五月の生温かい風が、高度育成高等学校の広大なグラウンドを吹き抜けていく。
午後の授業。全学年合同、あるいはクラス合同で行われるはずだった体力測定。入学直後の四月に実施されるのが一般的な学校行事だが、この実力至上主義の学校においては、一ヶ月間の素行や生活態度が身体にどう影響を与えたかを測るためか、意図的にこの五月初旬へとスケジュールがスライドされていた。
ポイントゼロという地獄の宣告を受けた直後、しかも昼食は(坂本の手による魔法の調理があったとはいえ)裏山の野草のみ。並の生徒であれば、体力測定などまともに受けられるコンディションではない。
だが、Dクラスの男子生徒たちの目には、異様なまでの闘志が宿っていた。
「オラァッ! 見とけや池! 俺の背筋力をよォ!」
「須藤うるせえ! 俺だってアニキの特製温野菜食って、ビタミン満タンだぜ!」
指定の体操服に着替えた彼らは、グラウンドの隅で準備運動をしながら謎の熱気を放っている。本来なら飢えと絶望で死に絶えているはずのDクラスが、坂本というたった一人の存在によって大自然の恵みでデトックスされた野生児の集団へと変貌を遂げていたのだ。
オレは集団の最後尾で、目立たないようにアキレス腱を伸ばしていた。
体力測定。それは、身体能力という名の数字が明確に可視化される残酷な儀式だ。この学校において、優れた身体能力はそのまま強力な武器(ポイントの査定基準)になり得る。
だからこそ、オレの目標は極めてシンプルだった。
すべての種目において、学年の平均値、すなわち50点の記録を寸分違わず叩き出すこと。平均値であれば、誰の記憶にも残らず、有能な生徒として教師から目をつけられることもない。徹底した隠キャ擬態戦略である。
「整列しろ」
グラウンドの中央に立つ体育教師が、拡声器で無機質に告げた。
「これより基礎体力測定を開始する。種目は『握力』『上体起こし』『長座体前屈』『反復横跳び』『50メートル走』『ハンドボール投げ』の六種目だ。それぞれ記録員の指示に従い、迅速に行動しろ」
生徒たちが各測定ポイントへと散っていく。
オレは予定通り、目立たない中間のグループに紛れ込もうとした。しかし、五十音順の出席番号という残酷なシステムが、オレのささやかな願いを打ち砕いた。
「綾小路、次はお前だ。その次は……坂本だな」
記録員を務める上級生の気怠げな声。
オレの背後には、一切の乱れがない完璧な着こなしで体操服を纏った坂本が、静かに控えていた。彼の体操服だけが、なぜかパリコレのスポーツウェア部門に出展された新作のように洗練されたシルエットを描いている。
(……最悪だ)
坂本の直前に測定を行うということは、彼の異常なパフォーマンスの前座を務めることになるか、あるいは彼の余韻のせいで変に注目を浴びるリスクが高い。
最初の種目は『握力』。
デジタル式の握力計を前に、まずはオレが立ち上がった。
「綾小路清隆、行きます」
オレは握力計の冷たいグリップを握り、極めて自然な表情を作りながら、腕の筋肉を指定した出力で収縮させた。成人男性の平均をわずかに下回る、高校生としては極めて平凡な数値。
『ピッ』
デジタル液晶に表示された数字は【43.5kg】。
「はい、次。坂本」
記録員が欠伸混じりに数値をバインダーに書き込み、次の測定を促す。
オレは静かに息を吐き、定位置へと戻った。完璧な平均値だ。これでオレの存在感は完全に風景と同化した。
続いて、坂本が静かに握力計の前に進み出た。
彼は、無機質な計測機器を前にしても、まるで高級レストランでヴィンテージ・ワインのグラスを吟味するソムリエのように、優雅な手つきでそれを持ち上げた。
「……ん? おい、ちゃんと握れよ」
記録員が眉をひそめる。
無理もない。坂本は、握力計のグリップを五本の指で握っていなかったのだ。
親指と人差し指、それに中指の三本だけ。それも、まるで壊れやすいガラス細工でもつまむかのような、極めてソフトな接触。
「ご心配には及びません、先輩」
坂本は涼しげな微笑を浮かべた。
「力とは、ただ闇雲に圧力をかけることではありません。対象の構造を理解し、力のベクトルを一点に集中させる。それこそが、真の掌握です」
「は……? 何言って——」
記録員が呆れたように口を開きかけた、その瞬間だった。
「——秘技:三指の玉座(トライアングル・スローン)」
カチッ、という極めて小さな音が鳴った。
坂本の三本の指が、握力計のグリップに内蔵されたバネの力点とセンサーの最も感度の高い部分を、コンマ数ミリの狂いもなく同時に、かつ黄金比のバランスで押し込んだのだ。
『ピピピッ!』
握力計のデジタル表示が、暴走したように高速で数値を跳ね上げ始めた。
20、40、60、80——。
そして、液晶画面がエラーを示すかのように激しく明滅し、最終的に叩き出された数値は。
【99.9kg】
「なっ……!?」
記録員のバインダーが、手から滑り落ちた。
オレは無表情のまま、内心で天を仰いだ。
99.9kg。それはおそらく、この学校が用意した安価な学生用デジタル握力計の「計測上限値」だ。坂本は、自らの筋力で握りつぶしたわけではない。センサーの構造を物理的にハッキングし、わずかな力で最大値を表示させるという器用さの極致を見せつけたのだ。
「……素晴らしい機器ですね。少々、僕の手には余る出力だったようです」
坂本は恭しく握力計を記録員に返却すると、足音一つ立てずにその場を離れた。
「い、今のは……計器の故障か……?」
周囲の生徒たちがざわめき始める。オレの【43.5kg】など、もはや誰の記憶からも完全に消し飛んでいた。その点においてだけは彼に感謝すべきかもしれないが、この異常な空間に巻き込まれる疲労感は計り知れない。
続く『上体起こし』や『長座体前屈』でも、坂本のスタイリッシュな蹂躙は止まらなかった。
上体起こしでは、彼は背中がマットに触れる寸前で重力を無視したようにピタリと停止し、そこから首の角度を一ミリも変えずに起き上がるという「秘技:振り子時計(ペンデュラム・クロック)」を披露。筋肉の反動ではなく、純粋な体幹のバランスのみで無限に起き上がり続け、記録員が「もうやめてくれ」と泣きつくまで回数を稼ぎ続けた。
長座体前屈に至っては、前屈の際に指先を伸ばすのではなく、持参した無料のハンカチを折り紙のように美しく折りたたみ、その先端を計測器のバーに添えるという謎の美学を発揮。当然、数値は計測不能となった。
そして、グラウンドの空気が最も張り詰めたのは、体力測定の花形とも言える『50メートル走』の測定レーンだった。
ここには、他クラスの生徒たちも多数見学に集まっている。身体能力の高さが直接ポイントに直結する可能性が高い以上、各クラスのエース候補を視察しておくことは定石だからだ。
「次、第4レーン綾小路、第5レーン坂本、第6レーン……高円寺」
名前を呼ばれた瞬間、オレは絶望的なため息をこぼした。
第6レーンに悠然と歩み出てきたのは、Dクラスが誇るもう一人のイレギュラー——高円寺六助だった。金髪をかき上げながら、彫刻のような肉体美をこれ見よがしに誇示している。
「フッ……体力測定などという凡人の遊戯に付き合わされるのは心外だが、私が美しいという事実を数字で証明するのも一興だろう」
高円寺は手鏡で自らの顔を確認しながら、オレと坂本を一瞥した。
「おや? そこにいるのは、Dクラスの愚民どもを野草で飼い慣らしたスタイリッシュボーイじゃないか」
「ごきげんよう。高円寺くん」
坂本はレーンの上で、高円寺に向かって完璧な角度でお辞儀をした。
「今日も美しい金髪ですね。陽光を反射するその輝きは、まるでルネサンス期の絵画のようです」
「フハハハ! 当然だ。私は常に美しく、そして完璧だからな。だが、君のその整いすぎた七三分けも、ある種の芸術点としては評価してやろう」
高円寺と坂本。
Dクラスにおける天上天下唯我独尊とスタイリッシュ至上主義が、今ここに並び立ったのだ。二人の間だけで、謎の高貴なオーラ(とてつもなく浮いた空気)が火花を散らしている。
その間に挟まれた第4レーンのオレの心境など、誰にも理解できないだろう。オレはただ、7秒台前半という極めて平凡なタイムで走り抜けることだけを脳内にプログラミングした。
「位置について」
スターターピストルを持った教師が合図を出す。
高円寺はクラウチングスタートの姿勢をとった。その筋肉のバネは、見ているだけで圧倒的な爆発力を予感させる。
対する坂本は。
彼はクラウチングスタートをとらなかった。
右足を一歩前に出し、左手を腰に当て、右手は空に向かって優雅に差し伸べる。それはまるで、これからワルツを踊り始める貴族のステップのような、陸上競技を完全に愚弄した
(しかし極めて美しい)スタンディングポーズだった。
「……おい坂本、真面目にやれ」
教師が注意しようとした、その時。
『パンッ!』
無情にも、スターターピストルの乾いた音がグラウンドに響き渡った。
「フンッ!!」
高円寺が、まるで放たれた矢のように弾け飛んだ。美しいフォーム、無駄のない筋肉の躍動。その走りは間違いなく、学年でもトップクラスの速度だった。
オレもまた、計算通りに手を抜きながら、しかし不自然に遅すぎない速度で走り出した。
だが、オレの視界の端——第5レーンで、物理法則が崩壊する音がした。
「——秘技:反復横跳び(レペティション・サイドステップ)・前進型(フォワード・ドライブ)」
シュババババババババッ!!
「なっ……!?」
オレは走りながら、自らの目を疑った。
坂本は、前を向いて走っていなかった。
彼は完全に真横を向いた状態のまま、恐るべき速度で反復横跳びのステップを踏み、その横への移動のベクトルを、なぜか前方へと変換して進んでいたのだ。
右、左、右、左。
彼の足元から凄まじい土埃が舞い上がる。反復横跳びという、本来ならその場に留まるための運動エネルギーが、限界を超えたステップの摩擦係数と重心移動によって推進力へと変わり、まるでホバークラフトのように地面を滑空していく。
「なんだあいつは!?」
「横向きで走ってるぞ!?」
見学していた他クラスの生徒たちが、悲鳴のような歓声を上げる。
高円寺も、背後から迫る異様な風圧に気づき、チラリと視線を後ろへ向けた。
「……ほう?」
高円寺の目に、初めて驚愕の色が浮かんだ。
真横を向いたまま、涼しい顔で、なおかつ無風地帯にいるかのように七三分けの髪を一切乱さず、反復横跳びで猛追してくる男の姿。
「フンッ! 美しくない走りだね!」
高円寺はさらにギアを上げ、圧倒的な脚力でゴールテープを切った。
タイムは【5秒9】。高校生としては破格の数字だ。
その直後。
シュバッ、というスタイリッシュなブレーキ音と共に、坂本がゴールラインを横歩きで通過した。
タイムは【6秒1】。
「……」
記録員も、教師も、オレも(オレのタイムは計算通りの7秒2だった)、完全に言葉を失っていた。
反復横跳びで50メートルを進んで、6秒台前半。
もし彼が普通に前を向いて走っていたら、どうなっていたのか。人類最速の記録など、彼のスタイリッシュ・ステップの前ではただの霞と化していたのではないか。
「……素晴らしい脚力ですね、高円寺くん」
坂本は息一つ乱さず、持参した無料のハンカチで(一滴もかいていない)汗を拭う仕草を見せた。
「君のその大胸筋の躍動、まさにギリシャ彫刻の極み。背中を追わせていただくことで、僕も良いステップが踏めました」
「……フッ。君のその奇妙な踊りも、余興としては悪くなかったよ、スタイリッシュボーイ」
高円寺は不敵に笑い返し、手鏡で髪を直しながら去っていった。表面上は余裕を装っているが、高円寺のプライドに、明確な未知への警戒が刻まれた瞬間だった。
すべての測定が終わり、夕暮れが近づく中。
最後の種目である『ハンドボール投げ』の計測エリアに、重苦しい空気が漂っていた。
これまでの種目で、坂本という存在は完全に学校側のシステムの想定を超えたバグとして全生徒に認知されてしまっていた。
オレは、静かに35メートルという平均的な距離を投げ終え、堀北の隣へと戻った。
「……頭が痛いわ」
堀北が、手帳に何かを書き込みながら深くため息をついている。
「彼の数値をどう記録すればいいの? 握力は計器エラーによる強制カンスト。50メートル走は反復横跳びで6秒台。……これでは、彼の本当の身体能力を測るためのデータとしては一切機能しないわ」
「それが彼の狙い、というわけでもないだろうがな」
オレは答えた。
坂本は能力を隠蔽しているのではない。ただ、彼の日常的な動作が、この学校の用意した常識の枠組みに収まりきらないだけだ。
「最後は坂本か。おい、頼むから普通に投げてくれよ」
記録員の先輩が、半ば懇願するようにハンドボールを坂本に手渡した。
「承知いたしました」
坂本はボールを受け取ると、計測ラインに立った。
だが、彼はボールを振りかぶろうとしなかった。
代わりに、ボールの表面についた土埃を、またしても無料のハンカチで丁寧に拭き取り始めたのだ。キュッ、キュッ、という音が静かなグラウンドに響く。
「何をしてるんだ?」
「……ボールが、少し汚れていましたので。空の旅へと向かう前に、身だしなみを整えてあげるのが礼儀というものでしょう」
坂本はそう言うと、ボールを右手の手のひらに乗せ、まるでダーツの矢でも構えるかのように、顔の横へとスッと持ち上げた。
足は肩幅に開き、重心は極めて安定している。しかし、それは決して遠くへ投げるためのフォームではない。
「行きます」
凛とした声と共に。
「——秘技:白鳥の流星群(メテオ・スウォーム・スワン)」
坂本の腕が、鞭のようにしなった。
いや、腕力だけではない。彼は投擲の瞬間、ボールに対して指先で凄まじいバックスピンをかけたのだ。
シュガァァァァッ!!
空気を切り裂く異音と共に、ハンドボールが上空へと打ち上げられた。
「なっ……真上だと!?」
記録員が叫ぶ。
ボールは、前方ではなく、ほぼ垂直に近い角度で夕空へと昇っていった。このままでは飛距離は数メートルにしかならない。
誰もがそう思った、次の瞬間。
極限のバックスピンを与えられたボールは、上空の強い風圧の層に突入したことで、マグヌス効果——回転する球体が流体の中で揚力を受ける現象——を最大限に発揮した。
ギュンッ!
ボールの軌道が、空中で不自然に水平へと折れ曲がったのだ。
「は……?」
グラウンドにいた全員が、口をぽかんと開けて空を見上げた。
夕日に照らされたハンドボールは、まるで意思を持ったUFOか、あるいは羽ばたく白鳥のように、空中を滑空し始めたのだ。
10メートル、20メートル、30メートル。
ボールは一切高度を下げることなく、むしろ微かに上昇しながら、グラウンドの上を悠然と飛び続けている。
「落ちねえ……! なんで落ちねえんだよ!!」
須藤が頭を抱えて絶叫する。
物理法則への明らかな反逆。だが、これもまた極限の回転数と風の計算が導き出した、ギリギリの流体力学の産物だ。
やがて、滑空を続けたボールは、グラウンドの遥か彼方——体育教官室の開け放たれた窓枠へと吸い込まれ。
スコンッ。
そこにあった使用済みボール入れのカゴの中に、寸分違わず収まった。
「……」
完全なる沈黙。
記録員は、もはやバインダーに数値を書き込むことすら放棄し、ただ虚空を見つめていた。計測ラインから体育教官室の窓までは、直線距離でおよそ80メートル。
だが、それを記録としてどう処理すればいいのか、誰にもわからなかった。
「……やれやれ。お片付けの手間が省けましたね」
坂本は優雅に眼鏡のブリッジを押し上げると、沈黙する教師たちに向かって一礼し、グラウンドを後にした。
かくして、高度育成高等学校におけるの体力測定は、坂本という未曾有のスタイリッシュ・サイクロンによって、完全にその意義を破壊された。
オレの【すべて平均値】という完璧な隠蔽工作も、彼の巻き起こした伝説の影に隠れ、文字通り誰の記憶にも残らなかった。
その意味では成功なのだが……なぜだろう。オレの胃の奥底には、消えることのない鈍い痛みが居座り続けていた。
「……彼を、どうにかしてこちらの駒として使えないかしら」
隣を歩く堀北が、狂気を孕んだ目で呟いた。
「やめておけ。あいつをコントロールしようなどと考えるのは、素手で台風を捕まえようとするようなものだ」
オレは即座に釘を刺した。
実力至上主義とスタイリッシュ至上主義。
この相容れない二つのルールが交差する時、Dクラスの運命はどう転がるのか。
オレは、ただ静かに、次の嵐の到来を待つしかなかった。