織田家の嫡子~藤左衛門家の特異点   作:デトロ!開けろイト市警だ!

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010道三の恩返し

朝餉の間へ向かう廊を歩きながら、俺はまだ少しだけ身体の重さを引きずっていた。

 

眠れなかった夜の名残だろう。足が鈍いわけではない。だが、身の内のどこかがまだ桶狭間の泥の中に片足を残している。父上と話したことで幾分かは整ったものの、だからといって一晩で人が変わるわけでもない。

 

それでも、廊を曲がった先で、空気が変わったのはすぐに分かった。

 

人の目だ。

 

城の者たちがいる。小姓、女中、使いの者、足軽上がりの雑役、家中の若侍。朝の支度でそれぞれに動いているはずなのに、俺が現れた瞬間、視線が一度こちらへ寄る。

 

前からあった目ではある。

 

小田井の神童。

 

利発な子。

 

妙に先を読む若様。

 

そういう目は、これまでも向けられてきた。

 

だが、今日のそれは違った。

 

誰も、気安く口を開かない。

 

軽く笑って「また何か言い出したぞ」という目でもない。

 

どこか、測るような、値踏みするような、それでいて無視はできぬものを見る目だった。

 

一人の中年の小姓が、廊の端で立ち止まり、深く頭を下げる。

 

「治部大輔様」

 

足が、ほんのわずかに止まりかけた。

昨日、上総介兄上の前でその名を許された。頭では分かっている。清洲の門前でお市殿にもそう呼ばれた。だが、こうして家中の者の口から自然に出ると、また違う重みがあった。

俺は小さく頷いた。

 

「朝より、ご苦労」

 

それだけ言って通り過ぎる。

背へ、またいくつかの視線が刺さる。

 

あれは好奇だけではない。たぶん半分は畏れで、半分は期待だ。桶狭間で今川治部大輔の首を取った。昨日までただの利口な若者と思っていた相手が、実際に大将首を挙げ、名を改められた。そうなれば、家中の者の目も変わる。

 

朝餉の間へ近づくと、若侍が二人、小声で何か話していた。

俺に気付き、慌てて口を噤む。

 

一人は顔に見覚えがあった。以前、俺が兵糧や雨仕度のことで口を挟んだ時、あからさまに「子供の思いつき」といった顔をしていた男だ。

その男が、今は目を逸らさず、きちんと一礼した。

 

「治部大輔殿」

 

殿、か。

昨日までなら、せいぜい「太郎左衛門殿」か、年嵩によってはもっと曖昧な扱いだったはずだ。

 

俺は足を止めた。

 

「何かあったか」

 

問うと、男は一瞬だけ言葉を探すようにした。

 

「いえ……その」

 

隣の若侍が先に口を開いた。

 

「此度のお働き、まこと見事にございました」

 

硬い声だった。

褒めている。だが世辞ではない。世辞なら、もっと滑らかに言う。これはたぶん、本当にどう扱うべきかまだ測りかねているのだ。

俺は二人を見た。

 

「運が良かっただけでは済まぬ首ではあった」

 

我ながら、少し嫌な返しだったかもしれない。だが、必要な線でもあった。

 

「されど、首一つで人が急に変わるわけでもない。昨日まで通り、務めは務めよ」

 

二人は揃って頭を下げた。

 

「はっ」

 

その返りが、妙に早い。

前なら、ここまで素直には通らなかっただろう。利口な若造の言葉なら、どこかに軽んじる隙があった。だが今は、少なくとも表ではそれがない。

 

朝餉の間に入ると、そこでも空気は同じだった。

誰かが話していた声が、一瞬だけ細る。

 

それからすぐに元へ戻る。露骨ではない。露骨ではないが、俺が入ったことで、場の重心がほんの少しだけ動いたのが分かる。

父上は既に座していた。こちらを見ても、特に何も言わない。ただ一瞬だけ目をやり、すぐに前へ戻す。その何でもなさが、逆にありがたかった。

又六郎はというと、こちらを見るなり、いかにも言いたいことがある顔をした。だが周囲の空気を読んだのか、飛びついてくるような真似はしない。その代わり、座る時に妙に背筋を伸ばしている。

あれはあれで、兄が名を立てたのが誇らしいのだろう。

 

席につく。

 

給仕の女中が膳を置く手つきまで、昨日より少しだけ慎重だ。

 

困る。

いや、分かるのだが、困る。

 

戦で首を取ったからといって、飯の味まで変わるわけではない。こちらとしては、むしろいつも通りでいてくれた方が助かる。だが、周りからすればそうもいかぬのだろう。名が変わり、格が変われば、人の振る舞いも変わる。

 

その時、座の下手から一人の年配の家臣が声を掛けてきた。

祖父の頃から父上に仕える古参だった。

 

「治部大輔殿」

 

その呼びかけには、昨日までにはなかった明確な響きがあった。

 

「此度は、織田の家に大きな武名をお立てになられましたな」

 

皆の耳が、少しだけこちらへ寄る。

俺は箸を取る前に、軽く頭を下げた。

 

「上総介様のお働きあってのこと。某一人の力ではありませぬ」

 

古参は、そこでわずかに笑った。

 

「そのように仰せになるところも、またよろしい」

 

含みのある言い方だった。

一人で成したと思い上がるな、と言いたいわけでもない。本当にそう見ているのだろう。桶狭間で首を取った若武者が、翌朝から鼻を天へ向けぬ。それ自体がまた、家中の評価になる。

 

別の席で、誰かが低く呟いた。

 

「もはや神童では済まぬな」

 

小さいが、聞こえた。

そして聞こえるように言ったのだろう。

俺は顔を上げなかった。

だが、その言葉だけで十分だった。

 

神童。

 

そう呼ばれるのは嫌いではなかった。便利でもあった。何かを言っても「賢い子だ」で済ませてもらえる余地があったからだ。多少の出過ぎも、若さゆえで片付いた。

だがもう、それでは済まない。

 

桶狭間で今川治部大輔を討ち取った。

治部大輔の名を得た。

それは、家中が俺を見る時の言い訳を消したということだ。

 

もう「子供にしては」で測られない。

一人の武士として、立ったかどうかで見られる。

 

飯を口へ運ぶ。

味は、ちゃんとした。

熱もある。塩も効いている。腹も減っている。

それで少しだけ安心した。

 

まだ自分は、昨日の中に取り残され切ってはいない。

すると又六郎が、小さな声で言った。

 

「兄上」

「何だ」

「……いや」

 

言いかけて、又六郎は少し迷った。

それから、目をきらきらさせたまま、しかし声だけは抑えて言う。

 

「皆、兄上を見ております」

 

見れば分かる。

だが、弟の口から言われると妙な可笑しさがあった。

 

「見られるだけのことをしたからな」

 

そう返すと、又六郎はうんうんと大きく頷いた。

父上がその様子を横目で見て、わずかに眉を動かす。

 

「又六郎」

「はっ」

「はしゃぐな」

「は、はい」

 

しゅんとしながらも、口元の嬉しさは消えない。

俺はそれを見て、少しだけ肩の力を抜いた。

 

重く見られる。

測られる。

期待される。

畏れられる。

 

その全部が、今日から始まるのだろう。

だが同時に、それは俺が昨日確かに一つ越えたという証でもある。

 

朝餉の間の空気は、もう昨日までのものではなかった。

小田井の神童が座っているのではない。

桶狭間で名を立てた若武者が、ここに座っている。

 

その事実を、家中の者たちはそれぞれのやり方で量り始めていた。

俺は静かに箸を置き、ひとつ息を吐いた。

 

この視線にも、いずれ慣れるのかもしれない。

いや、慣れ切ってはいけないのかもしれない。

 

ただ一つだけ確かなのは、昨日までと同じではもういられぬということだった。

その朝、清洲の空は高く晴れていた。

そして俺は、その空の下で初めて、治部大輔信繁として家中に座したのだった。

 

 

朝餉の後、城中のざわめきから少し離れたあたりを歩いていると、裏手の土塀沿いで、聞き覚えのある笑い声がした。

 

慶次郎だ。

 

あの手の笑いは、隠そうとして隠せるものではない。戦場でも城中でも、あいつの笑いだけは妙に耳へ引っかかる。

 

声のした方へ目をやると、案の定、前田慶次郎が柱へ半ば寄りかかるように立っていた。隣には奥村助右衛門。こちらはいつも通り、無駄なく立っている。派手さの慶次郎、静けさの助右衛門。二人並ぶと、かえってよく分かる。

 

俺に気付くと、慶次郎が手を挙げた。

 

「よう、治部大輔」

 

昨日までなら太郎左衛門と呼んでいた男が、わざと新しい名を口にする。

俺は足を止めた。

 

「朝からずいぶん軽いな」

「軽くもなるさ。昨日、天下がひっくり返る首を一緒に見たんだからな」

 

慶次郎は悪びれもせず言う。

助右衛門は軽く会釈した。

 

「お時間、よろしいか」

「ああ」

 

二人の前へ出ると、慶次郎は柱から背を離した。

 

「先に言っとくが、俺ぁ前田の家そのものに義理がねえわけじゃねえ」

 

笑いながら言うが、声音は思ったより真面目だった。

 

「叔父貴――又左衛門殿には世話にもなってる。そこは承知してる」

 

又左衛門殿。前田利家のことだ。

拾阿弥斬殺、余に言う「笄斬り」のせいで、今日の時点ではまだ出仕停止中だ。そのため、慶次郎の立場もどこか定まり切っていない。戦場へ出るにしても、誰の旗下でどう働くかが綺麗に定まる身ではなかった。だからこそ、桶狭間で俺の左右へ入り込めたとも言える。

 

助右衛門がその先を継ぐ。

 

「某も同じだ。前田家に恩がないわけではない」

そこで、わずかに目を細めた。

「だが、恩と、誰に付くべきかは別だ」

 

風が少し吹いた。

土塀の向こうで、誰かが桶に水を汲む音がする。城中はまだ勝報の熱に浮いている。だが、この一角だけは妙に静かだった。

俺は二人を見た。

 

「それで」

 

慶次郎は、楽しそうでもあり、本気でもある顔で言う。

「決めた」

 

短い。

 

だが、あいつがこういう時に言葉を無駄にしないのは知っている。

 

「俺は、お前に付く」

 

俺は黙った。

慶次郎は続ける。

 

「昨日、桶狭間で確信した。お前のそばには、やっぱり手柄首の匂いがする」

 

またそれか、と思う。

だがもう、笑って済ませられるだけの軽口ではなかった。あれはこいつなりの武辺者の勘なのだろう。理屈より先に、命を張る先の“流れ”を嗅ぎ取る鼻だ。

 

「ただ首の匂いがするだけじゃねえ」

慶次郎は指を一本立てた。

「お前、自分で前へ出るだろ。誰かの背中に隠れて、あとから美味いところだけ持ってく気はねえ」

 

二本目。

 

「見えてる。戦場で、何を取れば話が先へ進むかが見えてる」

 

三本目。

 

「で、それを見ただけで済ませねえ。ちゃんと取りに行く」

言い切って、肩を竦めた。

「俺ぁ、そういう奴が好きなんだよ」

 

助右衛門は、慶次郎ほど饒舌ではない。

 

だが、静かに言葉を足す。

 

「某は、もう少し別の見方だ」

「ほう」

 

「昨日、太郎左衛門殿……いや、治部大輔殿は、今川治部大輔の本陣を見抜かれた」

助右衛門の目は、あの時の戦場をまだ見ているようだった。

「だが、見抜いただけではない。自ら前へ出られた」

 

そこで一拍置く。

 

「見える者はいる。だが、見えた時に自分で踏み込める者は少ない」

 

それは、助右衛門らしい評価だった。

 

慶次郎が勢いで嗅ぎ取るものを、助右衛門は秤に掛けて確かめている。

 

「さらに、首を取った後の扱いも誤られなかった」

 

俺は少し眉を動かした。

 

助右衛門は続ける。

 

「合掌されたな」

「……見ていたか」

「見ておりました」

 

あの場にいたのだから当然だが、改めて言われると落ち着かない。

 

「首級を確かなものとするために、躊躇いを捨てるべき時は捨てられた。だが、何も感じぬ者ではない」

助右衛門の声は、少し低くなった。

「某は、人を殺めることを何とも思わぬ者には、あまり付く気がせぬ」

 

それは意外でもあり、意外ではなかった。

 

こいつは実戦向きだ。斬ることに迷いがない。だが、人を斬ることそのものが好きなわけではないのだろう。

 

「治部大輔殿は、軽くは見ておられぬ」

 

俺は答えなかった。

答えようがなかった。

夜のことを見透かされたわけではない。ただ、あの場の一瞬を見ていただけで、ある程度は分かるのだろう。武辺の人間ほど、その手の境界を嗅ぎ取るのかもしれない。

 

慶次郎がそこで、また口を挟む。

 

「ま、助右衛門は理屈っぽく言ってるが、要するにだ」

にやりと笑った。

「お前の下なら、退屈しねえし、腐らねえってことだ」

 

「お前は何でもそうまとめるな」

 

「だってそうだろ」

慶次郎は悪びれない。

「大きくなる奴のそばにいたい。しかも、ただ大きくなるだけじゃなく、自分で危ない橋を渡る奴のそばだ。だったら乗るしかねえ」

 

俺は少し黙った。

二人とも、本気だ。

軽い冗談のように言っても、腹は決まっている。

だからこそ、こちらも軽くは返せない。

 

「前田家のことはどうする」

 

真っ先に出るべきはそこだった。

 

慶次郎は「だよな」と言わんばかりに笑った。

 

「勝手に今日からお前の家臣です、じゃ済まねえのは分かってる」

 

助右衛門が頷く。

 

「筋は通す。前田家へは前田家へ、きちんと話を入れる」

 

「又左衛門殿の出仕停止もある。時と段取りは選ばねばならん」と、慶次郎。

「だが、腹は決めた」

 

助右衛門の声は揺れなかった。

 

「正式に前田家を辞し、以後は治部大輔殿に仕える」

 

その言葉が、土塀の前の静かな空気へすとんと落ちた。

俺は二人を見た。

 

昨日の戦場では、左右にいて当然のように斬っていた。だが本来、それは当然でも何でもない。あの一戦限りで別れていても、おかしくはなかった。

それなのに、いまこうして、正式に付くと言っている。

それは、思ったより重かった。

 

「俺などでよいのか」

 

気付けば、そんな言葉が出ていた。

 

慶次郎が、目を丸くした。

 

「は? いや、お前、何言ってんだ」

慶次郎は本気で呆れた顔をした。

「桶狭間で今川治部大輔の首取って、上総介様から治部大輔の名まで許されて、そのうえ俺たちの左右で斬ってた奴が、何でそこで『俺など』になるんだよ」

 

あまりにまっすぐで、少し苦笑するしかない。

助右衛門も静かに言う。

 

「謙るのは結構。だが、過ぎれば失礼だ」

 

そこまで言われると、返す言葉もない。

 

「……そうか」

 

「そうだ」と慶次郎。

「そうに決まってる」

 

それから、ふと口元を緩めた。

 

「ただし、勘違いするなよ。俺ぁ“使ってもらう”つもりで来るんじゃねえ。お前と一緒に前へ出るつもりで来る」

 

助右衛門も続ける。

 

「某も、ただ命じられるために付くのではない。共に勝つために付く」

 

これは、重要だった。

ただの従者ではない。

武辺として、自分の腕と命を賭ける値打ちがあると見て付くのだ。

 

ならば、こちらもそれに応えねばならない。

俺は姿勢を正した。

 

「分かった」

 

慶次郎が笑う。

 

「軽いな」

「では、どう言えと」

「もっとこう、ありがたがってもいい」

「嫌だ」

「そこは乗れよ」

 

助右衛門が小さく息を吐いた。

 

「……相変わらずだな」

 

だが、その声はどこか和らいでいた。

俺は二人へ向き直る。

 

「正式なことは、筋を通してからだ」

 

「応」と慶次郎。

 

「承知」と助右衛門。

 

「それまでは」

少し考えてから言った。

「勝手に俺の左右へ来るな」

 

慶次郎が吹き出した。

 

「無茶言うなよ。昨日だって勝手に行ったんだぞ」

「分かっている。だから言っている」

 

助右衛門の口元が、わずかに動いた。

 

「では、今後も勝手に参ろう」

「おい」

「嫌なら、振り切ってみせられよ」

 

そこまで言われると、もはや返しようがない。

慶次郎が楽しそうに肩を叩いてくる。

 

「安心しろ、治部大輔。お前が前へ出る時ゃ、だいたい左右にいる」

 

軽い調子だ。

だが、妙に頼もしい。

 

昨日までなら、こんな二人が本当に自分の周りへ集まるなどとは、どこか現実味がなかった。けれど桶狭間を越えた今なら、それもまた一つの現実になりつつある。

 

人が付く。

しかも、武辺が付く。

それは名誉であると同時に、責でもあった。

 

「……分かった」

今度は、少しだけまっすぐに言えた。

「正式に来るなら、受ける」

 

慶次郎がにやりと笑う。

 

「よし」

 

助右衛門は、深く一礼した。

 

「お言葉、しかと」

 

風が吹き抜ける。

土塀の向こうから、また城中の喧騒が微かに届いた。

 

昨日、桶狭間で義元の首を取った。

今日、その余波が広がっている。

 

家中の目が変わり、父上の言葉が変わり、母上の支えがあり、そして今、二人の武辺が腹を決めた。

戦は終わったばかりなのに、もう次の形が動き始めている。

 

慶次郎が言った。

 

「で、次はどこで首の匂いがするんだ?」

「知らん」

「即答かよ」

「お前の鼻で探せ」

「おう、任せろ」

 

助右衛門が静かに付け足す。

 

「その前に、まずは前田家への筋だ」

 

「分かっている」と、慶次郎。

 

それから二人は一度だけ視線を交わした。

軽口の下で、話はもう済んでいる顔だった。

いずれ正式に辞し、こちらへ来る。

それはもはや、予感ではなく予定に近かった。

 

俺はその二人を見ながら、ゆっくり息を吐いた。

桶狭間で得たのは、首と名だけではない。

人もまた、動いたのだ。

 

 

前田又左衛門利家のもとを訪れた時、慶次郎は珍しく最初から笑っていなかった。

助右衛門もまた、いつも以上に口数が少ない。

 

清洲の一角、静かな座敷だった。勝報が城中を巡り、人の足も声もまだどこか浮き立っているはずなのに、この部屋の前だけは空気が締まっている。

又左衛門は座していた。

桶狭間へ勝手参陣した男の顔だった。

 

出仕停止の身でありながら、それでも戦場へ出た。その無茶も、武辺も、いまさら隠しようがない。具足は脱いでいても、まだ戦場の熱が抜け切っていない気配がある。人の上に座しているというより、刀を置いてたまたま畳に上がっているだけのような男だった。

 

二人は座に進み、揃って頭を下げた。

 

「慶次郎、参りました」

「助右衛門、参上仕りました」

 

又左衛門はすぐには言葉を返さなかった。

まず二人の顔を見た。

 

その顔つき、膝の置き方、頭の下げ方まで見ている。つまり、用向きは半ば読まれているのだろう。

やがて、低く口を開く。

 

「……桶狭間帰りの面だな」

 

慶次郎が小さく答える。

 

「は」

「良いものを見たか」

 

短い問いだった。

だが、その意味は狭くない。首を見たか、武功を見たか、人の値打ちを見たか、その全部を含んでいた。

 

助右衛門が答える。

 

「見届けましてございます」

「治部大輔殿が、今川治部を討ち取られるところまで」

 

又左衛門の目が、ほんのわずかに細くなった。

初耳ではない。

 

当然だ。又左衛門も同じ桶狭間にいた。義元の最期の至近証人ではなくとも、あの戦の流れがどこでどう変わったかくらい、肌で分かっているはずだった。

 

「見事なことよ」

 

感嘆でも羨望でもない。

戦場を知る者が、戦場の働きを事実として受け止める声だった。

 

慶次郎がそこで口を開く。

 

「叔父貴」

「何だ」

「今日は、その先の話で来た」

 

又左衛門は黙る。

慶次郎も、今回は軽口で入らなかった。

 

「俺ぁ前田の家に恩がねえとは言わねえ。叔父貴にも世話になった。そこは承知してる」

 

助右衛門が続ける。

 

「某も同じにございます」

 

そこで二人は一度、間を置いた。

慶次郎が言い切る。

 

「だが、桶狭間で腹が決まった」

 

又左衛門は、ようやく少しだけ身を正した。

 

「申してみよ」

「俺と助右衛門は、以後、織田治部大輔殿の側で働きとうございます」

 

座敷の空気が、少しだけ沈んだ。

慶次郎は続けた。

 

「前田家をないがしろにする気はねえ。勝手に縁を切ったような顔をする気もねえ。だが、もう腹は決まった」

 

助右衛門も、静かに言葉を足す。

 

「正式な筋は後に通すとしても、働く先は定まりました」

 

又左衛門はなお黙っている。

怒ってはいない。

だが、軽々しくも受けていない。

 

その沈黙の重さを、二人とも分かっていた。

やがて、又左衛門が問う。

 

「理由は」

 

慶次郎が、今度は真っ直ぐ答えた。

 

「大きくなる奴だからです」

 

又左衛門は眉一つ動かさない。

慶次郎はさらに続ける。

 

「ただ大きくなるだけじゃねえ。自分で前へ出る。見えてるだけじゃねえ。見えたものを自分で取りに行く。桶狭間で、それをまざまざ見た」

そこで、口元だけ少し歪めた。

「俺ぁ前から、あいつのそばには手柄首の匂いがするって言ってましたが、あれは軽口だけじゃなかった」

 

又左衛門が、そこでようやく鼻を鳴らす。

 

「阿呆め」

 

だが、怒気はない。

 

助右衛門がその先を継いだ。

 

「某は、踏み込みで決めました」

「踏み込み」

「はい。見える者はおります。だが、見えた時に自ら前へ出る者は少ない。治部大輔殿は、それをなされた」

 

又左衛門の視線が助右衛門へ向く。

助右衛門は、少しも逸らさない。

 

「それだけではございませぬ。首を取った後の扱いも誤られなかった」

「ほう」

「取るべき時に取り、証を立てるべき時に立てる。だが、何も感じぬ者ではない」

 

又左衛門の目に、わずかに色が乗った。

そこは聞き逃さなかったらしい。

 

助右衛門は静かに言う。

 

「某は、ただ荒いだけの者には付く気が致しませぬ。勝つために斬るのと、斬ることそのものへ慣れ切るのとは違います」

 

又左衛門は、しばらく二人を見た。

この男は、たぶんもう分かっているのだ。

この二人がその場の熱で言っているのではないことを。

そして、自分自身も桶狭間で信繁の名の昇り方を見ている以上、その選択が全くの見当違いではないことも。

 

「……義理はどうする」

 

問いは当然だった。

慶次郎が即答する。

 

「踏みにじる気はねえ」

 

助右衛門も頷く。

 

「ゆえに、まず又左衛門殿へ申し上げに参りました」

「勝手に治部大輔のもとへ転がり込むのではなく、か」

 

「それでは筋が立ちませぬ」と助右衛門。

 

慶次郎も続ける。

 

「俺たちゃ勝手者ではあっても、無義理者になる気はねえ」

 

又左衛門は、その言葉を聞いて少しだけ目を伏せた。

それから、低く言う。

 

「分かっておるわ」

 

慶次郎が目を上げる。

 

「お前らが、ただその場の勢いだけで申しておるのであれば、ここまで面を揃えて来ぬ。慶次郎は軽いが、腹を決めた時の顔は軽うない。助右衛門は、決めておらぬ時はそもそも口にせぬ」

 

二人とも黙った。

図星なのだろう。

 

「止めはせぬ」

 

その一言で、座敷の空気がわずかに動いた。

だが又左衛門は、すぐに続ける。

 

「ただし、今日この場で“前田を離れた、正式に治部大輔の家臣だ”とはさせぬ」

 

当然だった。

 

そこを軽くすれば、又左衛門が小さくなる。

 

「某はいま出仕停止の身だ。前田の家にも、こちらの面目にも筋がある。ここで軽々しく手放したと見られては、前田の名が立たぬ」

 

慶次郎が低く答える。

 

「承知してる」

 

「だから待て」と又左衛門。

「正式な辞去や名目の整理は、時を見て、わしが通す」

 

助右衛門が深く頭を下げた。

 

「かたじけのうございます」

 

だが又左衛門は、そこで一拍置いて言い足した。

 

「されど」

二人が顔を上げる。

「帰参まで惚けておれとは言わぬ」

 

慶次郎の目が少しだけ光る。

又左衛門の声音は静かだった。

 

「桶狭間でそこまで腹が定まったのなら、当面は治部大輔の側で働け」

座敷の空気が、今度ははっきりと動いた。

「正式な筋は後で通す。だが実のところ、誰の横で動くかまで先へ延ばしておっては、話が死ぬ」

 

その言い方が、いかにも又左衛門らしかった。

 

家の筋も分かる。

武辺の勢いも分かる。

だから両方を殺さぬところへ落とす。

 

慶次郎が思わず笑いかけて、ぎりぎりで堪えたような顔になる。

 

「……叔父貴」

 

「礼を言うな。まだ早い」

又左衛門は切った。

「これはお前らのためばかりではない。治部大輔の側に、お前らのような手が早いうちから付くのは、織田の家にとっても悪くない」

 

助右衛門が、そこで初めて少しだけ表情を和らげた。

 

「では、当面は」

「うむ。前田の名を無闇に振り回すな。されど治部大輔の左右で働くことは構わぬ」

 

慶次郎が、今度こそ少しだけ笑った。

 

「結局、勝手に犬みてえに付いて回っていいってことじゃねえか」

「そういう言い方をするな、阿呆」

 

又左衛門が一度だけ睨む。

 

だが、その目は完全には怒っていない。

 

「ただし忘れるな。いまはまだ“正式には”前田の家の中におる。だからこそ粗相一つが、治部大輔だけでなく前田にも返る」

 

その言葉に、慶次郎の軽さも少し引き締まった。

 

「分かってる」

 

助右衛門も頷く。

 

「承知の上にございます」

 

又左衛門は、それでよしとばかりに小さく息を吐いた。

 

「それと、もう一つ」

空気がまた締まる。

「治部大輔は、これからまだ大きくなる」

 

言い切った。

迷いがない。

 

又左衛門自身、桶狭間で見てしまったのだろう。あの若武者が、ただ一つ首を取って終わる器ではないことを。

 

「ゆえに周りも増える。敵も増える。名が上がれば、寄る者も噛む者も増える」

二人は黙って聞いている。

「その横に立つとは、若武者一人に付くことではない。これから家を持ち、人を持ち、やがては上総介様の前でさえ目立つことになる男の矢面に、共に立つことだ」

 

助右衛門が答えた。

 

「承知の上にございます」

 

慶次郎も、今度は軽口なく言う。

 

「だから行く」

 

又左衛門はその返答に、小さく頷いた。

 

「ならばよい」

そして少しだけ間を置き、ぽつりと付け足す。

「……桶狭間で、良い首を見たな」

 

慶次郎がにやりとする。

 

「でしょう」

「阿呆」

 

そう言いながらも、又左衛門の声音にはどこか満足が混じっていた。

 

それは手駒を失う惜しさではなく、武辺として見込みのある者が、見込みのある先を選んだのを見た時の、先達めいた色だった。

 

「正式なことは、こちらから時を見て沙汰する」

又左衛門は言った。

「それまでは浮つくな。治部大輔の周りで勝手に騒ぐな」

 

慶次郎がすぐ返す。

 

「騒がないのは無理かもしれねえ」

「ほう」

「でも、働く。騒ぐより先に」

 

又左衛門が鼻で笑う。

 

「少しは学んだか」

 

助右衛門が静かに頭を下げた。

 

「お取り計らい、感謝致します」

「まだ早い。礼は、筋が立ってから言え」

 

それでも、もう話の芯は決まっていた。

 

正式辞去は後。

だが実務は今から。

 

慶次郎と助右衛門は、永禄三年のこの時点から、治部大輔信繁の左右で動く。

前田の面目を潰さず、信繁の武辺も殺さず、その両方を生かす落とし所としては、これ以上ない形だった。

 

二人が深く頭を下げ、座を辞す。

 

襖が閉まった後、又左衛門は一人、庭先へ視線をやった。

 

桶狭間で義元の首を取った若武者。

その左右に、慶次郎と助右衛門が付く。

まだ正式な形ではなくとも、実はもう始まっている。

小さくは収まらぬ流れが、ここから先へ伸びていくのだと。

 

前田又左衛門利家には、その気配がもう十分見えていた。

 

 

小田井の一角にある離れは、尾張の城らしからぬ静けさを持っていた。

 

清洲のような慌ただしさもなければ、戦勝の熱に浮いた空気も薄い。人目を避けるためにそうなっている部分もあるのだろうが、それだけではない。そこには、いまは表へ出ぬと決めた男の気配が、家そのものの空気を変えているところがあった。

 

斎藤山城守道三。

 

表向きには「美濃のご隠居」。

 

清洲で上総介様のすぐ傍へ置けば、余計な波を立てる。尾張筋にも美濃筋にも、まだ早い。ゆえに小田井の織田左衛門佐信張預かりという形で置かれている。もっとも、ただ匿われているだけの老人ではない。小田井にいながら、美濃にも尾張にも細く長く手を伸ばしているのは、見れば分かる者には分かる。

 

その日も、道三は信張と碁盤を挟んでいた。

 

黒石を持つ手に迷いはない。盤上に置かれる音が、静かな離れの中へ乾いて響く。

信張も白を摘み、盤へ落とした。

 

「……そこですか」

「そこじゃ」

 

道三は細く笑う。

 

「左衛門佐殿は、どうも石が固い。家を保たせる打ち方をする」

 

信張は鼻を鳴らした。

 

「ご隠居こそ、すぐ外へ手を伸ばす」

「外へ手を伸ばさねば国盗りなど出来ぬわ」

「今は隠居でしょうに」

「隠居だからこそ、口だけはまだ達者じゃ」

 

そう言って、道三はまた一つ石を置いた。

信張は盤を見つめながら、その一手の意味を測る。

この男と碁を打っていると、いつもそうだ。ただ目先の取り合いをしているようでいて、気が付けば三手先、四手先の形が変わっている。戦も政も同じなのだろう、と信張は思う。

 

しばし盤に向き合った後、道三がふと口を開いた。

 

「左衛門佐殿」

「何でござる」

「お主の息子に、恩返しをしようと思うてな」

 

白石を持つ手が、ほんのわずかに止まる。

信張は顔を上げた。

 

「果て。治部大輔に、ですか」

「うむ」

 

道三の目は盤の上に落ちたままだった。

 

「長良川で命を救われたこと、まだその恩を返しきれておらん」

 

信張は黙った。

それは冗談でも、客人としての社交辞令でもない。道三は本当にそう思っている時だけ、こういう言い方をする。

 

「桶狭間も見事な働きであった。義元の首を取るとはな。あれであの男は尾張の内の若侍では済まぬようになった」

 

信張は静かに頷いた。

 

「……あまりに、一気に上がり申した」

 

「そうよ」

道三は黒石をつまみ、置く。

「武辺の者は、どうやら着いたようじゃが」

 

その言い方で、信張にもすぐ分かった。

慶次郎と助右衛門のことだ。

桶狭間の現場で治部大輔の左右に立ち、その後も実質、あれの側へ寄っている二人。正式な処理はまだ整理の途上でも、流れとしてはもう止まらぬ。

 

「策を練り、家中を回す者も必要じゃろうて」

道三はそこで初めて、信張の方へ視線を向けた。

「武だけでは家は立たぬ。武で首を取り、知で人を動かし、政で座を保たせる。あの若さでそこまで一人に背負わせるのは酷じゃ」

 

信張は白石を持ったまま、少し考えた。

 

「……人を寄せる腹でございますか」

 

「そういうことじゃ」

道三は素直に頷く。

「もっとも、治部に藤左衛門家を継がせること自体は、何らおかしな話ではない」

 

信張の目が、わずかに細くなる。

そこは、はっきり言っておくべきところだった。

 

藤左衛門家は、ただの地方の小城持ちではない。かつての尾張三奉行の一つとして、弾正忠家とも本来家柄では対等圏にある。信張自身、織田上総介の従姉妹を正室に迎え、義理の従兄弟筋に連なる。治部大輔もまた、織田本家に遠い陪臣ではなく、近い一門の嫡流だ。

 

道三は、その前提を当然のものとして置いた上で話していた。

 

「左衛門佐殿が隠居し、治部が藤左衛門家を継ぐ。それだけなら筋は通る」

「本来は、でございましょうな」

 

「うむ。本来は、じゃ」

道三はそこで、少しだけ笑みを深くした。

「だが、果たして上総介殿が、それで満足なさるかのう」

 

その一言で、盤上とは別の対局が立ち上がる。

信張も、そこはもう他人事では見られなかった。

 

治部大輔は、ただ家を継ぐだけの嫡男ではなくなった。義元の首を取り、名を改められ、家中での位置を一気に変えた。そうなれば本家が見るのは、藤左衛門家督の自然な継承だけでは済まぬ。

 

「ご隠居」

信張は石を置かずに言った。

「ひょっとして上総介様から、なんぞお聞きになっておられるので?」

 

道三は、いかにも愉快そうに笑った。

 

「うむ」

あっさりしている。

「どうやら上総介殿は、同腹の妹御のどちらかを動かす肚らしい」

 

信張の手の中で、白石がわずかに鳴った。

それは軽く流せる話ではない。

妹御のどちらか、では済まぬ。

 

お市殿も、お犬殿も、土田御前腹。すなわち上総介様と勘十郎殿と同腹の姫だ。妹たちの中でも別格。本家中枢の血そのものと言ってよい。その婚姻は、ただの縁組ではなく、どこへ本家の血を結び、誰を一門の中核へ押し上げるかという話になる。

 

「それはまた……過分な」

 

信張の声は低かった。

 

本音である。

家格だけを言うなら、藤左衛門家は候補たり得る。まったくの身分違いではない。むしろ一門の内で見れば十分に釣り合いを論じうる。

 

だが、それでもなお、お市殿やお犬殿は別格だ。

ゆえに、家格だけでは足りぬ。

桶狭間で義元の首を挙げた、その決定的戦功があって初めて、この話が現実味を持つ。

 

道三は、盤を見たまま言う。

 

「過分ではある。されど、今川治部大輔の首まで取った若武者を、上総介殿がただ一門の有力当主で終わらせておくとも思えぬ」

 

信張は黙った。

惜しい。

その言葉は、父として聞けば少し苦い。当主として聞けば、否定できぬ。

 

道三は盤上へ指を落とすように言う。

 

「藤左衛門家そのものは、又六郎へ継がせる気やもしれん」

 

信張の目がわずかに動く。

 

又六郎。

治部大輔の弟であり、まだ若いが、家を継がせるという意味では筋の通る存在だ。兄が本家寄りのもっと大きな位置へ引き上げられるなら、家の本流を弟へ残す、という手は確かにある。

 

「治部にとって目出度いのかどうかは、知らぬがな」

 

道三のその言い方に、信張は少しだけ苦笑した。

 

「ご隠居は、人の親の機微を分かっておられるのか、分かっておられぬのか」

「分からぬから国盗りなどしたのやもしれぬ」

「今さら開き直られても困ります」

 

小さく笑いが落ちる。

だが、その笑いの底には重みがあった。

 

信張はようやく白石を置いた。

 

「……あれは、元より小さく収まる子ではなかった」

 

道三は頷く。

 

「そうよ」

 

「幼い頃から、妙に先を見たことを申す。人の見ぬところを見ている。家のためには助けられたことも多い。だが同時に、いずれこの小田井だけでは収まらぬだろうとも思っておりました」

そこまで言って、信張は一度言葉を切った。

「とはいえ、本当にそうなり始めると……」

 

父の顔だった。

道三は、その先を無理に促さなかった。

 

代わりに、黒石を置いて言う。

 

「ならば、なおのこと周りを固めてやらねばなるまい」

 

信張は盤を見たまま問う。

 

「どなたを」

「一人は、明智十兵衛」

 

その名に、信張の眉がわずかに動く。

 

「ご隠居の旧臣でございましたな」

 

「うむ。長良川の後、諸国を流れておる。越前も見、鉄砲も学び、ただ流れておるようでいて、置き場を探しておる男よ」

道三の声音には、使える駒を語る冷たさだけではなく、旧臣を見る色が混じっていた。

「もう一人は、竹中半兵衛」

 

信張は今度こそはっきりと顔を上げた。

 

「あれほどの若者を、引けますか」

 

「引くのではない」

道三は即座に否定した。

「見せるのじゃ」

 

その言葉に、信張は少し考えた。

道三は続ける。

 

「十兵衛には、戻って一度見よと言う。半兵衛には、菩提山から一度出て見定めよと言う。それで足る」

「最初から家臣にせぬ、と」

 

「命じて付ける者は、肝心な時にこちらを見ぬ」

道三の目が細くなる。

「自分で選ばせる。選んだ上で寄るなら、あれらは身になり骨になる」

 

信張は、そこでようやく深く頷いた。

確かに、その通りだった。

 

慶次郎や助右衛門のような武辺は、桶狭間の熱と首の匂いに引かれて寄る。だが家を支える知恵者は、それだけでは動かない。見る。測る。器を見極める。その上で仕えると決めたなら、強い。

 

「……なるほど」

 

「左衛門佐殿の息子は、もう小田井一城の若様では済まぬ」

道三は、盤上から少しだけ手を離した。

「ならば、支える者もまた、それに見合うて揃えねばならぬ」

 

信張は白石を弄びながら、ふと問うた。

 

「ご隠居は、治部をどこまで見ておられる」

 

「尾張の内では終わらぬ」

即答だった。

「美濃も絡む。いや、美濃を絡める。長良川で命を救うたあの時から、あれは美濃と無縁ではなくなった。桶狭間で義元を討った今、その流れはさらに太くなる」

 

信張は、静かに息を吐いた。

もう分かっている。

 

又六郎へ藤左衛門家を継がせるかもしれぬ、という道三の言葉も、その延長線上にある。家の嫡男として収めるには、治部大輔はあまりに大きく動き始めた。

 

嬉しくないわけではない。

誇らしくないわけでもない。

だが、それだけでは済まない。

 

父としての心と、当主としての計算が、またずれ始めている。

道三は、そんな信張の内を半ば見透かしたように、少しだけ笑った。

 

「そう難しい顔をするな、左衛門佐殿」

「しておらぬつもりですが」

「しておるわ。碁盤の上まで曇る」

「それはご隠居の石が嫌らしいからです」

「負けそうになるとすぐそれじゃ」

 

軽口のようなやり取りの後、道三は黒石を一つ置いた。

 

かちり、と音がした。

 

「ともあれ、まずは恩返しじゃ」

その声は、少しだけ柔らかかった。

「長良川で拾われた命よ。あの小倅……いや、治部大輔に、少しばかり返してやらねばなるまい」

 

信張も、ようやく白石を置いた。

 

「……ありがたいことです」

 

「ありがたがるのはまだ早い」

道三は鼻で笑う。

「十兵衛が素直に膝を折るとも限らぬ。半兵衛など、なおさらじゃ」

 

「それでよろしいのでしょう」

信張は言った。

「その方が、あれの周りに集まる者としては、よほど信用が置ける」

 

道三は満足そうに頷いた。

 

「左様。お主もようやく、国盗りの盤を打つ顔になってきた」

「ご隠居にだけは言われとうございませぬ」

 

そう言いながらも、信張の口元にはほんのわずかに笑みがあった。

盤上の石は、なお途中だ。

 

だが、すでに勝負はただの碁ではなくなっている。

 

小田井の一角で、美濃のご隠居と尾張の左衛門佐が向き合い、治部大輔信繁のその先を語る。

それ自体が、もう一つの歴史の動き出しだった。

 

道三は、最後に静かに言った。

 

「さて、面白くなるぞ」

 

信張はそれには答えず、ただ盤を見た。

だが胸の内では、同じことを思っていた。

 

もう、桶狭間の前には戻らぬ。

治部大輔信繁の周りには、武辺だけではなく、知もまた寄り始める。

その先にあるのは、小田井一城の安堵ではない。

 

もっと広く、もっと厄介で、そしてたぶん、もっと大きな時代という名のうねりだった。

 

 

小田井へ、明智十兵衛が来る。

その報せを受けた時、俺はまず、やはり早いなと思った。

 

桶狭間が終わってまだ間もない。義元の首を取った熱は家中にも尾張中にも残っている。城の内でも、人の歩く速さが少し違う。声を潜めているつもりでも、皆どこか浮いている。勝った後の空気というのは、静かになり切らない。

 

その中で、十兵衛がもう来る。

慶次郎や助右衛門のような武辺が寄ってくるのは分かる。あいつらは戦の匂いに敏い。首の匂い、前へ出る男の匂い、そういうものを嗅ぎ当てて迷わず寄る。

だが十兵衛は違う。

 

勢いだけで動く人ではない。文も武も持ち、しかもそれをひけらかさぬまま、人と場と家の重みを量る男だ。そんな人が、桶狭間の余韻が消えぬうちに小田井へ足を向ける。ならば、見に来たのだ。ただ首を取った若武者か、それともその先があるかを。

 

「通すぞ」

 

父上がそう言って、俺を見た。

声は平らだった。だが、ただの来客だとは思っていない顔だった。ご隠居も、離れの一間で口元だけ笑っている。あの人はあの人で、もう面白がっているのだろう。

 

「分かっております」

 

そう答えたものの、胸の内はわずかに固かった。

 

十兵衛を相手にするというのは、強い相手と槍を合わせるのとは別種の緊張がある。刃は見えぬ。だが、こちらの言葉の置き方一つ、間の取り方一つで、器量を見られる。しかも、ご隠居も父上もいる。俺一人の応対ではあっても、治部大輔信繁という一人だけを見られるわけではない。小田井がどういう場か、父上がどういう家か、ご隠居が何を考えているかまで、たぶんあの人はまとめて量りに来る。

 

座敷は、評定の間ほど大仰ではない部屋にした。

 

ご隠居の離れへそのまま通すのは違う。あの人の客としてだけ受ければ、斎藤道三目当てで来た印象が強くなりすぎる。

かといって、俺の私室めいたところへ入れるのもまだ早い。だから、小田井の家として一度受ける。それが一番筋が良かった。

 

畳は替えたばかりで、青い匂いがまだ少し残っていた。床の間は騒がしくしない。軸も、いまは景気のよすぎるものを避けた。

勝った直後だからこそ、勝ちを飾り立てすぎぬ方がよい。そんなあたりまで含めて、父上は何も言わずに任せてくる。任せてくるが、見ている。ご隠居も似たようなものだ。

 

やがて、廊の向こうで足音が止まった。

 

障子の外に人の気配が整う。供の者が先に出しゃばる気配が薄い。そこだけでも、もうらしいと思う。主が前へ出る場では、周りは一歩引く。そういう躾が通っている。

 

「明智十兵衛殿、お着きにございます」

 

俺は一つ息を入れた。

 

「お通ししろ」

 

障子が開く。

 

最初に目へ入ったのは、削げた、というほどではないが無駄の少ない姿だった。派手さはない。着物の趣味も、いかにも才を誇るようなものではない。だが、立った時の重心が静かに定まっている。戦が出来ぬ人の立ち方ではない。その上で、前へ出る武辺の殺気とも違う。

 

目が印象に残った。

刺すように鋭いというより、拾う目だ。座敷の広さ、座の並び、誰がどこへいるか、茶の用意、こちらがどこまで構えているか。そういうものを、入ってきた一息のうちに一通り拾っている。

 

「お初にお目にかかります」

十兵衛が頭を下げる。

「明智十兵衛にございます」

 

声は細いが弱くない。よく通る。飾りがなく、しかも失礼でもない。こういう人は、無駄な言葉で相手を安心させたりはしない。足りるだけを置く。

俺も礼を返した。

 

「織田治部大輔信繁にございます」

「このたびは、お招き痛み入ります」

「わざわざ小田井まで足をお運び頂いた。こちらこそ」

 

そこで十兵衛が、ご隠居へ目を向ける。

 

「美濃様にも、久しくお目通り叶いました」

 

「久しいのう、十兵衛」

ご隠居が喉の奥で笑う。

「わしを見に来たのではあるまいがな」

 

十兵衛は、そこでほんの少しだけ口元を緩めた。

 

「見たいものが一つとは限りますまい」

 

その返しに、ご隠居が面白そうに目を細める。父上は黙ったままだったが、内心では悪くないと思っている気配があった。軽薄に流さず、かといって硬くなりすぎもしない。十兵衛は最初の一手で、ちゃんと場へ合わせてきた。

 

座へ着く。

 

並びは、ご隠居、父上、俺。十兵衛は客座に一つ下がる。だがただ下がっただけではない。どこまで前へ出てよく、どこから先はまだ踏み込まぬべきか、きっちり量っている座り方だった。

 

茶が運ばれる。

 

十兵衛は、すぐには茶碗へ手を伸ばさなかった。まず一度、俺を見る。ついで父上。ご隠居。部屋の空気をもう一度測る。そうしてから、ようやく茶碗を取った。

俺も口をつける。

 

熱すぎず、ぬるすぎず。こういうところで余計なことを考えるのは、たぶん信繁という人間の癖なのだろう。だが十兵衛のような相手には、それも悪くない。雑な場ではない、と伝わる。

 

世間話は短かった。

 

道中はどうだった、尾張は勝って以後落ち着いたようでまだ熱い、美濃もまた一枚岩ではあるまい、そんな程度だ。だが、その短さがむしろ本題の近さを示していた。十兵衛は無駄に遠回りしない。こちらがどういう答えを持っているか、もう見に来ている。

 

ご隠居は時折笑い、父上は必要なことだけを言う。二人とも、俺へ振る場面を見ている。

そして、ついにその時が来た。

 

小田井をわざわざ訪れた明智十兵衛光秀が茶碗へ手を伸ばしながら、ふと問うた。

 

「治部大輔殿は、桶狭間の次をどこに見ておられます」

 

部屋が、また少しだけ締まる。

ご隠居も父上も、何も言わない。

 

俺は十兵衛を見た。

さっそく来たか、と思う。

この人はやはり早い。世間話の顔をしながら、もう次の盤面を問うている。

 

ならば、ここで怯むのは悪手だ。

 

「尾張の内を固めるのが先にございます」

 

まず、外さぬ答えを置く。

十兵衛は黙っている。

 

「されど、それで終わるとも思っておりませぬ」

そこで、少しだけ言葉を深くした。

「美濃を獲れば、それこそ天下へ手が届きましょう。かの地は、ただの隣国ではありませぬ。天下分け目の決戦地、日の本の臍にございますゆえ。『美濃を制す者は日本を制す』と、誰ぞが申したとか申さなんだとか」

 

十兵衛の目が、わずかに細くなる。

父上も盤上ではなく、こちらへ意識を寄せたのが気配で分かった。ご隠居は面白そうに口元を歪めている。

 

もちろん、この場の誰も、俺が何を二重に見ているかまでは分からない。

天下分け目の決戦地。

 

俺の脳裏にあるのは、目の前の美濃を巡る勢力争いだけではない。はるか千年の昔、壬申の乱での決戦地関ヶ原。そして戦国時代の終焉を彩る40年後の関ヶ原の戦い。日本を統治する権力の帰趨が二度もあの地で割れたことを、俺だけが知っている。

 

日の本の臍、というのもただの言い回しではない。

前世の知識を持つ俺にとって、美濃とは本当にそういう土地なのだ。

 

十兵衛は静かに茶碗を置いた。

 

「……そう申されるか」

「申します」

「では、尾張の若武者では済みませぬな」

「最初から、そのつもりにございます」

 

口にしてから、自分でも少し驚いた。

だが嘘ではない。

 

桶狭間を越えた今、美濃を視界から外して対局を語る方が不自然だった。

 

ご隠居が、満足そうに細く笑う。

 

「ほれ、十兵衛」

 

十兵衛は答えない。

 

だが、その沈黙の質は、最初とはもう違っていた。

否定ではない。

考えている沈黙だ。

 

この若武者のそばに、自分の才を置く余地があるかどうか。その問いを、少なくとも真面目に持ち帰るだけの値打ちは認めた顔だった。

 

俺は心の内で、ひとつだけ深く息を吐いた。

本能寺の変の首謀者。

 

その未来を知る身としては、どうしてもその名の先にある終着点がちらつく。だがいま、俺の前にいるのは、まだそこへ至る前の明智十兵衛光秀だ。流浪を経て、知も武も磨きながら、次の置き場を探している男だ。

 

ならば、いま見るべきは未来の裏切りではない。

未来にそこまで上り詰めるだけの、この男の実力そのものだ。

 

 

菩提山の空気は、どこか止まっていた。

城そのものが朽ちているわけではない。見張りも立つ。兵もいる。米も動く。人の出入りがまるで途絶えているわけでもない。だが、それでもなお、城全体が半歩だけ世から身を引いているような静けさがあった。

 

竹中半兵衛重治は、その静けさの中にいた。

 

若い。

 

まだ若い。だが若いというだけで括るには、目が澄みすぎている。人の言葉の綻び、陣の歪み、心の隙、そういうものを先に見てしまう目だった。見えすぎる者は、ときに世と折り合いが悪い。半兵衛もまた、その類だった。

 

一色左京大夫義龍とは、どうにもそりが合わぬ。

 

上に立つ者の器量を見てしまう。理の通らぬところが目につく。献策はする。だが、献策を容れられるかどうかはまた別だ。結果として、半兵衛は菩提山へいる時間の方が長くなった。自主謹慎といえば聞こえは良いが、ほとんど逼塞に近い。

 

その日も、半兵衛は城内の一室で、紙を広げていた。

 

地形を書いたものでもあり、兵の置き方を書いたものでもあり、ただの思索の走り書きでもある。本人にしか分からぬ整理だ。戦のない時まで戦の形を考えるのは、性分としか言いようがない。

 

そこへ、控えの者が静かに声を掛けた。

 

「若君」

「何だ」

「小田井の“美濃のご隠居”より、文が」

 

筆先が、ほんのわずかに止まる。

その呼び名だけで、誰からかは分かった。

 

斎藤山城守道三。

 

いまは尾張の小田井にあり、表向きはご隠居。だが、そんな名で収まる男ではない。しかも、あの人が文を寄越す時は、大抵ろくでもない。ろくでもないが、見過ごせもしない。

 

「持て」

 

文が差し出される。

封を切り、開く。

 

字は簡潔だった。だが簡潔だからこそ、あの老人の癖が出る。

 

桶狭間、義元討死、織田勝利。

 

その次に書かれていたのは、一人の名だった。

 

――治部大輔信繁。

 

半兵衛の目が、そこで少しだけ細くなる。

 

その名は、すでに耳へ入っていた。小田井の若武者。桶狭間で義元の首を挙げた。織田上総介のもとで、一気に名を上げた。そこまでは、戦好きの者たちの噂としても流れてくる。

 

だが道三の文は、その程度のまとめ方ではなかった。

 

見える。読む。その上で、自ら前へ出る。

ただの血気ではない。

尾張の内で収まる器ではない。

一度、見よ。

 

そこまで読んで、半兵衛は文を閉じた。

 

部屋は静かだった。

 

外では風が木を揺らしている。遠くで兵の声が一つ、二つ、細く流れる。だが半兵衛の内には、少し別の風が立っていた。

 

「……ご隠居らしい」

 

誰にともなくそう呟く。

 

あの老人は、駒を勧める時に「使える」とはあまり言わない。もっと面倒な言い方をする。見よ、測れ、会え、預ける、そういう回りくどい言い方をする。

 

つまり、最初から「仕えよ」とは言っていない。

それがむしろ、半兵衛には都合がよかった。

仕えよ、と言われれば身構える。

だが、一度見よ、と言われるなら話は別だ。

 

「桶狭間で、義元の首」

 

小さく口に出してみる。

元服仕立て、初陣の若武者の働きとしては、大きすぎる。

 

運だけでは取れぬ。血気だけでも取れぬ。そこへ届くまでに何を見て、どう踏み込んだかがいる。しかも、道三がわざわざ文を寄越すということは、首を取ったことそのものより、その取り方と、その後の扱い方に見るべきものがあったのだろう。

 

半兵衛は、文をもう一度開いた。

短い。

相変わらず短い。

だが、短い文の中に、十分に嫌な匂いがある。面白いものを見つけた時の、あの老人特有の匂いだ。

 

「どうなさいました」

 

控えの者が、おそるおそる問うた。

半兵衛はすぐには答えなかった。

 

問いに答えるより先に、自分の中で思索の盤面を置き直す必要があった。

 

尾張は桶狭間で跳ねた。

今川が崩れる。

尾張が勢いづく。

そうなれば、美濃は隣国として済まない。避けて通れぬ。むしろ、必ず次の焦点の一つになる。

 

その時、織田側に「首を取る若武者」がいるだけなら、そこまで面倒ではない。だが、もし道三の言う通り、「見えて、自分で踏み込む若武者」なら話は違う。

 

しかも、ご隠居がわざわざこちらへ文を寄越した。

つまり、ただの武辺ではなく、こちらのような頭を使う者とも組ませる値打ちありと見ている。

半兵衛は文を畳み、膝の上へ置いた。

 

「……会ってみるか」

 

控えの者が顔を上げる。

 

「尾張へ、でございますか」

「尾張まで行くかどうかは、まだ決めぬ」

 

半兵衛は即座にそう切った。

 

いきなり飛びつくのは性に合わない。道三の目利きを買っていないわけではないが、それだけで自分の足を丸ごと預けるほど素直でもない。

 

「ただ、見ぬまま捨てるには惜しい」

 

それが、今の正直なところだった。

 

桶狭間の若武者。

道三が文を寄越すほどの男。

しかも長良川の縁まである。

 

そこへ、少し興味が湧いた。

 

半兵衛は立ち上がった。

 

それだけで、控えの者の空気が変わる。普段、城の中でじっと思索に沈んでいることの多い若君が、自分から立つ。それが何を意味するか、周囲には十分大きい。

 

「馬は要らぬ」

「は」

「まずは人をやれ。小田井の様子、治部大輔殿の周り、誰が付いているか、何を見ているか。そこからだ」

 

命の出し方が、いかにも半兵衛らしい。

会う前にまず見る。

しかも本人ではなく、周辺から。

どういう人間が寄るかで、その主の輪郭も見える。

 

「承知致しました」

 

控えの者が下がる。

 

半兵衛は、障子の外の空を見た。

 

美濃の空は、尾張ほど明るくは見えない。だが曇っているわけでもない。ただ、どこか様子見の空だ。

 

「治部大輔信繁、か」

 

その名を口にする。

まだ実感はない。

 

名だけなら、この乱世にいくらでも現れる。首を取った若武者も、威勢の良いだけの男も、探せばそこらにいる。

 

だが、ご隠居がわざわざ文を寄越した。

しかも「見よ」と言う。

 

あの老人は、相手を褒める時ほど面倒だ。軽々しく使えるとは言わず、こちらに値踏みをさせる。そういう形でしか、大きい駒を動かさぬ。

 

ならば、そこには何かあるのだろう。

 

「尾張の若武者では済まぬ、と」

 

半兵衛は小さく息を吐いた。

尾張の若武者で済まぬなら、美濃もまた無関係ではいられぬ。

 

左京大夫とそりの合わぬまま、菩提山で黙っているだけでは見失う流れがある。もし本当に、織田側にそういう男が出てきたなら、一度は見ておかねばならない。

 

半兵衛は紙と筆を引き寄せた。

返書を書くためではない。

まずは、見に行くための整理だ。

何を問うか。

何を見るか。

どこで会うか。

 

桶狭間で首を取っただけの血気者なら、二、三の問いで崩れる。もし崩れぬなら、その先を考える値打ちがある。

 

筆先が紙へ触れる。

 

一つ、二つ、三つ。

 

問いの形が並んでいく。

 

兵。

 

政。

 

人。

 

そして、美濃。

 

そこまで書いて、半兵衛はようやくほんの少しだけ口元を緩めた。

 

「……では一度、その若武者を見てみるか」

 

独り言のようでいて、もう半分は決まっている声だった。

 

菩提山城の空気は相変わらず静かだ。

だが、その静けさの中で、確かに一つ、駒が動いた。

 

 

 

 

 

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