コイントス前夜
夕餉を済ませ、後片付けも終わり、胃をしばし休めている乃亜と坂柳。
カーテンが外からの風で靡いていく。隙間から時折覗ける外の景色を、乃亜はやる気もなさげに眺めていた。
手の中で弄べる道具一式は無い。いやあるが、棚の中から引っ張り出す気は産まれない。そういえば、コインを没収されたままだったことを思い出した。でもどうせ返してはくれないだろう、でもダメ元で聞いてみるか。
そんな、なんとなしを考えて立ち上がり、キッチンの冷蔵庫へ目指して歩きながら、文章を作っていく。
飲み物を漁りながら、とりあえずの実行で送信してみた。何事も踏み出してみるのが大事だ。二の足踏んだままでは変数なんぞは産まれないのだ。
『我が魂の写しを返還せよ』
同じ空間にいるが、何故直接話さずメッセージなのかと言う話なら、特に理由は無かった。強いて言えばじゃれ合いの一環のようなものだろうか。泣きたくなるくらいに懐かしさを感じる空気の感触が、子供のような悪戯心を増長させるのだろう。
するとベットに腰かけている坂柳が、携帯を胸元で抱えながら、こちらをキョトンと覗き込んできていた。
目が合ったのも無視して、秘蔵のプリンと飲み物を2人分手にした乃亜。その矢先、何故か坂柳から電話が掛かってきた。
「あー?」
「───ふふ」
くすくすと小洒落た態度で笑う坂柳。何の用かと問う意思を視線に込めれば、両手で携帯を持ち上げて口元を隠しながら、そしてまた子供のように笑うだけだった。……いや可愛いけど、何やってんだこいつ。
とはいえ付き合いの長い乃亜には分かる、分かるぞ、未来だって見える気分だ。
全てを理解した乃亜は、通話を繋いで耳元にあてる。
───なんだなんだと、こやつもようやく反省して乃亜の趣味に心を開くようになったのかと、『今までごめんなさいっ、私っ、猛省しましたっ、この貴方の魂はお返しいたしますっ』とか電話越しに言ってくれるのかと、淡くは期待しちゃうじゃないですか───。
『俺だって子供じゃない、素直に謝るってんなら許し『捨てちゃいました♡』
───そうはならなかった、そうはならなかったんだよ。
すんごい猫なで声をして非道極まる一言を抜かした坂柳に、乃亜は普通にイラっとした。
しかもそれだけ伝えて即切りしやがった。悲痛の叫びすら受け止めてくれる優しさは無かった。
「月まで蹴り飛ばすぞ」
「まあ、そんな力で蹴られてしまっては、肉片も残らずこの世から消えてしまいますね」
部屋の中心に置かれた小さなダイニングテーブルに、やや強めの勢いで飲み物とプリンを2セット置いた。
ベットを背もたれにするように、ドスンと大げさに座り込んだ乃亜。
「お隣空いてますか?」
いかにも「俺、チョー機嫌ワルメ」と語る背中に、全然気にした様子皆無の愛らしい声が掛けられる。
けれど乃亜は知っている、その愛らしい声が発された喉の奥には、悍ましいまでのドス黒い臓腑が詰まっていることを。そのドス黒さは魂から漏れ出た残穢に過ぎず、魂は黒き太陽の如く、人類に敵対するべく生まれた絶対的な悪であることを。
ふむ、実に滑稽な独白である──────真に悪を秘めているのは、誰なことやら。
「空いてない」
「そうですか? ではどなたか……他の魅力的な女の子とでも待ち合わせていらっしゃるのでしょうか?」
「……坂柳有栖」
「それでしたら問題ありませんね」
うんうんそうだね問題などはどこにもありませんね。今の乃亜にはズバッと突き刺さって気まずくなるセリフをサラリと吐くこの女。まさかバレてるのか? そう思って顔を確認したいのだが、いかんせん付き合いの長さはあまりにも現状の乃亜へ不利に働く。ぶっちゃけバレる。目を見られりゃ、多分、おおよそに気づく。
溜息を分かりやすく吐きながら、右隣にスペースを空けるように座り直した。すると当然のような態度とタイミングで、坂柳の小さな体はクッションの上にストンと収まった。
他の事柄に気が向くまで、プリンに夢中なフリをしなくては。
「……」
「……」
「……じーっ」
「口に出すな……そっちにもあるだろ」
「そうですね、わざわざ私の分までありがとうございます」
「ん」
「はい」
謎視線の意味に興味も抱かず、乃亜は黙々と食べ進める。
「……」
「……」
「……」
「……じーっ」
「ああウザってぇ!」
何がしたいのか全くもって謎な女だった。
普通に気を悪くした乃亜は、意地でも坂柳の方を見る選択肢を潰した。
「わかりませんか」
「俺は決定論の悪魔とかじゃねえ」
「もちろん知ってます、乃亜君は乃亜君ですもの。同じことは出来るでしょうけれど」
「できるかアホ。……で、何を求めてんの」
「あーっ……多分見てくれないと分かりませんよ?」
観念して、あらんかぎりの呆れを装填した視線を、坂柳の方へと突き刺した。だが性悪の坂柳はにやりと笑っていて、てんで効いた様子は無い。ちくせう。
何をしたいのかを睨みを以て問いた。
すると彼女は……え、何こいつ、何がしたいの。
「あーーっ」
「発声練習?」
口を開けて、乃亜へ向かって突き出していた。シンプルに喧嘩でも売られているのかと思った。
「むぅーっ……ほら、乃亜君はこれを持ってください」
坂柳用に用意していた筈のスプーンを持たされた。
「あーーっ」
「スプーンで喉骨を砕いて欲しいってか」
「何でそうなるのでしょうか」
「いやだって、お前変態だし」
「何でそうなっちゃうんでしょうか!!」
口内と言えば、パチンコの演出で興味があったのもあって、チェスの罰ゲームで歯磨きをしたことを思い出す。坂柳夫妻の目の前で、動画も撮りながら。
涙目で顔を真っ赤にしながらあうあう言ってる絵面が何だか面白くて、ゲラゲラと笑いながら一時間くらい磨いてやった。坂柳夫妻はドン引きしていた。親父さんが止めなければどうなっていたのだろうか、ちょっと気になる乃亜だった。
「ふーん、じゃあ、口の中を優しく撫でてやろうか」
「へっ!? ……や……ゃ、やさ、しく…………っ、結構です!」
「……そうか」
「な、なんでしょうかその目は……まるで変態を蔑むような目をして!」
まるで、ような。……ふむ、そうか。
あまり言及しても可哀想だ、皆まで言うまい。
「そうじゃなくて、ほらっ、流石のニブニブ乃亜君でもいい加減に分かりますよね」
「まあ……口開けろ」
「! はいっ……あーん」
坂柳の方に置かれたカップも奪い取り、一口分をスプーンで掬い取る。
嬉しそうに口を開けて待っている坂柳へ。
乃亜はプリンを──────自分で食べた。
「んむ、上手い。櫛田もいい店知ってんな」
「……」
「んだよ、なんか文句あっか」
「…………っ!」
次の一口に、横合いから飛び出してきた坂柳がスプーンごと食らいつく。貧弱体質とは思えない瞬発性に、銀影の残像が見えた気がした。
「あ゛?」
ともあれだ──────やったなコイツ、やりやがったな、許さん、何があろうと、絶対に、佐々木乃亜は坂柳有栖への慈しみを捨てるぞ、今そう誓った。
ブッッ千切れた乃亜はすまし顔をしながらも、急いでプリンを全てかっ喰らった。2人分。
「あー! ひどいっ、鬼畜の所業ですよこれは! 見せびらかしておいてそん、な……」
「歯磨き粉は……とりあえず無しでいっか」
坂柳が怒っている内に、洗面台へ一つの装備を取りに行ってきた乃亜。
もちろん新品だ。ブラシは優しいタイプ。えづいたときに命の危険が怖い為、歯磨き粉はやめておく。───そう、乃亜は、歯ブラシを手にしていた。
全ては、プリンを奪うという無慈悲をしやがった坂柳を成敗するために。
ガタガタガタガタと、何かしらを予感した坂柳は、全身を震わせて部屋の隅へと縮こまっていく。表情には怯えも見える。息を徐々に荒げながらも、這いつくばりながら壁へと追い詰められていくサマは、その手の愛好家にはたまらんシチュエーションなのだろう。乃亜は特に昂揚しないが。
「……な、にを……どうして、歯ブラシなんて……持っているんでしょうか、ね?」
「あー、口開けてるとこ見てたら、昔の罰ゲーム思い出してさ。プリン食われたお礼に歯ぁ磨いてやろうかなって」
「乃亜がいったい何を言ってるのか分かりません! どれだけ理不尽なことを言っているのか理解できているのですか!? あのプリンだって元々は私に譲ってくれたものではありませんか!!」
「悪りぃな坂柳、食い物の怨恨の前に全ては些事。理屈なんぞ通じねんだ」
花が咲くような笑顔で乃亜は告げた、『テメェ極刑ね』と。
理不尽上等。乃亜の心の慈悲は、つい先ほど放り投げた。
へたり込んでいる坂柳の視線が杖に伸びて、何故か乃亜とを交互にチラチラ見ている。……ご期待に沿って、進行方向に立て掛けてあった杖を、軽く蹴って遠くに飛ばしてみた。おお、絶望感に満ちた顔をした、おもろいな───なんで頬赤らめてんのコイツ、こわ。
「……ま、待ってください、アレっ、アレだけは本当に嫌なんです! わたっ、私が、知らない私に、なってしまうと言いますか、自分が何も出来ない部分を好き勝手に内側を弄られているのは、なんか、こうっ、やっ……あ、あぁっ! いやっ、こないで、ください! ひっ……ひぃぃ……い、嫌です、っ! そ、そうです! あのっ、後でお渡ししようと思っていっ、たんですが、コイン! コインがありますっ! プレゼントしよ、う……とっ……ひぅっ!! やっ、やだやだっ、いゃっ! ごごめんなさい許してくだ
──────坂柳有栖、歯磨きの刑執行中──────
「あぅぅ……お嫁に、行けなくなっちゃいました……」
「じゃあ5年前には既に行き遅れ確定か」
或いはカウント制であるのなら、確かに今日そうなった訳だ。通常時天井2Gとは、スゲー台だ、一周回って荒い台の予感しかしないワクテカの気配がする。
「責任をとってくれるとは言ってくれないんですね」
「お前なら独り身でも余裕で生きてけそう」
「もうっ、女の子に対して失礼ですよ」
「いやだって、坂柳って超優秀だし、超頭良いし、資本主義社会でならどこでもやってけそう」
「……えへ」
チョロ過ぎて前言を撤回したくなる、それほどには一気に知能指数がただ下がりした照れ声だった。
「……22時か」
「もうそんな時間でしたか。でしたら準備しなくてはいけませんね」
「ああ、送ってくから出る準備しろ」
「はい?」
「あー?」
見事なすれ違いだった。7年近くの付き合いとはいったい何だったのか。
「帰れよ女子。ここ男子寮だぞ」
「もしかして……ご存知ないのですか?」
「あ?」
「女子寮には20時以降、男子は立ち入り禁止なのですよ」
「は?」
知らない、知ったこっちゃない。興味を抱けない事柄には本当に無関心な乃亜の悪癖だ。そのせいでこういった事態に直面する事になるのだ。……最悪ポイントを出せばどうにかなるとか考えているのがよくないのかもしれない。
坂柳は、乃亜が言い出すまで時間への言及をしなかった。何故? そんなのは決まっている。
「テメェ狙ってたろ」
「まあまあ、もう過ぎた事なのですから。……ふふ、久しぶりのお泊まりですね」
2年前には居候をして勉強漬けだった日々を忘れたのだろうか。
坂柳の親父さんが、寝る前に毎度部屋を訪れていたことを思い出す。……多分あれはその手の警戒心というか、手を出してないかの確認というか、そんなんだったんだろうな。実際、何度か坂柳が寝惚けた
……たまに深夜にガチャガチャドアノブが鳴るのはマジで怖かったので、心底やめて欲しかった。問いただしてもスッ惚けていた坂柳有栖サン、貴女の事ですよ。
「こんな事もあろうかと、事前に色々と置いてあるんです」
「……ああ、そう、心霊現象かと思ってたけど」
衣装棚の中身のレイアウトが微妙に変わっていた気がしていた理由にも合点がいった。買った覚えのない歯ブラシや、坂柳家で自分も使っていた覚えのあるボディソープやら、絶妙に首を傾げる奇怪な現象はやはりこいつが原因か。
しかしこんな事もあろうかとって、どんな事を想定していたのか。20時を超えるまで乃亜の部屋で時間を潰す想定か。意味不明すぎる想定だった。……いやいや、まさか、そういうんじゃないでしょう、たぶん。
泊まらずとも誘ってくれれば遊びに行くのに。それとも坂柳からすればお泊まりという事実が大事なのかもしれない、だとすりゃ冗談じゃないかもしれない。次回からは19時には自分の部屋へと叩き込んでやるのも吝かではないと誓う乃亜だった。
「その事前の色々を───全部捨てたって言ったら?」
「……ぅ、嘘、ですよね?」
「ああ嘘だ。何ならお前用のドライヤーとか、諸々追加で買っといた」
「…………いじわるです」
「嬉しいくせに」
先程の言を借りるのなら、『こんな事もあろうかと』だ。実に便利な言葉だ、気に入った。
しかしそうか、一緒に寝るということか、久しぶりのイベントにちょっとだけ乃亜もテンションが上がっている。
しかし残念ながら色気のある展開には───ちょっと今日はもうそういうヘビーなのはキツイっす。
「泊まるのなら湯舟ためときゃ良かった」
「ふふ、そんなにも私と一緒に入りたかったんですか?」
「先にシャワー浴びてくっから、テメェが勝手に隠した下着やら寝巻やら準備しとけよ」
「あの、無視はやめていただけると嬉しいのですけれど」
お互い様である、人の気遣いを性欲に変換して会話するのはやめていただけると嬉しいのだ。
───就寝前───
「アラームセットしとくか」
「優しい音楽がいいですね」
「これとかどうよ」
───ドヒュゥゥゥゥンシンフォギアァァァァ!!!キュキュキュキュイン!キュキュキュキュイン!キュキュキュキュキュキュキュキュキュキュキュキュキュイン‼︎ポォロポポポポペペペペピピピピピーペペペペペペペペー♪
「これで起こしたら絶交します」
「……じゃあこっち」
───ポキュゥゥゥゥゥゥゥゥゥンッッッッ‼︎
「私がいる時は金輪際アラームを付けないでください」
「一発で目が覚めるのに」
「乃亜君は早く目を醒ましてください」