ようこそスタイリッシュ至上主義の教室へ   作:GC

5 / 41
第5話「スタイリッシュ・モーニング・ルーティン」

翌朝、午前六時三十分。

高度育成高等学校の学生寮を、規則正しい小鳥のさえずりと共に、爽やかな朝日が包み込んでいた。遮光カーテンの隙間から差し込む一条の光がオレの顔を射抜き、静かに覚醒を促す。

 

この学校のシステムには未だ不透明な部分が多いが、少なくとも与えられた住環境だけは、一般の高校生が享受するには分不相応なほどに快適だった。

ベッドから身を起こし、薄手の寝巻きのまま小さく欠伸を噛み殺す。

洗面台に向かおうとしたオレの鼓膜を、隣の部屋、いや、正確には隣の部屋のベランダから聞こえてくる、奇妙な風切り音が叩いた。

 

「ヒュンッ……シュバッ……!」

 

何かが空気を鋭く裂く音。

オレは微かな警戒を抱きながら、自室のベランダへと通じるガラス戸に近づき、カーテンの隙間からそっと外を覗き見た。

 

そこにいたのは、もちろん坂本だった。

 

彼はすでに、一点の皺もない完璧な状態でアイロンがけされた学校指定の制服に身を包み、朝の清冽な空気の中で、奇妙な動作を繰り返していた。

両腕を胸の前で交差させ、そこから一気に天空へと向かって解き放つ。同時に、つま先立ちになりながら、全身の筋肉をバネのように使って上方へと跳躍する。

 

「——秘技:無音の朝礼(サイレント・ラジオ・カリスセニクス)」

 

それは、紛れもなく国民的体操であるラジオ体操第一の『背伸びの運動』から『腕を振って足を曲げ伸ばす運動』に至る一連の流れだった。

だが、彼のそれは、我々が知る退屈な朝の運動とは完全に異次元の代物だった。

指先の角度、腕を振る際の空気抵抗の計算、膝のバネの完璧な吸収。一切の無駄を削ぎ落とされたその動きは、まるでパリオペラ座のトップダンサーが舞うコンテンポラリーダンスか、あるいは古流武術の達人が行う秘伝の型のように洗練されていた。

 

さらに異常なのは、その跳躍力だ。

 

体操の跳躍の運動に差し掛かった瞬間、坂本はベランダの手すりに軽々と飛び乗り、そこを足場にしてさらに上方へと跳ね上がった。高度はおよそ二メートル。ベランダの天井スレスレの位置で空中に静止したかのように見えた彼は、朝日に照らされた自らの黒縁メガネのレンズを、空中でキラリと光らせた。

 

着地は、文字通りの無音。

猫でさえもう少し音を立てるだろうというほどの、衝撃を完全に殺した神業的な着地。

 

(……朝から何をやってるんだ、あいつは)

 

オレは静かにカーテンを閉じた。

彼のあの動きは、ただの自己満足なのか、それとも己の身体能力を極限状態に保つためのルーティンなのか。いずれにせよ、朝の六時台にベランダで重力に逆らう人間を見せられるのは、精神衛生上よろしくない。

オレは洗面台で顔を洗い、最低限の身支度を整えて部屋を出た。

今日もまた、この狂った箱庭での一日が始まる。

 

寮から学校へ向かう並木道は、登校する生徒たちで溢れかえっていた。

誰もが10万ポイントというかりそめの財産に酔いしれ、新しいゲーム機や深夜まで遊んだ昨晩の娯楽について大声で談笑している。

その雑踏の中を、ただ一人、周囲から完全に浮き上がっている存在がいた。

 

坂本だ。

 

彼の歩みは、ただ前に進むという物理運動を超越していた。歩幅は数学的に計算されたかのように常に一定であり、背筋は天に向かって垂直に伸び、腕の振りは振り子のように正確。彼が足を踏み出すたびに、足元の枯れ葉がまるで彼に道を譲るかのように風圧で左右に散っていく。

 

「キャッ……あの人、誰?」

 

「Dクラスの坂本くんよ……かっこいい……」

 

すれ違う上級生や他クラスの女子生徒たちが、次々と彼に視線を奪われ、頬を染めて立ち止まる。中にはスマートフォンを取り出し、無断で彼の姿を撮影し始める者までいた。

 

だが、坂本は周囲の喧騒など一切意に介さず、ただ前だけを見据えて歩き続けている。手には、昨日コンビニで調達した無料の飲料水のペットボトルが、まるで高級ブランドのクラッチバッグであるかのように恭しく抱えられていた。

 

「相変わらず、目立つ男ね」

 

不意に隣に並びかけてきたのは、堀北鈴音だった。彼女の視線もまた、前方を歩く坂本の背中に向けられている。ただし、そこに憧憬はなく、純粋な警戒と疲労感が入り混じっていた。

 

「昨日のエレベーターの一件以来、私は彼の行動に物理的な説明を求めることを放棄したわ。あれは、人間の形をした災害の一種よ」

 

「賢明な判断だな。オレもそう思う」

 

オレは深く同意した。坂本の行動原理を理解しようとするのは、底なし沼に足を踏み入れるようなものだ。

 

「ただ、一つ気になることがあるわ」

 

堀北が声を潜める。

 

「Cクラスの龍園よ。昨日、彼が手下を坂本くんの部屋に向かわせたという噂を聞いたわ。でも、今朝のCクラスの連中は、坂本くんの姿を見るなり、なぜか怯えたように……いや、どこか崇拝するような眼差しを向けて道を譲っていた。一体、部屋で何があったの?」

 

「さあな。オレは寝ていたから知らない」

 

オレはとぼけた。ただのお湯を極上の茶だと錯覚させてCクラスの不良を浄化させたなどと説明しても、堀北が信じるわけがないからだ。

 

教室に入ると、Dクラスの惨状はさらに加速していた。

チャイムが鳴り終わっても、席につかない者が数名。須藤に至っては机に突っ伏して高らかにいびきをかいており、池と山内はスマートフォンで大声でゲームの実況を続けている。

 

そして、その後方、窓際の席。

坂本だけが、姿勢を正し、両手を机の上に揃え、彫像のように静かに前を見据えていた。彼の周囲だけが、まるで真空地帯のように静寂に包まれ、誰も近づこうとしない。

ガラッ、と前方のドアが開き、担任の茶柱佐枝が入ってきた。

彼女は鋭い眼光で教室全体を一瞥し、冷たく鼻で笑った。

 

「相変わらず、猿山のような教室だな。お前たちは本当に高校生になった自覚があるのか?」

 

冷徹な声が教室に響くが、須藤のいびきは止まらない。

茶柱はチョークを一本手に取ると、一切の躊躇なく、弾丸のような速度で須藤の頭部へと投げつけた。

 

ヒュッ!

 

チョークは空気を切り裂き、須藤の側頭部へ直撃する——かに見えた。

 

「——秘技:白墨の防人(チョーク・イージス)」

 

カァンッ!

乾いた破砕音が教室に響き渡った。

須藤の頭に当たる寸前、突如として須藤の隣の席から銀色の円盤が投げ込まれ、チョークを見事に弾き飛ばしたのだ。

弾かれたチョークは空中で綺麗な放物線を描き、そのまま教壇に置かれたチョークの箱の中へと「スコンッ」と寸分違わず収まった。

 

「……なに?」

 

茶柱の目が驚愕に見開かれた。

オレもまた、目を疑った。

 

須藤の頭を守った銀色の円盤の正体。それは、坂本が投擲した分度器だった。

 

「須藤くん」

 

坂本は立ち上がり、ゆっくりと須藤の席へと近づいていく。

 

「春眠暁を覚えず、とは古人の名言ですが、知識という名の朝日はすでに登っています。夢の世界から帰還する時間ですよ」

 

坂本が須藤の肩を優しく叩くと、須藤はビクッと体を震わせて跳ね起きた。

 

「う、うおお!? ア、アニキ!? あ、俺、寝てたッスか!? すんません!」

 

須藤は坂本の顔を見るなり、まるで上官に怒られた新兵のように直立不動の姿勢をとった。

教室中が、水を打ったように静まり返っている。

茶柱は、チョークが綺麗に収まった手元の箱と、涼しい顔で席に戻る坂本を交互に見比べ、小さく舌打ちをした。

 

「……ふん。曲芸の披露は自由だが、授業の邪魔はするなよ。ホームルームを始める」

 

茶柱の言葉には、明らかな動揺が混じっていた。この冷徹な教師でさえ、坂本のスタイリッシュな防衛術の前にはペースを崩さざるを得ないらしい。

オレは内心で頭を抱えた。

目立つなと言っているのに、彼は息をするように常軌を逸した行動をとる。

だが、真の波乱は、ホームルームが終わった後の昼休みに待ち受けていた。

 

昼休み。

生徒たちがこぞって学生食堂へと向かう中、オレは混雑を避けるために少し遅れて席を立った。堀北はすでに手作りと思われる質素な弁当を広げており、坂本は……相変わらず「無料の飲料水」だけを手に持ち、静かに目を閉じている。光合成でもしているのだろうか。

 

「おい、Dクラスの連中。ちょっと面貸せや」

 

突然、教室の入り口から柄の悪い声が響いた。

Cクラスのリーダー、龍園翔だ。その後ろには、石崎をはじめとする取り巻き数名が控えている。

教室内の空気が一瞬にして凍りついた。平穏に弁当を食べていたDクラスの生徒たちが、蛇に睨まれた蛙のように硬直する。

龍園の視線は、教室の奥で目を閉じている坂本へと真っ直ぐに向けられていた。

 

「昨日から、俺のクラスの連中がお前に随分と世話になったそうじゃねえか。なあ、坂本?」

 

龍園は薄気味悪い笑みを浮かべながら、ゆっくりと坂本の席へと近づいていく。その後ろを歩く石崎は、なぜか龍園の影に隠れるようにオドオドとしており、坂本と目を合わせようとしない。

 

「龍園さん、やめときましょうよ……あの人はヤバいッス……」

 

石崎が震える声で忠告するが、龍園はそれを一蹴した。

 

「黙れ。俺は底の知れねえマジックを見せられて、ハイそうですかと引き下がるようなタマじゃねえんだよ」

 

ドンッ!

 

龍園は坂本の机に両手を力強く叩きつけ、彼を見下ろした。

至近距離。龍園の放つ暴力的なプレッシャーは、並の生徒なら震え上がって涙目になるほどの圧を孕んでいた。

だが、坂本はゆっくりと目を開けると、一切の恐怖を見せることなく、むしろ柔らかい微笑みを浮かべた。

 

「これは、Cクラスの龍園くん。ごきげんよう。昨日は石崎くんたちに楽しい夜のひとときを提供していただき、感謝しております」

 

「あ? 楽しい夜、だと?」

 

龍園の眉がピクリと動いた。

 

「俺はてめえのその余裕ぶったツラが気に入らねえんだよ。この学校がどういう場所か、教えてやろうか?」

 

龍園が右拳を握りしめ、坂本の胸ぐらを掴み上げようとした、まさにその瞬間だった。

 

「――おっと」

 

坂本が、動いた。

彼は座った状態のまま、机の上に置かれていた自分の弁当箱をスッと龍園の目の前に差し出したのだ。

 

それは、真っ白な高級そうな布(おそらく無料のハンカチを代用したもの)で包まれた、正方形の小さな箱だった。

 

「な、なんだこれは……?」

 

龍園の動きが止まる。

 

「お腹が空いているのではありませんか?」

 

坂本は、まるで迷子の子犬に餌を与えるような、慈愛に満ちた声で言った。

 

「あなたのその荒ぶる感情の波は、低血糖からくる焦燥感とお見受けしました。人間の脳は、エネルギーが不足すると攻撃的になるものです。よろしければ、僕のお弁当を半分、いかがですか」

 

「は……? 弁当だと? ふざけてんのかてめえ!」

 

龍園は怒りのあまり、その白い箱を払いのけようとした。

 

「開けますよ」

 

坂本は龍園の手が触れる寸前で箱を引っこ抜き、流れるような動作で包みを解いた。

中から現れたのは——。

 

「——秘技:純白のフルコース(ホワイト・イリュージョン)」

 

そこに詰められていたのは、見事なまでに真っ白な白米だけだった。

おかずなど一切ない。梅干しすらない。ただ、弁当箱の隅から隅まで、純白の米が芸術的なほど平坦に、そして美しく敷き詰められているだけだった。

 

だが、ただの白米ではない。

米粒の一つ一つが、窓からの太陽光を反射して真珠のように輝きを放ち、湯気と共に立ち上る香りは、なぜか最高級の料亭で炊き上げられたかのような神々しさを帯びていた。

 

「な……なんだ、この米は……!?」

 

龍園が思わずたじろぐ。

 

「さあ、遠慮なさらずに。育ち盛りの若者にとって、炭水化物は生命の源です」

 

坂本は、どこから取り出したのか、純銀のように磨き上げられた割り箸(おそらく備え付けの割り箸を限界まで研磨したもの)を龍園に差し出した。

 

龍園の脳内で、凄まじい葛藤が起きているのがオレの席からでもわかった。

「敵を威圧しにきた」という明確な目的。

それに対する最高に美しく炊き上げられた純白の白米の提供という、あまりにも文脈から外れた返答。

 

暴力で支配しようとする龍園のペースは、坂本の圧倒的な善意とスタイリッシュな貧乏飯によって、完全に粉砕されてしまったのだ。

 

「龍園さん……いただきましょうよ。坂本さんの淹れてくれたお茶も、最高でしたから……」

 

後ろから石崎が涙声で懇願する。

 

「てめえら、狂ってんのか……!」

 

龍園はギリッと奥歯を噛み締め、差し出された割り箸を叩き落とそうとした。

しかし、坂本はその動きを事前に読んでいたかのように、箸をスッと引き、代わりに自らが一つまみの白米を箸で掬い上げ、龍園の口元へと運んだ。

 

「あーん、です」

 

「なっ……!?」

 

龍園の口が、無意識に半開きになる。そこに、坂本は芸術的な速度で白米を放り込んだ。

龍園の表情が、驚愕、混乱、そして——微かな美味の感情へとグラデーションのように変化していく。

ただの白米だ。だが、坂本という存在を通して提供されたそれは、もはや単なる炭水化物を超えたスタイリッシュな体験として龍園の脳髄を直接揺さぶっていた。

 

「……チッ。ふざけやがって。覚えてろよ、坂本」

 

龍園は顔を真っ赤にして口元を拭うと、踵を返し、逃げるように教室から立ち去っていった。石崎たちは「ごちそうさまでした!」と深く一礼し、その後を慌てて追っていく。

嵐が去った教室に、再び静寂が戻る。

坂本は自らの箸を静かに置くと、残りの白米を優雅に食べ始めた。

 

「……」

 

オレは、弁当箱の卵焼きを口に運びながら、己の不運を呪った。

龍園翔という男は、この学校における危険人物の筆頭だ。その龍園に「白米をあーんして食べさせる」という究極の屈辱(?)を与えた坂本は、間違いなく今後、龍園から異常な執着を向けられることになるだろう。

 

そして、隣の席に座るオレも、その余波から逃れることは極めて困難だ。

 

「ねえ、綾小路くん」

 

隣から、堀北が冷や汗を流しながら話しかけてきた。

 

「私、先週までこのクラスの最大の懸念材料は、須藤くんたちだと思っていたわ。でも、訂正するわ」

 

「……同感だ」

 

「彼を放置していて、私たちは無事に卒業できるのかしら」

 

「さあな。少なくとも、胃薬は多めに買っておいた方が良さそうだ」

 

オレは10万ポイントの残高を確認しながら、深々とため息をついた。

坂本のスタイリッシュ至上主義は、実力至上主義のルールを根本から蹂躙し始めている。

この狂想曲がどこへ向かうのか、今はまだ、誰も知らない。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。