朝のホームルーム前、松下は今日もノートを開いていた。
視線を落としたまま、シャープペンシルの先だけが規則正しく動いている。オレが教室に入ってきた瞬間、その動きがほんの一拍だけ止まった。
顔は上げない。今日はそれだけだった。
以前より距離を詰めてくることはない。ただ、こちらの気配に対する反応の精度だけが、少しずつ上がっているように感じられた。観察されているという事実そのものより、その観察が着実に解像度を増していることの方が、厄介だった。
オレは何も気づかなかった顔で自席に着いた。
隣の席では、幸村が静かに参考書を読んでいた。オレが座ると、顔も上げずに小さく口を開く。
「Aクラスの方は、思ったより早く波紋が広がっているらしいな」
「早すぎるくらいだ。だが、都合が悪いわけじゃない」
「お前の采配だ。口出しはしない」
幸村はそれだけ言うと、ページをめくる手を止めなかった。この男の便利さは、必要以上の好奇心を持たないところにある。踏み込まず、疑わず、ただ結果だけを見て判断する。だからこそ、二度目の頼み事も気兼ねなくできる。
昼休み、購買前の廊下でその成果を耳にすることになった。
「――だから、町田くんたちが神室さんに聞きに行ったらしいよ」
すれ違いざまの一年生二人の会話が、偶然に近い形で耳に入ってきた。二人はすぐに廊下の角を曲がって消えていったが、拾うべき情報としては十分だった。
放課後、ケヤキモールに向かう前に、オレは購買裏の渡り廊下を通った。案の定、そこには町田と森重、そして落ち着かない様子の神室が立っていた。
「だから、私はただ聞いた話をそのまま言っただけよ。誰から聞いたかなんて、いちいち覚えてないわ」
神室の声には苛立ちが滲んでいた。町田の追及が、彼女にとっては心外な形で降りかかっているのだろう。
「悪気があって聞いてるわけじゃない。ただ、対戦カードの件は放置できる話じゃないんだ」
町田の声は硬い。森重はその隣で、腕を組んだまま黙って様子を窺っている。
三人のやり取りの少し先、坂柳が杖をつきながらこちらへ近づいてくるのが見えた。町田がすがるような視線を向ける。
「坂柳さん、この件について何か――」
「さあ。わたくしは存じませんね」
坂柳は足を止めることなく、町田たちの脇を通り過ぎていった。視線は既に、遠くのベンチで鳩に餌をやる坂本の方へ向いている。取り合う気配は微塵もなかった。
町田の表情に、失望に近い何かが浮かんだ。頼るべきクラスのリーダーが、既に別の一点にしか関心を持っていない。その事実だけが、彼にとっては対戦カードの噂以上に重く響いたようだった。
「――もういい。坂柳さんを頼りにするだけ無駄だ」
町田は吐き捨てるようにそう言うと、森重の肩を軽く叩いて歩き出した。森重は一度だけ振り返り、まだ何か言いたげな神室を一瞥してから、黙って後を追った。
残された神室は、誰もいなくなった廊下で小さく舌打ちをした。
「なによ、勝手に人のせいにして……」
彼女の苛立ちは本物だった。オレが仕込んだのは最初の小さな一言だけだったはずだが、既に当人たちの間で勝手に感情のもつれへと発展している。誰かが意図的に糸を引いているとは、誰一人として疑っていない。
オレはその一部始終を、少し離れた自販機の陰から眺めていた。
証拠は要らない。噂そのものより、噂を追いかけても誰も本気で取り合ってくれないという実感の方が、Aクラスの結束を確実に削っていく。オレが手を下す必要は、もうほとんど残っていない。
自販機を離れようとしたところで、視線の先に松下の姿があった。
購買の窓際で友人と談笑しながら、時折こちらへ視線を寄越している。今の光景を見ていたのかどうかは分からない。だが、彼女の目が一瞬こちらで止まったことだけは確かだった。
目が合う直前に、松下は自然な仕草で視線を逸らした。踏み込んでこない。ただ、見ている。
それだけの女だと、これまでは判断していた。今は、その判断に小さな留保をつけておく必要があるのかもしれないと思い始めていた。
「綾小路くん」
不意に名前を呼ばれ、振り返ると、松下がノートを胸に抱えたまま立っていた。友人の姿は既にない。
「――何か用か」
「ううん。ただ、最近よく見かけるなと思って。ケヤキモールでも、購買の裏でも」
言葉自体には棘がない。世間話の延長のような、柔らかい口調だった。だが選んだ場所の並べ方が、偶然とは思えないほど的確だった。
「日用品の買い出しだ。他意はない」
「そう。なら、いいの」
松下はそれ以上重ねず、小さく頭を下げて教室の方へ戻っていった。オレはその後ろ姿をしばらく見送った。
踏み込んでこない。だが、確実に何かを溜め込んでいる。今はまだ、確信には至っていない段階の観察者だ。だからこそ、扱い方を間違えれば、こちらの動きを裏付ける最初の証人になりかねない。
ケヤキモールの中庭では、いつも通りの光景が広がっていた。
坂本はベンチに座り、慣れた手つきで鳥たちに餌を配っている。その少し先、高円寺六助が両手をポケットに入れたまま、坂本の一挙手一投足をじっと観察していた。
「フッ、相変わらず興味深い所作をしているね、スタイリッシュ・ボーイ。また随分と鳥たちを侍らせているんだねえ。その理屈とやら、私は前々から気になっていたのさ」
「理屈というほどのものはありません。ただ、彼らが望む距離感と温度を、その都度お出ししているだけです」
「望む距離感、ねえ……」
高円寺は喉の奥で笑い、値踏みするように坂本を見つめた。
「私は私であるからさ、誰にも従わないさ。だが君のその鳥たちは、明らかに自分の意志で君に従っているように見えるんだねえ。実に不愉快なほど、興味深いよ」
「光栄なお言葉です。ですが僕もまた、彼らを従えているつもりは毛頭ありません。ただ、共にこの時間を楽しんでいるだけですから」
坂本は穏やかにそう答え、空になった弁当箱の蓋を丁寧に閉じた。
「――では、私にも少し分けてもらえるかな。君の言う『距離感』とやらを、この身で試してみたいのさ」
高円寺がそう言って一歩踏み出すと、ベンチの周りにいた鳩たちが一斉に彼の方へ視線を向けた。だが誰一人として飛び立とうとはせず、ただ値踏みするように高円寺を見つめている。
「彼らは案外、正直なんです。無理に距離を詰めようとする相手には、あまり心を開きません」
「ほう。つまり私は、鳩ごときに品定めされているというわけかな。実に愉快だ」
高円寺は喉の奥で笑い、それ以上は近づかなかった。坂本はその反応にも一切動じることなく、空になった弁当箱の蓋を丁寧に閉じた。高円寺はしばらくその所作を眺めた後、興味を失ったふうを装いながらも、結局最後まで立ち去らなかった。
学校のあらゆる序列を無視して動くこの二人だけは、互いにとって唯一、退屈しない相手なのかもしれない。
少し離れたベンチでは、伊吹が坂本から譲り受けたらしい保湿クリームの蓋を開け、無言で手の甲に塗り込んでいた。かつて龍園の指示で工作員としてDクラスを探っていた頃の鋭さは、もう欠片も残っていない。彼女はただ、目の前の日常を享受しているだけだった。
近くの自動販売機の前では、須藤と池、山内の三人が、坂本の姿を拝むようにベンチの方角へ向かって頭を下げていた。誰に頼まれたわけでもなく、もはや習慣として定着している所作だった。
「今日も完璧だぜ、アニキ……」
須藤の呟きに、池と山内が無言で頷く。オレはその光景にも特に驚かなくなっている自分に、かすかな諦めを覚えながら、その場を通り過ぎた。
教室に戻ると、堀北が窓際で誰かと電話をしていた。切り上げるタイミングを見計らったように、オレが近づくと同時に通話を終える。
「兄さんから。Cクラスの基盤固めについて、少し助言をもらっていたの」
「順調そうで何よりだ」
「ええ。他クラスからの干渉がない今のうちに、できる限り足場を固めておきたい」
堀北の声には、以前のような刺々しさがない。坂本という規格外の存在を、もはや理解不能な脅威としてではなく、単なる環境の一部として受け入れ始めているようだった。
その夜、寮の部屋で今日一日の動きを整理する。
町田と森重の疑念は、坂柳による無関心という形で、思わぬ追い風を受けて拗れ始めている。神室は苛立ちを隠さなくなっている。噂の出所を辿る糸は、どこにも繋がらないまま、Aクラス内部の亀裂だけを着実に広げていた。
唯一の懸念は、松下の視線に留保がついたことだった。断定はできない。だが、その一点だけは、次の一手を打つ前に片付けておく必要があるかもしれない。
坂柳の一分の関心も、まだ消えてはいない。町田たちを無下に切り捨てたあの態度は、裏を返せば、彼女がAクラス内部の些事に本気で興味を失っている証拠でもある。それ自体はオレにとって好都合だが、無関心と無警戒は似ているようで違う。いつ、どちらに転ぶかまでは読み切れない。
それでも、今日一日の成果は明確だった。何も証明されず、誰も処罰されず、それでいてAクラスの結束だけが確実に目減りしている。理想的な進捗だ。
もっとも、その進捗自体が、以前ほどの重みを持たなくなりつつあることにも気づいている。クラスポイントも、序列も、この学校が絶対の指標として掲げてきたものは、坂本という一人の異物によって、日に日にその輪郭を失いつつあった。オレが積み上げているものは、いずれその土台ごと意味を変えるかもしれない。だとしても、今は積み上げるしかない。土台が崩れる瞬間まで、確実な優位を保っておくことに意味はある。
窓の外、いつもと同じ素振りの音が規則正しく響いている。オレは天井を見上げ、次に整えるべき盤面について、静かに考え始めた。