織田家の嫡子~藤左衛門家の特異点 作:デトロ!開けろイト市警だ!
小田井の一室に、四人が揃っていた。
俺の前に、明智十兵衛光秀。
その少し斜めに、竹中半兵衛重治。
左右の後ろには、慶次郎と助右衛門が控えている。
武と知が、まだ仮組みながらも、一つの座へ乗っている。
桶狭間の直後には想像もせなんだ光景だが、いまはもう驚いている暇もない。西美濃三人衆をどう切るか。その話を始めれば、誰もが自然とこういう座り方になる。
もっとも、自然といっても近さは同じではない。
慶次郎と助右衛門は、すでに桶狭間以来こちらの左右へ寄っている。
だが十兵衛殿と半兵衛殿は違う。
いまはまだ、見に来ている。量りに来ている。
こちらの策に知恵を貸すとしても、それは忠勤の印ではなく、あくまで「見どころがあるなら手を添える」程度の距離だ。
そこは、こちらも弁えねばならない。
俺は文を脇へ置いた。
「――以上が、上総介様と勘十郎殿へお通しした筋にございます」
十兵衛殿が指先で膝を軽く叩く。
「ほう、西美濃三人衆ですか」
軽い相槌に聞こえる。
だが、この人の「ほう」はたいてい軽くない。もうその先の枝を探りに行っている声だ。
案の定、十兵衛殿は続けた。
「ちなみに」
目が細くなる。
「治部殿の目から見て、他に崩せそうなところはございますか?」
その問いに、俺はほとんど間を置かなかった。
「鵜沼の虎」
座の空気が、ぴたりと止まる。
半兵衛殿の目が、はっきり動いた。
ほんのわずか。だが、この人の表情がここまで動くのは大きい。
「……!」
慶次郎は意味がまだ腹へ落ちていない顔で、俺と半兵衛殿を交互に見た。助右衛門は無言のまま、ただ視線だけを少し深くした。十兵衛殿だけは、すぐには何も言わず、俺の続きを待っている。
軽々しく言葉を重ねぬあたりが、この人らしかった。
「西美濃三人衆を切るのは、美濃を西から割るためにございます」
俺は続けた。
「されど、割った後にどこへ圧が逃げるかを考えれば、鵜沼は捨て置けませぬ」
半兵衛殿が、静かに言う。
「……西だけで終わらせぬ、と」
「終わらせられませぬ」
俺は頷いた。
「西を崩せば、東寄りの者は身の置き場を探しましょう。そこで鵜沼がただ斎藤方の牙城として立てば、崩れた流れを呑み込まれて終わります」
十兵衛殿がそこで、ようやく口元を緩める。
「なるほど。三人衆だけを“点”で見てはおられぬ、ということですか」
「そのつもりにございます」
半兵衛殿は少し考えてから、静かに言った。
「もし治部殿が、そこまで先を見ておられるのなら……西美濃だけでなく、その次にどこへ流れるかまで分けて見ねばなりますまい」
「半兵衛殿には、その見立てを一度伺いたいところです」
俺はそう言った。
命じるのではない。
まだそこまでの距離ではない。
だが、盤を読むこの人の目は借りたい。
半兵衛殿は、わずかに目を伏せた。
「某の見立てが、お役に立つようであれば」
距離は、まだある。
けれど拒んでもいない。
その答え方が、いかにもこの人らしかった。
十兵衛殿がそこで、細く笑った。
「文言の立て方も変わりましょうな」
「どう変えられます」
そう問うと、十兵衛殿は少しだけ首を傾けた。
「西美濃の三人へ見せる利と、鵜沼へ見せる利は、同じにはせぬ方がよろしい」
その言葉に、俺は頷く。
「西美濃は“斎藤に残る不利”と“織田へ寄った後の利”を見せるべきにございましょう」
「ええ」
十兵衛殿も頷いた。
「対して鵜沼は、西が崩れた時に孤立せぬ道を見せる方が効くやもしれませぬ。恐れの質が違いましょうから」
これも、やはりこの人らしい。
相手の立場で、見せるべき利と恐れの形を変える。
ただ「寝返れ」と言うのではなく、誰に何を差し出せば動くか、その言葉の輪郭を整える。
「そのあたり、十兵衛殿のお考えも伺えればありがたい」
俺がそう言うと、十兵衛殿はほんのわずかに目を細めた。
「某でよろしければ、筋くらいは引いてみましょう」
これもまた、引き受け切らぬ言い方だ。
だがいまはそれでよい。
「悪ぃ、俺にも分かるように言え」
慶次郎がとうとう口を挟んだ。
助右衛門が低く言う。
「三人衆を崩して終わりではない。その後に誰が立つかまで見ておく、ということだ」
「おう、そりゃ分かる」
慶次郎は頷いた。
「要するに、倒した後の首の置き場まで考えてるってことだろ」
「だいたい合っております」と、十兵衛殿。
「お前、それで通じるのか」
慶次郎が笑うと、十兵衛殿もわずかに口元を動かした。
座の空気が、ほんの少しだけ和らぐ。
俺はそこで、もう一度言葉を整えた。
「まずは、西美濃を切り離す」
全員の目が集まる。
「ただし、西美濃三人衆だけを“崩れ目”と見て終わっては意味が薄い。崩した後に、どこへどう流れるかまで、予め予想しておきたい」
半兵衛殿が小さく頷いた。
「それなら、話としては筋が通っております」
「十兵衛殿」
「はい」
「文言の筋は、どこまで詰められそうでございます」
十兵衛殿は少し考えた。
「今この場で書き切るより、まずは誰へ何を見せるかの段を分けた方がよろしい」
「西美濃側と、鵜沼側で」
「ええ」
「半兵衛殿」
俺は視線を向ける。
「西美濃の人の連なりと、鵜沼へ流れる恐れのある者、その切り分けはお願いできますか――と申し上げたいところですが」
そこで一度言葉を切った。
近すぎる物言いは避けるべきだ。
「もし一度、お考えを伺えるようであれば、大いに助かります」
半兵衛殿は、少しだけ目を細めた。
たぶん、そこも見ているのだろう。
若武者が、どこまで人との距離を測れるか。
使いたい相手に対して、使い走りのような口をきかぬかどうか。
「……某なりに、見てみましょう」
静かな答えだった。
それで十分だ。
慶次郎が、今度は俺に向かってにやりとした。
「で、俺と助右衛門は」
「前へは出るな」
即答した。
慶次郎がむっとする。
「おい」
「お前が表へ出れば話が荒れる。お前は荒らす側だ」
助右衛門が低く息を吐いた。
「否定はし難いな」
「てめえまでそう言うか」
「お前と某の使いどころは、また別だ」
助右衛門は静かに続ける。
「いざという時の即応、護衛、あるいは途中で裏切りが走った時の押さえ――そのあたりが妥当であろう」
十兵衛殿がそこで、面白そうに言った。
「そこまで切り分けておられるなら、少なくとも“首を取った勢いだけで話している”とは見えませぬな」
その一言は重い。
十兵衛殿のような人に、そこを認められるのは大きい。
半兵衛殿も、小さく付け足した。
「某も、そこは驚きました」
俺は少しだけ息を吐いた。
「ならば、その驚きを当てにして、少しばかりお力を借りたいところです」
十兵衛殿が笑う。
「少しばかり、ですか」
「最初から全部は望みませぬ」
「それは結構」
半兵衛殿は、それを聞いてほんのわずかに口元を緩めた。
この二人は、やはり似ているところと違うところがある。
十兵衛殿は言葉の綾に反応する。
半兵衛殿は、言葉の距離と盤の筋に反応する。
「では」
十兵衛殿がまとめるように言った。
「西美濃三人衆は、表の切り崩し」
「鵜沼は、その後の崩れの受け口として置く」
と、俺。
半兵衛殿が静かに頷く。
「そう見ておけば、少なくとも一度崩して終わる話ではなくなります」
「まずは、それで参りたい」
そう言って、俺は座を見回した。
武辺が二人。
知が二人。
だが、まだ誰も完全にはこちらの内へ入ってはいない。
それでも今この場では、少なくとも同じ盤面を見ている。
そのこと自体が大きかった。
「よし」声に出して言う。
「西美濃三人衆だけで終わると思うな。崩した後に、どこへどう流れるかまで拾う」
慶次郎がにやりとする。
「話がでかくなってきたな」
「最初から大きい」と助右衛門。
十兵衛殿は静かにこちらを見た。
「治部殿」
「何でござる」
「鵜沼の虎、と即答されたのは見事でした」
「褒めておられるので」
「ええ。あそこで少しでも考え込めば、西美濃三人衆という“名題”に引っ張られていたと分かります」
半兵衛殿も、静かに言う。
「某も、そこは驚きました」
その一言は、やはり重い。
この人に驚かせたなら、少なくとも盤の先を一歩は見せられたということだ。
「では」俺は深く息を整えた。
「まずは文言を分ける。西美濃へ見せる利と、鵜沼へ見せる利を分ける。その上で、相手ごとの連なりを見て参りたい」
十兵衛殿が頷く。
「筋は引いてみましょう」
半兵衛殿も、少し間を置いて言った。
「某も、見立てるだけは見立ててみます」
その言い方でよい。
まだ家臣ではない。
だが、もうただの傍観者でもない。
この距離のまま、少しずつ盤へ入ってくる。
それが今の二人にはふさわしかった。
座の空気が、ようやく一つにまとまる。
西美濃三人衆を切る。
その先に鵜沼を置く。
崩れた流れを、次の一手へ繋げる。
まだ策は机の上だ。
だが、この瞬間にただの思いつきではなくなった。
治部大輔信繁の策として始まり、十兵衛殿と半兵衛殿が形を与え、慶次郎と助右衛門が現場で支える。
その構図が、初めてはっきりした。
♢
清洲の夜は、相変わらず静まり切らなかった。
桶狭間以後、城中の空気はずっと薄く張っている。勝った。だが勝っただけで終わる戦ではなかった。今川の首一つが、尾張の内だけでなく周りの国々の形まで揺らしている。人も、兵も、銭も、噂も、みな少しずつ流れを変えていた。
上総介信長は、その流れの音を聞くように座していた。
灯りは多くない。酒もない。脇には文が数枚。急ぐべきものから、まだ見ているだけでよいものまで混じっている。そういう時の信長は、誰が見ても上機嫌には見えない。だが、よく知る者なら分かる。目の奥が冴えている時ほど、この男は面白がっている。
障子の外で控えの者が声を落とした。
「上総介様」
「入れ」
入ってきたのは、例のごとく余計な言葉を持たぬ側近だった。こういう報せを持ってくる者に限って、話を膨らませぬ。そこがよい。
「申せ」
「治部大輔殿の件にございます」
その一言で、信長の視線が少しだけ上がる。
「西美濃三人衆の切り崩しにつき、十兵衛殿、半兵衛殿、前田慶次郎殿、奥村助右衛門殿らと座を持った由」
「うむ」
そこまでは、もう予定のうちだ。
信長は急かさない。
側近は続ける。
「その座にて、治部大輔殿は、西美濃三人衆のみならず、“鵜沼の虎”もまた崩れ目として見ておる由」
信長の目が、そこで初めてはっきり細くなった。
「ほう」
その一語は、前より少し深かった。
「西だけでなく、鵜沼まで見るか」
側近は頭を下げたままだ。
だが、その沈黙が、なお詳しく聞きたいのなら続ける、という形になっていた。
信長は顎をわずかに動かす。
「申してみよ」
「は」
「西美濃三人衆を切るのみでは、美濃を西から割るに留まる。割った後、東寄りの者がどこへ流れるかを見れば、鵜沼を捨て置けぬ――との趣きにございます」
「ふむ」
信長は指先で文の端を軽く叩いた。
「西を崩した先の流れまで見る、か」
そこへ、さらに言葉が足される。
「十兵衛殿は、三人衆へ見せる利と、鵜沼へ見せる利を分けるべしと述べ」
「うむ」
「半兵衛殿は、西美濃と鵜沼へ流れる者の連なりを分けて見るべし、と応じた由」
そこで、信長は小さく笑った。
「なるほどな」
その笑いは大きくない。だが、機嫌が悪い時には出ぬ笑いだった。
「よい」
また、その一言だ。
だが、この男の「よい」は軽くない。
「西美濃三人衆を挙げるだけでも、若武者の策としては上出来よ」
信長は独り言のように言う。
「だが、そこで止まらず、崩した後にどこが立つかまで見るとなれば、首一つで酔うておらぬ」
そこへ、別の声がした。
「兄上」
勘十郎信勝だった。
いつの間にか座へ入っていたわけではない。もとより呼ばれていたのだろう。和解済みの今、この手の話を兄だけで抱え込まぬのは自然だった。
信勝は兄の脇へ座し、側近の持ってきた報を一度だけ流し読む。
「鵜沼、か」
その一言には、面白がりよりも実務の匂いが強い。
信長が笑う。
「お前もそこを見るか」
「西美濃三人衆だけなら、まだ表向きの部分に引かれているだけとも申せます」
信勝は淡々と言った。
「だが、鵜沼まで即座に出るなら、少なくとも“美濃を崩した後”を頭へ置いている」
信長が目を細める。
「同じか」
「兄上ほど嬉しそうではありませぬが」
「十分だ」
側近は依然として頭を下げたまま動かない。
兄弟の声の温度差に慣れているのだろう。
信勝は文を置いた。
「しかも悪くないのは、十兵衛と半兵衛の使い方です」
「半兵衛を手として使い切らせぬ、というところか」
「ええ」
信勝は頷いた。
「半兵衛自身の判断で西美濃を動かしたように見せれば、あとが持たぬ。そこを弁えているのなら、少なくとも裏切らせるだけの小策ではなく、取り込んだ後まで見ている」
信長は、そこで少しだけ身体を預けた。
「戦働きだけでないところを見せるか、と申したが」
信勝が続ける。
「その言葉に、いまのところ違わぬようですな」
「うむ」
しばし、兄弟の間に静かな間が落ちる。
だが、それは迷いの間ではない。
盤面の流れを、それぞれの頭で置き直している間だ。
信長がぽつりと言う。
「首を取るだけの若武者なら、褒美と名乗りで足りる」
信勝は否定しない。
「はい」
「家格が高いだけの一門なら、家を持たせれば足りる」
信勝は、そこでようやく兄の目を見た。
「ですが、治部大輔はそのどちらだけでも済まぬ」
信長の口元が、わずかに上がる。
「そういうことよ」
桶狭間の首。
人の寄り方。
十兵衛と半兵衛の動き。
西美濃三人衆の切り崩し。
その先に鵜沼を見る視界。
一つずつなら、まだ偶然とも言える。
だが、ここまで重なれば違う。
信長は、文の上へ指を置いたまま言った。
「こやつは、家ごと持たせても面白い」
信勝は黙る。
「もっと上へ出しても、なお面白い」
そこまで来て、信勝もようやく小さく息を吐いた。
「兄上」
「何だ」
「その“もっと上”に、同腹の姫を結ぶおつもりですか」
信長は、すぐには答えなかった。
答えなかったが、その沈黙が既に半ば答えだった。
お市。
お犬。
土田御前腹。
ただの妹ではない。
同腹の姫だ。
その意味を、兄である信長が知らぬはずもない。軽く切れる札ではない。ゆえに、軽く決めるものでもない。
だが、軽く決めぬからこそ、ここまで見極めている。
やがて信長が、静かに言う。
「腹は、決まったな」
信勝は目を伏せた。
反対ではない。
ただ、その重さを分かっている顔だった。
「では」
「まだ言うな」
信長はすぐ切った。
「左兵衛佐にも、母上にも、妹どもにも、まだだ」
「承知」
「だが」そこで、信長の声が少しだけ低くなる。
「西美濃三人衆を寄せる。そのうえで鵜沼まで押さえる目を見せたなら」
信勝が、静かに引き取る。
「その時は、首一つでない働きとして見る、と」
「そうだ」信長ははっきり頷いた。
「武だけではない。人を寄せ、策を回し、その先の国の形まで読む」
その一つ一つが、同腹の姫を動かす理由として積み上がっていく。
「そこまで揃うなら」
信長は、口元だけで笑った。
「お市をやるに足る」
側近は頭を下げたまま、少しも動かなかった。
聞いてよい言葉だけを聞く。
それがこういう場で生き残る者の形だ。
信勝が小さく言う。
「又六郎の方も、考えておかねばなりますまいな」
「うむ」
「藤左衛門家をどう立てるかも」
「分かっておる」
その会話は、もはや若武者一人の話ではなかった。
信長の中では、もう盤面が動いている。
治部大輔をどう置くか。
藤左衛門家をどう残すか。
又六郎をどう立てるか。
同腹の姫をどこへ結ぶか。
桶狭間の義元の首一つが、そこまでの話を引きずり出してしまったのだ。
信長は最後に、もう一度だけ文へ目を落とした。
「西だけでなく、鵜沼まで見るか」
その言葉には、先ほどよりはっきりとした満足があった。
「よい。やはり、面白い」
信勝は、その兄の横顔を見て、ほんのわずかに口元を緩めた。
「……お気に入りですな」
「気に入らぬか」
「いいえ。使いでのある駒が増えるのは、よいことにございます」
兄弟の声は穏やかだった。
和解済みの今、その穏やかさは以前とは別の意味を持つ。
信長は立ち上がった。
「治部大輔には、まだ何も知らせるな」
「は」
「まずは、西美濃だ。首だけでないところを、きっちり見せてもらおう」
その声音には、期待と試しが半ばずつあった。
信長は廊へ向かう。
障子が開き、夜の空気が少し入る。
桶狭間は、まだ終わっていない。
首を取ったその後が、こうして次々と動き出している。
そしてその流れの先で、信長はもう腹を決めた。
まだ誰にも言わぬ。
だが決めた。
西美濃三人衆調略が成ったなら。
その先に鵜沼まで見せたなら。
その時は、お市をやる。
その決断の重さを、たぶんいま清洲で知る者はほとんどいない。
だが、時代の流れはもうそこまで進んでいた。
♢
会う場所は、城ではなかった。
城へ呼べば、それだけで相手は身構える。織田方へ露骨に出向いたと見られれば、まだ腹を決め切っていない者ほど退路を探す。だからこそ、半兵衛殿の見立てに従い、境目に近い、しかしどちらの威にも寄り切らぬ寺を場に選んだ。
西美濃三人衆。
三人が三人とも、最初から同じ熱でこちらへ傾いているわけではない。だが、共通しているのは、義龍へ絶対の忠で立っているわけでもないということだ。美濃の現実は見ている。一色左京大夫が実権を握って久しいことも知っている。だが、だからこそ逆に、筋をどう立てるかに迷っている。
そこへ、こちらは利だけでなく、大義を持って入る。
寺の一間は、静かだった。
向こうに三人。
こちらは俺、十兵衛殿、半兵衛殿。
少し離して、慶次郎と助右衛門。
慶次郎と助右衛門は表へ出さぬ。そう決めてあった。
この場は威で押す場ではない。
理を断ち、相手の逃げ道を潰す場だ。
最初のやり取りは、当然ながら固かった。
互いに名を名乗り、近況をぼかし、露骨な言葉を避ける。だが、そんな薄皮は長く保たぬ。向こうも何のための座か分かっている。こちらも同じだ。
稲葉右京亮良通。
安藤伊賀守守就。
氏家三河守直元。
やがて、一人が口火を切った。
「して、治部大輔殿」
声音は抑えているが、探りの色は濃い。
「この座、ただ旧交を温めるためではありますまい」
「もちろん」
俺は頷いた。
「西美濃の行く末を語るためにございます」
それだけで、部屋の空気が少し変わる。
三人のうち、最も年嵩の男が目を細めた。安藤伊賀守。半兵衛の舅でもある。
「行く末、か」
「はい」
「いまの美濃に、なお行く末などございますかな」
皮肉とも、本音とも取れる言い方だった。
その問いには、半兵衛殿がわずかに視線を伏せる。ここは信繁が切るべき、と見ている顔だった。
俺は答える。
「ございます」
「ほう」
「ただし、それは一色左京大夫殿のもとに留まる限り、狭い」
三人の目が、静かにこちらへ寄る。
ここから先は、濁しても仕方がない。
「織田は、今川を破りました」
「存じております」
「今川治部大輔も死にました」
「それも聞いております」
「ならば、その先は」
俺は一拍置いた。
「美濃にございます」
一人が鼻で笑うように言う。
「尾張の若武者は、ずいぶん大きなことを」
「大きくはありませぬ」
そう返した。
「尾張の内を固めるのが先。されど、尾張の外で最も避け難いのは美濃です。西美濃が揺れれば、美濃は内から崩れます」
三人の顔には、表立った否定はない。
そこはもう、現実として分かっているのだ。
だから、次へ進める。
「そして、その時に問われるのは、誰が美濃の“正しき流れ”に立つか、にございます」
その一言で、今度は三人とも本当に黙った。
十兵衛殿は一切口を挟まぬ。
半兵衛殿も同じ。
ここは、俺が切るところだ。
「道三入道その人が小田井におられる」
はっきりと言った。
「帰蝶様も、織田家上総介兄上の奥におわします」
三人のうち二人の目が、そこで明らかに動く。
そこだ。
美濃の現実だけを見ている時には、義龍の支配は“もう定まったもの”として見える。だが、道三本人が生きているという事実と、帰蝶が織田家中枢にいるという事実を並べられると、その見立ては一気に揺らぐ。
「美濃国主の正当が、一色左京殿にあるか、我ら側にあるか」
俺は、あえて言葉を切った。
「そこに迷う時点で、もはや武士ではありますまい」
座の空気が、ぴたりと止まる。
これは利ではない。
面子の話だ。
武士としての筋の話だ。
向こうの一人が、すぐに反駁できずにいるのが分かった。言いたいことはある。あるが、言葉にしようとすると筋が悪い。
俺はさらに踏み込んだ。
「父ある者が父を逐い、なおその父が生きておられる」
静かに、だが逃がさぬように言う。
「ならば一色左京殿は、国主ではない」
そこで、きっぱりと言い切った。
「ただの反乱者です」
その瞬間だった。
一人が、ほんのわずかに息を呑む。
言いすぎだ、とは誰も言わない。
言えないのだ。
なぜなら、筋で見ればその通りだからだ。
一色左京が実を握って久しい。
現実にはそうだ。
だが道三本人が生きている以上、「正統は一色左京大夫にある」と言い切るには、あまりに筋が悪い。
しかも道三の娘であり、実の妹である帰蝶は織田にいる。
道三の血は、まだ織田家中枢へ通っている。
そこまで突きつけられると、もはや「どちらが勝ちそうか」だけでは済まぬ。
どちらへ付けば、武士として恥をかかずに済むかの話に変わる。
十兵衛殿がそこで、初めて静かに口を開いた。
「治部殿のお言葉は、少々鋭うございます」
向こうの視線が、わずかに十兵衛殿へ流れる。
十兵衛殿は、そのまま続けた。
「されど、鋭いからといって、筋違いではありますまい」
援護だ。
だが、こちらを前へ出しすぎぬ、ちょうどよい援護だった。
半兵衛殿も、静かに言葉を添える。
「……一色左京殿に実があるのは事実にございます」
向こうが、少しだけ息をつく。
味方が出た、と思ったのかもしれない。
だが半兵衛殿は、そこで切った。
「しかし実と正統は、同じではございませぬ」
見事だった。
相手の逃げ道を一度開いて見せて、その上で閉じる。
半兵衛殿らしい。
俺はその流れに乗る。
「ゆえに某が申し上げているのは、寝返れ、ではございませぬ」
三人の目が、またこちらへ集まる。
「正当なる流れへ戻れ、と申し上げている」
一人が、とうとう口を開いた。
「戻った先に、何がある」
それは、ようやく本音に近い問いだった。
ここまで来れば勝ちだ。
大義で迷いを断った。
次は利と保証へ移る。
「所領は安堵」
俺は即答した。
「功に応じて加増もあり得ましょう」
「口約束では」
「上総介様と勘十郎殿へ、事前に通した策にございます」
そこまで言うと、相手の目の色が変わる。
抜け駆けの密談ではない。
織田家中枢の机に乗った話だ。
それは重い。
十兵衛殿が、そこで淡々と補う。
「尾張は、今川を破りました。勢いだけでなく、受け皿も整えつつあります」
半兵衛殿も続ける。
「西美濃が先に動けば、後から動く者は“追随”になります。最初に立つ者の方が、条件はよろしい」
三人が、そこで初めて互いに視線を交わした。
腹の内では、もう計算が始まっている。
誰が最初に立つか。
どこまでを今この場で約させるか。
義龍に残った場合の危うさ。
こちらへ寄った時の見え方。
もう「あり得るかどうか」の話ではない。
「どの条件で動くか」の話になっている。
それを見て、俺はさらに一押しした。
「西美濃三人衆が織田へ寄る」
静かに言う。
「それは裏切りではございませぬ」
誰も動かない。
「反乱者に付き従う道を捨て、正しき日の当たる場所へ戻るだけにございます」
そこまで言った時だった。
最も黙っていた一人が、低く息を吐いた。
「……治部大輔殿」
「何でござる」
「そなたは、若い」
「は」
「若いが、言い切るな」
「言い切れぬところへは、参っておりませぬ」
その返しに、相手の口元がほんのわずかだけ動いた。
笑いではない。
だが、完全な拒絶も消えた。
「道三入道が生きておられる」
「はい」
「帰蝶様が織田家におられる」
「はい」
「ならば一色左京殿は、正統の国主とは言えぬ」
「某はそう考えます」
「……それを武士の筋として突きつけられては、残る方が難しいな」
その一言が落ちた瞬間、座の空気が変わった。
十兵衛殿は、ほとんど表情を変えない。
半兵衛殿は、目を伏せたまま小さく息を吐く。
慶次郎は後ろで口元を吊り上げ、助右衛門は静かに肩の力を抜いた。
勝った。
いや、まだ全部ではない。
だが、この場は取った。
大義が通ったのだ。
一人が傾けば、残りも早い。
実際、その後の話は驚くほど速かった。
どの城をどう動かす。
使者はどこで受ける。
露見した時の合図は。
兵はどこまで動かせる。
それが次々に口へ出る。
もう「もし」ではない。
「いつ、どうやるか」になっている。
十兵衛殿が文言の細部を整え、
半兵衛殿が美濃側の連なりを切り分け、
俺は最後の約と筋を言葉へ落とす。
そして終わる頃には、西美濃三人衆は、もはや“傾いた”どころではなかった。
腹を決めていた。
寺を出る時、慶次郎がたまらず笑った。
「早ぇな、おい」
助右衛門が低く言う。
「理が通ったからだ」
十兵衛殿は静かに袖を直しながら、こちらを見る。
「治部殿」
「何でござる」
「“一色左京殿は、ただの反乱者です”――あの一言は効きましたな」
「少々、きつかったか」
「きついから効いたのでしょう」
半兵衛殿も、珍しくすぐに続けた。
「正直、あそこで決まりました」
その一言は重かった。
半兵衛殿がそう言うなら、そうなのだろう。
「迷う時点で武士ではない、ですか」
半兵衛殿は、ほんの少しだけ口元を和らげた。
「美濃の者に、それを言い切るのは勇気が要ります」
「ご隠居が後ろにおられますゆえ」
そう返すと、十兵衛殿が細く笑う。
「それだけではありますまい」
そのやり取りの後、俺は空を見上げた。
西美濃三人衆は、落ちた。
しかも、ただ利で動いたのではない。
筋で動いた。
だから、この寝返りは強い。
そしてその瞬間、胸のどこかで分かった。
これで、状況がまた一つ進んだのだと。
♢
鵜沼については、最初から少し様子が違っていた。
西美濃三人衆は、切り崩すにしても順がいる。一色左京大夫へ付く現実、家の存続、所領の安堵、周りの目、その全部を一枚ずつ剥がしていかねばならない。あれは理と利の両方で落とす相手だ。
だが鵜沼は、そこまで回りくどく考えなくてよいのではないか――そう思ったのは、半ば直感であり、半ば系図の整理だった。
大沢次郎左衛門。
鵜沼の虎。
武辺としても、地の利を知る者としても厄介な相手だ。だが同時に、あの人はただの斎藤方の将ではない。
道三入道の娘婿。
つまり、帰蝶様とは義理の兄妹。
道三入道とは義理の親子だ。
そこまで頭の中で並べた瞬間、俺は思わず小さく息を吐いた。
「……いや」
十兵衛殿がこちらを見た。
「何か」
「弁舌でどうこうの前に、条件がそろい過ぎておりました」
半兵衛殿が目を細める。
「申してみて下され」
「身内です」
そこで、十兵衛殿の口元がわずかに動いた。
「ほう」
「大沢次郎左衛門殿は、道三入道の娘婿。帰蝶様とは義理の兄妹。道三入道とは義理の親子だ」
俺はそこで肩の力を少し抜いた。
「身内だよ身内、という話にございます」
十兵衛殿が細く笑う。
「急に言いようが軽くなりましたな」
「軽くもなります。西美濃三人衆のように、反乱者か筋かと大上段に切らずともよい。あちらは、道三入道健在の時点で、義理がもうこちらへ半分掛かっている」
半兵衛殿は、そこで静かに頷いた。
「なるほど」
「むしろ大仰に調略の文を持って行く方が不自然です」
俺は続けた。
「筋を正せば、それで足りる。大沢殿にとっては、斎藤方へ残るのが義理なのか、道三入道と帰蝶様の縁へ戻るのが義理なのか――そこを問えばよろしい」
半兵衛殿は珍しく、すぐに答えた。
「それで十分にございます」
十兵衛殿も頷く。
「ええ。鵜沼だけは、利より先に“家の内の筋”でほどける」
慶次郎が後ろで首を傾げた。
「じゃあ何だ、今までのややこしい話より簡単ってことか」
「簡単、というより」
助右衛門が低く言った。
「元から結び目がこちら側にある、ということだ」
その言い方が、一番しっくり来た。
そうなのだ。
鵜沼は外から崩すのではない。
元からこちらに通じている筋を、改めて表へ引き出すだけでよい。
だから、鵜沼への言葉は短くした。
長い利を並べない。
脅しも誇張も入れない。
ただ筋を正す。
道三入道その人がおられる。
帰蝶様も織田家におわす。
次郎左衛門殿は、いずれに義理を立てるべきか。
それだけでいい。
その文を見て、十兵衛殿は一度だけ「これで十分でしょう」と言った。半兵衛殿も「余計なことを足さぬ方がよろしい」と添えた。
実際、その通りだった。
返りは、驚くほど早かった。
西美濃三人衆の時のような、幾重もの探り合いもなければ、条件の細かな積み増しも要らぬ。もちろん安堵や後の扱いは必要だ。だが、それは話の芯ではなかった。
芯はただ一つ。
「道三入道がおられる以上、帰る先は見えている」
そこだった。
大沢次郎左衛門は、結局ほとんど迷わなかった。
義龍へ残る理は、現実にはある。
だが道三入道が健在で、帰蝶様が織田家にあり、自分がその道三の娘婿である以上、「我は斎藤義龍へ最後まで忠なり」と言い切る方がむしろ不自然だった。
身内は、強い。
理よりも、利よりも、時として強い。
寺から戻った後、慶次郎が笑った。
「何だよ、鵜沼。するっと行ったな」
「するっと行くに決まっておった」
俺は少し呆れて言った。
「道三入道の娘婿だぞ。帰蝶様とは義理の兄妹だ。義理の親子筋まで入っておる。身内だよ身内」
慶次郎が吹き出す。
「最後、雑だな」
「雑で済むところは雑でよい」
十兵衛殿が、珍しくそのやり取りに混じった。
「ですが、あながち間違いでもありませぬな」
半兵衛殿も、わずかに口元を和らげる。
「理を重ねるより、身内の一言で済む時もございます」
「そういうことでございます」
俺は頷いた。
西美濃三人衆は、理で断ち、利で受けた。
鵜沼は、筋と身内で戻した。
切り口が違うだけで、どちらも盤の中では必要だった。
そしてその報せは、ほどなく清洲へ届いた。
♢
清洲でその報を受けた時、上総介信長はまず文を二度読んだ。
一度目は事実の確認。
二度目は、その後ろにある人の動きの確認。
西美濃三人衆、織田方へ傾く。
鵜沼、大沢次郎左衛門も同じく。
しかも鵜沼については、余計な揉め方をしていない。
信長はそこで、文を畳んだ。
「よし」
その一言は、低く短かった。
だが、それで十分だった。
側に控える勘十郎信勝が、兄の顔を見る。
「鵜沼まで参りましたか」
「行ったな」
信長は、静かに笑った。
「西だけ崩して終わらぬとは思うておったが、鵜沼までああも早いとは」
信勝も頷く。
「大沢次郎左衛門が、道三入道の娘婿であることを考えれば、理にかなっております」
「うむ。調略というより、筋へ戻したな」
その言葉が、まさに本質だった。
西美濃三人衆は論で押し切った。
鵜沼は戻した。
治部大輔は、その違いを分かった上で動いた。
そこが大きい。
信長は、しばし黙った。
そして、もう一度だけ「よし」と言った。
今度の「よし」は、先ほどより重かった。
勘十郎が静かに問う。
「兄上」
「何だ」
「腹は、完全に決まりましたな」
信長は、その問いにすぐ答えた。
「決まった」
迷いがない。
「桶狭間で義元の首を取った。武は見せた」
信長は文の上へ指を置く。
「西美濃三人衆を寄せ、鵜沼を戻した。今度は戦働きだけではないところを見せた」
信勝は黙って聞いている。
「首を取る若武者なら、褒美と名乗りでよい。家格ある一門なら、家を持たせてもよい」
信長の目が細くなる。
「だが、こやつはそのどちらだけでも済まぬ」
それが、結論だった。
治部大輔信繁は、もう「桶狭間の若武者」ではない。
人を寄せ、盤を読み、理と利と血筋を使い分ける者になり始めている。
そこまで行けば、同腹の姫を結ぶに足る。
「お市をやる」
信長は静かに言った。
声は大きくない。
だが、その一言で盤は決まった。
勘十郎は目を伏せる。
驚いてはいない。
むしろ、そこまで来たか、という納得に近い。
「お犬ではなく」
「お市だ」
信長は即答した。
迷いがない。
お市。
土田御前腹。
同腹の妹。
ただの姫ではない。
だからこそ、治部大輔へ動かす意味がある。
「まだ言うな」
信長は続けた。
「左衛門佐にも、母上にも、妹どもにも、まだだ」
「承知」
「だが、わしの腹は決まった」
勘十郎は静かに頷いた。
「では、あとは時と段取りですな」
「うむ」
「又六郎の方も」
「考える」
「藤左衛門家の立て方も」
「分かっておる」
会話は短い。
だが、そこにある内容は重い。
信長の中では、もう決している。
治部大輔信繁へ、お市をやる。
そのために、どう家を残し、どう又六郎を立て、どう左衛門佐の顔を立て、どう土田御前へ話を通すか。
あとは、その段取りだけだ。
信長は最後に、報せの文を脇へ置いた。
「身内は強いな」
ふっと、そんなことを言う。
勘十郎が少しだけ口元を緩める。
「鵜沼にございますか」
「うむ。道三、帰蝶、大沢」
信長は鼻で笑った。
「理屈も利もある。だが最後は“身内だよ身内”で落ちるところが、また乱世よ」
その言い方に、勘十郎もほんのわずかに笑った。
「治部大輔も、よう分かっております」
「そこがよい」
信長は、そこで立ち上がった。
夜の空気が障子の隙からわずかに入る。
桶狭間から始まった盤は、もうここまで来ている。
義元の首。
武辺の加入。
十兵衛と半兵衛の接続。
西美濃三人衆調略。
鵜沼。
そして、お市。
信長は、その盤の先を見ていた。
「治部大輔には、まだ知らせるな」
「は」
「知らせぬまま、もう少し働いてもらおう」
その声音には、兄らしい情と、棟梁らしい冷たさが半ばずつあった。
「気付いた時には、逃げ場がなくなっておるくらいでちょうどよい」
勘十郎が、少しだけ呆れたように言う。
「兄上らしい」
「褒め言葉として受け取っておこう」
信長は笑った。
その笑いは、今夜の中で一番深かった。
腹は、完全に決まった。
あとは、どう最も美しく、最も強く、その一手を打つか。
清洲の夜はまだ静まり切らない。
だが、そのざわめきの奥で、同腹の姫の行く末まで含んだ次の盤が、静かに定まっていた。
♢
土田御前は、息子たちの顔色を読むことにかけては、昔から外したことがなかった。
信長は、幼い頃から分かりやすい子ではない。感情の振れは大きい。怒れば激しい。笑えば派手だ。だがその実、肝心なところは表へ出さぬ。こちらが「これだ」と思った時にはもう一手先へ行っている。そういう子だった。
信勝は、逆に静かな子だった。静かだが、内へ溜める。兄ほど激しくはないが、その分だけ考え込む。昔はその二人が同じ母の腹から出たとは思えぬこともあった。
けれど今は、その二人が同じ座で話をしている。
それだけでも、この数年でずいぶん変わったものだと、土田御前は思っていた。
そこにはもちろん、治部大輔信繁の働きもある。
小田井のあの子は、妙に人の間へ入る。
しかも、余計な顔をせずに入る。
信長にも、信勝にも、あからさまにどちらへも肩入れせず、それでいて双方の気を少しずつ解いていく。
二人は決定的なところまで行って、破局を迎えるとばかり思っていたが、どうやらあの子が色々と動いたおかげで年来の対立を乗り越え、兄弟二人が手を結び、今ではむしろ以前よりも強固な関係となった。
若いのに、ああいうことが出来るのは不思議なものだと、土田御前は何度か思った。
その日も、夕刻の廊で、信長と信勝が連れ立って奥から戻るのを見た。
二人とも何か話していたらしい。
だが、こちらに気付くとすぐに口を切る。
それ自体は珍しくない。
問題は、その切り方だった。
隠している。
ただし、母へ言えぬほどの断絶からではない。
まだ、言う段ではないから言わぬ。
そういう切り方だ。
土田御前は、その差を知っている。
「戻ったのですね」
そう声を掛けると、信長が足を止めた。
「母上」
「桶狭間の後は、皆よう動きますこと」
信長はわずかに口元を動かす。
「勝った後ほど、片付けは多い」
「そうでしょうとも」
言葉は当たり障りのないものだ。
だが、土田御前は信長の目を見ていた。
あの目は、今は戦の直後の熱だけではない。
何かを決めている時の目だ。
しかも、ただ一つ首を取った若武者を褒めるような軽い話ではない。
もっと家の中まで響くことを、もう盤に乗せている目だった。
信勝も一礼し、「母上」と言っただけで、その先を足さない。
これもまた分かりやすい。
兄が黙っている間は、自分から余計を言わぬつもりだ。
「治部大輔殿のことかしら」
土田御前は、あえて先に名を出した。
兄弟の間に、ごくわずかな間が落ちる。
それで十分だった。
信長はすぐには否定しなかった。
「名が立ったからな」
その返しは、軽いようで軽くない。
「名だけで済んでいる顔ではありませんよ、あの子は」
土田御前がそう言うと、信長の目がほんの少しだけ細くなった。
「母上もそう見るか」
「見ぬ方が難しい」
桶狭間で義元の首を取った。
それだけでも大きい。
だが土田御前の耳にまで届くのは、そこだけではない。
前田慶次郎。
奥村助右衛門。
明智十兵衛。
竹中半兵衛。
その名の重さを、土田御前が細かく軍略として理解しているわけではない。だが、そういう名が、次々と治部大輔の周りへ見え始めている。それが何を意味するかくらいは分かる。
人が寄る。
しかも、ただ取り巻くのではなく、見に来る。量りに来る。
それは、その子の先に何かあると思われている証だ。
信長は、そこでほんの少しだけ笑った。
「よう見ておるな」
「母に隠しきれると思っている方が、あなたがたもまだ子供です」
その返しに、信勝がわずかに口元を緩めた。
信長も否定はしない。
土田御前は、二人のその顔を見て、胸の内で一つ確かめた。
やはり、もう何か考えている。
しかも、それはただの加増や名乗りの話ではない。
もっと家の内へ食い込む話だ。
「お市の顔も、近頃はよく見ておるでしょう」
さらりとそう言うと、今度こそ信長が母を見た。
土田御前は表情を変えない。
お市も、お犬も、同腹の娘だ。
ただの妹ではない。
まして本家の娘として育った以上、その縁は家の中でも軽く動かすものではない。
だからこそ、母としてもその気配には敏い。
信長は、少しだけ息を吐いた。
「母上は、何でも先に言う」
「言われる前に分かるからです」
「まだ、何も決めたとは言っておらぬぞ」
その言い方で、土田御前は逆に確信した。
決めていないのなら、もっと明るくはぐらかす。
いまのそれは、否定ではない。
まだ言う段ではない、というだけだ。
「言わぬのと、考えておらぬのとは違います」
土田御前は静かに言った。
信勝は、そこで目を伏せた。
つまり、この話は信勝も知っている。
少なくとも兄の考えの輪郭は共有されている。
「治部大輔殿は、たしかに家柄も近い」
土田御前は続ける。
「左衛門佐殿も一門の重し。あの子も、最初から遠い者ではない。けれど、それだけで同腹の娘を動かすほど、そなたも軽くはありますまい」
信長は、もう何も言わない。
だが、その沈黙は認めている沈黙だった。
「桶狭間で首を取り」
土田御前は、ゆっくり言葉を置く。
「その後も、人が寄る」
信長の目が、静かに母を見ている。
「それを見て、それでもなお“ただの若武者”と思う者はおりませぬ」
しばし、三人の間に静けさが落ちた。
障子の向こうで、夕方の風が庭木を鳴らす。
その音だけが、不思議にはっきり聞こえる。
やがて信長が、ぽつりと言った。
「母上は、嫌か」
問いとしては短い。
だが、その中身は軽くない。
土田御前は、すぐには答えなかった。
嫌か。
それはつまり、お市を治部大輔へやることが、母として嫌か、ということだ。
そこまで露骨に名を出してはいない。
だが、もう十分に通じる問いだった。
「嫌かどうか、だけで決められることでもありますまい」
土田御前はそう答えた。
信長の目が、わずかに細まる。
「母上らしいな」
「母だから申すのです」
そこで、土田御前は初めて、少しだけ声を柔らかくした。
「お市は、軽い娘ではありません。お犬もまた同じです。あの子たちは、そなたや勘十郎殿と同じ腹の子。どこへやるかは、ただ家の都合だけでなく、その先でどう立つかまで見ねばなりませぬ」
信長は黙っている。
だが、よく聞いている顔だ。
「そのうえで申すなら」
土田御前は、静かに信長を見た。
「治部大輔殿は、いまのところ、見るに足る」
それは、母としての許しではない。
まだそこではない。
だが、頭から斥ける気はない、という意味では十分だった。
信勝が、そこで初めて口を開いた。
「母上」
「何です」
「兄上も、軽くはお考えではありませぬ」
土田御前は、少しだけ口元を緩めた。
「それは見れば分かります」
もし軽く考えているなら、もう少し雑に匂わせる。
だが信長はいま、何も言わず、段取りだけを頭で組んでいる。
それ自体が、重く見ている証だった。
「左衛門佐殿のことも、又六郎のことも」
土田御前は続けた。
「きちんと立てるおつもりなのでしょう」
信長がそこで、ようやく小さく頷いた。
「そのつもりだ」
その一言で十分だった。
やはり、考えている。
しかも、ただ若武者へ妹をやるという発想ではない。
家ごと、血筋ごと、どう置くかを見ている。
「ならば、いまはまだ申さずともよいでしょう」
土田御前はそう言った。
「半端なところで聞かされるより、整えてから聞く方が、母としても楽です」
信長が、そこでほんの少しだけ笑った。
「母上も、そういうところは変わらぬな」
「変わっておったら困るでしょうに」
その返しに、信勝まで小さく笑う。
重い話のはずなのに、空気がそこまで冷えない。
これが、あるべき姿での母子なのだろうと土田御前は思う。
近くはない。
だが、断絶もしていない。
言うべきことは言うし、聞くべきことは聞く。
そのくらいには、もう持ち直している。
「お市には、まだ何も申しておりませぬ」
信長が言う。
「それでよいでしょう」
「お犬にも」
「それも」
土田御前は頷いた。
「娘は、気配だけでも敏いものです。整わぬうちに風を当てぬ方がよろしい」
信長はそれを聞き、黙っていた。
もう話は半ば済んだも同然だった。
言葉にし切らずとも、腹の位置は互いに分かった。
治部大輔信繁。
桶狭間の若武者。
だが、もうただの若武者ではない。
だからこそ、お市の行く先として本気で盤に乗る。
そのことを、母もまた認め始めている。
「では」
土田御前は言った。
「申す時は、曖昧にせずに参りなさい」
信長が、静かに頭を下げるほどではなく、しかしはっきりと頷いた。
「承知した」
その返事を聞いて、土田御前はようやく胸の内で一つ息をついた。
まだ何も決まったわけではない。
だが、もう決まる方へ動いている。
それだけは疑いようがなかった。
お市の行く末。
治部大輔の立つ位置。
又六郎の継ぐもの。
左衛門佐の残すもの。
その全部が、もう同じ若者の上へ乗っている。
夕暮れの光は薄くなり、廊の向こうは少しずつ夜へ入っていた。
土田御前は二人の息子を見た。
昔より、少しだけ話が通るようになった。
それは年のせいか、戦のせいか、あるいは信繁のような子が間を行き来したせいか。
たぶん、その全部だろう。
「さて」
そう言って、土田御前は立ち上がった。
「母の前であまり難しい顔ばかりしておると、老けますよ」
信長が苦笑し、信勝もわずかに目を伏せる。
その反応だけで充分だった。
盤面は重い。
だが、もう誰も、それを避けては通らない。