織田家の嫡子~藤左衛門家の特異点 作:デトロ!開けろイト市警だ!
それから三日ほどで、最初の報せは返ってきた。
半兵衛は城内の一室で、それを聞いた。
大仰な評定の座ではない。帳面と地図と、走り書きの紙が散らばる、いつもの部屋だ。障子の外では風が木を鳴らしている。静かな城だ。静かだが、その静けさの中へ外の流れが細く差し込んでくる時だけ、ここは途端に面白くなる。
「申し上げます」
控えの者が膝を進める。
半兵衛は紙の上に落としていた目を上げた。
「申せ」
「小田井の治部大輔信繁殿の周辺、まずは大きく二筋にございます」
そこで控えの者は一拍置いた。
半兵衛は何も促さない。
相手が自分で順を立てるかどうかもまた、情報の質のうちだ。
「一つは、桶狭間以来そのまま寄った武辺にございます」
半兵衛の目がわずかに細くなる。
「前田慶次郎利益、奥村助右衛門永福」
やはりそこか、と思う。
道三の文にも滲んでいた。桶狭間の熱、その場の首の匂い、それに引かれて寄る武辺がいると。
「前田又左衛門殿の筋とのこと。されど、正式な辞去の筋は後に通すとして、当面は治部大輔殿の左右にて働くお許しを得た由」
半兵衛は小さく頷いた。
この整理は良い。
熱に任せて横取りしたのではなく、筋は立てている。だが実務は止めない。勢いと家中作法の折り合いとしては、ほぼ最上だ。
「慶次郎はどう見える」
「派手にございます」
「それは見れば分かる」
控えの者が少し慌てる。
「は。ですが、派手なだけではございませぬ。あえて目立ち、敵の目を引き受けることで、治部大輔殿に間を作る類と」
半兵衛は少しだけ口元を動かした。
悪くない見立てだ。
「助右衛門は」
「堅うございます。確実に斬り、乱れず、騒がず、しかし置くべきところへおります」
「左右で役が違う、か」
「左様にございます」
半兵衛は、そこで一度視線を落とした。
武辺が二人。しかも熱に浮かれた同類ではなく、役割の違う二人が揃う。これは、若武者の周りとしては思った以上に良い形だった。
「で、もう一筋は」
その問いに、控えの者の顔つきが少しだけ変わった。
こちらが本命だと分かっている顔だった。
「知の筋にございます」
「申せ」
「明智十兵衛光秀殿」
その名が落ちた時、半兵衛は初めてはっきりと顔を上げた。
「……もう来たか」
それは驚きというより、少し感心に近かった。
道三が文を出したとしても、十兵衛のような男はもっと間を取るかと思っていた。だが、思ったより早い。
「はい。正式に仕えたとは申せませぬ。されど、既に小田井へ姿を見せ、治部大輔殿と対面したとのこと」
「ほう」
半兵衛は、そこで少しだけ考えた。
武辺が寄るのは分かる。桶狭間の首がある。義元討ちの大功がある。あれだけで十分、人を吸う。
だが、十兵衛まで動くとなれば話は違う。
あの男は、ただ勢いに乗る類ではない。文も武も見て、自分の置き場を測る男だ。その十兵衛が、すでに一度見に行っている。
「話の中身は」
「細部までは」
「構わぬ。輪郭でよい」
控えの者は慎重に言葉を選んだ。
「治部大輔殿は、桶狭間の次を問われ、美濃まで視野に置く旨を答えた由」
半兵衛の目が、静かに細まる。
「美濃、と」
「尾張の内を固めるのが先。されど、それで終わるつもりはない、と」
部屋の空気が少し変わる。
半兵衛は何も言わない。
だが内では、盤が置き直されていた。
桶狭間を越えたばかりの若武者が、ただ勢いで「次も勝つ」と言うのではない。尾張の内を固める順を置いた上で、その先に美濃を見る。しかも、それを十兵衛の前で言える。
「他には」
「“美濃を獲れば天下へ手が届く”とも」
半兵衛は、そこでわずかに口元を緩めた。
若い。
若いが、ただ大きなことを言っているだけではないらしい。美濃の意味を分かっている者の言葉だ。少なくとも、そう装う程度の頭はある。
「十兵衛はどうした」
「その場では即答せず。されど、来た甲斐はあったと申した由」
半兵衛は、静かに息を吐いた。
十分だ。
あの男がその場で膝を折るはずもない。だが、「来た甲斐はあった」と言わせたなら、それはもうただの若武者ではない。
「……面白い」
小さく、そう漏れた。
控えの者は顔を上げない。
上げないが、主の気配が変わったことは分かっているだろう。
半兵衛は立ち上がり、部屋の端に寄った。障子の向こう、山の木々が風で揺れている。
菩提山から見える景色は、広いようでいて狭い。ここへ籠っていれば、美濃の内側を見ることはできる。だが、外から美濃へ差し込んでくる流れまでは、じっとしていては見誤る。
治部大輔信繁。
桶狭間で首を取った若武者。
その左右に、慶次郎と助右衛門という武辺が付く。
さらに、十兵衛まで見に行った。
つまり、あの若武者の周りでは、もう武だけではなく知も動き始めている。
「ご隠居め」
半兵衛は小さく笑った。
「やはり、ただの首の話ではなかったか」
道三が文を寄越した時点で、そうだろうとは思っていた。だが、実際に並び始めた顔ぶれを聞くと、話の重みが違う。
一つの首が人を呼ぶことはある。
だが、一つの首が、武辺と知恵者の両方を動かし始めるなら、それはもう首一つの話ではない。器の話だ。
半兵衛は振り返った。
「もう少し情報を寄せろ」
控えの者が頭を下げる。
「は」
「治部大輔本人の言葉も拾え。どういう言い回しをする。誰にどう返す。あとは周りだ。慶次郎、助右衛門、十兵衛。この三人が、あの若武者をどう見ているかを知りたい」
「承知」
「それと」
半兵衛は少しだけ考えてから言った。
「小田井の“美濃のご隠居”の周りもだ」
控えの者が一瞬だけ顔を上げる。
「道三殿、にございますか」
「そうだ」
半兵衛の声は静かだった。
「十兵衛まで動いたとなれば、あのご隠居は、治部大輔を武辺の若武者としてではなく、もっと先の盤に置き始めている」
そこが分からねば、流れ全体を見誤る。
控えの者が下がった後、部屋にはまた静けさが戻った。
だが先ほどまでの静けさとは違う。思索のために止まっていた空気が、いまは次の一歩を測るための静けさへ変わっていた。
半兵衛は机へ戻り、紙を引き寄せた。
そこへ、新たに四つ名を書く。
織田治部大輔信繁。
前田慶次郎利益。
奥村助右衛門永福。
明智十兵衛光秀。
少しだけ間を置いて、端にもう一つ。
斎藤道三。
それを眺める。
若武者一人なら、まだ読める。
だが、その周りに人が付き始めると、途端に盤は広がる。しかも、武辺だけでなく、十兵衛まで寄っている。ならば、その先で美濃が絡まぬはずがない。
「尾張の若武者では済まぬ、か」
道三の文の一節が、いまになって実感を持って返ってくる。
半兵衛は筆を置き、ほんのわずかに目を細めた。
「ならばなおさら、見に行かねば損だな」
忠義ではない。
まだそこではない。
期待とも違う。
ただ、盤を読む者として、この流れを見ぬのは惜しい。それだけで十分、半兵衛を動かす理由になった。
菩提山の空気は相変わらず静かだった。
だが、その静けさの底で、また一つ、駒が前へ出ようとしていた。
♢
竹中半兵衛が小田井へ来たと聞いた時、俺は少しだけ息を止めた。
明智十兵衛が先に来た。道三殿の旧臣であり、流浪の末にまだ置き場を定め切っていない知将。あの人が来た時点で、桶狭間の余波はもう武辺だけのものではなくなっていた。
だが、竹中半兵衛まで動くとなると、話はさらに一段深くなる。
あの男は、ただの若き軍略家ではない。
後世の知識を持つ俺にとっては、むしろその若さゆえに恐ろしい。美濃にあって、まだ大きく世へ出ていない段階ですら、既に人の上に立つ才を持っている。読みの深さ、動くべき時と動かぬべき時の切り分け、その両方を持つ。
しかも今は、まだ一色左京大夫と折り合いが悪く、菩提山へ半ば籠ったままの時期だ。
そんな男が、自分から小田井まで足を運んでくる。
それはつまり、少なくとも「見ぬまま捨てるのは惜しい」と判断されたということだ。
その日、半兵衛はご隠居の離れではなく、父上の居所に近い客座敷へ通された。
そこがいかにも、この対面の性質を示していた。
道三殿の客ではない。
かといって、まだ俺の客でもない。
小田井という場が、一度受ける。
そういう形だ。
廊を進み、障子の前で一礼する。
「治部大輔にございます」
中から、落ち着いた声が返った。
「お入り下され」
声は若い。
だが若さより先に、静けさがあった。
障子を開ける。
座敷の中央に、一人の男がいた。
細身だった。
十兵衛のような削げた鋭さとは少し違う。こちらは、静かに張った弓のような印象だった。いまはまだ何も放っていない。だが、ひとたび指が掛かれば、どこへ飛ぶか分からぬ緊張がある。
顔立ちは穏やかだ。
穏やかだが、その穏やかさに油断は出来ない。人の声色、言葉の綻び、身じろぎの意味まで、ひと目で拾っていそうな目をしている。
竹中半兵衛重治。
この人が、『あの』竹中半兵衛か。
胸の内で、そんな認識が立ち上がる。
後世では「今孔明」だの「天才軍師」だの、いかにも分かりやすい名札で語られがちだ。だが、そんな通り一遍の言葉で済む人物ではない。若くして人の器量を見抜き、兵の形を読み、わずかな綻びから全体の帰趨を変えうる才を持つ。しかもそれを、表へ出て大仰に誇るたぐいではない。
むしろ、静かすぎる。
静かに見て、静かに測り、いざ動くと決めた時だけ一気に盤を返す。
そんな男が、いま俺を見ている。
俺は深く頭を下げた。
「お初にお目にかかります。織田治部大輔信繁にございます」
半兵衛も一礼した。
「竹中半兵衛重治にございます」
声音もまた静かだった。
低くよく通る声だが、十兵衛のように細く刺す感じではない。もっと内へ沈む。言葉数は少なくても、その少なさに不足がない声だった。
座へ着く。
その瞬間から、互いに見ているのが分かった。
値踏み、というと少し俗だ。
もっと細かい。
この若武者はどの程度まで喋るか。
どこまで自分を見せるか。
こちらの沈黙に耐えるか。
大きくなったと言われて、実のところどこまで見えているか。
そういうことを、この人は座って一息の間に測っている。
たぶん俺も、似たようなことをしている。
先に口を開いたのは半兵衛だった。
「此度の桶狭間、お見事にございました」
無駄がない。
余計な飾りも、探りの文句もない。
だからこそ、かえって慎重になる。
「過分なお言葉にございます」
「過分ではありますまい」
そこで半兵衛は、ほんの少しだけ間を置いた。
「今川治部大輔の首を取られたのでしょう」
十兵衛の時より、問いが直い。
ご隠居からの文でも、周辺からの報でも、もうそこは聞き及んでいるはずだ。それでも、本人の前で確認する。事実そのものより、その時の受け方を見ているのだろう。
「は」
俺は答える。
「然り」
半兵衛は黙った。
その沈黙が、むしろこちらに喋らせる。
「もっとも、某一人の働きではありませぬ」
「ほう」
「上総介様のご決断あっての急襲。毛利殿、服部殿の働きあり、慶次郎と助右衛門の左右あり、その上での首にございます」
半兵衛の目が、そこで初めて少しだけ揺れた。
たぶん、そこを聞きたかったのだ。
首を取った者が、どこまで他の働きを見ているか。
自分一人の武名として語るのか、それとも場全体の流れの中で理解しているのか。
「では」
半兵衛が問う。
「治部大輔殿ご自身は、その中で何をなされたとお考えで」
これも、ずいぶん直截だ。
だが嫌いではない。
「見た」
そう答えると、半兵衛の目が少し細くなった。
「見た、と」
「はい」
俺は続ける。
「毛利殿と服部殿の進む筋を見た。敵の厚みの歪みを見た。旗の位置、人の流れ、守りの偏りを見た。その上で、あれが本陣中枢と見切った」
半兵衛は一言も挟まない。
「見切ったなら、あとは自分で踏み込むほかありませぬ。人に勧めて自分だけ後ろへ残るわけにはゆかぬ」
そこまで言ってから、少しだけ息を置いた。
「ゆえに、見て、前へ出た。それだけにございます」
半兵衛の視線が、初めて少しだけ柔らかくなった。
それは好意ではない。
「そこをそう言うか」という納得に近い。
「なるほど」
その一言に、先ほどまでより重みがあった。
俺は逆に問うた。
「半兵衛殿は、桶狭間をどう見られました」
半兵衛はすぐには答えなかった。
障子の向こうで風が鳴る。
そのわずかな間に、この人はたぶん、本当に言うべきところだけ選んでいる。
「今川の死ではありましょう」
やがて、そう言った。
「されど、それだけでは足りませぬ」
「と、申されますと」
「今川治部大輔義元が死んだ。では、その後、誰が何を埋めるか」
半兵衛の声は静かだ。
だが、静かなだけに言葉がよく残る。
「空いたところへ伸びる者。慌てて縮む者。内から割れる者。桶狭間とは、首一つの勝ち負けというより、その後に国々の形が崩れ直す始まりにございましょう」
やはり、ただ者ではない。
この人もまた、戦場そのものより、その後の盤が先に見えている。
「では、尾張は」
と俺が問うと、半兵衛はすぐ答えた。
「広がる側にございます」
「美濃は」
そこで、半兵衛はほんの少しだけ口元を動かした。
「問いますか」
「問います」
「なら申します。美濃は、広がる尾張から見れば避け難く、内から見ればまだ固まり切らず、挟まれる国にございます」
俺は頷いた。
その通りだ。
「ゆえに、尾張が本当に先を取るなら、美濃を視野から外せますまい」
半兵衛は、そこで初めてこちらへ真っ直ぐ目を向けた。
「治部大輔殿は、そこまで御覧ですか」
十兵衛の時にも似た問いはあった。
だが、こちらはさらに一段深い。
相手の答えそのものだけでなく、その答えへ至る視界の高さを見ている。
俺は息を整えた。
「尾張の内を固めるのが先にございます」
まず、順を置く。
半兵衛は黙っている。
「されど、それで終わるとは思っておりませぬ」
そこで、今度は切り口を変えた。
「美濃は、尾張にとってただ隣にある国ではありませぬ。あの地を押さえれば、東から来るものも、西へ抜けるものも、一度はこちらを見ねばならなくなる。兵の道も、物の道も、人の道も、あの国を外しては回りませぬ」
半兵衛の目が、すっと細くなる。
「加えて、美濃は広い。広い上に、山も川もあり、地形が一様ではない。国人を束ねるにも、城を置くにも、ただ一つ勝っただけでは収まらぬ国にございます」
俺はそこで少しだけ間を置いた。
「獲るだけならまだしも、持たせるのが難しい。されど逆に申せば、あの国を押さえ、持たせることが出来るなら、ただ国を一つ得る以上の意味がある」
半兵衛は、じっとこちらを見ている。
「兵も、銭も、人も、あそこを境に東西へ流れます。ゆえに某は、美濃をただの隣国とは見ておりませぬ」
そこで、ほんのわずかに口元を動かした。
「天下分け目の決戦地、日の本の臍――などと申せば、少々大袈裟に過ぎるやもしれませぬが」
半兵衛の目が、十兵衛の時とは違う細まり方をした。
あの人は「そこまで言うか」と測った。
この人はたぶん、「なぜそこまで言う」と考えた。
もちろん、この場の誰も、俺がその言葉へ二重底を仕込んでいることは分からない。
天下分け目の決戦地。
俺の脳裏にあるのは、いまの美濃を巡る争いだけではない。壬申の乱。関ヶ原。はるか後の世において、あの地が日の本の帰趨を裂く場になることを、俺だけが知っている。
だからこそ、美濃はただの隣国ではない。
本当に、日の本の臍なのだ。
「……面白い仰せようにございますな」
半兵衛がそう言った。
「大言壮語、と切って捨てぬのですか」
「切って捨ててもよろしいのでしょうが」
そこで、半兵衛はほんの少しだけ首を傾けた。
「治部大輔殿は、ただ大きなことを言いたい顔ではございませぬ」
その言い方に、思わず少しだけ笑いそうになった。
ひどいようでいて、むしろ評価だ。
「半兵衛殿も、ただ褒めに来た顔ではありませぬ」
そう返すと、今度は半兵衛の方がわずかに目を和らげた。
ほんの一瞬だったが、あの静かな顔に、確かに人の温度が差した。
「はい。見に参りました」
「何を」
「若武者の首ではなく、その首の後に何を見ておられるかを」
まっすぐだった。
そして、そこがこの人らしい。
義元を討った。その事実はもう動かぬ。ならば見るべきは、その勝ちをどう扱うか、その後どこまで見るか、そこだと。
俺は頷いた。
「では、何か見えましたか」
半兵衛は少しだけ考えた。
答えを選んでいるのではない。まだ答え切らぬことも含めて、正直な線を引いているのだろう。
「いくらかは」
それが返答だった。
多すぎず、少なすぎず。
「いくらか、ですか」
「はい。全部はまだ見えませぬ」
「それで十分」
そう言うと、半兵衛は少しだけ眉を上げた。
俺は続ける。
「初めから全部見える相手なら、こちらが怖い」
今度こそ、半兵衛の口元がわずかに緩んだ。
「それもそうだ」
その一言で、座の空気がようやく少しだけ和らいだ。
だが、十兵衛の時の和らぎ方とは違う。
十兵衛は、細く探りながら距離を測る。
半兵衛は、必要なだけ切り込み、そこから先は不用意に踏み込まぬ。
似ているようでいて、かなり違う。
そしてその違いが、むしろ心地よかった。
「本日は、参って損ではありませなんだ」
半兵衛が静かに言う。
「すぐにどうこう申し上げることではありませぬ。されど、少なくとも道三殿の文が、大袈裟ばかりではないことは分かりました」
「ご隠居は大袈裟ですからな」
「その通りにございます」
そこで、二人とも少しだけ笑った。
本当に少しだけだ。
だが、それで十分だった。
最初から忠を尽くすでもない。
ここで腹を決めるでもない。
それでも、「また会う価値がある」と互いに見た。
そのことの方が、たぶんこの人との初手としては正しい。
半兵衛が立ち上がり、一礼した。
「本日はこれにて」
俺も頭を下げる。
「また、いずれ」
「はい。いずれ」
障子が閉まる。
静けさが戻る。
だが、その静けさは、十兵衛の時ともまた違った。
武辺が寄った。
十兵衛が見に来た。
そして半兵衛もまた、自分の目で見て帰った。
まだ誰一人、正式にこちらの家臣として揃ったわけではない。
だが、それでも分かる。
桶狭間の首は、もう武名だけで終わっていない。
人を動かし、知を引き寄せ、次の盤を広げる首になっている。
俺は静かに息を吐いた。
「厄介だな」
思わず、そう漏れた。
だが、それは嫌だという意味ではない。
大きくなる、というのはこういうことなのだろう。
首を取り、名を得る。
その結果、人が寄る。
寄った人間をどう受け、どう回し、どう次へ繋ぐかまで含めて、もう試され始めているのだ。
障子の向こう、廊の先にはたぶん慶次郎あたりがうろついている。少し離れたところには助右衛門もいるだろう。十兵衛はまだ距離を測っている。半兵衛はさらにその外から盤を読む。
そして小田井の離れでは、ご隠居がきっと面白そうに笑っている。
俺は自分の手を見た。
桶狭間で義元の首を落とした手だ。
あの時は、ただ前へ出るしかなかった。だが今は違う。前へ出た先で寄ってくる者たちを、受け止める側の手にならねばならない。
それが、治部大輔信繁としての次なのだろう。
♢
半兵衛が去った後もしばらく、座敷の空気は元へ戻らなかった。
障子は閉じている。風の音も、廊を渡る足音も、さっきまでと変わらぬ。だが、部屋の中に置かれた目に見えぬ盤だけが、少し前とは違う形になっている。
俺は一人、しばらくそのまま座していた。
竹中半兵衛重治。
あの人は結局、何も約してはいない。忠を尽くすとも、また来るとも、明言はしなかった。だが、それでいて手応えは確かにあった。見に来ただけで終わるなら、ああいう去り方はしない。少なくとも、切り捨てはされていない。
「……人が、寄る」
口に出すでもなく、胸の内でそう思った。
桶狭間の前なら、考えもしなかったことだ。
俺は前へ出る側だった。どう使われるか、どう働くか、どこで目を掛けられるか、そういうことばかりを見ていた。家のことも、父上のことも、上総介様のことも考えてはいたが、それでもまだ自分は「動かされる側」の延長にいたのだと思う。
けれど、いまは違う。
首を取り、名を得た。
その結果、周りがこちらを見るようになった。
ただ見るだけではない。寄ってくる。試しに来る。値踏みに来る。あるいは、最初から左右へ立つつもりで来る。
そのことの重さが、半兵衛が帰った後になってじわりと身へ回ってきた。
慶次郎は、分かりやすい。
あいつは最初から「首の匂い」だの何だのと言っていたが、要するに武辺の鼻なのだろう。大きくなる者、前へ出る者、危ない橋を自分で渡る者、そういう相手を嗅ぎ当てる。しかも嗅いだら迷わない。あれは理ではなく、本能に近い。
派手だ。
だが、ただ派手なだけではない。
敵の目を引き受け、乱戦に渦を作り、その渦の中へ味方を通す。ああいう武辺は、ただ一人強いよりも厄介だ。戦場での役目が分かっているからだ。
助右衛門は、逆だ。
理に寄っているようでいて、武辺としての本能も鋭い。慶次郎が渦を作るなら、助右衛門はその縁を整える。広げるべき穴を広げ、塞ぐべき脇を塞ぐ。目立たぬが、いなければ形が崩れる。
桶狭間であの二人が左右へいたことは、いま思い返しても大きかった。
もし慶次郎だけなら、派手すぎて形が崩れていたかもしれぬ。助右衛門だけなら、堅実でも突破の勢いが足りなかったかもしれぬ。二人で一組なのだ。荒さと堅さ。派手さと静けさ。ああいう左右が早いうちに付いたのは、たぶん運では済まない。
そして十兵衛。
あの人はまだ、こちらの中に入ってはいない。半歩外だ。だが、外から見ている分、かえってよく見ている。人物も、言葉の置き方も、先を見る目も、全部まとめて量りに来ていた。
本能寺の変の首謀者。
脳裏にはどうしてもその未来がちらつく。だが、それと同じくらい強く思う。そこへ至るまでのこの人は、織田の中でとてつもない働きをするのだ、と。
文武両道。
あれは、安い褒め言葉ではない。
戦も出来る。政も出来る。人も動かせる。教養もある。しかも、それを表へひけらかさず、静かに積み上げていく。ああいう人が側に入るかどうかで、家の形は何段も変わる。
半兵衛はさらに違う。
十兵衛が「どこへ身を置くか」を測る人なら、半兵衛は「何を成せる盤か」を測る人だ。人物を見るが、それだけではない。国の形、兵の道、城の置き場、人の流れ、勝った後にどこまで持たせられるか。そういうことまで含めて見ている。
だからこそ、美濃の話も、十兵衛の時と同じでは通らない。
十兵衛に示すべきは、俺が尾張の内だけで終わるつもりはない、という対局の目だった。だが半兵衛には、その先をもう一歩具体で見せねばならない。あの人は、夢物語に乗るのではなく、勝ち筋として成立するかで相手を見る。
「……武と知、か」
ぽつりと、今度は本当に声に出た。
慶次郎。
助右衛門。
十兵衛。
半兵衛。
まだ誰一人、完全には揃っていない。
慶次郎と助右衛門ですら、正式には前田家との筋の整理が残っている。十兵衛は見に来ただけだ。半兵衛はもっと遠い。
だが、それでも見える。
原型だ。
俺の周りに、武辺だけでなく、知もまた寄り始めている。その四枚が、まだ薄く、まだ不安定ながら、既に形を取り始めている。
もし本当に、この四人が揃うなら。
慶次郎が前で渦を作り、助右衛門が脇を固める。
十兵衛が人と政を繋ぎ、半兵衛が盤面そのものを読む。
そこへ俺自身が、前へ出るべき時に出る。
考えただけで、恐ろしくもある。
そんな布陣は、若武者一人の器ではない。
いや、そうなった時点で、もう若武者一人では済まぬのだろう。
「治部大輔、か」
自分の名を、胸の内で転がす。
桶狭間の前までは、太郎左衛門でよかった。元服を経た若者として、家の期待と自分の野心を抱えて前へ出ればそれで足りた。
だが、いまは足りない。
首を取り、名を得る。
それ自体は一日で済む。
だが、その先は一日では済まない。寄ってくる者の才をどう受けるか。誰に何をさせるか。どこまで見て、どこで切るか。そこまで含めて名に見合う人間でなければ、治部大輔などという名乗りは重いだけだ。
俺は立ち上がり、障子を少しだけ開けた。
夕方の空だった。
日が落ち切る前の光が、小田井の庭へ斜めに差している。人の声は遠い。勝報の熱も、昼よりはいくらか落ち着いている。そういう時間に、一人で外を見ていると、ようやく自分の中の声がまとまってくる。
慶次郎は、武辺の勘で寄った。
助右衛門は、戦場での踏み込みを見て寄った。
十兵衛は、器量と先を見る目を測りに来た。
半兵衛は、盤の広さを見に来た。
寄り方が、四人とも違う。
違うのに、向いてくる先は同じだ。
それはつまり、桶狭間で俺が取ったのが、ただの首ではなかったということだろう。戦場での武功であり、家中での位置の変化であり、周囲へ「この若武者は次がある」と思わせる証でもあった。
「次、か」
そうだ。
問題はもう、桶狭間そのものではない。
次だ。
尾張の内をどう固めるか。
その上で美濃へどう触るか。
上総介様が何を考えているか。
父上が家をどう見ているか。
又六郎へ何を残すか。
お市殿とお犬殿の位置が、どういう意味を持ってくるか。
そして、自分の周りへ寄り始めたこの四枚を、どういう形で並べるか。
並べる、という発想が頭に浮かんだ時、少しだけ苦笑した。
棋士にでもなった気分だ。
だが、あながち間違いでもないのだろう。ご隠居と父上が碁を打ちながら人の流れを語るように、いまの俺もまた、人を盤の上に置く側へ足を踏み入れ始めている。
もちろん、まだ早い。
偉そうに「四枚看板」だのと気取る段ではない。揃ってもいないものを、勝手に揃った気で語るのは滑稽だ。
だが、それでも原型は見えた。
見えたなら、その原型を現に変えねばならない。
武辺がいても知がなければ、勝った後が持たぬ。
知がいても武辺がなければ、前へ出る力が細る。
どちらもいても、それを束ねる芯がなければ、ただ賢い者と強い者が寄り集まって終わる。
ならば、芯になるしかない。
思ったより簡単に、その言葉が胸へ落ちた。
怖くないわけではない。
むしろ、怖い。
人が寄るというのは、自分の失敗が他人の傷になるということだ。首を取る時の怖さとは、また違う。
けれど、桶狭間を越えた以上、もうそこから逃げるわけにもいかない。
「……やるしかない、か」
夕暮れの庭へ向かって、小さくそう呟いた。
返事はない。
ただ風が一つ、庭木を鳴らしただけだった。
それでも、不思議と腹は据わった。
慶次郎、助右衛門、十兵衛、半兵衛。
まだ名だけが並んだようなものだ。
だが、その並びがやがて本物になるなら、こちらもそれに足る人間にならねばならない。
治部大輔信繁。
その名は、もはや自分一人のものではなくなり始めていた。
背負うものが増えた。
そのことだけは、もう疑いようがなかった。
♢
清洲の女中たちは、よく見ている。
誰がどこへ出入りしたか。誰の顔色が変わったか。どの座敷へ、どの名の者が通されたか。表で評定に列するわけではない。だが、奥にいるからこそ分かる流れもある。
お市は、そのことをよく知っていた。
だから、その日の夕刻、お犬がやや目を輝かせたまま部屋へ入ってきた時も、ただの噂話では済まぬのだろうと思った。
「姉上」
「どうなさいました」
お犬は座るやいなや、声を少し落とした。
「また、治部大輔殿のところへ人が参ったとか」
お市は、すぐには表情を変えなかった。
「また、とは」
「明智十兵衛殿に続いて、今度は竹中半兵衛殿、とのことにございます」
そこまで聞いて、ようやくお市の目がわずかに動いた。
竹中半兵衛。
名は耳にしている。美濃筋の若き知恵者。まだ大きく表へ出ているわけではないが、見える者には見えている名だ。
お犬は続けた。
「しかも、前田慶次郎殿と奥村助右衛門殿も、桶狭間以来ずっと治部大輔殿の左右におられるとか」
お市は、その言葉でようやく小さく息をついた。
「……そう」
驚いた、というより、やはりそこまで来たか、に近い。
桶狭間で今川治部大輔の首を挙げた。
上総介である兄が、治部大輔の名乗りを許した。
そこまでは既に大きい。だが本当に恐ろしいのは、その後だ。
人が寄る。
しかも、ただ威勢のよい者ではない。
武辺が寄り、知のある者まで動く。
それはつまり、あの若武者の首一つが、単なる武名ではなく「この先に何かある」と周囲へ思わせたということだ。
「姉上は、驚かれませぬの」
お犬が不思議そうに尋ねる。
お市は少し考えてから答えた。
「驚いてはおります」
それは嘘ではない。
桶狭間の前まで、治部大輔殿――その頃はまだ太郎左衛門殿、と見る方が自然だったが――は、あくまで小田井の利発な若武者だった。家柄は近い。立場も遠くはない。けれど、それでもまだ「この先どこまで行くか」は誰にも定まっていなかった。
だがいまは違う。
義元の首を挙げたという一事だけではない。
その後に寄る顔ぶれが、もう違う。
お犬は、身を少し乗り出した。
「では、やはり……ただの若武者では済まぬ、と」
お市は、そこで初めて少しだけ口元を緩めた。
「もはや、そうなのでしょう」
静かな言い方だった。
だが、その声の底には確かな重みがあった。
「武辺が寄るのは分かります。戦で大きな首を取られたのですから」
お市は、膝の上へ視線を落とす。
「けれど、明智十兵衛殿や竹中半兵衛殿のようなお方まで動くとなれば、話は違います」
お犬も、そこは真顔で頷いた。
「姉上も、そう思われますか」
「ええ」
お市は言った。
「そうした方々は、ただ強いだけの者へは寄りますまい」
それが一番大きい。
武辺は、勢いに惹かれることがある。
だが知恵者は、勢いだけでは動かない。
相手がどこまで見ているか。何を成せるか。どこまで持つか。そこを量る。
その知恵者たちが、いま治部大輔殿を見始めている。
「兄上も、きっとご覧になっておられますね」
お犬がそう言うと、お市殿は静かに頷いた。
「もちろん」
兄・上総介信長は、あの種の流れを見落とす人ではない。
桶狭間の首級だけでなく、その後に誰が寄り、誰が様子を見に来ているかまで含めて、すでに読んでいるはずだ。
そして、それを読んだ上で、治部大輔殿をどう使うかを考えているに違いない。
お犬は、そこで少しだけ言いにくそうに目を伏せた。
「姉上」
「何です」
「……城中では、いろいろ申す者もおります」
お市は、その先を促さずとも分かった。
妹御のどちらかを。
そういう話だろう。
上総介が本気で考えているのか、家中が勝手に先回りしているだけなのか、その両方が混じっているのだろう。
お市は、少しだけ目を細めた。
自分とお犬は、ただの妹ではない。父の正室土田御前腹、すなわち上総介兄上と勘十郎兄上と同腹の姫だ。その婚姻は、ただ誰かへ嫁ぐという話では済まない。本家の血をどこへ結び、誰を一門の中で押し上げるかという話になる。
ゆえに、軽々しくは扱えぬ。
だが同時に、桶狭間を経た治部大輔殿が、もはや軽々しく扱えぬ若武者でもなくなっているのも確かだった。
「噂は、噂にございます」
お市はそう言った。
それは否定ではない。
肯定でもない。
まだそこを、自分から言葉にして定める段ではないというだけだ。
お犬は、姉のその言い方を聞いて、少しだけ目を丸くした。もっとはっきり斥けるかと思ったのかもしれない。
お市殿は、ふと庭へ目をやった。
夕暮れが、清洲の屋根の上へ静かに落ちていく。
「けれど」
お犬が顔を上げる。
「もしそのような話が、本当に兄上のお心の内にあるのだとしたら」
そこで一度、言葉を切った。
自分でもまだ、その先をどこまで言うべきか測っている。
「治部大輔殿は、家柄だけでその座へ近づいたのではありませぬ」
お市は静かに言った。
「桶狭間でご自分の手で、それに足る位置を取られたのです」
その声音は、驚きでも憧れでもなかった。
認めている声だった。
お犬はしばらく黙っていたが、やがて小さく頷いた。
「……はい」
お市はさらに続ける。
「しかも、それで終わっておりませぬ。終わっておるなら、武辺だけが寄るでしょう。けれど今は、違う」
明智十兵衛。
竹中半兵衛。
前田慶次郎。
奥村助右衛門。
お市は、その全ての人柄や力量を詳細に知っているわけではない。だが、名前だけでも十分だった。そうした名が、桶狭間の直後から治部大輔殿の周りへ見え始めている。それ自体がもう、ただの若武者ではない証だ。
「人が寄るというのは、恐ろしいことでもあります」
お犬が少し首を傾げた。
「恐ろしい?」
「ええ。強い、賢い、というだけで寄るのではありませぬ。その方の先に、自分の行く先を重ねられると思うからこそ寄るのでしょう」
お市はそこで、ほんの少しだけ目を伏せた。
「それだけのものを、あのお方は桶狭間で掴まれたのでしょうね」
部屋の中に、しばし静けさが落ちる。
お犬は、やがてほっと息をつくように笑った。
「姉上は、治部大輔殿を高くご覧になっておりますのね」
その言い方に、お市はわずかに口元を緩めた。
「高く見ねばならぬだけの働きをなされたのでしょう」
それは逃げでもあったし、たぶん本音でもあった。
実際、そうなのだ。
親族筋だから。家が近いから。兄上が目を掛けているから。そういうことを差し引いてもなお、桶狭間以後の治部大輔殿は、もう見方を変えざるを得ない。
一人で前へ出る若武者ではない。
人が寄り、場が動き、次の盤が広がる中心になり始めている。
お犬が立ち上がりかけて、ふと振り返る。
「姉上」
「何です」
「次にお会いする時は、また違って見えるやもしれませぬね」
その一言に、お市はすぐには答えなかった。
ただ、夕暮れの庭を見た。
もう違って見えているのかもしれない。
桶狭間の前と後では、たしかに何かが変わってしまったのだから。
「そうかもしれませぬ」
やがて、そうだけ答えた。
お犬が下がった後も、お市はしばらくその場に座していた。
清洲の空気は、勝って以後、少しずつだが確実に変わっている。兄上も、家中も、皆が次を見始めている。その中で、治部大輔信繁という名もまた、昨日までとは違う重さを持って響き始めていた。
しかも、その重さは一人の武名ではない。
武辺が寄る。
知恵者が寄る。
周りが「この先がある」と見て動く。
それは、若武者の域を越えた者の気配だ。
お市は、そっと膝の上へ手を重ねた。
主君と同腹の姫として生きるということは、自分の周りで動く縁や血の意味を、嫌でも考えるということでもある。
だからこそ分かる。
治部大輔信繁の周りで起き始めたことは、ただの戦後のざわめきではない。もっと先まで続く流れの最初の音なのだと。
夕暮れの光が、静かに畳の上を滑っていった。
♢
清洲の夜は、勝った後ほど静かになり切らない。
桶狭間の大勝は、城中の空気を一変させた。今川義元の討死。尾張の存亡を分けかねなかった一戦での逆転。その熱は、さすがに数日で冷えるものではない。
だが、熱が引かぬからこそ見えるものもある。
上総介信長は、その夜、奥の一間で一人酒も取らずに座していた。
灯火は多くない。紙が数枚、脇に置かれている。軍勢の動き、戦後の整理、各家の反応、周辺の報せ。いずれも急ぎのものだが、その中に一枚、少し違う気配の文があった。
治部大輔信繁の周辺に関するものだ。
信長は、それを改めて手に取った。
前田慶次郎利益。
奥村助右衛門永福。
明智十兵衛光秀。
竹中半兵衛重治。
口には出さず、名だけを追う。
慶次郎と助右衛門は分かる。
あれは桶狭間の匂いに引かれた武辺だ。首の匂い、戦の匂い、前へ出る男の匂い。そういうものに鼻が利く。あの種の人間が治部大輔の左右へ寄るのは、ある意味で自然だ。
だが、十兵衛と半兵衛は違う。
「……ほう」
小さく、そう漏れた。
その二人まで動き始めるか。
信長は笑ってはいなかった。
むしろ目が冴えていく類の「ほう」だった。
ただ首を取った若武者のもとへ、知恵者は寄らぬ。
寄るのは、首の後まで見える相手のもとだ。
治部大輔は、そこまで見せたのだろう。
桶狭間での義元討ちそのものは、もちろん大きい。だがそれはもう起きてしまった事実だ。信長にとって重要なのは、その事実が次に何を動かしたかだった。
人が寄る。
それも、役の違う者たちが。
武辺だけなら、勢いだと言える。
知恵者まで来るなら、勢いだけでは済まぬ。
そこへ、障子の外から控えめな声がした。
「上総介様」
「入れ」
入ってきたのは、側近の一人だった。名を呼ぶほどの用でもない。だが、こういう時の報せを持ってくる者は、概して余計な言葉を足さぬ。
「申し上げます」
「申せ」
「竹中半兵衛殿、今日、小田井へ参った由」
信長は少しだけ顎を引いた。
「本人がか」
「は。見定めに参ったとの趣きにございます」
「明智十兵衛の後でか」
「左様」
信長は、その報せを聞いて初めて、ほんの少しだけ笑った。
「よい」
その一言に、側近は顔を上げない。
信長は続ける。
「武辺が寄るのは、戦で首を取ったからだ。だが、知恵者まで動くなら、こやつは首一つで終わる器ではない」
それは独り言に近かった。
側近へ説明しているのではなく、自分の中で盤の位置を確かめている声だった。
「左兵衛佐の倅」
そこで一度、言葉が止まる。
左兵衛佐信張の嫡男。藤左衛門家の後継。尾張三奉行の一つに連なる家。しかも父が認めた結果、左兵衛佐信張自身が、信長の従姉妹を正室にしている。
つまり治部大輔は、最初から遠い陪臣ではない。近い血筋の織田一門の嫡流だ。
家格だけで見れば、もとより軽い駒ではなかった。
桶狭間がなくとも、一門の中で要職へ上がる道はあっただろう。
だが桶狭間があった。
だから、ただの家格の話では済まなくなった。
「家ごと立てるか」
ぽつり、とその言葉が落ちる。
藤左衛門家の嫡男として、そのまま家を継がせる。小田井を基盤に、尾張一門の有力当主として立てる。それはそれで筋が通る。家格も、血筋も、武功もある。誰も文句は言い難い。
だが。
信長の目は、その先まで行っていた。
「……それでは、少し惜しいか」
家ごと立てる。
それは安定だ。
だが安定に収めてしまえば、治部大輔が桶狭間で見せた“前へ出る才”を、家一つの主へ畳んでしまうことにもなる。
人を吸う。
前へ出る。
首を取り、その後の座まで変える。
しかも今は、知と武が両方寄り始めている。
そういう男を、ただ一門の一角として納めてよいか。
「もっと上へ出すか」
今度の言葉には、少しだけ熱があった。
側近は黙っている。
答えを求められていないのが分かっているからだ。
信長はさらに思う。
もし、もっと上へ出すなら。
その時は、治部大輔一人の話ではない。藤左衛門家の扱いも変わる。信張の立て方も考えねばならぬ。又六郎の置き場も要る。家をどう割り、どう残すかまで絡んでくる。
そして、そこへさらに、妹たちの話が乗る。
お市。
お犬。
土田御前腹。
ただの妹ではない。信長にとっても信勝にとっても、同腹の姫だ。その婚姻は、一門内の便利な札の移動では済まぬ。本家中枢の血をどこへ結ぶか、そのものだ。
だからこそ軽くは切れない。
だが、だからこそ値打ちもある。
「治部大輔に、そこまで預けるか」
それを問うているのは、誰でもない信長自身だった。
桶狭間での戦功だけなら、褒美と名乗りで足りる。
家格だけなら、婚姻候補たり得る。
だが、その二つが重なり、さらに人の寄り方まで伴うなら、話は違う。
そこまで見た時に初めて、同腹の妹を動かす話が盤上へ乗る。
信長はそこで、ようやく少し大きく息を吐いた。
「面白い」
今度は、はっきりと笑みがあった。
「今川治部大輔の首一つで、ここまで盤が動くか」
側近が、そこで初めて短く問うた。
「上総介様。左兵衛佐殿には、いかに」
信長はすぐには答えなかった。
信張は元々家格も同格で今では近い一門だ。
軽んじてよい相手ではない。むしろ近いからこそ、立てねばならぬ。嫡男だけを抜いて家を空っぽにするような真似は、信張だけでなく一門全体へ響く。
「左兵衛佐は、分かっておろう」
やがて、そう言った。
「倅が小田井一城の若殿で収まらぬことくらい」
そして、口元だけで笑う。
「だが父親の腹と、当主の腹は別だ」
それが分かるから、軽々しくは運ばぬ。
信長自身もまた、兄であることと、棟梁であることの腹が別れる時を知っていた。
「急がぬ」
信長はそう決めた。
「だが、目は離さぬ」
それで十分だった。
いま大事なのは、治部大輔を急いでどこかへ固定することではない。
人がどう寄るか。
治部大輔がそれをどう受けるか。
藤左衛門家がどう動くか。
ご隠居が何を差し込むか。
十兵衛と半兵衛が、見た後にどう決めるか。
そこまで見てからでも遅くない。
むしろ、そこを見ずに切る方が悪手だ。
信長は脇の文を指先で軽く叩いた。
「こやつは、家だけ持たせても面白い。もっと上へ出しても面白い」
側近は黙っている。
「厄介だな」
そう言いながらも、その声は楽しげだった。
困る、という意味ではない。
手間は掛かる。筋も要る。周りの腹も読む。だが、そういう厄介さこそ、大きくなる駒には付きものだ。
「されど」
信長の目が細くなる。
「厄介な駒ほど、使いでがある」
それが、この男の本質だった。
信長は立ち上がった。
灯火がわずかに揺れる。
「お市とお犬には、まだ何も申すな」
側近が低く答える。
「は」
「左兵衛佐にも、今はまだよい」
「はっ」
「ただ」
信長は一歩、廊の方へ向かいながら言った。
「治部大輔の周りへ寄る者の名は、細かく拾え」
「承知」
「武辺だけでなく、知の者もだ。どこまで揃うかを見たい」
側近が下がる。
一人になった部屋で、信長は障子の外の暗がりを見た。
桶狭間の首は大きかった。
だが本当に面白いのは、その後だ。
一つの首が、人を動かす。
家の形を揺らす。
妹の行く先まで盤上へ上げる。
そして尾張の内だけではなく、美濃まで見える流れを生む。
「……治部大輔信繁」
名を、静かに口の中で転がす。
まだ若い。
だが、若いからこそ面白い。
いまはまだ、どこへ置くか決めぬ。
決めぬが、見ている。
見た上で、最も面白く、最も遠くまで効く置き方を選ぶ。
信長の目には、すでにその盤が見え始めていた。
清洲の夜はまだ静まり切らない。
そのざわめきの奥で、もう次の一手が考えられている。
治部大輔信繁の首一つが、城の奥でそこまでの思案を生んでいることを、たぶん当の本人はまだ知らぬままだった。
♢
清洲の一室は、広すぎず狭すぎず、話を詰めるにはちょうどよい座敷だった。
評定ほど大仰ではない。だが雑談の場でもない。上総介様と勘十郎殿が並び、こちらが一段下に控える。その形だけで、ここが本家中枢へ話を通すための場だと分かる。
俺は畳へ手をついた。
「本日は、お時間を賜りたく」
上総介様が口元をわずかに緩める。
「桶狭間の首の次は、何を持ってきた」
軽い。
だが目は軽くない。
勘十郎殿は静かにこちらを見ている。兄上のように先に笑いはせぬ。その代わり、こちらが何をどこまで見て持ってきたか、最初から測る顔だ。
俺は頭を上げた。
「美濃のことにございます」
それだけで、座の空気が少し締まる。
上総介様は面白そうに目を細めた。
勘十郎殿は、わずかに顎を引いただけだった。
「申せ」と、上総介様。
「は」
俺は息を整えた。
「桶狭間にて今川は崩れました。されど、今川一つの勝ち負けで世が済むわけではございませぬ。尾張の内を固めるが先とは存じます。ですが、その先に目を向けるなら、美濃は避けて通れませぬ」
勘十郎殿がそこで初めて口を開いた。
「避けて通れぬ、と言う理由は」
直い。
だが、むしろありがたい問いだ。
「地によってにございます」
俺は答える。
「美濃は、尾張にとってただの隣国ではございませぬ。東から来るもの、西へ抜けるもの、兵の道も、物の道も、人の道も、あの地を外しては回りませぬ。加えて広く、山川も多く、国人も一枚岩ではない。ゆえに獲るだけでも厄介、持たせるならなお厄介な国にございます」
上総介様は黙って聞いている。
「逆に申せば、あそこを押さえ、持たせることが出来るなら、ただ一国を得る以上の意味がございます」
そこで一度息を置いた。
「美濃を制す者は、日本を制す――などと、誰ぞが申したとか申さなんだとか」
上総介様の口元が動いた。
勘十郎殿は、そこでは笑わなかったが、言葉の置き方は聞いていた。
「ほう」と、上総介様。
「大きく出たな」
「大きく申しておるつもりはございませぬ」
そう返すと、上総介様はますます面白そうにした。
勘十郎殿が問う。
「では、どう動く」
そこだ。
ここからが本題だった。
「正面から攻めて崩すには、時も銭も兵も要りましょう。しかも美濃は、外から叩けば一つに固まりかねませぬ」
勘十郎殿が頷く。
「あり得るな」
「ゆえに、外から押す前に、内から綻ばせるべきにございます」
上総介様の目が細くなる。
「綻び、とな」
「西美濃三人衆にございます」
そこで、さすがに空気が変わった。
上総介兄上も勘十郎兄上も、その名の重みは当然知っている。
美濃を内から割るなら、そこを抜きに語ることは出来ぬ。
「三人衆を切り崩せるなら」
俺は続けた。
「美濃は外から叩くより早く崩れます」
しばし沈黙が落ちた。
上総介兄上は俺を見ている。
勘十郎兄上も見ている。
ただし、見方は違う。
上総介兄上は「どこまで面白くなるか」を見ている。
勘十郎兄上は「どこで転ぶか」を見ている。
やがて、上総介様が先に笑った。
「ほう、面白い」
その一言で、少しだけ肩の奥が軽くなる。
まだ許しではない。だが、話は届いた。
「戦働きだけでないところを見せるか。やってみよ」
そこまで一気に来るのが、この人らしい。
だが、勘十郎兄上はすぐには乗らない。
「待て」
低く、しかしきっぱりと言う。
「切り崩す、とは軽く言うが、誰をどう使う」
当然の問いだった。
俺は頷く。
「半兵衛殿を媒介に使います」
上総介兄上の眉が、わずかに上がる。
勘十郎兄上は、その先を待っている。
「ただし」
ここは、はっきり切っておくべきところだ。
「半兵衛殿自身の判断で、美濃の諸将を勝手に動かす形には致しませぬ」
勘十郎兄上の目が、ほんの少しだけ鋭くなる。
その点を聞きたかったのだろう。
「申してみよ」
「構想と決は、あくまでこちらにございます。半兵衛殿には、地の利と人の縁を借りる。つまり、誰へどう話を通すか、その接ぎ木に使う。されど、寝返りそのものを“半兵衛の顔”で決めさせてはなりませぬ」
「なぜだ」
「半兵衛殿の私心で西美濃が動いたように見えれば、あとが持ちませぬ」
俺は答える。
「織田へ移る利、斎藤に残る不利、その両方を相手自身に理解させる必要がございます。半兵衛殿はそこへ繋ぐ橋にございましょう。橋であって、勝手に盤を裏返す手であってはなりませぬ」
上総介兄上が、そこで喉で笑った。
「半兵衛まで駒として使うか」
「使うというより、使いどころを誤らぬように致したく」
「よい言いようだ」
だが勘十郎兄上はまだ続ける。
「十兵衛は」
これも来ると思っていた。
「十兵衛殿には、文言の整理、使者筋の選定、相手の気質の見立てを願うのがよろしいかと」
「ほう」
「武辺で押す話ではございませぬ。調略にございます。こちらが何を餌にし、何を約し、どこまでを今すぐ与え、どこから先は後日とするか――その線引きが要ります」
勘十郎兄上は黙った。
だが、否ではない。
話が実務へ落ちているかを見ている顔だ。
俺はさらに続けた。
「慶次郎と助右衛門は表へ出しませぬ」
上総介兄上が、少し意外そうに言う。
「ほう。あれらを使わぬか」
「使わぬわけではございませぬ。ですが、前へ出せば話が荒れます。あの二人は、いざという時の即応に置くべきにございます。護衛、威圧、あるいは途中で裏切りが出た時に潰す手として」
今度は勘十郎兄上が、ごく小さく頷いた。
「収まりを考えておるな」
ようやく、その言葉が出た。
ここまで来れば、少なくとも独りよがりの策とは見られていない。
「勝手働きに見せたくございませぬ」
俺ははっきり言った。
「ゆえに、まず上総介兄上と勘十郎兄上のお耳へ入れに参りました」
その一言で、座の意味が定まる。
党派でもない。抜け駆けでもない。
本家中枢への正式な事前共有だ。
上総介兄上が少しだけ満足そうに目を細めた。
勘十郎兄上も、ようやくこちらを真っ直ぐ見た。
「よい」
そう言ったのは、勘十郎兄上の方だった。
「面白いだけの策では困るが、少なくともお前は、切り崩した後の収まりまで見て話している」
その評価は重かった。
兄上に「面白い」と言われるのとは別の意味で、重い。
「ただし」
勘十郎あは続ける。
「裏切らせるのは一時だ。抱え込むのは、その後ずっと続く」
「は」
「三人衆を織田へ寄せるなら、寄せた後に誰がどう扱う。尾張衆とのあつれきは。恩賞は。疑いは。そこまで考えておけ」
「承知にございます」
これは、そのまま本質だった。
調略は成功した瞬間が終わりではない。むしろそこから始まる。だからこそ、事前に相談へ来たのだ。
上総介兄上がそこで、少し前へ身を乗り出した。
「治部大輔」
「は」
「西美濃三人衆を切り崩せる、と本気で思うか」
試すような声だった。
俺は一拍だけ置いた。
「切り崩せるか、ではなく」
「ほう」
「切り崩せねば、美濃は正面からでは重うございます」
上総介兄上の目が光る。
その返しは嫌いではないはずだ。
「ゆえに、やる価値があると存じます」
上総介兄上は、しばし俺を見て、それからはっきり笑った。
「よい」
一語だった。
だが十分だ。
「やってみよ」
そう来る。
この人は、最後はやはりそう来る。
「ただし、勝手に突っ走るな。十兵衛も半兵衛も、お前も、賢い顔をした者ほど勝手に先へ出る」
「肝に銘じます」
「それでよい」
そこで、ようやく話は一度切れた。
だが、まだ終わってはいない。
上総介様兄上、そのまま何事もないように脇の紙へ手を伸ばし、それをぱたりと置いた。
「ところで」
声の温度が、ほんの少し変わる。
勘十郎兄上は何も言わない。だが、分かっている顔だった。
「治部大輔」
「は」
「お前は、桶狭間で首を取り、いままた美濃を崩す策まで持ってきた」
俺は黙った。
「武だけではないところを、しかと見せてくれるわけだ」
そこまで言われると、さすがにただの進言の評価では済まぬ響きがある。
「過分にございます」
そう返すのが精一杯だった。
上総介兄上は、そこで口元だけで笑った。
「過分かどうかは、まだ決めぬ」
それだけだった。
だが、その一言の重さは、十分に分かった。
何かが、もう盤の上へ乗っている。
まだ口には出されぬ。
だが、出されぬからこそ重い。
勘十郎兄上が、そこで静かに話を戻した。
「動くなら、文言はまず十兵衛に見せよ。半兵衛には、道筋だけ渡せ。判断は挟ませるな」
「は」
「前田の二人は裏に置け。抜いた後に騒ぎが起きた時だけ使え」
「承知」
「それでよい」
その整理は、俺が考えていた流れとほぼ同じだった。
つまり、もうこの策は、俺一人の思いつきではない。織田家中枢の机の上へ正式に乗ったのだ。
上総介兄上が最後に言う。
「治部大輔」
「はっ」
「西美濃三人衆を織田へ寄せられたなら」
一瞬、言葉が切れる。
だが、その間に十分だった。
「その時は、首一つで終わらぬ働きと見よう」
俺は深く頭を下げた。
「ありがたき幸せ」
それ以上は何も言えなかった。
頭を上げると、上総介様はもう次の紙へ目を落としていた。勘十郎殿も同じだ。話は終わったのだ。終わったが、その実、ここから始まる。
俺は座を下がった。
廊へ出る。
閉じた障子の向こうで、まだ兄弟の声が低く交わされている気配がした。何を話しているかまでは聞こえない。だが、聞こえぬ方がよいのだろう。
いま大事なのは、許しが出たことだ。
本家中枢へ筋を通し、策が家のものとして動き出したことだ。
西美濃三人衆。
その名は重い。
だが、その重さごと動かせねば、この先の美濃は開かぬ。
俺は廊の途中で一度だけ立ち止まり、息を吐いた。
桶狭間の時とは違う重さだった。
あの時は、前へ出て首を取ればよかった。
だが今度は違う。人を動かし、心を割り、しかもその後の収まりまで背負わねばならぬ。
戦働きだけではないところを見せるか。
上総介兄上のその言葉が、妙に耳に残っていた。
「……やるしかないな」
小さくそう呟いて、俺はまた歩き出した。
その頃にはもう、武功の若武者としての時間は半ば終わっていた。
次に問われるのは、政と人の流れを扱えるかどうか。
治部大輔信繁という名は、いよいよそこまで試されようとしていた。