織田家の嫡子~藤左衛門家の特異点   作:デトロ!開けろイト市警だ!

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001戦国時代転生

朝、目が覚めた時から、何かがおかしかった。

 

いや、目が覚めた時からというより、たぶんもっと前からだ。

物心がついた瞬間から、俺の中には、うまく言葉にできない引っかかりがあった。

 

目の前にいる大人たちは、俺を当たり前のように又八郎と呼ぶ。

それ自体は別に不思議じゃない。幼名なんて、この時代の子ならそんなものだろう。

問題は、その「この時代」という言い方や「幼名」なんていうなじみのないものが、俺の中でもう自然に出てきてしまうことだった。

 

普通なら、そんなことは思わない。

 

子どもは、自分が生きている世界を最初から当然のものとして飲み込む。

畳の匂いも、障子越しの光も、冬の朝の白い息も、女房たちの着物の擦れる音も、みんな最初からそこにあるものだ。

本来なら、それでいいはずだった。

 

なのに俺は、ときどき妙に比べてしまう。

 

畳。

障子。

行燈の油の灯り。

紙の手触り。

鉄ではなく木の匂い。

窓の外に、電柱もなければ、舗装道路も、車の音もないこと。

 

比べている相手が何か、そこまでは分からない。

分からないくせに、違うとだけは分かってしまう。

 

その朝も、乳母が女房へ何気なく言った一言が、胸のどこかへ刺さった。

 

「天文も、もう――」

 

その先は、ちゃんと聞き取れなかった。

だが、そこだけで十分だった。

 

天文。

 

俺は寝巻の襟を握ったまま、しばらく動けなかった。

 

天文。天文台とか天文部で夜通しあの子と一緒に星座を見ようとか、そんなチャチなもんじゃない。

 

令和じゃない。

平成でもない。

昭和でもない。

 

天文。

 

そこで、ようやく、言葉にならなかった違和感の輪郭が繋がった。

 

ここ、過去だ。

 

その瞬間、背中がすっと冷えた。

 

前の人生の記憶が、具体的に残っているわけじゃない。

どこで働いていたとか、誰と暮らしていたとか、そんなものは霧の向こうだ。

けれど、少なくとも俺は、こんな世界を最初の世界としては知らない。

 

畳は懐かしいのに、初めてではない気がする。

灯りは珍しいのに、貧しいとも不便とも、最初から知っているみたいに感じる。

そして何より、元号が天文であることに、俺は怯えた。

 

天文って、戦国時代じゃないのか。

 

その認識が浮かぶと、今度は別の言葉が芋づるみたいに続いた。

 

戦国。

織田。

尾張。

 

そこまで来ると、逆に少しだけ楽になる。

知っている単語だ、と思ったからだ。

 

織田といえば、織田信長。色んな漫画や小説、ゲームにも引っ張りだこ、女体化なんかなんのそのの第六天魔王。

 

たぶん、誰でもまずそこへ行く。

俺も行った。

行って、それで終わるはずだった。

 

だが、終わらなかった。

 

廊の向こうで、家人が言う。

 

「小田井様の若君が」

「藤左衛門様のお子ゆえ――」

 

小田井。

藤左衛門。

 

そこで、また足元が抜けた。

 

織田って、そっちかよ。

 

信長のいた巨大な織田家、というより、その中の一つ。

しかも、上小田井で有名な、あの小田井城の織田家。

俺が生まれたのは、いきなり信長が出た弾正忠家の嫡流ど真ん中じゃない。

清州三奉行の一角、藤左衛門家だった。

 

いや、待て。

上小田井で有名って何だ。

何が有名なんだ。

俺は何と比べてそう思った。

 

思考が自分の中で滑る。

分からないのに、妙に確信だけがある。

それがいちばん気味が悪い。

 

俺は幼い手で布団のような着物のような不思議ななにかを押し、起き上がった。

小さな身体は思うように安定しない。

視界も低い。

襖の取っ手が、妙に遠い。

 

本当に、子どもなんだ。

 

戦国時代に。

織田の一門に。

織田藤左衛門家の又八郎として。

 

冗談みたいだった。

けれど、朝の冷たさも、柱の木目も、遠くで鳴いた鶏の声も、何一つ冗談じゃない。

 

女房がこちらに気づいて、柔らかく笑った。

 

「若、もうお目覚めでございますか」

 

俺は一瞬、その顔を見た。

この人は何も知らない。

俺が今、頭の中でひっくり返っていることなんて、知るはずもない。

 

だから俺も、子どもらしく見えるように、小さく頷いた。

 

「ああ」

 

声まで幼い。

それがまた、妙に現実だった。

 

女房はそれで満足したように、湯を持って来させ、着替えの支度を始める。

俺はされるがままに腕を通しながら、必死で考えていた。

 

戦国時代。

天文。

小田井城。

藤左衛門家。

又八郎。

 

もし本当にそうなら、俺はずいぶん妙なところへ生まれたことになる。

天下人の家に生まれた、でもない。

どこの馬の骨か分からぬ農家の子、でもない。

尾張の、それなりに重い家だ。

しかも織田一門の中で、中心に近すぎず、遠すぎもしない。

 

良いのか悪いのか、判断に困る位置だった。

 

ただ、一つだけ分かることがある。

 

ここは、いつまでものんびり子どもでいていい場所じゃない。というか、現代っ子の感覚が刷り込まれているので、ついつい戦国時代である今と遠い現代を比較してしまう。

 

いや、今すぐ何かができるわけじゃない。

こんな短い手足でできることなんて知れている。

飯を食って、寝て、転んで泣くのがせいぜいだ。

けれど、それでも、何も知らぬまま育つことだけは、たぶん許されない。

 

俺は鏡代わりの水盆に映る自分の顔を見た。

丸い。

幼い。

どうしようもなく、又八郎だ。

 

それでも、その奥にいるのは、たぶんただの幼子ではなかった。

 

織田家に生まれてしまった。

しかも、よりによって藤左衛門家だ。

天下のど真ん中ではないくせに、確実に信長とは近くて遠い場所ではある。

放っておいても、時代の渦が勝手に避けてくれる場所じゃない。

 

その事実だけが、奇妙なくらいはっきりしていた。

 

俺、幼名又八郎は、まだ何者でもない。

 

だが、ここが天文の世で、小田井城で、藤左衛門家である以上、何者にもならずに済むはずもなかった。

 

 

親父はどうやら織田左衛門佐というらしい。

 

左衛門佐?

 

誰だよそれ。

 

いや、誰だよって言われても、たぶんこの家の中では俺の方が圧倒的に物を知らない。

向こうは当たり前みたいな顔で「左衛門佐様が」「左衛門佐殿が」「殿が」と言っているのに、こっちはそのたびに頭の中で引っかかる。

 

上総介とか弾正忠なら、まだ分かる。

いや、正確には分かった気になる、だ。

戦国。

織田。

尾張。

そこまで来れば、どうしたって後世の知識はまず信長へ寄る。

 

でも左衛門佐って何だ。

そんな名前で有名どころ、すぐには浮かばない。

 

諱が分かるわけでもない。

この時代、家の中でほいほい実名が飛ぶほど軽くもないらしい。

まして俺は幼子だ。誰も親切に系図を広げて説明してはくれない。

 

だから、俺は一人で勝手に考えるしかなかった。

 

小田井の又八郎。

天文生まれ。確か天文のあとが弘治で、厳島の戦いがあった一五五五年のはず。とすると、今は一五三〇年代半ばから一五五〇年代初頭までということだ。

藤左衛門家。

 

……ひょっとして俺、信直に生まれたのか?

 

そう思った瞬間、少しだけ筋が通った気がした。

 

藤左衛門家の後継。

尾張の一門。

小田井。

 

うん、ありそうだ。

いや、待て。ありそうって何だ。

俺は誰の知識で「ありそう」と思ってるんだ。

 

だが、その仮説は長くもたなかった。

 

家人たちの何気ない話が、次の瞬間にはそれをひっくり返したからだ。

 

「若の翌年には、またお子が――」

「おめでたいことで」

「兄弟が近う並ばれるのは、家にもよろしかろう」

 

翌年に、弟が生まれてた?

 

俺は、危うくその場で変な声を出しかけた。

 

へ?

翌年? 信直って確か一人っ子だったよな? で、伊勢の一向一揆との戦いで戦死して、隠居していた親父がまた出張って来たっていう。

じゃあ俺が信直本人、じゃないのか?

 

しかも会話の流れからすると、当然だがそれは別に珍しいこととして語られていない。

藤左衛門家に又八郎がいて、その翌年にまた男児が生まれる。

家としては自然な慶事として受け止められている。

 

おいおいおい。

じゃあ俺、信直じゃないのか。

その前か?

横か?

もっと古い世代か?

 

幼い頭で系図を追おうとして、すぐにこんがらがる。

無理もない。

元の人生の記憶がはっきりしていればまだしも、あるのは戦国っぽい単語への薄い反応だけだ。

ウィキだの年表だのが目の前にあるわけでもない。

むしろ、うろ覚えのまま戦国の織田へ放り込まれている。

 

そんな状態で、さらに追い打ちが来た。

 

「それに、三つ下には那古野のお城へも姫様がお生まれで」

「弾正忠家も、ますます賑やかでございますな」

「さすがは器用の御仁よ」

 

三つ下に、那古野の城に、弾正忠家に、女の子が生まれた。

 

そこまではまだよかった。

器用の御仁、って確か信長の親父の信秀だよな。信秀って、たしか娘も多かった気がする。

娘だけで十人以上いたんだっけ、くらいの雑な記憶はある。

だから、ああ、女の子ね、ぐらいで受け流しかけた。

 

だが、その次の一言で、俺の中の空気が変わった。

 

「何より、那古野にはもう嫡男様もおられるゆえ」

「いずれはあちらが弾正忠家を――」

 

嫡男。

 

俺はそこで、息を止めた。

 

那古野。

弾正忠家。

嫡男。

 

え。

 

もう、いるのか?

 

織田信長が。

 

いや、まだ信長じゃない。

当然、今は幼名のはずだ。

吉法師だったか。元服したら三郎? もしくは上総介?

そこも俺の記憶は薄い。

薄いくせに、その存在だけは妙に重く胸へ落ちてきた。

 

いるんだ。

 

どこか本の中の人物とか、歴史の教科書の向こうとか、そういう話じゃなくて。

この時代の、この尾張の、那古野の城のどこかに、あの嫡男がもう実在している。

 

さっきまで、俺の中の戦国は、まだ単語の集まりだった。

 

天文。

小田井。

藤左衛門家。

左衛門佐。

 

それが今、急に地続きになる。

 

那古野に弾正忠家がある。

そこに嫡男がいる。

こっちは小田井の藤左衛門家。

同じ織田でも、別筋だ。

近いようで、ど真ん中ではない。

遠いようで、無関係でもない。

 

その距離感が、妙に生々しかった。

 

織田信長の家に生まれた、ではない。

けれど、信長と無縁の場所へ生まれたわけでもない。

 

主流ではない。

むしろ、一門ではかなり内側だ。

ただし主役の席ではない。

 

その中途半端さが、今の俺にはいちばん嫌だった。

いや、嫌というのも少し違う。

怖いのだ。

 

主役なら、まだ分かりやすい。

端役なら、諦めもつく。

でも一門の、それなりに重い家の子って何だ。

時代の渦に巻き込まれるのは確定してるのに、何をどこまで動かせるのかは全然分からない。

 

俺は自分の小さな手を見た。

 

短い指。

丸い掌。

まだ刀どころか箸ですら怪しい年頃の手だ。

 

こんな手で、何ができる。

 

けれど、何もせずに済むとも思えなかった。

 

家人たちは気楽に話している。

 

那古野のお城。

弾正忠家。

嫡男様。

姫様。

めでたいこと続きにございますな、などと。

 

その一つ一つが、俺にはまるで地雷みたいに聞こえた。

向こうは何も知らずに置いていく。

こっちは勝手に爆発する。

 

信長が、もういる。

 

その事実だけで、さっきまでの「戦国時代かもしれない」は、「本当に戦国時代だ」へ変わってしまった。

 

しかも俺は、その織田家の末端でも外でもない。

小田井城の又八郎。

藤左衛門家の子。

左衛門佐の息子。

 

信長のすぐ隣ではない。

だが、同じ尾張の空の下で、確実にその影響圏にいる。

 

それを理解した瞬間、急に親父の呼び名まで重くなった。

 

左衛門佐。

 

さっきまで「誰だよそれ」だったくせに、今は違う。

知らないのは俺の方で、この時代では間違いなく、それなりの重みを持つ名なのだろう。

藤左衛門家を背負う男で、俺の親父で、そして那古野の弾正忠家と無関係ではいられない位置にいる。

 

俺は、ようやく少しだけ分かった。

 

ここは「織田といえば信長!」で雑に括れる世界じゃない。

弾正忠家があり、藤左衛門家があり、小田井があり、那古野があり、それぞれにちゃんと家の重さと距離がある。

その上で、後に天下へ届く線が伸びていく。

 

歴史の本じゃ見えない細い線の上に、俺はもう立っている。

 

そのことが、どうしようもなく現実だった。

 

俺、幼名又八郎は、たぶんまだ信長に会ってもいない。

 

だが、もう逃げられないところにはいる。

 

那古野の嫡男が生きている限り。

小田井の又八郎として生まれてしまった限り。

俺の人生は、嫌でもあの名前の周りを回ることになるのだろう。

 

そこまで考えて、俺は小さく息を吐いた。

 

幼子の身体では、ため息一つも大して様にならない。

それでも、胸の内だけは妙に老けていた。

 

……とりあえず。

 

多分信直じゃなかった。

そこからだな。

 

 

俺が生まれたのが天文十四年。

それを聞いた時、最初の反応は、妙なところで少し嬉しい、だった。

 

西暦で言えば一五四五年。

浅井長政と同い年だ、やったぜ。

 

……いや、何がやったぜなんだ。

幼子の身体で一人突っ込んでから、すぐにその軽さが吹き飛んだ。

 

待てよ。

信直は一五四六年生まれじゃなかったか?

 

じゃあ、やっぱり俺は信直じゃないのか。

 

そこまではまだよかった。

むしろ分かりやすくなったくらいだ。

勘違いが一つ潰れたんだから、前進ではある。

 

問題は、その次だった。

 

翌年に生まれた弟は、又六郎と名付けられているらしい。

何でだよ。

俺が又八郎で、弟が又六郎。

順番、おかしくないか?

 

普通に考えたら、六の方が先じゃないのか。

兄が又六郎で、弟が又八郎ならまだ分かる。

いや、分かるって何だ。何を基準に分かるんだ。

でも人間、数字がついてりゃ並びを見たくなるだろう。

 

それなのに逆だ。

 

俺はしばらく、その又八郎と又六郎の並びだけで真顔になってしまった。

 

もしかして、この時代の幼名って、数字の若い若くないはあまり関係ないのか。三国志とかに出てくる漢民族の排行とは違うのかな?

日本だと輩行名(はいこうめい)や輩行の仮名(はいこうのけみょう)とかいうやつだ。

そういえば、真田信幸は源三郎で、弟の真田信繁は源次郎だった。

 

いや、そうなんだろうな。

たぶん、そういうものなんだろう。

八は末広がりで縁起がいいし、六だって別に悪い数字じゃない。

順番というより、響きとか、家の中の何かとか、そういう理由でつけるのかもしれない。

 

現代人みたいに、番号札みたいな感覚で見る方が間違ってるんだろう。

 

だが、分かったようで分からない。

 

幼名の並びが適当なのは、まあいい。

よくないけど、いい。

問題はそこじゃない。

 

俺が天文十四年、一五四五年生まれ。

翌年、一五四六年に弟の又六郎が生まれた。

そしてその又六郎が信直になる。

 

……じゃあ俺は誰なんだよ。

 

そこへ戻ってきてしまう。

 

信直ではない。

少なくとも、年が違う。

弟が信直なら、兄である俺は別人だ。

 

別人。

 

その言葉が、妙に重かった。

 

俺は自分の膝を抱えた。

幼い足は短くて、そういう格好をしてもあまり様にならない。

だが、頭の中はそれどころじゃない。

 

本来の歴史で、小田井の藤左衛門家に、天文十四年生まれの又八郎なんていたか?

 

知らない。

全然知らない。

 

そもそも俺は、織田家といえばまず信長しか浮かばない側の人間だった。

清州三奉行だの、藤左衛門家だの、小田井だの、その辺の厚みは後世の一般的な人間の歴史常識からはかなり遠い。

だから、史実にいたのか、いなかったのか、その時点で分からない。

 

分からないのに、嫌な想像だけはできる。

 

本来いなかった兄が、一人増えている。

それって、つまり。

 

俺、本来の歴史には存在しなかった異物なんじゃないのか?

 

そこまで考えたところで、ぞわりと背中が冷えた。

 

異物。

 

言葉にしてしまうと、急に洒落にならなくなる。

 

未来を変えるとか、歴史を知ってるとか、そういう大層な話じゃない。

もっと手前の、自分の拠って立つ足場の話だ。

俺はそもそも、史実のどこに立っているのかが分からない。

 

信長でもない。

信直でもない。

ただの一門の若君ですらなく、「本来いたかどうかも怪しい何か」だとしたら、話が全然違ってくる。

 

俺が何かしたから歴史が変わる、ではない。

俺が最初からいる時点で、もうどこかがずれてる。

 

それは、地味に怖かった。

 

那古野の弾正忠家に嫡男がいて。

こっちには左衛門佐の家があって。

弟の又六郎は、たぶん史実側へ繋がる。

それなのに兄の俺だけが、すぽんと宙に浮いている。

 

家の中に座っているのに、系図の上では足がつかない感じがする。

 

俺は、自分の手を見た。

 

小さい。

丸い。

何かを掴めるような手じゃない。

 

でも、そんな手でも分かることが一つある。

 

これは、たぶん嫌な偶然じゃない。

 

又八郎期から介入が始まっている、なんて後から書けば一行で済む話なのかもしれない。

だが当の本人からすると、一行で済まない。

自分が「改変の起点でした」なんて、そんなものは恐怖でしかない。

 

俺がいる。

弟もいる。

那古野には嫡男がいる。

 

その並びのどこかに、もう史実との差分が生まれている。

 

しかも、差分の中心が俺自身かもしれない。

 

笑えない。

 

いや、少しだけ可笑しくはある。

何しろ、信長に生まれ変わったとか、信忠に転生したとか、そういう分かりやすい主役枠じゃない。

小田井の又八郎で、弟が又六郎で、数字の順番にすら困惑してるんだから、地味にもほどがある。

 

でも、地味なズレの方が、時々よほど不気味だ。

 

派手な間違いなら、すぐ気づける。

だが、小田井の片隅で一人多い、みたいなズレは、気づいた時にはもう根を張っている。

 

俺は、膝に額を押しつけた。

 

信直じゃなかった。

それは確定だ。

 

弟が信直なら、俺はその前にいる何かだ。

兄。

余分。

もしくは、本来とは違う線の始まり。

 

そこまで来ると、逆に少しだけ腹が据わるような、据わらないような気分にもなる。

 

仕方ない。

いないなら、いないで考えるしかない。

いる以上は、もう消えようがない。

 

俺、幼名又八郎は、織田信長ではなかった。

信直でもなかった。

たぶん、本来の歴史の表に綺麗には乗らない、妙な一石だ。

 

それが吉と出るか凶と出るかは、まだ分からない。

 

だが少なくとも、ただ「時代を知ってしまった子ども」では済まなくなった。

 

俺自身が、もう歴史のズレそのものかもしれないのだから。

 

 

どうも、俺はこの辺りがどこから白でどこから黒なのか、微妙に分からない。

 

いや、分からないというより、後世の雑な歴史知識で見ると、織田って一枚岩に見えるんだ。

信長がいて、周りに親類縁者がいて、気づけば皆その傘下、みたいな。

でも現実の尾張は、同じ織田の一族でも分裂状態にあって、どうもそんな単純な色分けではないらしい。

 

話を拾っていくと、我が家――藤左衛門家は、那古野の織田弾正忠家と、今はまだ完全な主従ではない。

数年前に合戦までやったとかで、講和したとかどうとか。

 

物騒すぎるわ。

 

いや、何だよそれ。

同じ織田の名乗りで、同じ尾張の空の下で、普通に戦ってたのかよ。

戦国時代なんだから当たり前なんだろうけど、幼子の俺からすると、その「当たり前」がいちいち重い。

 

まあ、信長以前の織田って、まず身内同士や兄弟同士で殴り合ってたんだよな。

 

しかも、どうやら今まさに、その那古野の弾正忠家へ、いよいよ臣従しようという話になっているらしい。

 

そこで父上は、若様の偏諱を受けて、信張と名乗ることにした、と。

 

うむ。

 

やはり父上は、あの織田信張だな。

 

そこは、ようやく腹へ落ちた。

信直の父親。

兄が戦死して家督を継ぎ、隠居したと思ったら伊勢長島で嫡男信直が戦死して、結局また表へ出ることになるあの信張。

 

いや、待て。

「あの信張」って言ってるけど、俺の知識は相変わらず穴だらけだぞ。

でも少なくとも、

左衛門佐

藤左衛門家

信直の父

この三つがここでようやく繋がった。

 

つまり父上は、まだ最初から盤石な「織田本家の臣」ではない。

戦って、和して、いよいよ寄る、その節目にいる。

 

そこへ偏諱拝領が重なる。

 

ああ、そういうことか。

 

名前って、ただの呼び方じゃないんだな。

父上が信張と名乗るのは、単に格好をつけたんじゃない。

若様の字をいただくことで、「これよりそちらの筋へ正式に連なる」という印そのものなんだ。

 

戦国、面倒くせえ。

でも、面倒くさいぶん重い。

 

俺はしばらく、柱にもたれて考えた。

 

そもそも、いつ織田家に臣従したんだ?

 

後世の雑な知識だと、「信長に臣従した」とひとまとめで読んだ覚えがある。

だが今、俺がいるこの時間では、そんなの結果論にすぎない。

信長個人へ一直線に繋がるんじゃなく、その前に、那古野の弾正忠家という「家」がある。

その嫡流がいて、その若様がいて、その権威へ父上が寄っていく。

 

たぶん、後世から見れば全部まとめて「信長に従った」で済む。

でも、その前段には、家と家の理屈が何層もある。

 

面倒くさい。

そして、すごく戦国っぽい。

 

さらに、もう一つ嫌なことが分かった。

 

俺や又六郎の母上は、どうもその弾正忠家のお殿様の弟御の娘、らしい。信秀の弟、信康の娘だった。つまり、信長やお市の方とは義理の従兄妹にあたる。

 

……は?

 

俺はそこで、完全に黙った。

 

母上が、弾正忠家の血筋?

じゃあこの婚姻、ただのご縁です、じゃ済まないだろ。

 

つまり弾正忠家は、我が藤左衛門家を一門として迎えるために、先に婚姻を打っていたのか?

 

戦って。

和して。

娘を入れて。

子を産ませて。

そのうえで偏諱を与えて、正式に寄せる。

 

冷静に並べると、えげつないほど綺麗だ。

 

いや、もちろん、母上本人の気持ちまでそれで全部説明するつもりはない。

そんなの、今の俺に分かるはずもない。

父上だって、母上だって、その中でちゃんと夫婦として暮らしてるんだろう。

そこまで全部「政略でした」で潰すほど、俺も乾いてはいない。

 

でも、それでも。

最初の入口が家の理屈だったことだけは、たぶん間違いない。

 

味気ないな、と思った。

 

だが、そう思った瞬間に、いや、これが戦国時代なんだろうな、とも思った。

 

この時代の婚姻って、たぶん「好きだから」より先に、「家がどう繋がるか」が来る。

人と人の話に見えて、最初から家と家の話なんだ。

その中で、あとから情が育つことはあっても、入口だけはどうしたって政治だ。

 

現代感覚で見れば冷たい。

けれど、家が生き残るためには、多分それが普通なんだろう。

 

俺は小さく息を吐いた。

 

戦っていた相手と、講和して、婚姻で繋がって、偏諱で固めて、ようやく「味方」になる。

それも、昨日まで敵だった奴が、今日から仲間です、みたいな明るい話ではない。

一門になっても、どこまで白でどこまで黒か、しばらくは曖昧なままなんだろう。

 

そう考えると、俺が最初に感じた「白黒がよく分からない」は、別に俺が鈍いからじゃないのかもしれない。

この時代そのものが、そもそもそういう作りなんだ。

 

全部が途中。

全部が仮止め。

戦も、和も、婚姻も、臣従も、いつでも次の手で塗り替わる。

 

その中で、父上は信張と名乗る。

母上は弾正忠家の血を持つ。

俺と又六郎は、その間に生まれている。

 

そう考えると、俺自身もまた、ただの子どもじゃなくなってくる。

 

俺は藤左衛門家の若君で、どうやた嫡子だ。

でも同時に、弾正忠家がこの家を一門へ組み込むために打った婚姻の結果でもある。

家と家の間に置かれた子だ。

 

嫌な言い方をすれば、俺もまた「証文」みたいなものかもしれない。

 

そこまで考えて、少しだけ腹が立った。

 

子ども相手に何を考えてるんだ、俺は。

でも、そうとしか見えない部分もある。

父上も母上も、きっと人として生きている。

それでも家は、平然とその上へ理屈を載せてくる。

 

戦国時代、面倒くさい上に、容赦がない。

 

ただ、その容赦のなさが分かったことで、逆に一つだけ見えてきた。

 

俺がここにいる意味も、たぶん「個人」としてだけじゃない。

藤左衛門家の子として。

弾正忠家の血を引く子として。

これから臣従し、一門へ呑み込まれていく節目の家の子として。

 

最初から、かなり重い場所に置かれている。

 

那古野の嫡男がどこまで育つか。

父上がどこまで弾正忠家へ寄るか。

小田井がどこまで「家」として残るか。

 

その全部の中に、俺と又六郎もいる。

 

味気ない。

でも、それが現実だ。

 

そしてたぶん、その現実を飲み込めるかどうかで、この先の立ち方が変わる。

 

俺、幼名又八郎は、信長でもなければ、今のところ信直でもない。

だが少なくとも、織田の中のどこかの端っこで勝手に育つだけの子ではないらしい。

 

親の婚姻からして、もう政略の内側なんだから。

 

 

何となく、だが、諱ってやつは、むやみやたらと口にしちゃいけない。

 

それくらいのことは知っている。

知っている、と言っても、誰にきちんと習ったわけでもない。

どこかで聞いた。

何となく耳に入っていた。

そういう、全部まとめて「如是我聞」みたいな知識だ。

 

三国志でも、うっかり目上の実名を真顔で呼んだら、空気が凍るとか、剣を抜かれても文句は言えないとか、そういう話を聞いた覚えがある。

日本の武士も、どうも似たようなところがあるらしい。

 

だから漫画やネット小説みたいに、若様に向かって「よう信長!」なんてやったら、多分問答無用で首が飛ぶ。

 

……いや。

 

子どもだから、一発目では許してくれるかもしれない。

許してくれるというか、まず周囲の大人が蒼白になって、こっちの口を塞いで、後から父上か母上にこっぴどく絞られるのが先か。

 

どちらにしても、ろくなことにならない。

 

たぶん、ああいう名前は、知っていても口に出すものじゃないのだ。

文書に記すのはまた別。

花押だの書付だの、そういうのは本人の印であり証みたいなものなんだろう。

でも、だからといって、日常で気安く言っていい理由にはならない。

 

面倒くさい。

 

だが、こういう面倒くささを間違えると人が死ぬ、というのも、何となく分かる。

 

この時代、名前はただのラベルじゃない。

相手との距離であり、立場であり、筋だ。

呼び方一つで、「こいつはどの高さから話しているか」が丸見えになる。

 

怖えな、戦国時代。

 

だがその怖さが分かってきたところで、もう一つ、別のことも見えてきた。

 

あの信長の一門で、清州三奉行の一角、藤左衛門家の嫡男。史実で活躍するのは父信張と弟信直。

 

……これ、割と美味しいポジションなんじゃないか?

 

いや、天下人そのものではない。

ど真ん中でもない。

けれど外様でも、浪人でも、名もない農家の倅でもない。

天下の織田一門の内側、それもかなりいい席だ。

 

史実でも、信直の正室はたしか信秀の娘、小田井殿だったはずだ。

異母妹とはいえ信長の妹を娶って、一門衆の中でもそれなりに重く用いられた側のはずである。

 

そこまで考えて、俺はふと気づいた。

 

じゃあ、俺はその席を取りにいかなくていいんじゃないか。

 

むしろ、早々に信直に活躍の場を譲った方がいい。

 

家督を継ぎたいとも言わない。

俺が俺がと前へ出ない。

かといって、露骨に無能でもない。

使おうと思えば使える。だが、わざわざ主役へ据えるほどでもない。

 

その辺りだ。

 

無能ではない。

だが、別にいなくても天下は困らない。

そういう、妙に扱いやすい位置へ自分を置く。

 

うん。

それがいい。

 

信長の目に、なるべく「こいつ邪魔だな」と映らないように生きる。

かといって、「何だこの役立たずは」とも思われないようにする。

すーっとフェードアウトしない程度に働いて、史実という実績のある弟の信直に家督を継がせる。

実に微妙な綱渡りだが、どうせ戦国なんて、みんなそんなものかもしれない。

 

俺はそこで、少しだけ真顔になった。

 

待てよ。

 

これ、口で言うほど簡単か?

 

前に出れば目立つ。

引きすぎれば埋もれる。

埋もれすぎれば家の中でも軽く見られる。

軽く見られれば、いざという時に誰も守ってくれない。

 

つまり必要なのは、「害がない」と思われることじゃない。

「害はないし、いてくれると少し便利だ」と思われることだ。

 

ずいぶん情けない人生目標だな、おい。

 

だが、天下取りを目指します、よりははるかに現実的だ。

俺は信長じゃない。

信直でもないっぽい。

なら、なおさらだ。

 

主役じゃない奴の勝ち筋は、多分こういうところにしかない。

 

父上から見れば、俺は藤左衛門家の嫡男だ。

母上から見れば、弾正忠家の血を引く子だ。

家中から見れば、若様だ。

完全に消えることはできない。

なら、消えないまま、危険にならない形を取るしかない。

 

信直が育てば、そちらを立てる。

俺は少し脇へ寄る。

けれど脇へ寄りすぎて「こいつは何もしない」と思われない程度には働く。

 

最高だな。

 

いや、最高ではない。

かなり地味だ。

地味だが、地味に生き残る方が、戦国ではむしろ勝ちかもしれない。

 

天下人になりたいわけじゃない。

名を残したいわけでもない。

殺されるのだけは勘弁なのだ。

 

本当に、それだけは勘弁してほしい。

 

戦で死ぬのも嫌だ。

政争で巻き込まれるのも嫌だ。

「こいつ、いずれ面倒になる」と先回りして消されるのは、もっと嫌だ。

 

だから、俺は決めた。

 

目立たない。

だが役には立つ。

賢いと思われすぎない。

だが、馬鹿とも思われない。

家督に執着しない。

だが、家を軽んじもしない。

 

ものすごく面倒くさい生き方だが、たぶんこれが一番いい。

 

藤左衛門家は、弾正忠家の根を支える家だという。

なら、その嫡男が無理に幹へ登ろうとしなくてもいい。

根の近くで、土を崩さず、少し役に立つ石ころみたいなもので十分だ。

 

……石ころって何だ。

 

自分で考えていて、少し嫌になった。

だが、案外そういうものかもしれない。

大木の根元にある石は、主役ではないが、勝手にどかされもしない。

 

そう考えると、少しだけ気が楽になった。

 

もっとも。

 

そうやって「目立たずにいよう」と考えること自体が、もう少し目立っている気もするのだが。

 

そこまで考えて、俺は小さく息を吐いた。

 

まあいい。

 

今はまだ幼子だ。

信長の目に留まるも何もない。

まずは変な名前の呼び方で首を飛ばされないこと。

それから、父上と母上の前で余計な賢しらを見せないこと。

そして信直が育つまでは、兄として妙に邪魔にも頼りにもならないこと。

 

やることは多い。

 

戦国時代、面倒くさい。

でも、主役を目指さないと決めた瞬間、少しだけ道が見えた気もした。

 

俺、幼名又八郎は、天下を狙わない。

家督にもしがみつかない。

信長の視界の端で、ほどほどに使えて、ほどほどに無害で、生き残る。有楽斎みたいな感じで。

 

本能寺の変が近づいたら、どうしようか葛藤するかもだが。歴史を変える度胸があるのか?

 

それでいい。

いや、本当にそれがいい。

 

殺されるのだけは、勘弁だぞ。

 

 

朝餉の膳を前にして、俺は少し真顔になっていた。

 

別に、食事が不味いわけじゃない。

 

この身体になってから、戦国時代の飯に耐えられない、みたいな違和感はない。

汁は汁でうまいし、飯は飯でちゃんと飯だ。

塩気もある。

魚もある。

野菜もある。

 

だが、どうにも足りない。

 

肉だ。

 

あと卵。

 

それから牛乳。

ただし、そのままはちょっと怖いから一度沸かしたやつ。

 

いや、何で三歳児がそんなこと考えてるんだ、という話なんだが、考えてしまうものはしょうがない。

この時代の食事で育っているはずの身体なのに、どこかで「これでは武士の身体を作るには少し栄養足りない」と分かってしまう。

 

分かってしまう、というのがいちばん厄介だった。

 

俺は箸を置いた。

 

父上がこちらを見た。

左衛門佐父上は、こういう時、静かに見る。

静かに見るくせに、圧がある。

まだ三歳児相手なのに、何かこう、家の当主の視線で見てくる。

 

怖い。

 

でも肉は食いたい。

 

「ちちうえ」

「何じゃ、又八郎」

「こんなのたべたいです」

 

そう言って、俺は指を折り始めた。

 

「おにく」

「うむ」

「にわとりのたまご」

「うむ」

「うしのちち」

「……」

「でも、おなかをこわすといけないので、いちどふっとうさせてからのみたいです」

 

そこで父上の顔が固まった。

 

あ、やべ。

 

普通、三歳児ってもっとこう、あれ食べたいこれ食べたいって、もう少し雑な我が儘だよな。

何だ今の。

要求内容もそうだが、理由の雰囲気が妙に具体的すぎた。

 

父上はしばらく黙っていた。

怖い。

本当に怖い。

静かなのに怖い。

 

「……又八郎」

「は、はい」

「そなた、それをどこで知ったのじゃ」

 

うわっ、来た。

 

まじ表情怖い!

 

しまった。

先走りすぎたか。

現代の、いや現代とまで言っていいのか分からないが、とにかくこの時代の子どもが普通は持たない知識の匂いが出すぎた。

 

どうする。

 

どうする俺。

 

ここで「何となく」とか言ったら絶対に駄目だ。

父上は今、我が子ががどこぞの怪しげな者から妙なことを吹き込まれたのでは、と考えていてもおかしくない。

三歳児の飯の好みで、家中をざわつかせるわけにはいかない。

 

しょうがない。

 

もしもの時の、神のお告げにチェンジだ。

 

俺は咳払いひとつして、精一杯それらしい顔をした。

三歳児の精一杯なので、どこまで威厳があったかは知らない。

 

「さくばん」

「昨晩?」

「はい。えちぜんのちにございます、つるぎじんじゃのごさいじんであられます、けひのおおかみが、まくらもとにたたれまして」

 

言いながら、俺は半分自分で何を言ってるんだろうと思っていた。

 

だが、もう止まれない。

 

「ぶしとして、りっぱなからだになるには、そのようにせよ、と」

 

父上の目が見開かれた。

 

しまった。

これは、まずい方向に入ったかもしれない。

 

「何」

低い声だった。

「気比大神が、そのように告げられたと」

 

「は、はい」

「我が子を通じて」

「は、はい……?」

 

父上は、すっと立ち上がった。

 

いや、待て待て待て。

その反応は想定してない。

 

「これは、すぐに殿や三郎殿のもとへ参らねば」

 

行っちゃったよ。

 

俺は口を半開きにしたまま、父上の背中を見送るしかなかった。

 

いや、何でだよ。

 

何でそうなる。

 

そこは普通、「又八郎、妙な夢を見るでない」で終わるところじゃないのか。

何で父上、そんな本気の顔で廊へ出ていくんだ。

いや、待て。

この時代の人からしたら、神託ってそういう重さなのか?

しかも相手が気比大神って、越前の劔神社の御祭神だぞ。

織田家は確かに劔神社の神官の出らしいが。

尾張の小田井で、若の枕元に立ったと言われて、そりゃ簡単には流せないのか。

 

困る。

 

めちゃくちゃ困る。

 

俺はその場で固まった。

 

膳の上の汁が、まだ細く湯気を立てている。

魚はそのままだ。

飯もまだ半分残っている。

 

なのに、家の中身だけが急に先へ走り出した感じがする。

 

「若様?」

 

女房が、少し不思議そうにこちらを見る。

 

「……なんでもない」

 

そう答えた声は、自分でも情けないほど弱かった。

 

なんでもなくない。

大ありだ。

 

殿って誰まで行くんだ。

父上の言い方だと、まず織田家の上へ行く。

その次に三郎殿。

つまり、もう家の中の笑い話では済まない。

「藤左衛門家の若が神託を受けた」みたいな、嫌な格上げが起こりかねない。

 

俺は小さく頭を抱えた。

 

肉が食いたかっただけなんだよな。

 

卵も欲しかった。

あと牛乳。

それも、なるべく腹を壊しにくい形で。

 

それだけだったのに、何で気比大神まで出てきて、しかも父上がそのまま上へ持っていく流れになってるんだ。

 

戦国時代、面倒くさい。

 

いや、前から知ってたけど。

知ってたけど、こういう方向にも面倒くさいのか。

 

俺が「武士として丈夫な身体になりたい」と言ったのは本音だ。

そこに嘘はない。

だが、その本音へ神託をくっつけた瞬間、個人の我儘ではなく、家の話へ化けた。

 

最悪だ。

 

……いや、最悪とまでは言わない。

もしこれで本当に肉や卵が出るようになるなら、身体にはいい。

だが、代わりに俺の扱いが妙になるのは困る。

三歳児の俺が、神だの夢だのを妙に言い当てる若、みたいな枠へ入れられたら、のんびり生きる計画が最初から崩れる。

 

父上、戻ってこないかな。

 

戻ってきて、「いや、やはりまずは台所で試させよう」で止まらないかな。

 

だが、廊の向こうからは、むしろ人の足音が増えている気がした。

 

本当に大事になってないか、これ。

 

俺は汁を一口すすった。

 

うん。

やっぱり、不味くはない。

 

でも今はもう、味どころじゃなかった。

 

肉が食いたい。

 

ただそれだけで、どうしてこうなる。

 

 

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