメイトたちも深く頷いている。

彼らのモチベーションは、すでにクラスポイントの獲得という欲求を遥かに超越していた。

 

坂本という至高の存在に少しでも近づき、彼の創り出した芸術的な空間を汚さないよう己の限界を超えようとする純粋な信仰心。

それが今のCクラスを動かす絶対的な原動力となっている。

 

オレは予定通り第四走者としてトラックに立つことになったが、すでにオレの走りに対する周囲の関心など皆無に等しい。

全員の視線はただ一人、このリレーのアンカーを務める男へと向けられていた。

 

スタートラインから遥か彼方、アンカーの待機ゾーン。

そこに坂本はいた。

 

彼は他の走者たちが入念なストレッチやクラウチングスタートの練習に励む中、ただ静かに秋の空を見上げていた。

 

ジャージのジッパーは首元まで完璧に引き上げられ、その立ち姿はまるで彫刻のように一切の無駄がない。

 

スターターピストルの音がグラウンドの空気を切り裂く。

第一走者たちが一斉に飛び出し、トラックには凄まじい砂埃が舞い上がった。

 

各クラスの意地が激突する熾烈なデッドヒート。

須藤の驚異的なスプリントによってCクラスはトップ争いに食い込み、オレへとバトンが渡る。

オレは目立ちすぎずかつ遅れすぎない絶妙なペース配分でトラックを駆け抜けた。

 

だが走りながらオレの視界に飛び込んできたのは、コースの脇で優雅に紅茶を傾ける龍園と、彼に日傘を差しかける石崎の姿だった。

 

「いい走りじゃねえか。だが最後はすべてあの男が持っていくんだろうぜ」

 

龍園の呟きはオレの耳には届かなかったが、その表情から彼がすでにこの競技の勝敗ではなく、坂本が次に何を見せてくれるのかという純粋なエンターテインメントを求めていることは明白だった。

 

バトンは次々と渡り、いよいよ最終走者アンカーの手に託される瞬間が訪れる。

 

Cクラスのアンカー前の走者である平田が全速力で坂本へと迫る。

他クラスのアンカーたちは、バトンを少しでも早く受け取るためにトラックのギリギリまで前進し、腕を後ろに伸ばして走り出しの態勢に入っている。

 

しかし坂本は違った。

 

彼は所定の位置から一歩も動くことなく、ただ静かに右手を差し出したのだ。

それはバトンを受け取るという切羽詰まった動作ではない。

まるで舞踏会でパートナーの手を取るかのような、極めて紳士的で優雅な所作。

 

「坂本くん!頼む!」

 

平田が息を切らしながらバトンを差し出す。

 

その瞬間だった。

坂本は直接バトンを素手で握ることをしなかった。

彼はどこから取り出したのか、純白のシルクのハンカチーフを右手のひらに広げ、その上にまるで王冠を載せるかのように平田から渡されたバトンをそっと受け止めたのだ。

 

「確かに受け取りました。あなたの汗と情熱が染み込んだこのバトン、僕が極上のゴールへとエスコートいたしましょう」

 

坂本が走り出した。

いやそれは走る、という動作の定義を根本から覆す何かだった。

 

【秘技:無重力歩法・エグゼクティブウォーク】

 

坂本の上半身は一切ブレていなかった。

 

人間の走力は腕の振りと脚の回転、そして前傾姿勢によって生み出される。

しかし坂本の姿勢は完全に地面に対して垂直を保っており、腕を大きく振ることもない。

 

坂本は右手の手のひらにシルクのハンカチーフと共にバトンを乗せ、まるで高級レストランのウェイターがグラスを運ぶかのような完璧な平衡感覚を保ったまま、トラックを滑るように移動し始めたのだ。

 

その速度は異常だった。

 

競歩の達人ですら到底及ばない、恐るべきストライドの広さと足裏が地面に接する時間を極限まで削ぎ落とした完璧な重心移動。

 

彼は地面を蹴って進んでいるのではない。

前に出した足に全身の体重を一瞬で乗せ、次の瞬間にはもう逆の足を遥か前方に振り出している。

 

摩擦という物理法則を、極限まで計算し尽くしたその滑らかな水平移動は先行していた他クラスのアンカーたちを次々と抜き去っていく。

 

抜かれた走者たちは一様に目を剥き、自身の全力疾走がまったく汗一つかいていない直立姿勢の男に置き去りにされるという事態に足をもつれさせて転倒していく。

 

「な、なんだあれ……走ってないのに速い……!?」

 

「バトンを……手のひらに乗せたまま落とさないだと!?」

 

実況の生徒すらも言葉を失い、マイクを通してただ絶句する音がグラウンドに響く。

 

坂本の背後には彼が作り出した極めて精密な空気の流線によって、トラックの砂埃が美しい螺旋を描きながら舞い上がっていた。

それはまるで彼を祝福するために大地が巻き起こした黄金の絨毯のようだ。

 

オレはトラックの脇で息を整えながら、その常軌を逸した歩法を凝視していた。

あれは単なる身体能力の誇示ではない。

空気抵抗を極限まで計算し尽くし、自身の肉体を一つの流線型の弾丸として最適化する完璧なボディコントロール。

 

そして何よりバトンを握りしめることなく、手のひらに乗せ続けるという行為が彼の重心移動がいかに完璧で上下のブレが一切存在しないかを証明している。

 

最終コーナーを曲がり、直線へと差し掛かる。

もはや坂本の前に他の走者の姿はない。

 

彼はただ一人孤独に、そして圧倒的な美しさとともにゴールテープへと向かっていく。

 

観客席からは一切の歓声が消え失せていた。

誰もが息を呑み敬虔な眼差しで彼の姿を網膜に焼き付けている。

 

そしてゴール。

普通であれば胸を張り、テープを切るその瞬間。

坂本はわずかに身を翻した。

 

【秘技:勝利の装い・ゴールテープ・テーラード・フィニッシュ】

 

彼がテープに触れる直前、その体は独楽のように美しく回転した。

ピンと張られた純白のゴールテープは坂本の回転に巻き込まれるようにしてふわりと宙を舞い、そしてあろうことか彼の首元へと完璧な軌道で巻き付いたのだ。

 

それはまるで一流の仕立て屋が彼のために用意した極上のマフラーのように坂本の首回りを美しく彩り、そして彼はそのまま一切の乱れなく直立不動の姿勢でピタリと静止した。

 

「秋の風が少し冷たくなってきたようです。この素敵な贈り物、ありがたく頂戴いたします」

 

坂本が右手に乗せたバトンを胸元に寄せ、深く一礼する。

 

その瞬間、数秒の遅れを伴ってグラウンド全体が爆発的な歓声と拍手の大渦に飲み込まれた。

 

熱狂と感涙。

 

もはやそこにはクラス対立という概念は存在しない。

全員が坂本という一個の芸術作品を完成させるための観客であり、共犯者となっていた。

Aクラスの坂柳は満足そうに微笑みながら杖をついて立ち上がり、惜しみない拍手を送っている。

 

 

オレの策が通用する余地など、最初からどこにもなかった。

 

この学園はすでに坂本という絶対的な支配者によって、最もスタイリッシュな形で統治されている。

 

オレは首に巻かれたテープを優雅に解く男の後ろ姿を見つめながら、己の中に芽生えたかつてない感情に静かに名前をつけた。

 

それは敗北ではなく、極上の喜劇に対する純粋な感嘆だった。

 

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