織田家の嫡子~藤左衛門家の特異点 作:デトロ!開けろイト市警だ!
清洲の一角、普段は雑具や作事道具の見分に使う庭先へ、その日は妙な顔ぶれが揃っていた。
上総介兄上。
勘十郎兄上。
柴田権六勝家。
木下藤吉郎。
そして俺。
ただの鍬や鋤を見せるだけなら、ここまで人は集まらぬ。
だが今日は違う。
墨俣で使うための新しい掘削具――剣匙の試作品を見せる場だ。
話だけでは足りぬ。
形にして、見せて、土へ入れて、ようやく人は納得する。
ことに、権六の親父殿や勘十郎兄上のような手合いには、言葉より先に道具そのものが理を語らねばならない。
庭先には、既に土を盛った場所が二つ用意してあった。
一つには普通の鍬。
もう一つには、鍛冶に急がせた試作品が三本立ててある。
木柄は短め。
先鉄は幅広だが、鍬のように横へ広がりすぎてはいない。
先端は丸めず、剣の切っ先のように薄く研いである。
刺し込み、土を切り、抉り、掬う――その全部を一つで出来るよう寄せた形だった。
上総介兄上が、それを見るなり言った。
「これか」
「は」
「お主の申しておった、妙な道具とやらは」
「妙かどうかは、見て頂ければ分かりまする」
勘十郎兄上は、もう試作品の傍へ寄っている。
「名は何と申した」
「剣匙にございます」
「剣匙」
「はい」
権六殿が腕を組み、鼻を鳴らした。
「鍬でも鋤でもなく、匙か」
そこで、俺は一本手に取った。
「匙とは申しますが、先を丸くしてはおりませぬ」
勘十郎兄上が眉を動かす。
「なぜだ」
「硬い地へ食い込ませるには、丸い先では弱いからにございます」
俺は先端を示した。
「先が丸ければ、土へ当たった時に滑ります。ことに踏み固めた地、石混じりの地、急場の築砦で掘るような土には向きませぬ」
上総介兄上が、少しだけ口元を上げた。
「ゆえに、剣か」
「は」
俺は頷く。
「剣のように幅広で、先を立てました。突き込み、土を切り、抉り、そして掬う。そのための形にございます。ゆえに、剣の匙――剣匙にございます」
藤吉郎が、にやりとした。
「なるほど。名も、見れば分かる」
権六殿が試作品を覗き込む。
「鍬ほど広くなく、槍ほど尖り過ぎてもおらぬな」
「左様にございます」
「つまり、土へ入れるための“剣”か」
「さように見て頂ければ」
上総介兄上が言う。
「よい。まず見せよ」
「は」
俺は、まず普通の鍬を持たせた。
庭先の土は、軽すぎぬよう少し踏み固め、水もほどほどに打ってある。
見栄えだけでなく、現場に近い感触を残したかった。
鍬は当然ながら掘れる。
だが横幅がある分、どうしても振りが要る。
狭い場所では扱いづらい。
人が横並びに密集して刻むような掘り方には、少し向かぬ。
その様子を一通り見せてから、今度は剣匙を持った。
「こちらをご覧下され」
先を土へ突き込む。
ぐっと体重を掛ける。
細く立てた切っ先が、鍬よりも素直に土へ入る。
そのまま柄を少し捻れば、土が割れて浮く。
さらに一歩ずらして同じことを繰り返すと、狭い幅の穴筋が短い手数で出来ていく。
勘十郎兄上が、すぐにしゃがみ込んで土の切れ目を見た。
「浅く見えて、思ったより切れているな」
「はい。深く広く一度に取る道具ではございませぬ。狭く、速く、同じ動きを繰り返すためのものにございます」
上総介兄上が愉快そうに言う。
「つまり、人足がよほど手練れでなくとも、似たように掘れるか」
「そうとも申せます」
藤吉郎が横から入る。
「おお、それは大きゅうございますな」
やはりそこへ食いつく。
「誰か一人の名人芸で進むより、十人二十人が同じ手つきで穴を刻めた方が、墨俣のような急場では強うございます」
権六殿が鼻を鳴らす。
「並の手を揃える道具か」
「左様にございます」
今度は勘十郎兄上が、自分で一本手に取った。
重さを量る。
柄の太さを確かめる。
先鉄のつき方まで見ている。
そして何も言わずに、自ら土へ突き込んだ。
一度。
二度。
三度。
そのまま少し脇へずれて、同じように突き込む。
「……なるほど」
立ち上がって、そう言った。
「鍬ほど大きく動かさずに済む」
「はい」
「人が並んで掘る時、肘が触れにくい」
「そこが肝にございます」
俺は頷いた。
「急場の柵穴、柱穴、浅い溝、そういったものを短時間で刻むには、横へ広い道具よりこちらが向きます」
上総介兄上が、もう待ち切れぬように一本取った。
「貸せ」
「は」
こういう時の上総介兄上は早い。
試すとなれば、すぐ自分でやる。
ざく、と一突き。
二突き。
そのあと、ぐっと柄を返す。
浮いた土が、思ったより素直に割れる。
「ほう」
今度の「ほう」は深かった。
「これは面白い」
「ありがとうございます」
「鍬より地味だが、早いな」
「派手に見せる道具ではございませぬ」
「墨俣向きだ」
その一言で、かなりのところまで決まった。
藤吉郎が、もう我慢できぬとばかりに手を出す。
「某にも」
「どうぞ」
藤吉郎は受け取ると、まず重さを測り、それから手首を返した。
「……軽いようで、先はきちんと土を食いますな」
「そう作らせました」
「柄が短めなのもよろしい。振り回すのではなく、刻むのですな」
「はい」
藤吉郎はそこで、もう半分先へ行っていた。
「これなら人足へ渡しても、すぐ使わせられます。しかも狭いところで横並びに突かせやすい」
「その通りにございます」
だが、ここで終わらせては剣匙の半分しか見せていない。
俺は一本を持ち直した。
「もう一つ、肝がございます」
権六殿が言う。
「まだあるか」
「はい」
俺は先鉄を軽く掲げた。
「急場では、武器代わりになります」
そこは、はっきり空気が変わった。
上総介兄上の目が細くなる。
勘十郎兄上も、今度は完全に実戦道具として見始めた。
「武器代わり、か」と、上総介兄上。
「は」
俺は頷く。
「墨俣のような突貫築砦では、人足と兵の境が曖昧になります。掘っている最中に敵が来ることもございましょう。その時、人足が丸腰では一度で崩れます」
権六殿が、そこで低く唸った。
「たしかに」
「ですが、これなら手放さず、そのまま突けます。専用の槍には及びませぬ。太刀ほど斬れもせぬ。されど、丸腰よりは遥かにましにございます。応援が辿り着くまでの一呼吸、二呼吸を稼ぐには十分かと」
そう言って、俺は庭先の立て木へ向けて一突き入れた。
先鉄が食い込み、樹皮を裂く。
それを見て、権六殿の目の色が変わる。
「よい」
短く、そう言った。
「人足がこれを持っておれば、いきなり襲われても手ぶらでは済まんな」
「はい」
「しかも掘っていた道具をそのまま使える」
「そこが肝にございます」
藤吉郎が、そこで強く頷いた。
「よろしい。掘れて、土も寄せられて、いざとなれば突ける。現場はこういうのを喜びます」
勘十郎兄上が静かに言う。
「他にはどうだ」
俺はすぐ答えた。
「洗えば湯を沸かしたり、食べ物を焼いたりする程度の鍋代わりにはなりましょう」
今度は、上総介兄上が本当に声を立てて笑った。
「ははっ!」
「掘れて、煮えて、突けるか」
「荷は軽い方がよろしいので」
「実にお主らしい」
そこまで言われると、もはや褒められているのか呆れられているのか分からぬ。
たぶん両方だ。
権六殿が、試作品を地へ突き立てたまま言う。
「治部大輔」
「は」
「これはよい。妙な細工ではあるが、戦場へ持って行って初めて値打ちが分かる類だ」
「恐れ入ります」
「俺が前に立つ時は、これも持って来い」
「承知」
上総介兄上がすぐに応じる。
「権六」
「はっ」
「墨俣の大将は任せる」
「承知」
「藤吉郎」
「へい」
「川並衆、材木、そしてこの剣匙だ。人足の段取りまで含めて回せ」
藤吉郎の目が、ぎらりと光る。
「お任せを」
「勘十郎」
「はい」
「数と口の締まりを見よ。こういう細工は、広まれば広まるほど弱くなる」
「承知しております」
そこで、上総介兄上は最後にこちらを見た。
「治部大輔」
「はっ」
「材木を揃え、川を流し、剣匙まで打たせるか」
口元が上がる。
「婚礼の隠れ蓑で墨俣、というだけでも大概だが、そこへまた一つ妙な道具を足す」
「妙で済めばようございますが」
「済まぬな」
上総介兄上は、そうはっきりと言った。
「面白い」
その一言で、庭先の空気が決まった。
剣匙は、採用されたのだ。
ただの思いつきではなく、墨俣築砦の手の一つとして。
藤吉郎が、試作品をもう一度見ながら言う。
「治部大輔殿」
「何でござる」
「丸い世界図も大したものでございましょうが」
そこへ来るか、と少しだけ思う。
「まずは、この剣匙でございますな」
「それは、まったくその通りにございます」
「いやあ、ようございます。順が分かっておられる」
上総介兄上がそれを聞いて、また笑った。
「まずは墨俣だ」
「は」
「丸い世界図は、その後だ」
「承知致しました」
そう答えながら、俺は庭先へ立てられた試作品を見た。
細い。
無骨だ。
だが、こういうものが盤を動かす。
婚礼。
墨俣。
川並衆。
規格材木。
剣匙。
全部が、もう一つの戦の道具として噛み合い始めていた。
♢
木下藤吉郎が本当に恐ろしいのは、物事を面白がる速さではない。
面白がったものを、そのまま仕事へ変えてしまう速さだ。
墨俣築砦の話が上総介兄上の前で定まったその日から、藤吉郎はもう止まらなかった。
川並衆。
規格材木。
剣匙。
人足の段取り。
婚礼の支度に紛らせる荷の動かし方。
一つ一つを別々に考えていては遅い。
だからあの男は、最初から全部を同時に走らせた。
「まず川並衆じゃ」
清洲を出てから、まだ半日と経っていない頃には、もうそう言っていた。
脇に控えるのは、木下小一郎。
それに蜂須賀小六。
どちらも藤吉郎にとっては、細部を回すには欠かせぬ手だ。
小六が胡乱げに言う。
「まず、ってこたぁ、他にも山ほどあるんだろうが」
「山ほどあるから、まず、じゃ」
藤吉郎は歩みを止めぬまま答える。
「あのう、川並衆を先に押さえんと話にならん。材木を上から流すにせよ、下で拾うにせよ、川を自分の手足みたいに知っとる連中が要る」
小一郎が静かに言う。
「材木の寸法も揃えねばなりませぬ」
「そこも同時じゃ」
藤吉郎は指を折るように言う。
「まず、見本を作る。長さはこれ、太さはこれ、柱に回す分、渡しに使う分、柵に使う分、だいたい三つに分ける。全部が全部ぴたり同じでのうてもええ。けど、だいたい揃っとらんと現地で泣くのはこっちじゃ」
小六が鼻を鳴らす。
「“だいたい揃える”が、一番面倒なんだわ」
「そこを面倒がらん連中へ振るんじゃろうが」
藤吉郎は、にやっと笑った。
「山側には山側で木を切る手がある。川側には川側で流す手がある。どっちにも“婚礼の支度で要る木”やと言えば、まあ通る」
小一郎がわずかに目を上げる。
「本当に婚礼の陰で砦が建立ちますな」
「建てるんじゃ」
藤吉郎の声は軽い。
だが軽いだけではない。
もう頭の中で、どこに誰を置くかまで決まっている声だ。
その足で、まず川並衆へ口を入れる。
川筋を知る者たちは、最初こそ探るような目をした。
だが藤吉郎は、そこを変に誤魔化さぬ。
「治部大輔殿とお市殿との婚礼の支度がある。大きい仕事じゃ」
そう切り出してから、声を少し落とす。
「そして、その陰で、もっと大きい仕事がある」
川並衆の古株の一人が目を細める。
「どれほどの」
「墨俣じゃ」
そこで空気が変わった。
川を知る者ほど、墨俣の厄介さを知っている。
ただ近いからどうこうではない。
運ぶ。
隠す。
揃える。
建てる。
逃がす。
その全部に川が絡む。
藤吉郎は、そこへさらに剣匙を出した。
「これも増やす」
古株が眉を寄せる。
「何だ、こりゃ」
「剣匙」
「けん、し?」
「突いて掘って抉って掬える。洗えば湯も沸かせる。急場じゃ突いて敵を追い払える」
川並衆の男たちが、順にそれを手に取る。
無骨だ。
だが手に持てば分かる。
使い道が一つではない。
こういうものは、現場の人間ほど早く分かる。
「なるほどな」
「鍬ほどかさばらん」
「舟に積むにも悪くねえ」
「急場で手放さんで済むのもいい」
そこまで言わせれば、もう半分勝ちだ。
藤吉郎は、畳み掛ける。
「材木を流す。下で拾う。剣匙を配る。穴を刻む。婚礼の荷に紛らせる。お前さんらは川を押さえろ。あとはこっちが人を揃える」
古株が腕を組む。
「織田は、ようそんなことを考える」
「織田が考えたっちゅうより」
そこで藤吉郎は、妙に可笑しそうな顔をした。
「治部殿が考えなすった」
その一言で、何人かの顔が変わる。
治部大輔信繁。
桶狭間での義元の首。
西美濃三人衆。
鵜沼。
お市殿との婚姻
もうその名は、川筋の者にまで届いている。
小六が横でぼそりと言う。
「またあの若殿か」
「また、や」
藤吉郎は肩を竦めた。
「変わったお人じゃと思っておったが、自分の結婚式より砦づくりじゃと」
そこへ、小一郎が静かに続ける。
「しかも、その婚礼を隠れ蓑に使うのですから」
藤吉郎は、そこでとうとう笑ってしまった。
「ほんまになあ!」
川並衆の前だというのに、声を抑え切れぬ。
「変わったお人じゃと思っておったが、こないなもんまで考えるとはのう!」
小六が、半ば呆れ、半ば面白がって言う。
「若殿のくせに、やることが年寄り臭えというか、山師臭えというか」
「どっちもや」
藤吉郎は即答した。
「首は取る、姫はもらう、そのうえで砦まで建てる。しかも“材木は同じ寸法で切って川へ流せ”やぞ。普通、そこまでいっぺんに考えるか」
小一郎が小さく笑う。
「ですが兄者、そこへ乗っているのもまた兄者です」
「そうなんじゃよ」
藤吉郎は片手で額を押さえた。
「乗るしかないくらい、筋が通っとるのが腹立つ」
川並衆の古株が、それを聞いて喉で笑った。
「面白え若殿じゃな」
「面白いどころやない」
藤吉郎は試作品の剣匙をくるりと回した。
「こういうのを思いつくだけやのうて、ちゃんと“誰に何をさせるか”まで見て話を持ってきよる。怖いわ」
その「怖い」は、悪い意味ではなかった。
むしろ、やり手を見た時の本音に近い。
話が通るや否や、仕事は一気に細かくなった。
どの川筋から、どの長さの木を出すか。
誰の船に、どの荷をどう分けるか。
剣匙の先鉄はどの鍛冶へ何本ずつ振るか。
柄木は現地近くでも合わせられるようにするか、それとも先にある程度削っておくか。
縄は。
杭は。
婚礼道具の荷と見分けがつきにくい包み方は。
藤吉郎は、それを次々に決めていく。
小一郎は横で抜けを拾う。
小六は川側の現実へ落とす。
川並衆は「それなら出来る」「それは無理だ」と即座に返す。
そのやり取りの中で、墨俣はまだ影も形もないのに、少しずつ立ち上がっていく。
まるで婚礼支度の荷に紛れて、別の城が生まれ始めているようだった。
夕方近く、ようやく一息入れた時だった。
藤吉郎が、筵の上へ大の字になりかけて、途中でやめた。
「いかんいかん」
小六が笑う。
「何だよ」
「ここで寝たら、そのまま誰かに踏まれる」
小一郎が、静かに湯を差し出す。
藤吉郎はそれを受け取り、ふうっと息をついた。
「しかしまあ」
誰にともなく言う。
「治部殿は、自分の結婚式より砦づくりじゃ」
小六が吹き出す。
「まだ言うか」
「言うわ」
藤吉郎は真顔で続けた。
「普通なら、婚礼やで? しかもお市殿が相手じゃ。若いもんは浮かれるやろ。上総介兄上の同腹の妹御やで? こっちは腰抜かしてもおかしない話や」
「それを墨俣の隠れ蓑にしよう、だからな」と小六。
「ほんまにな」
藤吉郎は、しみじみと頷いた。
「変わったお人じゃと思っておったが、こないなもんを考えるとはのう」
小一郎が穏やかに言う。
「ですが、だからこそ皆、乗るのでしょう」
藤吉郎は湯を飲み、空を見た。
「……せやな」
婚礼の裏で、砦が建つ。
材木が流れ、剣匙が増え、人足が集まり、川並衆が動く。
そしてその全部の起こりに、治部大輔信繁という若武者がいる。
「怖いお人や」
今度の声は、笑い半分ではなかった。
本気でそう思っている声だった。
「怖いけど、よう出来とる。なら、やるしかあらへん」
小六が頷く。
「やるしかねえな」
小一郎もまた、静かに頷いた。
その時にはもう、婚礼の陰で墨俣が立ち上がることは、ほとんど既定の流れになっていた。
まだ誰の目にも砦は見えぬ。
だが、材木も、鉄も、人も、もう動いている。
城は、こうしてまだ見えぬうちから生まれるのだと、藤吉郎はよく知っていた。
♢
清洲の城中は、婚礼の気配で浮き立っていた。
お市殿の婚儀。
それだけで、奥は華やぐ。
反物が運ばれ、衣の相談が始まり、台所では祝い膳の試しまで動く。
表の者とて、その空気に無関係ではいられぬ。
上総介兄上の同腹の妹君の婚礼となれば、誰しも少しは顔を上げ、声を潜め、しかし目は弾む。
そういう時こそ、隠したいものは動かしやすい。
見たいものが大きいほど、人はそれ以外を見落とすからだ。
俺はその浮き立つ城中を抜け、奥の一間へ通された。
座には、すでに上総介兄上と勘十郎兄上がいる。
いつものように、評定ほど大仰ではない。
だが、ただの思いつきを持ち込んでよい場でもない。
俺は深く頭を下げた。
「治部大輔にございます」
上総介兄上が口元を少し上げる。
「婚礼の支度で城が浮いておるな」
「は」
「その顔は、何か思いついた顔だ」
さすがに鋭い。
だが、ここで躊躇しても意味はない。
「材木と剣匙を、婚礼支度の荷に紛らせて動かす件にございます」
勘十郎兄上が静かに言う。
「うむ。続けよ」
「婚礼準備で城中が浮き立つ今なら、材木や剣匙の荷は紛れ込ませやすうございます。ですが、それだけでは敵もいずれ気付きましょう」
上総介兄上が目を細める。
「では、どう目を逸らす」
そこへ来ると思っていた。
「犬山にございます」
座の空気が、わずかに締まる。
「犬山」と上総介兄上。
「はい」
俺は頷いた。
「犬山から鵜沼を抜ける形で、織田勢が攻めると噂をばら撒きます」
勘十郎兄上がすぐに問う。
「噂だけでは弱いな」
「はい。ですので、下野守様に犬山城から軍勢を出たり入ったりして頂く」
上総介兄上の眉がわずかに上がる。
「下野守を使うか」
「は」
俺は答える。
「実際に目に見える動きがあれば、境目の者どもはそちらへ目を向けます。数は多くなくて構いませぬ。出る、戻る、また出る。荷も少し添える。それだけで“犬山筋で何か始まる”と噂は勝手に育ちましょう」
勘十郎兄上は、そのまま次を問う。
「どこまで明かす」
そこも肝だ。
「犬山筋に圧を見せたい、までは申し上げる。墨俣は伏せるべきかと」
上総介兄上が笑う。
「全部は言わぬか」
「下野守様は味方にございます。ですが、知る者は少ない方がよろしゅうございます」
勘十郎兄上が小さく頷いた。
「よい」
そして少しだけ視線を落とす。
「犬山から鵜沼を抜ける筋なら、敵も“次はそこだ”と思いたがる」
「まさにそこにございます」
俺は続ける。
「西美濃三人衆がこちらへ寄り、鵜沼も寝返った今、美濃側は“織田の次は東寄りを狙う”と見たいはずです。ならば、その見たい先を少し押してやれば、目はそちらへ流れます」
上総介兄上が、そこで喉で笑った。
「嘘を作るというより、相手が信じたがる方へ押すわけか」
「左様にございます」
「悪くない」
勘十郎兄上が、さらに詰める。
「下野守殿には、こちらから話を通す」
「は」
「だが、兵を出入りさせるだけでよい。実攻めの気配を見せ過ぎるな。本当に犬山筋が本命だと思わせ過ぎれば、今度は敵の構えが厚くなる」
「承知しております」
ここはやはり、この人が締めると早い。
噂は育てる。
だが、育ちすぎれば逆に重くなる。
その加減は勘十郎兄上の見方が強い。
上総介兄上が、脇息に肘を乗せたまま言う。
「治部大輔」
「は」
「犬山で目を引く。その裏で墨俣へ材木と剣匙を集める」
「その形にございます」
「婚礼支度で城中は浮く」
「は」
「そこへ犬山の噂まで走れば、皆そちらを見るな」
「少なくとも、時間は稼げます」
「うむ」
上総介兄上はしばらく黙っていた。
その黙り方は、案を飲み込む時のそれだ。
やがて、静かに口を開く。
「よい」
その一言で、半ば決まる。
「やってみよ」
やはり来る。
この人は、最後はそこへ踏み込ませる。
だが勘十郎兄上は、いつものようにもう一段置く。
「ただし」
「は」
「犬山へ話を通す文言は、こちらで整える。下野守殿に余計な気を回させるな。あくまで“見せるための出入り”だと分かるようにしつつ、墨俣は伏せる」
「承知にございます」
「材木は」
「上流より、出来る限り同じ寸法にて切り出し、川を下らせます」
「剣匙は」
「先鉄の形を揃えて量産。柄は現地でも合わせられます」
勘十郎兄上は頷く。
「婚礼の荷と混ぜるのだな」
「はい」
そこで上総介兄上が、少し楽しそうに言う。
「お市の婚礼で城中が華やぐ」
「は」
「その陰で、見えぬ砦が墨俣へ集まるか」
「左様にございます」
上総介兄上の目が冴える。
「よい。実に、よい」
その“よい”は、今回かなり深かった。
今川治部大輔の首。
西美濃三人衆。
鵜沼。
そして今度は、婚礼の華やぎと犬山の陽動を重ねて墨俣へ道具を集める。
ここまで来れば、もうただの若武者の働きではない。
上総介兄上は言う。
「首を取る時は前へ出る」
「は」
「人を動かす時は裏を使う」
「は」
「お主、だいぶ面白くなってきたな」
「ありがたき幸せ」
そう返したが、胸の内ではまだ少しだけ苦かった。
婚礼は婚礼だ。
お市殿はお市殿だ。
それを隠れ蓑に使うと言い出したのは自分だ。
その重みを忘れてはいない。
たぶん、それが顔に出たのだろう。
勘十郎兄上が、ふとこちらを見た。
「治部大輔」
「は」
「婚礼の話と、墨俣の話は別に軽くするな」
「心得ております」
「よろしい」
短い。
だが十分だった。
上総介兄上が、そこで少しだけ笑う。
「お市は承知しておる」
「は」
「ただし、あとで話はきっちり伺う、とのことだ」
「…………」
やはり来るか、と心のどこかで思いながらも、顔には少し出たらしい。
上総介兄上が面白そうに見ている。
勘十郎兄上も、さすがにほんのわずか口元を動かした。
「何だ、その顔は」と上総介兄上。
「いえ」
「お前、自分で言い出しておいて、そこは青くなるのだな」
「当然にございます」
そう答えると、上総介兄上はとうとう笑った。
「よい。なお良い」
勘十郎兄上が淡々と言う。
「まずは犬山へこちらから話を通す」
「は」
「その上で、材木と剣匙を動かせ。婚礼の表向きが華やかであるほど、裏は深くなる」
「承知」
「下野守殿が兵を出したり入れたりすれば、噂は勝手に育つ。境目の市と寺へ耳が走れば、それで足りる」
「はい」
「慶次郎と助右衛門は動かすな」
そこも、その通りだった。
「お前の武辺が見えれば、今度は本当に“何かある”と構えられる」
「承知にございます」
上総介兄上が最後に言った。
「犬山で目を引く。墨俣へ集める。婚礼で城中は浮く」
一語ずつ置く。
「よい」
そして、もう一度。
「やれ」
そこまで来れば、あとは動かすだけだ。
俺は深く頭を下げた。
「はっ」
障子の外へ出ると、城中はまだ華やいでいた。
女中たちの足音。
奥から聞こえる低い笑い声。
婚礼支度の気配。
その裏で、川には材木が流れ、鍛冶場では剣匙が増え、犬山では兵が出たり入ったりする。
見えるのは婚礼。
聞こえるのは犬山。
だが、本当に集まっているのは墨俣だ。
見えぬ砦が、もう動き始めている。
俺は廊の先に差す夕の光を見ながら、小さく息を吐いた。
いよいよだ、と思う。
婚礼も。
墨俣も。
どちらも、もう止まらぬ。
♢
犬山では、下野守信清がきっちりと“見せるための動き”を続けていた。
朝に兵が出る。
昼に半分戻る。
夕にまた別の組が出る。
荷駄もわずかに動く。
それを見た者が、勝手に口を走らせる。
「犬山から鵜沼へ抜けるらしい」
「西が靡いたから、今度は東を締めるのだろう」
「いや、そのまま美濃へ押し込む気かもしれん」
噂というのは、誰かが断言するより、
“どうもそうらしい”
の方がよほど強い。
その陰で、材木は川を下っていた。
上流で寸を揃えて切られた木が、婚礼支度の荷に紛れるように少しずつ流される。
受ける川並衆もまた、いかにもな顔はしない。
拾い、分け、また流す。
舟の動きは普段より少し忙しいが、婚礼のある時分なら、それだけで怪しみ切る者は少ない。
剣匙も増えていた。
鍛冶場では、農具の補修や台所道具の注文に混じる形で、あの奇妙な先鉄が少しずつ打たれる。
一度に何十本も出さぬ。
婚礼に合わせて城中の用が増えている、その中へうまく埋め込んでいく。
そうした動きを、本当に一つの流れへ束ねていたのが、木下藤吉郎だった。
川並衆への口入れ。
材木の寸法見本。
どの木をどこで切るか。
どの舟へ何を乗せるか。
剣匙の先鉄をどの鍛冶へ振るか。
現地で柄を合わせる段取り。
全部を同時に走らせる。
普通なら、どこかで手が止まる。
だが藤吉郎は止めない。
止めぬまま、次から次へと人へ渡し、言葉を刻み、段を揃えていく。
墨俣へ入る少し手前の仮置き場で、柴田勝家はその様子を見ていた。
権六は現場の重しとしてここへ来ている。
大将というのは、槍を取って先へ出るだけの役ではない。
人足が浮つかぬようにし、兵が緩まぬようにし、いざ何かあれば最後に場を押し切るための重みでもある。
その勝家の前で、藤吉郎は一息もつかずに動いていた。
「あの束は川へ回せ」
「いや、それは違う、柱筋の分と柵筋の分を混ぜるな」
「剣匙は先鉄だけ先に寄せろ、柄木は現地で合わせた方が早い」
「縄は乾いたのと湿ったのを分けろ、濡れた方を下へ置くな」
「婚礼荷に見せる包みはこっちや、そっちはあからさまや」
言っていること自体は細かい。
細かいが、全部が繋がっている。
勝家は腕を組んだまま、小六へ訊いた。
「藤吉郎は、いつもああか」
蜂須賀小六が、口元を少し歪めた。
「だいたいああですわ」
「口ばかりの男には見えぬな」
「兄者はああななりですので、口ばかりではあそこまで人を動かせまへん」
横で木下小一郎も静かに言う。
「段を付けるのが上手うございます」
勝家は、その言葉を聞いて小さく頷いた。
たしかにそうだ。
藤吉郎は、自分で全部を抱え込んでいるように見えて、実は抱え込んでいない。
誰が何をやるかを先に決めて、その上で自分は詰まりそうなところへ顔を出す。
兵を振るう武辺とは違う。
だが、だからといって軽いわけでもない。
むしろ、こういう場では槍働きよりよほど厄介だ。
勝家は、材木の束を一つ見やった。
寸は完全一致ではない。
だが、目で見てすぐ分かるくらいには揃っている。
現地で泣かずに済む揃え方だ。
そこへ剣匙の先鉄が届き、人足が配され、舟筋まで乱れず回っている。
「……治部大輔の目もたいしたものだが」
勝家がぽつりと言う。
「はい」と小一郎。
「これを回す役に藤吉郎を当てたのは、当たりか」
小六が笑った。
「それを藤吉郎に言うたら、しばらく機嫌よう働きますわ」
「別に本人へ言わずともよい」
そう言いながらも、勝家の目は藤吉郎から離れなかった。
しばらくして、藤吉郎がこちらへ気付いて駆け寄ってきた。
「権六様」
「何だ」
「材木の渡しは今のところ予定通りでございます。剣匙の先鉄も、今夜中にもう一束届きましょう」
「うむ」
「ただ、川並衆の舟を一艘、もう少し浅瀬向きのものへ替えたい」
「なぜだ」
「今のままやと、夜目に川縁へ寄せる時に少し音が出過ぎます」
勝家は、そこでほんの少しだけ目を上げた。
そこまで見るか、と思ったのだ。
「替えられるのか」
「替えさせます」
即答だった。
自信ではなく、もう手が打ってある声だ。
「その上で、人足の飯も少し刻みを変えます。今のままやと腹が減る刻と作業の山がずれとる」
勝家は、そこでとうとう鼻で笑った。
「お前」
「へい」
「よく見ておるな」
藤吉郎が一瞬だけ目を丸くした。
たぶん、権六からそういう褒め方をされると思っていなかったのだろう。
だが勝家は続けた。
「口が回るだけの男なら、わしは好かぬ」
藤吉郎は黙る。
「だが、お前は違う。人も、荷も、飯の刻まで見ておる。こういう仕事は、槍働きの勢いだけでは回らぬ」
小六が、横で少しだけ得意そうな顔をした。
小一郎は表情を変えぬが、目だけ少し和らぐ。
藤吉郎は、ようやく頭を下げた。
「恐れ入ります」
「恐れ入るだけで終わるな」
勝家は低く言う。
「その目を、墨俣が立つまで切らすな。途中で一つでも気を抜けば、木も鉄も人も、みな敵へくれてやることになる」
「心得ております」
その返事に、軽さはなかった。
勝家は頷いた。
「よし」
そして、少しだけ口元を動かす。
「治部大輔も、使う相手をよう見ておる」
その言葉は、藤吉郎にも、小六にも、小一郎にも重かった。
勝家が認めた。
それは、単に気分を良くするだけの話ではない。
この現場が、ただの妙案の寄せ集めではなく、戦の筋として通っている証でもあった。
藤吉郎は、頭を上げて少しだけ笑った。
「権六様にそう申されると、働かんわけには参りませぬな」
「最初から働け」
「へい」
その返しに、周りで小さな笑いが落ちる。
だが、空気は緩み切らない。
緩めてよい場ではないからだ。
犬山では、まだ兵が出たり入ったりしている。
境目では、犬山から鵜沼へ抜けるらしいという噂が育っている。
婚礼準備で清洲は浮いている。
その陰で、材木と剣匙が墨俣へ集まり続ける。
見えているのは婚礼。
聞こえるのは犬山。
だが、本当に立ち上がろうとしているのは墨俣の砦だ。
勝家は、その気配を感じながら、もう一度だけ藤吉郎を見た。
「藤吉郎」
「へい」
「よい働きだ」
今度は短く、それだけ言った。
藤吉郎は深く頭を下げる。
小六が脇でぼそりと呟く。
「こりゃ、藤吉郎め、今夜は寝んでも働きますわ」
「もともと寝る気はあらへん」
と、藤吉郎。
だが、その声はたしかに弾んでいた。
使える者の価値を、分かる者に分かられる。
それはやはり、働きの燃え方を変える。
そしてそれは、墨俣のような現場では確かな力になる。
♢
その夜の川は、妙に黒かった。
月は出ている。
だが、明るすぎるほどではない。
材木を流し、舟を寄せ、人を動かすにはちょうどよい。
見えぬわけではない。
かといって、遠目に何もかもが白々と知れるほどでもない。
墨俣の岸は、昼の顔をしていなかった。
普段なら、ただの川縁だ。
水の音があり、葦があり、泥がある。
人が立てば足を取られ、物を積めば沈み、城を築くなど正気の沙汰とは思えぬ場所に見える。
だからこそ、ここに立つ。
誰もが「まさか」と思うところへ、先に“居る”と示せば、盤は一気に傾く。
最初の舟が寄った時、木下藤吉郎はもう岸にいた。
「急げ、でも慌てるな!」
声は大きい。
だが、ただ怒鳴っているのではない。
誰に何をさせるかが、その声の中で既に分かれている。
「柱筋はこっちや! 渡しは向こう! 同じ寸のやつを混ぜるな!」
「剣匙、先に配れ! 柄ぇ差したらすぐ掘れるようにしろ!」
「縄濡らすな! 乾いたのを上へ回せ!」
人足が走る。
川並衆が舟を押さえる。
材木が岸へ渡る。
剣匙の先鉄に柄木が差され、縄で締められ、次の瞬間にはもう人の手にある。
その少し奥で、柴田勝家が立っていた。
動かぬ。
細かい指図もしない。
だが、この人が立っているだけで場が締まる。
浮つく者が減り、声が一本芯を通す。
大将の働きとは、ああいうものだ。
勝家が低く言った。
「藤吉郎」
「へい!」
「早いな」
「早うせんと、夜が逃げます」
「夜は逃げぬ」
「人の気ぃが逃げるんでございます」
勝家の口元が、わずかに動いた。
「違いない」
その短いやり取りの間にも、岸では穴が刻まれ始めていた。
剣匙が土へ突き込まれる。
ざく、ざく、と短く乾いた音が続く。
鍬よりも横へ振らぬ分、狭い場所に人が並べる。
一人が突く。
隣も突く。
そのまた隣も突く。
柄を返して土を割り、抉り、足で寄せる。
名人芸ではない。
だが、同じ手が並ぶ。
それが強い。
「もっと深う!」
「浅いと柱が浮く!」
「次の組、そこ代われ!」
藤吉郎の声が飛ぶ。
小一郎が抜けを拾う。
小六が川筋の流れを見て、次にどの舟を寄せるか決める。
材木は、揃っている。
完全に寸分違わぬわけではない。
だが、見本に合わせて切られているから、現地で泣くほど狂わない。
だからこそ、受け取った端から渡せる。
穴が掘れたところへ、すぐ柱が立つ。
柱が立てば、次の横木が来る。
横木が入れば、縄が掛かる。
縄が掛かれば、もう“ただの木の山”ではない。
見えぬ砦が、少しずつ形になる。
俺が岸へ着いた時には、もう最初の列が立っていた。
墨俣の川風は冷たい。
だが現場は熱を持っている。
人が多いからではない。
段取りが噛み合っているからだ。
「治部大輔殿」
振り向くと、藤吉郎だった。
額も首も汗だ。
だが目だけは冴えている。
「材木、第一の分は入りました」
「早いな」
「揃うと早うございます」
その声には、本気の実感があった。
「剣匙も働いとります。鍬やと横へ広がって詰まるところを、あれやと人が並びやすい」
「武器には」
「今んところまだ使わんで済んどります」
「それが一番だ」
「へえ。ですが、持たせとるだけで人足の顔が違います」
それは分かる。
丸腰で夜の築砦に立つのと、手元に突けるものがあるのとでは、腹の据わり方が違う。
そこへ、勝家が来た。
「治部大輔」
「は」
「あの道具、よい」
短い。
だが、それで十分だ。
「恐れ入ります」
「人足が止まらぬ。しかも、手を離さずそのまま次へ移れる」
「墨俣向きにございます」
「うむ」
勝家は、出来上がり始めた列を見た。
「藤吉郎もよう回しておる」
「はい」
「お前、使う相手を見る目があるな」
その言葉は、重かった。
桶狭間で首を取ったこととも、西美濃三人衆ともまた違う種類の評価だ。
人を置く目。
それを、この人に認められるのは大きい。
俺は深く頭を下げた。
「ありがたき幸せ」
その時、少し離れたところでざわめきが起きた。
皆が一瞬、身構える。
だが敵襲ではない。
単に、二本目の列が思ったより早く立ったのだ。
「おお……」
誰かが、思わず声を漏らす。
夜目にも分かる。
さっきまでただの泥と水だった場所に、もう“線”が出ている。
柱が並び、横木が渡り、柵の気配が立つ。
まだ城ではない。
だが、砦だ。
もう誰が見ても、ただの作事ではない。
「見え始めたな」
と、勝家。
「はい」
「こうなると早い」
それもその通りだ。
築砦というのは、何もないうちが一番心細い。
だが一度、目に見える骨が立つと、人の手も心も一気に乗る。
“出来る”と分かるからだ。
藤吉郎が、遠くへ怒鳴った。
「そこ、縄張れ! 柱立ったら次を待つな、渡せるもんは先に渡せ!」
「小一郎! 次の束は!」
「もう来ます!」
「小六! 川は!」
「今のうちならもう一艘寄せられる!」
全部が、止まらない。
婚礼の陰で流れた材木。
鍛冶場で増えた剣匙。
犬山へ向いた噂。
それらが全部、この夜のためにあったのだと分かる。
俺は川の方へ目をやった。
まだ舟影がある。
つまり、まだ来る。
砦はまだ太る。
「治部大輔殿」
今度は、小一郎だった。
「何だ」
「権六様より、外の見張りを少し厚くしたいとのことです」
「もっともだ」
「犬山へ目は向いておるでしょうが、近くで何か気付く者がおらぬとも限りませぬ」
「慶次郎と助右衛門は」
「もう外へ回しております」
やはり早い。
表へは出さぬ。
だが、こういう時の即応には使う。
最初から決めていた通りだ。
「よし」
そう答えた時、不意に、岸の手前で誰かが笑った。
喜びというより、昂ぶりに近い笑いだ。
「立つぞ!」
「ほんに立つ!」
「墨俣に城が立つぞ!」
その声が、夜気を震わせる。
まだ“城”と呼ぶには早い。
だが、人はもうそう言いたくなる。
何もなかった場所に、目に見える形が起ち上がる時というのは、そういうものだ。
勝家が、その声を聞いて低く言った。
「浮かれるな、と言いたいところだが」
「はい」
「今夜くらいは、少し浮かれてもよいか」
俺は思わず少しだけ笑った。
「その分、手が速ければ」
「違いない」
勝家も、ほんのわずか口元を緩めた。
そこへ、また一束の材木が届く。
剣匙が土へ入る。
柱が立つ。
縄が鳴る。
声が飛ぶ。
見えぬ砦は、もう見え始めていた。
そして一度見え始めたものは、もう止まらぬ。
夜の墨俣で、川風の中に木と土の匂いが混じる。
その匂いを嗅ぎながら、俺は胸の内で静かに思った。
婚礼も、もう戻らぬ。
砦も、もう戻らぬ。
ならば、どちらも立て切るだけだと。
墨俣の“一夜城”は、こうして本当に生まれ始めていた。
♢
夜明けは、誰にも平等に来る。
だが、何を照らし出すかは平等ではない。
美濃側の見張りが最初に異変へ気付いたのは、空がまだ白み切る前だった。
川霧が薄く残っている。
犬山筋を気にしていたせいか、見張りの目も最初はそちらへ向いていた。
実際、ここしばらくの噂は皆そうだった。
犬山から兵が出る。
鵜沼へ抜けるらしい。
西が靡いた今、東を締める気だろう――。
だから、最初の見え方は少し遅れた。
川霧の向こうに、何か“線”がある。
岸辺の木立ではない。
舟でもない。
昨日までそこに無かった、まっすぐな線だ。
見張りの一人が、目を擦った。
「……何だ、あれは」
隣の男も目を凝らす。
霧が、少しだけ流れる。
そこでようやく、線は線でなくなった。
柱。
横木。
柵。
土の盛り上がり。
「おい」
声が裏返る。
「おい!」
今度ははっきりと叫んだ。
「墨俣だ!」
その一声で、まだ眠気の残っていた空気が一気に裂けた。
何人もが駆け寄る。
目を凝らす。
そして、同じものを見る。
砦だった。
一夜で、とは誰も思いたくない。
昨日まであそこは、何もないただの川縁だったはずだ。
泥と葦と、足を取る岸だけのはずだった。
そこへ、今は明らかに人の手が入った形がある。
「馬鹿な」
「何でだ」
「犬山ではなかったのか」
そこが一番大きい。
皆の目は、犬山へ向いていた。
噂も、兵の出入りも、鵜沼筋の圧も、全部そちらを指していた。
だから、墨俣は“まさかそこまでは”という場所に留まっていた。
その“まさか”が、夜のうちに形になってしまった。
見張りの一人が、歯噛みするように言う。
「騙された……」
だが、騙されたと気付いた時には、もう遅い。
騙しはただの噂ではなかった。
噂の裏で、本当に材木が集まり、本当に人が動き、本当に砦が立った。
だからこそ、この朝の衝撃は重い。
城中へ報せが走る。
「墨俣に織田の砦!」
「本当にございます!」
「犬山ではございませぬ!」
「いや、犬山も動いてはおりました!」
「では、両方か!」
「違う、違う、犬山は目くらましだ!」
その混乱自体が、もう大きな勝ちだった。
敵が一番嫌うのは、兵の損害だけではない。
自分が何を見誤ったかを、朝一番で突きつけられることだ。
「犬山へ目を向けていた」
「その裏で墨俣に砦を築かれた」
「婚礼で浮き立っていると見ていた織田が、婚礼の陰でここまでやった」
その全部が、一度に腹へ落ちる。
腹へ落ちるからこそ、心が冷える。
その頃、墨俣の砦では、夜通しの作事を終えた者たちが、まだ完全には気を緩めていなかった。
夜が明ければ、敵にも見える。
見えた時が、本当の始まりだ。
川霧の向こうでざわめきが立つのを、最初に見たのは慶次郎だった。
「来たな」
柵の脇で、にやりとする。
助右衛門が低く言う。
「気付かれたか」
「気付かれなきゃ困る」
慶次郎は、いかにも楽しそうだ。
そのすぐ後ろで、藤吉郎はもう次の指図を飛ばしていた。
「縄締め直せ! 見えたから終わりやない、見えてからが砦や!」
「剣匙持っとる連中、手放すな! 今からは掘るだけやのうて守る刻や!」
「飯、今のうちに回せ! 腹減った顔で朝を迎えるな!」
夜を越えたことで、剣匙の価値も少し変わる。
夜の間は、掘るための道具だった。
朝からは、掘れて、そのまま持って突ける道具になる。
人足も兵も、そのことを分かっている。
だから手放さぬ。
勝家は、砦の前へ出て川向こうを見た。
まだ敵は近くない。
だが、ざわめきの広がり方で分かる。
見えた。
そして慌てている。
「よい」
小さく、そう言った。
近くにいた俺へ目をやる。
「治部大輔」
「は」
「勝ったな」
それは、戦そのものに勝ったという意味ではない。
盤面ごとひっくり返した、という意味だ。
「はい」
俺は頷いた。
「少なくとも、朝一番の目は奪いました」
「犬山へ向いていた目を、墨俣へ無理やり引き戻した」
「左様にございます」
勝家は、少しだけ口元を緩めた。
「よい」
短い。
だが、その一言は重い。
そこへ藤吉郎が、汗と泥だらけのまま駆け寄ってきた。
「見えましたな!」
「ああ」
「犬山筋の噂を信じ切ってくれとった分、効きましたわ」
息を切らしながらも、目は冴えている。
「“まさか墨俣”が、そのまま建っとる。あれは効きます」
「だろうな」
「しかも、うちは婚礼で浮き立っとると思うとったはずです」
そこへ、小六が笑い混じりに加わる。
「花嫁の陰で城が建つたぁ、向こうも思わねえわな」
「思わんから、やるんじゃ」と藤吉郎。
その言葉には、疲れより先に仕事の昂ぶりがあった。
俺は川向こうを見た。
確かに、騒ぎは広がっている。
伝令が走る。
兵が集まる。
誰もが「なぜだ」と顔に書いている。
なぜだ。
その答えは、もうこちらにはある。
婚礼で城中が浮き立つ。
犬山で目を引く。
噂が走る。
その裏で、材木と剣匙が墨俣へ集まる。
それが一夜で形を持つ。
答えはある。
だが、分かってしまえば手遅れなのだ。
そこへ、もう一報が入った。
「犬山筋、美濃方が兵を少し戻した由!」
藤吉郎が、思わず笑う。
「ほれ見い!」
「犬山が本命と思うとった目ぇを、慌ててこっちへ戻しよった」
「だから遅れる」
「だから砦が建つ」
全部が、噛み合っている。
その瞬間、俺は少しだけ遠くの清洲を思った。
上総介兄上は、たぶん笑っているだろう。
勘十郎兄上は、静かに頷いているだろう。
お市殿は――どうだろう。
婚礼の陰で、本当に砦が立ったと聞けば、呆れ半分、納得半分かもしれぬ。
だが少なくとも、隠れ蓑にするならそれに見合う砦を築け、という言葉には、これでようやく半分くらいは応えられた気がした。
「治部大輔殿」
藤吉郎が、少しだけ声を落とした。
「何だ」
「婚礼の陰でここまで建てば、言い訳は少し楽になりますな」
思わず、少しだけ笑った。
「半分だけ、だろう」
「そらもう」
藤吉郎も笑う。
「残り半分は、あとでお市様にきっちり聞かれる分でございます」
「やめろ」
「事実にございます」
そこへ勝家が低く言う。
「馬鹿を申すな」
二人が口を閉じる。
「砦は建った。だが、これで終わりではない」
「は」
「見えた以上、ここからが守りだ。浮かれるのは、もっと後でよい」
その一言で、現場の熱がまた締まり直す。
そうだ。
夜明けは勝ちでもあるが、同時に始まりでもある。
見えぬ砦は、もう見えた。
ならば次は、見えた砦を本当に持たせる段だ。
それでも。
朝の光の中で、昨日まで無かったはずの線が、木と土の形で立ち上がっているのを見ると、胸のどこかが確かに熱くなる。
墨俣に、本当に砦がある。
美濃側の目は、犬山からひっくり返された。
婚礼の華やぎは、そのまま軍略の幕になった。
剣匙は土を切り、必要ならそのまま命を守る。
その全部が、いま目の前に立っている。
夜明けは平等だ。
だが、その朝に何を見るかは、もう決して平等ではなかった。
墨俣の“一夜城”は、こうして敵の認識を一夜で塗り替えたのだった。
♢
その報せが清洲へ着いたのは、まだ朝の気配が城中へ残っている頃だった。
婚礼支度で、奥は早くから動いている。
女中の足音。
運ばれる反物。
台所の火。
華やいだ空気は、まだ消えていない。
だからこそ、その中へ飛び込んできた「墨俣に砦、成る」の一報は、妙に冷たく、鋭く響いた。
上総介兄上は、その文を受け取ると一度だけ目を通した。
西美濃三人衆の帰順。
鵜沼。
犬山の陽動。
川並衆。
規格材木。
剣匙。
そして、墨俣。
そこまで積み上げてきたものが、本当に一夜で形になったのだと、その文は告げていた。
上総介兄上の口元が、ゆっくり上がる。
「よし」
低く、短い一言だった。
だが、それで十分だった。
側に控えていた勘十郎兄上が、兄の手元の文へ目を落とす。
目を通す時間は長くない。
必要なところだけ読めば、もう分かる。
「建ちましたか」
「建った」
上総介兄上の声には、笑いが混じっている。
「犬山へ向いていた目を、そのままひっくり返しおった」
勘十郎兄上は静かに頷いた。
「見たい筋を見せておいて、見えぬところへ本命を通す」
そして、ほんの少しだけ目を細める。
「これで婚礼の隠れ蓑も、本当に意味を持ちましたな」
その言葉は、軽くなかった。
婚礼を隠れ蓑にする。
それ自体は、言うだけならいくらでも言える。
だが実際に、婚礼の華やぎが敵の認識を鈍らせ、その陰で砦が立ったなら、それはもう単なる思いつきではない。
意味を持った。
まさに、そういうことだった。
上総介兄上は、満足そうに文を畳んだ。
「材木は流れ、剣匙は働き、犬山は目を引いた」
「はい」
「そして朝には墨俣に砦がある」
上総介兄上は、そこで喉で笑った。
「面白い」
勘十郎兄上は兄ほど表へは出さぬ。
だが、その顔には確かな納得があった。
「婚礼準備で城中が浮き立つ」
勘十郎兄上が言う。
「誰もがそちらへ目を取られる」
「うむ」
「その裏で、兵と荷と人足が動く」
「うむ」
「犬山がさらに目を引く」
「うむ」
勘十郎兄上はそこで文を静かに置いた。
「ここまで揃って、初めて“隠れ蓑”になります」
そこが大きい。
婚礼を言い訳に使っただけではない。
婚礼の華やぎそのものを、実際に敵の認識をずらす幕として機能させた。
だからこそ、この婚礼隠れ蓑案は本物になった。
上総介兄上は少しだけ天井を見上げた。
「あやつ」
「はい」
「本当に、自分の婚礼まで使いおった」
その声は、呆れと愉快が半ばずつだった。
勘十郎兄上も、わずかに口元を緩める。
「しかも、使っただけでなく、きちんと砦まで建てて見せた」
「うむ」
「そこまで行けば、もう文句は言えませぬな」
「言えるのは、お市くらいだろう」
その一言に、さすがに勘十郎兄上も少し笑った。
「それは、そうですな」
上総介兄上は、そこで改めて文を指先で叩いた。
「よい」
また、その一言だった。
だが今度の「よい」は深かった。
義元の首。
西美濃。
鵜沼。
墨俣。
婚礼。
全部が一つの盤へまとまっている。
しかも、ただ思いついただけではなく、実際に立っている。
上総介兄上にとって、それは十分すぎる答えだった。
「これで」
上総介兄上が、静かに言う。
「治部大輔へお市をやることも、ただの褒美ではなくなった」
勘十郎兄上は黙って聞いている。
「武で取り」
「はい」
「政で寄せ」
「はい」
「婚礼すら盤の中へ置いて、その上で砦を建てる」
上総介兄上の目が細くなる。
「同腹の妹を結ぶに足る」
そこまで言い切ると、もう迷いはなかった。
勘十郎兄上もまた、その言葉を否定しない。
「左兵衛佐殿への立て方と、又六郎の置き方」
「うむ」
「そこも、これでいよいよ詰めるべきですな」
「分かっておる」
盤はもう、そこまで進んでいる。
治部大輔信繁という若武者の話では終わらない。
藤左衛門家。
又六郎。
お市。
本家中枢。
全部が同じ盤へ乗っている。
上総介兄上は、そこでふっと笑った。
「お市には、どう言おうかの」
「何と申されます」
「“お前の婚礼、きちんと役に立ったぞ”でどうだ」
「兄上」
勘十郎兄上が、さすがに少し呆れた声を出す。
「それは、あとで治部大輔が更に困るだけでしょう」
「違いない」
上総介兄上は、今度は本当に楽しそうに笑った。
だがその笑いの奥には、棟梁としての冷静さも残っている。
「まずは、墨俣を持たせる」
「はい」
「その上で婚礼だ」
「はい」
「順を違えるな」
上総介兄上はそう言って、弟を見た。
勘十郎兄上は、やはりすぐ頷く。
「分かっております」
その返しは、今回は本当に分かっている顔だった。
そこへ、廊の向こうで少しだけ衣擦れの音がした。
奥方の側の動きだろう。
婚礼支度の気配は、まだ続いている。
その華やぎと、いま兄弟の前にある砦の報せが、奇妙なほどきれいに同じ朝の中へ並んでいた。
勘十郎兄上が、静かに言う。
「兄上」
「何だ」
「これで、お市があとで治部へ何を言うか、少し楽しみになって参りました」
上総介兄上は、そこでまた口元を上げた。
「お前までそう言うか」
「これだけのことをしておいて、何も言われぬと思う方が無理にございます」
「違いない」
兄弟の間に、小さな笑いが落ちる。
和解済みのいま、その笑いは昔より自然だ。
だが、内容の重さは軽くない。
婚礼。
隠れ蓑。
砦。
全部が本当に繋がってしまった。
上総介兄上は最後にもう一度だけ、文を見た。
「墨俣に、本当に砦がある」
その言葉を、少し味わうように口の中で転がす。
「よい朝だ」
勘十郎兄上は静かに頷いた。
「はい。よい朝です」
婚礼の華やぎの中へ、戦の形がきちんと立ち上がった朝。
それは、ただ勝ったというだけではない。
織田の盤が、確かに次の段へ入った朝だった。