鈍い音が、した。
笑い声も、した。
「あんたが悪いんだよ、実の息子だぜェ? よくもまあこんな仕打ちできたもんだよ。つーかよく耐えてたとは思わない? いやぶっちゃけさァ、あんたに対しては、特にこう、特筆するような情は湧かなかったからさァ、耐えるってだけってんならいつまでも耐えれただろうけどね? ……あー、残念ですけどねェ? これに関しちゃ鬱憤晴らしって話じゃないからさァ、あんたの頑張りで耐えていれば乗り切れるとか思わない方がいいかもなァ? だってよォ、あんたの色が尽きるまでずっと続かせるぜ? 俺はさァ」
鈍い音。
笑い声。
鈍い音。
笑い声。
「言っとくけどな、どれだけ俺の感覚が世間一般と乖離してようがなァ、気持ち悪いもんは気持ち悪いんだってェの。一応は俺にだって生理的嫌悪ってのが存在してんだからな? あんたがどれだけ俺を悪魔って呼んでもさ、肉体の仕組みってのはつむじからつま先まで人間仕様な訳よ。勿論内臓もな、そりゃ当然脳みそだって人間の代物なんだからよ、感情を司ってる器官だってあるのよね、嫌悪っていう感情を感じる部分は確かにあるのさ」
鈍い音。
笑い声。
鈍い音。
笑い声。
鈍い音。
笑い声。
「いやいや、今更謝られてもなァー、困るっつーかァ、許す許さないじゃなくてさ、もう無理なんよ。スイッチ、入れられちゃったからさァ。ねえ知ってる? 理解出来る? 俺に何も教育をしてこなかったクソ親父が唯一俺に教えたこの物騒なスイッチがさァ、何の為に付けられたか分かるかァ? 俺には分かるけど? あのクソ親父が何も語らずとも俺はあんたと違って頭が良いからなァ? あんたが非人間だって言う俺が分かるのにィ? あいつを愛したあんたは分かんない訳ェ? ハッ! 笑えるやつだなあんたは、とことんまでバ母さんって訳か」
鈍い音。鈍い音。
笑い声。笑い声。
鈍い音。鈍い音。
笑い声。笑い声。
鈍い音。鈍い音。
鈍い音。鈍い音。
笑い声。笑い声。
「分かる? どうしてこうなったか、あんたの低脳で理解出来るかァ? 無理だろうね、あんたのコンプレックスだったんだろォ? 自分の頭の悪さが嫌だったってェんだろォ? クソ親父唯一の施しの意味も、俺がどうしてこんな事してるのかってェのも理解出来てないんでしょォ? まァでもいつも通りじゃん? 分からないって一点張りでさァ! 疑問の海に逃げ出してェ! 解決の手立ても探さなくてェ! 思考の全てをシャットダウンッ! 口先だけでびーびー喚き散らかして! ただ状況に流されていくだけの能無しアホ女ァ!!!!」
鈍い音。鈍い音。
笑い声。笑い声。
鈍い音。鈍い音。
笑い声。笑い声。
鈍い音。鈍い音。
笑い声。笑い声。
鈍い音。鈍い音。
笑い声。笑い声。
鈍い音。鈍い音。
笑い声。笑い声。
鈍い音。鈍い音。
笑い声。笑い声。
鈍い音。鈍い音。
笑い声。笑い声。
「あんたが俺を産んだから、こうなっちゃったんだよ」
何かを叩くような、鈍い音。
全てを楽しむような、笑い声。
喋っている間、その子供は、ずっと。
怯えて蹲る女から、ずっと、音を鳴らし続けていた。
痛みを恐れて身を守る女を、ずっと、笑い続けていた。
そこには、人間の尊さを否定する為の、暴力だけがあった。
「逆説的に言えばァ、あんたが産まれてこなきゃァ、こうはならなかったんだろうねェ」
ただ一つの、純粋無垢な問い掛けがあった。
「あんた、何でこの世に産まれてきたの?」
そして、もう一度、鈍い音と笑い声は繰り返される。
何度でも、悪夢のように。
その色が尽きる結末を目指して、何度でも。
第三回目のディスカッション。
乃亜はコインを右手の指で弄びながら、Cクラスの真鍋をどう陥れてやろうかとのんびり思案していた。
真鍋は時折のタイミングで、軽井沢を視界に入れては忌々し気に睨みつけている。だが瞳の奥に潜んでいる悪感情はそこまで濃いわけでは無い、このままでは真鍋を始めとした3人娘を操って結果4へ導くことは、時間の経過に比例して難しくなっていく。
ただまあ、軽井沢のやらかしが煙に撒かれるのなら、このゲームは流して良いのかもとは思ったり思わなかったり。
なあなあで終わりそうな未来がチラチラと見えてきて、どうにも、佐々木乃亜の心情的には実に困るが、はてさて。
何かしらの手立てはないものかと、頼れる頭脳の、腐りかけたプラムみたいな性格の美少女幼馴染に、期待の視線を寄越してみようかと思い至る。
隣へ顔を向けると、乃亜からの視線に気がついた坂柳が、能動的に目を合わせてくる。
「そういや葛城から何か聞いた?」
「何も耳には入れないように心掛けていますよ、乃亜君と
返ってくるのは、ふわりとした笑み。
甘く感じる声色とその表情に、だが乃亜は挑戦的な色を感じ取った。……坂柳が今回仕掛けたおおよその背景が掴めたような気がする、道理で
坂柳も同様の疑問を抱いている節があった、成程、つまりはそういった話だったのか。今回のゲームに於けるDクラスとAクラスの方向性は、意図せずして被っていたという事だったりするのか。……別に乃亜の意図はゼロだが、堀北が勝手に見事なまでのドリブルをしていただけだが。
「ハッ! あー、そうかい、そういうこったぁね」
「ふふっ……乃亜君が楽しんでくれているのでしたら幸いです」
悦を浮かべて笑みを浮かべる乃亜へ、くすくすと、悪戯が成功したような声を漏らす坂柳。
であれば今回のリザルトもこの時点で、かなり鮮明な形が見えてきそうなものだ。……予測が正しいのであれば、やっぱり性格悪いなこいつ。
「坂柳はどうなの」
「もちろん、乃亜君と一緒にゲームへ臨めているこの瞬間が一番に楽しめていますよ」
「そうか? 今回はリザルト発表の方が楽しそうな気がする」
「むっ……確かに、それもそうですね……むぅ」
不満気味な顔をした坂柳が、乃亜のコインをそっと、細い指で奪い取っていく。
乃亜が強く睨みつけても、思案に入った坂柳は気に掛けた様子もなく、左手の指先でコインを弄び始めた。
誰かを見ることも無く、遠くを見つめる横顔は、やはり何かしらの不満を晴らすための思案に没頭している時の色をしていた。……不満、不満か、坂柳がたった今抱いた不満か。
……そういうことかこれ? ……お節介……とは違うのか、単純に気に食わないだけという自己中なオチだなこれ。坂柳のスーパー過剰プライドが仕事をしているだけだ、自分以上に夢中になるのが許せないとかのくだらない話だ、乃亜の賭博行為を嫌うのと同じ理由である。
この場合ならば、坂柳と一緒に参加しているディスカッションの時間よりも、自分達の関与が薄い総合結果の方へ気を取られているのが───とか?
「俺の暇潰しが奪われちったー……助けて椎名ぁ、何か本とか持ってない?」
「はい、持ってきていますよ。きっとこうなるだろうなとは思っていましたので、乃亜くんが好みそうな一冊を持って来てあります」
「ヒュー、さっすがぁー」
ディスカッションが膠着状態を脱することはほぼ無いだろう。それを察してか、ひよりは自分の分だけに留まらない乃亜の分までもを用意してくれていたらしい。
好みそうな一冊……それってつまり、寮から船まで持ってきてくれたって事かしら。乃亜の好きそうな本を? わざわざ? 本の虫が自分の分を一冊分減らしてまで? ……ちょっと嬉しいかもだ。
気を抜けば緩みそうになる口角を、気合で引き締めて抑え付ける。表情筋が引き攣りそうだが頑張るのだ───ちょい待て、ぽわぽわとした笑みで俺を見るな、幸福感で顔がだらしなくなる。ひよりの前では少しなりとも格好つけたいのだが、クールな俺であれぇぇぇ───よし直った。
柔らかく上機嫌な仕草で、机越しに差し出してくれた一冊の文庫本には、灰色のブックカバーが付けられていた。
受け取ってからタイトルを確認すると……うーむ、流石はひより、『神曲』とはセンスあるぜ。内容は全く知らんけど。
「聞いたことあるぜこのタイトル、読んだことねぇしちょうど良いや」
「聖書から多くの引用がなされているのはよく知られていますが、様々な哲学や天文学などからの知見も用いられていて、意外と博識な乃亜君なら間違いなく楽しめる一冊だと思います」
「意外は余計だが、素直に博識ってだけで十分だったと思うのだが」
「最近は知的な横顔を拝見する機会が少なかったせいかもしれませんね?」
笑みを浮かべながら、棘……と言うほどでもない程度の仄かなチクチク言葉。いっそ乃亜は、ひよりの分かりやすい拗ねに、微笑ましさすら感じてしまう。
1ページ目へとザックリ目を通すと……流石のひよりセレクトである、想像よりも乃亜の好みに刺さっていそうな導入だった。となれば他に気を取られながら片手間に読むのは、あまりにもったいない。
「これ、じっくり読みたいから借りていい?」
「勿論です、読み終わった後は……そうですね、静かな場所で感想を聞かせてください」
「あー、了解」
要は定期的に図書館へ来いって言われているのかもしれない。坂柳との賭けによる賭博禁止期間が終わってからは、図書館にはめっきり寄り付かなくなってしまったのが不味かったか。だって暇なんざ最高の手段で潰せる、本よりも賭けだ、これはひよりが相手だろうと譲れない乃亜の結論である。
まあまあ、そこそこ、それなり、たまーに、そんな不定期で訪れるのも悪くないのかもしれない。
しかしながら、本を探して館内を歩き回る時は気を付ける事にしよう、特にカメラの死角だ、色々とアブナイようなそんな気がする、アブナイ経験もした気がする。
「意外過ぎるでしょ、佐々木くんって読書とか出来るんだ……」
「『出来るんだ』って、『読むんだ』でもなくて『出来るんだ』って、物言いからしてスゲェ下に見られている気がする」
「悪い佐々木、オレも同意見だ」
「言うまでも無いかもしれないが俺もだ」
「ウチのクラスメイトが俺のことを見下し過ぎている件についてぇ!」
一応は、この4人の中でも一番学力があるつもりな乃亜です。綾小路ぃ? 外れ値をランキングに入れるなあんな自称普通のバケモン。
しかしながら、軽井沢にそんな事を言われるとは思わなんだ。彼女とて読書という文化に触れているような気配はしないのだが。アホ指数がかなり高そうな気はする。
「速読だって出来るんだぞ、結構知性に溢れてるのよ、俺」
速読程度を誇っているのがバカっぽいという意見は聞きません。
「佐々木くんって、流し読んだ漫画で読書感想文とか書いてそう」
「小学生ん時に書いたけどもさ」
「案の定じゃないか、ちなみに読んだのは何だ? 佐々木の事だからどうせ少年漫画だろう、摩訶不思議アドベンチャーなやつか? Ninjaのやつか? それとも麦わら海賊のやつか?」
「マキバの王様のやつ。教師にはゴリ押しの完全論破して泣かせてから提出してやったぜ」
「嫌な小学生だな……」
未だに疑惑の目で見られる乃亜だが、読書を嗜むに至るまでの理屈は通っているのだ。金欠以外にも理由はつくのである、というかギャンブルにド嵌りした5~6歳までは本しか読んでいなかったまである。主に辞書系統ばかりだが。
「ハッタリをかますのなら口が上手くないといけない、口を上手くするのなら言葉を知らなくちゃならない、言葉を知りたけりゃ本を読むのが効率良い、ギャンブルに没頭する時間を膨らませる為に読書の時間を削りたい、だったら速読を覚える方が良い───どうだコラぁ! 自然な帰結だろうが!!」
「佐々木は要所要所で効率重視だな。……賭けに狂っているのはその反発衝動か?」
「
何がどう違うのか、なんて聞かれても困るのだ。感覚的なものである、勝手に感じて欲しい、この賭博精神の在り方というものを。……ますますバカっぽいかもしれぬ。
己のアイデンティティへ思わぬ理由で疑問を抱こうとしていた時、ひよりが机越しに声を掛けてくる。
「ですが物語を楽しむ際には速読を行わず、一文字一文字を噛み締めて読む、でしたよね?」
「……教えたっけ?」
「読書中のお顔に、ずっとそう書いてありましたよ」
「察し良すぎ」
「乃亜くんには負けちゃいますね」
ぽわぽわとした笑みを浮かべて、こてりと、顔を傾かせたひより。
それを眺めて暖かい気分になっていると、一之瀬の声が差し込まれる。
「佐々木くんはどんなジャンルの本を読んでいるの?」
「あー? 基本的には「伝奇モノを好んでいますよね」うん、そうだな」
うん? 乃亜への質問ではなくって? ひよりへの質問ではないのだが? どうして君が答えるのん? 一之瀬がせっかく乃亜へ興味を持ってくれているというのにどうして? 親密度を稼ぐチャンスをどうして潰されてしまうの?
「特にファンタジ「空想的な世界観に引き込まれていく感覚が好きなんですよね」うん、そうだな、代弁サンキュー」
うーむ……まあいいか、楽だし。
「ふぅーん? へー、そうなんだ」
「はい、そうなんです」
「……椎名さんは、佐々木くんの事をよく知ってるんだね」
「ええとっても、大変
自分の話題の筈がいつの間にか省かれていた乃亜だった。話に割り込むべく頑張ろうとしているのだが、弁舌力には自信があったのだが無力感がすごいな、ちっとも横槍を入れる隙が無い。
そこから発展していく、ひよりと一之瀬との探り合いの空気間……乃亜は、そっと視線と意識を坂柳へと向けてみる。別に違うし、逃げた訳じゃないし、バチバチとかそんな色が見えた訳とは違うし、ただ慣れ親しんだ坂柳の顔面を眺めて平静を保とうとしているだけだし。
コインをそろそろ返して貰おうと思ったが、依然として坂柳は思考の渦と共に、左手の中でコインをくるくると回している。
仕方ない、今日のところはトレードで許してやるとしよう。
坂柳の小さな頭の上に乗せられた黒いベレー帽を、彼女に気取られないよう、こっそりと盗む。
「……今度は何してんの?」
「俺の
軽井沢からの呆れた声が聞こえたのか、坂柳が視線をチラリと乃亜へと向けるが、しかしすぐに思案の海へ意識を戻していく。
無言の使用許可を得た乃亜は、黒いベレー帽を指先に引っ掛けて回転させてみる。……おお、中々の回し心地ではないか。とくにリボンの部分が良い感じの遠心力を生み出して、回転の速度はそこそこ速い。
この勢いを保ったまま、部屋の角のソファーへ目掛けて射出!
「気○斬!!」
「色が違う、白ならまだしもだが……佐々木、お前は黒色の○円斬を許容出来るのか?」
「あー、確かになぁ。そんじゃ塗るか、誰か黄色のペンとか持ってる人いる?」
「リボンが見た目を害している、根本から千切れ、Z戦士にフリフリは必要無いぞ。膨らみ過ぎてもいるな、もっと平べったく潰そう」
「…………あの、小学男児のお2人はご存知無いのかもしれませんが、その帽子って実は私の帽子なのですよ?」
「!? うわぁびっくりぃ! 心身共に極小すぎて気がつかなぁぁいぃぃぃっっっったぁぁぁぁあいぃぃぃぃぃい!!!!!!」
小指の第一関節を粉砕する捻り穿ちッ! その軟弱貧弱腕力でよくもまあその威力!
バトルは技術ということである。しかしまあ、どこでそれほどの実践経験を積んだというのか……ああ、乃亜の小指か。
「痛ぇよ性悪め……──────あー?」
「……ふふっ」
ポケットの内に入っていた携帯が震える、通話ではなくメッセージだ。
送り主は坂柳からだ、彼女は真隣に居るというのに、この場で誰にも悟られることなく内緒話でもしようというのか。ディスカッションが終わった後にでも話せばいいというのに、それを選ばずにたった今の時間に話そうとする理由。
───ディスカッション中でないと、話せなくなるとか?
この後は、例えば、裏回しなり根回しなりで忙しくなるとか?
「……」
『ゲームをしませんか?』
返信をする前に、ひよりから借りた本を開きながら、視線を室内へと巡らせる。坂柳の意識がどの方へ向いているか、読書をしているフリをして観察してみたが。
楽しそうな色が、坂柳からとある方角へと向いている。標的はそれか。
成程そういうことか、彼女の考えが分かった──────だとすればこいつやっぱ性格悪っ。
本を隠れ蓑に、携帯を操作してメールを飛ばした。
『俺に利益しか無いのが気に食わない』
『ですが楽しそうではありませんか?』
『最近は保険を張ってばっかでリスクが恋しい』
『敢えて言うのなら信頼をBETして頂くことになります』
「……」
自分でもどうかとは思うのだが、字面がとても魅力的だった。
信頼をBETとは、何ともこう、ねえ、唆る話ではないかね。下手を打てば信頼をドブに投げ捨てるような───ちょい待て、これ、下手を打たなくてもでは?
訝しみで表情を歪めていく乃亜へ向けて、こらえる気のない笑みを溢す坂柳。
「……ふふ……」
『これ勝ったところで
『その程度で臆するような乃亜君ではないでしょう?』
「……」
煽りやがる女だった。
そして、佐々木乃亜って生き物は、この手の煽りを大歓迎しているのだ。
『上等』
『決まりですね』
『坂柳は今のままの獲物でいいだろ
俺は余り物で満足してやるよ』
『仲の良い女の子もいるというのに非道い言い草ですね
やっぱり乃亜君は鬼畜さんです』
『性格極悪の極致みたいな提案をしたのはお前だが』
『そんなに褒められたら照れてしまいます』
ディスカッションは残り4回、今回を含めずに数えるのなら残り3回。
3回の間に挟まるモラトリアムを含めて、策を巡らそうという話だ。
坂柳と、1対1で、遊ぼうって誘いだ。
退屈に終わってしまうかと思っていたこの試験、試験終了後のリザルトだけに意識が向いていたのだが───守りに入るのが性に合わない乃亜からすれば、坂柳の提案には抗い難い誘惑があった。やはり攻めてこそだ、攻めるのなら仲間は邪魔だ、盾にするだけならまだしも、守りながらの立ち回りは苦手の部類だ。
集団戦よりも、単騎での個人戦の方が楽しい──────いいや、まあ、龍園との無人島での戦いは滅茶苦茶凄まじく超絶に楽しかったが、あれもちゃんとした集団戦とは言い切れない。
「さっきから何してるの?」
「あー? 齧歯類にゃ関係ないこと」
「だから! またネズミ扱い!」
「いいじゃんネズミ、カッコいいじゃん、地べた這ってでも必死に生きようと頑張っているじゃん、努力家じゃん」
「そういう意味なら……まあ……」
「チョロ」
「はあ!? いい加減に素直に見直させてよ!!」
もはやいつも通りとなった掛け合いが、軽井沢との間で交わされる。
声の色の中には、慣れからくる親しみが込められていた。乃亜は当然ながら、綾小路にも察する事が出来るだろう───そして乃亜の隣に座っている坂柳も、それに気が付ける側の人間だ。
佐々木乃亜と坂柳有栖との間にある、面倒なしがらみを思えば。
軽井沢へ静かに威圧するこの色も、むべなるかな。
「ふふふふふっ、お2人とも仲がよろしいようで」
「視神経ごと目が腐ってんな、腐った頭脳構造してっからだな、腐りかけたレモンみたいな性格をしているだけあるぜ」
「佐々木くんって……坂柳さんの事が嫌いなの?」
「割と好きだが、疑問を抱く余地があったか?」
「不思議な事もあるのですね、私達はこんなにも相思相愛だというのに」
「……やっぱり付き合ってるんじゃないの?」
「付き合ってない」
「ええ、付き合って
乃亜のコインを指で弾きながら、坂柳は楽しそうな表情を浮かせて言った。
坂柳の帽子を指で振り回しながら、乃亜は何でもないような顔をして事実を述べた。
ごちゃついている関係性を知るところに無い軽井沢は、疑問の瞳で両者を見比べるだけだった。
ディスカッション終了後。
遅れて合流した綾小路とカジノルームで遊びながら、乃亜は、ディスカッションの最中に坂柳と交わした密談の内容を話していた。
「つー訳でだ、新たなゲームの始まりだぜ」
「誰とだ」
「これの持ち主」
乃亜の頭に乗せられた、坂柳のトレードマークでもあるベレー帽を指さしながら答える。
コイン代わりに強奪した───持っていく際はしょうがなさそうに微笑まれた───のだが、中々どうして収まりが良い気がする。明日にでも返そうかとは思うのだが、気に入ったらこのまま貰ってしまおう。
坂柳には、既に一つのコインを捨てられている……捨てたとか言ってるが、絶対に寮の部屋に置いてある気がする乃亜だ。だって捨てたとか言ってた時の色が、虚言に似通ったものだったのである。欲しけりゃそう言ってくれれば、いつでもくれてやったというのに。
何にせよ、コインを坂柳に奪われて、坂柳から新しいコインを貰ったのだ。
乃亜が帽子を奪って、乃亜から新しい帽子を渡すのも一興か。
「ルールは」
「最後のディスカッションの時間中に、どっちが結果4を導けるか」
「それはDクラスにとってメリットしか無いんじゃないか? お前らしくない……いや、そうか、参加費として今後の信頼を支払うという事か」
スロットのレバーを叩きながら、リールの回転を2人並んで眺めている。
どうあれ、今回のゲームの趣旨が顕わになってしまえば、坂柳と乃亜の信頼はガタ落ち間違いなしだ、同盟一つを提案することですら若干の疑心を向けられるようになる。言ってしまえば騙し討ちの画策だ、搦手を許容できるひよりはまだしも、正攻法を主とする性質の一之瀬からは───うん? あれっ? これって乃亜が一之瀬から嫌われる可能性があるのでは。
ボタンを押してリールを止めながら、まさかの未来に背筋へ戦慄が奔る。
「一之瀬から嫌われる……かも……じゃん」
「かもしれないな。……お、当たった」
「坂柳を騙くらかすだけなら良心など微塵も痛まないのに……ちくしょう……」
ド派手な音を掻き鳴らしながら、綾小路の座る台の液晶には、3の数字が三つ並んでいた。友が嘆いているというのに見向きもしない、非情な輩である。
「どう狙う」
「真鍋らへんが都合が良さそうだけど、
「そうか、確かに狙い目はそこだろうな」
綾小路は乃亜へ視線を向けることなく、スロットに向き合って、大当たりの消化を楽しんでいた。そんな色をしていた───焦り? 気のせいか、スロットを楽しんでいるのは確かだが、楽しさの中に紛れて焦燥の色があったような───ヒャッホーイ!! 乃亜も大当たりー!!
ウキウキで舞い上がる乃亜をよそに、無表情の綾小路が話題を繋いだ。
「だが椎名が壁として塞がる」
「……あー、真鍋と取り巻き2匹の気質は小さな俗物って感じだし、アレらだけなら速攻でメールさせるのも簡単なんだけどなー」
メダルを排出させる音を楽しんでいる様子の綾小路を眺めながら、乃亜は右手でコインを……自前のコインが無かったので、坂柳から奪った帽子のリボンを指で弄びながら思考を回す。
坂柳に勝つためだ、今の時間を利用して、300万プライベートポイントを渡すくらいに派手なマネーゲームで片を付けても良いが、それでは味気がない。せっかく彼女が考えてくれたゲームだ、複雑に楽しめるのなら、そうしてあげたい。
考える、考えるのだが、ここで問題となるのはやっぱりひよりだった。
「ひよりは頭は回せる、けど即興劇の速度に関しちゃそこそこ。腰据えさせりゃ無限に話せるタイプだが、咄嗟のアドリブ力は俺に圧倒的な分がある。想定外を一度ぶつけて後手に回させちまったら、押し切るのは割と簡単だろうが……」
「既に椎名は気が付いているだろう、この先に起こり得るCクラスの負け筋の数々に」
「多分ね。複数の負け筋に至るまでの過程と結論が出ているから、その結末に繋がるような発言には徹底して噛み付いてくるだろうな」
横槍さえ入らなければ問題ない、だが横槍が入らない訳が無い。
上手くすり抜ける策を考えておくのか、パッションバトルでぶち壊しにいくのか、はたまた、ひよりにメリットを提示して見過ごしてもらうのか。
坂柳との対決なのに、ひよりへの対策を講じる必要性がある、これが楽しい。やる事が多いのは良い、とても良い、頭を回し続ける疲労感が楽しいのだ。悪くないゲームを思いついてくれたものだ、乃亜のツボを良い方向で掴んでくれている。
「退屈そうなお前のために坂柳が考えたゲームだろう、相変わらず愛されているな」
「そいつはどうかな。アレも俺に負けじとエゴの塊だ、自分のプライドと我儘を優先しただけな気もするけど」
「佐々木の心は一之瀬や椎名の虜になりつつあるからな、気の多い男を振り向かせる為に必死になっていると言った所か」
「うっさいなぁ、いっそお年頃男子からしちゃ可愛い子に惹かれるのは健全ですらあんだろうが。つーかテメェはどうなんだよ」
「今はお前と遊んでいる方が楽しそうだ。……まあ、機会があるなら満更でもないが」
「ハッ! モテない野郎共御用達の常套句使っちまってよぉ、彼女を作れる自信が無いだけなんだろうがその発言する奴ってのはよぉっっっごぉぁ……」
脛を蹴られた、めちゃくちゃ痛かった。
「これまで坂柳との共闘を拒んでいたのは、何かのポーズか?」
「未だに嫌だが?」
「なら何故だ」
「あー……これはどっちが結果4を先に奪うかってゲームだ、坂柳よりも先に奪っちまえば共闘していたという事実は消える。だって俺はあいつの関与も関係無しに結果4を手に入れるだけなんだからな」
「賭博プリンスらしからぬ苦しい詭弁だな、坂柳の為になら自らの信念も曲げるか、どんだけ坂柳大好きなんだお前」
「……も、元々、大した信念でもないしぃ」
「勝ち方にも拘る佐々木らしくない発言だ」
「…………退屈な状況に落ち着かせたのは俺だし、その、坂柳がゲームを楽しめないのは……ちょっとね」
「そっちが本音だな? いい加減にしておけよバカップルめ、今すぐ無糖のコーヒーを買って来い」
そして迎えた第四回目のディスカッション。
大した作戦も思いつかないまま臨んだ乃亜は、しかしディスカッションが始まった直後、坂柳とのゲームへの勝機を見出していた。
「あー……何でだ?」
「どうかされましたか?」
「……いや……都合が良いっちゃ良いのか……?」
真鍋の怒りが再燃している、かなりキている、周りを見憚らずに軽井沢を睨んでいる。これならかなりやり易くなったと踏むべきか、マネーゲームなどという安易な手段に手を染めることが無くなったと思えば良い、のだが。……軽井沢の近くに居れば抑止力にはなる、問題は無いだろう。
───さて、気分を切り替えて。
「今日はババ抜きなんかどうかなー?」
「頑張れ、トランプは貸す、俺は読書しとく」
一之瀬からの提案に、目線すら合わせなかった。
乃亜は、絶対に近い拒絶の意志を灯していた。
「佐々木くんってババ抜きが嫌いなの?」
「嫌いじゃないが、ババ抜きだけはやらん! 絶対に絶対だ! ぜぇぇったいにやらんぞ!」
「えー? どうして? 一緒にやろっ?」
「うんっ!!!!!! 一緒にやるぅ~!!!!!!!!」
人との繋がりを拒むこと、人との繋がりを絶つこと、それはやはり人としてあるべき姿ではないのだ。
つまり一之瀬に『やろっ?』とか、そんな可愛らしく言われちゃ前言など破却するのだ、人は可愛いには弱いのだ───了承してから後悔した。
勝負事に関して、下手な加減などできない。佐々木乃亜とはそういうイキモノだ。
よって、この結果は見えていた。
「あがっちったわ」
「え、早っ!」
軽井沢の驚愕の声が、隣から耳へと突き刺さる。
ゲーム開始から5分経過した頃だった。気不味そうに宣言する乃亜は、手持無沙汰に坂柳から奪ったままの帽子のリボンを弄る。
「トランプゲームは俺からすりゃヌルゲー過ぎんだよ……みんな顔色丸見え……つまらん……」
「運の要素があるなら佐々木くんでも楽しめるかなって思ってたけど……ダメだったかな?」
「運だぁ〜? ……どのカードが誰のどの位置に運ばれたとか丸見え……どのカードを欲しがってるとかも分かりすぎる……要らないカードに誘導させれば上がらせずにいられる……つまらん……」
「俺には机上の空論にしか聞こえないんだが……本気で言ってる、のか……?」
「強者の孤独というやつだな」
綾小路、坂柳、一之瀬、ひより……4名以外は、顔色を隠そうという努力をしていないようにすら思える。いや努力はしているのだろうが、有って無いようなもので、穴だらけの障子に隠れているような滑稽さというべきか。
顔色を競うババ抜きは即座に一抜けしてしまうのである、やはり楽しさという意味でならそこまでだ。一之瀬からの誘いでなければ絶対に手を付けていなかった。
「そうでしょうね、乃亜君からすれば、お相手にならない方々ばかりかもしれません」
「あー? ───……ハッ! そりゃ、お前か椎名か一之瀬で及第点くらいかぁ? 他は雑魚しかいないっつーの? 思考ロックしたアホしか見当たらん、脅威になるわきゃねぇ」
坂柳から『思いっきりヘイトを買え』と言われたのだが。
こちらとしても注目を集められるのは都合が良い、であれば、全開でいこう。……一之瀬に悪く言うのかぁ……気が向かないけど……なるべく頑張るか……。せめて最終日の先行を譲ってもらうくらいの報酬は頂くとしよう。
見かねた幸村からの咎言が飛んでくる。
「佐々木、ババ抜き一つで言い過ぎじゃないか?」
「そのババ抜き一つに全力で取り組もうって姿勢がある、或いは実力を隠そうと手を抜いてる様子がある、どっちかなら評価できっけどなぁ、そこそこの本気で取り組んで大した成果も出せねぇアホしかいねぇ。周りの様子を伺おうと努力をしてんのか、してないのかすら見分けがつかねぇ。どっちかも分からん程度なら、ハナからみみっちい努力に意味なんざねぇから辞めとけよ。実力不足の雑魚が粋がったところでなぁ、味方に余計な被害まき散らして迷惑させるだけだしぃ? 無能な味方が一番に迷惑って有名すぎる話だしぃ?
おーい聞こえてんのか一之瀬の取り巻き一号クンと二号クンー? 風見鳥の調子はどうよ? 今日も元気にくるくる回れてるぅ? ヘイヘーイ、クルクル~くるりーん(笑)」
「口悪すぎるだろこいつ……」
「勝負事はいつもこうだぞ」
すると何処からともなく、憤りの色が……一之瀬からの怒りを買うのは新鮮だ、ちょっと楽しい、そうか、一之瀬を本格的な敵に据えるというのは初めてなのかもしれない。
興が乗った、ボルテージは問題なく上がってくれる、そういう気分だった。
「……ちょっと言い過ぎじゃないかな?」
「全然思わん。夜の電話でも再三言ったろ、オウム返しの太鼓持ちしかいねぇなら、使い潰すか切り捨てるべきか、どっちにせよ価値観の全部をぶっ壊すくらいはした方が良いってよ」
「佐々木くんはまだ私達のクラスを知らないだけかもよ? いきなりこの試験だけで全部を判断しちゃうのは早計なんじゃない? ……佐々木くんらしくない言動だけど、目的は何かな?」
「俺に反論一つ溢そうとしないそこのボンクラコンビの話しかしてねぇが? 一之瀬から吹き込まれた命令以外は喋れないんだろうが、それって意見を持たない人形とどう違うんだ? 自分の意見一つも述べられない
顎で別府と浜口を指しながら、悪辣な笑みを浮かべてBクラスを睨みつける。
「そっかそっか残機×39人かぁ、成程ね、そういう
「───成程ね、坂柳さんとそういう作戦で来たってことかなー?」
「……乃亜君、流石にお言葉が過ぎますよ?」
マジかよ、もう一之瀬にバレたのだが。
つーかマジかよ、坂柳からの裏切りも早すぎるのだが。
一之瀬の爆速理解力に楽しくなってきた乃亜、坂柳からも舌を巻いた様子を感じられた、彼女の実力を舐めてはいたのだろう───が、感情を煽り立てるのは佐々木乃亜の本領だ。
クラスのため───リーダーに選んでくれたみんなのため───責任感が強く、他者への奉仕精神が強い、それは確かに美しい、しかしだ。
守るという行為は、転じて、脆弱性を増やすという意味にも繋がる。
一之瀬は、この舌戦の舞台へ乗るしかない、乗らなければ一方的にクラスメイトが攻撃される。
一之瀬が乗らなかったらきっと、乃亜は、笑いながらクラスを詰めていく。
「ハッ! 一之瀬ぇ、テメェの頭が回るのは美徳で長所だがよぉ、肝心のオトモは置いてけぼりだがいいのかぁ? 『みんなで一致団結!(笑)』がスローガンじゃぁねぇの?」
「オトモとかじゃないよ、クラスメイトはみんなが大切な仲間、上とか下なんか無いんだから」
「あー、そうかぁ?」
───本当に綺麗な色してんなぁこいつ。
一瞬、毅然とした態度を示す一之瀬帆波に、心が魅せられる。
乃亜は、茫然とした心境を表情には微塵も出す事はなく、けれど不自然な間を開かせてしまう。
無言で少女を眺める乃亜の机の下で、杖が静かに乃亜の脚を叩いた。……そりゃ任されて引き受けたのは乃亜だ、やるべき役割は熟すが、しかし悪役を押し付けておいてマジでこの女は。
「……少なくともその2匹がどう思ってるかだがなぁ?(イジメちゃってマジでごめーーん!!!! 頑張れ一之瀬ぇ!! 悪に負けるな一之瀬ぇ!! お前は何も間違ったこと言ってないんだよ善良が輝ける一之瀬ぇ!!!!)」
悪い部分の乃亜が暴れながら(通常運転)、善い部分? の乃亜が内心で発言を後悔しまくっている。
だがこれも悲しき
どうせ全力なら、心をへし折る気概でなければ、礼を失するというもの。
「路傍の石に逐一説明の手間を入れるのは面倒だよなぁ───まあ? 一之瀬の思考レベルを理解できない雑魚が悪いって説もあり得そうだと思うんだがよぉ? そこで縮こまってる別府くぅん? ビビった色させちゃってさぁ? どう思うのかくらい言葉にしてみせてよぉ(ごめん別府クン! 明らか君から崩しやすそうだからブン殴っとくね!! マジでごめんね!! 恨むなら自分の弱さを恨め雑魚が!!)」
「っ!? ぼ、僕は「何も言えないのかよ? 一之瀬が何を察したのか欠片でも理解出来たぁ? つーかディスカッション中の君って何かやってた? 現状ではお荷物ですら無いだろ、箸にも棒にも掛からない空気みたいな感じだ、一之瀬任せの風見鶏だなぁ所詮はよぉ」
何一つとして語る機会は寄越さない、これはそういった無力感を植え付ける意味の無い問いかけだ。主体性の無い奴からは、権利を取り上げるという行為が実に良く効く。『その資格は無い』と言わんばかりの態度が、精神へと大きく爪痕を残していくのだ。
お前には現状を左右できない、お前には現状を理解できない、お前には何もできない。
それで黙り込んでいるから風見鶏なんだと、乃亜の言い分が正しいと思い込むように。
理不尽な物言い───けれど、そこには一定の説得力がある、そう思い込ませれば乃亜の勝ち。
「気にしないでね別府君、適材適所だよ。佐々木くんの相手は私がする、その方が佐々木くんにとってもいいでしょ? それとも私相手じゃ言い負かす自信も無いのかな?」
「言ってくれるなぁ最高の女め。ふーむ、適材適所ねぇ、そうかもなぁ、そんでもって議論に於ける方針もクラスの於ける方針も他の連中が喋る内容もぜぇーんぶお前が一人で決めちゃった方が早いし確実だもんなぁ? 分かるぜぇ? お仲間が枷になっちまうんだよなぁ! 思った通りに動けない時はいつだって他人の存在が絡まるよなぁ!」
「私はそうは思わない。佐々木くんの考え方と私の考え方が大きく違うってだけで、言い切って決め付けるのはあまりにも傲慢だよー? 自分以外の色んな視点があるからこそ見えてくるモノもある、でも個人主義の観点だけだと見落としてしまうモノも多いんじゃないのかな? 確かに佐々木くんは目の届く範囲が人よりも広いのかもしれないけれど、まさか全部を見通せるとは思っていないでしょ? ───佐々木くんだからこそ、1人じゃ全部を掴む事は出来ないって理解していると思うけどね」
うーむ耳が痛い、しかし楽しいな。
「ハッ! 違ぇんだよ、全部を掴む事が出来ねぇからこそ、全部を掴む為の試行錯誤が最高に楽しいんだろうが!」
「仲間が居れば、もっと色々な事が試せると思うよ」
「いいや枷だね、お仲間さんってのは俺の取りたい選択肢を狭める。……まあだからこそ? 大勢の足手纏いを引き連れた縛りプレイが楽しいってのもあるけどよぉ?」
悪と善とでは取れる手段が違い過ぎる、容赦というものを前提に置かない悪の言動は、善が突かれると弱い部分を容赦無く潰しに行けるのだ……潰せてしまうのだ、情けというものが無いから。
テンポの良い会話が大好きな乃亜は、一之瀬の憤りさえも燃料として、彼女から稼いでいた信頼を薪として使い潰して、一之瀬帆波が突かれたくない脆弱性を探し当てていくために思考速度が加速を続けて思考精度が冴え渡っていく思考深度が更なる奥へと突き進む。
状況を使うのなら、やはり、お荷物を踏み躙った方が、易い。
一之瀬帆波は強敵だ──────潰せる時には潰した方が──────楽しいだけか、これは。
「一之瀬もこっち側の素質はあると思うんだけどなぁ……
「大切な仲間だよ、要らないなんて口が裂けても言わない」
「あー、悪ぃ、
「答える必要はないかなー? この程度は単なる揺さぶりに過ぎないもんね」
「
「ッ」
「ほらなぁ? ここまで言っても一之瀬以外には喋らせようとしない! 酷い女だなぁ?(お前だぁ!! 酷いのはお前だっつーのぉ!!!!)お仲間さんを信用してやれよぉー(誰かぁー! 早く俺の暴走を止めてぇー!!!!)」
一之瀬は言い淀んだ、それは隙だ、乃亜を前にした今、別府と浜口の存在は荷物になるという大なり小なりの肯定だ。一之瀬の感情が認めたくなくとも、彼女の優秀な頭脳はその事実を正しく認識しようとしている……意図してその認識がズレるように努力している、眼を逸らしたがっているのだ、一之瀬は優しいから。
そのズレを思い切り殴りつけて、限界までひずませて、一之瀬の抱える価値観の全てを今この場でぶち壊して抉り出して完膚なきまでにズタボロにして、彼女自身の口から決定的かつ不可逆となる最悪の一言を引き摺り出してやろうと、乃亜の中の嗜虐性を限界まで引き上げようとした瞬間。
口角が三日月に歪んでいく、乃亜に─────────ぽすん、と。
乃亜の頭を優しくはたいたのは、坂柳の小さな手。
「そこまでですよ乃亜君、これ以上は単なる喧嘩になってしまいます。もうディスカッションの時間も終わりますからね」
「お前はマジでさぁ……(ガチ侮蔑)」
「んぅっ」
乃亜が蔑みの目をさせて見下ろした途端、坂柳はすぐさま顔を俯かせてしまう。
猫が丸くなる時のような声を喉の奥から漏らして、背筋をぞわぞわと震わせる坂柳。……ちょちょちょまってまってまって、何で頬赤らめながら全身をブルブルさせてんの? 何で吐息を荒くさせようとしてんの? こっちは批難の視線を浴びせたつもりなのだが? 精神ダメージをドーパミンへ変換してんの? 無敵かよこいつ。
とんでもない変態性を目撃してしまった神室と共に戦慄していると、こほんと咳払いをした坂柳は、キリッとした表情で一之瀬へ声を掛けた。
「……一之瀬さんも、それでよろしいですか?」
「───……うん、ちょっと熱くなっちゃったかも」
この性悪女、美味しいところを持っていきやがりました。
だってほくそ笑んでいますよこの坂柳、内心では「花丸を差し上げますよ乃亜君」とか悪い笑み浮かべてますよどうせ。良い警官と悪い警官の良い方を持って行っただけであって、そもそもの発端はこの邪悪シルバーロリなのである。乃亜をけしかけた最大の邪悪は坂柳有栖、そこをキチンと認識して欲しい。
元凶を理解できるのは、それこそ一之瀬と、綾小路とひよりくらいしかいなかった。
周りの色は「坂柳さんってば優しい……あの2人を止めたとは……なんて頼れるロリだ……」みたいな色ばっかりである、顔か、容姿がそうさせるのか。神室だけは騙される事なく、怪しい宗教家を見るような目つきで坂柳を睨んでいた、というか変態っぷりににビビってた。やはり神室こそはナカーマである。
「俺は発言の撤回はしない」
「だよね……知ってたよ、佐々木くんはそういう人だもんね」
「飾り付けはしたが発言の全ては本心だ。お前だって俺の言いたい事が分かってんだろ、早いところ意識改「乃亜君、これ以上はいけませんよ」
単なるアドバイスだって理解した上で遮りやがった、塩を送るなってか? 一之瀬になら『さしすせそ』10年分だって送れる所存だが。
Bクラスとの険悪な雰囲気を散らすことも無く、四回目のディスカッションは終わりを告げた。
彼女は、何も言わなかった。
言葉にし難い切なさの色をさせながら、一之瀬は乃亜の表情を伺っている。だが肝心の乃亜が、特筆するほどの情を抱いていなかった。だってこれはゲームだ、ゲームの一環、戦略上の一手、なればこそ加減も呵責も無く、対戦相手へ斟酌する行為など塵にも劣る。
心の底から不思議そうに首を傾げて返すと、一之瀬は目を伏せて、離席をする。
繋がれた名残惜しそうな視線を途切れさせて、Bクラスの三人は部屋から出ていった。
「流石は一之瀬だ、許してくれるとは心が広いこった」
「私には怒ってるようにしか思えないんだけど……」
「テメェなんかにゃ一之瀬の太平洋級の心の広さは理解できないんだろうな、テメェの器ってさぞかし狭量って感じだもんな、流石は軽井沢だ、齧歯類サイズの心の大きさだぜ」
真横でワーキャー言い始める軽井沢を無視しながら、一之瀬が退室前に見せた様子を頭で諳んじてみる。
嫌われてしまった、と言い切れる色はしていなかった。
悪感情を抱かれる自覚はしている、嫌われたところでまあ仕方が無い、嫌われてしまってもしょうがない、言ってしまえばそれで片付くだけの発言に走っていた。逆に言えば、嫌われるという確信を以て詰めていったのだが。
存外、一之瀬はまだ佐々木乃亜を信じてくれているらしい。人となりを鑑みれば、ああいった言動を押し付けられても許せる───そういう人間だから、と、納得をしているように感じられる。
諦められているのかどうかはさておき、嫌われていないのなら助かった。善人には嫌われたくはない乃亜なのだ、じゃあ言動を直せと言われても知らないのだ、ありのままの乃亜を受け止めて欲しいと切に願うのだ。
「最終ディスカッション、先行は俺に譲れよ」
「何の話してんの?」
「お前にゃ理解できない高次元の話」
再度騒ぎ始める軽井沢を無視しながら、坂柳へ軽く一睨みをぶつけた。
口元を上品に手で隠しながらも、愉快そうに柔らかく笑う彼女はやはり性格が悪かった。
「もちろん。痛快な一幕をお見せいただき感謝したいくらいです」
「……あんた、一之瀬のこと好きだったんじゃないの?」
「一之瀬は気に入ってるけどゲーム中の小競り合いに手は抜かねぇ」
「そんな理由であれだけ言えるの? 頭の中どうなってんのよ」
携帯を大げさに操作して、人の脳の構造イラストをネットで検索し、無言で神室に見せてみる。……唾を吐き捨てるような眼で見られた、ひどい、分かりやすい形で見せてあげたのに。
神室の反応を、坂柳と一緒になってへらへらと笑いながら眺めていると、隣の軽井沢が席を立つ。
携帯を弄りながら、室内から出ていくポニーテールの背中。
「あー?」
軽井沢の退室を見て、おもむろに席から腰を上げる真鍋を始めとしたCクラスの三人。
ひよりはその様子を見て、溜息を吐きながら、乃亜を見た。
「めんどくせぇな」
色が非常に芳しくない、こうなった場合の徹末には予想がつく、今の自分には耐えられるだろうか。
耐え忍んで証拠を獲得する、それを使って脅して大人しくさせる、それが事態を丸く収めるための最適解。面倒な物事であればあるほど感情で動くことは悪手だ。カッとなってぶん殴った日には即刻退学への道を進んでしまうかもしれない、龍園ならここぞとばかりに嬉しがって抉りに来るだろう。……ちょっと楽しそう、かも。
「返す」
「では私も」
頭に乗せていたベレー帽を、坂柳の頭へと乗せた。すると坂柳が手を差し出してくる、乃亜も手を重ねるように差し出すと、手の平の中に、馴染んだ感触の硬貨が乗せられた。
コインを痛いほど握って、意識を明瞭にする。
大仰な動作で、重い腰を上げた。
乃亜の意図を察してか、綾小路と幸村が声を掛けてくる。
「穏便な事にはならなさそうだな」
「俺も行こう……嫌な予感がする」
つくづく面倒な女である。
「それにしても……ふ、ふふっ……見ましたか神室さん? ふふふっ、一之瀬さんの、あの痛ましいお顔を……うふふ……信頼していた筈の乃亜君からあんなにも言われてっ……! ……あはっ……憐れで、惨めで…………ふふっ、ふふふふ…………ご愁傷さまでしたね」
「あんた、どれだけ性格終わってるのよ」
「後は、最終日までに───ふふっ……やはり、乃亜君とのゲームは心が躍りますね」
真鍋一味に絡まれている軽井沢の様子を、陰から隠れて観察している、そんな時、ふと思ったのだ。
正義とは、悪と表裏一体である、と。
正当な報復が、人を殺すこともあるように。悪人の取った手段が、結果的に他者を助ける事もあるように。
───軽井沢が、肩を突き飛ばされてよろめいた。
「……チッ」
正しさを突き詰めていくと、辿り着くのは悪意の駆逐だ。正しさを清くするためには、黒い染みは漂白していかなければならない。正しさを繕うためだとしても、やはり悪意を白く塗り潰さなければならない。正義と悪は同じ面では共存が出来ない、混ざらない白と黒、まるでコインのように裏と表でしか存在することが出来ない。背中合わせで、違う世界を眺めることしかできない。
だから乃亜は、善が好きだ。時として悪をすら飲み下す事が出来る、器用に生きられる、自由に生きられる、世界を気ままに生きられる、だから善人に憧れてすらいるのかもしれない。
だから乃亜は、悪がそこそこ好きだ。時として善行を成し遂げる事もある、器用に生きられる、自由に生きられる、世界を気ままに生きられる、だから悪性の側である自分がそこそこ好きだ。
───真鍋に憤りの色が見える、肩を先程よりも強く突いて、壁に軽井沢の背中が音を立ててぶつかった。
「……頭いってェな」
───リカとやらのため、それは事実なのかもしれない。だが、それはもはや口実だ、嗜虐心を晴らす体の良いサンドバッグとして軽井沢へ狙いを付けている。日々のストレスの捌け口として使おうとすらしている……じゃあやっぱ圧制を強いている龍園のせいじゃねぇか、頼むからもっと上手くやってくれ。
正義は、邪魔だ。悪を受け入れず、善を踏み潰す。生き方は縛られる、不自由に生きるしかない、世界を堅苦しい恣意で縛り付けようとする、だから正しさを振りかざす輩は苦手だ。
理想に縛られて生きるなんて馬鹿だ、正しさに目を曇らせて歩くなんてアホだ、自分が絶対的に正しいと信じられるような人間ほどに薄っぺらい存在は居ないだろう。
だから、目の前で『誰かのため』を振りかざす真鍋は、乃亜が苦手とする部類の生き物で。
困ったことに、乃亜は彼女の行い自体には───乃亜は、大して憤りを
「おい……不味いだろ、あれ」
「まだ自業自得の範囲内、手を出すにはちと早い」
真鍋が笑みを浮かべながら軽井沢の前髪を掴んだ姿を見た、その瞬間。
内側から蠢く頭痛と重なるように───。
「チッ」
「待て」
予想していたように、二の腕を掴まれた───頭痛がする。
綾小路に掴まれた腕など、いつもの頭痛に比べれば、大したことが無い。
「お前、何してんの」
綾小路から肩を強く掴まれる、ただ窘めるだけにしては込められた腕の力が強い。
彼の意図を正しく読み取った乃亜は、だが、従うつもりなど毛頭無い。
「もう少し様子を見よう」
「断る」
一考に値しない言葉へと即答した。
腕を振り払う為に、乃亜は強く身を捩る。だが鍛え抜かれた綾小路の腕力は、ブレることなく乃亜の動きを静止させた。軽井沢への助けを封殺させようという色が見える、それほどに様子を見たいのか、彼女の傷でも知りたいのか。……彼の目指すところが見えてきた気がする。
ホワイトルームの事情を少なからず知る乃亜だからか、容赦なく、力と技術を注ぎ込まれて、乃亜は少しも身を乗り出せずにいる。肉へ指が食い込むような痛みが伴っていた、それだけ本気で止めようという事か。
綾小路の意識は、乃亜の上半身を止める方向性へ向いている。
だが、足は当たり前のように自由だ。
ドゴンと、動きの前触れを潰しながら跳ね上がる右足が、手頃な壁を強く蹴り上げた。
乃亜の存在を誇示する大きな音が、真鍋達の耳へと届けられた。人の気配、それも意図された威嚇の音、案の定警戒にも似た色を乃亜の方角へと向けてくる。
「俺は我慢が出来ない」
「そうだったな」
苦言も無く、綾小路はすんなりと現況を受け止める。
乃亜は彼を一瞥する事もせず、泣き出して座り込んでいる軽井沢の元へと歩き始めた。
靴をわざと床へ擦り付けて音を鳴らしながら、一歩一歩を自己主張しながら踏み締めていく。不良の歩き方というのは不思議なことに大体同じだ、石崎と龍園の歩き方が、ふらふらと、世界を舐め腐ったような姿勢なように。
乃亜も同様に、
「へいへいガールズゥ? 楽しそうな事してそうだけどォ?」
「なっ、何よ……佐々木くんには関係ないでしょ」
「まずはその手を離せよ女ァ」
軽井沢を掴む手を睨めば、すぐさま真鍋の手は引っ込められた。
「龍園の命令ェ? それとも龍園の指示の外で遊んでるだけ?」
ちゃちなやり取りは面倒だ、言葉を交わすのは面倒だ、駆け引き一つも面倒だ。
コレには、その必要が皆無だから。
頭脳を回す努力も必要ないから。
「あいつから聞いてない? 俺、クラスメイトに手を出されたら、そこそこブチ切れるとかって話を───さァッ」
「ヒっ───」
もう一度、今度は目前で見えるように、壁を強く蹴り付ける。
鈍い音がこじ開けられる、誰かから怯えたような声が絞り出される───同時に薄かったらしい壁に穴が開いた、またやっちまったぜ。
「ぼ、暴力でもふるう気……!?」
「まあテメェら如きに脳みそ使うのってクソ面倒だしィ、
足に着いた壁の破片を振り落とすように、つま先を床へ、とんとんと軽く叩く。
蹴りの行き先が次にどの方角へ向かうのか、勝手な予想が彼女らの中で繰り広げられていく、浅い段階で想像は止まって、浅い結論に至って勝手に怯える。乃亜が三人の目を見ると、怯えたように壁の穴へと視線を逸らす、そして再び無駄に頭を回して、的外れな結論に至って無駄に怯えて終わる。
つまんねェ女共だった、坂柳ならビクともしないのに。
疲れた表情を隠すことなく、手を払うように動かすと、恐怖に塗れた色を更に濃くしている。……いや、ビビる前に早く消えろよ、これってそういうジェスチャーじゃん。
「消えろ」
路傍の石にそう言い切った後、もう乃亜は、真鍋達へ意識を向けることもしなかった。
真鍋達が逃げるようにこの場を後にした後……座り込んだ軽井沢を見下ろす形となった乃亜だった。
息を震わせて、涙を隠すように顔を俯かせる軽井沢。
乃亜の存在には気が付いているだろうに、見上げることもしない。乃亜へ弱みを見せることを嫌がって周囲の状況の確認すらしない。
理不尽に打ちのめされて、蹲って身を守るようなその態度。
恐怖に煽られて怯えに体が硬直している、何も出来ず、何も考えず、何もしようとしない。
頭痛がする。
「立てるだろ」
「……」
「立てよ齧歯類」
「……バカにしてんの!?」
乃亜が差し伸べた手を、軽井沢の細い手が弾き飛ばす。
パチンと鳴った音を皮切りに、軽井沢は勢い良く立ち上がった。
「私はネズミじゃない!」
「おー、立派な二足歩行も出来んじゃん、頑張れ霊長」
スタスタと歩いて、ポニーテールはこの場から立ち去っていく。
声は震えていた、手は震えていた、膝は震えていた、意志によってきつく締めた目尻も震えていた。
だが軽井沢は自らの意志で立ち上がり、歩き出した、歩き出せた。
───似てるけど、ちょっと違って、一安心。
「俺らも行こうぜ、何か疲れた」
「軽井沢は……放っておいて良いのか?」
「アホアホユッキーめ、もしやチミはノートと教科書だけがお友達だったクチだな? 女の子の強がりってのはなァ、男子禁制と相場が決まってるんよ。シクシク泣いてる姿をジロジロ眺めようってのかよアホが」
「むしろ佐々木なら積極的に抉って暴き出しそうだとすら思ってたぞ」
「そら敵ならね、でも軽井沢はクラスメイト、つまりは味方」
『クラスメイト』のためには尽力する、これは規定だ、佐々木乃亜が高校生活を送る上で必須となる前提の線引きだ。
「脆い部分を変に突いて使い物にならなくなったらどうしてくれる、張り合いのあるクラスメイトが1人減るんだぞ、俺の高校生活の楽しみが減るってことだぞ、冗談じゃねぇ」
「……少しだが、佐々木の性格が何となく分かってきた気がする」
「笑わせんじゃねェよガリ勉メガネが、7年近くの時を一緒に過ごしたって理解には遠いのが人間だぜェ? 教科書としかマトモに向き合ってこなかったようなちゃっちい価値観で俺が分かるってェ? すげぇなそりゃよォ! チミならおヘソでロイヤルミルクティーだって沸かせちまうだろうなァ?」
「予想通りだ、1に対して数倍の棘で返ってくる……さてはサイコパスだなお前」
「どうしてそうなっちゃうのん」
ふと、自分の手を見る。
ふと、自分の足元を見る。
大丈夫。人は転がっていない。
大丈夫。殴られる事に怯えて蹲る女性はいない。
大丈夫。大丈夫。きっと大丈夫。自分は全然大丈夫。
頭痛はする、蠢くモノを押し留めようとして、内側が圧迫されている。
だから乃亜はコインを痛いくらいに握り締めて、確かな存在感を手の中へ閉じ込めるように、温度の無い一枚の硬貨へと温度を感じているように、誰かがその場所にいるような安堵を手に入れるように。
「あー……どうにかすっかぁ」
「……」
ポケットの内で握った存在感が、頭痛の霞みを吹き飛ばす。
その様子を、ポーカーフェイスは静かに観察していた。
息が出来なかった、子供の手が、そうさせる。
視界は白かった、見慣れたこの部屋の景色が、そうさせる。
腹部へ打ち込まれる拳が、オレの根幹にあるモノを潰すために奮われる。
子供の欲望が、そうさせる。
「あははっ」
それは笑っていた。
爽やかに、軽快に、嬉しそうに。
楽しそうに、笑っていた。
みぞおちへ捻じ込まれる一撃に、胃液を嘔吐した。
もう胃の中の内容物など存在していない。液だけを吐き出すためのタンクと化していた。
「ははっ、あ、はははははははははははははははっ」
執拗に、遠慮が無い。
常識があれば、良識があれば、心があれば───人間なら。
ブレーキは存在するはずだ。歯止めというものは何事にも存在しているはずだった。
けれど何度でも殴りつける、それでも何度でも殴りつける、だとしても何度でも殴りつける。
腹を、骨を避けるように、臓物だけへと向かった拳が何度も。
素人の拳だったはずなのに、3度目に奮われた頃からだろうか、その拳の重たさには、明確な技術が載せられていた。4発目には更に精度を上げて、5発目にはまた更に精度を上げて、どんどんと、人を殴るための技術を天井知らずに搭載していく。
その全てが、オレの腹部へ、殺到していた。
「あはははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは」
笑って喉を使うのは、無駄な行為だ。声を出すという行為は無駄に体力を消耗する、動きながらなら猶更だ、それを知らない素人なのだろうが、それを動きの中で理解できないような存在とも思えない。
でも、それは、ずっと笑っていた。
効率的な動きで、非効率に腹部をしつこく殴る。
効率的な拳を、非効率に笑い続けながら奮い続ける。
理解が出来なかった、単に効率だけを求めた動きなら分かる、非効率なだけな要領が悪いのなら分かる、でも、まるで、非効率な部分を楽しむ為だけに効率的な行動をとる、そんな回りくどい在り方は理解に及ばなかった。
そんなやり方は、知らなかった。
そんな生き方は、教わらなかった。
こんな生き物の存在など、予想もしていなかった。
「あはははははァあーははははははははははははははははははははははははははははははははははははあはっ、あはぁ───はははははははははははははははははははははははは」
虐げることを楽しんでなどいない。
肉を潰す感触自体が楽しい訳でもない。
綾小路清隆という、今日出逢ったばかりの他人が憎い訳でも無い。
それは、ただ、人間の中の何かを絶やすことに必死になっているだけだった。
人間の中の根底にある何かを、自らの手で、絶やすことが出来るという事実を楽しんでいた。
人間なら誰でも良かったのだ───偶然、都合の良い相手がオレだっただけで。
「……」
「あはははははははははははははははははははははははははははははははははは」
「…………」
嘔吐感ではない自らの意志が、オレの口を、少しづつ、動かしていた。
言葉にはならない何かがあった。
言葉にしたくてもがこうとする誰かが居た。
どうしても、口を動かすためだけに、残された力を使いたくなったオレがいた。
腹の底を拳が穿つたび、熱くて冷たい感覚がせりあがっていく。
同時に、熱いものが、全身に灯っていく。
同時に、冷たいものが、全身を覆っていく。
「………………」
「あははははははははははははははあははははははははははははははははははははははははははははははははははああはははははははははははははははははははは」
「……………………」
抵抗の余地もないのが不思議だった。
同い年でこうまで出来るには、どれほどに過酷な教育が施されるのだろうか。
迷いが一つもないのが不思議だった。
命令されたからが理由にしては、あまりにも感情的すぎた。
素人だった動きが加速度的に最適化されていく姿が不思議だった。
それは、学習による追及を以て極めていく自分とは、隔絶した性質に思えてならなかった。
冷たいものが、一つの力を成して、問いの形を象る。
「ど………………ぅ……し……………………………………て」
「知ーーーーーーらねェェェェェェェよォォォッッッッ!!!!!! あははっはははははははははあははあはははははははははははははははははははははははははははははははあははははははははははははあはははははははははははははははははははははははははははははあははははははははははははははははははははははははは」
それは、何も答えてはくれなかった。
模範解答なんて、そも、持ち合わせる気も無かった。
その衝動への答えなんて、出そうとすら考えていなかった。
自分の存在に、疑問の一つも持ち合わせず、世界から逸れる在り方を、不明瞭なままでも良しとしていた。
理解できないものが、理解できない強さを備えて、理解できない理屈で襲ってくる。
オレはこの日、理解できなかったものを、知った。
悪魔から、
生体反応が途切れようとする肉体を保たせながら、掠れながら暗転へと引き込まれそうな白い視界を保ち続けて、がくがくと痙攣する全身へ命令を続けた。その瞬間を見逃してはならないと、全身を熱くさせる何かが、オレの意識を辛うじて灯し続けてくれる。
我に返った悪魔が、遠くを見つめながら、呟く。
その視界には、やはり、オレの存在など映っていなかった。
「───────普通には生きられないな、俺」
普通ではない悪魔が手放さざるを得なかった、『普通』というモノ。 ……
オレはこの日、白い部屋の中では手に入ることの無かったはずの、指針を得た。
最期に一度だけ、諦めたように笑っていた悪魔が、それを教えてくれた。
アニメ見てたら「桐山先輩を虐めてぇ」ってなったし「宝泉ちゃんも虐めてぇ」ともなったから最低でも2年生の無人島まではやる。でもこのペースだと年単位かもしれぬ。最高か?