くるりくるりと、一枚のカジノチップが指の隙間を行き交いする。
まるで生きているかのような挙動をした一枚は、無重力とも思える挙動で右手に吸い付いて、優雅に乃亜の手持ち無沙汰を解消してくれる。
ああ、やはりこれだ。使い込んだ自前の物と比べれば多少の違和感が残るが、しかしやはり良い。硬貨を踊らせて思惑を回すのは幼い頃からの癖だが、繰り返した普段通りの動作であるからこそ、自分へ普段通りの心境を運んでくれるのだ。
娯楽室に置かれた机に肘を着きながら、弄んでいた一枚を器用に机の上に向けて弾き飛ばす。
チップが音も立たずに机に着地した瞬間、乃亜は楽しげに呟いた。
「レイズ」
感嘆の声が周囲から漏れ出ている。ただ一言、『上乗せ』と宣言をしただけだ。ポーカーというゲームの仕組みからすれば、あまりにも普遍的な一言。
特筆すべき点と言えば、たった今弾いたイエローチップは、今回のゲームに置いて最高額の一枚だったからであると乃亜は愚考する。……他意はないが、いや本当に、賭博が禁止とされているこの学校なので本当に他意は無いのですが、ポイント換算では25000ポイント分くらいはしてそうな気がしますね。
更に言うなら、これがゲームが始まって初回だったということくらいか?
「ふ、ふざけているのか!」
「これが大真面目なんすねー、俺的には」
哀れにも佐々木乃亜の罠に絡まった上級生───2年Dクラスの男子は、乃亜の盤面に伏せられた5枚のカードを指差して騒ぎ立てる。
ああ、そうだ、乃亜はこれっぽっちもふざけてなどいない。
本気だ、真剣そのもので勝ちにいっている。
これはその戦略の一つだ。……いやまあ、お遊び程度の戯れではあるのだが、その後の展開に繋がるであろう布石も兼ねている。ひとえに「勝負を捨てている」なんて思われては心外だ。
「配られたカードを一枚も確認せずにレイズだと!? どこが真面目だというんだ!!」
「戦略っす」
「馬鹿馬鹿しい! ……イカサマをしているんだろう!? なら勝負は俺の勝ちだ!」
指摘は鋭く……いやここまで分かりやすければそりゃそうなる。『イカサマのタネを指摘されたら一発で負け』というルールだって事前に作っていた。
だが、それは違う、それは違うのだ、「イカサマをしている」という指摘だけでは絶対的に足りていなかった。
「ハッ! 馬鹿言っちゃいけないっすよ先輩」
「何をっ」
周囲に集めた野次馬……もとい観客兼証人の皆様方へもよく聞こえるように、大きく通る声で改めて説明する。
「『イカサマのタネを指摘されたら一発で負け』……それがルールだ。けど俺はアンタから何も解説を受けていない。俺のイカサマを見破ったってんなら、タネも仕掛けも全てを暴いて見せなけりゃあね?」
「……チッ……フォールドだ」
先輩の憤りは舌打ちに留まり、大人しく勝負を降りる選択をした。
これで紐付けは完了した。彼の中には『自分では見破れないイカサマのタイミングで、イエローチップを投げる』と、強烈な記憶を植え付けることに成功した筈。
15万ポイント全額の権利を用いてこの勝負に乗らせた先輩の心中を察するに、『餌で釣れた魚』であるという屈辱が大きく占めているだろう。入学したばかりの一年生に、それもポイント潤沢な乃亜へ嫉妬していたのに、その上で交渉段階からのイニシアチブを握られているのだ。
冷静な判断を装おうと必死だが───ハッ! そりゃ無理でしょ。
「いぇ〜い、ピ〜スピ〜ス、初っ端から不戦勝〜、おっとっと忘れるところだった、先輩のチップいっただき」
「……おい、早くカードを戻せよ」
「ん? おぉ? へぇ? ルール把握出来てないんすか? 『イカサマの指摘が失敗に終わったなら、5000ポイント分のチップを相手に渡す』んですよぉ〜?」
笑顔でプラプラと手のひらを差し出した。けれど納得がいかない様子でペナルティを渋る男子先輩の顔。
───揺さぶっとくか。
顔は可能なまでのにこやかに。朗らかで、柔らかく、人好きのする良い笑顔。
声色は殺意全開。敵意全力、刺々しく、鋭く、野原の虫を蔑むような声で。
「出せよ雑魚」
手の中へ、乱雑に一枚のチップが叩き込まれる。
衝動に駆られて怒りに任せた一撃だった。ちょっと手のひらがジンジンする。ゲームの序盤も序盤に下級生から舐められ尽くして、ブチ切れって様子を
チップを渡す時の手は、まあまあそこそこ震えていたが、指摘をするのは辞めてあげようと思った。
「はい回収しました。ほいじゃネクストハンドもサクッとはじめましょっかー」
ディーラー役の女の子が、札を回収してシャッフルを始まる。乃亜のみならずディーラーの一挙手一投足という、やたら贅沢に視野を広げようとする先輩を見て、早々に乃亜は確信した。コイツ、カモだ。
ギャンブルに置いては負けが込んだ時ほど、冷静に撤退の一手を常に頭へ入れておかねばならないのだ。だからこの先輩は最初からして間違えた。
撤退すらも許されない……撤退の策すら思いつかないように、激情の坩堝へと誘導されていく先輩は、実に美味しい鴨葱鍋だったのだ。
入学したばかり、この時点で既に心理的ハードルは低かったと思われる。10万ポイントはほぼ手付かず、これは金欠であろう身にはたまらなく魅力的だろう、加えて何故かこの新入生は15万ポイントも持っていたのだからそりゃもうね。オマケに交渉時にふわりと添えた一言「まあどうせ来月にまた10万貰えますし」、これはかなり効いたとみえる、無垢な子供を騙しているような罪悪感も、呑気な一言で一気に軽減されただろう。
総合すると、きっと彼から見えた佐々木乃亜とはだ。
「『何故か健康体そのものなディープ君の複勝券が20倍で買えちゃった』ようなもんかな」
「えっと……?」
ギャラリーが立ち去った後の娯楽室に、少女の困惑の声が広がっていく。
「気にすんな。それよりもディーラーやってくれてありがと。サマになってた、カッコよかったよ」
「配るくらいで大袈裟だなぁ」
照れる様子すら無い。謙遜とかでもなく、マジでほんの手伝いくらいにしか思っていなさそうだった。
急に「そこの人、ディーラーやってくんない?」と道すがら適当に頼み込んだ乃亜へ、嫌な顔せず……怪訝な顔はされたが、まあ人の良い少女なのだろう、ピンクのロングヘアーを揺らしながら快く承諾してくれたのだ。
勝敗が付いた後の、先輩と乃亜との秘密のポイントのやり取りには、流石に良い顔をしなかったが。
「えっと、佐々木君、だったよね?」
「ん。佐々木乃亜、Dクラスだ。そりゃうろ覚えだわな」
「じゃあ改めましてっ。一之瀬帆波、Bクラスです! よろしくね佐々木君!」
なるほどBクラスとは。見覚えがあるようで無い印象にも合点が行く。同じクラスなら間違いなく覚えているだろう、それだけの明るさが彼女にはあった。
「ちなみに聞いてもいい?」
「なんだってどうぞ」
「いったいどんなトリックを使ったの?」
「あー、特には何も」
「……何も?」
「強いて言えばブラフ」
今回のゲームは、文字通りだ。本当に何もしていない。
カードの持ち込みやキズによる判別のような古典的手法も、イカサマと呼ばれる行いは何一つも行っていない。
「真っ向勝負してたら勝手にあっちが自滅してっただけだ。いやー運が良かった良かった」
「なるほど……初めから、イカサマ指摘失敗のペナルティ誘発を狙ってたんだ」
「最初の仕掛けが馬鹿みたいにハマったな……まあ? 俺をカモろうってんなら? 店裏からホルコン操作くらいはやってくれないと話にならんね」
確認の意味合いも兼ねた、高育における初戦だった。
もしイカサマを誤って指摘されたとして、その指摘が通った時、監視カメラを用いて正誤を確かめるのは可能なのかという実験的な意味合いもあるゲームだった。まあ、男子先輩の指摘は何一つ通さなかったのだが。
煽るのが途中から楽しくなってきたのもあったが、まあ、これはしょうがない。敵のメンタルが見るからにガタガタに崩れて、嗚咽を漏らし始める様子を間近で見れるのだ、すごいたのしい。しかも今回は相手が御し易いのもあって、殆どが乃亜の思い通りに事が進んで気持ちよかったです。
「あれっ? でも、一戦だけ……先輩が最後に乗ってきた時って……」
「ああ、アレか」
上限賭け金30000を2人共に到達した、最後のゲーム。先輩はもう後が無かったのだろう、汗ダラッダラで、鼻水も止まらず、涙目でカードの絵柄なんて確認出来ていたかどうか。
そのゲームでも、乃亜は最初と同じ戦法をとった。一枚もカードを見ずに、上限いっぱいまで額を賭けていった。
「アレも同じ。細工なんて一つもしてないよ」
「ほ、本当に……?」
「ハッ! なんたって俺は謀略大好き性悪女神と相思相愛だからよ! ……さて、余韻が残ってる内におっ先ー」
そして、先輩は一か八かの半泣き状態で。
乃亜は、ヘラヘラと心底から笑いながら───
「マジでディーラーありがとな! また暇な時にでも付き合ってくれ!」
「う、うん……バイバイ」
───その結果が、誰も居なくなったテーブルの上に残されている。トランプは乃亜の私物だが、それを忘れるくらいには、今し方の勝利は乃亜にとって心を震わせるモノだったらしい。
残された役は、2つ。
3のワンペア。そして。
「本当に愛されてそう……」
そして、Aが4つと、jokerが1つ。
ポーカーに於ける究極の役、5カードは静かに役目を終えていた。
寮の自室に備え付けられたベッドへ寝転びながら、端末をニヤニヤと眺める変態がいた。そんな乃亜がいた。
「貧乏人の雰囲気漂わせてた割には、だいぶ溜め込んでたな」
ポイント残高の桁を下から数えていけば、ポーカー前には約15万ポイントだったのが、30万ポイントになっている。約2倍、これはホクホクである。
腐れ縁の友人から騙して快く借りた5万ポイントすらも担保にしての一戦は、それなりの満足感を乃亜へと与えてくれた。特に最後の一戦だ、アレはマジの運任せであったもので、アレの勝利を落として仕舞えば流れは完全に向こうへ流れていただろう。
それを見事己の運勢一つで勝利は手繰り寄せた、この、快ッ感。
「ハッ! 全額突っ込んで取り戻すどころか2倍だぁ!? オイオイ、さいっこうだなこの学校はよ!」
ポイント譲渡の折には、契約書を作成するのがこの学校に於ける常識であることも、この一件で理解できた。どれが違反行為に引っ掛かるのかを茶柱先生へ質問攻めした成果でもある。
実力さえあれば奪えるし、実力が無ければ奪われる。勝敗が決まった際の強制力及び法として必要なのが、契約に連なる文書や物的証拠。教職員の判があれば尚のこと良し。
実力至上主義、その意味の輪郭を乃亜は確かに掴みつつあった。
……はてさて、次はどこのどいつに挑もうかしら、この学校で1番の強々メンタルを持っているのはどのヤロウかしら、イカサマブラフモリモリの策略バカヤロウは存在しているのなら嬉しいのかしら、その全ての勝負の種金を友人のポイントで戦ってもっとヒリつきたいのかしら。
「勝って元金膨らませてぇ……賭け金もどんどん上げてってぇ……どんどんハイリスクハイリターンの『ハイ』がふくらんでってぇ…………あはぁ」
とかなんとか、世間一般視点では悍ましい色とされる幸せを思い浮かべながら、ベッドを何往復も寝返っていた。
そういえば入学式でやたらと偉そうに喋っていた人……生徒会長だったか。彼は視線からしてビリビリ来る、只者では無いオーラがあった。真面目〜って雰囲気だけでなく、それこそ分かりやすい言葉で表すのなら『実力者』だ。
生徒会長になれば全校生徒から喧嘩売られるような生活になっちゃうのかしら、それはとっても楽しそうなのかしら。───目をキラキラと輝かせて思案する乃亜の部屋に、インターホンの音が響いた。
「……綾小路だったりする?」
昨日部屋に来て一緒に遊んだばかりだが、また今日も遊びたいのか。友達という存在には仄かな期待と憧れがあったようにも感じたから不自然では無いだろう。乃亜としても、かつて出逢った時の無機質な綾小路よりも、断然今の綾小路の方が好感が持てる。交友関係を更に深めたいのなら望むところだ。
綾小路とのチェスは楽しかった。矢継ぎ早に駒を動かしていける快感というのだろうか、アレはとても良い。1:9で負け越してはいるものの、負けた際の内容もかなり深いところまで噛み付けていると自負している。帰りにUNOも買ってきた事だし、今日はこれで勝負と洒落込もう。どうせボードゲームもお堅いものしか知らないだろう、俗世生まれのUNOならば勝機は必ずあると信じるのだ。
玄関まで歩くすぐの間に再びインターホンは鳴らされた。なんだ嫌がらせか? 綾小路のノーフェイス野郎も中々茶目っ気があるではないか。
「……いや3回目はやめてくんねぇかな」
まさかの二連打。通算3回目のインターホンには流石に辟易だ。
「やれやれまったく」と言いたげな乃亜は、扉の前にいるであろう存在を確かめもせず、扉を開いた。
「こんばんは乃亜君」
「おやすみなさい」
笑っていた、そう、付き合いの長い乃亜は知っている。出会い頭に瞼が潰れるくらい目を細めてニッコリ笑いかけて挨拶をする、これは機嫌が悪いときの習性のようなものだ。学名は《ツエデ・コユビツブス・シルバーロリ》である。
鍵とチェーンの構造を頭にそらんじながら、爆速で全ての施錠を完了させて引き篭もろう。そう決意した乃亜は、怪我をさせないようにゆっくりと扉を閉める。……配慮かなぁ、この配慮がきっと分かれ目だったのだろうなぁ……とか、乃亜は後々に反省するのだ。
ゆっくりと閉じられる扉の隙間に、『ガギッ』と金属を擦り合わせた不快な音が挟まった。
「っ!?」
血の気が冷めていく実感があった。何かを挟んだという感触を理解した途端に、背筋から一斉に温度が引いていく。
急いで扉を開け放ち、状況を見やった。
『彼女』は悪戯が成功したようなしたり顔で笑っていたが、乃亜のあまりの勢いに押されてキョトンとし始める。
「悪いっ、怪我は!」
「へ? ぇ、えっと、……つ、杖が引っかかってしまいまして……どこも痛くはありませんよ?」
「……そっか、よかった……」
不安の急上昇と安心の急降下で、心臓の稼働が異常な速度を叩き出している。
乃亜の目から見ても辛そうな表情は読み取れない。不安等のマイナスよりは、どちらかと言えばこれは、プラスの感情を乃亜は感じたような気がした。
「ふふ……私の事がそんなにも大切なんですね」
「当たり前だろ、お前がいないと俺の金ヅル……………………あ、あの、訂正しますので許してください」
白杖は無言で、乃亜の右足小指を潰しに掛かる。影を宿した笑顔で勢いよく、コンクリすらも突き抜けるのではないかと思うくらいの勢いの良さに乃亜は感服。
20回の小指アタックの末、ようやく『彼女』は機嫌を収めて乃亜の部屋へと侵入してくるのであった。
中学時代の癖で、ジェット噴射の虫避けスプレーをつい探してしまう。いやしかし、高校生ともなればコイツもパワーアップしていることは必須。だとすれば燻煙式殺虫剤でないと太刀打ちは難しいか。
歳の割には小さすぎるくらいの体躯とはいえ、『彼女』の内に巣食う膨大な悪性を排除するには、それなりの装備が必要なのだろう。
「私のことを何だと思っているのでしょうか」
「腐りかけた梨みたいな性格のヤツ」
「前から言ってますけれどっ、最後に美少女幼馴染を加えなさいと何度も言っているでしょう……!」
「そこなんだ?」
それでいいのか坂柳有栖よ。
白っぽいよりも銀っぽい。白銀と呼ぶには紫が混ざっている。そんな印象の少女。ちょこんと頭に乗っている帽子は、きっと彼女の魅力を割増しているのだろう、知らんけど。
勝ち気な笑みをして、世界の見聞のおおよそを大体見下してから入る性格終わってるやつ。天は多分、こんな性格終わってるヤツに身体能力を与えたらマズイと思って、貧弱体質を与えたのではなかろうか。それで苦労している坂柳からすればたまったもんじゃないだろうが。
『彼女』───坂柳有栖という、腐りかけたバナナみたいな性格のコイツ……訂正、美少女は、佐々木乃亜の腐れ縁というやつなのだ。
小学生の頃、彼女の存在を知ってはいたのだ。別のクラスに御伽噺から飛び出てきたような子が居るとかいないとか。
その頃から既に馬達が競い合うドラマチックな世界に夢中だった乃亜は、件の坂柳という存在には微塵も興味が無く、学校の可愛い女の子にドキドキするよりも、次の女王の杯はどの牝の馬なのかドキドキしていたお年頃だった。
お互いに面識も無い。何なら乃亜は、坂柳の存在を忘れかけていたくらいだった。小学生乃亜の脳は、紙切れが極上の宝へと変わる快感に染められていたからである。
そんなある日のこと。
クソ親父に付き添ってとある出会いを果たしたその一週間後だったか。
『あ、ぁな、た……!!』
『あー……ここ一点に賭けるのはちとこわいな……いやでもコイツちょうし良さそうだし、タケちゃんならうまくのりこなしそうだな……んー、いやでも対抗馬にはCルメがのるのか? むむむ……なやむなぁー』
小学校の小さな机の上で、馬が競う新聞を広げながら、赤ペンでチェックマークを付けていく男の子。そんな子供は嫌すぎる。
隣から何故か、わなわなと震えながら、乃亜に憎しみとも似た悪意の視線を向ける女の子。これも嫌だ。
色んな意味で、小学生とは思えない景色が広がっていたことだろう。
「それで……はい」
「? はい」
手を差し出してきたので、その小さな手に乃亜の手を乗せる。反射的だった。普段から共に歩く時はこんな調子で手を差し出してくるので、その手の行動かと乃亜の早とちり。
予想外の行動を見せたのか、ピクリと坂柳は身動ぐが、それも一瞬で立て直る。そして偶然にも『お手』の形となった乃亜へ、いつもの調子で毒を吐くのだ。
「っ……ふ、ふふっ、滑稽な人ですね。ですが、愛玩動物とは惨めなほどに愛らしいものです。ええ、躾の行き届いた犬は好きですよ」
「犬より馬の方がいい」
「お馬の話題は今は禁止です」
コホンと逆の手で小さく咳払いをする坂柳。体が弱いのもあって、会話の切り替えよりも心配が若干勝つのだが、大丈夫だろうか。
真っ直ぐに乃亜を見つめてくる坂柳。これはそこそこ大事な話かもしれない。仕方なしに乃亜も聞く体制へと切り替えた。
フローリングの上に転がしたクッションの上に正座をして、ベッドの上に腰掛ける坂柳をちゃんと見る。
正座した折に手が離れるが、そんなことよりお話タイムの方が重要と見た。
「ぁっ……───それで、お買い物は出来ましたか?」
「うん? ……あっ、ああ、っ、もちろ、ん、だ」
買い物。買い物? 買い物、買い物かぁ、買い物って何の話だっけ。
賭博に於いてのみ最大限に有効化される乃亜の脳細胞は、急いで『買い物』のワードと紐付く直近のエピソードを探り始めた。
すると───そう、それは乃亜が軍資金調達の目処を考えていた時だった。
上級生を釣るのなら、10万丸ごとを勝利報酬として見せびらかすのは大前提。しかし勘の良い者とは総じて慎重さを持ち合わせている。この機に喰い物にしてやろうと襲ってくる上級生を、むしろ返り討ちにしてムシャムシャしてやろうみたいな剛の存在があるかもしれないと警戒している輩もいるかもしれない。
それを思って結論は出たのだ、これ10万じゃ足りねぇじゃん、って。いつの間にやら『15万くらいあれば足りるかなぁ』から、『15万あれば絶対に勝負は成立する!』みたいな思考に移行していたのだ。人ってこわいね。
「……ふっ」
「乃亜君?」
ここまで来れば、乃亜の笑みが何を意味しているのか察するに容易いと思うのだ。
───勝負事、それも瀬戸際のもっとギリギリの綱渡りは佐々木乃亜からすれば望むところ。
確かに負けた時のリスクは計り知れない。この女は人権くらいの代物でようやく『遊んでやってもいいか』と考えるくらいの性格終わってる女なのだ。……流石にそれは無いだろうか、いいやしかしどうだろう、とか悩んじゃうくらいには性格が悪いのだ。
賽を投げてからは乃亜の真骨頂。だが、賽を投げるまでの弁舌力に関してはどうしても坂柳に軍配が上がるだろう。持ち味を活かし尽くさねば勝機は掴めない。
「坂柳」
「はい」
「借りたポイントを返すかどうか、コイントスで決めないか」
「ええ構いませんよ? では私は裏に賭けます」
「ハッ! 何も聞かずに即答かよ! なら俺は表だ! 俺のここぞという時の幸運を舐めてもらっちゃ「乃亜君が勝ったらそのコイントスにしか使い道の無い右腕をズタズタに引き裂いてあげますね、刃物で」…………ん?」
何か、妙だった。不思議な話だ、坂柳への借金に関する賭けの筈なのに、これでは彼女が勝っても返済には至らない。しかも乃亜が勝ったら? ますます意味が分からない。……やはりどういう事なのだろうか? 物騒な賭けの内容からは全力で目を逸らして、乃亜はその矛盾点に頭を抱えた。
嫌な予感がした、漠然とそう思ったのだ。
「あら、そういえば、乃亜君の右腕は元々私の手すりなのでしたね。……では左腕で」
「……? お前は、一体何を言って……俺の腕は俺の物の筈なんだが……「『私が勝ったのなら乃亜君は私へ返済する』としておきましょうか」……坂柳が何を言ってるのか意味が分からんのです!!」
乃亜は初めて本物の恐怖を感じたのだ。だってこれ、乃亜が勝ったところでメリットが無いのでは? 賭けにならないのだ。賭博とは、多かれ少なかれ勝者には必ずメリットが与えられるのだ。でなければリスクを賭ける意味が無い。
なので「それは無理だよ」と嗜めようとした。結構上から目線で、「はぁー、やれやれ、これだからいいとこのお姫様はさぁ」とメンタルマウントを奪い取って場の空気を掌握しようとしていたのだ。
───ちょこんとベッドに腰掛けているお姫様は、突然にくつくつと肩を震わせ始める。
「ふふふっ、あはっ、うふふ」
「な、何だよいきなり笑って、かなり可愛いけど怖いが勝つぞ」
「…………こ、こほんっ」
いやだから咳払いは心配が勝つってば。
「乃亜君は返済をさせてもらう側です。この時点で発言権なんてそこら辺のレジ袋にも劣る価値でしかないと理解できているでしょう」
「んだとぉ!? テメェ5円をバカにしやがったなぁ!!??」
「精々3円が関の山でしょうに」
3円は3円でも価値はあるやい! ちょっとしたゴミ袋として重宝するんだい!
「堂々と踏み倒そうという魂胆の乃亜君と、顔と声と性根の善良さくらいしか取り柄の無い悪ーい男の子に囁かれてポイントを騙し取られた挙句に使用用途すら全くの虚言を吐かれてギャンブルの元金として使い込まれていた哀れで可哀想で可愛い美少女幼馴染。ふむ、さて、どちらに賭けの内容を決める権利があると思いますか?」
あまり坂柳の事は言えない身だとは知ってはいるが、コイツ、乃亜をボロクソに言い過ぎでは? でもやっぱり口にすればするだけ不利になるかもなので、泣き寝入りするしか無いのでございました。だって借りたポイントを使ってオールインしてたのもバレてるし。
……あれ? でもなんか序盤に結構誉められていたような……気のせいだろうか、気のせいか!
「……坂柳」
「んー? 聞こえませんね? 私達の間で通じる誠意の伝え方も忘れてしまったのですか?」
「……坂柳、有栖……さん」
「惜しいですね、余計なモノが多くて聞こえない気がします」
「はぁ…………あ、……ぁ───有栖」
ぴくりと、肩が跳ねるのが見えたような気がした。
顔を咄嗟に見上げるが、別段余裕を浮かべた笑顔のままだ。何か変化があった訳ではない。勇気をそこそこ出した割にこの成果とは、ちょびっとだけ悔しい乃亜だった。……手のひらの上とは、こんなにも屈辱的なのか。
「賭けの内容を、有栖に決めてもらいたい」
「……少し拗ねているのは気に入りませんが、まあいいでしょう」
溜め息を一つ、いつもの仕草を終わらせて、坂柳は顔を振って乃亜を促す。
そうと決まれば早速コインを用意して───いや待て佐々木乃亜。用意してはならないだろうが。
「いや待って、賭けの内容がおかしいという俺の心は間違っていないと思う」
「ですが、乃亜君も納得したのでしょう?」
「いやだから、賭けになってないというか、これじゃどの公式や野良のルールを覗いてもドローがいいとこで」
「乃亜君は
その強調された言葉に、坂柳の思惑通りに押し黙ってしまう。
「……」
「自分が心の底から納得したのなら、それを実現させる為に己の全てを尽くす。……それが、私の気に入っている乃亜君ですけれど」
「…………」
「ふふ……あらあら、すみません、これは失礼をしました……どうやら貴方は
ブチリと、乃亜はキレた。
というよりも、闘争心に灯火が宿った。
「ハッ! やってやんよ! 自分の身は自分で守る! 俺のコイントスで俺は俺を救ってみせらぁ!!」
「なるほど、つまり乃亜君は自らの確固たる意志をもって負けたいと」
「……は?」
「そうでしょう? 『私が勝ったのなら、乃亜君は私へ返済をする』と。お忘れですか?」
クスクスと、子供のようにほころぶ坂柳。
え、コレつまりそういうこと? 天秤に掛けられているのは、片方が左腕の安全だ。そして。
もう片方には、ギャンブラーとしてのプライドが載せられているってコト!?
「私に負けたがっているのなら早く言ってくれればいいのに……ふふ、屈折した趣味をお持ちのようで」
「あ、ぅあ……あっ、あ!」
イカサマ勝負の戦略上で一時的な敗北、コレならいい、だが、だけどっ。
「自分から決定的な負けの方へと突っ走れだとおぉぉぉ!!??」
ちなみに「刃物でズタズタなんてー、んな訳ー」とか茶化せるものなら茶化したい乃亜だ。でもそれをやれば本気で持ち出しかねないと認識している乃亜でもある。
数分後、借りた約5万ポイントにナシをつけて返済する乃亜の姿があった。
その背中は、きっと、泣いていた。
彼にはきっと、ギャンブルの才能が無いのだ。
「チィッッッッッッ!!!!!」
彼との思い出を語らうのなら、やはり二大看板を張る片翼のコレは外せない。
その記憶の始まりは子供がするには嫌すぎる、不機嫌しか篭っていない大きな舌打ちから始まった。
「いやまてっ、ばっか、今はまだ早いっっ! オマエは温存してなきゃ後半で失速しちまうだろうにぃぃっっっ!!!!」
大きな独り言に合わせて、机を思い切り叩く隣の席の男の子。
まあ突然大きな声を出すこともあるだろう、机を意味も無くどんどんと叩くこともあるだろう、授業中であることを加味しても、まあまあ、小学生の内になら有り得なくもないのかなとは思った。
その男の子の片耳に、黒いイヤホンが掛けられていなければ。
その男の子のポケットの中に、馬達が速度を競う中継を流している携帯ラジオが無ければ。
その男の子の手の中に、強く握り締められた薄緑の謎の券が無ければ。
クラスの子がたまに言うのだ、「なんだか土日のお父さんみたい」と。
そして坂柳有栖の明晰な頭脳は、彼に対する至極真っ当な正当を見つけ出した。
ダメな大人、それが彼に対する表現として何故か当て嵌まってしまう。
「クッソがぁ……っ!! いけっいけいけいけぇぇっっっっ!! っうっ、はっああぁっっ誰だオマエはいきなり跳んでくるなぁぁぁぁぁっっっっ!!!! …………はぁ…………あん? ……いや、俺はまだ子どもだ、師匠ほどには勝てねぇんだ……」
子供でこれなら、ダメな大人になるのが決まったようなものだ。
教師が注意するのかと思いきや、知らないふりをしながら耳を傾けているようだ。彼と休み時間には楽しそうな様子で新聞の内容を喋っている姿を思い返せば……なるほど、ダメな大人はこっちの方だったか。
ところで彼曰く、土日がメインとは聞いたが(本当は記憶すらしたくない穢らわしい情報だが)今日は平日のど真ん中だ。話が違うではないか。隣の席である以上はこの奇声に苛まれる可能性が高い。阻止できる余地があるのなら是が非でも知りたい。
「あ? ……ああ、地方レースは年がら年中やってるぞ」
情報が絶望そのものだった。このままでは、まさか、席替えやクラス替えが起こらない限りは延々と……?
「そうだな……地方は展開が堅いって話なんだけど……クソゥっ……なんだよアイツ……マークしてる訳ねぇだろうが……お陰で大荒れだっての……」
別に一つも聞いてない。
まるで友人かの様子で、勝手に親しげに教えてくる。この状況が非常にマズイ未来の示唆であると感じた私は、すぐさま提案をする。前々から企んでいたのだ、横で大きな新聞を広げる姿は鬱陶しいし、大声や席で動いたりは言わずもがな。代替となるであろう何かを教えれば、この怪物は鎮まるのだろうかと。
そこで私は、一つのボードゲームを教えることにした。
……そう、私の価値観へ罅を入れてくれた、
「ん? あーそれ知ってる。なんかこないだ初めてやったわ」
私の背筋に戦慄が奔った。
先日とは、例の施設での一件だろう。詳しい日程を聞けばやはり合致する。
あのチェスは、あの千日手は、まさか本当に正真正銘の初心者が繰り広げていたのか。ルールブックを読み込んでいる姿は、幼いながらに巌流島を再現したつもりだろうかと蔑んですらいたが、必死に細かな文字を追う姿は、まさか、本当に?
怯えか、武者震いか、或いは憎悪か、声を震わせようとする感情を必死に抑えながら、私は彼へと勝負をしないかと提案した。
「えー? アレ疲れるしやだよ。チェスって時間も掛かるでしょ? 放課後だけじゃ足りないし、それにつまんないよ。夜に自転車もあるからそっちの予想に頭使いたいんだけどー………………あ、はい、りょーかいです、すみませんでした放課後は坂柳のお家にお邪魔させていただきます」
先程まで彼がそうしていたように、私も真似て彼の机を杖で
……はい? お夕飯の前には帰る? 自転車の熱いレースが俺を呼んでいる? (杖で机に
そして放課後、時間が惜しいと感じながらも、彼と共にゆっくりとした帰路を進みました。迎えの車がある駐車場へ向かうだけですが、私の速度に合わせればどうしても遅々とした感覚を覚えてしまうのでしょうね。
彼からの視線は感じません。誉めそやされるばかりの私の容姿などどうでも良いと言わんばかりに、彼はずっと、賭け事ばかりに思考を回しています。歩きながら、どうせ明日の予想の組み合わせに夢中なのでしょう。
そんなよそ見をしながら歩くと危険です。小学生の危機管理能力なら尚更に───
「おい、そこ段差あるぞ」
───……彼は、少なくとも同年代の男の子と比べれば、周りを見れるだけの能力はあるようです。ただの『賭け事大好きダメな大人予備軍』から『周りを見れる賭け事大好きダメな大人予備軍』に格を上げて差し上げましょう。
とは言え、ほんのちょっぴりです。小匙一つくらいに評価が上がっただけですから調子に───「ストップ坂柳」───……今度はなんですか。
「そのまま進むと杖が隙間に落ちるぞ」
排水溝を塞ぐ網は、子供の足ですら通しはしないでしょう。けれど確かに、杖の細さなら…………まあまあ、人として最低限の思い遣りを備えているのは悪いことではありませんから。
それからも何度も注意を受けながら、その度に私のプライドをちょびっとずつ逆撫でながら、私達は迎えの車に乗り込むことが出来たのでした。
そして私は知ったのです。
「本気でやってくださいね」
「んー……本気って言われても……」
「あの
「へ? おいちょっと白い部屋って何で」
「───本気で『戦ってください』」
この世に
けれど、コレは私とは違う。コレは、
本物と称されるのなら、きっと、コレこそが──────いいや、まだ認めない。
きっとまだ、余地がある。
例えば……例えば…………例えば………………そう。
コレを手中に納めて仕舞えばいい。
コレを私が支配すればいい。
コレの視線が私以外に向かないようにしてしまえばいい。
そうすれば証明となるだろう。遠回しに、アレの否定にも繋がるだろう。私こそが上であり、その他こそが下であると。
だから私は認めない。彼の持つ才能を、認めてはならない。
それがいかに原始的で、人の本能を奮い立たせるモノで、どうやっても尊い輝きを思わせても、人の心を焼き尽くす人の触れ難い境地に在るモノであっても。
私は、彼の才能を認めない。
だから私は知っている。
彼には
「へぇ、坂柳って頭良いな本当に。……まあこっちに置けるか」
「そうですかありがとうございます」
「ハッ! 全然嬉しくなさそうだな、言われ慣れてちゃそうなるか。……じゃあ次はこっちで」
「っ……」
「うーむ、そうだなぁ、じゃあ……こうとかどうよ?」
「…………」
「坂柳が長考する姿って珍しいな」
あるのは……彼が持つ才能は──────。