ようこそスタイリッシュ至上主義の教室へ   作:GC

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第6話「ゼロ・ポイント・オデッセイ」

季節は巡り、五月一日。

 

 高度育成高等学校の敷地内を彩っていた桜はとうに散り、青々とした新緑が初夏の陽光を照り返す季節となっていた。

 この一ヶ月間、Dクラスの状況はまさに腐敗という言葉が相応しい惨状を呈していた。須藤、池、山内らをはじめとする多くの生徒たちは、初月に支給された10万ポイントという大金を湯水のように浪費し、深夜までのゲーム、授業中の私語、居眠り、そして遅刻を常態化させていた。彼らの脳内では、この学校が毎月無条件で10万円相当のお小遣いを与えてくれるユートピアとして完全に固定化されてしまっていたのだ。

 

 そんな淀んだ空気の中で、オレは極力気配を殺し、平穏な隠キャ生活を維持するための擬態を続けていた。

 

 だが、オレの隣の席に座る男——坂本だけは、その腐敗の波とは完全に無縁の次元に存在していた。

 

 彼はこの一ヶ月間、ただの一度も授業中に居眠りをせず、私語も発さず、背筋は常に定規を当てたように直立していた。彼がノートに文字を書き込む際のシャープペンの芯の音すら、まるでモーツァルトのソナタのようにリズミカルで洗練されており、周囲の空気を無自覚に浄化し続けていたのである。

 

 そして何より異常なのは、彼のポイント消費量だった。

 

 彼は入学初日にコンビニで無料の飲料水と無料の石鹸を手に入れて以来、ただの1ポイントも消費していない。朝はベランダでの「無音の朝礼(サイレント・ラジオ・カリスセニクス)」で身体を鍛え上げ、昼は無料支給品の白米を「秘技:純白のフルコース(ホワイト・イリュージョン)」として昇華させ、夜は石鹸の彫刻が放つプラセボ効果の香りに包まれて眠る。

 

 資本主義の根幹を揺るがすような、究極の自己完結型スタイリッシュ・サバイバル。

 オレは、自らのスマートフォンを取り出し、学生証アプリの画面を静かに見つめた。

 午前八時を過ぎているにも関わらず、今月のポイント残高は0のままだった。

 

「……やはりな」

 

 オレは小さく息を吐いた。予想通りだ。この学校が完全な実力主義を謳っている以上、生徒の素行や成績が評価に直結しないはずがない。Dクラスの連中のあの勤務態度(という表現が正しいかはさておき)で、ポイントが振り込まれるなどという甘い幻想は、今日この日をもって無残に打ち砕かれることになる。

 

 ガラッ、と教室の前方のドアが開き、担任の茶柱佐枝が姿を現した。

 彼女の表情は、いつも以上に冷酷な氷点下を保っている。その手には、丸められた一枚のポスターのようなものが握られていた。

 

「席につけ、ホームルームを始める」

 

 茶柱の低く鋭い声が教室に響き渡るが、相変わらず須藤たちはスマートフォンの画面から目を離そうとしない。

 

「……どうやら、まだ夢から覚めていない馬鹿が多数いるようだな」

 

 茶柱は教壇に立つと、黒板に先ほどの紙をマグネットで乱暴に貼り付けた。

 そこに記されていたのは、各クラスの『クラスポイント』の一覧表だった。

 

 Aクラス:940

 Bクラス:650

 Cクラス:490

 Dクラス:0

 

「なっ……なんだよこれ!」

 

 ようやく異変に気付いた池が、素っ頓狂な声を上げた。

 

「先生! 俺たちのポイントが振り込まれてないんだぜ! バグか!?」

 

「バグだと? 呆れて物も言えんな。お前たちの頭の中こそバグだらけなのではないか?」

 

 茶柱は冷酷に鼻で笑い、Dクラスの生徒たちを虫ケラでも見るような目で見下ろした。

 

「この学校は実力至上主義だ。お前たちの授業態度、遅刻、欠席、そして小テストの成績。それらすべてを総合的に評価し、ポイントは毎月変動する。お前たちDクラスは、この一ヶ月間で与えられた1000クラスポイントをすべて『素行不良』によって食いつぶした。よって、今月の支給はゼロだ」

 

 教室中が、水を打ったように静まり返った。

 誰もが、茶柱の言葉の意味を理解するのに数秒の時間を要した。

 

「ふ、ふざけんな! 何も聞いてねえぞ!」

 

 須藤が机を蹴り飛ばして立ち上がる。彼の顔は怒りで朱に染まっていた。

 

「聞いていない? 馬鹿を言うな。入学式の日、私は確かに言ったはずだ。『この学校は実力主義だ』とな。それ以上の説明が必要だとでも思ったのか? 社会に出れば、誰も手取り足取りルールなど教えてはくれない。お前たちは、自分たちの無能さによって、自らの首を絞めたに過ぎない」

 

 茶柱の容赦ない言葉のナイフが、生徒たちの心を次々と抉っていく。

 ポイント残高ゼロ。それはつまり、この一ヶ月間を無一文で過ごさなければならないという死刑宣告に等しい。すでにポイントを使い果たし、高価なゲーム機や装飾品に囲まれながら、今日の昼飯を買う金すらない生徒が、このクラスの大半を占めているのだ。

 

「……絶望しろ。お前たちは、この学校における最底辺の不良品だ」

 

 茶柱が、最後のトドメを刺すように言い放った。

 だが。

 その言葉の直後、茶柱の視線が、教室の最後列、窓際の席でピタリと止まった。

 そこには、クラスの絶望的な空気など一切意に介さず、ただ静かに、そしてあまりにも優雅に、窓の外の青空を見つめている男の姿があった。

 

 坂本だ。

 

「……ただし」

 

 茶柱の声のトーンが、わずかに変化した。冷徹な教師の仮面に、一瞬だけ困惑という名の亀裂が走ったのを、オレは見逃さなかった。

 

「……ただ一人、例外が存在することは認めてやろう」

 

 クラス中の視線が、茶柱の視線の先——坂本へと一斉に集まった。

 

「坂本。お前だ」

 

「はい。何でしょうか、茶柱先生」

 

 坂本はゆっくりと立ち上がり、右手を胸に当てて恭しく一礼した。その所作の一つ一つが、あまりにも洗練されており、貧困にあえぐDクラスの教室を、一瞬にして中世ヨーロッパの宮廷へと錯覚させるほどのオーラを放っていた。

 

「お前の個人端末のデータを見た」

 

 茶柱は、信じられないものを見るような目で坂本を睨みつけた。

 

「お前は、入学時に支給された10万ポイントを、ただの1ポイントも使用していない。残高はきっちり10万のままだ。……それどころか、お前のこの一ヶ月間の授業態度は『完璧』の一言に尽きる。遅刻ゼロ、欠席ゼロ、私語ゼロ、小テストはすべて満点。……お前の存在だけで、Dクラスのマイナス査定を幾分か引き留めていたのは事実だ」

 

 ざわっ、と教室がどよめいた。

 

 あの狂ったような奇行の数々(本人は至ってクールだが)を繰り返していながら、学業や規律の面では、一切の非の打ち所がなかったというのか。

 

「……しかしな、坂本」

 

 茶柱はさらに言葉を続けた。その声には、微かな疲労感が滲んでいた。

 

「私が理解できないのは、お前の生活実態だ。10万ポイントを一切使わず、どうやってこの一ヶ月を生き延びた? 食費は? 日用品は? 学校側が用意した無料支給品だけで生活するなど、物理的に不可能なはずだ。カロリー計算の観点から見ても、お前はすでに餓死しているか、重度の栄養失調に陥っていなければおかしい」

 

 確かにその通りだ。無料の飲料水と、無料の極めて質素な白米、それに石鹸。これらだけで人間の生命維持に必要な栄養素を補えるはずがない。オレでさえ、その点については疑問を抱いていた。

 だが、坂本は一切の動揺を見せることなく、眼鏡のブリッジを中指でクイッと押し上げた。

 

「お気遣い痛み入ります、先生。ですが、ご心配には及びません」

 

「どういうことだ?」

 

「大自然という名の、巨大なスーパーマーケットが常に開いているからです」

 

 その言葉と共に、坂本は自らの机の横に掛けてあった、薄っぺらい透明なレジ袋を机の上に持ち上げた。

 中には、見慣れない緑色の植物が大量に詰め込まれていた。

 

「……それは、なんだ?」

 

「ノビル、ヨモギ、そしてタンポポの葉です。今朝の『無音の朝礼』の際、敷地内の裏山にて収穫して参りました」

 

「は……?」

 

 茶柱が絶句する。

 

「春の野草は生命力に満ち溢れ、ビタミンやミネラルを豊富に含んでいます。さらに、土壌のエネルギーを直接吸収しているため、市販のサプリメントなど足元にも及ばないほどの栄養価を誇ります」

 

 坂本は極めて真面目なトーンで説明を続けた。ギャグで言っているわけではない。彼は本気で、野草を主食として生き延びていたのだ。

 

「だが……それを生で食う気か? 腹を壊すぞ」

 

「ご安心を」

 

 坂本は、レジ袋の中から、一枚の黒い下敷きと、理科の授業で使うような巨大な虫眼鏡を取り出した。

 

「——秘技:太陽の調理器具(ソーラー・フレア・クッキング)」

 

 彼は窓際という自席の地の利を最大限に活かし、黒い下敷きの上に野草を並べると、虫眼鏡を使って太陽光を一点に集中させ始めた。

 

 ジジジジッ……。

 

 わずか数秒で、焦点の合った野草の一部から微かな煙が立ち上り始めた。

 

「なっ……!?」

 

 茶柱が後ずさりする。

 オレは頭痛を堪えるようにこめかみを押さえた。

 確かに、凸レンズで太陽光を集めれば熱を発生させることは可能だ。だが、それを使って教室で調理を行うなど、常軌を逸している。さらに言えば、野草のアク抜きはどうするつもりだ。

 だが、オレのそんな常識的な疑問は、次の一手によって粉砕された。

 坂本は、虫眼鏡の焦点を高速で移動させ、野草全体に均等に熱を通していく。同時に、彼は手元にあった無料の飲料水を口に含み、霧吹きのように極小の粒子状にして野草へと吹きかけたのだ。

 

「——秘技:真空スチーム蒸し(ミスト・ウォーター・ベール)」

 

 プシュウウウウッ!

 太陽光の超高熱と、霧状の水分が瞬間的に反応し、机の上に小さな蒸気の竜巻が発生した。

 高温の蒸気によって一瞬で加熱されることで、野草特有の青臭さやアクが抜け、同時に瑞々しさが閉じ込められていく。物理法則の限界に挑むかのような、神業的な熱量コントロール。

 ほんの数十秒の出来事だった。

 

 蒸気が晴れた後、黒い下敷きの上には、まるで高級フレンチの付け合わせのように鮮やかな緑色に輝く「温野菜のソテー(オイル・塩抜き)」が完成していた。

 

「……馬鹿な」

 

 茶柱が、教師としての威厳を完全に喪失し、ただの驚愕する一人の女としての声を漏らした。

 教室中が、甘く香ばしい野草の香りに包まれている。ポイントゼロの絶望感に苛まれていた生徒たちの腹の虫が、一斉に「グゥゥゥゥ」と情けない合唱を始めた。

 

「さあ」

 

 坂本は、自作の野草ソテーを割り箸(もちろん無料)で丁寧につまみ上げ、隣の席で突っ伏している須藤へと差し出した。

 

「朝食を抜くのは、脳へのエネルギー供給を断つ行為。貧困は恥ではありませんが、飢餓は知性を奪います。どうぞ、大地の恵みをお召し上がりください」

 

「ア、アニキ……!!」

 

 須藤は感涙にむせびながら、差し出された野草を口に放り込んだ。

 

「う、美味えっす!! なんですかこれ、ただの雑草なのに、まるで高級アスパラガスのようなシャキシャキ感と、奥深い甘みがあるっす……!! 涙が出てきやがりますよ……!」

 

 須藤のそのリアクションを見て、池や山内も「俺にもください!」「アニキ、一生ついていきます!」と坂本の席に群がり始めた。

 

 地獄のようなゼロ・ポイントの宣告を受けた直後だというのに、Dクラスの教室は今、なぜか坂本が提供する「無料の雑草」によって、奇妙な一体感と希望に包まれていた。

 茶柱は、額に薄っすらと汗を浮かべながら、その光景をただ見つめていることしかできなかった。

 

「……好きにしろ」

 

 茶柱は完全に匙を投げ、逃げるように教室から立ち去っていった。実力至上主義の冷徹なシステムすらも、坂本の『スタイリッシュ貧乏生活』の前では、ただの無力なルールでしかなかったのだ。

 

昼休み。

 ポイントを失い、食堂へ行くことすら叶わなくなったDクラスの生徒たちは、坂本の指導のもと、裏山へのスタイリッシュ野草採取ツアーへと出発していった。須藤たちは完全に坂本を神として崇拝しており、彼の一挙手一投足を真似ようと必死にステップを踏んでいる。

 教室に残されたのは、弁当を持参している堀北と、オレ、そして数名の生徒だけだった。

 

「……彼がいる限り、このクラスが完全に崩壊することはないのかもしれないわ」

 

 堀北が、手作りのサンドイッチを口に運びながら、ポツリと呟いた。

 

「それはどういう意味だ?」

 

「あれだけポイントゼロの絶望を突きつけられても、彼が『ただの雑草』を『至高のフレンチ』に偽装して見せたことで、クラスの連中は完全に毒気を抜かれた。ある種の宗教に近いわ。ポイントがなくても、彼がいれば生き延びられると錯覚している」

 

「錯覚、か」

 

 オレは窓の外を見た。グラウンドの隅の方で、坂本が華麗なターンを決めながらタンポポを摘み取っている姿が見える。その後ろを、さんばかが「オオオォォ!」と歓声を上げながら追いかけている。

 

「プラセボ効果も、ここまで極まれば一種の現実改変能力だな。だが、根本的な解決にはなっていない。来月もゼロポイントなら、いよいよ退学者の危機だ」

 

「ええ。だからこそ、今月の中間テストが勝負になる。彼のようなイレギュラーに頼るのではなく、実力でポイントを奪い返さなければならないわ」

 

 堀北の眼差しには、冷たい決意が宿っていた。

 オレは同意も否定もせず、自らの昼食であるカロリーメイトの封を切った。

 

 坂本とは? と問われれば、誰もがこう答えるしかない。

 ええ、彼こそが、この狂った学校における唯一無二のスタイリッシュである、と。

 

 だが、オレの平穏な隠キャ生活は、彼のそのスタイリッシュさによって、確実に音を立てて崩れ去ろうとしていた。

 

 やれやれ。

 来月こそは、もう少しマシな日々を送れることを祈るばかりだ。オレはカロリーメイトをかじりながら、深く、深くため息をついた。

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