織田家の嫡子~藤左衛門家の特異点   作:デトロ!開けろイト市警だ!

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011首一つの価値

それから三日ほどで、最初の報せは返ってきた。

 

半兵衛は城内の一室で、それを聞いた。

 

大仰な評定の座ではない。帳面と地図と、走り書きの紙が散らばる、いつもの部屋だ。障子の外では風が木を鳴らしている。静かな城だ。静かだが、その静けさの中へ外の流れが細く差し込んでくる時だけ、ここは途端に面白くなる。

 

「申し上げます」

 

控えの者が膝を進める。

 

半兵衛は紙の上に落としていた目を上げた。

 

「申せ」

「小田井の治部大輔信繁殿の周辺、まずは大きく二筋にございます」

 

そこで控えの者は一拍置いた。

 

半兵衛は何も促さない。

 

相手が自分で順を立てるかどうかもまた、情報の質のうちだ。

 

「一つは、桶狭間以来そのまま寄った武辺にございます」

 

半兵衛の目がわずかに細くなる。

 

「前田慶次郎利益、奥村助右衛門永福」

 

やはりそこか、と思う。

 

道三の文にも滲んでいた。桶狭間の熱、その場の首の匂い、それに引かれて寄る武辺がいると。

 

「前田又左衛門殿の筋とのこと。されど、正式な辞去の筋は後に通すとして、当面は治部大輔殿の左右にて働くお許しを得た由」

 

半兵衛は小さく頷いた。

この整理は良い。

 

熱に任せて横取りしたのではなく、筋は立てている。だが実務は止めない。勢いと家中作法の折り合いとしては、ほぼ最上だ。

 

「慶次郎はどう見える」

「派手にございます」

「それは見れば分かる」

 

控えの者が少し慌てる。

 

「は。ですが、派手なだけではございませぬ。あえて目立ち、敵の目を引き受けることで、治部大輔殿に間を作る類と」

 

半兵衛は少しだけ口元を動かした。

悪くない見立てだ。

 

「助右衛門は」

「堅うございます。確実に斬り、乱れず、騒がず、しかし置くべきところへおります」

「左右で役が違う、か」

「左様にございます」

 

半兵衛は、そこで一度視線を落とした。

 

武辺が二人。しかも熱に浮かれた同類ではなく、役割の違う二人が揃う。これは、若武者の周りとしては思った以上に良い形だった。

 

「で、もう一筋は」

 

その問いに、控えの者の顔つきが少しだけ変わった。

こちらが本命だと分かっている顔だった。

 

「知の筋にございます」

「申せ」

「明智十兵衛光秀殿」

 

その名が落ちた時、半兵衛は初めてはっきりと顔を上げた。

 

「……もう来たか」

 

それは驚きというより、少し感心に近かった。

 

道三が文を出したとしても、十兵衛のような男はもっと間を取るかと思っていた。だが、思ったより早い。

 

「はい。正式に仕えたとは申せませぬ。されど、既に小田井へ姿を見せ、治部大輔殿と対面したとのこと」

「ほう」

 

半兵衛は、そこで少しだけ考えた。

武辺が寄るのは分かる。桶狭間の首がある。義元討ちの大功がある。あれだけで十分、人を吸う。

 

だが、十兵衛まで動くとなれば話は違う。

 

あの男は、ただ勢いに乗る類ではない。文も武も見て、自分の置き場を測る男だ。その十兵衛が、すでに一度見に行っている。

 

「話の中身は」

「細部までは」

「構わぬ。輪郭でよい」

 

控えの者は慎重に言葉を選んだ。

 

「治部大輔殿は、桶狭間の次を問われ、美濃まで視野に置く旨を答えた由」

 

半兵衛の目が、静かに細まる。

 

「美濃、と」

「尾張の内を固めるのが先。されど、それで終わるつもりはない、と」

 

部屋の空気が少し変わる。

半兵衛は何も言わない。

だが内では、盤が置き直されていた。

 

桶狭間を越えたばかりの若武者が、ただ勢いで「次も勝つ」と言うのではない。尾張の内を固める順を置いた上で、その先に美濃を見る。しかも、それを十兵衛の前で言える。

 

「他には」

「“美濃を獲れば天下へ手が届く”とも」

 

半兵衛は、そこでわずかに口元を緩めた。

 

若い。

 

若いが、ただ大きなことを言っているだけではないらしい。美濃の意味を分かっている者の言葉だ。少なくとも、そう装う程度の頭はある。

 

「十兵衛はどうした」

「その場では即答せず。されど、来た甲斐はあったと申した由」

 

半兵衛は、静かに息を吐いた。

十分だ。

 

あの男がその場で膝を折るはずもない。だが、「来た甲斐はあった」と言わせたなら、それはもうただの若武者ではない。

 

「……面白い」

 

小さく、そう漏れた。

控えの者は顔を上げない。

 

上げないが、主の気配が変わったことは分かっているだろう。

 

半兵衛は立ち上がり、部屋の端に寄った。障子の向こう、山の木々が風で揺れている。

 

菩提山から見える景色は、広いようでいて狭い。ここへ籠っていれば、美濃の内側を見ることはできる。だが、外から美濃へ差し込んでくる流れまでは、じっとしていては見誤る。

 

治部大輔信繁。

 

桶狭間で首を取った若武者。

その左右に、慶次郎と助右衛門という武辺が付く。

さらに、十兵衛まで見に行った。

つまり、あの若武者の周りでは、もう武だけではなく知も動き始めている。

 

「ご隠居め」

 

半兵衛は小さく笑った。

 

「やはり、ただの首の話ではなかったか」

 

道三が文を寄越した時点で、そうだろうとは思っていた。だが、実際に並び始めた顔ぶれを聞くと、話の重みが違う。

 

一つの首が人を呼ぶことはある。

 

だが、一つの首が、武辺と知恵者の両方を動かし始めるなら、それはもう首一つの話ではない。器の話だ。

 

半兵衛は振り返った。

 

「もう少し情報を寄せろ」

 

控えの者が頭を下げる。

 

「は」

「治部大輔本人の言葉も拾え。どういう言い回しをする。誰にどう返す。あとは周りだ。慶次郎、助右衛門、十兵衛。この三人が、あの若武者をどう見ているかを知りたい」

「承知」

「それと」

 

半兵衛は少しだけ考えてから言った。

 

「小田井の“美濃のご隠居”の周りもだ」

 

控えの者が一瞬だけ顔を上げる。

 

「道三殿、にございますか」

「そうだ」

 

半兵衛の声は静かだった。

 

「十兵衛まで動いたとなれば、あのご隠居は、治部大輔を武辺の若武者としてではなく、もっと先の盤に置き始めている」

 

そこが分からねば、流れ全体を見誤る。

 

控えの者が下がった後、部屋にはまた静けさが戻った。

 

だが先ほどまでの静けさとは違う。思索のために止まっていた空気が、いまは次の一歩を測るための静けさへ変わっていた。

 

半兵衛は机へ戻り、紙を引き寄せた。

 

そこへ、新たに四つ名を書く。

 

織田治部大輔信繁。

前田慶次郎利益。

奥村助右衛門永福。

明智十兵衛光秀。

 

少しだけ間を置いて、端にもう一つ。

 

斎藤道三。

 

それを眺める。

 

若武者一人なら、まだ読める。

 

だが、その周りに人が付き始めると、途端に盤は広がる。しかも、武辺だけでなく、十兵衛まで寄っている。ならば、その先で美濃が絡まぬはずがない。

 

「尾張の若武者では済まぬ、か」

 

道三の文の一節が、いまになって実感を持って返ってくる。

半兵衛は筆を置き、ほんのわずかに目を細めた。

 

「ならばなおさら、見に行かねば損だな」

 

忠義ではない。

まだそこではない。

期待とも違う。

 

ただ、盤を読む者として、この流れを見ぬのは惜しい。それだけで十分、半兵衛を動かす理由になった。

 

菩提山の空気は相変わらず静かだった。

 

だが、その静けさの底で、また一つ、駒が前へ出ようとしていた。

 

 

竹中半兵衛が小田井へ来たと聞いた時、俺は少しだけ息を止めた。

 

明智十兵衛が先に来た。道三殿の旧臣であり、流浪の末にまだ置き場を定め切っていない知将。あの人が来た時点で、桶狭間の余波はもう武辺だけのものではなくなっていた。

 

だが、竹中半兵衛まで動くとなると、話はさらに一段深くなる。

 

あの男は、ただの若き軍略家ではない。

 

後世の知識を持つ俺にとっては、むしろその若さゆえに恐ろしい。美濃にあって、まだ大きく世へ出ていない段階ですら、既に人の上に立つ才を持っている。読みの深さ、動くべき時と動かぬべき時の切り分け、その両方を持つ。

 

しかも今は、まだ一色左京大夫と折り合いが悪く、菩提山へ半ば籠ったままの時期だ。

そんな男が、自分から小田井まで足を運んでくる。

それはつまり、少なくとも「見ぬまま捨てるのは惜しい」と判断されたということだ。

 

その日、半兵衛はご隠居の離れではなく、父上の居所に近い客座敷へ通された。

 

そこがいかにも、この対面の性質を示していた。

道三殿の客ではない。

かといって、まだ俺の客でもない。

小田井という場が、一度受ける。

そういう形だ。

 

廊を進み、障子の前で一礼する。

 

「治部大輔にございます」

 

中から、落ち着いた声が返った。

 

「お入り下され」

 

声は若い。

だが若さより先に、静けさがあった。

 

障子を開ける。

座敷の中央に、一人の男がいた。

細身だった。

 

十兵衛のような削げた鋭さとは少し違う。こちらは、静かに張った弓のような印象だった。いまはまだ何も放っていない。だが、ひとたび指が掛かれば、どこへ飛ぶか分からぬ緊張がある。

 

顔立ちは穏やかだ。

 

穏やかだが、その穏やかさに油断は出来ない。人の声色、言葉の綻び、身じろぎの意味まで、ひと目で拾っていそうな目をしている。

 

竹中半兵衛重治。

 

この人が、『あの』竹中半兵衛か。

 

胸の内で、そんな認識が立ち上がる。

 

後世では「今孔明」だの「天才軍師」だの、いかにも分かりやすい名札で語られがちだ。だが、そんな通り一遍の言葉で済む人物ではない。若くして人の器量を見抜き、兵の形を読み、わずかな綻びから全体の帰趨を変えうる才を持つ。しかもそれを、表へ出て大仰に誇るたぐいではない。

 

むしろ、静かすぎる。

静かに見て、静かに測り、いざ動くと決めた時だけ一気に盤を返す。

そんな男が、いま俺を見ている。

 

俺は深く頭を下げた。

 

「お初にお目にかかります。織田治部大輔信繁にございます」

 

半兵衛も一礼した。

 

「竹中半兵衛重治にございます」

 

声音もまた静かだった。

 

低くよく通る声だが、十兵衛のように細く刺す感じではない。もっと内へ沈む。言葉数は少なくても、その少なさに不足がない声だった。

 

座へ着く。

その瞬間から、互いに見ているのが分かった。

値踏み、というと少し俗だ。

もっと細かい。

 

この若武者はどの程度まで喋るか。

どこまで自分を見せるか。

こちらの沈黙に耐えるか。

大きくなったと言われて、実のところどこまで見えているか。

 

そういうことを、この人は座って一息の間に測っている。

たぶん俺も、似たようなことをしている。

 

先に口を開いたのは半兵衛だった。

 

「此度の桶狭間、お見事にございました」

 

無駄がない。

余計な飾りも、探りの文句もない。

だからこそ、かえって慎重になる。

 

「過分なお言葉にございます」

「過分ではありますまい」

 

そこで半兵衛は、ほんの少しだけ間を置いた。

 

「今川治部大輔の首を取られたのでしょう」

 

十兵衛の時より、問いが直い。

 

ご隠居からの文でも、周辺からの報でも、もうそこは聞き及んでいるはずだ。それでも、本人の前で確認する。事実そのものより、その時の受け方を見ているのだろう。

 

「は」

 

俺は答える。

 

「然り」

 

半兵衛は黙った。

 

その沈黙が、むしろこちらに喋らせる。

 

「もっとも、某一人の働きではありませぬ」

「ほう」

「上総介様のご決断あっての急襲。毛利殿、服部殿の働きあり、慶次郎と助右衛門の左右あり、その上での首にございます」

 

半兵衛の目が、そこで初めて少しだけ揺れた。

たぶん、そこを聞きたかったのだ。

 

首を取った者が、どこまで他の働きを見ているか。

自分一人の武名として語るのか、それとも場全体の流れの中で理解しているのか。

 

「では」

 

半兵衛が問う。

 

「治部大輔殿ご自身は、その中で何をなされたとお考えで」

 

これも、ずいぶん直截だ。

だが嫌いではない。

 

「見た」

 

そう答えると、半兵衛の目が少し細くなった。

 

「見た、と」

「はい」

 

俺は続ける。

 

「毛利殿と服部殿の進む筋を見た。敵の厚みの歪みを見た。旗の位置、人の流れ、守りの偏りを見た。その上で、あれが本陣中枢と見切った」

 

半兵衛は一言も挟まない。

 

「見切ったなら、あとは自分で踏み込むほかありませぬ。人に勧めて自分だけ後ろへ残るわけにはゆかぬ」

 

そこまで言ってから、少しだけ息を置いた。

 

「ゆえに、見て、前へ出た。それだけにございます」

 

半兵衛の視線が、初めて少しだけ柔らかくなった。

それは好意ではない。

 

「そこをそう言うか」という納得に近い。

 

「なるほど」

 

その一言に、先ほどまでより重みがあった。

 

俺は逆に問うた。

 

「半兵衛殿は、桶狭間をどう見られました」

 

半兵衛はすぐには答えなかった。

障子の向こうで風が鳴る。

 

そのわずかな間に、この人はたぶん、本当に言うべきところだけ選んでいる。

 

「今川の死ではありましょう」

 

やがて、そう言った。

 

「されど、それだけでは足りませぬ」

「と、申されますと」

「今川治部大輔義元が死んだ。では、その後、誰が何を埋めるか」

 

半兵衛の声は静かだ。

 

だが、静かなだけに言葉がよく残る。

 

「空いたところへ伸びる者。慌てて縮む者。内から割れる者。桶狭間とは、首一つの勝ち負けというより、その後に国々の形が崩れ直す始まりにございましょう」

 

やはり、ただ者ではない。

 

この人もまた、戦場そのものより、その後の盤が先に見えている。

 

「では、尾張は」

 

と俺が問うと、半兵衛はすぐ答えた。

 

「広がる側にございます」

「美濃は」

 

そこで、半兵衛はほんの少しだけ口元を動かした。

 

「問いますか」

「問います」

「なら申します。美濃は、広がる尾張から見れば避け難く、内から見ればまだ固まり切らず、挟まれる国にございます」

 

俺は頷いた。

その通りだ。

 

「ゆえに、尾張が本当に先を取るなら、美濃を視野から外せますまい」

 

半兵衛は、そこで初めてこちらへ真っ直ぐ目を向けた。

 

「治部大輔殿は、そこまで御覧ですか」

 

十兵衛の時にも似た問いはあった。

だが、こちらはさらに一段深い。

相手の答えそのものだけでなく、その答えへ至る視界の高さを見ている。

俺は息を整えた。

 

「尾張の内を固めるのが先にございます」

 

まず、順を置く。

半兵衛は黙っている。

 

「されど、それで終わるとは思っておりませぬ」

 

そこで、今度は切り口を変えた。

 

「美濃は、尾張にとってただ隣にある国ではありませぬ。あの地を押さえれば、東から来るものも、西へ抜けるものも、一度はこちらを見ねばならなくなる。兵の道も、物の道も、人の道も、あの国を外しては回りませぬ」

 

半兵衛の目が、すっと細くなる。

 

「加えて、美濃は広い。広い上に、山も川もあり、地形が一様ではない。国人を束ねるにも、城を置くにも、ただ一つ勝っただけでは収まらぬ国にございます」

 

俺はそこで少しだけ間を置いた。

 

「獲るだけならまだしも、持たせるのが難しい。されど逆に申せば、あの国を押さえ、持たせることが出来るなら、ただ国を一つ得る以上の意味がある」

 

半兵衛は、じっとこちらを見ている。

 

「兵も、銭も、人も、あそこを境に東西へ流れます。ゆえに某は、美濃をただの隣国とは見ておりませぬ」

 

そこで、ほんのわずかに口元を動かした。

 

「天下分け目の決戦地、日の本の臍――などと申せば、少々大袈裟に過ぎるやもしれませぬが」

 

半兵衛の目が、十兵衛の時とは違う細まり方をした。

 

あの人は「そこまで言うか」と測った。

この人はたぶん、「なぜそこまで言う」と考えた。

 

もちろん、この場の誰も、俺がその言葉へ二重底を仕込んでいることは分からない。

 

天下分け目の決戦地。

 

俺の脳裏にあるのは、いまの美濃を巡る争いだけではない。壬申の乱。関ヶ原。はるか後の世において、あの地が日の本の帰趨を裂く場になることを、俺だけが知っている。

 

だからこそ、美濃はただの隣国ではない。

本当に、日の本の臍なのだ。

 

「……面白い仰せようにございますな」

 

半兵衛がそう言った。

 

「大言壮語、と切って捨てぬのですか」

「切って捨ててもよろしいのでしょうが」

 

そこで、半兵衛はほんの少しだけ首を傾けた。

 

「治部大輔殿は、ただ大きなことを言いたい顔ではございませぬ」

 

その言い方に、思わず少しだけ笑いそうになった。

ひどいようでいて、むしろ評価だ。

 

「半兵衛殿も、ただ褒めに来た顔ではありませぬ」

 

そう返すと、今度は半兵衛の方がわずかに目を和らげた。

 

ほんの一瞬だったが、あの静かな顔に、確かに人の温度が差した。

 

「はい。見に参りました」

「何を」

「若武者の首ではなく、その首の後に何を見ておられるかを」

 

まっすぐだった。

そして、そこがこの人らしい。

 

義元を討った。その事実はもう動かぬ。ならば見るべきは、その勝ちをどう扱うか、その後どこまで見るか、そこだと。

 

俺は頷いた。

 

「では、何か見えましたか」

 

半兵衛は少しだけ考えた。

 

答えを選んでいるのではない。まだ答え切らぬことも含めて、正直な線を引いているのだろう。

 

「いくらかは」

 

それが返答だった。

多すぎず、少なすぎず。

 

「いくらか、ですか」

「はい。全部はまだ見えませぬ」

「それで十分」

 

そう言うと、半兵衛は少しだけ眉を上げた。

 

俺は続ける。

 

「初めから全部見える相手なら、こちらが怖い」

 

今度こそ、半兵衛の口元がわずかに緩んだ。

 

「それもそうだ」

 

その一言で、座の空気がようやく少しだけ和らいだ。

だが、十兵衛の時の和らぎ方とは違う。

 

十兵衛は、細く探りながら距離を測る。

半兵衛は、必要なだけ切り込み、そこから先は不用意に踏み込まぬ。

 

似ているようでいて、かなり違う。

そしてその違いが、むしろ心地よかった。

 

「本日は、参って損ではありませなんだ」

 

半兵衛が静かに言う。

 

「すぐにどうこう申し上げることではありませぬ。されど、少なくとも道三殿の文が、大袈裟ばかりではないことは分かりました」

「ご隠居は大袈裟ですからな」

「その通りにございます」

 

そこで、二人とも少しだけ笑った。

本当に少しだけだ。

 

だが、それで十分だった。

 

最初から忠を尽くすでもない。

ここで腹を決めるでもない。

それでも、「また会う価値がある」と互いに見た。

 

そのことの方が、たぶんこの人との初手としては正しい。

 

半兵衛が立ち上がり、一礼した。

 

「本日はこれにて」

 

俺も頭を下げる。

 

「また、いずれ」

「はい。いずれ」

 

障子が閉まる。

静けさが戻る。

だが、その静けさは、十兵衛の時ともまた違った。

 

武辺が寄った。

十兵衛が見に来た。

そして半兵衛もまた、自分の目で見て帰った。

 

まだ誰一人、正式にこちらの家臣として揃ったわけではない。

だが、それでも分かる。

桶狭間の首は、もう武名だけで終わっていない。

人を動かし、知を引き寄せ、次の盤を広げる首になっている。

 

俺は静かに息を吐いた。

 

「厄介だな」

 

思わず、そう漏れた。

だが、それは嫌だという意味ではない。

大きくなる、というのはこういうことなのだろう。

 

首を取り、名を得る。

その結果、人が寄る。

 

寄った人間をどう受け、どう回し、どう次へ繋ぐかまで含めて、もう試され始めているのだ。

 

障子の向こう、廊の先にはたぶん慶次郎あたりがうろついている。少し離れたところには助右衛門もいるだろう。十兵衛はまだ距離を測っている。半兵衛はさらにその外から盤を読む。

 

そして小田井の離れでは、ご隠居がきっと面白そうに笑っている。

 

俺は自分の手を見た。

桶狭間で義元の首を落とした手だ。

 

あの時は、ただ前へ出るしかなかった。だが今は違う。前へ出た先で寄ってくる者たちを、受け止める側の手にならねばならない。

 

それが、治部大輔信繁としての次なのだろう。

 

 

半兵衛が去った後もしばらく、座敷の空気は元へ戻らなかった。

 

障子は閉じている。風の音も、廊を渡る足音も、さっきまでと変わらぬ。だが、部屋の中に置かれた目に見えぬ盤だけが、少し前とは違う形になっている。

 

俺は一人、しばらくそのまま座していた。

 

竹中半兵衛重治。

 

あの人は結局、何も約してはいない。忠を尽くすとも、また来るとも、明言はしなかった。だが、それでいて手応えは確かにあった。見に来ただけで終わるなら、ああいう去り方はしない。少なくとも、切り捨てはされていない。

 

「……人が、寄る」

 

口に出すでもなく、胸の内でそう思った。

桶狭間の前なら、考えもしなかったことだ。

 

俺は前へ出る側だった。どう使われるか、どう働くか、どこで目を掛けられるか、そういうことばかりを見ていた。家のことも、父上のことも、上総介様のことも考えてはいたが、それでもまだ自分は「動かされる側」の延長にいたのだと思う。

 

けれど、いまは違う。

首を取り、名を得た。

その結果、周りがこちらを見るようになった。

 

ただ見るだけではない。寄ってくる。試しに来る。値踏みに来る。あるいは、最初から左右へ立つつもりで来る。

 

そのことの重さが、半兵衛が帰った後になってじわりと身へ回ってきた。

 

慶次郎は、分かりやすい。

 

あいつは最初から「首の匂い」だの何だのと言っていたが、要するに武辺の鼻なのだろう。大きくなる者、前へ出る者、危ない橋を自分で渡る者、そういう相手を嗅ぎ当てる。しかも嗅いだら迷わない。あれは理ではなく、本能に近い。

 

派手だ。

 

だが、ただ派手なだけではない。

 

敵の目を引き受け、乱戦に渦を作り、その渦の中へ味方を通す。ああいう武辺は、ただ一人強いよりも厄介だ。戦場での役目が分かっているからだ。

 

助右衛門は、逆だ。

 

理に寄っているようでいて、武辺としての本能も鋭い。慶次郎が渦を作るなら、助右衛門はその縁を整える。広げるべき穴を広げ、塞ぐべき脇を塞ぐ。目立たぬが、いなければ形が崩れる。

 

桶狭間であの二人が左右へいたことは、いま思い返しても大きかった。

 

もし慶次郎だけなら、派手すぎて形が崩れていたかもしれぬ。助右衛門だけなら、堅実でも突破の勢いが足りなかったかもしれぬ。二人で一組なのだ。荒さと堅さ。派手さと静けさ。ああいう左右が早いうちに付いたのは、たぶん運では済まない。

 

そして十兵衛。

 

あの人はまだ、こちらの中に入ってはいない。半歩外だ。だが、外から見ている分、かえってよく見ている。人物も、言葉の置き方も、先を見る目も、全部まとめて量りに来ていた。

 

本能寺の変の首謀者。

 

脳裏にはどうしてもその未来がちらつく。だが、それと同じくらい強く思う。そこへ至るまでのこの人は、織田の中でとてつもない働きをするのだ、と。

 

文武両道。

あれは、安い褒め言葉ではない。

 

戦も出来る。政も出来る。人も動かせる。教養もある。しかも、それを表へひけらかさず、静かに積み上げていく。ああいう人が側に入るかどうかで、家の形は何段も変わる。

 

半兵衛はさらに違う。

 

十兵衛が「どこへ身を置くか」を測る人なら、半兵衛は「何を成せる盤か」を測る人だ。人物を見るが、それだけではない。国の形、兵の道、城の置き場、人の流れ、勝った後にどこまで持たせられるか。そういうことまで含めて見ている。

 

だからこそ、美濃の話も、十兵衛の時と同じでは通らない。

 

十兵衛に示すべきは、俺が尾張の内だけで終わるつもりはない、という対局の目だった。だが半兵衛には、その先をもう一歩具体で見せねばならない。あの人は、夢物語に乗るのではなく、勝ち筋として成立するかで相手を見る。

 

「……武と知、か」

 

ぽつりと、今度は本当に声に出た。

 

慶次郎。

助右衛門。

十兵衛。

半兵衛。

 

まだ誰一人、完全には揃っていない。

 

慶次郎と助右衛門ですら、正式には前田家との筋の整理が残っている。十兵衛は見に来ただけだ。半兵衛はもっと遠い。

 

だが、それでも見える。

原型だ。

 

俺の周りに、武辺だけでなく、知もまた寄り始めている。その四枚が、まだ薄く、まだ不安定ながら、既に形を取り始めている。

 

もし本当に、この四人が揃うなら。

 

慶次郎が前で渦を作り、助右衛門が脇を固める。

十兵衛が人と政を繋ぎ、半兵衛が盤面そのものを読む。

そこへ俺自身が、前へ出るべき時に出る。

 

考えただけで、恐ろしくもある。

そんな布陣は、若武者一人の器ではない。

いや、そうなった時点で、もう若武者一人では済まぬのだろう。

 

「治部大輔、か」

 

自分の名を、胸の内で転がす。

 

桶狭間の前までは、太郎左衛門でよかった。元服を経た若者として、家の期待と自分の野心を抱えて前へ出ればそれで足りた。

 

だが、いまは足りない。

首を取り、名を得る。

それ自体は一日で済む。

 

だが、その先は一日では済まない。寄ってくる者の才をどう受けるか。誰に何をさせるか。どこまで見て、どこで切るか。そこまで含めて名に見合う人間でなければ、治部大輔などという名乗りは重いだけだ。

 

俺は立ち上がり、障子を少しだけ開けた。

 

夕方の空だった。

 

日が落ち切る前の光が、小田井の庭へ斜めに差している。人の声は遠い。勝報の熱も、昼よりはいくらか落ち着いている。そういう時間に、一人で外を見ていると、ようやく自分の中の声がまとまってくる。

 

慶次郎は、武辺の勘で寄った。

助右衛門は、戦場での踏み込みを見て寄った。

十兵衛は、器量と先を見る目を測りに来た。

半兵衛は、盤の広さを見に来た。

 

寄り方が、四人とも違う。

 

違うのに、向いてくる先は同じだ。

 

それはつまり、桶狭間で俺が取ったのが、ただの首ではなかったということだろう。戦場での武功であり、家中での位置の変化であり、周囲へ「この若武者は次がある」と思わせる証でもあった。

 

「次、か」

 

そうだ。

問題はもう、桶狭間そのものではない。

次だ。

 

尾張の内をどう固めるか。

その上で美濃へどう触るか。

上総介様が何を考えているか。

父上が家をどう見ているか。

又六郎へ何を残すか。

お市殿とお犬殿の位置が、どういう意味を持ってくるか。

 

そして、自分の周りへ寄り始めたこの四枚を、どういう形で並べるか。

 

並べる、という発想が頭に浮かんだ時、少しだけ苦笑した。

棋士にでもなった気分だ。

 

だが、あながち間違いでもないのだろう。ご隠居と父上が碁を打ちながら人の流れを語るように、いまの俺もまた、人を盤の上に置く側へ足を踏み入れ始めている。

 

もちろん、まだ早い。

 

偉そうに「四枚看板」だのと気取る段ではない。揃ってもいないものを、勝手に揃った気で語るのは滑稽だ。

 

だが、それでも原型は見えた。

 

見えたなら、その原型を現に変えねばならない。

 

武辺がいても知がなければ、勝った後が持たぬ。

知がいても武辺がなければ、前へ出る力が細る。

どちらもいても、それを束ねる芯がなければ、ただ賢い者と強い者が寄り集まって終わる。

 

ならば、芯になるしかない。

 

思ったより簡単に、その言葉が胸へ落ちた。

 

怖くないわけではない。

むしろ、怖い。

人が寄るというのは、自分の失敗が他人の傷になるということだ。首を取る時の怖さとは、また違う。

 

けれど、桶狭間を越えた以上、もうそこから逃げるわけにもいかない。

 

「……やるしかない、か」

 

夕暮れの庭へ向かって、小さくそう呟いた。

返事はない。

ただ風が一つ、庭木を鳴らしただけだった。

それでも、不思議と腹は据わった。

 

慶次郎、助右衛門、十兵衛、半兵衛。

 

まだ名だけが並んだようなものだ。

だが、その並びがやがて本物になるなら、こちらもそれに足る人間にならねばならない。

 

治部大輔信繁。

 

その名は、もはや自分一人のものではなくなり始めていた。

 

背負うものが増えた。

 

そのことだけは、もう疑いようがなかった。

 

 

清洲の女中たちは、よく見ている。

 

誰がどこへ出入りしたか。誰の顔色が変わったか。どの座敷へ、どの名の者が通されたか。表で評定に列するわけではない。だが、奥にいるからこそ分かる流れもある。

 

お市は、そのことをよく知っていた。

 

だから、その日の夕刻、お犬がやや目を輝かせたまま部屋へ入ってきた時も、ただの噂話では済まぬのだろうと思った。

 

「姉上」

「どうなさいました」

 

お犬は座るやいなや、声を少し落とした。

 

「また、治部大輔殿のところへ人が参ったとか」

 

お市は、すぐには表情を変えなかった。

 

「また、とは」

「明智十兵衛殿に続いて、今度は竹中半兵衛殿、とのことにございます」

 

そこまで聞いて、ようやくお市の目がわずかに動いた。

 

竹中半兵衛。

 

名は耳にしている。美濃筋の若き知恵者。まだ大きく表へ出ているわけではないが、見える者には見えている名だ。

 

お犬は続けた。

 

「しかも、前田慶次郎殿と奥村助右衛門殿も、桶狭間以来ずっと治部大輔殿の左右におられるとか」

 

お市は、その言葉でようやく小さく息をついた。

 

「……そう」

 

驚いた、というより、やはりそこまで来たか、に近い。

 

桶狭間で今川治部大輔の首を挙げた。

上総介である兄が、治部大輔の名乗りを許した。

そこまでは既に大きい。だが本当に恐ろしいのは、その後だ。

 

人が寄る。

 

しかも、ただ威勢のよい者ではない。

武辺が寄り、知のある者まで動く。

 

それはつまり、あの若武者の首一つが、単なる武名ではなく「この先に何かある」と周囲へ思わせたということだ。

 

「姉上は、驚かれませぬの」

 

お犬が不思議そうに尋ねる。

お市は少し考えてから答えた。

 

「驚いてはおります」

 

それは嘘ではない。

 

桶狭間の前まで、治部大輔殿――その頃はまだ太郎左衛門殿、と見る方が自然だったが――は、あくまで小田井の利発な若武者だった。家柄は近い。立場も遠くはない。けれど、それでもまだ「この先どこまで行くか」は誰にも定まっていなかった。

 

だがいまは違う。

義元の首を挙げたという一事だけではない。

その後に寄る顔ぶれが、もう違う。

 

お犬は、身を少し乗り出した。

 

「では、やはり……ただの若武者では済まぬ、と」

 

お市は、そこで初めて少しだけ口元を緩めた。

 

「もはや、そうなのでしょう」

 

静かな言い方だった。

だが、その声の底には確かな重みがあった。

 

「武辺が寄るのは分かります。戦で大きな首を取られたのですから」

 

お市は、膝の上へ視線を落とす。

 

「けれど、明智十兵衛殿や竹中半兵衛殿のようなお方まで動くとなれば、話は違います」

 

お犬も、そこは真顔で頷いた。

 

「姉上も、そう思われますか」

「ええ」

 

お市は言った。

 

「そうした方々は、ただ強いだけの者へは寄りますまい」

 

それが一番大きい。

 

武辺は、勢いに惹かれることがある。

だが知恵者は、勢いだけでは動かない。

相手がどこまで見ているか。何を成せるか。どこまで持つか。そこを量る。

 

その知恵者たちが、いま治部大輔殿を見始めている。

 

「兄上も、きっとご覧になっておられますね」

 

お犬がそう言うと、お市殿は静かに頷いた。

 

「もちろん」

 

兄・上総介信長は、あの種の流れを見落とす人ではない。

 

桶狭間の首級だけでなく、その後に誰が寄り、誰が様子を見に来ているかまで含めて、すでに読んでいるはずだ。

 

そして、それを読んだ上で、治部大輔殿をどう使うかを考えているに違いない。

 

お犬は、そこで少しだけ言いにくそうに目を伏せた。

 

「姉上」

「何です」

「……城中では、いろいろ申す者もおります」

 

お市は、その先を促さずとも分かった。

妹御のどちらかを。

そういう話だろう。

 

上総介が本気で考えているのか、家中が勝手に先回りしているだけなのか、その両方が混じっているのだろう。

 

お市は、少しだけ目を細めた。

 

自分とお犬は、ただの妹ではない。父の正室土田御前腹、すなわち上総介兄上と勘十郎兄上と同腹の姫だ。その婚姻は、ただ誰かへ嫁ぐという話では済まない。本家の血をどこへ結び、誰を一門の中で押し上げるかという話になる。

 

ゆえに、軽々しくは扱えぬ。

 

だが同時に、桶狭間を経た治部大輔殿が、もはや軽々しく扱えぬ若武者でもなくなっているのも確かだった。

 

「噂は、噂にございます」

 

お市はそう言った。

それは否定ではない。

肯定でもない。

 

まだそこを、自分から言葉にして定める段ではないというだけだ。

 

お犬は、姉のその言い方を聞いて、少しだけ目を丸くした。もっとはっきり斥けるかと思ったのかもしれない。

 

お市殿は、ふと庭へ目をやった。

夕暮れが、清洲の屋根の上へ静かに落ちていく。

 

「けれど」

 

お犬が顔を上げる。

 

「もしそのような話が、本当に兄上のお心の内にあるのだとしたら」

 

そこで一度、言葉を切った。

自分でもまだ、その先をどこまで言うべきか測っている。

 

「治部大輔殿は、家柄だけでその座へ近づいたのではありませぬ」

 

お市は静かに言った。

 

「桶狭間でご自分の手で、それに足る位置を取られたのです」

 

その声音は、驚きでも憧れでもなかった。

 

認めている声だった。

 

お犬はしばらく黙っていたが、やがて小さく頷いた。

 

「……はい」

 

お市はさらに続ける。

 

「しかも、それで終わっておりませぬ。終わっておるなら、武辺だけが寄るでしょう。けれど今は、違う」

 

明智十兵衛。

竹中半兵衛。

前田慶次郎。

奥村助右衛門。

 

お市は、その全ての人柄や力量を詳細に知っているわけではない。だが、名前だけでも十分だった。そうした名が、桶狭間の直後から治部大輔殿の周りへ見え始めている。それ自体がもう、ただの若武者ではない証だ。

 

「人が寄るというのは、恐ろしいことでもあります」

 

お犬が少し首を傾げた。

 

「恐ろしい?」

「ええ。強い、賢い、というだけで寄るのではありませぬ。その方の先に、自分の行く先を重ねられると思うからこそ寄るのでしょう」

 

お市はそこで、ほんの少しだけ目を伏せた。

 

「それだけのものを、あのお方は桶狭間で掴まれたのでしょうね」

 

部屋の中に、しばし静けさが落ちる。

 

お犬は、やがてほっと息をつくように笑った。

 

「姉上は、治部大輔殿を高くご覧になっておりますのね」

 

その言い方に、お市はわずかに口元を緩めた。

 

「高く見ねばならぬだけの働きをなされたのでしょう」

 

それは逃げでもあったし、たぶん本音でもあった。

 

実際、そうなのだ。

 

親族筋だから。家が近いから。兄上が目を掛けているから。そういうことを差し引いてもなお、桶狭間以後の治部大輔殿は、もう見方を変えざるを得ない。

 

一人で前へ出る若武者ではない。

人が寄り、場が動き、次の盤が広がる中心になり始めている。

 

お犬が立ち上がりかけて、ふと振り返る。

 

「姉上」

「何です」

「次にお会いする時は、また違って見えるやもしれませぬね」

 

その一言に、お市はすぐには答えなかった。

ただ、夕暮れの庭を見た。

もう違って見えているのかもしれない。

桶狭間の前と後では、たしかに何かが変わってしまったのだから。

 

「そうかもしれませぬ」

 

やがて、そうだけ答えた。

 

お犬が下がった後も、お市はしばらくその場に座していた。

 

清洲の空気は、勝って以後、少しずつだが確実に変わっている。兄上も、家中も、皆が次を見始めている。その中で、治部大輔信繁という名もまた、昨日までとは違う重さを持って響き始めていた。

 

しかも、その重さは一人の武名ではない。

 

武辺が寄る。

知恵者が寄る。

周りが「この先がある」と見て動く。

 

それは、若武者の域を越えた者の気配だ。

 

お市は、そっと膝の上へ手を重ねた。

 

主君と同腹の姫として生きるということは、自分の周りで動く縁や血の意味を、嫌でも考えるということでもある。

 

だからこそ分かる。

 

治部大輔信繁の周りで起き始めたことは、ただの戦後のざわめきではない。もっと先まで続く流れの最初の音なのだと。

 

夕暮れの光が、静かに畳の上を滑っていった。

 

 

清洲の夜は、勝った後ほど静かになり切らない。

 

桶狭間の大勝は、城中の空気を一変させた。今川義元の討死。尾張の存亡を分けかねなかった一戦での逆転。その熱は、さすがに数日で冷えるものではない。

 

だが、熱が引かぬからこそ見えるものもある。

 

上総介信長は、その夜、奥の一間で一人酒も取らずに座していた。

 

灯火は多くない。紙が数枚、脇に置かれている。軍勢の動き、戦後の整理、各家の反応、周辺の報せ。いずれも急ぎのものだが、その中に一枚、少し違う気配の文があった。

 

治部大輔信繁の周辺に関するものだ。

 

信長は、それを改めて手に取った。

 

前田慶次郎利益。

奥村助右衛門永福。

明智十兵衛光秀。

竹中半兵衛重治。

 

口には出さず、名だけを追う。

 

慶次郎と助右衛門は分かる。

 

あれは桶狭間の匂いに引かれた武辺だ。首の匂い、戦の匂い、前へ出る男の匂い。そういうものに鼻が利く。あの種の人間が治部大輔の左右へ寄るのは、ある意味で自然だ。

 

だが、十兵衛と半兵衛は違う。

 

「……ほう」

 

小さく、そう漏れた。

その二人まで動き始めるか。

 

信長は笑ってはいなかった。

 

むしろ目が冴えていく類の「ほう」だった。

 

ただ首を取った若武者のもとへ、知恵者は寄らぬ。

寄るのは、首の後まで見える相手のもとだ。

 

治部大輔は、そこまで見せたのだろう。

 

桶狭間での義元討ちそのものは、もちろん大きい。だがそれはもう起きてしまった事実だ。信長にとって重要なのは、その事実が次に何を動かしたかだった。

 

人が寄る。

 

それも、役の違う者たちが。

 

武辺だけなら、勢いだと言える。

知恵者まで来るなら、勢いだけでは済まぬ。

 

そこへ、障子の外から控えめな声がした。

 

「上総介様」

「入れ」

 

入ってきたのは、側近の一人だった。名を呼ぶほどの用でもない。だが、こういう時の報せを持ってくる者は、概して余計な言葉を足さぬ。

 

「申し上げます」

「申せ」

「竹中半兵衛殿、今日、小田井へ参った由」

 

信長は少しだけ顎を引いた。

 

「本人がか」

「は。見定めに参ったとの趣きにございます」

「明智十兵衛の後でか」

「左様」

 

信長は、その報せを聞いて初めて、ほんの少しだけ笑った。

 

「よい」

 

その一言に、側近は顔を上げない。

 

信長は続ける。

 

「武辺が寄るのは、戦で首を取ったからだ。だが、知恵者まで動くなら、こやつは首一つで終わる器ではない」

 

それは独り言に近かった。

 

側近へ説明しているのではなく、自分の中で盤の位置を確かめている声だった。

 

「左兵衛佐の倅」

 

そこで一度、言葉が止まる。

 

左兵衛佐信張の嫡男。藤左衛門家の後継。尾張三奉行の一つに連なる家。しかも父が認めた結果、左兵衛佐信張自身が、信長の従姉妹を正室にしている。

つまり治部大輔は、最初から遠い陪臣ではない。近い血筋の織田一門の嫡流だ。

 

家格だけで見れば、もとより軽い駒ではなかった。

桶狭間がなくとも、一門の中で要職へ上がる道はあっただろう。

 

だが桶狭間があった。

だから、ただの家格の話では済まなくなった。

 

「家ごと立てるか」

 

ぽつり、とその言葉が落ちる。

 

藤左衛門家の嫡男として、そのまま家を継がせる。小田井を基盤に、尾張一門の有力当主として立てる。それはそれで筋が通る。家格も、血筋も、武功もある。誰も文句は言い難い。

 

だが。

 

信長の目は、その先まで行っていた。

 

「……それでは、少し惜しいか」

 

家ごと立てる。

それは安定だ。

 

だが安定に収めてしまえば、治部大輔が桶狭間で見せた“前へ出る才”を、家一つの主へ畳んでしまうことにもなる。

 

人を吸う。

前へ出る。

首を取り、その後の座まで変える。

しかも今は、知と武が両方寄り始めている。

そういう男を、ただ一門の一角として納めてよいか。

 

「もっと上へ出すか」

 

今度の言葉には、少しだけ熱があった。

 

側近は黙っている。

答えを求められていないのが分かっているからだ。

 

信長はさらに思う。

もし、もっと上へ出すなら。

 

その時は、治部大輔一人の話ではない。藤左衛門家の扱いも変わる。信張の立て方も考えねばならぬ。又六郎の置き場も要る。家をどう割り、どう残すかまで絡んでくる。

 

そして、そこへさらに、妹たちの話が乗る。

 

お市。

お犬。

 

土田御前腹。

 

ただの妹ではない。信長にとっても信勝にとっても、同腹の姫だ。その婚姻は、一門内の便利な札の移動では済まぬ。本家中枢の血をどこへ結ぶか、そのものだ。

 

だからこそ軽くは切れない。

だが、だからこそ値打ちもある。

 

「治部大輔に、そこまで預けるか」

 

それを問うているのは、誰でもない信長自身だった。

桶狭間での戦功だけなら、褒美と名乗りで足りる。

家格だけなら、婚姻候補たり得る。

だが、その二つが重なり、さらに人の寄り方まで伴うなら、話は違う。

そこまで見た時に初めて、同腹の妹を動かす話が盤上へ乗る。

 

信長はそこで、ようやく少し大きく息を吐いた。

 

「面白い」

 

今度は、はっきりと笑みがあった。

 

「今川治部大輔の首一つで、ここまで盤が動くか」

 

側近が、そこで初めて短く問うた。

 

「上総介様。左兵衛佐殿には、いかに」

 

信長はすぐには答えなかった。

信張は元々家格も同格で今では近い一門だ。

 

軽んじてよい相手ではない。むしろ近いからこそ、立てねばならぬ。嫡男だけを抜いて家を空っぽにするような真似は、信張だけでなく一門全体へ響く。

 

「左兵衛佐は、分かっておろう」

 

やがて、そう言った。

 

「倅が小田井一城の若殿で収まらぬことくらい」

 

そして、口元だけで笑う。

 

「だが父親の腹と、当主の腹は別だ」

 

それが分かるから、軽々しくは運ばぬ。

 

信長自身もまた、兄であることと、棟梁であることの腹が別れる時を知っていた。

 

「急がぬ」

 

信長はそう決めた。

 

「だが、目は離さぬ」

 

それで十分だった。

いま大事なのは、治部大輔を急いでどこかへ固定することではない。

 

人がどう寄るか。

治部大輔がそれをどう受けるか。

藤左衛門家がどう動くか。

ご隠居が何を差し込むか。

十兵衛と半兵衛が、見た後にどう決めるか。

 

そこまで見てからでも遅くない。

むしろ、そこを見ずに切る方が悪手だ。

 

信長は脇の文を指先で軽く叩いた。

 

「こやつは、家だけ持たせても面白い。もっと上へ出しても面白い」

 

側近は黙っている。

 

「厄介だな」

 

そう言いながらも、その声は楽しげだった。

 

困る、という意味ではない。

 

手間は掛かる。筋も要る。周りの腹も読む。だが、そういう厄介さこそ、大きくなる駒には付きものだ。

 

「されど」

 

信長の目が細くなる。

 

「厄介な駒ほど、使いでがある」

 

それが、この男の本質だった。

信長は立ち上がった。

灯火がわずかに揺れる。

 

「お市とお犬には、まだ何も申すな」

 

側近が低く答える。

 

「は」

「左兵衛佐にも、今はまだよい」

「はっ」

「ただ」

 

信長は一歩、廊の方へ向かいながら言った。

 

「治部大輔の周りへ寄る者の名は、細かく拾え」

「承知」

「武辺だけでなく、知の者もだ。どこまで揃うかを見たい」

 

側近が下がる。

 

一人になった部屋で、信長は障子の外の暗がりを見た。

 

桶狭間の首は大きかった。

 

だが本当に面白いのは、その後だ。

 

一つの首が、人を動かす。

家の形を揺らす。

妹の行く先まで盤上へ上げる。

そして尾張の内だけではなく、美濃まで見える流れを生む。

 

「……治部大輔信繁」

 

名を、静かに口の中で転がす。

まだ若い。

だが、若いからこそ面白い。

 

いまはまだ、どこへ置くか決めぬ。

決めぬが、見ている。

見た上で、最も面白く、最も遠くまで効く置き方を選ぶ。

 

信長の目には、すでにその盤が見え始めていた。

 

清洲の夜はまだ静まり切らない。

 

そのざわめきの奥で、もう次の一手が考えられている。

 

治部大輔信繁の首一つが、城の奥でそこまでの思案を生んでいることを、たぶん当の本人はまだ知らぬままだった。

 

 

清洲の一室は、広すぎず狭すぎず、話を詰めるにはちょうどよい座敷だった。

 

評定ほど大仰ではない。だが雑談の場でもない。上総介様と勘十郎殿が並び、こちらが一段下に控える。その形だけで、ここが本家中枢へ話を通すための場だと分かる。

 

俺は畳へ手をついた。

 

「本日は、お時間を賜りたく」

 

上総介様が口元をわずかに緩める。

 

「桶狭間の首の次は、何を持ってきた」

 

軽い。

 

だが目は軽くない。

 

勘十郎殿は静かにこちらを見ている。兄上のように先に笑いはせぬ。その代わり、こちらが何をどこまで見て持ってきたか、最初から測る顔だ。

 

俺は頭を上げた。

 

「美濃のことにございます」

 

それだけで、座の空気が少し締まる。

 

上総介様は面白そうに目を細めた。

 

勘十郎殿は、わずかに顎を引いただけだった。

 

「申せ」と、上総介様。

 

「は」

 

俺は息を整えた。

 

「桶狭間にて今川は崩れました。されど、今川一つの勝ち負けで世が済むわけではございませぬ。尾張の内を固めるが先とは存じます。ですが、その先に目を向けるなら、美濃は避けて通れませぬ」

 

勘十郎殿がそこで初めて口を開いた。

 

「避けて通れぬ、と言う理由は」

 

直い。

 

だが、むしろありがたい問いだ。

 

「地によってにございます」

 

俺は答える。

 

「美濃は、尾張にとってただの隣国ではございませぬ。東から来るもの、西へ抜けるもの、兵の道も、物の道も、人の道も、あの地を外しては回りませぬ。加えて広く、山川も多く、国人も一枚岩ではない。ゆえに獲るだけでも厄介、持たせるならなお厄介な国にございます」

 

上総介様は黙って聞いている。

 

「逆に申せば、あそこを押さえ、持たせることが出来るなら、ただ一国を得る以上の意味がございます」

 

そこで一度息を置いた。

 

「美濃を制す者は、日本を制す――などと、誰ぞが申したとか申さなんだとか」

 

上総介様の口元が動いた。

 

勘十郎殿は、そこでは笑わなかったが、言葉の置き方は聞いていた。

 

「ほう」と、上総介様。

「大きく出たな」

 

「大きく申しておるつもりはございませぬ」

 

そう返すと、上総介様はますます面白そうにした。

 

勘十郎殿が問う。

 

「では、どう動く」

 

そこだ。

 

ここからが本題だった。

 

「正面から攻めて崩すには、時も銭も兵も要りましょう。しかも美濃は、外から叩けば一つに固まりかねませぬ」

 

勘十郎殿が頷く。

 

「あり得るな」

「ゆえに、外から押す前に、内から綻ばせるべきにございます」

 

上総介様の目が細くなる。

 

「綻び、とな」

「西美濃三人衆にございます」

 

そこで、さすがに空気が変わった。

 

上総介兄上も勘十郎兄上も、その名の重みは当然知っている。

 

美濃を内から割るなら、そこを抜きに語ることは出来ぬ。

 

「三人衆を切り崩せるなら」

 

俺は続けた。

 

「美濃は外から叩くより早く崩れます」

 

しばし沈黙が落ちた。

 

上総介兄上は俺を見ている。

勘十郎兄上も見ている。

 

ただし、見方は違う。

 

上総介兄上は「どこまで面白くなるか」を見ている。

勘十郎兄上は「どこで転ぶか」を見ている。

 

やがて、上総介様が先に笑った。

 

「ほう、面白い」

 

その一言で、少しだけ肩の奥が軽くなる。

 

まだ許しではない。だが、話は届いた。

 

「戦働きだけでないところを見せるか。やってみよ」

 

そこまで一気に来るのが、この人らしい。

 

だが、勘十郎兄上はすぐには乗らない。

 

「待て」

 

低く、しかしきっぱりと言う。

 

「切り崩す、とは軽く言うが、誰をどう使う」

 

当然の問いだった。

 

俺は頷く。

 

「半兵衛殿を媒介に使います」

 

上総介兄上の眉が、わずかに上がる。

 

勘十郎兄上は、その先を待っている。

 

「ただし」

 

ここは、はっきり切っておくべきところだ。

 

「半兵衛殿自身の判断で、美濃の諸将を勝手に動かす形には致しませぬ」

 

勘十郎兄上の目が、ほんの少しだけ鋭くなる。

 

その点を聞きたかったのだろう。

 

「申してみよ」

「構想と決は、あくまでこちらにございます。半兵衛殿には、地の利と人の縁を借りる。つまり、誰へどう話を通すか、その接ぎ木に使う。されど、寝返りそのものを“半兵衛の顔”で決めさせてはなりませぬ」

「なぜだ」

「半兵衛殿の私心で西美濃が動いたように見えれば、あとが持ちませぬ」

 

俺は答える。

 

「織田へ移る利、斎藤に残る不利、その両方を相手自身に理解させる必要がございます。半兵衛殿はそこへ繋ぐ橋にございましょう。橋であって、勝手に盤を裏返す手であってはなりませぬ」

 

上総介兄上が、そこで喉で笑った。

 

「半兵衛まで駒として使うか」

「使うというより、使いどころを誤らぬように致したく」

「よい言いようだ」

 

だが勘十郎兄上はまだ続ける。

 

「十兵衛は」

 

これも来ると思っていた。

 

「十兵衛殿には、文言の整理、使者筋の選定、相手の気質の見立てを願うのがよろしいかと」

「ほう」

「武辺で押す話ではございませぬ。調略にございます。こちらが何を餌にし、何を約し、どこまでを今すぐ与え、どこから先は後日とするか――その線引きが要ります」

 

勘十郎兄上は黙った。

 

だが、否ではない。

 

話が実務へ落ちているかを見ている顔だ。

 

俺はさらに続けた。

 

「慶次郎と助右衛門は表へ出しませぬ」

 

上総介兄上が、少し意外そうに言う。

 

「ほう。あれらを使わぬか」

「使わぬわけではございませぬ。ですが、前へ出せば話が荒れます。あの二人は、いざという時の即応に置くべきにございます。護衛、威圧、あるいは途中で裏切りが出た時に潰す手として」

 

今度は勘十郎兄上が、ごく小さく頷いた。

 

「収まりを考えておるな」

 

ようやく、その言葉が出た。

 

ここまで来れば、少なくとも独りよがりの策とは見られていない。

 

「勝手働きに見せたくございませぬ」

 

俺ははっきり言った。

 

「ゆえに、まず上総介兄上と勘十郎兄上のお耳へ入れに参りました」

 

その一言で、座の意味が定まる。

 

党派でもない。抜け駆けでもない。

本家中枢への正式な事前共有だ。

 

上総介兄上が少しだけ満足そうに目を細めた。

 

勘十郎兄上も、ようやくこちらを真っ直ぐ見た。

 

「よい」

 

そう言ったのは、勘十郎兄上の方だった。

 

「面白いだけの策では困るが、少なくともお前は、切り崩した後の収まりまで見て話している」

 

その評価は重かった。

 

兄上に「面白い」と言われるのとは別の意味で、重い。

 

「ただし」

 

勘十郎あは続ける。

 

「裏切らせるのは一時だ。抱え込むのは、その後ずっと続く」

「は」

「三人衆を織田へ寄せるなら、寄せた後に誰がどう扱う。尾張衆とのあつれきは。恩賞は。疑いは。そこまで考えておけ」

「承知にございます」

 

これは、そのまま本質だった。

 

調略は成功した瞬間が終わりではない。むしろそこから始まる。だからこそ、事前に相談へ来たのだ。

 

上総介兄上がそこで、少し前へ身を乗り出した。

 

「治部大輔」

「は」

「西美濃三人衆を切り崩せる、と本気で思うか」

 

試すような声だった。

 

俺は一拍だけ置いた。

 

「切り崩せるか、ではなく」

「ほう」

「切り崩せねば、美濃は正面からでは重うございます」

 

上総介兄上の目が光る。

 

その返しは嫌いではないはずだ。

 

「ゆえに、やる価値があると存じます」

 

上総介兄上は、しばし俺を見て、それからはっきり笑った。

 

「よい」

 

一語だった。

 

だが十分だ。

 

「やってみよ」

 

そう来る。

 

この人は、最後はやはりそう来る。

 

「ただし、勝手に突っ走るな。十兵衛も半兵衛も、お前も、賢い顔をした者ほど勝手に先へ出る」

「肝に銘じます」

「それでよい」

 

そこで、ようやく話は一度切れた。

 

だが、まだ終わってはいない。

 

上総介様兄上、そのまま何事もないように脇の紙へ手を伸ばし、それをぱたりと置いた。

 

「ところで」

 

声の温度が、ほんの少し変わる。

 

勘十郎兄上は何も言わない。だが、分かっている顔だった。

 

「治部大輔」

「は」

「お前は、桶狭間で首を取り、いままた美濃を崩す策まで持ってきた」

 

俺は黙った。

 

「武だけではないところを、しかと見せてくれるわけだ」

 

そこまで言われると、さすがにただの進言の評価では済まぬ響きがある。

 

「過分にございます」

 

そう返すのが精一杯だった。

 

上総介兄上は、そこで口元だけで笑った。

 

「過分かどうかは、まだ決めぬ」

 

それだけだった。

 

だが、その一言の重さは、十分に分かった。

 

何かが、もう盤の上へ乗っている。

 

まだ口には出されぬ。

だが、出されぬからこそ重い。

 

勘十郎兄上が、そこで静かに話を戻した。

 

「動くなら、文言はまず十兵衛に見せよ。半兵衛には、道筋だけ渡せ。判断は挟ませるな」

「は」

「前田の二人は裏に置け。抜いた後に騒ぎが起きた時だけ使え」

「承知」

「それでよい」

 

その整理は、俺が考えていた流れとほぼ同じだった。

 

つまり、もうこの策は、俺一人の思いつきではない。織田家中枢の机の上へ正式に乗ったのだ。

 

上総介兄上が最後に言う。

 

「治部大輔」

「はっ」

「西美濃三人衆を織田へ寄せられたなら」

 

一瞬、言葉が切れる。

だが、その間に十分だった。

 

「その時は、首一つで終わらぬ働きと見よう」

 

俺は深く頭を下げた。

 

「ありがたき幸せ」

 

それ以上は何も言えなかった。

 

頭を上げると、上総介様はもう次の紙へ目を落としていた。勘十郎殿も同じだ。話は終わったのだ。終わったが、その実、ここから始まる。

 

俺は座を下がった。

 

廊へ出る。

 

閉じた障子の向こうで、まだ兄弟の声が低く交わされている気配がした。何を話しているかまでは聞こえない。だが、聞こえぬ方がよいのだろう。

 

いま大事なのは、許しが出たことだ。

 

本家中枢へ筋を通し、策が家のものとして動き出したことだ。

 

西美濃三人衆。

その名は重い。

 

だが、その重さごと動かせねば、この先の美濃は開かぬ。

 

俺は廊の途中で一度だけ立ち止まり、息を吐いた。

桶狭間の時とは違う重さだった。

あの時は、前へ出て首を取ればよかった。

だが今度は違う。人を動かし、心を割り、しかもその後の収まりまで背負わねばならぬ。

 

戦働きだけではないところを見せるか。

上総介兄上のその言葉が、妙に耳に残っていた。

 

「……やるしかないな」

 

小さくそう呟いて、俺はまた歩き出した。

 

その頃にはもう、武功の若武者としての時間は半ば終わっていた。

次に問われるのは、政と人の流れを扱えるかどうか。

 

治部大輔信繁という名は、いよいよそこまで試されようとしていた。

 

 

 

 

 

 

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