ようこそスタイリッシュ至上主義の教室へ   作:GC

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第5幕「布石」

翌朝の教室は、かつてないほどの静寂と謎の連帯感に包まれていた。

 

生徒たちの顔には、昨日の体育祭で全クラス同着一位という特例措置を成し遂げた後の、奇妙な達成感が漂っている。

クラス間の憎悪や疲労は完全に消失していた。

 

「おはよう、綾小路くん」

 

声をかけてきたのは、以前までのトゲトゲしさを完全に失った堀北だった。

 

彼女の表情には昨日の激しい頭痛の痕跡が残っているものの、どこか吹っ切れたような異様な清々しさがあった。実力至上主義の前提が崩れ去る恐怖に苛まれ、逃避行動をとっていた彼女だが、あの日。生徒会長である堀北学からの激励によって前向きな混乱が生じ、基本的には機嫌が良いのだ。

 

「ああ、おはよう」

 

オレが短く返すと、彼女は自席に座り、ノートを開いた。

教壇には、深いクマを刻み、激しい疲労感を漂わせた担任の茶柱佐枝が立っていた。彼女の目には、教育者としての威厳よりも、未知の恐怖から自己を防衛しようとする本能の色が濃く表れている。

 

「席につけ。これより、昨日の体育祭の最終結果、及び特例措置に関する正式な通達を行う」

 

茶柱の声は低く、そしてどこか震えていた。

 

無理もない。学校側が全クラス同着一位という特例措置を適用するなど、この高度育成高等学校の歴史において前代未聞の事態なのだから。

 

「結論から言う。予定通り、各クラスには順位ポイントが等分加算される。我が新Cクラスのペナルティによる失点危機は完全に回避された」

 

歓声が上がるかと思いきや、クラスの反応は奇妙なほど静かだった。

 

須藤や池、山内といった『さんばか』の面々でさえ、勝利を喜ぶのではなく、ただ一点、窓際の席で優雅に読書に耽る男を見つめていた。彼らは坂本を神として崇める狂信者と化しているのだ。

 

 

昼休み。

 

グラウンドの片隅で、信じがたい光景が繰り広げられていた。

 

坂本がベンチに座り、周囲には無数の鳩やカモメが彼の肩や腕に止まっている。彼は自作の弁当箱を開き、一切の無駄がない所作で鳥たちに餌を与えていた。

 

その少し離れた場所で、Aクラスのリーダーである坂柳有栖が杖をつきながら静かに微笑んでいる。

 

「素晴らしい景色ですね、坂本くん」

 

彼女の瞳には、かつて他者を見下していた冷酷さは微塵もない。あるのは、坂本という極上の娯楽に対する狂気的なまでの知的好奇心だけだ。

 

「坂柳さんもいかがですか。特製のハーブシードです。消化にも良いですよ」

 

「ふふっ、遠慮しておきます。私は、あなたがそうして無償の愛を振りまく姿を特等席で眺められるだけで十分ですから」

 

坂柳は、自身のハンデすらも極上の遊戯のスパイスに変えてみせた坂本に対し、純粋な歓喜を爆発させている。彼女の関心は完全に坂本一人に固定化されていた。

その反対側では、Dクラスに転落したはずの龍園翔が、手製のシロツメクサの花冠を頭に載せ、穏やかな微笑みを浮かべていた。

 

「命の輝きってのは、こういう些細な瞬間に宿るんだな」

 

龍園は、かつての暴君としてのアイデンティティを完全喪失し、平和主義の伝道師として人生の美しさを語っている。その後ろで、伊吹澪が呆れたような顔をしながらも、坂本から提供されたオーガニッククリームをちゃっかりと手に塗っていた。彼女もまた、完全に毒を抜かれているのだ。

 

さらに視線を移すと、Aクラスの葛城康平がグラウンドの隅で体育座りをして、空の雲の形を数えながらローズのトリートメントの成分表を暗唱していた。彼は実力至上主義の敗北を受け入れ、論理を超えた美の探求者として完全に悟りを開いている。

 

 

 

これが、坂本という男がたった数ヶ月で作り上げた新しい学園の姿だ。

実力至上主義という概念は破壊され、学園のパワーバランスは完全に再構築されつつあった。

 

 

「綾小路くん」

 

不意に背後から声をかけられ、オレはわずかに肩を揺らした。

振り返ると、そこにはいつの間にか鳥たちへの給餌を終えた坂本が立っていた。

彼の制服には、羽毛一本、埃一つ付着していない。

 

「日陰は少し冷えますよ。よろしければ、温かいカモミールティーでもいかがですか。疲労するクラスメイトの心身の緊張を解きほぐすのに最適です」

 

坂本はそう言って、どこから取り出したのか、優雅なティーカップをオレに差し出した。彼のホスピタリティは、オレも包み込もうとしているのか。

 

「……もらうよ」

 

オレは静かにカップを受け取った。実力至上主義の教室は、明日からもこの規格外の男によってスタイリッシュに塗り替えられていくのだろう。

 

手渡されたティーカップからは、かすかにリンゴに似たカモミールの柔らかな香りが立ち昇っていた。

縁に口をつけ、静かに傾ける。絶妙に管理された温度の液体が喉を通り抜けていく。熱すぎず、ぬるくもない。体育祭の翌日という、肉体的にも精神的にも疲労が抜けきらない生徒の身体に、一切の負担をかけない完璧な適温だった。

 

オレは視線をカップから前方へと戻す。

グラウンドの片隅に展開された異質なティーサロンは、予鈴のチャイムが鳴り響くまで、完全な静寂と平和を保っていた。

 

チャイムの音が響き渡ると同時、坂本は音もなくベンチから立ち上がった。

彼の肩や腕に止まっていた無数の鳩やカモメたちは、まるで指揮者のタクトに従うかのように一斉に飛び立ち、青空に向かって旋回していく。

坂本は去りゆく鳥たちに優雅な一礼を捧げた後、流れるような手つきで空になったティーカップを回収し始めた。その所作には、一切の無駄がない。

 

「ごちそうさま。助かったよ」

 

オレが手元のカップを差し出すと、彼は銀色のトレイでそれを受け取り、静かに頷いた。

 

「午後の授業も、快適な心身で臨めることを祈っています。日差しはまだ強いですから、水分補給はお忘れなく」

 

彼にとっては、これがごく当たり前の日常なのだ。

特例措置によって学校中が揺れていようと、他クラスのリーダーたちが自分に狂信的な視線を向けていようと、彼の美学は一ミリたりともブレることはない。

 

教室へ戻る道すがら、廊下でAクラスの生徒たちとすれ違った。

かつてなら、Cクラスに昇格したばかりのオレたちに対して、警戒や値踏みするような視線、あるいは明確な敵意が飛んできたものだ。だが、今は違う。

 

彼らの視線は宙を彷徨い、どこか虚ろだった。すれ違った葛城派の生徒からは、かすかにローズ系のトリートメントの香りが漂ってくる。坂柳派の生徒たちもまた、自分たちの絶対的なリーダーである坂柳有栖が、坂本という極上の娯楽に完全に心を奪われている影響で、クラスとしての方向性を見失っているようだった。

 

Aクラスからの、オレに対する監視の目は完全に消滅していた。

 

教室の扉を開けると、中は不思議なほどの落ち着きを見せていた。

かつてのように、些細なポイントの増減で一喜一憂し、いがみ合っていた面影はない。窓際の席では、さんばかの面々が坂本の机を布巾で丁寧に拭き上げている。もはや掃除当番という概念を超えた、神への奉仕活動にしか見えなかった。

 

オレが自席に向かうと、隣の席でノートを広げていた堀北が顔を上げた。

 

「戻ったのね。ずいぶんと優雅な昼休みだったようじゃない」

 

「ただ巻き込まれただけだ」

 

「そう。まあいいわ。理由はともかく、今は彼のおかげで、他クラスからの干渉が嘘のように止まっている。この間に、私たちは新Cクラスとしての基盤を完全に固めるべきよ」

 

堀北は手元のペンを置き、真っ直ぐに前を向いた。

彼女はもう、坂本の引き起こす異常現象から目を背けるのではなく、それを利用できる環境として受け入れつつあった。

 

「そうだな。ペナルティによる失点のリスクが消えた今、地盤を固めるには最適の時期だ」

 

オレは短く同意し、椅子に腰を下ろした。

 

午後からの授業に現れた茶柱佐枝は、相変わらず深いクマを作っていた。彼女は教壇に立つなり、どこか焦点の定まらない目で教室全体を見渡し、淡々と教科書を読み上げ始めた。学校側の予想を遥かに超える事態の連続に、彼女の自己防衛本能はまだ解除されていないらしい。

 

放課後。

オレは一人でケヤキモールへと足を運んだ。

日用品の買い出しを装いつつ、他クラスの動向を最終確認するためだ。

 

カフェのテラス席には、一之瀬を中心としたBクラスの面々が集まっていた。彼らの表情もどこか穏やかで、かつての焦燥感はない。無人島や船上試験で坂本の圧倒的な力の前に本能を屈服させられた彼女たちは、争うこと自体の意味を見失いかけているようにも見える。

 

ふと、視界の端にAクラスの神室真澄の姿が映った。

 

彼女はカフェから少し離れたベンチに一人で座り、気怠げな様子でビターチョコをかじっていた。その目元には、どうしようもない疲労の色が色濃く浮かんでいる。

 

以前なら、彼女は坂柳の指示でオレや他の警戒対象を執拗に尾行していたはずだ。だが今、彼女の視線はただぼんやりと空を彷徨い、手持ち無沙汰に時間を持て余しているように見える。彼女自身、坂本を関わってはいけない最大の脅威として認識しており、その異常な空間から距離を置きたがっているのだろう。

 

(坂本という規格外の存在が、学校全体のシステムを完全に麻痺させている)

 

その事実は、オレにとってこの上ない好条件だった。

この高度育成高等学校において、クラスポイントというものは個人で自由に消費できる類のものではない。あくまでクラス全体の評価の指標であり、毎月のプライベートポイントの支給額を決定する根幹のシステムだ。だからこそ、クラス間の熾烈な足の引っ張り合いは避けられないはずだった。

 

だが、全員の意識が坂本という強烈な一点に収束している今、水面下でポイントの移動やルールの隙を突く工作を行うことは、極めて容易になっている。

 

監視の目がない。妨害の意志がない。

この平穏な時間が永遠に続くとは、オレも思っていない。学校側がこのまま特例措置を乱発するわけもなく、いずれ新たなルールのもとで試験は行われるだろう。

 

だからこそ、今動くのだ。

 

オレは周囲に誰もいないことを確認し、ポケットから携帯端末を取り出した。

あらかじめ準備しておいたダミーの連絡先へ、暗号化した短いメッセージを送信する。

 

次なる布石。

それは、この平穏な時間が崩れ去ったときに備え、確実にCクラスの優位を保つための見えない防壁の構築だった。

 

坂本が表舞台でどれだけ派手にもてなし、周囲を狂信の渦に巻き込もうとも、オレは一切関与しない。ただ、その巨大な影の中に潜み、静かに盤面を整え続ける。

誰にも気づかれることなく、確実な勝利という結果だけを手に入れるために。

 

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