織田家の嫡子~藤左衛門家の特異点   作:デトロ!開けろイト市警だ!

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012美濃切り崩し

小田井の一室に、四人が揃っていた。

 

俺の前に、明智十兵衛光秀。

その少し斜めに、竹中半兵衛重治。

左右の後ろには、慶次郎と助右衛門が控えている。

 

武と知が、まだ仮組みながらも、一つの座へ乗っている。

 

桶狭間の直後には想像もせなんだ光景だが、いまはもう驚いている暇もない。西美濃三人衆をどう切るか。その話を始めれば、誰もが自然とこういう座り方になる。

 

もっとも、自然といっても近さは同じではない。

 

慶次郎と助右衛門は、すでに桶狭間以来こちらの左右へ寄っている。

だが十兵衛殿と半兵衛殿は違う。

いまはまだ、見に来ている。量りに来ている。

こちらの策に知恵を貸すとしても、それは忠勤の印ではなく、あくまで「見どころがあるなら手を添える」程度の距離だ。

 

そこは、こちらも弁えねばならない。

 

俺は文を脇へ置いた。

 

「――以上が、上総介様と勘十郎殿へお通しした筋にございます」

 

十兵衛殿が指先で膝を軽く叩く。

 

「ほう、西美濃三人衆ですか」

 

軽い相槌に聞こえる。

 

だが、この人の「ほう」はたいてい軽くない。もうその先の枝を探りに行っている声だ。

 

案の定、十兵衛殿は続けた。

 

「ちなみに」

目が細くなる。

「治部殿の目から見て、他に崩せそうなところはございますか?」

 

その問いに、俺はほとんど間を置かなかった。

 

「鵜沼の虎」

 

座の空気が、ぴたりと止まる。

半兵衛殿の目が、はっきり動いた。

ほんのわずか。だが、この人の表情がここまで動くのは大きい。

 

「……!」

 

慶次郎は意味がまだ腹へ落ちていない顔で、俺と半兵衛殿を交互に見た。助右衛門は無言のまま、ただ視線だけを少し深くした。十兵衛殿だけは、すぐには何も言わず、俺の続きを待っている。

 

軽々しく言葉を重ねぬあたりが、この人らしかった。

 

「西美濃三人衆を切るのは、美濃を西から割るためにございます」

俺は続けた。

「されど、割った後にどこへ圧が逃げるかを考えれば、鵜沼は捨て置けませぬ」

 

半兵衛殿が、静かに言う。

 

「……西だけで終わらせぬ、と」

 

「終わらせられませぬ」

俺は頷いた。

「西を崩せば、東寄りの者は身の置き場を探しましょう。そこで鵜沼がただ斎藤方の牙城として立てば、崩れた流れを呑み込まれて終わります」

 

十兵衛殿がそこで、ようやく口元を緩める。

 

「なるほど。三人衆だけを“点”で見てはおられぬ、ということですか」

「そのつもりにございます」

 

半兵衛殿は少し考えてから、静かに言った。

 

「もし治部殿が、そこまで先を見ておられるのなら……西美濃だけでなく、その次にどこへ流れるかまで分けて見ねばなりますまい」

「半兵衛殿には、その見立てを一度伺いたいところです」

 

俺はそう言った。

 

命じるのではない。

まだそこまでの距離ではない。

だが、盤を読むこの人の目は借りたい。

 

半兵衛殿は、わずかに目を伏せた。

 

「某の見立てが、お役に立つようであれば」

 

距離は、まだある。

けれど拒んでもいない。

その答え方が、いかにもこの人らしかった。

 

十兵衛殿がそこで、細く笑った。

 

「文言の立て方も変わりましょうな」

「どう変えられます」

 

そう問うと、十兵衛殿は少しだけ首を傾けた。

 

「西美濃の三人へ見せる利と、鵜沼へ見せる利は、同じにはせぬ方がよろしい」

その言葉に、俺は頷く。

「西美濃は“斎藤に残る不利”と“織田へ寄った後の利”を見せるべきにございましょう」

 

「ええ」

 

十兵衛殿も頷いた。

 

「対して鵜沼は、西が崩れた時に孤立せぬ道を見せる方が効くやもしれませぬ。恐れの質が違いましょうから」

 

これも、やはりこの人らしい。

 

相手の立場で、見せるべき利と恐れの形を変える。

ただ「寝返れ」と言うのではなく、誰に何を差し出せば動くか、その言葉の輪郭を整える。

 

「そのあたり、十兵衛殿のお考えも伺えればありがたい」

俺がそう言うと、十兵衛殿はほんのわずかに目を細めた。

「某でよろしければ、筋くらいは引いてみましょう」

 

これもまた、引き受け切らぬ言い方だ。

だがいまはそれでよい。

 

「悪ぃ、俺にも分かるように言え」

 

慶次郎がとうとう口を挟んだ。

助右衛門が低く言う。

 

「三人衆を崩して終わりではない。その後に誰が立つかまで見ておく、ということだ」

「おう、そりゃ分かる」

 

慶次郎は頷いた。

 

「要するに、倒した後の首の置き場まで考えてるってことだろ」

 

「だいたい合っております」と、十兵衛殿。

 

「お前、それで通じるのか」

 

慶次郎が笑うと、十兵衛殿もわずかに口元を動かした。

座の空気が、ほんの少しだけ和らぐ。

 

俺はそこで、もう一度言葉を整えた。

 

「まずは、西美濃を切り離す」

全員の目が集まる。

「ただし、西美濃三人衆だけを“崩れ目”と見て終わっては意味が薄い。崩した後に、どこへどう流れるかまで、予め予想しておきたい」

 

半兵衛殿が小さく頷いた。

 

「それなら、話としては筋が通っております」

「十兵衛殿」

「はい」

「文言の筋は、どこまで詰められそうでございます」

 

十兵衛殿は少し考えた。

 

「今この場で書き切るより、まずは誰へ何を見せるかの段を分けた方がよろしい」

「西美濃側と、鵜沼側で」

「ええ」

「半兵衛殿」

 

俺は視線を向ける。

 

「西美濃の人の連なりと、鵜沼へ流れる恐れのある者、その切り分けはお願いできますか――と申し上げたいところですが」

 

そこで一度言葉を切った。

近すぎる物言いは避けるべきだ。

 

「もし一度、お考えを伺えるようであれば、大いに助かります」

 

半兵衛殿は、少しだけ目を細めた。

 

たぶん、そこも見ているのだろう。

若武者が、どこまで人との距離を測れるか。

使いたい相手に対して、使い走りのような口をきかぬかどうか。

 

「……某なりに、見てみましょう」

 

静かな答えだった。

それで十分だ。

 

慶次郎が、今度は俺に向かってにやりとした。

 

「で、俺と助右衛門は」

「前へは出るな」

 

即答した。

慶次郎がむっとする。

 

「おい」

「お前が表へ出れば話が荒れる。お前は荒らす側だ」

 

助右衛門が低く息を吐いた。

 

「否定はし難いな」

「てめえまでそう言うか」

「お前と某の使いどころは、また別だ」

 

助右衛門は静かに続ける。

 

「いざという時の即応、護衛、あるいは途中で裏切りが走った時の押さえ――そのあたりが妥当であろう」

 

十兵衛殿がそこで、面白そうに言った。

 

「そこまで切り分けておられるなら、少なくとも“首を取った勢いだけで話している”とは見えませぬな」

 

その一言は重い。

十兵衛殿のような人に、そこを認められるのは大きい。

 

半兵衛殿も、小さく付け足した。

 

「某も、そこは驚きました」

 

俺は少しだけ息を吐いた。

 

「ならば、その驚きを当てにして、少しばかりお力を借りたいところです」

 

十兵衛殿が笑う。

 

「少しばかり、ですか」

「最初から全部は望みませぬ」

「それは結構」

 

半兵衛殿は、それを聞いてほんのわずかに口元を緩めた。

 

この二人は、やはり似ているところと違うところがある。

十兵衛殿は言葉の綾に反応する。

半兵衛殿は、言葉の距離と盤の筋に反応する。

 

「では」

十兵衛殿がまとめるように言った。

「西美濃三人衆は、表の切り崩し」

 

「鵜沼は、その後の崩れの受け口として置く」

 

と、俺。

半兵衛殿が静かに頷く。

 

「そう見ておけば、少なくとも一度崩して終わる話ではなくなります」

「まずは、それで参りたい」

 

そう言って、俺は座を見回した。

 

武辺が二人。

知が二人。

だが、まだ誰も完全にはこちらの内へ入ってはいない。

 

それでも今この場では、少なくとも同じ盤面を見ている。

そのこと自体が大きかった。

 

「よし」声に出して言う。

「西美濃三人衆だけで終わると思うな。崩した後に、どこへどう流れるかまで拾う」

 

慶次郎がにやりとする。

 

「話がでかくなってきたな」

 

「最初から大きい」と助右衛門。

 

十兵衛殿は静かにこちらを見た。

 

「治部殿」

「何でござる」

「鵜沼の虎、と即答されたのは見事でした」

「褒めておられるので」

「ええ。あそこで少しでも考え込めば、西美濃三人衆という“名題”に引っ張られていたと分かります」

 

半兵衛殿も、静かに言う。

 

「某も、そこは驚きました」

 

その一言は、やはり重い。

この人に驚かせたなら、少なくとも盤の先を一歩は見せられたということだ。

 

「では」俺は深く息を整えた。

「まずは文言を分ける。西美濃へ見せる利と、鵜沼へ見せる利を分ける。その上で、相手ごとの連なりを見て参りたい」

 

十兵衛殿が頷く。

 

「筋は引いてみましょう」

 

半兵衛殿も、少し間を置いて言った。

 

「某も、見立てるだけは見立ててみます」

 

その言い方でよい。

 

まだ家臣ではない。

だが、もうただの傍観者でもない。

 

この距離のまま、少しずつ盤へ入ってくる。

それが今の二人にはふさわしかった。

 

座の空気が、ようやく一つにまとまる。

 

西美濃三人衆を切る。

その先に鵜沼を置く。

崩れた流れを、次の一手へ繋げる。

 

まだ策は机の上だ。

だが、この瞬間にただの思いつきではなくなった。

 

治部大輔信繁の策として始まり、十兵衛殿と半兵衛殿が形を与え、慶次郎と助右衛門が現場で支える。

 

その構図が、初めてはっきりした。

 

 

清洲の夜は、相変わらず静まり切らなかった。

 

桶狭間以後、城中の空気はずっと薄く張っている。勝った。だが勝っただけで終わる戦ではなかった。今川の首一つが、尾張の内だけでなく周りの国々の形まで揺らしている。人も、兵も、銭も、噂も、みな少しずつ流れを変えていた。

 

上総介信長は、その流れの音を聞くように座していた。

 

灯りは多くない。酒もない。脇には文が数枚。急ぐべきものから、まだ見ているだけでよいものまで混じっている。そういう時の信長は、誰が見ても上機嫌には見えない。だが、よく知る者なら分かる。目の奥が冴えている時ほど、この男は面白がっている。

 

障子の外で控えの者が声を落とした。

 

「上総介様」

「入れ」

 

入ってきたのは、例のごとく余計な言葉を持たぬ側近だった。こういう報せを持ってくる者に限って、話を膨らませぬ。そこがよい。

 

「申せ」

 

「治部大輔殿の件にございます」

その一言で、信長の視線が少しだけ上がる。

「西美濃三人衆の切り崩しにつき、十兵衛殿、半兵衛殿、前田慶次郎殿、奥村助右衛門殿らと座を持った由」

 

「うむ」

 

そこまでは、もう予定のうちだ。

信長は急かさない。

 

側近は続ける。

 

「その座にて、治部大輔殿は、西美濃三人衆のみならず、“鵜沼の虎”もまた崩れ目として見ておる由」

 

信長の目が、そこで初めてはっきり細くなった。

 

「ほう」

その一語は、前より少し深かった。

「西だけでなく、鵜沼まで見るか」

 

側近は頭を下げたままだ。

だが、その沈黙が、なお詳しく聞きたいのなら続ける、という形になっていた。

 

信長は顎をわずかに動かす。

 

「申してみよ」

「は」

「西美濃三人衆を切るのみでは、美濃を西から割るに留まる。割った後、東寄りの者がどこへ流れるかを見れば、鵜沼を捨て置けぬ――との趣きにございます」

 

「ふむ」

信長は指先で文の端を軽く叩いた。

「西を崩した先の流れまで見る、か」

 

そこへ、さらに言葉が足される。

 

「十兵衛殿は、三人衆へ見せる利と、鵜沼へ見せる利を分けるべしと述べ」

「うむ」

「半兵衛殿は、西美濃と鵜沼へ流れる者の連なりを分けて見るべし、と応じた由」

 

そこで、信長は小さく笑った。

 

「なるほどな」

その笑いは大きくない。だが、機嫌が悪い時には出ぬ笑いだった。

「よい」

 

また、その一言だ。

だが、この男の「よい」は軽くない。

 

「西美濃三人衆を挙げるだけでも、若武者の策としては上出来よ」

信長は独り言のように言う。

「だが、そこで止まらず、崩した後にどこが立つかまで見るとなれば、首一つで酔うておらぬ」

 

そこへ、別の声がした。

 

「兄上」

 

勘十郎信勝だった。

 

いつの間にか座へ入っていたわけではない。もとより呼ばれていたのだろう。和解済みの今、この手の話を兄だけで抱え込まぬのは自然だった。

 

信勝は兄の脇へ座し、側近の持ってきた報を一度だけ流し読む。

 

「鵜沼、か」

 

その一言には、面白がりよりも実務の匂いが強い。

信長が笑う。

 

「お前もそこを見るか」

 

「西美濃三人衆だけなら、まだ表向きの部分に引かれているだけとも申せます」

信勝は淡々と言った。

「だが、鵜沼まで即座に出るなら、少なくとも“美濃を崩した後”を頭へ置いている」

 

信長が目を細める。

 

「同じか」

「兄上ほど嬉しそうではありませぬが」

「十分だ」

 

側近は依然として頭を下げたまま動かない。

兄弟の声の温度差に慣れているのだろう。

 

信勝は文を置いた。

 

「しかも悪くないのは、十兵衛と半兵衛の使い方です」

「半兵衛を手として使い切らせぬ、というところか」

 

「ええ」

信勝は頷いた。

「半兵衛自身の判断で西美濃を動かしたように見せれば、あとが持たぬ。そこを弁えているのなら、少なくとも裏切らせるだけの小策ではなく、取り込んだ後まで見ている」

 

信長は、そこで少しだけ身体を預けた。

 

「戦働きだけでないところを見せるか、と申したが」

 

信勝が続ける。

 

「その言葉に、いまのところ違わぬようですな」

「うむ」

 

しばし、兄弟の間に静かな間が落ちる。

だが、それは迷いの間ではない。

 

盤面の流れを、それぞれの頭で置き直している間だ。

 

信長がぽつりと言う。

 

「首を取るだけの若武者なら、褒美と名乗りで足りる」

 

信勝は否定しない。

 

「はい」

「家格が高いだけの一門なら、家を持たせれば足りる」

 

信勝は、そこでようやく兄の目を見た。

 

「ですが、治部大輔はそのどちらだけでも済まぬ」

 

信長の口元が、わずかに上がる。

 

「そういうことよ」

 

桶狭間の首。

人の寄り方。

十兵衛と半兵衛の動き。

西美濃三人衆の切り崩し。

その先に鵜沼を見る視界。

 

一つずつなら、まだ偶然とも言える。

だが、ここまで重なれば違う。

 

信長は、文の上へ指を置いたまま言った。

 

「こやつは、家ごと持たせても面白い」

信勝は黙る。

「もっと上へ出しても、なお面白い」

 

そこまで来て、信勝もようやく小さく息を吐いた。

 

「兄上」

「何だ」

「その“もっと上”に、同腹の姫を結ぶおつもりですか」

 

信長は、すぐには答えなかった。

答えなかったが、その沈黙が既に半ば答えだった。

 

お市。

お犬。

 

土田御前腹。

ただの妹ではない。

同腹の姫だ。

 

その意味を、兄である信長が知らぬはずもない。軽く切れる札ではない。ゆえに、軽く決めるものでもない。

 

だが、軽く決めぬからこそ、ここまで見極めている。

やがて信長が、静かに言う。

 

「腹は、決まったな」

 

信勝は目を伏せた。

 

反対ではない。

ただ、その重さを分かっている顔だった。

 

「では」

 

「まだ言うな」

信長はすぐ切った。

「左兵衛佐にも、母上にも、妹どもにも、まだだ」

 

「承知」

 

「だが」そこで、信長の声が少しだけ低くなる。

「西美濃三人衆を寄せる。そのうえで鵜沼まで押さえる目を見せたなら」

 

信勝が、静かに引き取る。

 

「その時は、首一つでない働きとして見る、と」

 

「そうだ」信長ははっきり頷いた。

「武だけではない。人を寄せ、策を回し、その先の国の形まで読む」

 

その一つ一つが、同腹の姫を動かす理由として積み上がっていく。

 

「そこまで揃うなら」

信長は、口元だけで笑った。

「お市をやるに足る」

 

側近は頭を下げたまま、少しも動かなかった。

聞いてよい言葉だけを聞く。

それがこういう場で生き残る者の形だ。

 

信勝が小さく言う。

 

「又六郎の方も、考えておかねばなりますまいな」

「うむ」

「藤左衛門家をどう立てるかも」

「分かっておる」

 

その会話は、もはや若武者一人の話ではなかった。

 

信長の中では、もう盤面が動いている。

治部大輔をどう置くか。

藤左衛門家をどう残すか。

又六郎をどう立てるか。

同腹の姫をどこへ結ぶか。

 

桶狭間の義元の首一つが、そこまでの話を引きずり出してしまったのだ。

信長は最後に、もう一度だけ文へ目を落とした。

 

「西だけでなく、鵜沼まで見るか」

その言葉には、先ほどよりはっきりとした満足があった。

「よい。やはり、面白い」

 

信勝は、その兄の横顔を見て、ほんのわずかに口元を緩めた。

 

「……お気に入りですな」

「気に入らぬか」

「いいえ。使いでのある駒が増えるのは、よいことにございます」

 

兄弟の声は穏やかだった。

和解済みの今、その穏やかさは以前とは別の意味を持つ。

 

信長は立ち上がった。

 

「治部大輔には、まだ何も知らせるな」

「は」

「まずは、西美濃だ。首だけでないところを、きっちり見せてもらおう」

 

その声音には、期待と試しが半ばずつあった。

信長は廊へ向かう。

 

障子が開き、夜の空気が少し入る。

桶狭間は、まだ終わっていない。

 

首を取ったその後が、こうして次々と動き出している。

 

そしてその流れの先で、信長はもう腹を決めた。

まだ誰にも言わぬ。

だが決めた。

 

西美濃三人衆調略が成ったなら。

その先に鵜沼まで見せたなら。

その時は、お市をやる。

 

その決断の重さを、たぶんいま清洲で知る者はほとんどいない。

 

だが、時代の流れはもうそこまで進んでいた。

 

 

会う場所は、城ではなかった。

 

城へ呼べば、それだけで相手は身構える。織田方へ露骨に出向いたと見られれば、まだ腹を決め切っていない者ほど退路を探す。だからこそ、半兵衛殿の見立てに従い、境目に近い、しかしどちらの威にも寄り切らぬ寺を場に選んだ。

 

西美濃三人衆。

 

三人が三人とも、最初から同じ熱でこちらへ傾いているわけではない。だが、共通しているのは、義龍へ絶対の忠で立っているわけでもないということだ。美濃の現実は見ている。一色左京大夫が実権を握って久しいことも知っている。だが、だからこそ逆に、筋をどう立てるかに迷っている。

 

そこへ、こちらは利だけでなく、大義を持って入る。

 

寺の一間は、静かだった。

 

向こうに三人。

こちらは俺、十兵衛殿、半兵衛殿。

少し離して、慶次郎と助右衛門。

 

慶次郎と助右衛門は表へ出さぬ。そう決めてあった。

この場は威で押す場ではない。

理を断ち、相手の逃げ道を潰す場だ。

 

最初のやり取りは、当然ながら固かった。

 

互いに名を名乗り、近況をぼかし、露骨な言葉を避ける。だが、そんな薄皮は長く保たぬ。向こうも何のための座か分かっている。こちらも同じだ。

稲葉右京亮良通。

安藤伊賀守守就。

氏家三河守直元。

 

やがて、一人が口火を切った。

 

「して、治部大輔殿」

声音は抑えているが、探りの色は濃い。

「この座、ただ旧交を温めるためではありますまい」

 

「もちろん」

俺は頷いた。

「西美濃の行く末を語るためにございます」

 

それだけで、部屋の空気が少し変わる。

 

三人のうち、最も年嵩の男が目を細めた。安藤伊賀守。半兵衛の舅でもある。

 

「行く末、か」

「はい」

「いまの美濃に、なお行く末などございますかな」

 

皮肉とも、本音とも取れる言い方だった。

 

その問いには、半兵衛殿がわずかに視線を伏せる。ここは信繁が切るべき、と見ている顔だった。

 

俺は答える。

 

「ございます」

「ほう」

「ただし、それは一色左京大夫殿のもとに留まる限り、狭い」

 

三人の目が、静かにこちらへ寄る。

ここから先は、濁しても仕方がない。

 

「織田は、今川を破りました」

「存じております」

「今川治部大輔も死にました」

「それも聞いております」

 

「ならば、その先は」

俺は一拍置いた。

「美濃にございます」

 

一人が鼻で笑うように言う。

 

「尾張の若武者は、ずいぶん大きなことを」

 

「大きくはありませぬ」

そう返した。

「尾張の内を固めるのが先。されど、尾張の外で最も避け難いのは美濃です。西美濃が揺れれば、美濃は内から崩れます」

 

三人の顔には、表立った否定はない。

そこはもう、現実として分かっているのだ。

 

だから、次へ進める。

 

「そして、その時に問われるのは、誰が美濃の“正しき流れ”に立つか、にございます」

 

その一言で、今度は三人とも本当に黙った。

 

十兵衛殿は一切口を挟まぬ。

半兵衛殿も同じ。

ここは、俺が切るところだ。

 

「道三入道その人が小田井におられる」

はっきりと言った。

「帰蝶様も、織田家上総介兄上の奥におわします」

 

三人のうち二人の目が、そこで明らかに動く。

 

そこだ。

美濃の現実だけを見ている時には、義龍の支配は“もう定まったもの”として見える。だが、道三本人が生きているという事実と、帰蝶が織田家中枢にいるという事実を並べられると、その見立ては一気に揺らぐ。

 

「美濃国主の正当が、一色左京殿にあるか、我ら側にあるか」

俺は、あえて言葉を切った。

「そこに迷う時点で、もはや武士ではありますまい」

 

座の空気が、ぴたりと止まる。

 

これは利ではない。

面子の話だ。

武士としての筋の話だ。

 

向こうの一人が、すぐに反駁できずにいるのが分かった。言いたいことはある。あるが、言葉にしようとすると筋が悪い。

 

俺はさらに踏み込んだ。

 

「父ある者が父を逐い、なおその父が生きておられる」

静かに、だが逃がさぬように言う。

 

「ならば一色左京殿は、国主ではない」

そこで、きっぱりと言い切った。

「ただの反乱者です」

 

その瞬間だった。

 

一人が、ほんのわずかに息を呑む。

 

言いすぎだ、とは誰も言わない。

言えないのだ。

なぜなら、筋で見ればその通りだからだ。

 

一色左京が実を握って久しい。

現実にはそうだ。

だが道三本人が生きている以上、「正統は一色左京大夫にある」と言い切るには、あまりに筋が悪い。

 

しかも道三の娘であり、実の妹である帰蝶は織田にいる。

道三の血は、まだ織田家中枢へ通っている。

 

そこまで突きつけられると、もはや「どちらが勝ちそうか」だけでは済まぬ。

どちらへ付けば、武士として恥をかかずに済むかの話に変わる。

 

十兵衛殿がそこで、初めて静かに口を開いた。

 

「治部殿のお言葉は、少々鋭うございます」

 

向こうの視線が、わずかに十兵衛殿へ流れる。

十兵衛殿は、そのまま続けた。

 

「されど、鋭いからといって、筋違いではありますまい」

 

援護だ。

だが、こちらを前へ出しすぎぬ、ちょうどよい援護だった。

 

半兵衛殿も、静かに言葉を添える。

 

「……一色左京殿に実があるのは事実にございます」

 

向こうが、少しだけ息をつく。

味方が出た、と思ったのかもしれない。

 

だが半兵衛殿は、そこで切った。

 

「しかし実と正統は、同じではございませぬ」

 

見事だった。

 

相手の逃げ道を一度開いて見せて、その上で閉じる。

半兵衛殿らしい。

 

俺はその流れに乗る。

 

「ゆえに某が申し上げているのは、寝返れ、ではございませぬ」

三人の目が、またこちらへ集まる。

「正当なる流れへ戻れ、と申し上げている」

 

一人が、とうとう口を開いた。

 

「戻った先に、何がある」

 

それは、ようやく本音に近い問いだった。

 

ここまで来れば勝ちだ。

大義で迷いを断った。

次は利と保証へ移る。

 

「所領は安堵」

俺は即答した。

「功に応じて加増もあり得ましょう」

 

「口約束では」

「上総介様と勘十郎殿へ、事前に通した策にございます」

 

そこまで言うと、相手の目の色が変わる。

 

抜け駆けの密談ではない。

織田家中枢の机に乗った話だ。

それは重い。

 

十兵衛殿が、そこで淡々と補う。

 

「尾張は、今川を破りました。勢いだけでなく、受け皿も整えつつあります」

 

半兵衛殿も続ける。

 

「西美濃が先に動けば、後から動く者は“追随”になります。最初に立つ者の方が、条件はよろしい」

 

三人が、そこで初めて互いに視線を交わした。

腹の内では、もう計算が始まっている。

 

誰が最初に立つか。

どこまでを今この場で約させるか。

義龍に残った場合の危うさ。

こちらへ寄った時の見え方。

 

もう「あり得るかどうか」の話ではない。

「どの条件で動くか」の話になっている。

 

それを見て、俺はさらに一押しした。

 

「西美濃三人衆が織田へ寄る」

静かに言う。

「それは裏切りではございませぬ」

 

誰も動かない。

 

「反乱者に付き従う道を捨て、正しき日の当たる場所へ戻るだけにございます」

 

そこまで言った時だった。

最も黙っていた一人が、低く息を吐いた。

 

「……治部大輔殿」

「何でござる」

「そなたは、若い」

「は」

「若いが、言い切るな」

「言い切れぬところへは、参っておりませぬ」

 

その返しに、相手の口元がほんのわずかだけ動いた。

 

笑いではない。

だが、完全な拒絶も消えた。

 

「道三入道が生きておられる」

「はい」

「帰蝶様が織田家におられる」

「はい」

「ならば一色左京殿は、正統の国主とは言えぬ」

「某はそう考えます」

「……それを武士の筋として突きつけられては、残る方が難しいな」

 

その一言が落ちた瞬間、座の空気が変わった。

 

十兵衛殿は、ほとんど表情を変えない。

半兵衛殿は、目を伏せたまま小さく息を吐く。

慶次郎は後ろで口元を吊り上げ、助右衛門は静かに肩の力を抜いた。

 

勝った。

 

いや、まだ全部ではない。

だが、この場は取った。

 

大義が通ったのだ。

一人が傾けば、残りも早い。

実際、その後の話は驚くほど速かった。

 

どの城をどう動かす。

使者はどこで受ける。

露見した時の合図は。

兵はどこまで動かせる。

それが次々に口へ出る。

 

もう「もし」ではない。

「いつ、どうやるか」になっている。

 

十兵衛殿が文言の細部を整え、

半兵衛殿が美濃側の連なりを切り分け、

俺は最後の約と筋を言葉へ落とす。

 

そして終わる頃には、西美濃三人衆は、もはや“傾いた”どころではなかった。

腹を決めていた。

 

寺を出る時、慶次郎がたまらず笑った。

 

「早ぇな、おい」

 

助右衛門が低く言う。

 

「理が通ったからだ」

 

十兵衛殿は静かに袖を直しながら、こちらを見る。

 

「治部殿」

「何でござる」

「“一色左京殿は、ただの反乱者です”――あの一言は効きましたな」

「少々、きつかったか」

「きついから効いたのでしょう」

 

半兵衛殿も、珍しくすぐに続けた。

 

「正直、あそこで決まりました」

 

その一言は重かった。

半兵衛殿がそう言うなら、そうなのだろう。

 

「迷う時点で武士ではない、ですか」

半兵衛殿は、ほんの少しだけ口元を和らげた。

「美濃の者に、それを言い切るのは勇気が要ります」

 

「ご隠居が後ろにおられますゆえ」

 

そう返すと、十兵衛殿が細く笑う。

 

「それだけではありますまい」

 

そのやり取りの後、俺は空を見上げた。

西美濃三人衆は、落ちた。

 

しかも、ただ利で動いたのではない。

筋で動いた。

だから、この寝返りは強い。

 

そしてその瞬間、胸のどこかで分かった。

 

これで、状況がまた一つ進んだのだと。

 

 

鵜沼については、最初から少し様子が違っていた。

 

西美濃三人衆は、切り崩すにしても順がいる。一色左京大夫へ付く現実、家の存続、所領の安堵、周りの目、その全部を一枚ずつ剥がしていかねばならない。あれは理と利の両方で落とす相手だ。

 

だが鵜沼は、そこまで回りくどく考えなくてよいのではないか――そう思ったのは、半ば直感であり、半ば系図の整理だった。

 

大沢次郎左衛門。

 

鵜沼の虎。

 

武辺としても、地の利を知る者としても厄介な相手だ。だが同時に、あの人はただの斎藤方の将ではない。

 

道三入道の娘婿。

 

つまり、帰蝶様とは義理の兄妹。

道三入道とは義理の親子だ。

 

そこまで頭の中で並べた瞬間、俺は思わず小さく息を吐いた。

 

「……いや」

 

十兵衛殿がこちらを見た。

 

「何か」

「弁舌でどうこうの前に、条件がそろい過ぎておりました」

 

半兵衛殿が目を細める。

 

「申してみて下され」

「身内です」

 

そこで、十兵衛殿の口元がわずかに動いた。

 

「ほう」

 

「大沢次郎左衛門殿は、道三入道の娘婿。帰蝶様とは義理の兄妹。道三入道とは義理の親子だ」

俺はそこで肩の力を少し抜いた。

「身内だよ身内、という話にございます」

 

十兵衛殿が細く笑う。

 

「急に言いようが軽くなりましたな」

「軽くもなります。西美濃三人衆のように、反乱者か筋かと大上段に切らずともよい。あちらは、道三入道健在の時点で、義理がもうこちらへ半分掛かっている」

 

半兵衛殿は、そこで静かに頷いた。

 

「なるほど」

 

「むしろ大仰に調略の文を持って行く方が不自然です」

俺は続けた。

「筋を正せば、それで足りる。大沢殿にとっては、斎藤方へ残るのが義理なのか、道三入道と帰蝶様の縁へ戻るのが義理なのか――そこを問えばよろしい」

 

半兵衛殿は珍しく、すぐに答えた。

 

「それで十分にございます」

 

十兵衛殿も頷く。

 

「ええ。鵜沼だけは、利より先に“家の内の筋”でほどける」

 

慶次郎が後ろで首を傾げた。

 

「じゃあ何だ、今までのややこしい話より簡単ってことか」

 

「簡単、というより」

助右衛門が低く言った。

「元から結び目がこちら側にある、ということだ」

 

その言い方が、一番しっくり来た。

 

そうなのだ。

鵜沼は外から崩すのではない。

元からこちらに通じている筋を、改めて表へ引き出すだけでよい。

 

だから、鵜沼への言葉は短くした。

 

長い利を並べない。

脅しも誇張も入れない。

ただ筋を正す。

 

道三入道その人がおられる。

帰蝶様も織田家におわす。

次郎左衛門殿は、いずれに義理を立てるべきか。

それだけでいい。

 

その文を見て、十兵衛殿は一度だけ「これで十分でしょう」と言った。半兵衛殿も「余計なことを足さぬ方がよろしい」と添えた。

 

実際、その通りだった。

返りは、驚くほど早かった。

 

西美濃三人衆の時のような、幾重もの探り合いもなければ、条件の細かな積み増しも要らぬ。もちろん安堵や後の扱いは必要だ。だが、それは話の芯ではなかった。

 

芯はただ一つ。

 

「道三入道がおられる以上、帰る先は見えている」

 

そこだった。

大沢次郎左衛門は、結局ほとんど迷わなかった。

 

義龍へ残る理は、現実にはある。

だが道三入道が健在で、帰蝶様が織田家にあり、自分がその道三の娘婿である以上、「我は斎藤義龍へ最後まで忠なり」と言い切る方がむしろ不自然だった。

 

身内は、強い。

理よりも、利よりも、時として強い。

寺から戻った後、慶次郎が笑った。

 

「何だよ、鵜沼。するっと行ったな」

 

「するっと行くに決まっておった」

俺は少し呆れて言った。

「道三入道の娘婿だぞ。帰蝶様とは義理の兄妹だ。義理の親子筋まで入っておる。身内だよ身内」

 

慶次郎が吹き出す。

 

「最後、雑だな」

「雑で済むところは雑でよい」

 

十兵衛殿が、珍しくそのやり取りに混じった。

 

「ですが、あながち間違いでもありませぬな」

 

半兵衛殿も、わずかに口元を和らげる。

 

「理を重ねるより、身内の一言で済む時もございます」

「そういうことでございます」

 

俺は頷いた。

 

西美濃三人衆は、理で断ち、利で受けた。

鵜沼は、筋と身内で戻した。

 

切り口が違うだけで、どちらも盤の中では必要だった。

 

そしてその報せは、ほどなく清洲へ届いた。

 

 

清洲でその報を受けた時、上総介信長はまず文を二度読んだ。

 

一度目は事実の確認。

二度目は、その後ろにある人の動きの確認。

 

西美濃三人衆、織田方へ傾く。

鵜沼、大沢次郎左衛門も同じく。

 

しかも鵜沼については、余計な揉め方をしていない。

信長はそこで、文を畳んだ。

 

「よし」

 

その一言は、低く短かった。

だが、それで十分だった。

 

側に控える勘十郎信勝が、兄の顔を見る。

 

「鵜沼まで参りましたか」

 

「行ったな」

信長は、静かに笑った。

「西だけ崩して終わらぬとは思うておったが、鵜沼までああも早いとは」

 

信勝も頷く。

 

「大沢次郎左衛門が、道三入道の娘婿であることを考えれば、理にかなっております」

「うむ。調略というより、筋へ戻したな」

 

その言葉が、まさに本質だった。

 

西美濃三人衆は論で押し切った。

鵜沼は戻した。

 

治部大輔は、その違いを分かった上で動いた。

そこが大きい。

 

信長は、しばし黙った。

 

そして、もう一度だけ「よし」と言った。

今度の「よし」は、先ほどより重かった。

 

勘十郎が静かに問う。

 

「兄上」

「何だ」

「腹は、完全に決まりましたな」

 

信長は、その問いにすぐ答えた。

 

「決まった」

迷いがない。

「桶狭間で義元の首を取った。武は見せた」

 

信長は文の上へ指を置く。

 

「西美濃三人衆を寄せ、鵜沼を戻した。今度は戦働きだけではないところを見せた」

信勝は黙って聞いている。

「首を取る若武者なら、褒美と名乗りでよい。家格ある一門なら、家を持たせてもよい」

 

信長の目が細くなる。

「だが、こやつはそのどちらだけでも済まぬ」

 

それが、結論だった。

 

治部大輔信繁は、もう「桶狭間の若武者」ではない。

人を寄せ、盤を読み、理と利と血筋を使い分ける者になり始めている。

 

そこまで行けば、同腹の姫を結ぶに足る。

 

「お市をやる」

 

信長は静かに言った。

 

声は大きくない。

だが、その一言で盤は決まった。

 

勘十郎は目を伏せる。

 

驚いてはいない。

むしろ、そこまで来たか、という納得に近い。

 

「お犬ではなく」

「お市だ」

 

信長は即答した。

迷いがない。

 

お市。

土田御前腹。

同腹の妹。

ただの姫ではない。

 

だからこそ、治部大輔へ動かす意味がある。

 

「まだ言うな」

信長は続けた。

「左衛門佐にも、母上にも、妹どもにも、まだだ」

 

「承知」

「だが、わしの腹は決まった」

 

勘十郎は静かに頷いた。

 

「では、あとは時と段取りですな」

「うむ」

「又六郎の方も」

「考える」

「藤左衛門家の立て方も」

「分かっておる」

 

会話は短い。

 

だが、そこにある内容は重い。

 

信長の中では、もう決している。

治部大輔信繁へ、お市をやる。

そのために、どう家を残し、どう又六郎を立て、どう左衛門佐の顔を立て、どう土田御前へ話を通すか。

あとは、その段取りだけだ。

 

信長は最後に、報せの文を脇へ置いた。

 

「身内は強いな」

 

ふっと、そんなことを言う。

 

勘十郎が少しだけ口元を緩める。

 

「鵜沼にございますか」

 

「うむ。道三、帰蝶、大沢」

信長は鼻で笑った。

「理屈も利もある。だが最後は“身内だよ身内”で落ちるところが、また乱世よ」

 

その言い方に、勘十郎もほんのわずかに笑った。

 

「治部大輔も、よう分かっております」

「そこがよい」

 

信長は、そこで立ち上がった。

 

夜の空気が障子の隙からわずかに入る。

 

桶狭間から始まった盤は、もうここまで来ている。

義元の首。

武辺の加入。

十兵衛と半兵衛の接続。

西美濃三人衆調略。

鵜沼。

そして、お市。

 

信長は、その盤の先を見ていた。

 

「治部大輔には、まだ知らせるな」

「は」

 

「知らせぬまま、もう少し働いてもらおう」

その声音には、兄らしい情と、棟梁らしい冷たさが半ばずつあった。

「気付いた時には、逃げ場がなくなっておるくらいでちょうどよい」

 

勘十郎が、少しだけ呆れたように言う。

 

「兄上らしい」

「褒め言葉として受け取っておこう」

 

信長は笑った。

 

その笑いは、今夜の中で一番深かった。

 

腹は、完全に決まった。

 

あとは、どう最も美しく、最も強く、その一手を打つか。

 

清洲の夜はまだ静まり切らない。

だが、そのざわめきの奥で、同腹の姫の行く末まで含んだ次の盤が、静かに定まっていた。

 

 

土田御前は、息子たちの顔色を読むことにかけては、昔から外したことがなかった。

 

信長は、幼い頃から分かりやすい子ではない。感情の振れは大きい。怒れば激しい。笑えば派手だ。だがその実、肝心なところは表へ出さぬ。こちらが「これだ」と思った時にはもう一手先へ行っている。そういう子だった。

 

信勝は、逆に静かな子だった。静かだが、内へ溜める。兄ほど激しくはないが、その分だけ考え込む。昔はその二人が同じ母の腹から出たとは思えぬこともあった。

 

けれど今は、その二人が同じ座で話をしている。

 

それだけでも、この数年でずいぶん変わったものだと、土田御前は思っていた。

 

そこにはもちろん、治部大輔信繁の働きもある。

 

小田井のあの子は、妙に人の間へ入る。

しかも、余計な顔をせずに入る。

信長にも、信勝にも、あからさまにどちらへも肩入れせず、それでいて双方の気を少しずつ解いていく。

二人は決定的なところまで行って、破局を迎えるとばかり思っていたが、どうやらあの子が色々と動いたおかげで年来の対立を乗り越え、兄弟二人が手を結び、今ではむしろ以前よりも強固な関係となった。

 

若いのに、ああいうことが出来るのは不思議なものだと、土田御前は何度か思った。

 

その日も、夕刻の廊で、信長と信勝が連れ立って奥から戻るのを見た。

 

二人とも何か話していたらしい。

だが、こちらに気付くとすぐに口を切る。

それ自体は珍しくない。

問題は、その切り方だった。

 

隠している。

 

ただし、母へ言えぬほどの断絶からではない。

まだ、言う段ではないから言わぬ。

そういう切り方だ。

 

土田御前は、その差を知っている。

 

「戻ったのですね」

 

そう声を掛けると、信長が足を止めた。

 

「母上」

「桶狭間の後は、皆よう動きますこと」

 

信長はわずかに口元を動かす。

 

「勝った後ほど、片付けは多い」

「そうでしょうとも」

 

言葉は当たり障りのないものだ。

だが、土田御前は信長の目を見ていた。

 

あの目は、今は戦の直後の熱だけではない。

何かを決めている時の目だ。

しかも、ただ一つ首を取った若武者を褒めるような軽い話ではない。

もっと家の中まで響くことを、もう盤に乗せている目だった。

 

信勝も一礼し、「母上」と言っただけで、その先を足さない。

これもまた分かりやすい。

兄が黙っている間は、自分から余計を言わぬつもりだ。

 

「治部大輔殿のことかしら」

 

土田御前は、あえて先に名を出した。

兄弟の間に、ごくわずかな間が落ちる。

 

それで十分だった。

 

信長はすぐには否定しなかった。

 

「名が立ったからな」

 

その返しは、軽いようで軽くない。

 

「名だけで済んでいる顔ではありませんよ、あの子は」

 

土田御前がそう言うと、信長の目がほんの少しだけ細くなった。

 

「母上もそう見るか」

「見ぬ方が難しい」

 

桶狭間で義元の首を取った。

それだけでも大きい。

だが土田御前の耳にまで届くのは、そこだけではない。

 

前田慶次郎。

奥村助右衛門。

明智十兵衛。

竹中半兵衛。

 

その名の重さを、土田御前が細かく軍略として理解しているわけではない。だが、そういう名が、次々と治部大輔の周りへ見え始めている。それが何を意味するかくらいは分かる。

 

人が寄る。

しかも、ただ取り巻くのではなく、見に来る。量りに来る。

それは、その子の先に何かあると思われている証だ。

 

信長は、そこでほんの少しだけ笑った。

 

「よう見ておるな」

「母に隠しきれると思っている方が、あなたがたもまだ子供です」

 

その返しに、信勝がわずかに口元を緩めた。

信長も否定はしない。

 

土田御前は、二人のその顔を見て、胸の内で一つ確かめた。

やはり、もう何か考えている。

 

しかも、それはただの加増や名乗りの話ではない。

もっと家の内へ食い込む話だ。

 

「お市の顔も、近頃はよく見ておるでしょう」

 

さらりとそう言うと、今度こそ信長が母を見た。

土田御前は表情を変えない。

 

お市も、お犬も、同腹の娘だ。

ただの妹ではない。

まして本家の娘として育った以上、その縁は家の中でも軽く動かすものではない。

だからこそ、母としてもその気配には敏い。

 

信長は、少しだけ息を吐いた。

 

「母上は、何でも先に言う」

「言われる前に分かるからです」

「まだ、何も決めたとは言っておらぬぞ」

 

その言い方で、土田御前は逆に確信した。

 

決めていないのなら、もっと明るくはぐらかす。

いまのそれは、否定ではない。

まだ言う段ではない、というだけだ。

 

「言わぬのと、考えておらぬのとは違います」

 

土田御前は静かに言った。

 

信勝は、そこで目を伏せた。

つまり、この話は信勝も知っている。

少なくとも兄の考えの輪郭は共有されている。

 

「治部大輔殿は、たしかに家柄も近い」

土田御前は続ける。

「左衛門佐殿も一門の重し。あの子も、最初から遠い者ではない。けれど、それだけで同腹の娘を動かすほど、そなたも軽くはありますまい」

 

信長は、もう何も言わない。

だが、その沈黙は認めている沈黙だった。

 

「桶狭間で首を取り」

土田御前は、ゆっくり言葉を置く。

「その後も、人が寄る」

 

信長の目が、静かに母を見ている。

 

「それを見て、それでもなお“ただの若武者”と思う者はおりませぬ」

 

しばし、三人の間に静けさが落ちた。

 

障子の向こうで、夕方の風が庭木を鳴らす。

その音だけが、不思議にはっきり聞こえる。

 

やがて信長が、ぽつりと言った。

 

「母上は、嫌か」

 

問いとしては短い。

だが、その中身は軽くない。

 

土田御前は、すぐには答えなかった。

 

嫌か。

それはつまり、お市を治部大輔へやることが、母として嫌か、ということだ。

そこまで露骨に名を出してはいない。

だが、もう十分に通じる問いだった。

 

「嫌かどうか、だけで決められることでもありますまい」

 

土田御前はそう答えた。

信長の目が、わずかに細まる。

 

「母上らしいな」

 

「母だから申すのです」

そこで、土田御前は初めて、少しだけ声を柔らかくした。

「お市は、軽い娘ではありません。お犬もまた同じです。あの子たちは、そなたや勘十郎殿と同じ腹の子。どこへやるかは、ただ家の都合だけでなく、その先でどう立つかまで見ねばなりませぬ」

 

信長は黙っている。

だが、よく聞いている顔だ。

 

「そのうえで申すなら」

土田御前は、静かに信長を見た。

「治部大輔殿は、いまのところ、見るに足る」

 

それは、母としての許しではない。

まだそこではない。

だが、頭から斥ける気はない、という意味では十分だった。

 

信勝が、そこで初めて口を開いた。

 

「母上」

「何です」

「兄上も、軽くはお考えではありませぬ」

 

土田御前は、少しだけ口元を緩めた。

 

「それは見れば分かります」

 

もし軽く考えているなら、もう少し雑に匂わせる。

だが信長はいま、何も言わず、段取りだけを頭で組んでいる。

それ自体が、重く見ている証だった。

 

「左衛門佐殿のことも、又六郎のことも」

土田御前は続けた。

「きちんと立てるおつもりなのでしょう」

 

信長がそこで、ようやく小さく頷いた。

 

「そのつもりだ」

 

その一言で十分だった。

 

やはり、考えている。

しかも、ただ若武者へ妹をやるという発想ではない。

家ごと、血筋ごと、どう置くかを見ている。

 

「ならば、いまはまだ申さずともよいでしょう」

土田御前はそう言った。

「半端なところで聞かされるより、整えてから聞く方が、母としても楽です」

 

信長が、そこでほんの少しだけ笑った。

 

「母上も、そういうところは変わらぬな」

「変わっておったら困るでしょうに」

 

その返しに、信勝まで小さく笑う。

 

重い話のはずなのに、空気がそこまで冷えない。

これが、あるべき姿での母子なのだろうと土田御前は思う。

 

近くはない。

だが、断絶もしていない。

言うべきことは言うし、聞くべきことは聞く。

そのくらいには、もう持ち直している。

 

「お市には、まだ何も申しておりませぬ」

 

信長が言う。

 

「それでよいでしょう」

「お犬にも」

 

「それも」

土田御前は頷いた。

「娘は、気配だけでも敏いものです。整わぬうちに風を当てぬ方がよろしい」

 

信長はそれを聞き、黙っていた。

 

もう話は半ば済んだも同然だった。

言葉にし切らずとも、腹の位置は互いに分かった。

 

治部大輔信繁。

桶狭間の若武者。

だが、もうただの若武者ではない。

だからこそ、お市の行く先として本気で盤に乗る。

そのことを、母もまた認め始めている。

 

「では」

土田御前は言った。

「申す時は、曖昧にせずに参りなさい」

 

信長が、静かに頭を下げるほどではなく、しかしはっきりと頷いた。

 

「承知した」

 

その返事を聞いて、土田御前はようやく胸の内で一つ息をついた。

 

まだ何も決まったわけではない。

だが、もう決まる方へ動いている。

それだけは疑いようがなかった。

 

お市の行く末。

治部大輔の立つ位置。

又六郎の継ぐもの。

左衛門佐の残すもの。

 

その全部が、もう同じ若者の上へ乗っている。

夕暮れの光は薄くなり、廊の向こうは少しずつ夜へ入っていた。

 

土田御前は二人の息子を見た。

 

昔より、少しだけ話が通るようになった。

それは年のせいか、戦のせいか、あるいは信繁のような子が間を行き来したせいか。

たぶん、その全部だろう。

 

「さて」

そう言って、土田御前は立ち上がった。

「母の前であまり難しい顔ばかりしておると、老けますよ」

 

信長が苦笑し、信勝もわずかに目を伏せる。

その反応だけで充分だった。

 

盤面は重い。

だが、もう誰も、それを避けては通らない。

 

 

 

 

 

 

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