体育祭から三日が経った。
特例による同着一位の余韻は、まだ校内のあちこちに残っている。廊下ですれ違う生徒たちの表情は、以前より幾分か柔らかい。教師たちの巡回の目も、心なしか緩んでいる。誰もが、嵐が過ぎ去った後の静けさをそのまま享受していた。だが平穏というのは、放置すればただ均されていくだけの、脆いものでもある。オレはこの均された状態こそを、次の足場として使うつもりだった。
朝、寮の部屋を出る前に、オレはノートの隅に走り書きした数行に目を通す。暗号でも符牒でもない、ただの箇条書きだ。誰が誰と親しく、誰が誰を疑いやすい性分か。それだけを整理した、極めて地味な資料。派手な仕掛けは要らない。人間関係という、この学校で一番安く、一番信頼できるつながりを使うだけでいい。
朝のホームルーム前、教室の窓際で松下がノートを広げていた。誰かに話しかけるでもなく、静かにシャープペンシルを動かしている。目立たないことを処世術として選んでいる女子だ、と以前から思っていた。学力だけを見ればクラス上位に食い込むだけの地力を持ちながら、それを表に出さない。中程度の集団に紛れて、波風を立てずに過ごす。将来のビジョンを人一倍しっかりと描いている割に、今はまだそれを誰にも見せていない。
その松下が、ふとノートから顔を上げ、オレの方を一瞬だけ見た。
目が合ったわけではない。オレが教室に入ってきた気配に、ただ視線が動いただけだ。だが、その動きの速さが少しだけ引っかかった。この女は、他の誰よりも早く、こちらの気配に反応する。以前からその傾向はあったが、体育祭以降、心なしか頻度が増えている気がした。
――買いかぶりかもしれない。だが念のため、松下の視界に入る行動は、今後もう少し絞った方がいいだろう。
クラスメイトという立場は、都合がいい反面、常に一定の距離で観察され続けるという意味でもある。坂本のように圧倒的な異物であれば、周囲の視線はそちらに吸収されて済む。だがオレ自身は、あくまで平均的な生徒という擬態を崩すわけにはいかない。目立たないことと、見られていないことは、似ているようでまったく別の話だ。松下という一人の観察者の存在は、その違いを改めて意識させるには十分だった。
昼休み、購買の裏手にある人気の少ない渡り廊下。オレは先に来て待っていた幸村に、短く用件だけを伝えた。
「体育祭の対戦カード、直前で組み替えがあった件だ。旧Cクラスの誰かが裏で手を回したんじゃないか、という話を小耳に挟んだ」
「……根拠は?」
「ない。だから使い勝手がいい」
幸村は表情を変えなかった。この男の美点は、ここで余計な疑問を重ねてこないことだ。啓誠と呼ばれる仲だからこそ、オレの頼み事がどういう性質のものか、説明せずとも大体の察しをつける。学力Aの頭脳は、こういう場面でこそ静かに機能する。
「町田に話すのか」
「模試の順位を競う仲だろう。世間話のついでで構わない」
Aクラスの町田は、物事を必要以上に深く読み込む癖がある。坂本の一件でも、もてなしの意図を裏読みしようとして自滅した男だ。真偽の確認できない噂ほど、そういう人間の思考を長く縛りつける。証拠を与える必要すらない。疑いという種は、本人の性分が勝手に発芽させてくれる。
「――お前は、これが何のためになるのか聞かないんだな」
オレが言うと、幸村は本を閉じるような仕草でノートを閉じた。
「聞いたところで、お前が答えるとも思えない。それに、これまでのところ、お前の判断でクラスが損をしたことは一度もない」
合理的な返答だった。信頼というより、実績に基づいた計算に近い。オレにとっては、そのくらいの距離感が一番扱いやすい。恩や友情で動く人間は、いずれ恩や友情を理由に裏切る。計算で動く人間は、計算が崩れない限り裏切らない。
「一つだけ言っておく。町田に直接、疑念そのものを語る必要はない。お前が模試の話のついでに、対戦カードの組み替えを事実として一言添えるだけでいい。あとは向こうが勝手に組み立てる」
「……分かった」
幸村は席を立ち、何事もなかったかのように昼休みの喧騒へ戻っていった。
放課後、オレは少し離れた書架の陰から、その成果を確認しに行った。図書室の自習スペース、町田は参考書を広げたまま、ページをめくる手が止まっている。隣の机に座っていたのは森重だった。
「――なあ、対戦カードの件、お前は知ってたか」
町田の声は抑えているつもりらしいが、緊張のせいでかえって通りが良くなっている。
「知らないが……それがどうした」
「幸村から聞いた話だと、直前で組み替えがあったらしい。誰の指示かは分からないが、旧Cクラスの連中が絡んでるんじゃないかって噂だ」
「根拠は?」
「ない。だからこそ気になる」
森重は眉を寄せ、しばらく黙り込んだ。すぐには乗ってこない慎重さは、彼の美点であり、同時に今回に限っては弱点でもある。一度沈黙してから懐疑的に検討するタイプは、安易に流されない代わりに、一度飲み込んだ疑念を自分の中で反芻し続ける。忘れるという選択肢を持たない。
森重は、一度だけ小さく頷いた。
「……調べてみる価値はあるかもな」
その一言で十分だった。オレはそれ以上を見届ける必要すら感じず、静かに書架を離れた。
一人の疑念が、もう一人に伝わろうとしている。オレが手を下したのは、幸村への一言だけだ。それ以降のすべては、町田と森重、それぞれの性分が勝手にやってくれる。証拠は要らない。本人の中で一度芽吹いた疑いは、勝手に育つ。オレが追加でしてやれることは、もう何もない。
図書室を出たところで、神室と鉢合わせた。彼女はAクラスの生徒たちが最近どこか落ち着かない様子だと、誰にともなく愚痴をこぼした。
「最近、町田くんたち、やけにヒソヒソ話が多いのよね。何かあったのかしら」
興味本位の口調だった。神室にとってはただの世間話に過ぎない。だがその一言は、オレが昨日蒔いた種が、既にクラス全体の空気にまで薄く滲み始めている証拠でもあった。想定より早い。悪くない兆候だ。
その帰り道、ケヤキモールの中庭では、坂本がベンチに座って鳩に何かを与えていた。
「――今日は少々、彼らの食欲が旺盛なようです」
鳩たちが次々と舞い降り、彼の周囲だけ小さな祭りのようになっている。少し離れたベンチでは、龍園が手作りらしい花輪を首にかけたまま、通りがかりの一年生に「争いは悲しみしか生まねえ」と静かに説いていた。かつての取り巻きだった石崎が、その姿を複雑な表情で見守っている。坂柳は例によって離れたベンチからその一部始終を眺め、時折小さく笑い声を漏らしていた。彼女にとってこの光景は、もはや日課の観劇に等しい。葛城は少し離れた花壇の前で、薔薇の手入れ方法をぶつぶつと諳んじている。
少し離れたテーブル席では、一之瀬が紙コップのお茶を片手に、この光景をぼんやりと眺めていた。かつては誰よりも早く周囲に声をかけ、輪の中心に立っていた彼女が、今はただ観客の一人としてそこにいる。オレと目が合うと、複雑な笑みだけを返してよこした。何かを言いたげで、結局何も言わない。それが今の彼女らしいと言えばらしかった。
「綾小路くん、今日もどこかへ寄り道の途中ですか」
通りすがりに声をかけられ、オレは足を止めずに答えた。
「坂本の観察だ。放っておく方が不自然だろう」
嘘ではない。ただ、坂柳の視線は今、九割九分坂本に向いている。オレの動きの九割は、彼女の関心の外側で気にせず済む。それでいい。
「そういえば、Aクラスの一部で、体育祭の裏話が広まっているとか」
坂柳が、坂本から目を離さないまま、独り言のように付け足した。
心臓に一瞬だけ、冷たい針が触れたような感覚があった。
「――さあ。噂の類は聞いていない」
「そうですか。まあ、この時期は誰もが少し疲れて、些細なことに敏感になるものですから」
彼女はそれ以上追及せず、視線を坂本に戻した。本気で探る気はない。単に、目の前の娯楽の合間に、思いついたことを口にしただけだ。だがこの女が完全に無自覚な発言をすることは、これまで一度もなかった。九割九分の関心が坂本に向いていても、残りの一分が常にこちらを見ている。その一分の存在を、オレは今夜も忘れないことにした。
教室に戻ると、堀北が机の資料を整理していた。
「最近、放課後の外出が増えている気がするけれど」
「気のせいだろう」
短く返すと、堀北はそれ以上追及せず、視線を資料に戻した。彼女は今、現Cクラスの基盤固めに意識のほとんどを割いている。オレの細かい動きにまで神経を使う余裕は、今のところない。だがその視線が資料に戻る直前、一瞬だけこちらの顔を見た間合いが、いつもより長かった気がした。
気のせいだと思うことにした。今のところは。
その夜、寮の部屋で今日の動きを整理する。
幸村を間に挟んだ一言。町田という、疑いを自分の中で勝手に育てる性質を持った人間。森重という、それを別の誰かへ運ぶ二本目の脚。神室の何気ない愚痴という、三本目の予期しない脚。そして、誰にも気づかれずに済んだはずの足取り。すべてが独立した、無関係に見える事実として積み重なっていく。点と点をつなぐ作業は、彼ら自身の几帳面さと猜疑心が、オレの代わりにやってくれる。
これで証拠を偽造する必要はどこにもない。偽造した証拠は、調べれば消える。だが本人の中に自然に育った疑念は、外からは消せない。しかも今回は、それが一人の中だけで完結せず、二人目、三人目へと勝手に広がっていく形になっている。オレが最初に置いた石は一つだけだが、盤面の上では既に二つ、三つと増え始めている。
――明日には、この話はAクラスの中でもう少し広い範囲に届いているはずだ。相手が誰であっても構わない。相談された側もまた、町田と同じだけの慎重さを持っているとは限らないからだ。むしろ雑に噂として広まってくれる方が、オレにとっては都合がいい。
唯一、計算に入れていなかったのは松下の視線だった。他の誰よりも早く、こちらの気配に反応する女。今のところ、それが何かに繋がっているとは思えない。だが、繋がっていないと断定する材料もない。念のため、次にAクラスへ何か仕掛けるときは、間に挟む人間をもう一人増やしておく必要があるだろう。
坂柳の一言も、頭の隅に加えておく。今のところ実害はない。だが実害がないことと、無害であることは違う。あの女は坂本という圧倒的な娯楽の前でさえ、こちらへ向ける観察の手を完全には離さない。いずれ、この布石そのものに気づく日が来るかもしれない。その時にどう振る舞うかまでは、まだ決めていない。
坂本が生み出す華やかな喧騒は、相変わらずこの学校の視線をほとんど独占している。その巨大な影の中で、オレはまた一つ、目立たない布石を置いた。証拠も、密告も、小細工めいた仕掛けも要らない。人の性格そのものを、そのまま道具として使う。それが一番、誰にも気づかれず、誰にも止められない。
ただし、道具として使うということは、その道具の性質までは選べないということでもある。町田の慎重さも、森重の懐疑心も、神室の噂好きも、松下の鋭さも、坂柳の観察眼も――オレが用意したものは一つもない。すべて元からこの学校に存在していた性格を、少しだけ違う方向に押しただけだ。だからこそ制御しきれる保証はどこにもない。押した石が、想定より遠くまで転がっていく可能性は、常に頭の片隅に置いておく必要がある。
窓の外、月明かりの下で規則正しい素振りの音が響いている。オレは天井を見上げ、次に動かすべき駒を静かに数え始めた。