7歳にして、この少年は既に完成していた。
「すんませーん、チェスのルールブックくだせーい。あとグラス人数分とお冷をピッチャーで。それから塩キャベツ、枝豆、串盛り2人前を塩で、あと梅水晶……おいコラ逃げてんじゃねー! 子供のちょっとしたお茶目くらい付き合えや!」
『お前のようなガキがいるか』、そんな心が白い施設内のどこかで一致した。
居酒屋で店員を呼ぶような仕草をして、注文を付ける乃亜。
慌てた様子の職員が忙しなく、乃亜へとそれを渡した。残念ながらお冷諸々は来なかった。
「ちょっと待っててな、今ルール把握するからさ」
「……」
不気味な子供、化け物、怪物、そして『悪魔』だなんて呼ばれる乃亜だった。
しかし目の前で行儀良く『待て』をする子供も負けてはいない。不気味という点で言えばいい勝負だ。
乃亜は情緒が有りすぎて、目の前の子供は────綾小路清隆は、情緒が無さすぎて。
一周回って似た者同士ということにはならないのだろうか、ならないか、うん諦めよう。人生初めての友達候補は、あっさりと候補から外れてしまった。
情緒が少ないことを利用して『友達』であると言質を取らせてもよかったが、どうせ2度と会えないと乃亜は予想していた。これまでの人生の中で、敢えて不確定の中へ飛び込んでいく以外の事象では、乃亜の予想は悉くが的中していた経験がある。だからギャンブルが好きなのだ。
特に、コイントスが好きだった。
「ふーん、プロポーション? あー、確かに、ポーンってボイーンって感じだもんな」
「…………」
この施設に拉致(父親主導)された時点で、使い古していた愛用のコインは没収されていたらしい。目の前の同い年に、50/50を引き寄せる快感を教えてやりたかったが、残念ながらその機会は永遠に来ないようだ。
ルールブックの内容を頭に叩き込みながら、把握していくたびにチェスの常道であろう手を推測していく。
───つまりは海外版FE的な感じね。
乃亜は多方面へ敵を作りかねない発想をしていた。
「────よし、オーケー、お待たせしました」
「……」
ルールブックを投げ捨てながら、乃亜はこの一戦の結末が見えた
『 』
部屋に取り付けられたスピーカーから、クソ親父その一言が流れたその瞬間、乃亜の思考からは、
そして先手を譲り───その意味を理解して、綾小路清隆の一手を見た瞬間、
「これ、勝負つかねーな」
「……」
「えー、この場合どうなんの? 将棋とかだと最初からやり直しとかになるっしょ」
「…………」
「マジで千日間打ち続けるとか言わないよね? 今年のエリザベスと有馬は現地行きたいんだけど。あと来年には戦う歌姫の新台が出るってリークあったし、俺あれ全シリーズのデュランダルは絶対に見とくって決めてんだよ」
「……、……」
「無口過ぎんだろコイツ、せめて引き分けに当たる概念があるかどうかだけ教えて」
「………………」
「おいちょっとクソ親父ぃ!? さっきから言ってんだろ! これ
「……………………」
「ああそう上等だよ、さっきから
乃亜と綾小路が要る空間の、向こう側の空間をついでのように言い当てながら、すらすらと駒を進めていく少年達。
やがて乃亜の言った通り、ピッタリ十分後には展開は止まった。盤上の動きはすべて止まった。駒こそ動くが、同じ場所を往復するだけだ。無機質な綾小路は苦でもないよう動かすが、決まりきった展開を好かない乃亜は不機嫌そうに駒を動かす。初心者である乃亜を気遣って、持ち時間という概念を導入していなかったのが良くなかった。「実質的ハンデげっちゅ」とか考えていた数十分前の自分を殴りたくなる。
もはや乃亜がイリーガル・ムーブでもして終わらせようかしらと考えていれば、唐突に目の前の少年が手を挙げた。
「Threefold repetition」
「? ……あー、引き分けの概念あったのね」
ネイティブで何を言っているのか意味不明な乃亜だったが、無機質な表情に薄っすらと浮かぶ『色』を見て、それが何を意味するのかを正確に読み取った。
ざわめく気配を感じながら、乃亜は椅子にだらしなく座りながら観察を続けた。
空気感がどよめいていく。「まさか彼が」「ありえない」「アレは何者だ」とか、恐らくはそういった懐疑。
そして、畏怖。
「───ハッ!」
だから、あまりにも面白くて、滑稽で、つい声が漏れ出てしまう。
不思議そうにこちらを見る男の子の様子が、更にまた笑えてくるのだ。
「退屈な奴らだと思わない?」
「……?」
「あー、まあ、別にいいけどさ」
あの息の詰まった盤上の空気を共有した仲間意識から話しかけたのだが、想像以上の無反応を返された。自分としても、勝利の路ではなく引き分けの路しか見えていなかった時点で、今の一戦に対する熱意など毛頭なかったのだが。
椅子に座っていると、周りが更に慌ただしく動いていく。
束の間の休息を経て、職員が乃亜と綾小路の使っていたチェスやら何やらを片付けていく。
職員の顔を見て理解した、頭脳戦の次は肉体戦であると。
「マジで? そりゃ未来のジョッキー目指して足腰鍛えてっけど……所詮は我流なんだぞ」
「……」
「構えんの早すぎるだろお前、俺まだ用意もしてないのに先手必勝かよ。あれか、さては五輪の書とかも読まされてる感じだ?」
「……」
「うーむ、正直気が乗らんなぁ……古武術の歩法っぽいの使いそうなコイツからすれば、俺なんかウスノロだし……勝てんぜお前には……───はい! 佐々木乃亜は棄権しまーす!!」
元気よく手を挙げて、大きな声ではきはきと───パチ屋のイベ日店内アナウンスのような勢いとノリで敗北宣言をしてみた。
───沈黙、真っ白に輝ける沈黙だけだがその場所に鎮座していた。
「これはもうDV! ついにあのクソ親父もDVに手を染めやがったかバーカバーカ!!」
しゃーなしだと諦めて、数発ぶちのめされる覚悟を決めた乃亜。
痛かったらその瞬間にもう一度降参宣言をしよう、そう決意した瞬間だった。
『 』
声が聞こえた時、奥底から蠢くものが表に出てきた。
宙を舞う、銀色の一枚。
一人の命を左右する───それ以上の大多数の命運を載せた、たった一枚のコイン。
それが、ついに、結果を示そうとしている。
キラキラと、無垢な少年のように、今が楽しくて仕方がない乃亜は、刹那的に過ぎ去っていくこの瞬間に命を感じていた。自らにとって生きるとはコレだ、普通の人間のように楽しむことが出来ない生き方しかないのなら、自分が楽しめるように日々を作り替えればいい。
楽しかった。死への恐怖はもちろんある、だが、きっと、このコインが裏を示した時、自分は迷うことなく伝えるべき全てを龍園へと告げて、坂柳を今すぐ
その確信が誇らしかった。賭けに対して真摯でいられている自分が嬉しかった。
───1番大切な人をこの手で裏切る背徳感さえ、きっと、心地よく感じるだろう。
「あはぁ──────」
龍園が、自らの手で弾いたソレを、手の甲へと納める──────その瞬間。
「──────あ゛?」
乃亜の横を通り過ぎていく、髪の長い女が見えた。
悦に浸っていた乃亜には止められなかった。
コイントスを強要されていたも同然な龍園は、そも気が付ける余裕が無い
龍園の手の上へ結果が乗せられる前に、堀北鈴音は、コインをその手で受け止めた。
「───」
「はぁっ、はっ……はっ……!」
「──────はぁ」
堀北は息を切らして、手の中に握られたソレを、力いっぱい握りしめていた。……誰にも見せまいと、強く、隠すように。
懸命な様子を乃亜は、冷たい思考でしか捉えることが出来なかった。
「龍園、もういいわ」
左手で自らの首へ押し付けていたナイフを、未練も無いような仕草で床に投げる。
金属音が空間に反射して、付着していた血液が飛び散った。掃除、面倒だな。
「…………あん?」
「水を差された。悪りぃな興醒めで。もっとちゃんと躾しとけばよかった」
先程までの昂揚が嘘のような静けさだった。
高笑いしていた佐々木乃亜はどこへ消えたのか、本人ですら不思議なくらいに落ち着いていた。
「今日のところは良いんじゃねぇの? 俺の負けってことにしといてもいいし、そこら辺はお前に任せるよ」
「───ッ」
龍園の口の中から歯を軋ませる音がしたが、無視して話を進める。
龍園が勝手に感じている敗北感も、堀北の安堵したような雰囲気も、全部どうでもいい。
「決着は別の機会にしようぜ。……今日はもう、そんな気分になれそうにない」
震える口で何かを告げようとする龍園は……だが、何も言わず、乃亜の横を足早に通り過ぎていく。乃亜を睨みつけもしないのは、少しだけ印象的だったかもしれない? いや、どうでもいいか。
特別棟から、龍園は出ていった。───そして、乃亜と堀北だけが、その場に残された。
肩で息をする堀北は、ようやく呼吸が落ち着いたのか、乃亜の方へと振り返る。
───すぐ目の前に、乃亜がいた。
「佐「死ねよ女」
堀北の細い首を掴み、壁へと叩きつけた。……蛙を潰した時のような声が、くぐもった振動となって、乃亜の左手に伝わる。掌で感じる脈拍の流れを潰すように、酸素の供給を断つ角度で乃亜は堀北を締め付ける。
何一つ言葉を紡がせるつもりが無かった。きっと耳障りにしか聞こえなかった。
怒りや憎しみといった悪感情すら超越する気持ちの悪いものが、乃亜の中で蠢いていた。
もう殺せばいいかと、情など微塵も介在することが出来なかった。
「自分の軽率さが理解出来てねぇんだな」
乃亜の手を外そうと、堀北は藻掻く。壁へ押し付けられて浮き上がった堀北は、必死に呼吸を求めて抵抗を続けている。
堀北が手の中のコインを取りこぼす、乃亜のコインが足元を転がっていく、大事な人から貰った、大切な贈り物が、乃亜にとっての安堵と安心の象徴が、2人のそばから遠ざかっていく。
比例するように、左手に力が込められていく。
掠れた呼吸を途切れ途切れに繰り返そうとする堀北。だが、乃亜の腕の力は微塵も緩まない。
「日本の警察は優秀だ、この暑さも加味して
すらすらと現状を語りかける。首を絞められても理解できるような抑揚と声の大きさで、堀北に事実を一つ一つ考えさせて、思考を回させて、抵抗のためのエネルギーを無理やりに脳の回転に使わせていく。貴重な酸素が、脳の回転のためだけに使われていく。
顔が青い。鬱血を始めた首が、艶めかしくのたうつ。生命の鼓動を手で直に感じている乃亜は、けれど、「早く死なないかな」と呟くだけだ。
徐々に、堀北の手は、抗う動作がささやかなものへとなり替わっていた。
「俺が癇癪で女を一匹殺したってどれかに押し付ける。そういうゲームを始めることが出来る───理解したか、この状況」
乃亜の手を掴む堀北の腕に、無意識ではない動きを感じる。意思を伴った動作、慣熟したが所以の突発的な反射。───だからどうした。
合気の技術を用いての抵抗を
「さっき言ったろ、邪魔したら普通に殺すって」
「っ、あ、がっっ……ぁ!」
壁に押し付けたまま、上へ、少しづつ上へと押し付ける。
このまま殺すか、死体は放置、龍園へと押し付けるための工作作業、等、未来への展望を積み重ねていく乃亜。乃亜の首にあるこの傷も使えるだろう、乃亜の書いた龍園への契約書も上手く使えばよい材料になる、指紋に関しては龍園から乃亜に強要したといった風なシナリオへ持って行こう。
成程、堀北殺害の真犯人を押し付け合う、これはこれで
龍園との最高のゲームを邪魔されたのは気に食わないが、粗だらけでも次のゲームを用意してくれたことには感謝しなくてはなるまい。乃亜は本心から、堀北へ感謝を抱いている。
だから最期に何かお礼でも告げてあげようかと思っていれば、堀北の表情を見たとき、抵抗や恐怖などの生体的反射とは違った色を見た。果たしてその色は、乃亜が汲み取るだけの価値が有る物なのかどうか。
……期待、してみるか?
「猶予は30秒。なんか喋れ」
少しだけ手を緩ませる。
ほら、口を動かせるだろう?
命がけのスピーチだ、ちったぁ満足させろよ。
「っげほっっ、──────ほんっ、とうに、それでっ、いっっ、いの……!?」
「10秒経過」
つまらない。今際の際に
死に物狂いにはなれないのか? 命が掛かってるのに? 人間ってその程度だっけ? もっと頑張れるのが人の強さってやつなんだろ?
あーあ、もったいねぇ、育成失敗かよ。こんな事ならコレに費やした時間全部、綾小路と坂柳に注ぎ込んでおけばもっと楽しかっただろうに。
「っっ、りゅ、う、えんっ、くんでっ」
「20秒経過」
『龍園君で』。……なんか本当に残念だ。命の行き止まりが彼女の中にも見えているだろうに、言及するのは他人なのか。兄でもなく、友でもなく、今日会ったばかりの他人とは。
こういう時にはやはり自分を曝け出すべきだ。理屈で押し通ろうとするのは、賢ぶったアホのやる事だ。未熟ではあるものの、堀北はその手の賢人気取りとは違う人種かと思っていたが。
彼女の上昇志向も自身の内から出た感情だからこそ評価していた。だから、残念でならない。感情の目的へ向かって進む為に、合理的な手段を取り続けようとする、そんなチグハグな堀北鈴音に乃亜は惹かれたのだが。
律儀に30秒まで待つつもりも、今、無くなった。
あんまりやりたくないけれど、右手も使って、パパッと殺して終わろう。
これなら始まるゲームに備えなければならない。綾小路を巻き込んで、龍園を巻き込んで、ひよりを巻き込んで、堀北殺害の犯人を押し付け合うのだ。ああ、そっちの方が楽しそうな気がする。
「満ぞ、く、なの……ね」
女が何かを言っている。
……コイツ、何て名前だっけ?
まあいいか、もう、ただのタンパク質の塊に変わるんだし。
「──────ぁ、なたはそっ、の、程度っっで!」
『本当にそれでいいの?』
『龍園君で』
『満足なのね』
『貴方はその程度で』
……………………ちょっと、興味を惹かれた。
首から手を放して、一時的な開放を与えた。落下するようにへたり込んだ堀北は、しかしのんびりしている暇などないと理解しているらしい。
「ちょっとだけ楽しそうな気がした。ほら聞かせてみろよ。……あー、チンタラ長話でも垂れ流すようなら、ナイフとか使ってパパッと終わらせっから」
意志を灯した瞳で、乃亜を睨みながら呼吸を整える。
だが憎まれ口も叩かず、彼女は本題へと入った。
「……けほっ……っ、あのままいけば、貴方は5割で死んでいた」
「だからどうした、コイントスだぞ? 二分の一なのは当たり前だろうが。死の恐怖は確かにリスクだ、
「リスクがリターンになる破綻者の貴方から見ても……これ以上無い程のリターンを得られる可能性があるとしたら?」
───悪くない、乃亜の興味心を上手く引き寄せる会話だったのは確かだ。
だが、まだ満足はできない。
まだこのままでは、束の間の遺言にしかならない。
「私はいずれAクラスに上がる。それは、貴方が気に入っている坂柳有栖をも超えるということ」
事実だ。育て上げて坂柳のクラスへぶつけようともしていた。子供の頃から坂柳を見ていた身からすれば、それすら凌駕しかねないポテンシャルが堀北にあるのも事実。2人がぶつかればそれはもう楽しそうな鉄火場が見れると期待していたのも事実。
だが、まだ、足りない。
そのプランなんぞ乃亜からすれば、所詮はGⅡレース程度の規模でしかない。ああそうだ夢のマッチだ、是非にも現地で見たいだろう、間近での観戦だってそりゃしたい、でも他に用事があるならしょうがない、たったそれだけ。
「だというのにこんな場所で、こんな入学してからたったの2ヶ月で、それも貴方に恐れを抱いているような相手に貴方の命を使うのは勿体無いとは思わないの?」
それは……冷静になった今では、確かに思う。
まだ一年も経過していない。どうせ乃亜の命を使うのなら今の龍園よりも相応しいダンスパートナーは多いだろう。
綾小路は以前にやったコイントスの約束、坂柳は諸々の個人的感情で、この2人は除外するとしよう。だとしても、2年にも楽しそうな生徒会副会長や、きりゅーいん? と呼ばれている人なんかも、現時点での1年と比べれば別格なのではないか。3年にも、それこそ生徒会長でもある堀北学という恰好の実力者がいる。
いずれという話ならまだしも、今現在の龍園、それも乃亜にビビり散らかしているような相手で命を使い切るのは───うん、勿体ねぇやこれ、確かにって思っちゃった。
「貴方は折角賭けるのなら、もっと大物が相手の方が唆るような人だわ」
「自分がその『大物』だと」
「ええ」
迷うことの無い断言。色にブレもない。
自分こそが
だが、まだだ、まだ堀北の話を鵜吞みにするには圧倒的な説得力を持つ根拠を提示しなければ。
「自惚れだな……将来性は認める。だが今のお前は、俺にビビってる龍園未満だ。はいそうですねじゃあ堀北の言うことを聞きますね、とはならねぇよ、色々と欠けてるお前じゃ説得力に欠ける」
「そうは思わないわ」
「何故」
乃亜は──────自分がこの女を生かした判断に、未来で大層満足しているだろう。
「卒業する頃には、
もう、殺意は、鎮まっていた。
代わりに、乃亜の中でのたうち回るほどの感情が、全身を痛いくらいに熱くする。
この女は、
なんだそれは、滅茶苦茶だ、普通はそんな話があってたまるか。自殺行為とかそう言ったのとは次元が5つくらい違う。何のために育成の労力を注がねばならない。
当然突っぱねるだろう、普通なら断るだろう、そりゃ楽しそうだけど─────────
「貴方が育て切った私とコイントスをするのは、貴方の中じゃ
─────────嗚呼、それは確かに、
佐々木乃亜を終わらせる最大にして最高の御馳走が、未来に待っている。
恋に焦がれたような眼をして───いいや、白状しよう、乃亜は、堀北鈴音という女に心を奪われた。
未熟でありながら、大言壮語を張って見せる胆力。
実現性が高いとは言い切れない可能性を提示しながら、しかし彼女は、信じていた。他ならぬ乃亜を信じていた。佐々木乃亜ならそれぐらいやってのけると。
甘くて蕩けるほど、信頼の味がする。
「ハッ! ──────契約の組み直しだ」
坂柳は───結局彼女には、無理だった、本人からハッキリと言われている。坂柳有栖は佐々木乃亜を殺すことが出来ない。泣きたくなるような思い出が、そう告げている。
綾小路は───彼の中には、
そして、堀北は、堀北鈴音という、佐々木乃亜が惚れた女の子は。
「堀北、お前──────いつか『
「ええ、必ずね」
微塵も迷いが無かった。
小さな疑いも無かった。
僅かな不安も無かった。
堀北鈴音は、佐々木乃亜を殺してくれると約束してくれた。
そして、それはきっと真実の未来になるだろう。
乃亜の中の悪魔は、その時を夢見て笑い転げていた。
「出て来いひより」
堀北が立ち去ってから、その場の血痕やらの後始末をしながら、隠れているであろう名前を呼んだ。
階段を少し急いで降りてくる音がしたかと思えば、弾む足取りで椎名ひよりは現れた。……その顔は火照っているような、どこか浮かれたような、明らかな艶を宿した表情をしていた。
現れて早々に彼女は乃亜へ近づくと、首元へと顔を近づけてくる。
また何か囁くつもりかと身構えていたのだが、感じたのは声ではなく、ぬるりとした、人の体温をした艶めかしい感触だった。
「ひぅっ……お、おい、ばっちいだろ、やめろよ」
「──────んぅ……だめですよ、じっとしていてください……」
首についた赤い傷を、丹念に舐め上げるひより。消毒のつもりなら何てアホらしい行動か、傷の血も止まり掛けていたというのに、舌で与えられる刺激が再び出血を促してしまう。
自分の中から血が流れ出ていく感覚があった。───それを、こくり、と飲み下す音が聞こえる。
立ち上がったままなすがままというのも疲れる、乃亜は座り込むようにしゃがんでいくと、ひよりの身体もそれに追従するように覆いかぶさっていく。まるで捕食されているみたいだと思った。
乃亜の腰に座り込んだひよりは、両腕で乃亜を抱き寄せながら、執拗に首の傷を嚥下し続ける。
慎ましやかな柔らかさが、乃亜の胸元に押し当てられている。まあ意識しているのだろうなとか考えつつも、特に乃亜は何かをすることは無い。何も出来ないで暇になった乃亜は、何んとなしに彼女の白髪を柔らかく撫でてみる。
「……──────んんっ!」
「ちょっ、吸うな吸うな跡が付く!!」
謎のスイッチが入って、口をすぼめて首に吸い付き始めるひより。
舐めるだけならまだしも吸引されてしまうのはもう誤魔化せなくなる。……何に? という疑問は乃亜の中にはあったが、とりあえず困るというのが乃亜の中の共通見解だった。
ちゅぽん、と吸盤が剝がれるような音を響かせて、ひよりはようやく満足した顔をして吸血行為をやめてくれた。
「……悪魔の血は、赤いんですね」
「そりゃヘモグロビンが流れてっからな」
「けれど……
「特殊性癖だけは勘弁してください」
ひよりは自分のハンカチを乃亜の首へ当てながら、妖しい瞳で真っすぐに見つめてくる。いや本当に勘弁してください。ヘマトフィリアかバンパイアイズムかは知らないが、もうアティキフィリア疑惑のある幼馴染がいるのだ。身近の特殊性癖は一人だけでもうお腹いっぱいなのだ。
ひよりから借りたハンカチで止血をしながら、乃亜は立ち上がりながら左手を差し出した。
その手を掴んで、淑やかな動作で立ち上がるひより。
「熱中症は平気か?」
「先ほどまでの様子とは打って変わって優しい人です」
これまた妖しく笑いながら、彼女はそう言った。……やはり、堀北とのやり取りに至るまでの全てを盗み聞きしていたのか。
目的は知れない。ああいや、予想はどうせ合っているだろうが、原動力からして合理の真反対にあるモノだ。聞いたところで乃亜では理解には及ばないのだろう。だから根幹は聞かない。
彼女が求めているのは、乃亜の中の悪魔がどう笑うのか、ただそれだけなのだと思う。
……ただそれだけのために、彼女は壊れてしまったのだろうか。
「……少し暑くて、足元がふらふらしています」
胸元にしな垂れかかってくる、白い妖精。両肩は小さく、乃亜の肩幅に収まってしまうほど儚く、触れれば溶けてしまうのではないかと思えるほど軽い。とはいえ受け身を取ろうとは微塵もしていなかったのが理解できた乃亜は、優しく彼女を抱き留める。
彼女の
「大丈夫か?」
「どうでしょうか……どこか、静かに休める場所に連れて行ってくれたなら、優しい悪魔さんが大丈夫になるまで───夜まで付き添ってくれそうな気がします」
「涼しい場所に飲み物付きでぶち込むだけでいいなら」
分かりやすく梯子を外した返答をすれば、ひよりも負けじと、分かりやすい反応で返してくる。
頬を膨らませながら、ぽこぽこと、全く痛くない殴打で批判の意を表していた。
「いけず、ですね」
「ハッ!
……やべっ、つい。
「───乃亜君の中で、何かが吹っ切れましたね」
「元々、昨夜の時点で…………」
ポケットの中のコインを、右手で握り締めた。
───やはり、安心する。
冷たさから乖離した、温もりのある笑みが自然と溢れた。
「コインがどうかしましたか?」
「…………いや、まあうん、色々とあってさ、今回みたいなケースでも俺なりに楽しめるよう工夫しようかなって」
「そうですか……はい、元気のなかった乃亜君が出せた結論ですから、応援させてくださいね」
慈愛の笑みで祝福してくれるひより。
でも乃亜が曇っていた要因の一端は、多分、この子なんじゃないのか説はある。龍園達が悪い5割、あとの5割は……よし、あんまり深く考えるのはやめとこっか。
「俺は……俺の中の悪魔を飼い慣らす」
「……──────できますか?」
どこか、なぜか、挑戦的な笑みを浮かべて、ひよりは問う。
そして乃亜は、楽しそうに笑うだけだ。
「ハッ! それぐらいしないと、完全体堀北鈴音には太刀打ち出来ねぇからな!」
「ところでコインがどうしました?」
「新調した」
「そうですか。ところで……コインがどうしました?」
「新しいのに変えた」
「そうですか。ところで…………コインがどうしました?」
「もっ、貰い物ってだけです」
怒涛の同型の質問がこわぁい。
「誰からの?」
「……友達、から」
「女の子ですね」
「…………いや、そうとも限らないかもだけど」
ガンガンに追い詰められている乃亜。しかし断定が速いな、ヤマ張ってやがったと見るがどうか。
乃亜クンの直感的には、綾小路と同等の洞察力を持つ椎名ひよりだ。乃亜の反応から真実を暴いていく様は、まさしく名探偵ひよりちゃん! すごいぞひよりちゃん! カッコいいぞひよりちゃん! 暴かれている乃亜からすればたまったもんじゃないぞひよりちゃん!!
「Dクラス?」
「なんか怖いから答えないぞ」
「Cクラス?」
「反応見ながらの総当たりはやめてくれねぇか?」
「Bクラス?」
「いやだからさ」
「そうですかAクラスの女の子なんですね」
「特定してどうするつもりなの」
「ならやはり坂柳さんですか」
「……」
『なら』と『やはり』と『坂柳』のワードはどっから引っ張ってきたんだコイツ。
コインについてのわだいは、ずっとむひょうじょうなのは、ずっとこわかったです。
降りしきる雨が、世界の音を食い潰していく。
杖を突く音すらも搔き消して、空は雨粒を以て世界の温度を奪っていく。
そして、坂柳は足を止めた─────────そして、龍園は足を止めた。
「───坂柳か」
「貴方は……───龍園君、でしたか」
豪雨の隔たりも無い物かのように、両者は言葉をぶつけた。
顔を合わせるのが初めてではあれど、存在が既知であることに疑問など持たない。
顔と名前が一致する程度のことは、情報を知っている内にも入らない、前提のその更に下地のものだ。
ましてや龍園も、坂柳も、共通の知人がいた。
弱みであれなんであれ、調べない理由が無いほどの意識が互いにはあった。
「入学早々女王様気取りか」
「女王よりも、プリンセスの方が嬉しいですね」
マジだった。皮肉気な笑みを浮かべていたが、坂柳はガチでそう思っていた。
賭博プリンスと掛けられて、坂柳は自分がプリンセスと呼ばれていたりする事実をそこそこ───かなり気に入っていた。なんだかペアルックみたいで可愛い響きではないか、年頃の少女でもある坂柳は、そんな乙女チックな思考もしていた。───ペアとしてなし崩しに自分の味方に付いてくれたりはしないかなとか、そんな望み薄を考えてしまうほどには、プリンセスの愛称を気に入っているのだ。
ふわふわとしたお花畑な雰囲気を感じ取った龍園は、坂柳が妄想している相手の顔が浮かんで──────表情が、苦痛に歪む。
「酷い顔をしていますよ」
「……あん?」
「
棘を多分に含ませながら、坂柳は龍園の傷を容赦なく抉りにかかる。
「───随分と機嫌が悪そうじゃねぇか。大事な大事な王子様に泣きつかれでもしたか? おともだちを転がされたってだけで切れるガキだ、子守もさぞかし大変だろうよ」
「これは驚きました、爬虫類如きが霊長類の意思を汲み取ることが出来るとは」
くすくすと、滑稽であると、みすぼらしいと、愚かしくてたまらないと、同じ人ではないと。
地べたを這いずる人間以下が哀れであると、少女は笑う。
「ええ、私は今、非常に機嫌が悪いです。アレは無知蒙昧な凡人が不用意に触れていいモノではありませんでした。彼が嫌うモノを表に浮き上がらせる原因を作った貴方は───率直に申し上げますと、大嫌いです」
この場の全員、例外なく、気圧が増したように感じた。
雨粒の隙間を縫って放たれる眼光には、明確な敵視、それも凍て刺すような冷たい色をしている。少女然とした背丈の頼りなさから放たれるものでは無い。坂柳の頭脳の内では、今この瞬間も、彼女の中の敵意を晴らすための方法が模索されているのだろうか。
Cクラスの面々も、坂柳に付き従う者たちも、ただ一人の例外を除いて背筋が凍り付いていく。
その例外たる龍園だけは、堂々と、真正面からその睨みへ返してみせた。
───あの悪魔に比べれば、坂柳程度なんてことねぇ。
「───Dクラス……佐々木乃亜は、俺が必ず潰す」
「貴方では絶対に無理です」
「…………お姫様気分で余裕にしてりゃいい、Bも潰して、最後にはお前を潰すだけだ」
「ふふ……身の程知らずな蛇を
豪雨の中の静寂を隔てながら、視線をぶつけ合う者たち。
そのど真ん中を突っ走って駆け抜けていくのは、まさしく話題の中心であった少年。
マイ傘を友人に勝手にパクられて、土砂降りの中で制服をびしょ濡れにしながら全力疾走する青春少年となるしかなかったのだ。帰宅中の背中に追いついたのなら、迷うことの無いドロップキックを繰り出す気だけが満々としていた。
「……」
「……」
走りながら無自覚に、いっそ意気揚々爽快なほど、シリアスをド派手に盗んでいく少年。
鍛え抜かれた足腰をフル活用しての速度は眼を見張るものがあった。瞬く間に視界の向こう側へと消えていく佐々木乃亜少年。呆気に取られたボスの様子に、取り巻きポケモン達はみんなちょっと焦っていた。
『コイントスの狂気が嘘みたいに豹変してやがる』とか『思ったよりも元気そうなのが逆に心配ですね』とか、多様な思考が駆け巡る。なまじ互いに頭の回転が速いから、与太な思考も同時に回ってしまうのだ。
そんな両陣営が選んだのは──────無言の帰宅だった。
『 』
声が聞こえた時、奥底から蠢くものが表に出てきた。
乃亜は自然と綾小路を見つめる。全身を無理なく収めて、視線の行く先をしっかりと把握していた。
綾小路は乃亜の準備が整ったと判断したのか、身を屈めて、呼吸を整えていく。
────────────右足首が少し角度を着ける素足から覗ける三角靭帯の動きが見える踏み出してくる一息に距離を詰められるてかそのバネすごいな移動とか歩法というよりはもはや飛翔だそのまま飛んできて乃亜の腹へ一撃入れようという魂胆だしかし咄嗟の反撃を繰り出せば直前で動きを止めて透かしてくる背筋にはその為の力が込められているだから飛び込ませればいい大事なのは擬態だ偽りだ乃亜の動きが知ろうとそのままでなくてはならない一撃で終わるという認識を切らさせてはならない繰り出させ切らなければ意味が無いなら少し転ぼう後ろだ前はダメだ横もだめだ背後へ倒れ込むようにする敵の攻撃角度を制限させるさあ来い────────────
そして。
乃亜は、飛び込んでくるタイミングに少し遅れて、後ろへと倒れた。
飛び込んできた綾小路は、倒れていく乃亜へ覆いかぶさるようにして、高低差による角度を着けた拳を構え──────
蹴りによって全身のベクトルを強制的に上方へ逸らされた綾小路は、乃亜の身体へ重なるように、糸が切れた人形のように倒れ込んでいく。
片腕で綾小路の身体を支え、床と綾小路との間に自分が入り込めるだけのスペースを作り出す。
乃亜は自分を自覚する。
眼前の人形のような無感情の子供とは打って変わって、今、自分は、きっと。
「勝つのは俺だ」
獰猛な笑みを浮かべている。
確かな事実は、それだけだった。
脳を揺さぶられて何が起きたのかも理解できていない、そんな綾小路を襲ったのは───腹部への衝撃。それも一度では済まず、下から上へと突き上げるように、重力によって下へ落ちようとする肉体を串刺しにするように。
──────脳は揺らした覚醒する前に作るのは時間たのしいこの隙間で行える行動は拳による殴打一番に効果があるのは首だが距離角度が若干不足たのしい狙うは腹部たのしい胃と腸に当たる部分を殴れてたのしい欲しいのは動きを止めざるを得ないたのしい生理現象だ脳震盪が続いている間に引き起こしたいのは嘔吐感だゲロは吐かなきゃダメこれは肉体の危険信号だ反応が悪い人形でも息はしなきゃ死ぬたのしい寝なきゃ死ぬだからゲロも吐かなきゃ喉が詰まって死ぬだから殴れ殴れ殴れ殴れ殴れば殺すチャンスが来る嘔吐に呻いている隙に首を執拗に狙って踏みつぶせば骨への損傷を狙い続ければこのイキモノは殺れる殺せる必ず俺なら殺せるたのしい絶対に殺る殺せたのしいせる殺せ殺せる殺せ俺にはできるたのしいなたの死いなたのしいなたのしいな──────
あー やべー これ かけより たのしい
・雨の中での交錯。
「喰らえやバカノ小路ぃぃぃぃぃぃ!!!!!!!」
「甘いな」
「バカなっ!? ざ、残像だとぉぅううぎゃああぁぁぁぁぁぁッッッ!!??!?」
「どっちもバカね」