織田家の嫡子~藤左衛門家の特異点   作:デトロ!開けろイト市警だ!

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013墨俣城を造る

夕刻の小田井は、昼よりも物音が少ない。

 

人は動いている。台所では湯が沸き、蔵では米俵が動き、表では馬の世話をする者の声もする。だが、日が傾くと、それらはみな一段低くなる。家の芯に近い音だけが残る。

 

左衛門佐信張は、その静けさの中で文を見ていた。

 

桶狭間以後、紙が増えた。

勝報に浮かれるだけの家ではない。人が寄り、話が来て、返すべきものが増える。しかも今は、治部大輔の名で入る話も多い。小田井の当主宛てなのか、嫡男宛てなのか、あるいは両方に跨るのか。そういう仕分けだけでも、一手かかる。

 

その時、障子の向こうで気配が止まった。

 

「父上」

「入れ」

 

開いた障子の向こうに立っていたのは、又六郎だった。

 

まだ幼名のままの次男。

だが、ここしばらくで少しだけ顔が変わった。背丈や声より先に、目の置き場が変わった。兄が桶狭間で跳ねた。そのことが、この子の立ち方まで少しずつ変えているのだろうと、信張は見ていた。

 

「何だ」

 

又六郎はすぐには座らず、一礼してから入ってきた。

 

「少し、お伺いしたきことが」

 

信張は文を置いた。

 

「珍しいな。申せ」

 

又六郎は父の前へ進み、正座した。

座り方が、少し硬い。

いつもの息子の顔ではなく、何かを決めて尋ねに来た顔だった。

 

信張は、その時点で半ば察した。

 

兄のことだろう、と。

 

「兄上のことにございます」

 

やはり、そう来た。

 

信張は「うむ」とだけ返した。

 

又六郎は、一度だけ言葉を探すように息を置いた。

 

「兄上は……いずれ、小田井に収まり切らぬのではありますまいか」

 

その問いは、思ったより真っ直ぐだった。

 

曖昧に濁すことも出来たろう。

「家中の者が何やら申しております」と他人の口を借りてもよかった。

だが又六郎は、自分の問いとして持ってきた。

 

それだけで、信張は少しだけ内心で頷いた。

 

「なぜそう思う」

 

すぐには答えず、まずそこを問うた。

 

又六郎は少し顔を上げる。

 

「桶狭間の首が大きかったことは、某にも分かります」

「うむ」

 

「けれど、それだけではございませぬ」

そこで、又六郎の声がわずかに締まる。

「慶次郎殿、助右衛門殿が兄上の左右におる。明智十兵衛殿や竹中半兵衛殿のようなお方まで、兄上を見に来ておる」

 

信張は黙って聞く。

 

「家中の者も、前のようには見ておりませぬ。小田井の若様、ではなく……」

そこで少し迷い、しかし言い切った。

「もっと大きいところへ出るお人、と見ております」

 

その認識は、正しかった。

 

まだ幼いままの弟の目にも、もうそこまで見えている。ならば家中の空気がそうなっているのは間違いない。

 

「……それで」

又六郎は続ける。

「兄上がいずれ小田井の城と家臣だけでは収まらぬなら、家はどうなるのかと」

 

やっと本丸へ来た。

 

兄の行く末を案じるだけではない。

その時、藤左衛門家がどうなるのか。

そして、おそらくは自分がどうなるのか。

そこまで含んだ問いだ。

 

信張は、すぐには答えなかった。

 

障子の外で、風が一つ、庭木を鳴らす。

 

「又六郎」

「は」

「お前は、その問いを誰かに吹き込まれたか」

 

又六郎は首を振った。

 

「いいえ」

「ならば、自分で考えて持ってきたな」

「はい」

 

信張はその答えに、ごく小さく頷いた。

 

それでよい。

他人の噂で右往左往する子ではなく、自分で考えて問うてきたのなら、こちらもきちんと返すべきだ。

 

「結論から言えば」

信張は静かに言った。

「その見立ては、外れてはおらぬ」

 

又六郎の背が、ほんのわずかに強張る。

 

兄が大きくなることを、望んでいないわけではない。

むしろ誇らしいと思っている。

だがそれが本当に家の形を変えると分かった瞬間、嬉しさだけでは済まぬものが胸へ入る。

その揺れは、信張にも分かった。

 

「兄上は、やはり」

 

「小田井の嫡男として立つことは、もとより出来る」

信張はまず、そこを切った。

「出来るどころか、本来ならそれが自然だ。藤左衛門家は、捨てるような軽い家ではない。尾張の内で代々立ち、今も一門の重しの一つだ」

 

又六郎は黙って聞いている。

 

「されど」

信張は一拍置いた。

「桶狭間以後のあれは、家を継げるかどうか、という話ではなくなりつつある」

 

「……もっと上へ」

「その可能性はある」

 

可能性、と言った。

まだ決まったとは言わぬ。

だが可能性どころではなく、もう盤はかなりそちらへ傾いていることも信張は分かっている。

 

「上総介様のお考えもある」

信張は続ける。

「家格だけで見れば、あれは元より本家に遠い者ではない。だが、桶狭間の首がそれを一気に現実の盤へ押し上げた。ゆえに、ただ家を継がせるだけで済まぬかもしれぬ」

 

又六郎が、そこで初めてはっきり問うた。

 

「その時は……某が、藤左衛門家を継ぐことになるのでしょうか」

 

若い問いだった。

 

だが、聞かずにはおれぬ問いでもある。

 

信張は、息子の顔を見た。

 

恐れている、というより、まだその重さが実感になり切っていない顔だ。

兄の影に立っていた次男が、ある日突然「お前が家を継ぐやもしれぬ」となれば、戸惑わぬ方が無理だろう。

 

「そうなるかもしれぬ」

 

信張は、あえて曖昧にはしなかった。

 

又六郎の目が少し動く。

 

「だが」

そこで声を少しだけ強めた。

「“兄が外へ出るから弟が継ぐ”で済むほど、家は軽くない」

 

又六郎が姿勢を正す。

 

「は」

「城と家臣を受けるというのは、空いたところへ座ることではない。先祖からのものを預かり、人の命を預かり、名を預かることだ。兄の代わりだから、では立たぬ」

 

その言葉は、次男へ向けたものだが、同時に当主としての本音でもあった。

 

もし本当に又六郎へ藤左衛門家を継がせるなら、ただ名目上の跡目では足りない。

家臣が、この若殿なら預けられると思えるだけの立ち方が要る。

 

「某では……足りませぬか」

 

その問いは小さかった。

 

信張はすぐには答えず、少しだけ目を細めた。

 

「足りぬと、今この場で決めることも出来ぬ」

又六郎が顔を上げる。

「だが、いまのままでは足りぬ」

 

その一言は、はっきり言うべきだった。

 

兄が大きくなるなら、弟もまた大きくならねばならぬ。

家はそういうものだ。

 

「兄が前へ出るほど、お前には残るものが重くなる。ならば、お前もまた、兄の影で守られているだけでは済まぬ」

 

又六郎は深く頭を下げた。

 

「はい」

 

その返事に逃げはない。

それで信張は少しだけ安堵した。

 

「勘違いするな」

信張は続ける。

「わしはまだ、お前に“継げ”と言っておるのではない」

 

「は」

「だが、そうなったとしても立てるようになれ、と言っておる」

 

そこは大きく違う。

決まった未来を告げるのではなく、どちらへ転んでも立てるように鍛える。

当主としては、そうするしかない。

 

又六郎は、しばらく黙っていた。

 

やがて、ぽつりと漏らすように言った。

 

「兄上は……小田井を嫌って出て行くわけでは、ありませぬな」

 

その問いに、信張は思わず少しだけ口元を緩めた。

 

「馬鹿を申すな」

声は穏やかだった。

「あれは、この家を嫌って出るような子ではない。むしろ逆だ。家も、人も、背負うからこそ前へ出る」

 

そこは父として、断言できた。

 

治部大輔は、家が煩わしいから上へ出たいのではない。

家を背負ったまま、それでも先へ行かねばならぬところへ押し出されつつあるのだ。

 

「ならば」

又六郎はゆっくり顔を上げた。

「某は、兄上が前へ出ても、小田井が軽くならぬようにせねばなりませぬな」

 

その言い方に、信張は内心で少し驚いた。

 

ただ「継ぐかもしれぬ」ではなく、

兄が出た後も、家が軽く見えぬようにする。

そこまで言えるなら、次男としては十分に芽がある。

 

「そうだ」

信張ははっきり頷いた。

「その心持ちを持てるなら、まだ先はある」

 

又六郎の肩から、少しだけ力が抜けた。

 

不安が消えたわけではないだろう。

だが、立つべき向きは見えた。

それだけでも大きい。

 

「父上」

「何だ」

「兄上には……この話を」

 

「まだ言うな」

信張は即座に切った。

「あれはいま、自分の前の盤を見るだけで手一杯だ。弟が後ろで何を背負うかまで、今は余計に知らせぬ方がよい」

 

「承知致しました」

 

信張は、そこでようやく少しだけ息をついた。

 

「又六郎」

「は」

「兄が大きくなるのを、ただ眺めておるな」

「はい」

 

「羨むな」

又六郎の目が少しだけ揺れる。

「妬むな」

 

「……はい」

「だが、誇れ」

 

その一言に、又六郎は息を呑んだ。

 

信張は続ける。

 

「兄が前へ出るなら、その背を誇れる弟であれ。そうであってこそ、いずれお前が何を継ぐにしても、家は立つ」

 

又六郎は深く頭を下げた。

 

「肝に銘じます」

 

その声は、さっきより少しだけ太くなっていた。

 

信張は、それを見て小さく頷いた。

 

まだ決まってはいない。

だが、決まるかもしれない未来へ備えるなら、今こうして話しておくしかない。

 

治部大輔は、もう小田井一城の若殿だけでは済まぬかもしれぬ。

ならば、又六郎もまた、ただ兄の弟として守られているだけでは済まぬ。

 

家は、こうして少しずつ次の形を覚えていく。

 

「下がってよい」

「は」

 

又六郎が立ち上がり、一礼して下がる。

 

障子が閉まった後、信張はしばらくそのまま座していた。

 

兄が前へ出る。

弟が後ろを学ぶ。

それは良いことでもあり、寂しいことでもある。

 

だが当主である以上、どちらかだけを見るわけにはいかぬ。

 

信張は文へ視線を戻した。

 

治部大輔信繁。

又六郎。

藤左衛門家。

 

そのどれもが、もう別々には動かぬところまで来ていた。

 

夕刻の静けさは、もう夜へ変わり始めている。

盤は、確かに進んでいた。

 

 

清洲の庭は、小田井よりも少し明るい。

 

人の出入りが多いせいか、同じ夕暮れでも空気が閉じ切らない。廊の向こうで小姓が走り、奥では女中が声を潜めて行き交う。城というのは、日が落ちてもなお人の気配で灯るものなのだと、又六郎はここへ来るたびに思う。

 

その日も、母の使いで奥へ品を届けた帰りだった。

 

役目そのものは大したものではない。だが今は、こういう小さな使いでも又六郎自身が足を運ぶようにしている。兄が前へ出るほど、自分は後ろを覚えねばならぬ――父上の言葉が、まだ胸の内に新しかったからだ。

 

廊を曲がったところで、ふと足が止まった。

 

前から、お市殿が来られる。

 

供は少ない。いつものように華やかなだけの姫君ではない。歩き方に無駄がなく、目の置き方も静かだ。桶狭間の後から、又六郎にはその静けさが少しだけ違って見えるようになっていた。

 

又六郎はすぐに脇へ寄り、深く一礼した。

 

「お市殿」

 

お市殿は足を止められた。

 

「又六郎殿」

声は柔らかい。だが、やはりただ柔らかいだけではない。織田弾正忠家の姫として育った人の、自然な重みがある。

「清洲へ来ておられたのですね」

 

「は。母の使いにて」

「そうでしたか」

 

そこで会話は一度切れる。

 

本来なら、それで済んでもおかしくない。姫と若き一門の子弟、廊で行き違っただけのことだ。

 

だが、その日は又六郎の方が少しだけためらった。

 

お市殿は、兄上のことをどう見ておられるのだろう。

そんな考えが、ここしばらく胸のどこかにあったからだ。

 

言うべきではないかもしれない。

けれど、言わずに通り過ぎるには、どうにも惜しい気もした。

 

「何か」

 

お市殿が、又六郎のためらいを見て取られたらしく、静かに促された。

 

又六郎は、少しだけ背筋を伸ばした。

 

「……兄上のことでございます」

 

お市殿の目が、ごくわずかに動く。

 

驚いたというより、やはりそこか、に近い動きだった。

 

「治部大輔殿の」

 

「はい」

又六郎は続けた。

「近頃、皆が兄上を前とは違って見ております」

 

お市殿は何も言わない。

ただ、先を待っておられる。

 

「桶狭間で首を挙げられて以後、兄上は兄上のままにございます。けれど、周りはもう、小田井の若様としてだけは見ておらぬように思えます」

 

それは、又六郎自身が父上へ言ったこととほとんど同じだった。

だが、こうしてお市殿の前で口にすると、また別の重みが出る。

 

お市殿は、静かに問われた。

 

「又六郎殿も、そうご覧になっているのですか」

又六郎は頷いた。

「は」

 

「なぜ」

 

その問いは、試すようでもあり、純粋に聞いているようでもあった。

 

又六郎は少し考えた。

 

兄上が大きいから、では足りない。

皆がそう言うから、ではなお足りない。

自分の言葉で言わねばならぬ。

 

「……人が寄るからにございます」

お市殿の目が、静かに又六郎へ留まる。

「慶次郎殿、助右衛門殿のような武辺が左右に付き」

 

又六郎は一つずつ言葉を置いていく。

 

「明智十兵衛殿や、竹中半兵衛殿のようなお方まで、兄上を見に来ておられる」

 

そこまで言うと、お市殿はほんのわずかに目を伏せられた。

 

その名は、やはり姫の耳にも届いているのだろう。

 

「兄上は、まだ兄上にございます」

又六郎は続ける。

「ですが、前と同じ兄上ではおられぬように思います。いずれ……」

 

そこで、少しだけ息を置く。

「いずれ、小田井に収まり切らぬのではありますまいかと」

 

お市は、すぐには答えられなかった。

 

廊の向こうで、風が一つ鳴る。

それだけが、やけに近く聞こえる。

 

やがて、お市は静かに言われた。

 

「又六郎殿が、そう申されるのですね」

「は」

「そうですか」

 

それだけだった。

 

だが、その「そうですか」には、軽い驚き以上のものがあった。

 

家中の噂として耳にするのと、弟の口からそれを聞くのとでは意味が違う。

他人が「もう若武者ではない」と言うのは、所詮は外からの評だ。

だが弟が「兄はもう収まり切らぬ」と見るなら、それは家の内側でもそうなり始めているということだ。

 

お市は、又六郎を見た。

 

「又六郎殿は、それを寂しく思われますか」

 

その問いは、不意だった。

 

だが又六郎は、逃げずに受けた。

 

「寂しくないとは申せませぬ」

正直にそう言った。

「兄上は、昔から兄上でした。届かぬようで、それでも兄でした」

 

お市殿は黙って聞いておられる。

 

「けれど今は、もっと遠くへ行かれるやもしれませぬ」

又六郎はそこで、自分でも少し驚くほど素直に言えた。

「それでも――」

 

父上の言葉が、胸の内で返る。

誇れ。

 

「それでも、兄上の背を誇れる弟であらねばならぬと、父上に申されました」

 

お市の目が、そこで少しだけ和らいだ。

 

「……左衛門佐殿らしいお言葉です」

「は」

「そして、又六郎殿も、よく受けておられる」

 

その言い方は、ただ子供を褒めるものではなかった。

少し対等に近いところで、受け止められたような響きがある。

 

又六郎は少しだけ顔が熱くなるのを感じた。

 

お市は、少し庭の方へ目をやった。

 

「治部大輔殿が、前とは違うところへ行き始めている」

その言葉は、独り言のようでもあった。

「そう見ているのが、家中だけではないことは分かっておりました」

 

又六郎は黙った。

 

「けれど、弟御までそうご覧になっているのなら」

そこでお市殿は、ほんの少しだけ言葉を切られた。

「やはり、本当にそうなのでしょうね」

 

それは、又六郎に向けた言葉でもあり、たぶんご自身に向けた確認でもあった。

 

又六郎はその時、はっきりとは分からなかった。

お市が、どこまで兄上のことを考えておられるのか。

ただ、兄上の名を聞いた時の目の動きと、今この言葉の置き方だけで、少なくとも軽く見ておられぬことだけは分かった。

 

「お市殿」

「何です」

「兄上は……」

 

又六郎は、少しだけ迷った。

だが、やはり言った。

 

「兄上は、昔から家を嫌って遠くへ行くようなお人ではございませぬ」

 

お市は又六郎を見た。

 

「ええ」

「もし大きくなられるとしても、それは小田井を捨てるからではなく、背負ったまま前へ出るのだと、某は思います」

 

お市は、そこで本当にごく小さく微笑んだ。

 

「そのようでしょうね」

 

その一言が、又六郎には妙に嬉しかった。

 

兄上を分かってもらえた、というほど大げさなものではない。

だが少なくとも、お市殿は兄上をただ遠くの若武者として見ているのではない。

それが伝わったからだ。

 

「又六郎殿」

「は」

「兄上の背を誇れる弟であれ、でしたか」

「はい」

 

「良い言葉にございます」

お市殿はそう言ってから、少しだけ目を細められた。

「では、又六郎殿がそのように立たれれば、治部大輔殿もなお前へ出やすくなりましょう」

 

その言葉に、又六郎ははっとした。

 

そうか。

 

誇るとは、ただ気持ちのことではない。

自分がきちんと立つことが、兄上の背を軽くすることにもなるのだ。

 

「……はい」

 

今度の返事は、前より少しだけ深く出た。

 

お市殿は頷かれた。

 

「よろしい」

そう言って一歩踏み出しかけ、ふと足を止められる。

「又六郎殿」

 

「は」

「今日のことは、あまり治部大輔殿へは申されぬ方がよろしいかもしれませぬ」

 

又六郎は少し目を丸くした。

 

「お市殿も、そのように」

「まだ、少し早い気が致します」

 

その答えに、又六郎は思わず小さく笑った。

 

父上も同じことを言った。

そして今、お市もまた同じことを言う。

それだけでも、兄上がいま本当に“前へ出る途中”にいるのだと感じられた。

 

「承知致しました」

「では」

 

お市殿が静かに去って行かれる。

 

又六郎は、その背を見送った。

 

兄上のことを、姫もまた軽くは見ていない。

しかも、ただ噂としてではなく、家の内のことまで含めて見ておられる。

 

そのことが、又六郎には少し不思議で、そして少しだけ心強かった。

 

兄上は前へ出る。

自分は後ろを立てる。

そして、その兄上の背を見ているのは家中だけではない。

 

そう思うと、さっきまでの胸のつかえが少しだけ軽くなる。

 

「……兄上」

 

小さくその名を口にしてから、又六郎は自分の行く先へ向き直った。

ただ兄の弟でいるだけでは足りぬ。

そのことを、また一つ別の形で教えられた気がした。

 

 

西美濃三人衆の帰順が正式に定まった日、清洲の空気は、桶狭間の時とはまた違う意味で張っていた。

 

今川治部大輔義元の首がもたらしたのは、戦場の逆転だった。

だが西美濃三人衆の帰順は、それとは違う。

これは美濃攻略の盤そのものの傾きだ。

美濃を外から叩くのではなく、内から裂け目を広げる一手。

誰の目にも、それがただの一城一地の増減でないことは分かっていた。

 

その日の呼び出しは、妙に簡潔だった。

 

「上総介様がお呼びだ」

 

それだけだ。

 

場所は、奥の一間。

評定ほど大仰ではない。

だが、軽い話をする場でもない。

そういう部屋だった。

 

俺は座へ進み、深く頭を下げた。

 

「治部大輔にございます」

 

上総介兄上は、いつものように脇息にもたれたままこちらを見ていた。

機嫌は良さそうに見える。

だが、この人の機嫌の良さほど当てにならぬものはない。目が笑っている時ほど、次に何を投げてくるか分からない。

 

勘十郎兄上も、上総介兄上の少し脇に座していた。

もうこの兄弟が同じ座に並ぶこと自体、俺には昔よりずっと自然に見える。

だが、自然に見えるようになったからといって、その重みが減ったわけではない。

 

上総介兄上が言った。

 

「西美濃、よくやった」

 

短い。

 

だが十分だった。

 

「ありがたき幸せ」

「鵜沼もよい」

「は」

 

「西だけで止まらず、流れの先まで見た」

そこで、上総介兄上は口元を少しだけ上げた。

「戦働きだけでないところを見せたな」

 

それは、以前にこの人が言った言葉の返りでもあった。

 

桶狭間で首を取った時には、まだ若武者としての働きだった。

だが今回は違う。

理を断ち、利を配り、人を動かし、その後の収まりまで含めて手を打った。

そこまで見たうえでの評価だと分かる。

 

勘十郎兄上も、静かに続けた。

 

「切り崩して終わりにせず、受けまで置いたのは良い」

「恐れ入ります」

 

「ただし」

いつものように、そこで一段締める。

「ここから先は、崩れた美濃をどう押し広げるかだ。寝返りの功は大きいが、それだけで国は落ちぬ」

 

「承知しております」

「うむ」

 

そこで、少し間が落ちた。

 

妙な間だった。

 

褒め言葉の後にしては長い。

次の実務の話へ入るにしても、少し違う。

何か、別の盤がある。

 

そう思った時、上総介兄上があっさり言った。

 

「お市をやる」

 

一瞬、意味が入らなかった。

 

耳には入った。

だが、言葉として腹へ落ちるまでに、わずかな遅れがあった。

 

「……は」

 

上総介兄上は、俺の反応を面白そうに見ている。

 

「今年中に婚礼を挙げよ」

 

今度は、はっきり入った。

 

胸の内で、何かが一気に動いた。

桶狭間で義元の首を落とした時とも、西美濃三人衆が腹を決めた時とも違う揺れだった。

 

お市殿。

 

同腹の姫。

ただの妹君ではない。

土田御前腹、すなわち上総介兄上と勘十郎兄上と同腹の姫。

 

その方を、やる。

 

しかも今年中に婚礼を挙げよ、と来た。

 

軽い話であるはずがない。

本家中枢の血をどう結ぶか、そのものだ。

しかも、俺はもう分かっている。

これはただの褒美ではない。

桶狭間の首と、西美濃・鵜沼の働き、その全部を見た上で、上総介兄上が俺の今の使いどころを決めたのだ。

 

「……ありがたき」

 

そこまで言いかけて、ふと別のものが頭へ走った。

 

美濃。

西は割れた。

だが、それだけではまだ足りぬ。

こちらがさらに先へ踏み込むには、象徴となる手が要る。

しかも、相手に「織田は婚礼で浮かれている」と思わせながら、その裏で動ける手が。

 

気付けば、口が先に動いていた。

 

「でしたら」

上総介兄上の眉がわずかに上がる。

「婚儀を隠れ蓑に、墨俣に砦を築きましょう」

 

座の空気が、一瞬で変わった。

上総介兄上が思わず、といった様子で身を起こす。

 

「何ぃ?」

 

勘十郎兄上の目も、はっきりこちらへ寄った。

 

婚礼を告げられた直後に返す言葉がそれか、と自分でも少し思う。

だが、浮かんでしまった以上は仕方がない。

 

俺は息を整えた。

 

「西美濃三人衆が帰順し、鵜沼も去った。美濃は内から揺れております。ならば、こちらは外から“いつでも攻め込める”と示す場が要ります」

 

上総介兄上は黙らない。

 

「それで墨俣か」

「は」

「なぜそこだ」

「西美濃が傾いた今、そこへ砦を置ければ、もはや織田の手は尾張の岸に留まらぬと、美濃中へ見せられます」

 

勘十郎兄上がすぐ問う。

 

「築けるか」

 

直い。

だが、だからこそ話が進む。

 

「築けます」

「どうやって」

 

ここからだ。

 

俺はほとんど迷わず答えた。

 

「大将は権六の親父殿」

 

上総介兄上の口元が動く。

 

権六の親父殿――柴田権六勝家ではなく、親父殿と立てる呼び方で置いたのは、築砦という一事をただの若手の思いつきに見せぬためだ。現場の押さえと武威を立てるには、年嵩と重みが要る。

 

「作事奉行は木下藤吉郎」

 

今度は、上総介兄上が本当に少し笑った。

 

「藤吉郎か」

「は。あの者は、ただ口が立つだけではございませぬ。人足を動かし、段取りを刻み、散らばった手を一つの仕事へ束ねるには向いております」

 

勘十郎兄上が、静かに続きを促した。

 

「それだけで、墨俣は立たぬ」

 

「もちろん」

俺は頷く。

「木下殿のつてにより、川並衆へ協力してもらいます」

 

そこまで言うと、二人とも完全に聞く顔になった。

 

「川の上流より、一斉に、出来る限り同じ寸法で材木を切り出す」

「同じ寸法?」

 

と、勘十郎兄上。

 

「はい。長さ太さを出来る限り揃える。揃っていれば、現地で合わせる手間が減ります。川を下らせ、下流で受け取る」

 

上総介兄上が喉で笑う。

 

「川で運ぶか」

 

「陸で大騒ぎして持って行けば、敵に気取られます。婚礼の準備で城中も周辺も浮き立つ。その裏で、材木は川を下る」

そこで、俺はもう一歩踏み込んだ。

「下流で受け取った材木と、某が開発した円匙――いえ、剣匙にて、穴を掘る」

 

上総介兄上の眉が上がる。

 

「剣匙?」

「はい。先を尖らせ、踏み込みやすくした鉄具にございます。鍬ほど場所を取らず、短くても土を切れる。狭い場所での突貫作業に向きます」

「お主、そんなものまで考えておるのか」

「戦とは、結局、土を掘れる者が勝つ時もございますので」

 

それは半ば本音だった。

 

塁も、柵も、砦も、最後は土だ。

土をどう早く動かすかで、命の数が変わる。

 

「穴を掘り、材木を渡し、墨俣に砦を築きます」

 

言い切った時、部屋の中はしばし静かだった。

 

婚礼の話から一転して、川並衆、規格材木、剣匙、突貫築砦。

我ながら、ずいぶん飛んだ話だとは思う。

 

だが上総介兄上は、次の瞬間にはもう笑っていた。

 

「お主」

その声音には、呆れと愉快が半ばずつあった。

「自らの婚姻すら囮に使うか」

 

俺は少しだけ息を吐いた。

 

「お市殿ならば、承諾して下さるはずです」

 

言った瞬間、自分でも少しだけ無茶だと思った。

 

お市殿は軽い姫ではない。

その婚礼を「隠れ蓑」として使う。

普通なら、不敬と言われても仕方がない。

 

だが、それでもそう思ったのだ。

あの方なら、ただ嫁ぐだけの婚礼より、その婚礼が盤を動かすなら、その意味を見て下さるだろうと。

 

「むろん」

そこで、ようやく少しだけ苦笑が出た。

「それがしは、そのあと、頭が上がらぬとは思いますが」

 

上総介兄上が、とうとう声を立てて笑った。

勘十郎兄上でさえ、さすがに口元を押さえた。

 

「はははは!」

上総介兄上は膝を打つ。

「よい!」

 

その一言に、先ほどまでの重い婚礼の話と、いまの墨俣案とが、一つの盤へ乗ったのが分かった。

 

「お市をやる、と言っておいて、その婚礼を隠れ蓑に砦を立てるか」

「はい」

「面白い。実に面白い」

 

勘十郎兄上がようやく口を開く。

 

「面白いだけでは済まぬぞ、兄上」

「分かっておる」

 

そう言いながらも、上総介兄上の目は完全に冴えていた。

 

勘十郎兄上はすぐこちらへ向き直る。

 

「材木を同寸で切らせる、と申したな」

「は」

「川並衆が本当にそこまで揃えられるか」

「藤吉郎殿なら、まず川並衆の顔を繋げられます。その上で、切り出しは“これとこれ”と寸法見本を渡す。完全一致は不要。出来る限り揃えば十分にございます」

「剣匙は」

「先に試作させます。鍛冶を二つ三つ回せば足りましょう」

「権六は、築砦の現場に立たせると」

「武威が要ります。婚礼の陰で何かやっていると気取られた時、最後に場を押し切る重しが必要です」

 

勘十郎兄上は、そこで黙った。

頭の中で、出来るか出来ぬかを刻んでいる顔だった。

 

やがて、ゆっくりと言う。

 

「……荒いが、筋は通っている」

 

それで十分だった。

 

上総介兄上が立ち上がる。

 

「やるぞ」

 

話が早い。

 

だが、ここでの速さこそこの人だ。

 

「お市の婚礼は、そのまま進める」

 

その一言に、胸の奥がまた少し動いた。

 

冗談ではない。

婚礼の話は、もう本当に盤に乗ったのだ。

 

「そして、その陰で墨俣だ」

「は」

「藤吉郎を呼べ。川並衆の話をさせろ。権六も押さえる」

「承知」

 

勘十郎兄上も、もう止めはしなかった。

 

「ただし」

静かに言う。

「婚礼の支度と築砦の仕込みを、本当に同時に回すなら、口の軽い者は切れ」

 

「は」

「お市側へも、いずれ話は通さねばならぬ。だが、通す順は誤るな」

 

その言葉に、俺は深く頭を下げた。

 

「心得ております」

 

上総介兄上は、そこで最後にこちらを見た。

 

「治部大輔」

「はっ」

 

「義元の首を取り、三人衆を寄せ、鵜沼を戻し、その上で妹の婚礼まで砦の隠れ蓑に使うか」

目が笑っている。

「お主、本当に面白いな」

 

「ありがたき幸せ」

 

そう返しながらも、胸の内ではもう次の段取りが走っていた。

 

お市殿。

婚礼。

墨俣。

藤吉郎。

川並衆。

権六の親父殿。

剣匙。

材木。

 

全部を同時に回す。

無茶だ。

だが、盤が開いている時は、無茶を通さねば次がない。

 

上総介兄上は背を向けながら言った。

 

「ただし」

「は」

「本当にお市が承諾してくれるかは、お主があとで存分に詫びてこい」

 

今度は、俺も少しだけ笑った。

 

「その時は、平伏致します」

 

「よい」

上総介兄上が手を振る。

「まずは墨俣だ」

 

その瞬間、婚礼と築砦が一つの戦略として結び付いた。

 

西美濃三人衆帰順。

鵜沼。

お市婚姻。

墨俣築砦。

 

盤はもう、一気に次へ進み始めていた。

 

 

その日、お市は呼ばれる前から、何かが来ると分かっていた。

 

清洲の空気は、ここしばらくずっと張っている。

桶狭間から始まり、西美濃三人衆、鵜沼、そして次の一手。

家中の者たちは口を慎んでいても、慎むからこそ逆に、何かが盤の上で固まりつつあるのが分かる。

 

しかも、近頃の兄上――上総介信長の目は、時折お市へも向いた。

 

露骨ではない。

だが、同腹の妹であるお市には分かる。

あれは、ただ妹の顔を見ている目ではない。

何かを決め、その段取りを測っている目だ。

 

呼ばれたのは、奥の一間だった。

 

そこには、母土田御前が既にいた。

上総介兄上もいる。

勘十郎兄上もいる。

 

それだけで、軽い話ではないと知れる。

 

お市殿は静かに進み、まず母へ、続いて兄たちへ一礼した。

 

「お呼びにございますか」

 

土田御前が、お市を見た。

その目は厳しすぎず、だが柔らかすぎもしない。

母として、もうある程度は腹を決めて座している目だった。

 

信長が言った。

 

「お市」

「はい、兄上」

「話がある」

 

短い。

 

だが、それで十分だった。

 

お市は座に着いた。

膝の上に手を重ね、兄上の次の言葉を待つ。

 

信長は、余計な回り道をしなかった。

 

「治部大輔へ、お前をやる」

 

部屋の中が、一瞬だけ静まる。

 

驚かなかった、とは言えない。

胸の内で何かが強く鳴った。

だが、それが全くの不意打ちでもなかった。

 

やはり、と思う気持ちが先にあった。

 

桶狭間以後の治部大輔殿は、もうただの若武者ではない。

家柄だけでもない。

戦功だけでもない。

人が寄り、策が通り、兄上がそこまで盤へ乗せるに足る相手となっている。

 

だから、この話が来る可能性は見えていた。

それでもなお、実際に言葉として落ちれば重い。

 

お市は、すぐには答えなかった。

代わりに、まず静かに問うた。

 

「……兄上の、定めにございますか」

 

信長は頷いた。

 

「そうだ」

「母上も、お許しにございますか」

 

土田御前が静かに言う。

 

「許す、許さぬだけで決めることでもありません。けれど、治部大輔殿は見るに足る、と私は思うております」

 

お市殿は、その言葉を聞いて胸の内で一つ息をついた。

 

母上がそこまで言うなら、もう盤はかなり固まっている。

思いつきではない。

上総介兄上の一時の気まぐれでもない。

 

「……承知致しました」

 

そう答えた時、自分の声は思ったより静かだった。

 

上総介兄上が、お市殿をじっと見た。

 

「驚かぬな」

 

「驚いてはおります」

お市殿はそう返した。

「ですが、まったく思いも寄らぬ、というほどではございませぬ」

 

勘十郎兄上の口元が、わずかに緩む。

 

上総介兄上は鼻で笑った。

 

「やはり、皆よう見ておる」

 

土田御前は何も言わない。

だが、その沈黙は否定ではなかった。

 

お市は続けた。

 

「治部大輔殿は、家柄だけでその座へ近づいたのではございませぬ。桶狭間でご自分の手で位置を取られ、その後もまた、人が寄っております」

 

そこまで言うと、信長の目が少し細くなった。

 

「そこまで見ておるか」

「見ぬ方が難しゅうございます」

 

お市は、そう答えた。

 

その返しに、上総介兄上は少しだけ満足そうにした。

兄としての顔と、棟梁としての顔が半ばずつ混じった表情だった。

 

だが、話はそこで終わらなかった。

 

上総介兄上は、ほんの少しだけ間を置いてから、さらに言う。

 

「ただし」

お市は顔を上げる。

「この婚礼、ただの婚礼では済まぬ」

 

その一言で、空気がまた変わる。

 

土田御前も、そこはもう知っていたのだろう。

少しだけ目を伏せたまま、何も言わない。

 

お市は静かに問うた。

 

「……どういう意味にございますか」

 

答えたのは、意外にも勘十郎兄上だった。

 

「墨俣に砦を築く」

 

短い。

 

だが、それで一気に話が繋がる。

 

西美濃三人衆。

鵜沼。

その次に来るのが墨俣なら、美濃攻めの本格化だ。

 

お市の目が、今度ははっきりと動いた。

 

「婚礼を、その隠れ蓑に使う」

 

上総介兄上が言い切った。

 

部屋の中が静かになる。

 

今度の沈黙は、先ほどとは意味が違う。

婚姻そのものの重みではなく、婚姻と戦が一つの盤面へ結ばれたことの重みだった。

 

お市は、しばし黙したまま座していた。

 

怒るべきか。

呆れるべきか。

笑うべきか。

それとも、さすが兄上と信繁殿らしいと思うべきか。

 

胸の内で、幾つも感情が交錯する。

 

やがて、お市は静かに問うた。

 

「そのように申したのは、兄上にございますか。それとも治部大輔殿にございますか」

 

上総介兄上は、ほんのわずかに口元を上げた。

 

「治部大輔だ」

 

土田御前が、そこでごく小さく息を吐いた。

 

やはり、という息でもあり、まったくあの子は、という息でもあった。

 

お市は、思わず目を伏せた。

 

治部大輔殿らしい。

あまりにも、らしい。

 

婚礼を告げられて舞い上がるのではなく、即座にその婚礼を隠れ蓑に墨俣築砦を言い出す。

普通なら、不敬とも取れる。

だが、あの人ならやりかねぬ。

そして、たぶん本気で「お市殿なら承知して下さる」と思っているのだろう。

 

「……あの方は」

お市は小さく言った。

「私を何と心得ておられるのでしょうね」

 

上総介兄上が笑う。

 

「承知してくれる姫だと思うておる」

 

勘十郎兄上も、珍しく少しだけ口元を緩めた。

 

「たぶん、本気でそう思っておるな」

 

それが余計に、お市にはおかしかった。

 

怒りだけではない。

呆れだけでもない。

むしろ、そう思われていること自体が、少し悔しく、少し可笑しい。

 

「で、実際のところどうだ」

上総介兄上が問う。

「承知するか」

 

土田御前は口を挟まない。

ここは、娘自身に答えさせる場なのだろう。

 

お市は、ゆっくりと顔を上げた。

 

「兄上」

「何だ」

「墨俣築砦が、美濃攻めの大きな手になることは分かります」

「うむ」

「婚礼が、人の目を逸らす役に立つことも」

「うむ」

「ならば、嫌だとは申しませぬ」

 

上総介兄上の目が、わずかに冴える。

 

土田御前も、静かに娘を見ている。

 

「ですが」

お市殿はそこで、ほんの少しだけ声を柔らかくした。

「治部大輔殿には、あとで必ず、きっちりお話を伺います」

 

勘十郎兄上が、とうとう喉で笑った。

 

上総介兄上は声を立てて笑う。

 

「よい!」

 

その笑いで、部屋の空気が一気に和らいだ。

 

土田御前でさえ、口元を隠して目を伏せる。

笑いをこらえておられるのが分かる。

 

「やはり、お前はそう言うと思うた」

上総介兄上が言う。

「承諾はする。だが、そのままにはせぬ、と」

 

「当然にございます」

お市は、きっぱりと言った。

「私の婚礼を隠れ蓑にするのなら、その分だけきちんと頭を下げて頂かねば釣り合いませぬ」

 

「その時の治部大輔の顔が見ものだな」

「兄上」

「何だ」

「その場には、兄上もいて下さりませ」

 

上総介兄上は、また笑った。

 

「嫌だ」

「兄上」

「自分で言うたことの始末くらい、自分で付けさせる」

 

そのやり取りの中で、お市の胸の内も少しずつ定まっていく。

 

婚礼は重い。

それは変わらない。

当主と同腹の姫として嫁ぐということの意味も、よく分かっている。

だが、その婚礼がただの縁組でなく、美濃を開く一手にもなるなら、そこに意味はある。

 

そして何より。

 

治部大輔殿が、ただ姫を得たと浮かれるのではなく、その婚礼の先まで見ていること。

そこは、やはりあの人らしいと思う。

 

「承知致しました」

お市は、今度は先ほどよりもはっきりと言った。

「婚礼の儀、受けます」

 

上総介兄上は頷く。

 

「よい」

「ただし」

「まだあるか」

 

「はい」お市は静かに兄を見た。

「私にも、墨俣のことは後で詳しくお聞かせ下され」

 

それには、上総介兄上も一瞬だけ目を丸くした。

 

「お前がか」

「隠れ蓑に使われるのが私なら、何のための隠れ蓑かくらい知っておきとうございます」

 

土田御前が、そこで初めてはっきりと頷いた。

 

「その通りです」

 

上総介兄上は、少しだけ肩を竦める。

 

「母上までそう申すか」

「申しますとも」

 

お市は、そのやり取りを見て、胸の内で静かに思った。

 

この家は、やはり動いている。

昔のように、誰かが一方的に決めて終わる形ではない。

重い盤を、それぞれが見て、それぞれの持ち場で受けている。

 

そしてその盤の中に、自分もとうとう入ったのだ。

 

「では」

土田御前が言った。

「段取りは整えて参りましょう」

 

上総介兄上が頷く。

 

勘十郎兄上も静かに一礼した。

 

お市は、その一座を見渡した。

 

兄上。

母上。

そして見えぬところで盤を進めている治部大輔殿。

 

きっと、あの方は今ごろ、墨俣のことばかり考えているのだろう。

婚礼を告げられた時に、それを言い出したのだから。

 

「……本当に」

お市は、誰にも聞こえぬほど小さく思った。

「あとで、きっちり伺わねばなりませぬね」

 

だがその胸の内に、嫌悪はなかった。

 

困った方だとは思う。

頭が上がらなくなるのも、本当だろう。

それでも、その困った方が、自分との婚礼まで含めて本気で先を見ているのだと思えば、不思議と腹は据わる。

 

清洲の夜は、静かに更けていく。

 

婚礼と築砦。

姫と戦。

家と国。

 

その全部が、いま同じ盤の上で動いていた。

 

 

その報せは、墨俣の段取りを詰めている最中に来た。

 

木下藤吉郎へ渡す寸法見本の話。

川並衆へどう口を入れるか。

剣匙の試作をどこの鍛冶へ振るか。

材木をどの長さで揃えれば現地で組みやすいか。

頭の中は、そのあたりで埋まっていた。

 

だから最初、父上に呼ばれた時も、墨俣の件で何か戻しが来たのだろうと思った。

 

「治部大輔」

父上――左衛門佐信張は、いつものように余計な前置きをしなかった。

「お市殿が、婚姻を承諾なされた」

 

その一言で、頭の中の材木が全部吹き飛んだ。

 

「……は」

 

情けない声が出た。

 

桶狭間で義元の首を前にした時でも、もう少しましな返事が出来た気がする。

 

父上は、そんな俺を見ても特に助け舟は出さない。

むしろ少し面白がっている節すらある。

 

「上総介様より、正式に話が通った。土田御前もご承知。勘十郎殿も異存なし」

 

そこまで揃っているなら、もう盤は決している。

 

お市殿。

同腹の姫。

本家中枢の血。

その方が、承諾なされた。

 

胸の内で、何かが重く鳴る。

 

嬉しくないわけがない。

ありがたくないわけがない。

だが、それと同じくらい、胃のあたりが妙に冷える。

 

父上は、そこでわざと一拍置いた。

 

「ただし」

 

来た。

 

何か来る。

 

「お市殿は、あとで話はきっちり伺う、とのことだ」

「…………」

 

今度こそ、本当に言葉が出なかった。

 

父上の目が、少し細くなる。

笑っているのではない。

だが、完全に憐れんでもいない。

要するに、息子の自業自得を親の立場から眺めている顔だ。

 

「どうした」

「……父上」

「何だ」

「それは」

「うむ」

「かなり、お怒りでは」

 

父上は鼻を鳴らした。

 

「怒りだけなら、まだ楽だろう」

「では」

「呆れ半分、納得半分、あとは“まず本人から聞く”ということだ」

 

それが一番怖い。

 

ただ怒鳴られるなら、まだ分かりやすい。

だが、お市殿のような方が静かに「伺います」と来られると、それは逃げ場がない。

 

俺はしばし黙り込んだ。

 

婚礼。

お市殿。

承諾。

墨俣。

隠れ蓑。

あとで話はきっちり伺う。

 

頭の中で、その言葉だけが妙に何度も回る。

 

父上は、そこでようやく少しだけ口元を緩めた。

 

「自分で言い出したことだ」

「ごもっともにございます」

「上総介様も、勘十郎殿も、その場にはおられぬそうだ」

「…………ごもっともにございます」

「土田御前も、たぶん助けては下さるまいな」

「父上」

「何だ」

「もう少し、せめて少し言い方を柔らかくして下さいませ」

「十分に柔らかくしておるつもりだが」

 

そこで、さすがに父上も少しだけ笑った。

 

俺は深く息を吐いた。

 

喜びはある。

本当にある。

それでも今は、嬉しさが前へ出るより先に、「どう詫びる」が立ってしまう。

 

まったく、我ながらひどい。

 

婚礼を告げられた場で、即座に「だったら墨俣に砦を築きましょう」と返したのだ。

言った時は名案だと思った。

実際、策としては悪くない。

だが、それを受ける側の姫からすれば、たまったものではあるまい。

 

「……何か」

 

気付けば、そんな声が漏れていた。

 

父上が眉を動かす。

 

「何か、では」

「埋め合わせにございます」

 

父上は、露骨に呆れた顔をした。

 

「埋め合わせで済む話なら、世はもっと平らだ」

「分かっております」

「なら何だ」

 

そこで、俺は本気で考え込んだ。

 

絹。

珍品。

香。

書。

いや違う。

どれも悪くはない。

だが、それでは「分かっておりませぬね」で終わる気がする。

 

お市殿は、ただ豪華なものを渡せば済む方ではない。

しかも今回は、本家中枢の姫としての婚礼そのものを隠れ蓑に使うとこちらから言ったのだ。

ならば、謝るだけでは弱い。

何か、ちゃんと「この人は本気で先を見ているのだ」と伝わるものが要る。

 

その時、ふと頭の中に前世の知識が閃いた。

 

「……地球儀」

「は?」

 

父上が、珍しく間の抜けた声を出した。

 

俺は、しかしそこから一気に形が見えた。

 

「婚礼祝いに、地球儀でも造ろう!」

 

父上が完全に黙った。

何を言っているのだこいつは、という沈黙だった。

 

だが俺の頭の中では、もうぐるぐる回り始めている。

 

丸い球。

海と陸。

南蛮渡来の知。

帰蝶様もおられる。

上総介様は絶対こういうものが好きだ。

お市殿も、ただの飾りではなく「世界はこうなっている」と見える品なら、むしろ面白がって下さるかもしれない。

少なくとも、絹反物よりは俺らしい。

いや俺らしいって何だ。

だが他にない。

 

「きっと喜んでくれるはず!」

 

父上が、ようやく口を開いた。

 

「……お前は」

「はい」

「少し青くなったかと思えば、すぐそういう妙な方へ走るな」

「走っているのではございませぬ。これは挽回策にございます」

「挽回になるかどうかは、お市殿が決めることだ」

「ごもっともにございます」

 

だが、俺はもう半分本気だった。

 

地球儀だ。

もちろん、今の時代の知識だけで正確無比とはいかぬ。

だが南蛮由来の知見と、前世知識を混ぜれば、それなりの形には出来る。

丸い世界を手元に置く。

それは婚礼祝いとしても、悪くない。

少なくとも「婚礼を隠れ蓑に使われた姫への埋め合わせ」としては、並の細工物よりずっとましだと思えた。

 

父上は、そんな俺の顔をしばらく見て、やがて静かに言った。

 

「まあよい」

「はい」

「そういう妙なことを、本気で形にしてしまうところが、お前の良くも悪くも厄介なところだ」

「褒め言葉として受け取ってよろしいので」

「勝手にしろ」

 

そこで話は一度切れた。

 

だが、地球儀という言葉が頭へ入ってしまうと、もう止まらない。

 

誰に作らせる。

木地は。

球をどう削る。

彩色は。

海の青は何で出す。

文字は和漢で書くか、一部南蛮文字を混ぜるか。

台座は。

回せるようにするか。

 

考えれば考えるほど、妙に本気になってくる。

 

後日。

 

その案が、どういう巡りかお市殿の耳へも入った。

 

婚礼の段取りについての小さな打ち合わせで、俺はまだ正面から地球儀の話を出す勇気が出ず、少し遠回しにしていたのだが、どうも兄上――上総介兄上の方が先に面白がって口を滑らせたらしい。

 

お市殿は、静かに俺を見ておられた。

 

「治部大輔殿」

「は」

「婚礼祝いに、地球儀とかいうものを造ろうと考えておられるとか」

 

逃げ場はなかった。

 

「……はい」

 

お市殿は、ほんの少しだけ目を細められた。

 

怒っておられるのか。

呆れておられるのか。

測り切れない。

 

「それは」お市殿が言う。

「私を喜ばせるためにございますか」

 

「もちろんにございます」

 

「それとも」

そこで、声がほんの少しだけ柔らかくなった。

「ご自分が作ってみたいだけにございますか」

 

痛いところを突かれた。

俺は、少しだけ息を止めたあと、正直に言った。

 

「……両方にございます」

 

お市殿は、それを聞いて本当に小さく笑われた。

 

その笑いで、胸のあたりの緊張が少しほどける。

 

「上総介兄上が大喜びです」

「でしょうな……」

 

思わず、そう返してしまった。

 

上総介兄上が喜ぶ顔は、容易に浮かぶ。

絶対に面白がる。

「よい、作れ」と言うに決まっている。

 

お市殿は、そこで静かに続けられた。

 

「兄上は、ああいう“まだ誰も持っておらぬもの”がお好きですから」

「はい」

「そして治部大輔殿も、そういうところがおありなのでしょうね」

 

その言い方に、責める色はなかった。

 

むしろ、ようやく少し分かってきた、というような響きがあった。

 

「ただし」

 

やはり来た。

 

「はい」

「婚礼を隠れ蓑に墨俣築砦を、というお話は、後日きっちり伺います」

「……承知致しました」

「地球儀は、その後で拝見致しましょう」

「はい」

 

お市殿は頷かれた。

 

「楽しみが先にあれば、少しは穏やかに聞けるやもしれませぬ」

 

それは助け舟なのか、そうではないのか、判じ難いところだった。

たぶん両方だろう。

 

俺は深く頭を下げた。

 

「お心遣い、痛み入ります」

 

お市殿はそこで、ほんの少しだけ目を和らげられた。

 

「治部大輔殿」

「は」

「私を隠れ蓑に使うのであれば、それに見合うだけの砦をお築きなさい」

 

その一言で、腹の底が静かに締まる。

 

冗談ではない。

本気の言葉だ。

 

「必ず」

 

そう答えると、お市殿は静かに頷かれた。

 

婚礼。

墨俣。

地球儀。

頭を下げる未来。

 

その全部が、もう笑い話と本気の境目を越えて、一つの盤の上に並んでいた。

 

そして俺はたぶん、本当にしばらく、お市殿に頭が上がらないのだろう。

 

それでも悪くない、と少しだけ思えたのは、我ながら救いようがないかもしれなかった。

 

 

その夜の座敷は、いつもより人が多かった。

 

上総介兄上。

土田御前。

勘十郎兄上。

お市殿。

お犬殿。

父上――左衛門佐信張。

 

そこへ俺が、妙な道具を持ち込んだ。

 

丸い毬。

蝋燭。

それから、片側だけへ光が抜けるよう、小さく囲いを立てた灯り台。

紙と木で急ごしらえした、いわば光の向きを絞る細工だ。

 

座へ運び込んだ時点で、もうお犬殿が目を丸くしていた。

 

「治部大輔殿」

「は」

「何を始めるおつもりなのですか」

「婚礼祝いの前段にございます」

 

それだけ言うと、上総介兄上が面白そうに笑う。

 

「よい。始めよ」

 

勘十郎殿は呆れたようでもあったが、止めはしない。

土田御前は「また始まりましたね」という顔で、しかしちゃんと見ておられる。

お市殿は静かに座しているが、その目はもう道具へ向いていた。

 

俺はまず、毬を手に取った。

 

「先日申し上げた、“丸い世界図”にございますが」

 

お市殿が頷かれる。

 

「世界が毬のような形をしている、というお話でしたね」

 

「はい」

俺は毬を両手に乗せた。

「無論、この世を見下ろして確かめた者はおりませぬ。されど、見えるものを一つ一つ合わせてゆけば、平らな板より、丸い毬として考える方が筋の通ることがございます」

 

上総介兄上がすぐ食いつく。

 

「その“筋の通ること”を見せるわけか」

「は」

「よい」

 

この人は本当にこういう話が好きだ。

 

俺は灯り台の囲いを整えた。

蝋燭の炎が四方へ散らぬよう、後ろと横を紙張りの板で囲い、前へだけ強く光が抜けるようにしてある。

 

勘十郎兄上が、そこで初めて口を開いた。

 

「ずいぶん妙な灯りだな」

「一方向へだけ光を向けたいのでございます」

「太陽のつもりか」

「さようにございます」

 

そう答えると、上総介兄上が喉で笑った。

 

「いよいよ面白い」

 

俺は、座敷の中央へ毬を置いた。

 

その少し離れた位置に、蝋燭の光を向ける。

部屋の灯りは少し落としてある。

だから、毬の片側だけが明るくなり、反対側へゆるやかに影が落ちるのがはっきり見えた。

 

「まず、これをご覧下され」

全員の目が集まる。

「太陽の光が、平らな板へ落ちるなら」

 

俺は手近の盆を横へ置いた。

 

「影は、おおよそ同じ調子で切れるはずにございます」

次に、毬を示す。

「ですが、丸いものへ一方向から光を当てると、明るいところと暗いところが、このようにゆるく分かれます」

 

お犬殿が、思わず少し身を乗り出した。

 

「ほんに、境が丸うございますね」

「はい」

「板のように、すぱっと切れぬのですね」

 

「ええ」

俺は頷いた。

「この“明るい方と暗い方の分かれ方”が、まず丸いものの影にございます」

 

土田御前が静かに言われた。

 

「それが、空と地の話にどう繋がるのです」

 

待っていた問いだった。

 

「月食にございます」

 

俺は答える。

 

上総介兄上の目が、さらに冴える。

 

「ほう」

 

「月が欠ける時、月へ落ちる影は丸うございます」

俺は毬を少し動かしながら、光の当たり方を見せた。

「もし地が平たい板のようなものなら、いつもこう丸い影ばかりが出るのは不自然にございます。されど、地が毬のように丸いなら、どこから光が当たっても、このように丸い影になりやすい」

 

勘十郎兄上が、そこで少しだけ目を細めた。

 

「……なるほどな」

 

お市殿は、じっと毬の影を見ておられる。

さっきまで半信半疑だった目が、今は完全には笑っていない。

 

「では」

お市殿が静かに問われた。

「船が下から見えなくなる、というのも」

 

「同じ理にございます」

俺は毬をもう少し高く持ち上げ、指でなぞった。

「平たいところを遠ざかるなら、ただ小さくなるだけです。されど丸いところを向こうへ行くなら、まず下の方から隠れてゆく」

 

お犬殿が「なるほど……」と小さく呟く。

 

上総介兄上はもう、完全に面白がっている顔だ。

 

「よい、続けよ」

 

俺は毬をそのまま回した。

 

「次に、昼と夜にございます」

光の当たる側を示す。

「こちらが昼」

 

反対側を示す。

 

「こちらが夜」

 

「それは分かる」と上総介兄上。

 

「ですが」

俺は少し毬を傾けた。

「こう、少し傾けて回ると」

 

光の当たり方が少し変わる。

 

「ある時は、こちら側で昼が長くなり、ある時は夜が長くなる」

 

勘十郎兄上が、そこで身を少し前へ出した。

 

「春分、秋分、夏至、冬至か」

「はい」

「太陽がぐるぐる妙に動く、と考えるより、地が丸く、しかも少し傾いておると考える方が、昼夜の長さの違いを説明しやすうございます」

 

父上が、そこでようやく小さく息をついた。

 

「……お前は、こういうことをどこで思いつく」

「たまに妙なことを考えるのでございます」

「妙で済ませてよい話ではないな」

 

呆れておられるのだが、否定はしていない。

 

むしろ父上のこういう声色は、「理は通っている」と認めている時のものだ。

 

土田御前が、少しだけ首を傾げて毬を見た。

 

「それほど丸いものなら、なぜ皆、下へ落ちずにおられるのです」

 

そこは、当然来る。

俺も一拍だけ置いた。

 

「そこは、まだ某も理屈の果てまで申せませぬ」

正直に言った。

「ですが、少なくとも空と海の見え方、月の影、昼夜の長さの違い――そうしたものは、平らな板より、この毬の方がずっと筋が通ります」

 

土田御前は、その答えに頷かれた。

 

全部は言い切らぬ。

だが、言い切れるところまではちゃんと示す。

その態度は悪くない、と見て下さったのだろう。

 

お市殿は、まだ毬を見ておられた。

 

やがて静かに言う。

 

「世界とは、こんな形をしているのですか」

 

その問いは、先日のものと同じようで、少し違っていた。

今度は、ただ疑っているのではない。

目の前に理が示された上で、なお確かめる問いだ。

 

「某は、そのように考えております」

 

お市殿は、ゆっくりと頷かれた。

 

「信じられませぬ、と申し上げましたが」

「はい」

「いまは、信じ切れぬが、まるきり戯言とも思えませぬ」

 

それで十分だった。

 

上総介兄上が、そのやり取りを聞いてとうとう大きく笑った。

 

「よい! やはり面白い!」

 

お犬殿がくすりとする。

 

「兄上、すっかりお気に入りにございますね」

 

「当たり前だ」

上総介兄上は毬を指さした。

「空や海の見え方を、一つの球でまとめて見せるか。しかも婚礼祝いにこれを作るつもりだったのであろう」

 

「は」

「よい!」

 

そこでお市殿が、静かにこちらへ目を向けられた。

 

「治部大輔殿」

「は」

「婚礼祝いとしては、確かに見たこともない品です」

「恐れ入ります」

「ただし」

 

やはり来る。

 

「はい」

「これほど兄上が大喜びなさると、もはや私への贈り物か、兄上への贈り物か分かりませぬね」

 

部屋の空気が一瞬止まり、次の瞬間、上総介兄上がまた大笑いした。

 

「ははは!」

 

勘十郎兄上でさえ、さすがに口元を隠した。

土田御前は「まったく」という顔をしつつも、目に少し笑みがある。

父上も、横を向いて小さく息を吐いている。

たぶん笑いを噛み殺しているのだ。

 

俺は、さすがに少しだけ言葉に詰まった。

 

「……その」

 

お市殿は、ほんの少しだけ口元を緩められた。

 

「もちろん、私も拝見致します」

 

それは助け舟だった。

だが、完全な赦しではない。

その塩梅が、お市殿らしい。

 

「ですが」また来る。

「婚礼を隠れ蓑に墨俣築砦、のお話は、これとは別にきっちり伺います」

 

「……承知致しました」

「地球儀――いえ、丸い世界図は、その後で」

「はい」

 

上総介兄上が、まだ笑いを引きずりながら言う。

 

「治部大輔」

「はっ」

「お前、まずお市へ渡せ。その後でわしが見る」

「兄上」

 

お市殿がすぐに兄を見られる。

 

上総介兄上はなお笑っている。

 

「何だ」

「順を違えないで下さりませ」

「分かっておる、分かっておる」

 

まるで分かっていない顔だった。

 

そのやり取りを見て、俺は胸の内で少しだけ思った。

 

ああ、この方々の前でこうして話が出来るなら、まだ何とかなるかもしれぬ、と。

 

婚礼は重い。

墨俣はもっと重い。

だが、ただ重いだけで押し潰れるのではなく、こうして理と笑いを交えて受け止められるなら、盤は前へ進む。

 

お市殿は、最後にもう一度だけ毬と影を見られた。

 

「……丸い世界、ですか」

 

その声は小さかったが、先ほどまでとは違っていた。

 

知らぬものを、ただ拒む声ではない。

まだ完全には信じぬ。

だが、自分の手で触れてみたいと思う声だ。

 

それで十分だ、と俺は思った。

 

婚礼祝いの品としても、悪くない。

少なくとも、ただの珍物ではなくなった。

 

そしてたぶん、本当にしばらく、上総介兄上はこの話を飽きもせず蒸し返すのだろう。

 

そこまで考えて、少しだけ頭が痛くなった。

 

 

 

 

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