「チンッ」という場違いに軽快な電子音が鳴り響き、目的の階に到着したことを告げる。
扉が開くや否や、上級生たちはまるで恐ろしい猛獣にでも遭遇したかのように、弾かれたようにエレベーターから転がり出ていった。「ヒィッ」という情けない悲鳴が廊下の奥へと消えていく。彼らの脳内では、もはや坂本は人間ではなく、ある種のポルターガイスト現象か何かとして処理されているのだろう。
堀北もまた、オレや坂本には一瞥もくれず、逃げるように自身の部屋の方向へと早歩きで消えていった。彼女の強靭な精神力をもってしても、あの「無重力空間(ゼロ・グラビティ・ホールド)」の余韻には耐えきれなかったらしい。
エレベーター内に残されたのは、オレと、手すりから音もなく床に舞い降りた坂本だけだった。
「さて、着きましたね。綾小路くん」
坂本は制服の乱れを(元々一ミリも乱れていないが)軽く払うと、優雅な足取りで廊下へと歩みを進めた。
彼の部屋は、オレの部屋のすぐ近くにある。
高度育成高等学校の学生寮は、完全個室のワンルームマンションのような作りになっている。キッチン、バス、トイレが完備され、学生が一人で生活するには十分すぎるほどの設備が整っている。学校から毎月支給される10万ポイントを使えば、部屋を豪華な家具や最新の家電で彩ることも容易だ。現に、Dクラスの多くの生徒たちは、入学直後の全能感に酔いしれ、ゲーム機や大型テレビ、無駄に高級なインテリアを買い漁っている。
だが、オレは知っている。この学校がそんな甘いユートピアであるはずがないということを。
オレが自室のドアノブに手をかけた時、ふと、隣の坂本の部屋のドアが開いたままになっていることに気がついた。
ほんの少しの好奇心、あるいは危機管理の一環として、オレは視線だけを横に滑らせ、彼の部屋の中を覗き見た。
「……」
オレは再び、自らの目を疑うことになった。
何もないのだ。
学校が最初から用意している備え付けのベッドと机、小さな冷蔵庫以外、見事なまでに何一つ存在しない。10万ポイントという大金を手にした普通の高校生であれば、何かしらの娯楽品や嗜好品、せめてラグマットの一枚でも敷きたくなるのが人間の心理というものだ。
しかし、坂本の部屋は、まるで入居前のモデルルームか、あるいは精神修行のための座禅堂のように、恐ろしいほどの静寂と無機質さを保っていた。
彼が今日、あの巨大なコンビニエンスストアで手に入れたのは、無料の石鹸と無料の飲料水のみ。
ポイント消費は、ゼロ。
(……こいつ、まさかこの学校の本質に気づいているのか?)
毎月10万ポイントが無条件で振り込まれ続けるなどという甘い話が存在しないことを、坂本はすでに見抜いているのだろうか。だからこそ、一切の無駄遣いをせず、ミニマリズムを極めた生活を送っているのか。
オレが密かに警戒心を強めていると、部屋の中央に立つ坂本が動いた。
彼は、窓辺のカーテンを静かに開け放ち、夕闇が迫る空から差し込む月光を部屋の中に招き入れた。そして、無料の石鹸を机の上に置き、備え付けの安価なカッターナイフを手にした。
「——秘技:月下の彫刻師(ムーンライト・ミケランジェロ)」
シャッ、シャシャッ!
暗がりの部屋の中で、坂本の腕が残像を残すほどの速度で動いた。カッターナイフの刃が石鹸の表面を滑るたびに、まるで雪の結晶のように薄く削り取られた石鹸の欠片が、月光を反射してキラキラと宙を舞う。
わずか数十秒の出来事だった。
坂本が息を吹きかけると、机の上には、ただの四角い無料石鹸だったはずの物体が、羽の一枚一枚まで精密に彫り込まれた白鳥の彫刻へと変貌を遂げていた。削り取られた石鹸の微粒子が空調の風に乗って部屋中に拡散し、まるで高級ホテルのラウンジのような、清潔で品のあるフローラルな香りを空間全体に充満させる。
「……」
オレは無言で自室のドアを閉め、鍵をかけた。
深い思考の海に沈もうとしていたオレが馬鹿だった。彼は学校のシステムを見抜いているのではない。ただ単に、無料の石鹸ひとつあれば、自らの手で最高級の生活空間を創出できるという、究極の自己完結型スタイリッシュ生命体であるだけだ。
自室のベッドに腰を下ろし、オレはスマートフォンを取り出して現在の状況を整理し始めた。
入学して数日。Dクラスの連中は完全に浮かれている。須藤、池、山内をはじめとする生徒たちは、授業中の私語や居眠り、遅刻を繰り返し、ポイントを湯水のように浪費している。もしこの学校のシステムがクラスの態度や成績によってポイントが変動するという減点方式のルールを採用しているのだとすれば、来月のDクラスへの支給ポイントは、間違いなくゼロになる。
問題は、そうなった時にクラスがどう動くかだ。パニックに陥り、自滅の道を歩むか。それとも、這い上がるために団結するか。オレとしては、面倒事には一切巻き込まれず、目立たない平穏な日々を送りたいだけなのだが。
ドンッ!
その時、オレの部屋のドア、いや、正確には隣の坂本の部屋のドアを乱暴に叩く音が廊下から響いてきた。
「オイ! 開けろや、メガネ!」
ダミ声の怒鳴り声。間違いない、Cクラスの連中だ。
夕方のコンビニで、龍園は坂本の「秘技:白鳥の湖(スワン・レイク)」によって不可解な恐怖を味わわされた。龍園がそのまま引き下がるはずもなく、手下の石崎たちを使って、坂本の素性を探るため、あるいは威圧するために偵察に寄こしたのだろう。
オレは音を立てずに立ち上がり、ドアスコープから廊下の様子を窺った。
予想通り、そこには石崎と、数名のCクラスの生徒が、坂本の部屋の前に陣取っていた。
「龍園さんがテメェに用があるって言ってんだろ! さっさと面貸せや!」
ガンガンと容赦なくドアが蹴り飛ばされる。
ガチャリ。
静かな金属音と共に、ドアが開いた。
そこに立っていたのは、学校指定のジャージ……いや、どう見てもジャージなのだが、なぜか彼が着ると、英国の貴族が休日に着る高級なラウンジウェアのように見える坂本だった。
「夜分遅くに、どのようなご用件でしょうか。訪問販売であれば、あいにく間に合っておりますが」
「とぼけてんじゃねえぞ! テメェ、今日の夕方、龍園さんに何しやがった!」
石崎が坂本の胸ぐらを掴もうと手を伸ばす。
だが、その手は空を切った。
坂本はわずかに上半身を後方へ逸らすと同時に、ドアノブから手を離さず、流れるような動作で石崎の腕を避け、そのまま優雅なお辞儀の体勢へと移行したのだ。
「——おや、これは失礼。遠路はるばるお越しいただいたお客様を、玄関先で立ち話させるわけにはいきませんね。さあ、中へどうぞ」
「は……? いや、俺たちは別に……」
「粗茶ですが、お出ししましょう」
坂本の放つ、圧倒的で有無を言わせぬおもてなしのオーラに呑まれ、石崎たちは毒気を抜かれたように、フラフラと坂本の部屋へと足を踏み入れてしまった。
オレは少しだけ自室のドアを開け、隙間から隣の部屋の様子を観察することにした。このまま乱闘騒ぎになって退学者が出るのも面倒だ。状況によっては、教師や警備員を呼ぶ必要があるかもしれない。
だが、オレの心配は完全に杞憂に終わる。
「な、なんだこの部屋……? 何もねえじゃねえか……」
部屋に入った石崎たちが、呆然と呟く。
彼らの視線の先には、月光に照らされた石鹸の白鳥だけが、神々しい光を放って鎮座していた。
「どうぞ、お掛けください」
坂本は備え付けの椅子を一つだけ引き、石崎に勧めた。他の取り巻きたちは座る場所がなく、手持ち無沙汰に突っ立っている。
「テ、テメェ、舐めてんのか! 俺たちは茶を飲みに来たんじゃねえ!」
「——秘技:重力落とし(グラビティ・ドロップ)」
坂本の声が、静寂の部屋に響いた。
彼は、学校支給の無料の紙コップを机の上に置き、右手には、備え付けの電気ケトルでお湯を沸かしただけのただの熱湯が入った急須を持っていた。
坂本は、その急須を、自らの頭上の高さまで高々と掲げ上げた。
そして、そのまま急須を傾けた。
「なっ……!?」
石崎が息を呑む。
高低差およそ一メートル。
その途方もない高さから注がれた熱湯の細い一筋は、一滴の飛沫も上げることなく、恐るべき精密さで、机の上の小さな紙コップのど真ん中へと寸分違わず注ぎ込まれていった。
チョロチョロチョロ……という、心地よい水音が部屋に響く。
高所から落下することによって、熱湯は空気に触れて適度な温度にまで冷却され、同時に水中の空気が攪拌されることで、極上のまろやかさを生み出している。
ただのお湯である。茶葉など一切入っていない。
だが、そのあまりにも洗練された所作、圧倒的な技術、そして月光と石鹸の香りに包まれた幻想的な空間演出により、石崎たちの脳は完全にバグを起こしていた。
「さあ、どうぞ。冷めないうちに」
坂本が、恭しく紙コップを石崎に差し出す。
石崎は、もはや怒鳴り込むという本来の目的を完全に忘れ、両手で震えながらその紙コップを受け取った。
「あ、ああ……いただくっす……」
石崎は、ゆっくりとその「ただの白湯」を口に含んだ。
その瞬間、彼の瞳孔が大きく見開かれた。
「……美味ぇっす……!」
石崎の目から、一筋の涙がこぼれ落ちた。
「なんだこれ……!? 龍園さんがいつも飲んでる高え紅茶より、ずっと深く、心に染み渡るような味がするっすよ……! 茶葉の香りが、俺の荒んだ心を優しく包み込んでくれるみたいっす……!」
後ろで見ていた取り巻きたちも、「マジかよ」「俺も一口……」と群がり始め、ただのお湯を分け合って感動の涙を流している。
オレはドアの隙間から、冷静にその光景を分析していた。
プラセボ効果。
人間は、強烈な思い込みや、権威ある者からの提供物に対して、実際の物理的成分以上の効果を脳内で作り出してしまうことがある。
坂本は、極限まで高められた所作と空間の香り付けによって、石崎たちの脳に「これは最高級の茶である」という強烈な錯覚を植え付けたのだ。茶葉を一切使用せず、無料の石鹸と水道水だけで、Cクラスの不良たちを完全に屈服させたのである。
「ごちそうさまっす……! 坂本さん、夜分遅くに押しかけて、本当に申し訳なかったっす!」
数分後。
石崎たちは、すっかり浄化されたような清々しい顔つきで、坂本に対して深々と一礼をしていた。
「お気をつけて。夜道は冷えますからね」
坂本が優雅に手を振って見送る。
「はいっ! 坂本さんも、おやすみっす!」
石崎たちは、足音を立てないように静かに廊下を歩き、エレベーターへと帰っていった。彼らは龍園に何と報告するのだろうか。「坂本は最高のお茶を淹れてくれる聖人でした」とでも言うつもりか。龍園の胃に穴が開かないことを祈るばかりだ。
オレは、静かに自室のドアを閉め、ベッドに仰向けに倒れ込んだ。
やれやれ。
やはり、この学校における最大のイレギュラーは、CクラスでもAクラスでもなく、隣の部屋に住むあの男だ。彼の存在が、オレの目指す平穏な学園生活にどのような影響をもたらすのか、もはやオレの計算能力をもってしても予測することは不可能だった。
明日は月曜日。
また、波乱の予感しかしない日常が始まる。
オレは深くため息をつき、部屋の明かりを消した。