ようこそスタイリッシュ至上主義の教室へ   作:GC

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第9話「スタイリッシュ・リフレイン」

その夜、高度育成高等学校の敷地内にあるコンビニエンスストアの薬品コーナーで、オレは成分表と睨み合っていた。

 

 制酸薬、健胃薬、消化薬、鎮痛鎮痙薬。現在のオレの胃を蝕んでいるのは、暴飲暴食でもなければピロリ菌でもない。坂本に対する脳の処理落ちが引き起こす自律神経の乱れである。

つまり、ストレス性の胃炎だ。

 

 オレは最もパッケージに『ストレスに効く』とデカデカと書かれた高価な胃薬(ポイントではなく、入学時に支給された僅かな現金で決済した)をレジに持っていった。

 

「いらっしゃいませー……あ」

 

レジ打ちのアルバイト店員が、オレの顔、いや、オレの後ろを見て息を呑んだ。

 振り返らなくてもわかる。この清浄な空気、無駄に洗練された足音のなさ。

 

 坂本だ。

 

「奇遇ですね、綾小路くん。夜の散歩ですか?」

 

手ぶらの坂本が、夜のコンビニには不釣り合いなほどの爽やかさで微笑みかけてきた。彼の制服は夜の蛍光灯の下でも、まるで高級シルクのように不自然な光沢を放っている。

 

「……まあ、そんなところだ。お前は?」

 

「ええ。少々、風の声を聴きに」

 

詩的な表現だが、要するに夜風に当たりに来たということだろう。だが、彼の視線はオレがレジ台に置いた胃薬の箱へと注がれていた。

 

「胃腸のお加減が優れないのですね。過度なストレスは、美しき魂を曇らせる原因となります。もしよろしければ、僕が裏山で採集した『センブリ』と『ドクダミ』を用いた特製の——」

 

「いや、いい。本当に結構だ。これで治るから」

 

オレは食い気味に拒否し、手早く会計を済ませた。坂本特製の野草ブレンドなど飲まされた日には、胃痛が治る代わりに別のチャクラが開いてしまいそうだ。

 

 オレは逃げるようにコンビニを後にし、寮の自室へと戻った。

 机の上には、Cクラスから(半ば強制的に)譲り受けた過去問のコピーが置かれている。須藤、池、山内の三人は、あの後、坂本の降霊術めいた授業の熱冷めやらぬまま、それぞれの部屋で狂ったように机に向かっているはずだ。

 

Cクラスの過去問がある以上、赤点の回避は容易だ。

 問題の傾向、出題される箇所。それらを丸暗記さえすれば、たとえ彼らのような学力底辺であっても、ボーダーラインを超えることは十分に可能である。

 

 ……そう、普通ならば。

 オレは胃薬を水で流し込みながら、ふと嫌な予感を覚えた。

 この学校が、高度育成高等学校が、果たして『過去問の丸暗記』という安易な抜け道を、いつまでも無条件で許容するだろうか?

 しかし、考えても答えは出ない。オレは思考を打ち切り、ベッドに横たわった。

 明日はいよいよ、中間テスト本番である。

 

翌朝。

 Dクラスの教室は、いつもとは全く違う異様な熱気に包まれていた。

 普段ならテスト前の絶望感や、一夜漬けによる疲労感で重苦しい空気が漂っているはずだが、今日のさんばかトリオの目は違った。

 

「見えっぞ……俺には信長様が見えっぞ……!」

 

「重力、すべては重力の愛なんだ……。リンゴは落ちるべくして落ちる……」

 

須藤は虚空を見つめながらブツブツと呟き、池と山内は互いに肩を組みながら謎のトランス状態に陥っている。彼らの脳内には、坂本が叩き込んだ概念が、スタイリッシュな映像表現として焼き付いているのだろう。

 彼らの異常なテンションに、他のクラスメイトたちも若干引き気味だ。

 当の坂本はといえば、自分の席で静かに文庫本(なぜかフランス語の原書)を読んでいた。彼の机の上には、すでにHBの鉛筆三本と、真新しい消しゴムが、まるで神棚の供物のようにミリ単位の狂いもなく並べられている。

 

「……ずいぶんと余裕そうね」

 

隣の席の堀北が、手元のノートから目を離さずに言った。彼女の目の下には、うっすらと隈ができている。過去問に頼らず、自らの力で完璧な点数を叩き出すために、ギリギリまで知識を詰め込んでいたのだろう。

 

「お前こそ、少しは休んだらどうだ」

 

「私は大丈夫よ。それよりも……彼らのあの状態、本当にテストの役に立つの?」

 

堀北の視線の先では、須藤が突然立ち上がり、見えない刀を振るうような謎のポーズ(おそらく歴史の授業での坂本のコピー)をとっていた。

 

「さあな。だが、少なくとも絶望して白紙で出すことはないだろう。……過去問の答えも暗記させてあるしな」

 

オレの言葉に、堀北は少しだけ表情を曇らせた。

 

「……過去問。確かにあれは強力な武器だけれど、私はどうも腑に落ちないの。この学校のシステムが、あんな露骨なチートを放置するかしら」

 

堀北も、オレと同じ懸念を抱いていたようだ。

 チャイムが鳴り、担任の茶柱佐枝が教室に入ってきた。彼女の表情は相変わらず冷徹で、手には分厚い問題用紙と解答用紙の束が抱えられている。

 

「席に着け。これより、一学期中間テストを開始する」

 

茶柱の低い声に、教室が静まり返る。

 

「ルールは事前に説明した通りだ。カンニング等の不正行為が発覚した場合は、即刻退学処分とする。また、一科目でも赤点を取った者も同様だ。……もっとも、お前たちDクラスがどこまで足掻けるか、見物ではあるがな」

 

茶柱の冷ややかな視線が、教室を舐め回すように動く。そして、坂本の席で一瞬だけ止まった。

 前回の小テストで、ルーペ必須のマイクログラフィア&カリグラフィーによる芸術的な解答を突きつけられた彼女の目には、明らかな警戒の色が浮かんでいた。

 

「問題用紙と解答用紙を後ろに回せ」

 

プリントが配られていく。

 最初の科目は数学だ。

 オレは配られた問題用紙の束を受け取り、表面の注意書きを一瞥した。

 そして、試験開始の合図を待つ。

 

「はじめ」

 

一斉に、用紙をめくる音が響き渡る。

 オレは問題文の全体像をスキャンするように眺めた。

 ……なるほど。そういうことか。

 

オレの予感は、半分当たり、半分外れていた。

 問題の構成自体は、Cクラスから入手した過去問とほぼ同じだった。大問の配置、出題範囲、意図。

 

 しかし。

『数値』や『条件』が、巧妙に変更されていたのだ。

 

例えば、過去問で「Aが時速4km、Bが時速6kmで歩いた場合……」という問題が、「Aが時速5km、Bが時速8kmで歩き、途中で10分休んだ場合……」というように、単なる暗記では絶対に解けないようにマイナーチェンジが施されていた。

 式の立て方という根本的な理解がなければ、過去問の答えを丸暗記しただけの者は、確実に不正解へと誘導される悪魔のトラップ。

 

「……っ!!」

 

斜め前の席で、池が小さく悲鳴を上げた。

 彼も気づいたのだ。自分が徹夜で丸暗記した答えの数字が、この問題用紙の前では全くの無意味であることに。

 須藤の背中も、目に見えて強張っている。彼の手首からは、冷や汗が滴り落ちていた。

 

(終わったな)

 

オレは冷酷に分析した。

 彼らの学力では、その場で数式を組み直して応用問題に対応することなど不可能だ。過去問という命綱を断ち切られた彼らは、このまま赤点という名の深淵へと真っ逆さまに落ちていく。

 

 茶柱が、教室の前方で微かに口角を上げたのが見えた。おそらく、この過去問対策のマイナーチェンジは、学校側の意図的な仕様なのだろう。

 

オレは、自らの解答用紙に、平均点ちょうどになるように計算して答えを書き込み始めた。彼らが退学になれば、Dクラスのポイントはさらに絶望的なものになるが、オレ自身に直接的な被害はない。

 

だが、その時だった。

 

スッ……。

 

静寂に包まれた教室の中で、極めて微小な、しかし洗練された摩擦音が響いた。

 

 音の出処は、言うまでもない。

 坂本である。

 

オレが視線を向けると、彼はすでに自らの解答用紙の全ての記入を終えていた。

 試験開始から、わずか3分。

 見直す素振りすらなく、彼はペンを置き、両手を机の上に静かに組んだ。その姿勢は、試験中の生徒というよりは、ルーブル美術館で名画を鑑賞する貴族のそれであった。

 

そして。

 彼は、自らの前方の席で、絶望に打ちひしがれながら鉛筆を震わせている池の背中を見つめた。

 続いて、右斜め前の須藤、左前方の山内の様子を、静かに観察する。

 彼らが過去問の数字が違うというトラップに嵌り、思考停止に陥っていることを、坂本は瞬時に察知したのだろう。

 

(……どうする気だ?)

 

オレは、ペンを動かす手を止めずに、坂本の挙動に神経を集中させた。

 テスト中における私語は、当然不正行為とみなされる。身振り手振りで答えを教えることも同様だ。そもそも、池たちの学力では、ジェスチャーで数学の解法を伝えることなど不可能に近い。

 

坂本は、組んでいた右手をゆっくりと解き、机の端に置かれていた消しゴムに指を添えた。

 何の変哲もない、白いプラスチック消しゴム。

 

「……」

 

茶柱も、不自然に微動だにしない坂本に気づき、鋭い視線を送っている。

 坂本は、消しゴムを指先で軽く弾いた。

 

——秘技:消しゴムの雪月花(イレイザー・スノウ・ムーン・フラワー)。

 

その瞬間。

 坂本の指先から生み出されたのは、消しゴムの『カス』だった。

 彼は、解答用紙の余白に極めて軽い力で鉛筆の線を数本引き、それを即座に消しゴムで擦り取った。通常であれば、ただの汚い消しカスが出るだけだ。

 しかし、坂本の消しゴムのストロークは、摩擦係数、角度、そして消しゴム本体の弾力を完璧に計算し尽くした、一種の彫刻芸術の領域にあった。

 

シュッ、シュッ、という極めて静かな音と共に生み出された消しカスは、ただのゴミではなく、見事な細い糸状となって机の上に落ちていく。

 彼はそれを、指先の僅かな風圧——「秘技:胡蝶の吐息(バタフライ・ブレス)」——によって、自らの机の上で精巧な幾何学模様へと配置し始めたのだ。

 

円、三角形、そして放物線。

 

それはまさに、現在池や須藤が直面している大問3の図形問題と、大問4の二次関数のグラフの完全な立体モデルであった。

 

「なっ……」

 

真横にいたオレは、その異常な光景に思わず声を出しかけた。

 

 消しカスで枯山水のような芸術空間を作り上げているだけでも狂気だが、問題はそこではない。

 坂本は、自らの机で完成させたその消しカスの数理モデルに向けて、窓から差し込む太陽の光が最も美しく反射するよう、わずかに机の角度を調整したのだ。

 

キラリ、と。

 消しカスの表面の微小な凹凸が光を乱反射し、前方に座る池と山内の背中に、そして彼らの机の上に置かれたステンレス製の筆箱に、特有の光のパターンを投影した。

 

それは、単なる光の明滅ではない。

 図書館の勉強会で、坂本が『虚数の織物(イマジナリー・ファブリック)』を見せた際、彼らに無意識に刷り込んでいた数式が展開される際のリズムと視覚情報の再現であった。

 

「……あ」

 

池が、自らの筆箱に反射した奇妙な光の幾何学模様を見て、ピタリと動きを止めた。

 その模様は、池の脳深くに眠る、あの日図書館で見た美しい知のパズルの記憶を強制的に引きずり出した。

 

『力技で壁を壊すような無骨なものでした。数学とは、真理という名の扉を、最も美しい鍵で開ける行為です』

 

坂本の声が、池の脳内でフラッシュバックする。

 暗記した数字ではない。

 図形の構造、補助線を引くべき最も美しい『黄金比のポイント』。

 

「……そうか。ここか……!」

 

池の目に、突如として理知的な光が宿った。

 彼は過去問の数字を忘れ、純粋に目の前の問題の構造と向き合い始めたのだ。シャープペンシルが、解答用紙の上を走り始める。

 

一方、須藤に対しては別のアプローチが取られていた。

 坂本は、消しゴムアートを片付けると、今度は自らのシャープペンシルを手に取り、そのノック部分を親指で押し始めた。

 

カチッ、カチカチッ、カチッ。

 

極めて小さな音。しかし、それは決して無作為なノイズではなかった。

 モールス信号? いや、違う。

 

——秘技:無音の交響曲(サイレント・シンフォニー)。

 

そのリズムは、須藤が図書館で泣きながら平伏した、あの『歴史の舞(ヒストリカル・トランス・信長)』のステップのテンポと完全に一致していたのだ。

 数学の試験中に、歴史の舞のテンポ? 一見意味不明だが、坂本の深謀遠慮は人間の認知の限界を超えていた。

 

坂本は、歴史の勉強と同時に、数学の公式(特に二次方程式の解の公式)を、その舞のステップに連動したリズムとして須藤の筋肉に記憶させていたのだ。

 

「……っ!」

 

須藤の肩が、ビクンと跳ねた。

 彼の脳内で、燃え盛る本能寺の映像と共に、解の公式が『舞のステップ』として再生される。

 マイナスビー……プラスマイナスルート……。

 

「うおおおおおっ! 見えた! 俺には見えるぞ、信長様の数式がァッ!」

 

須藤が、心の中で絶叫しながら(実際には歯を食いしばりながら)、猛烈な勢いで数式を書き殴り始めた。

 その様子を教壇から見ていた茶柱は、眉間を深く寄せていた。

 

「(……あの落ちこぼれ共が、過去問のトラップを自力で突破しているだと? 何が起きている?)」

 

茶柱の視線は、再び坂本へと向けられた。

 しかし、坂本はただ姿勢良く座り、窓の外の雲の動きを風雅に眺めているだけである。彼の机の上には、すでに綺麗に片付けられた消しゴムと、完璧な答案用紙があるだけだ。

 物理的なカンニングの証拠など、どこにも存在しない。彼はただ「光を反射させた」だけであり、ペンを数回ノックしただけなのだから。

 

(……この男、クラスメイトの共感覚と筋肉の記憶を、音と光のアンカーで物理的に操作しやがったのか)

 

オレは、戦慄を通り越して、もはや呆れることしかできなかった。

 試験会場という厳格なルールの中で、不正行為の定義すら擦り抜けながら、仲間を正解へと導く。それはチートではなく、あまりにも高度なコーチングの極致であった。

 

キーンコーンカーンコーン。

 

残酷にして無慈悲な終了のチャイムが鳴り響いた。

 

「そこまで。筆記用具を置け。後ろから用紙を回収する」

 

茶柱の指示に従い、答案が回収されていく。

 池と須藤、そして山内は、試験が終わった瞬間、机に突っ伏して深い息を吐き出した。彼らの顔には、今までにない知恵熱とやり切った感が浮かんでいる。

 

そして、昼休み。

 数学に続き、英語、歴史と午前中の科目を終えたDクラスの教室は、奇妙な静けさに包まれていた。

 過去問のトラップに気づき、絶望した者もいたはずだ。だが、坂本の『共感覚のオーケストラ』の影響下にあったさんばかトリオだけは、なぜか晴れやかな顔をしている。

 

「アニキ……俺、解けました。数字が変わってても、アニキの背中が教えてくれた通りに補助線を引いたら、全部綺麗に解けたんです!」

 

池が、涙ぐみながら坂本の席へと駆け寄った。

 

「俺もです! 歴史の問題、信長様が出てきた瞬間、アニキの足音が脳内で鳴り響いて……気がついたら答えを書いてました!」

 

須藤も興奮冷めやらぬ様子で続く。

 坂本は、彼らに向かって優しく微笑み、自らの手作り弁当(裏山で採取した山菜のフリットと、完璧に炊き上げられた無料の白米)の蓋を開けた。

 

「素晴らしい成果ですね。あなたたちが自らの力で扉を開いたのです。僕はただ、その扉の前に立っていた埃を、少しだけ払ったに過ぎません」

 

「アニキィィィィッ!!」

 

三人は再び号泣し、坂本を崇める儀式を開始した。

 

「……綾小路くん」

 

隣で、弁当を持った堀北が、死んだ魚のような目でオレに話しかけてきた。

 

「私、テスト中に見てしまったの。彼が、消しカスで……フラクタル図形を作り上げているのを」

 

「……」

 

「それを見た池くんたちが、突然覚醒したのよ。意味がわからないわ。あれは、何かの催眠術? それともオカルト?」

 

「やめろ、堀北。それ以上深淵を覗くのは危険だ。お前の優秀な脳の処理能力を、そんな理解不能な事象に割り当てるな」

 

オレは、鞄から例の高価な胃薬を取り出し、水と共に飲み込んだ。

 スーッとする清涼感が胃の粘膜を覆っていくが、根本的なストレス源が目の前で山菜を優雅に咀嚼している以上、気休めにしかならないだろう。

 

「……でも、これで彼らが赤点を回避できたのだとしたら。彼の手法は完全に狂っているけれど、結果としてクラスの崩壊は防がれたことになるわ」

 

堀北は、不本意そうに唇を噛みながらも、事実を認めた。

 そうだ。結果だけを見れば、坂本の行動はDクラスにとって最大の福音である。彼がいなければ、須藤たちは間違いなく過去問の罠に嵌り、退学となっていただろう。

 

数日後。

 教室の黒板に、一学期中間テストの成績表が貼り出された。

 生徒たちが群がり、悲鳴や歓声が上がる。

 オレは人混みの後ろから、静かに結果を確認した。

 

オレの点数は、全科目ちょうど50点。見事なまでの平均値だ。

 堀北は、全科目90点以上の高得点。流石である。

 そして、問題のさんばかトリオは。

 

「よっしゃああああああっ!! 俺、数学45点!! 英語41点!! 赤点回避だあああっ!!」

 

「俺もだ! 歴史55点取れたぞ!! 信長様バンザイ!!」

 

彼らは、ギリギリではあるものの、見事に赤点ライン(通常は平均点の半分、あるいは固定の点数)をクリアしていた。奇跡としか言いようがない。

 クラス全体に、安堵の空気が広がる。

 

だが、オレの視線は、成績表の最上位——学年トップの点数が記載されている部分に釘付けになった。

 

1位:坂本(全科目100点)

 

満点。

 それ自体は、もはや彼の能力を考えれば驚くべきことではない。

 問題は、その点数の横に、茶柱の手書きで小さく添えられた『※特記事項あり』という赤い文字だった。

 

「先生、この特記事項って何ですか?」

 

平田が、代表して茶柱に尋ねた。

 茶柱は、深い、本当に深い疲労の色を隠そうともせず、大きくため息をついた。

 

「……坂本の解答用紙についてだ。こいつは全科目満点であるばかりか、英語のテストにおいて、問題文の長文読解(シェイクスピアの引用)に対して、解答欄の余白に『当時の時代背景に基づく韻律の誤り』を指摘し、古英語を用いた完璧なソネット(十四行詩)で教師側に逆質問を書き連ねていた」

 

教室が、ざわめきに包まれる。

 

「さらに歴史においては、指定された解答だけでなく、その事象が起きた際の気象条件が戦局に与えた影響を、独自に計算した気象モデルの数式と共に併記していた。……採点するこちらの身にもなってほしいものだ。他の教師陣も、こいつの解答用紙を解読するために、専門家を呼ぶべきか真剣に議論していたぞ」

 

完全なる沈黙が教室を支配した。

 誰も、言葉を発することができなかった。

 テストを解くのではなく、テストを通じて出題者と学術的なセッションを行う。それが坂本の中間テストであったというのか。

 

その重苦しくも狂気に満ちた沈黙を破ったのは、他でもない、話題の中心にいる男その人だった。

 

「——恐悦至極に存じます」

 

スッ、と。

 摩擦音一つ立てず、坂本が自席から立ち上がった。

 

 窓から差し込む初夏の陽光が、なぜか彼の黒縁メガネのブリッジ部分にだけスポットライトのように集束し、キラリと鋭い光を放つ。彼は左手で前髪を優雅に掻き上げ、右手は自らの胸の前にそっと添え、まるでオペラ座の舞台に立つプリマドンナのように、教壇の茶柱へと向き直った。

 

「茶柱先生。そして、問題作成に心血を注がれた名もなき教師の皆様。僕の些末な対話に、貴重なお時間を割いていただき、心より御礼申し上げます」

 

坂本は、完璧な四十五度の角度で一礼した。

 その所作には、一切の嫌味も、己の知性を誇示するような傲慢さもない。ただ純粋に、無垢なる感謝だけが込められていた。

 

「な、なんだよ対話って……」

 

「テストだぞ……?」

 

池や山内が、震える声で呟く。

 茶柱は、額を押さえながら深く、深く息を吐き出した。

 

「……対話、だと? 貴様はあれを対話と呼ぶのか、坂本」

 

「左様にございます」

 

坂本は、涼やかな声で答えた。

 

「テストとは、単に出された問いに対して記号や数値を叩き返す、無機質なベルトコンベアの作業ではありません。それは出題者と解答者の間で交わされる、知性を通じた魂のワルツ。……先生方が丹精込めてご用意された極上の問いに対し、ただ正解を置いて立ち去るのは、フルコースのディナーを前にして水だけを飲んで帰るような、あまりにも無粋な振る舞いです」

 

坂本は、一歩だけ教壇へと歩み寄った。

 

「故に、僕は僕なりの作法で、先生方の情熱にお応えしたまで。古英語のソネットは、長文読解という名の美しい庭園に咲いていた一輪の花への、僕からの返歌。歴史の気象モデルは、過去の英傑たちと共に戦場を吹き抜けた風の冷たさを、皆様と共有したかったが故の……ほんの少しの、イマジネーションの共有です」

 

「……」

 

茶柱は、何も言えなかった。

 彼女の冷徹な仮面の奥で、教師としてのプライドと、常識という名のストッパーが、メキメキと音を立てて崩壊していく音が、オレの席まで聞こえてきそうだった。

 

「アニキ……」

 

「すげえよ……アニキはテスト用紙の上で、先生たちとダンスを踊ってたんだ……!」

 

須藤たちが、またしても感動の涙を流し始めた。彼らの脳内では、坂本がタキシード姿で答案用紙の上を華麗にステップしている映像でも流れているのだろう。

 

オレは、静かに机の下で胃の辺りを押さえた。

 痛い。昨日買った高価な胃薬のコーティングが、坂本の発するスタイリッシュな言霊によって、物理的な胃酸の分泌量を抑えきれずに溶け出していくのを感じる。

 

「……もういい」

 

茶柱が、搾り出すような声で言った。

 

「貴様のその……美意識は、十分に伝わった。だがな、お前の採点のせいで、英語科の主任は知恵熱を出して保健室に運ばれた。歴史の教師に至っては、お前の気象モデルの数式を解読するために、昨晩から一睡もせずにスーパーコンピューターの申請書を書いていたぞ。……次からは、頼むから普通に解いてくれ。これは担任からの、切実な命令だ」

 

それはもはや、指導ではなく懇願だった。

 あの冷徹な茶柱先生に、ここまで言わせる生徒がかつて存在しただろうか。

 

「……なんと」

 

坂本は、少しだけ目を伏せ、憂いを帯びた表情を見せた。

 

「僕の未熟なステップが、皆様の足を踏んでしまっていたとは。配慮が足りませんでした。誠に申し訳ありません」

 

彼は再び深く一礼すると、顔を上げ、爽やかに微笑んだ。

 

「承知いたしました。次回からは、皆様の歩幅に合わせた、優しく、そしてスタンダードなワルツを心がけるよう、善処いたします」

 

「……あ、ああ。頼む」

 

「ですが」

 

坂本は、眼鏡のブリッジを中指で押し上げた。

 

「美意識とは、時に己の意志をも凌駕し、答案用紙の上に舞い降りてしまうもの。万が一、再び僕のペンが情熱のフラメンコを踊り出してしまった際には……その時はどうか、海よりも深いご慈悲で、お見逃しいただければ幸いです」

 

「…………」

 

茶柱の瞳から、完全に光が消えた。

 善処はするが、約束はできない。そうスタイリッシュに宣言されたのだ。

 

「……ふん。まあいい。お前たちDクラスは、今回の試験で退学者を出さなかった。この事実だけは評価してやろう。ホームルームは以上だ」

 

茶柱は、逃げるように——いや、実際に逃げるスピードで、教室の扉を開けて出て行った。彼女の歩く背中は、今まで見たどの教師よりも哀愁と疲労に満ちていた。

 

「アニキーーーッ!! やっぱアニキ最高ですよ!! 先生まで躍らせちまうなんて!!」

 

茶柱が去った直後、須藤たちが一斉に坂本の席へと群がった。

 坂本は、彼らに向かって「秘技:天使の微笑み(エンジェル・スマイル)」を向けながら、優雅に次の授業の準備を始めている。

 

「……綾小路くん」

 

隣の席の堀北が、手元のノートにシャーペンを突き立てたまま、虚無の表情でオレに話しかけてきた。

 

「私……今度からテストを受けるとき、彼のことを思い出してしまいそう。記号の『ア』を書くたびに、これはただの記号なのか、それとも魂の交歓なのかって……」

 

「やめろ、堀北。それ以上深淵を覗くな。テストはテストだ。記号は記号だ」

 

オレは、堀北のゲシュタルト崩壊を全力で阻止した。

 この男の恐ろしいところは、その狂気じみた行動が、周囲の人間の常識のハードルを徐々に、しかし確実に歪めていくことにある。

 

 彼は坂本であり、高度育成高等学校という実力至上主義のシステムそのものを、優雅なステップで踏み荒らす嵐なのだ。

 オレは、カバンの中から昨日買った胃薬の瓶を取り出すと、昼食前だというのに、無水で二錠を飲み込んだ。

 

昼休み。

 オレは、一人で校舎の裏手にある自販機コーナーへと向かった。

 胃薬のせいで口の中が苦く、甘いコーヒーでも飲みたかったからだ。

 しかし、そこには先客がいた。

 

「……クソが」

 

自販機を蹴り飛ばしている男。Cクラスのリーダー、龍園翔だった。

 彼は忌々しげに舌打ちをし、乱暴に髪を掻きむしっている。その後ろには、石崎とアルベルトが縮こまって立っていた。

 

「どういうことだ、石崎。Dクラスの奴ら、あの過去問トラップに引っかからずに全員赤点回避しただと?」

 

「は、はい……。掲示板で確認したっす。須藤たちのアホ共も、なぜかギリギリでクリアしてやがったっすよ」

 

龍園の苛立ちは、頂点に達していた。

 彼が提供した過去問は、学校側が数字を改ざんする『トラップ版』であることを知った上で、わざとDクラスに渡したものだったのだ。

 過去問を信じ切った底辺どもを根こそぎ退学に追い込む、冷酷な罠。

 

「……あのメガネ野郎か。坂本とかいうバケモンが、テスト中に何か仕掛けたに違いねえ」

 

龍園の勘は鋭い。しかし、彼がどれだけ調べても、カンニングの証拠など出てくるはずがないのだ。

 

「面白え。面白えじゃねえか、坂本……! お前のその澄ましたツラ、絶対に俺が引きずり下ろしてやる。次の試験、覚悟しておけよ……!」

 

龍園の目は、もはや勝敗への執着を超え、坂本という不可解な存在に対する恐怖と、それを裏返した異常な闘争心でギラギラと燃え上がっていた。

 

オレは、彼らに気づかれないように静かに踵を返し、その場を離れた。

 実力至上主義の学校において、情報は武器であり、点数は命だ。

 だが、坂本はその武器を芸術の絵筆として扱い、点数という命を無償の愛としてばら撒いている。

 龍園がどれほど緻密な罠を仕掛けようとも、坂本のスタイリッシュなフィルターを通せば、それは全てただの余興へと変換されてしまうのだ。

 

「……次は特別試験、か」

 

オレは空を見上げた。

 初夏の陽射しが、容赦なく降り注いでいる。

 平穏な日常は、すでに手の届かない場所へと消え去った。オレの胃の痛みは、しばらく治りそうになかった。

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