勝利を求める者は、敗北を恐れない心を持つ。
「ああ、賭けてもいい」
ジャラジャラと、銀が擦れて流れ落ちていく音。金物と金物がぶつかり合い、僅かな痛みのようなキンとした調べは、脳へと鋭く響かせられていく。
……悪くない。騒音ばかりが支配する空間ではあれども、その隙間に訪れるあの音。硬貨が幾十幾百幾千と流れていく、例の魅惑の響き。銀に煌めく一粒が、幾億の列を成して建物内を巡っていく感動。人によっては忌避を思うこれらだろう、あまり歓迎されない行いというのは理解しているし、この悦を理解してもらうための説明をするにも、他ならぬ自分自身がさほどの理解を要していないのだ。
「これはプラスだ。少なくとも普段の何倍にも、な。総合で見たとしても、圧倒的に。数字が示す結果以上のモノを俺は手に入れた」
ふと、胸中へ沈めていた意識を浮上させて、視界を周囲へと回してみる。
手入れの行き届いた調度品は、低俗な低品質とは掛け離れた『艶』を放つ。
数時間前とは一転変わった静かな空間に身を置いても、最高の体験をした己の幸福機構は、未だに余韻を吐き出し続ける。
「あ? 『そんなにも楽しかったのですか?』だぁ? ……ああ、そりゃもう最高だったさ」
悦びの表情を見抜いた『彼女』からの指摘には、これ以上無いほどに機嫌の良い返答を渡す。だがきっと、これ以上無いほどに不機嫌な顔をしている『彼女』を納得させるだけの弁舌は奮えないだろう。
感覚的と言ってしまっても差し支えない。感情的、あるいは衝動的、そんな興奮と幸福感を理論立てて説明するのは難しいものだ。現代に生きる若人の一員としては、それはあまりにも動物的極まる価値観なのだが、これも文明の発達から産み落とされた堕落と思えばさもありなん。
とは言えども、やはり納得のいかない人種からすれば『何故』を問いたくもなる。決して褒められない行為へ耽っていることくらいは自分だって分かっているのだ、心配や憤りに染まった冷たい顔で、「どうしてなのですか」と言われるのは、うん、まあ、ちょびっとだけ心が痛む。
「ハッ! そうかよ」
息を切るように、短く不敵に笑う。自覚もしているほど染みついた、己の好機嫌の証だ。
その様子にますます機嫌を下降させていく目の前の『彼女』は、侮蔑がギッチリと詰まった表情で「救い難いほどに愚か者です」と言い捨てた。
「お前にしては浅い考え方だな。……ああ、そうだ、お前の言うところの『愚者』と決め付けるのは早計だと、そう言った」
だがちょっと待ってほしい。今一度言うが、これらはつまるところ文明発展の産物の一つなのである。文明、それすなわち人の力、人の叡智、人の素晴らしさ、故に人類賛歌とも言える。
果実を食らって悪徳を知るのが人類と、昔の人は定義づけている。そして価値観とは、歴史の流れと共に姿形を変える流動的なもの。
禁断の果実は、現代では強欲を数える為の銀の球に。開けてはならない大いなる匣は、現代では銀の硬貨をカチカチに盛り尽くす欲望の匣舟に。
つまりだ、そう、つまり、ですね、はい。
「10万飲まれた直後に10万以上取り戻すのが人生最大の幸福なんだぁ……」
「言いたいことはそれだけですか中学卒業間近の佐々木乃亜君」
通算何度目なのかを思い返しながら、今の今までのように少年を強く睨め付ける『彼女』。
けれど少年は素知らぬ顔───恍惚としたアホ顔で、本日更新した歴代最高記録の出玉を脳内で勘定し続けるのだ。
その様子を見やる成年男性……『彼女』の父親である坂柳成守は、いつもの光景に呆れた顔で、ため息を一つこぼした。
齢15にして壊滅的なまでのギャンブル中毒少年、佐々木乃亜。
本当に自らの運営する学校へ在籍させても良いものなのだろうかと、つい思わずにはいられない坂柳成守だった。
杖の先が、アスファルトを慎ましやかに叩く音がする。杖の影を、背にした夕暮れがより色濃く強調させる。
ゆったりと、ゆっくりと、流れる景色も流れる世界の音も、横で静かに歩く『彼女』も、『彼女』を右手で支える俺も、今となってはすっかり慣れた日常にそれは起こった。
中学3年に上がって少し経った5月頃、進路を嫌でも意識せざるをえない時期だった。腐りかけた蜜柑のような人格をした腐れ縁の友人は、放課後の帰宅の道中で、不自然に機嫌を良くしてこう言った。
ふふっ、とか、うふっ、とか、羽毛が緩やかに舞うような上機嫌だったのは印象的かもしれない。
「乃亜君の分の出願も、私のついでに済ませてしまいますね」
コイツはどれほど傲慢な女なのだろうか、俺はそう思った。
一人の人間の人生を大きく左右させる分岐路が進路である。それをコイツは、己の意思一つで好き勝手に出来ると本気で信じ込んでいるのかもしれない。「そういえば」みたいなノリでだ。冗句の類でもなく、割と本気でそう思い込んでいそうな女がコイツなのだと俺は知っている。
普段なら互いの家族事情的に坂柳家へお世話になっている手前、なあなあでコイツの言われた通りに動くのが大半なのだが……だが。
「やめろ天才バカ」
「え?」
「進路だぞ、俺が選ぶに決まってんだろ」
「……どうせ、適当な所へ進学するだけでしょう? それでしたら、やはり乃亜君の成績を鑑みて相応しい場所を提案して差し上げようかと思っているんです」
会話を続けながら、すまし顔を維持して『彼女』の表情を伺う。バッサリと突っぱねたのは良い先手だった、だが『彼女』の焦りはまだまだ小さい。IQ高めなコイツ相手に言いくるめる為には、理論立てる方がよっぽど悪手。感情論、それも突発的なモノを立て続けに、それでいて戦術的に突きつけるのが有効である。……なんだってただの会話でこんな思考を展開しなくちゃならないのだ。人間関係に於ける面倒臭さを濃縮したような女である。
今回ばかりの形勢は、俺の側にある。『彼女』の言を受け入れる時の大半は、俺に対してもメリットを齎す提案(命令)ばかりなのだ。故に大人しく従っていただけに過ぎない、これは言い換えると、それ以上に優先する方針が自分の中に定まっているのなら、コイツの言葉はいとも簡単に跳ね除けられるモノでしかない。
「いやいらないってば」
「…………そうは言っても、乃亜君には私が付いていないとダメダメですからね。結局は同じ高校へ通うことになるのでしょうから、貴方の手間を省いてあげようというのです。感謝してください」
「高卒で就職するからいい」
「はい? …………だ、ダメです乃亜君は
コイツはどれほど傲慢な女なのだろうか、俺は再度思った。
「どうせお給料が入ったそばからすっからかんにするんですっ。貴方の全てを管理できる私がいないと、乃亜君の生活は壊滅的になってしまうんですから」
「預金残高を眺めながら綱渡り、かぁ……ハッ! 望むところだね」
「どうして楽しみにしているんですか……?」
「破滅との隣り合わせを楽しむ、それでいて己の未来には勝利が待っていると信じる、それが俺だ。敗北の可能性に二の足を踏むようならプロギャンブラー失格だかんな」
「…………不良中学生」
かなりふざけた発言をし尽くす俺の足の小指へ向かって、白杖の切先が振り下ろされた。一度じゃ済まない、5〜6発は喰らわされてしまう。
痛い。ごめんなさい。ちゃんと話しますから。
「あー、進学は金と時間が掛かる、だってのによりにもよってあの超有名な高育? 冗談だろアホめ。破産するわ」
「……本当に何も知らないんですね」
ため息を一つ。父娘揃って、俺に対してよく見せる仕草だ。失礼な人達だ。知ったかぶりをするより、己の無知を知るほうがよほどマシだろうに。そういった細かい姿勢を誉めてはくれないのか、コイツは。
「ああ知らん。明日はおそらく駅前のところが設定入れるだろうからそこそこ熱そうとかなら知ってる」
「……そうですか」
「あとは先月の桜花で勝ってくれた俺のお姫様が明後日のオークスで走ることくらいしか知らん」
「…………それこそ知りませんけれど」
ゴミを見る目がどんどん極まっていく。おいこら猫被れよ。その辺の他人へ向けるみたく愛想振りまけよ。
「───待ってください、今、なんと?」
「あ? え、マジか、オークス興味あるのかよ。……ハッ! いいね、それじゃ新聞を買いに行くぞ。出版社によって情報に差が出るからいくつか見繕って「少し黙りなさい」……はい」
『貴方の人権など道端の小石なんですよ』と述べている視線で、俺の発言権を一気に取り上げる、性格終わってる系お姫様。
目力で人を焼き殺せそうな気がした。これで貧弱属性も付与されているのだから、世界って結構アンバランスなんだなぁと思うのです。
「『俺のお姫様』とは?」
「……俺が心から一目惚れした女の子のこと?」
「 は? ……先ほどの文脈からして私ではありませんよね。そして直近、それも先月で走った? これも身近ではありませんでした、体育の内容は室内で行われるものだけでしたから。陸上部の有象無象でしょうか? いえ、放課後は共に帰っているわけですから、部活動の内容を乃亜君が知る訳もありませんよね。さて…………
あの子は、きっと今の世代を牽引する素晴らしき牝馬だというのに!
……何かしらの間違いを犯しているような、謂れのない罪が事実であると信じてしまうような、理不尽と理不尽をミックスした視線が俺に向けられている。
ゆらりゆらりと笑っているのは、うーむ、これ、結構キレてるね?
「吐きなさい」
「吐いたらどうなるのか知りたい」
「暗闇というのは、覗き込み過ぎれば引き摺り落ちるのみですが、それでもよいのでしたら」
なんかこわいきがした。
これは常日頃から「愚か」だの「呆れます」だの「ダメダメですね」だとか言われっぱなしな佐々木乃亜でも理解ができる。言い回しだ、言葉とは使い回し方一つで印象がガラリと変わるのだ。
ここは一つ、適した語句へと変えることでの挽回を図るとする。
「俺の全てを尽くしても良いと思える最高に可愛い女の子のこと?」
「 は ? 」
「目ぇ充血してら」
自分なりの努力は、即座に失敗で終わった。
間違えを訂正しようとして間違える、そして睨まれる結果で終わる。それが、佐々木乃亜の日常。
そこそこの凹凸に満ちた、けれど慣れてしまった、いつも通り。
それに大きな変化が加わるのなら、『彼女』の言う通りの進路を目指すのも悪くはないのかもしれない。……そんな思考すらもいつも通りの帰結だ。
「───……はぁ……高育は学費も寮費も全てが無料ですよ」
「なるほど? ほんじゃぁ進路はそこに決めた」
「もうっ。……結局はこうなるんですから、乃亜君の進路も人生も全部私に任せておけばいいんです」
「ハッ! 人任せよりも天任せの方が断然楽しそうだね。あ、ああっ! そうだいいこと思いついた! 就職か進学か、コイントスで……」
「コインを弾く事しか能が無いなら、その親指は要りませんよね」
儚い見た目を覆すようなバイオレンス発言に戦慄を覚えながら、佐々木乃亜は、『彼女』と共に帰路を進んだ。
そうして時は過ぎていく。
受験へ臨むまでの準備期間、いわゆる受験勉強と呼ばれる追い込みの時期だ。振り返ってみればどうにも必死な様子の、腐りかけた林檎のような人格をした腐れ縁の友人の姿が思い浮かぶ。
それも仕方ないと言えば仕方がない。何せ佐々木乃亜には、イマイチ『高育に受かってやる!』という熱意が欠けていた。というよりも、謎の安心感が乃亜の中にはあったのだ。
「だってお前に任せとけば大体何とかなるでしょ?」
苦言を呈された時に、つい口をついた言葉だったが。……この一言で『彼女』の機嫌がめっぽう良くなると学習してしまった乃亜は、今後もコレを悪用していくだろう。軍資金調達の目処の一つとして数えておこう。
しかし、受験勉強を放り投げてしまう可能性を『彼女』は常に危惧していたことは間違いない。だって暇さえあればトランプやらダイスやらカジノコインやらを手で弄んでいたもの。隙を見つけては、土日の10時〜16時の時間帯にはテレビに齧り付きっぱなしだったもの。
やる気が無いのは一目瞭然、だからいつになく根気良く、乃亜が勉強できる時間と空間を確保する為に『彼女』は頭を回し続けていた。笑えるくらいに、高性能な頭脳の無駄遣いな気がした。
その為だけに乃亜を坂柳家へ居候させた時は「コイツ正気か」と思ったが、何なら口から出てメチャクチャ怒られたが。
そうした『彼女』の努力、そして過去から積み上げてきた『彼女』による無理矢理脅迫勉強会の日々。結果として乃亜は───
「監視カメラに囲まれた生活ってのも面白そうだと思うんだけど、どうよ」
「いや、常に見られながら生活するのは窮屈だぞ」
───今、こうして偶然にも再会した昔馴染みと喋くっていた。
「そうか? 常に手元を覗かれている、四六時中俺の行動は相手に筒抜け……ハッ! ああ、悪くないね」
「佐々木は……なんか、そういう特殊な趣味の人なのか?」
失礼にも程がある男であった。
しかし彼が過ごしていた環境を過去に垣間見ている乃亜は、『普通』を知らずにのほほんと失礼な事を抜かした彼を許そうと思っている。
「まあ聞けよ。監視されている間はサマを打てない、要はマジの実力で戦えって話だろう。……でもな、監視された状況でイカサマを通し切った瞬間ほど魂が震える体験は無いんだ」
「そうなのか?」
「ああ、ガッチガチに縛られた時、グラフが地の底すら突き抜けた時、紙切れに変わった券が無意味にポケットの中で嵩張っていく時、そんな戦局を一気に覆す爽快感と言ったら…………あはぁ」
「……そ、そうなのか」
懇切丁寧に、常人にも理解し易く笑顔で説明を試みる乃亜。
こうして自分の思想を伝えることで、仲間が作れたのなら儲け物。目の前でぬぼーっとした視線を乃亜へと送る男……綾小路清隆は、過去の記憶が正しければ優秀である事を宿命づけられて育てられている筈だ。しかし経緯に思うところはあれど、今の彼はちょっと優秀なだけの一高校生だ。
───ついでに加えれば、外界に出たばかりの雛鳥も同然。その真っ白な価値観を賭ば……もとい、真剣勝負の情熱で染め上げる事が出来たのなら……。
ギャンブル部……賭博部……いやあまりにも直接的過ぎる……何にせよ、この学校に新たな部活が設立される日も近いだろう。副部長には綾小路清隆の名を添えて。
「……よし、綾小路、俺とお前は今から友達になろう」
提案と共に、乃亜の手が差し出される。
少しだけ目を見開いた綾小路は、手と乃亜の顔の間で視線を往復させる。
「いいのか? 俺からもお願いしたいくらいだが……」
「ハッ! 何をビビってんだ、これからこんな機会はいくらだって出てくるだろうよ」
躊躇いがちに握り返す綾小路。部員候補として(勝手に)見繕っているとは言え、打算を抜いてもこの男は面白そうであると乃亜は直感する。天然ボケの気配がすごくする。複雑怪奇に腐敗した性格の人種が近くにいたせいか、こうした天然培養は珍しく感じるのだ。
乃亜から見れば無表情なのは変わらないが、顔色に多少の変化があったようには感じられた。『しーん』から『じーん』くらいには。
「……信じ難いわ。貴方、綾小路君から幾ら渡されたの?」
横合いから差し込まれた声は失礼千万にも程があった。
その方へ首を向ければ、艶やかな黒いロングヘアーの少女が、UMAを見てしまった瞬間のような目をしていた。綾小路の知り合いなのだろうか。……それにしては、うん、まあ、アレな一言だ。
「買収なんかしていない。所持金すら持ち込めないのは堀北だって知ってるだろう」
「へぇ、堀北っていうんだ。綾小路の友達か」
「絶対に違うわ」
端的に言葉を切ると、中断していた読書を再開させる堀北女史。乃亜に自己紹介をさせてくれる隙すらくれない彼女は、それきりコチラにチラリとも視線を向けることはなかった。
その後に乃亜が呼び掛けても、手を振っても大したリアクションを起こさない、というか気付いてすらいない。……彼女に一瞬でも興味を持たせるとは、『綾小路は友達が作れる』という事実は、それだけ衝撃的だったらしい。
「……どうやら絶対に違うらしい」
「クラスメイトから嫌われるには早過ぎない?」
何をしでかしたのかが気になる。無表情で落ち込んだ様子の綾小路を乃亜が深掘ろうとしたところで、HRの到来を告げるチャイムが鳴った。
この後は担任がやってきて簡単な説明、及び質問、それから授業といったところか。
さて、この箱庭はどんな世界なのだろうか。『彼女』は無理矢理にでも乃亜を在籍させようとしていたが、果たしてそれだけの楽しい世界であるのなら、乃亜もそうだが『彼女』にとっても苦労の甲斐があったと言えるだろう。
「これから楽しいといいな」
「そうだな」
淡白な反応な友人も出来たことだ、これは実に幸先の良いスタート。
その他のクラスメイトを見るに、乃亜の性質と似通った不真面目さを持つ生徒も多そうだ。その中でも傲岸の態度で椅子に座る金髪の人、アレは個人主義で完結している人間特有の気配がする。……ポーカーとか強そうだ、賭博とかに興味はあるのかしら? 乃亜としてはとっても気になるのである。、
担任が顔を見せる前に、少しだけ考察を脳内で巡らせた。
───内申点なんぞに興味は無い身の上だ、いきなりサボりまくりの不良ムーブをかましてもいいが……この
教室内に存在する監視カメラの数は4つ。防犯目的なら1や2でいいだろうに。複数はダミーの可能性もあるが、しかし4つは過剰だ、死角を潰してやろうという意志を感じるし、監視されているという事実に萎縮する者も中には出てくるだろう。
自分の所属するDクラスだけがこうなのではない。Aクラスへのちょっとした用事がてら覗いて行ったが、他のクラスも同様に、死角を潰す箇所へカメラが配置されていた。他にも校内には至る所に監視の目が置かれている。「国内最大手の国立進学校ともなればここまでやるのかー」なんて呟いてしまうほどだったが、不可思議な死角もところどころ存在していた。
『不正を許さない』という意思表示が監視カメラの台数。ならば
「(きな臭いな)」
心中は疑いに満たされつつある。外界へ開かれる事のないこの箱庭の徹底した秘密主義を思えば、これから如何なる説明をされたとしても払拭されるとは思えない。
廊下から人が教室へ歩いてくる気配を感じた。各クラスの担任だろうか、落ち着いた足音は四つ、慌てて教室へ走るような気配は廊下で談笑していた生徒のものだろう。
乃亜の後ろに座っている綾小路も、乃亜と同様のタイミングで姿勢を正す。彼の隣に座る堀北は少し遅れて、読んでいた本をしまう。それを皮切りにしたように、他のクラスメイト達も皆、雑談を止めて自分の席へと座り始めた。
緊張がゆったりと教室を支配していく。各々の期待や不安が、吐息となって伝播していくのが肌で分かる。……仄かな昂揚が、乃亜の胸の奥でチリチリと鳴らしているような気がする。
そして佐々木乃亜の実力史上主義の高校生活は、ここから始まった。
入学式の次の日の昼食の時間、ふと思う。
月10万、それが現時点で乃亜の首にぶら下がった値札の数字らしい。
「水道光熱費も寮費も学費も、何なら昼食代もタダに出来るのに、こんなに貰って良いのか? 使っちゃうぞ? 明日には0に出来るぞ?」
「どうやって使い切るつもりなんだ」
「コイントス」
「は?」
「そこら辺の金欠っぽい上級生捕まえて、『お互いのポイント全てを賭けてコイントスしませんか?』って」
コイントスのコインを今は持ち合わせていないのは、乃亜からすれば由々しき事態だ。きっと『彼女』も驚愕してくれるだろう。「あの乃亜君が、賭け事の道具を持ち歩かないなんて……っ!?」とか。
担任の茶柱先生曰く、敷地内の施設で生活するなら娯楽方面ですら事足りるとの話らしいので、放課後は遊び道具一式を買い出しに行かねばなるまい。コインや銀の球を手で弄んでいないと落ち着かなくて仕方ないのだ。
トランプやダイスも必要だなぁと考えていれば、綾小路は無表情で質問してくる。
「どうして金欠だと思ったんだ? 月初で10万も貰えるのなら、昨日今日でポイントに困る人がいるとは思えないが」
「コレ、無料じゃん」
返答に迷いはなかった。
設定判別の為にグラフや座っている客を観察していたあの日々が、よもやこんな形で活用できるとは思わなかった。やはり『彼女』から頂戴していた諫言の数々は実に浅慮である、現在進行形で人生の役にめっちゃ立ってるぞ。
「んで、この実に微妙な味わいの山菜定食を食べてる層を眺めてたんだけど、俺と同じコレを食ってる人は軒並み上級生。ついでに顔が死んでる、あの顔の死に方からしてお財布すっからかんなんだろうな、親の顔より見た顔だよ」
下拵えが甘い無料の山菜定食、コイツはグレートに敗北者の味である。負けが込んでいる時なんかは、しょっちゅうこんな味気のない貧乏飯の日々だった。
単なる推測ではあるが、経験則を多分に混じらせた考察だ。外れている訳がない、何を隠そう乃亜とてあの手の死んだ顔色には身に覚えがある。5万がたったの2分程で紙屑と化したあの時は「ひゅぅっ……」て感じに息が絡まりました。
「買いたい物があるから節約してる、とかじゃないのか」
「あー、はいはい了解そういうスタンスね。……他の奴が居る時は俺も乗っかってやるから、俺とサシの時は自然に話してくれると嬉しいな」
「……分かった」
とぼけた質問だ。
他の者ならともかく、乃亜に対してその演技は意味が無い。通用しないのではなく、そも裏側を既に知っている。
綾小路が紛れもない実力者であると、乃亜は入学前から知っていた。
「ほんで話を戻すけどさ。毎月10万、理由は入学出来た時点で優秀だからぁ〜? 綾小路だって、違和感があるから聞いて……つーか、あり得ないってもう確信してんだろ」
「……まぁ、ある程度察してはいるが」
「『君達にはこれだけの価値があります』、『可能性も加味しての数字です』、『この学校は徹底した実力至上主義です』。……質問されてばかりもアレだし、担任が言ってたこの三つの言葉に綾小路がどう感じたのか教えてほしいね」
高育敷地内でのみ使用できる電子通貨、これは1円=1ポイントの認識で使えるようで、全ての売買にはこのポイントを用いるのだ。ポイント以外に貨幣としての価値を持つものは存在しない、とまで言い切れるかもしれない。
入学祝いのつもりか、生活基盤のためか、はたまたその他の意図でもあるのか、いずれにせよ最初に配られたポイントは、単なる高校生からすれば大金も大金。
10万ポイントを各生徒にポンと渡せるほど、高育とはすごいところらしい。すごいな高育、希望の就職先へ必ず行けるとかふざけた誘い文句なだけある。これで佐々木乃亜の人生はバラ色確定なのだー! ……とは、残念ながらならないのだ。
「…………価値は、現時点での評価だろうな。他のクラスも同様に10万ポイントだったのなら、スタート地点は平等に揃えているんだろう。生活基盤をどのようにして整えるのかも見られていそうだ」
「おおう、俺も大体同じ意見だ」
「可能性についての言及は……ポイント数の変動を示唆しているんじゃないか? 学校側が感じていた可能性を下回っているのなら、その人はそれだけの価値になるって事にも繋がるだろう。逆に可能性を上回る何かを示せば……上がる可能性もありそうだな」
「偶数設定確定画面示唆くらいには濃厚だわな」
「? ……実力至上主義は、きっと読んで字の如くなんだろう。低い実力ならそれに見合ったモノを。逆に高い実力を示れば、それだけの価値があると見做されて良い待遇を得られるってことだと思う」
2人の間で要約した結論が出る。
「『ポイント数は成績や評価によって上下する』か」
「ハッ! いいね、退屈しなさそうなトコだな! こりゃ怠け者のままでいれば散々な高校生活を送る羽目になりそうだ」
向上心を示し続ける、学生の身分でこの課題をどうこなすかは存外簡単だ。
そして現時点での1番の不明点、これが中々どうして厄介だ。
「問題なのは、個人単位かクラス単位か……綾小路はどっちだと思う」
「なんとも言えないな。そこまで推測するには、あまりにも情報が不足している」
「その辺の情報精査も含めて、実力至上主義って謳ってたりしないだろうな」
青臭さの抜け切らないゼンマイを口いっぱいに頬張りながら、放課後の予定を脳内メモに記していく。
とりあえずで近々にでも職員室は行かねばなるまい。茶柱先生も、質問があるのなら聞きに来いとか言っていたと思う。
「仮にクラス単位で計られていたなら、どうするよ」
「どうするって、みんなに言ってみるか? 『真面目に授業を受けないと、貰えるポイントが減ってしまうかもしれない』って」
「うーむ、信じてくれるものかねぇ」
呼び掛けた瞬間、或いはその次の日くらいまでなら効力がありそうだ。
しかし今の昼休みまでに至るクラスの雰囲気を鑑みると……うん。
「よっし、俺は個人単位での評価付けの可能性を信じたいかな!」
というよりも早すぎるのだ。クラス崩壊の序曲を感じざるを得ないくらいには、早々に不真面目な生徒が好き放題し始めている。校舎のガラスを爆笑しながら叩き割った過去を持つ乃亜からしても、ちょっと酷いかもとは思わざるを得ない。
今でこそ端末を弄るや多少のお喋りで留まってはいるものの、この分ならサボり居眠り早退遅刻と、やりたい放題の宴会場と化すまで時間は掛からなさそうだ。
「清々しいほどに見捨てたな」
「言ったところで効果が無さそう。もうちょい情報集めてから判断し直すけれど、でもまあ……なんか、一回くらいは痛い目見た方が人って成長するからな」
痛みから人は学ぶ、これは持論である。丸一日を使い切った後に残ったモノが、財布の中のノグチヒデヨたった1人だった時の衝撃と苦痛は計り知れない。
……乃亜はその日に学んだのだ。これから決戦へ赴く際、財布の中に軍資金以外には何も入れない、せめてキャッシュカードだけは絶対に持ち歩かない、そう誓ったのだ。
苦痛に満ちた思い出へ心を馳せていると、向かいに座る友人は何やら神妙な雰囲気を向けてくる。
「……辛そうだな」
「ああ、過去の教訓を思い返していたら吐き気がしてきた」
「食べてる途中にやめてくれ」
乃亜の色味に侵されてはたまらないとばかりに、綾小路は食事の速度を早めた。
置いて行かれるのも癪なので、乃亜も同様に山菜定食の処理速度を上げていく。
「……佐々木」
「ん?」
「放課後か夜でも……ちょっと付き合ってくれないか」
「知り合いの買い出しの手伝いの後でいいなら」
「ああ、それで構わない。暇が出来たら連絡してくれ」
こうして佐々木乃亜、高校生活は、静かなる昂揚と共に過ぎていくのだ。
たった一言が、獰猛な笑みを少年へ齎した。
『 』
白の駒を一つ進めた。
黒の駒が一つ迫る。
だからその影に白を潜ませた。
するとその影へ黒が迫る。
潜んだ白をワザと包囲網へと逃す。
見透かした黒は包囲網を崩していく。
その位置が大事なのだと理解していた。敵の配置、攻勢角度、数、全てを俯瞰的に冷たく見ていた上で、
だから理解とは、それは少しだけ違うのかもしれない。理解とは知識量の総括だ、積み上げてきた物の結実だ、だとすればやはり、何となくで取るべき一手をトトトンと迷わず進ませるこの子供は、何一つも理解していない。
周囲からすれば、一進一退の攻防に見えたのだろうか? ……だが。盤上の総数はちっとも減らない。
一つ動かせば、同じように動いて、そしてお互いの駒は結局元の位置へと収まっていく。堂々巡りだった。何一つ変わらなかった。展開をこじ開ける発想も、同様のタイミングで向こう側も似たような思考に至るから、やっぱり掲げられた一手は直ぐに元通り。
何も変わらなかった。多分、現状の2人では、これ以上の発展性は無い。
それを互いに察した瞬間、相手の男の子は千日手を宣言する。……千日手の意味を知らない自分としては、何か突然謎の宣言をしたように思えてしまった。
空気感がどよめいていく。「まさか彼が」「ありえない」「アレは何者だ」とか、恐らくはそういった懐疑。
そして、畏怖。
「───ハッ!」
だから、あまりにも面白くて、滑稽で、つい声が漏れ出てしまう。
不思議そうにこちらを見る男の子の様子が、更にまた笑えてくるのだ。
「退屈な奴らだと思わない?」
「……?」
「あー、まあ、別にいいけどさ」
あの息の詰まった盤上の空気を共有した仲間意識から話しかけたのだが、想像以上の無反応を返された。自分としても、勝利の路ではなく引き分けの路しか見えていなかった時点で、今の一戦に対する熱意など毛頭なかったのだが。
椅子に座っていると、周りが更に慌ただしく動いていく。
チェス盤や机も片付けられて、椅子すらも取り上げられて、最後にこの真っ白な空間に取り残されたのは、自分と向かいの少年だけだった。
『 』
また再び、自分からすれば馴染みがあるのか無いのかよく分からない中年男の声がした。
説明曰く、今から始まるのはシンプルな催しだった。
ギャラリーの皆さん方は、頭脳戦をとくと堪能されたようだ。
次に御所望するのは、肉体戦だとか。
そしてたった一言を告げられた瞬間に、自分は自分を自覚していた。こう生きるしかない? こう生きるのが正解? こう生きたい? ……答えは、まだまだ半熟未満でしかない自分では簡単には出せないだろうけど。
眼前の人形のような無感情の子供とは打って変わって、今、自分は、きっと。
「勝つのは俺だ」
獰猛な笑みを浮かべている。
確かな事実は、それだけだった。