織田家の嫡子~藤左衛門家の特異点   作:デトロ!開けろイト市警だ!

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014墨俣の一夜城

清洲の一角、普段は雑具や作事道具の見分に使う庭先へ、その日は妙な顔ぶれが揃っていた。

 

上総介兄上。

勘十郎兄上。

柴田権六勝家。

木下藤吉郎。

そして俺。

 

ただの鍬や鋤を見せるだけなら、ここまで人は集まらぬ。

だが今日は違う。

墨俣で使うための新しい掘削具――剣匙の試作品を見せる場だ。

 

話だけでは足りぬ。

形にして、見せて、土へ入れて、ようやく人は納得する。

ことに、権六の親父殿や勘十郎兄上のような手合いには、言葉より先に道具そのものが理を語らねばならない。

 

庭先には、既に土を盛った場所が二つ用意してあった。

 

一つには普通の鍬。

もう一つには、鍛冶に急がせた試作品が三本立ててある。

 

木柄は短め。

先鉄は幅広だが、鍬のように横へ広がりすぎてはいない。

先端は丸めず、剣の切っ先のように薄く研いである。

刺し込み、土を切り、抉り、掬う――その全部を一つで出来るよう寄せた形だった。

 

上総介兄上が、それを見るなり言った。

 

「これか」

「は」

「お主の申しておった、妙な道具とやらは」

「妙かどうかは、見て頂ければ分かりまする」

 

勘十郎兄上は、もう試作品の傍へ寄っている。

 

「名は何と申した」

「剣匙にございます」

「剣匙」

「はい」

 

権六殿が腕を組み、鼻を鳴らした。

 

「鍬でも鋤でもなく、匙か」

 

そこで、俺は一本手に取った。

 

「匙とは申しますが、先を丸くしてはおりませぬ」

 

勘十郎兄上が眉を動かす。

 

「なぜだ」

 

「硬い地へ食い込ませるには、丸い先では弱いからにございます」

俺は先端を示した。

「先が丸ければ、土へ当たった時に滑ります。ことに踏み固めた地、石混じりの地、急場の築砦で掘るような土には向きませぬ」

 

上総介兄上が、少しだけ口元を上げた。

 

「ゆえに、剣か」

 

「は」

俺は頷く。

「剣のように幅広で、先を立てました。突き込み、土を切り、抉り、そして掬う。そのための形にございます。ゆえに、剣の匙――剣匙にございます」

 

藤吉郎が、にやりとした。

 

「なるほど。名も、見れば分かる」

 

権六殿が試作品を覗き込む。

 

「鍬ほど広くなく、槍ほど尖り過ぎてもおらぬな」

「左様にございます」

「つまり、土へ入れるための“剣”か」

「さように見て頂ければ」

 

上総介兄上が言う。

 

「よい。まず見せよ」

「は」

 

俺は、まず普通の鍬を持たせた。

 

庭先の土は、軽すぎぬよう少し踏み固め、水もほどほどに打ってある。

見栄えだけでなく、現場に近い感触を残したかった。

 

鍬は当然ながら掘れる。

だが横幅がある分、どうしても振りが要る。

狭い場所では扱いづらい。

人が横並びに密集して刻むような掘り方には、少し向かぬ。

 

その様子を一通り見せてから、今度は剣匙を持った。

 

「こちらをご覧下され」

 

先を土へ突き込む。

ぐっと体重を掛ける。

細く立てた切っ先が、鍬よりも素直に土へ入る。

そのまま柄を少し捻れば、土が割れて浮く。

さらに一歩ずらして同じことを繰り返すと、狭い幅の穴筋が短い手数で出来ていく。

 

勘十郎兄上が、すぐにしゃがみ込んで土の切れ目を見た。

 

「浅く見えて、思ったより切れているな」

「はい。深く広く一度に取る道具ではございませぬ。狭く、速く、同じ動きを繰り返すためのものにございます」

 

上総介兄上が愉快そうに言う。

 

「つまり、人足がよほど手練れでなくとも、似たように掘れるか」

「そうとも申せます」

 

藤吉郎が横から入る。

 

「おお、それは大きゅうございますな」

やはりそこへ食いつく。

「誰か一人の名人芸で進むより、十人二十人が同じ手つきで穴を刻めた方が、墨俣のような急場では強うございます」

 

権六殿が鼻を鳴らす。

 

「並の手を揃える道具か」

「左様にございます」

 

今度は勘十郎兄上が、自分で一本手に取った。

 

重さを量る。

柄の太さを確かめる。

先鉄のつき方まで見ている。

 

そして何も言わずに、自ら土へ突き込んだ。

 

一度。

二度。

三度。

 

そのまま少し脇へずれて、同じように突き込む。

 

「……なるほど」

立ち上がって、そう言った。

「鍬ほど大きく動かさずに済む」

 

「はい」

「人が並んで掘る時、肘が触れにくい」

 

「そこが肝にございます」

俺は頷いた。

「急場の柵穴、柱穴、浅い溝、そういったものを短時間で刻むには、横へ広い道具よりこちらが向きます」

 

上総介兄上が、もう待ち切れぬように一本取った。

 

「貸せ」

「は」

 

こういう時の上総介兄上は早い。

試すとなれば、すぐ自分でやる。

 

ざく、と一突き。

二突き。

そのあと、ぐっと柄を返す。

 

浮いた土が、思ったより素直に割れる。

 

「ほう」

今度の「ほう」は深かった。

「これは面白い」

 

「ありがとうございます」

「鍬より地味だが、早いな」

「派手に見せる道具ではございませぬ」

「墨俣向きだ」

 

その一言で、かなりのところまで決まった。

 

藤吉郎が、もう我慢できぬとばかりに手を出す。

 

「某にも」

「どうぞ」

 

藤吉郎は受け取ると、まず重さを測り、それから手首を返した。

 

「……軽いようで、先はきちんと土を食いますな」

「そう作らせました」

「柄が短めなのもよろしい。振り回すのではなく、刻むのですな」

「はい」

 

藤吉郎はそこで、もう半分先へ行っていた。

 

「これなら人足へ渡しても、すぐ使わせられます。しかも狭いところで横並びに突かせやすい」

「その通りにございます」

 

だが、ここで終わらせては剣匙の半分しか見せていない。

 

俺は一本を持ち直した。

 

「もう一つ、肝がございます」

 

権六殿が言う。

 

「まだあるか」

 

「はい」

俺は先鉄を軽く掲げた。

「急場では、武器代わりになります」

 

そこは、はっきり空気が変わった。

 

上総介兄上の目が細くなる。

勘十郎兄上も、今度は完全に実戦道具として見始めた。

 

「武器代わり、か」と、上総介兄上。

 

「は」

俺は頷く。

「墨俣のような突貫築砦では、人足と兵の境が曖昧になります。掘っている最中に敵が来ることもございましょう。その時、人足が丸腰では一度で崩れます」

 

権六殿が、そこで低く唸った。

 

「たしかに」

「ですが、これなら手放さず、そのまま突けます。専用の槍には及びませぬ。太刀ほど斬れもせぬ。されど、丸腰よりは遥かにましにございます。応援が辿り着くまでの一呼吸、二呼吸を稼ぐには十分かと」

 

そう言って、俺は庭先の立て木へ向けて一突き入れた。

先鉄が食い込み、樹皮を裂く。

 

それを見て、権六殿の目の色が変わる。

 

「よい」

短く、そう言った。

「人足がこれを持っておれば、いきなり襲われても手ぶらでは済まんな」

 

「はい」

「しかも掘っていた道具をそのまま使える」

「そこが肝にございます」

 

藤吉郎が、そこで強く頷いた。

 

「よろしい。掘れて、土も寄せられて、いざとなれば突ける。現場はこういうのを喜びます」

 

勘十郎兄上が静かに言う。

 

「他にはどうだ」

 

俺はすぐ答えた。

 

「洗えば湯を沸かしたり、食べ物を焼いたりする程度の鍋代わりにはなりましょう」

 

今度は、上総介兄上が本当に声を立てて笑った。

 

「ははっ!」

「掘れて、煮えて、突けるか」

「荷は軽い方がよろしいので」

「実にお主らしい」

 

そこまで言われると、もはや褒められているのか呆れられているのか分からぬ。

たぶん両方だ。

 

権六殿が、試作品を地へ突き立てたまま言う。

 

「治部大輔」

「は」

「これはよい。妙な細工ではあるが、戦場へ持って行って初めて値打ちが分かる類だ」

「恐れ入ります」

「俺が前に立つ時は、これも持って来い」

「承知」

 

上総介兄上がすぐに応じる。

 

「権六」

「はっ」

「墨俣の大将は任せる」

「承知」

「藤吉郎」

「へい」

「川並衆、材木、そしてこの剣匙だ。人足の段取りまで含めて回せ」

 

藤吉郎の目が、ぎらりと光る。

 

「お任せを」

「勘十郎」

「はい」

「数と口の締まりを見よ。こういう細工は、広まれば広まるほど弱くなる」

「承知しております」

 

そこで、上総介兄上は最後にこちらを見た。

 

「治部大輔」

「はっ」

 

「材木を揃え、川を流し、剣匙まで打たせるか」

口元が上がる。

「婚礼の隠れ蓑で墨俣、というだけでも大概だが、そこへまた一つ妙な道具を足す」

 

「妙で済めばようございますが」

 

「済まぬな」

上総介兄上は、そうはっきりと言った。

「面白い」

 

その一言で、庭先の空気が決まった。

 

剣匙は、採用されたのだ。

ただの思いつきではなく、墨俣築砦の手の一つとして。

 

藤吉郎が、試作品をもう一度見ながら言う。

 

「治部大輔殿」

「何でござる」

「丸い世界図も大したものでございましょうが」

 

そこへ来るか、と少しだけ思う。

 

「まずは、この剣匙でございますな」

「それは、まったくその通りにございます」

「いやあ、ようございます。順が分かっておられる」

 

上総介兄上がそれを聞いて、また笑った。

 

「まずは墨俣だ」

「は」

「丸い世界図は、その後だ」

「承知致しました」

 

そう答えながら、俺は庭先へ立てられた試作品を見た。

 

細い。

無骨だ。

だが、こういうものが盤を動かす。

 

婚礼。

墨俣。

川並衆。

規格材木。

剣匙。

 

全部が、もう一つの戦の道具として噛み合い始めていた。

 

 

木下藤吉郎が本当に恐ろしいのは、物事を面白がる速さではない。

 

面白がったものを、そのまま仕事へ変えてしまう速さだ。

 

墨俣築砦の話が上総介兄上の前で定まったその日から、藤吉郎はもう止まらなかった。

川並衆。

規格材木。

剣匙。

人足の段取り。

婚礼の支度に紛らせる荷の動かし方。

 

一つ一つを別々に考えていては遅い。

だからあの男は、最初から全部を同時に走らせた。

 

「まず川並衆じゃ」

 

清洲を出てから、まだ半日と経っていない頃には、もうそう言っていた。

 

脇に控えるのは、木下小一郎。

それに蜂須賀小六。

どちらも藤吉郎にとっては、細部を回すには欠かせぬ手だ。

 

小六が胡乱げに言う。

 

「まず、ってこたぁ、他にも山ほどあるんだろうが」

 

「山ほどあるから、まず、じゃ」

藤吉郎は歩みを止めぬまま答える。

「あのう、川並衆を先に押さえんと話にならん。材木を上から流すにせよ、下で拾うにせよ、川を自分の手足みたいに知っとる連中が要る」

 

小一郎が静かに言う。

 

「材木の寸法も揃えねばなりませぬ」

 

「そこも同時じゃ」

藤吉郎は指を折るように言う。

「まず、見本を作る。長さはこれ、太さはこれ、柱に回す分、渡しに使う分、柵に使う分、だいたい三つに分ける。全部が全部ぴたり同じでのうてもええ。けど、だいたい揃っとらんと現地で泣くのはこっちじゃ」

 

小六が鼻を鳴らす。

 

「“だいたい揃える”が、一番面倒なんだわ」

 

「そこを面倒がらん連中へ振るんじゃろうが」

藤吉郎は、にやっと笑った。

「山側には山側で木を切る手がある。川側には川側で流す手がある。どっちにも“婚礼の支度で要る木”やと言えば、まあ通る」

 

小一郎がわずかに目を上げる。

 

「本当に婚礼の陰で砦が建立ちますな」

「建てるんじゃ」

 

藤吉郎の声は軽い。

だが軽いだけではない。

もう頭の中で、どこに誰を置くかまで決まっている声だ。

 

その足で、まず川並衆へ口を入れる。

 

川筋を知る者たちは、最初こそ探るような目をした。

だが藤吉郎は、そこを変に誤魔化さぬ。

 

「治部大輔殿とお市殿との婚礼の支度がある。大きい仕事じゃ」

そう切り出してから、声を少し落とす。

「そして、その陰で、もっと大きい仕事がある」

 

川並衆の古株の一人が目を細める。

 

「どれほどの」

「墨俣じゃ」

 

そこで空気が変わった。

 

川を知る者ほど、墨俣の厄介さを知っている。

ただ近いからどうこうではない。

運ぶ。

隠す。

揃える。

建てる。

逃がす。

その全部に川が絡む。

 

藤吉郎は、そこへさらに剣匙を出した。

 

「これも増やす」

 

古株が眉を寄せる。

 

「何だ、こりゃ」

「剣匙」

「けん、し?」

「突いて掘って抉って掬える。洗えば湯も沸かせる。急場じゃ突いて敵を追い払える」

 

川並衆の男たちが、順にそれを手に取る。

 

無骨だ。

だが手に持てば分かる。

使い道が一つではない。

こういうものは、現場の人間ほど早く分かる。

 

「なるほどな」

「鍬ほどかさばらん」

「舟に積むにも悪くねえ」

「急場で手放さんで済むのもいい」

 

そこまで言わせれば、もう半分勝ちだ。

 

藤吉郎は、畳み掛ける。

 

「材木を流す。下で拾う。剣匙を配る。穴を刻む。婚礼の荷に紛らせる。お前さんらは川を押さえろ。あとはこっちが人を揃える」

 

古株が腕を組む。

 

「織田は、ようそんなことを考える」

 

「織田が考えたっちゅうより」

そこで藤吉郎は、妙に可笑しそうな顔をした。

「治部殿が考えなすった」

 

その一言で、何人かの顔が変わる。

 

治部大輔信繁。

桶狭間での義元の首。

西美濃三人衆。

鵜沼。

お市殿との婚姻

 

もうその名は、川筋の者にまで届いている。

 

小六が横でぼそりと言う。

 

「またあの若殿か」

 

「また、や」

藤吉郎は肩を竦めた。

「変わったお人じゃと思っておったが、自分の結婚式より砦づくりじゃと」

 

そこへ、小一郎が静かに続ける。

 

「しかも、その婚礼を隠れ蓑に使うのですから」

 

藤吉郎は、そこでとうとう笑ってしまった。

 

「ほんまになあ!」

川並衆の前だというのに、声を抑え切れぬ。

「変わったお人じゃと思っておったが、こないなもんまで考えるとはのう!」

 

小六が、半ば呆れ、半ば面白がって言う。

 

「若殿のくせに、やることが年寄り臭えというか、山師臭えというか」

 

「どっちもや」

藤吉郎は即答した。

「首は取る、姫はもらう、そのうえで砦まで建てる。しかも“材木は同じ寸法で切って川へ流せ”やぞ。普通、そこまでいっぺんに考えるか」

 

小一郎が小さく笑う。

 

「ですが兄者、そこへ乗っているのもまた兄者です」

 

「そうなんじゃよ」

藤吉郎は片手で額を押さえた。

「乗るしかないくらい、筋が通っとるのが腹立つ」

 

川並衆の古株が、それを聞いて喉で笑った。

 

「面白え若殿じゃな」

 

「面白いどころやない」

藤吉郎は試作品の剣匙をくるりと回した。

「こういうのを思いつくだけやのうて、ちゃんと“誰に何をさせるか”まで見て話を持ってきよる。怖いわ」

 

その「怖い」は、悪い意味ではなかった。

むしろ、やり手を見た時の本音に近い。

 

話が通るや否や、仕事は一気に細かくなった。

 

どの川筋から、どの長さの木を出すか。

誰の船に、どの荷をどう分けるか。

剣匙の先鉄はどの鍛冶へ何本ずつ振るか。

柄木は現地近くでも合わせられるようにするか、それとも先にある程度削っておくか。

縄は。

杭は。

婚礼道具の荷と見分けがつきにくい包み方は。

 

藤吉郎は、それを次々に決めていく。

 

小一郎は横で抜けを拾う。

小六は川側の現実へ落とす。

川並衆は「それなら出来る」「それは無理だ」と即座に返す。

 

そのやり取りの中で、墨俣はまだ影も形もないのに、少しずつ立ち上がっていく。

 

まるで婚礼支度の荷に紛れて、別の城が生まれ始めているようだった。

夕方近く、ようやく一息入れた時だった。

 

藤吉郎が、筵の上へ大の字になりかけて、途中でやめた。

 

「いかんいかん」

 

小六が笑う。

 

「何だよ」

「ここで寝たら、そのまま誰かに踏まれる」

 

小一郎が、静かに湯を差し出す。

藤吉郎はそれを受け取り、ふうっと息をついた。

 

「しかしまあ」

誰にともなく言う。

「治部殿は、自分の結婚式より砦づくりじゃ」

 

小六が吹き出す。

 

「まだ言うか」

 

「言うわ」

藤吉郎は真顔で続けた。

「普通なら、婚礼やで? しかもお市殿が相手じゃ。若いもんは浮かれるやろ。上総介兄上の同腹の妹御やで? こっちは腰抜かしてもおかしない話や」

 

「それを墨俣の隠れ蓑にしよう、だからな」と小六。

 

「ほんまにな」

藤吉郎は、しみじみと頷いた。

「変わったお人じゃと思っておったが、こないなもんを考えるとはのう」

 

小一郎が穏やかに言う。

 

「ですが、だからこそ皆、乗るのでしょう」

 

藤吉郎は湯を飲み、空を見た。

 

「……せやな」

 

婚礼の裏で、砦が建つ。

材木が流れ、剣匙が増え、人足が集まり、川並衆が動く。

そしてその全部の起こりに、治部大輔信繁という若武者がいる。

 

「怖いお人や」

 

今度の声は、笑い半分ではなかった。

本気でそう思っている声だった。

 

「怖いけど、よう出来とる。なら、やるしかあらへん」

 

小六が頷く。

 

「やるしかねえな」

 

小一郎もまた、静かに頷いた。

 

その時にはもう、婚礼の陰で墨俣が立ち上がることは、ほとんど既定の流れになっていた。

 

まだ誰の目にも砦は見えぬ。

だが、材木も、鉄も、人も、もう動いている。

 

城は、こうしてまだ見えぬうちから生まれるのだと、藤吉郎はよく知っていた。

 

 

清洲の城中は、婚礼の気配で浮き立っていた。

 

お市殿の婚儀。

それだけで、奥は華やぐ。

反物が運ばれ、衣の相談が始まり、台所では祝い膳の試しまで動く。

表の者とて、その空気に無関係ではいられぬ。

上総介兄上の同腹の妹君の婚礼となれば、誰しも少しは顔を上げ、声を潜め、しかし目は弾む。

 

そういう時こそ、隠したいものは動かしやすい。

 

見たいものが大きいほど、人はそれ以外を見落とすからだ。

 

俺はその浮き立つ城中を抜け、奥の一間へ通された。

座には、すでに上総介兄上と勘十郎兄上がいる。

 

いつものように、評定ほど大仰ではない。

だが、ただの思いつきを持ち込んでよい場でもない。

 

俺は深く頭を下げた。

 

「治部大輔にございます」

 

上総介兄上が口元を少し上げる。

 

「婚礼の支度で城が浮いておるな」

「は」

「その顔は、何か思いついた顔だ」

 

さすがに鋭い。

だが、ここで躊躇しても意味はない。

 

「材木と剣匙を、婚礼支度の荷に紛らせて動かす件にございます」

 

勘十郎兄上が静かに言う。

 

「うむ。続けよ」

「婚礼準備で城中が浮き立つ今なら、材木や剣匙の荷は紛れ込ませやすうございます。ですが、それだけでは敵もいずれ気付きましょう」

 

上総介兄上が目を細める。

 

「では、どう目を逸らす」

 

そこへ来ると思っていた。

 

「犬山にございます」

 

座の空気が、わずかに締まる。

 

「犬山」と上総介兄上。

 

「はい」

俺は頷いた。

「犬山から鵜沼を抜ける形で、織田勢が攻めると噂をばら撒きます」

 

勘十郎兄上がすぐに問う。

 

「噂だけでは弱いな」

「はい。ですので、下野守様に犬山城から軍勢を出たり入ったりして頂く」

 

上総介兄上の眉がわずかに上がる。

 

「下野守を使うか」

 

「は」

俺は答える。

「実際に目に見える動きがあれば、境目の者どもはそちらへ目を向けます。数は多くなくて構いませぬ。出る、戻る、また出る。荷も少し添える。それだけで“犬山筋で何か始まる”と噂は勝手に育ちましょう」

 

勘十郎兄上は、そのまま次を問う。

 

「どこまで明かす」

 

そこも肝だ。

 

「犬山筋に圧を見せたい、までは申し上げる。墨俣は伏せるべきかと」

 

上総介兄上が笑う。

 

「全部は言わぬか」

「下野守様は味方にございます。ですが、知る者は少ない方がよろしゅうございます」

 

勘十郎兄上が小さく頷いた。

 

「よい」

そして少しだけ視線を落とす。

「犬山から鵜沼を抜ける筋なら、敵も“次はそこだ”と思いたがる」

 

「まさにそこにございます」

俺は続ける。

「西美濃三人衆がこちらへ寄り、鵜沼も寝返った今、美濃側は“織田の次は東寄りを狙う”と見たいはずです。ならば、その見たい先を少し押してやれば、目はそちらへ流れます」

 

上総介兄上が、そこで喉で笑った。

 

「嘘を作るというより、相手が信じたがる方へ押すわけか」

「左様にございます」

「悪くない」

 

勘十郎兄上が、さらに詰める。

 

「下野守殿には、こちらから話を通す」

「は」

「だが、兵を出入りさせるだけでよい。実攻めの気配を見せ過ぎるな。本当に犬山筋が本命だと思わせ過ぎれば、今度は敵の構えが厚くなる」

「承知しております」

 

ここはやはり、この人が締めると早い。

噂は育てる。

だが、育ちすぎれば逆に重くなる。

その加減は勘十郎兄上の見方が強い。

 

上総介兄上が、脇息に肘を乗せたまま言う。

 

「治部大輔」

「は」

「犬山で目を引く。その裏で墨俣へ材木と剣匙を集める」

「その形にございます」

「婚礼支度で城中は浮く」

「は」

「そこへ犬山の噂まで走れば、皆そちらを見るな」

「少なくとも、時間は稼げます」

「うむ」

 

上総介兄上はしばらく黙っていた。

その黙り方は、案を飲み込む時のそれだ。

 

やがて、静かに口を開く。

 

「よい」

その一言で、半ば決まる。

「やってみよ」

 

やはり来る。

この人は、最後はそこへ踏み込ませる。

 

だが勘十郎兄上は、いつものようにもう一段置く。

 

「ただし」

「は」

「犬山へ話を通す文言は、こちらで整える。下野守殿に余計な気を回させるな。あくまで“見せるための出入り”だと分かるようにしつつ、墨俣は伏せる」

「承知にございます」

「材木は」

「上流より、出来る限り同じ寸法にて切り出し、川を下らせます」

「剣匙は」

「先鉄の形を揃えて量産。柄は現地でも合わせられます」

 

勘十郎兄上は頷く。

 

「婚礼の荷と混ぜるのだな」

「はい」

 

そこで上総介兄上が、少し楽しそうに言う。

 

「お市の婚礼で城中が華やぐ」

「は」

「その陰で、見えぬ砦が墨俣へ集まるか」

「左様にございます」

 

上総介兄上の目が冴える。

 

「よい。実に、よい」

 

その“よい”は、今回かなり深かった。

 

今川治部大輔の首。

西美濃三人衆。

鵜沼。

そして今度は、婚礼の華やぎと犬山の陽動を重ねて墨俣へ道具を集める。

 

ここまで来れば、もうただの若武者の働きではない。

 

上総介兄上は言う。

 

「首を取る時は前へ出る」

「は」

「人を動かす時は裏を使う」

「は」

「お主、だいぶ面白くなってきたな」

「ありがたき幸せ」

 

そう返したが、胸の内ではまだ少しだけ苦かった。

 

婚礼は婚礼だ。

お市殿はお市殿だ。

それを隠れ蓑に使うと言い出したのは自分だ。

その重みを忘れてはいない。

 

たぶん、それが顔に出たのだろう。

勘十郎兄上が、ふとこちらを見た。

 

「治部大輔」

「は」

「婚礼の話と、墨俣の話は別に軽くするな」

「心得ております」

「よろしい」

 

短い。

だが十分だった。

 

上総介兄上が、そこで少しだけ笑う。

 

「お市は承知しておる」

「は」

「ただし、あとで話はきっちり伺う、とのことだ」

「…………」

 

やはり来るか、と心のどこかで思いながらも、顔には少し出たらしい。

 

上総介兄上が面白そうに見ている。

勘十郎兄上も、さすがにほんのわずか口元を動かした。

 

「何だ、その顔は」と上総介兄上。

 

「いえ」

「お前、自分で言い出しておいて、そこは青くなるのだな」

「当然にございます」

 

そう答えると、上総介兄上はとうとう笑った。

 

「よい。なお良い」

 

勘十郎兄上が淡々と言う。

 

「まずは犬山へこちらから話を通す」

「は」

「その上で、材木と剣匙を動かせ。婚礼の表向きが華やかであるほど、裏は深くなる」

「承知」

「下野守殿が兵を出したり入れたりすれば、噂は勝手に育つ。境目の市と寺へ耳が走れば、それで足りる」

「はい」

 

「慶次郎と助右衛門は動かすな」

そこも、その通りだった。

「お前の武辺が見えれば、今度は本当に“何かある”と構えられる」

 

「承知にございます」

 

上総介兄上が最後に言った。

 

「犬山で目を引く。墨俣へ集める。婚礼で城中は浮く」

一語ずつ置く。

「よい」

 

そして、もう一度。

 

「やれ」

 

そこまで来れば、あとは動かすだけだ。

 

俺は深く頭を下げた。

 

「はっ」

 

障子の外へ出ると、城中はまだ華やいでいた。

 

女中たちの足音。

奥から聞こえる低い笑い声。

婚礼支度の気配。

 

その裏で、川には材木が流れ、鍛冶場では剣匙が増え、犬山では兵が出たり入ったりする。

見えるのは婚礼。

聞こえるのは犬山。

だが、本当に集まっているのは墨俣だ。

 

見えぬ砦が、もう動き始めている。

 

俺は廊の先に差す夕の光を見ながら、小さく息を吐いた。

 

いよいよだ、と思う。

 

婚礼も。

墨俣も。

どちらも、もう止まらぬ。

 

 

犬山では、下野守信清がきっちりと“見せるための動き”を続けていた。

 

朝に兵が出る。

昼に半分戻る。

夕にまた別の組が出る。

荷駄もわずかに動く。

それを見た者が、勝手に口を走らせる。

 

「犬山から鵜沼へ抜けるらしい」

「西が靡いたから、今度は東を締めるのだろう」

「いや、そのまま美濃へ押し込む気かもしれん」

 

噂というのは、誰かが断言するより、

“どうもそうらしい”

の方がよほど強い。

 

その陰で、材木は川を下っていた。

 

上流で寸を揃えて切られた木が、婚礼支度の荷に紛れるように少しずつ流される。

受ける川並衆もまた、いかにもな顔はしない。

拾い、分け、また流す。

舟の動きは普段より少し忙しいが、婚礼のある時分なら、それだけで怪しみ切る者は少ない。

 

剣匙も増えていた。

 

鍛冶場では、農具の補修や台所道具の注文に混じる形で、あの奇妙な先鉄が少しずつ打たれる。

一度に何十本も出さぬ。

婚礼に合わせて城中の用が増えている、その中へうまく埋め込んでいく。

 

そうした動きを、本当に一つの流れへ束ねていたのが、木下藤吉郎だった。

 

川並衆への口入れ。

材木の寸法見本。

どの木をどこで切るか。

どの舟へ何を乗せるか。

剣匙の先鉄をどの鍛冶へ振るか。

現地で柄を合わせる段取り。

全部を同時に走らせる。

 

普通なら、どこかで手が止まる。

だが藤吉郎は止めない。

 

止めぬまま、次から次へと人へ渡し、言葉を刻み、段を揃えていく。

 

墨俣へ入る少し手前の仮置き場で、柴田勝家はその様子を見ていた。

 

権六は現場の重しとしてここへ来ている。

大将というのは、槍を取って先へ出るだけの役ではない。

人足が浮つかぬようにし、兵が緩まぬようにし、いざ何かあれば最後に場を押し切るための重みでもある。

 

その勝家の前で、藤吉郎は一息もつかずに動いていた。

 

「あの束は川へ回せ」

「いや、それは違う、柱筋の分と柵筋の分を混ぜるな」

「剣匙は先鉄だけ先に寄せろ、柄木は現地で合わせた方が早い」

「縄は乾いたのと湿ったのを分けろ、濡れた方を下へ置くな」

「婚礼荷に見せる包みはこっちや、そっちはあからさまや」

 

言っていること自体は細かい。

細かいが、全部が繋がっている。

 

勝家は腕を組んだまま、小六へ訊いた。

 

「藤吉郎は、いつもああか」

 

蜂須賀小六が、口元を少し歪めた。

 

「だいたいああですわ」

「口ばかりの男には見えぬな」

 

「兄者はああななりですので、口ばかりではあそこまで人を動かせまへん」

横で木下小一郎も静かに言う。

「段を付けるのが上手うございます」

 

勝家は、その言葉を聞いて小さく頷いた。

 

たしかにそうだ。

 

藤吉郎は、自分で全部を抱え込んでいるように見えて、実は抱え込んでいない。

誰が何をやるかを先に決めて、その上で自分は詰まりそうなところへ顔を出す。

兵を振るう武辺とは違う。

だが、だからといって軽いわけでもない。

 

むしろ、こういう場では槍働きよりよほど厄介だ。

 

勝家は、材木の束を一つ見やった。

 

寸は完全一致ではない。

だが、目で見てすぐ分かるくらいには揃っている。

現地で泣かずに済む揃え方だ。

そこへ剣匙の先鉄が届き、人足が配され、舟筋まで乱れず回っている。

 

「……治部大輔の目もたいしたものだが」

 

勝家がぽつりと言う。

 

「はい」と小一郎。

 

「これを回す役に藤吉郎を当てたのは、当たりか」

 

小六が笑った。

 

「それを藤吉郎に言うたら、しばらく機嫌よう働きますわ」

「別に本人へ言わずともよい」

 

そう言いながらも、勝家の目は藤吉郎から離れなかった。

 

しばらくして、藤吉郎がこちらへ気付いて駆け寄ってきた。

 

「権六様」

「何だ」

「材木の渡しは今のところ予定通りでございます。剣匙の先鉄も、今夜中にもう一束届きましょう」

「うむ」

「ただ、川並衆の舟を一艘、もう少し浅瀬向きのものへ替えたい」

「なぜだ」

「今のままやと、夜目に川縁へ寄せる時に少し音が出過ぎます」

 

勝家は、そこでほんの少しだけ目を上げた。

 

そこまで見るか、と思ったのだ。

 

「替えられるのか」

「替えさせます」

 

即答だった。

 

自信ではなく、もう手が打ってある声だ。

 

「その上で、人足の飯も少し刻みを変えます。今のままやと腹が減る刻と作業の山がずれとる」

 

勝家は、そこでとうとう鼻で笑った。

 

「お前」

「へい」

「よく見ておるな」

 

藤吉郎が一瞬だけ目を丸くした。

たぶん、権六からそういう褒め方をされると思っていなかったのだろう。

だが勝家は続けた。

 

「口が回るだけの男なら、わしは好かぬ」

藤吉郎は黙る。

「だが、お前は違う。人も、荷も、飯の刻まで見ておる。こういう仕事は、槍働きの勢いだけでは回らぬ」

 

小六が、横で少しだけ得意そうな顔をした。

小一郎は表情を変えぬが、目だけ少し和らぐ。

 

藤吉郎は、ようやく頭を下げた。

 

「恐れ入ります」

 

「恐れ入るだけで終わるな」

勝家は低く言う。

「その目を、墨俣が立つまで切らすな。途中で一つでも気を抜けば、木も鉄も人も、みな敵へくれてやることになる」

 

「心得ております」

 

その返事に、軽さはなかった。

勝家は頷いた。

 

「よし」

そして、少しだけ口元を動かす。

「治部大輔も、使う相手をよう見ておる」

 

その言葉は、藤吉郎にも、小六にも、小一郎にも重かった。

 

勝家が認めた。

それは、単に気分を良くするだけの話ではない。

この現場が、ただの妙案の寄せ集めではなく、戦の筋として通っている証でもあった。

 

藤吉郎は、頭を上げて少しだけ笑った。

 

「権六様にそう申されると、働かんわけには参りませぬな」

「最初から働け」

「へい」

 

その返しに、周りで小さな笑いが落ちる。

 

だが、空気は緩み切らない。

緩めてよい場ではないからだ。

 

犬山では、まだ兵が出たり入ったりしている。

境目では、犬山から鵜沼へ抜けるらしいという噂が育っている。

婚礼準備で清洲は浮いている。

その陰で、材木と剣匙が墨俣へ集まり続ける。

 

見えているのは婚礼。

聞こえるのは犬山。

だが、本当に立ち上がろうとしているのは墨俣の砦だ。

 

勝家は、その気配を感じながら、もう一度だけ藤吉郎を見た。

 

「藤吉郎」

「へい」

「よい働きだ」

 

今度は短く、それだけ言った。

藤吉郎は深く頭を下げる。

小六が脇でぼそりと呟く。

 

「こりゃ、藤吉郎め、今夜は寝んでも働きますわ」

「もともと寝る気はあらへん」

 

と、藤吉郎。

 

だが、その声はたしかに弾んでいた。

 

使える者の価値を、分かる者に分かられる。

それはやはり、働きの燃え方を変える。

 

そしてそれは、墨俣のような現場では確かな力になる。

 

 

その夜の川は、妙に黒かった。

 

月は出ている。

だが、明るすぎるほどではない。

材木を流し、舟を寄せ、人を動かすにはちょうどよい。

見えぬわけではない。

かといって、遠目に何もかもが白々と知れるほどでもない。

 

墨俣の岸は、昼の顔をしていなかった。

 

普段なら、ただの川縁だ。

水の音があり、葦があり、泥がある。

人が立てば足を取られ、物を積めば沈み、城を築くなど正気の沙汰とは思えぬ場所に見える。

 

だからこそ、ここに立つ。

 

誰もが「まさか」と思うところへ、先に“居る”と示せば、盤は一気に傾く。

 

最初の舟が寄った時、木下藤吉郎はもう岸にいた。

 

「急げ、でも慌てるな!」

 

声は大きい。

だが、ただ怒鳴っているのではない。

誰に何をさせるかが、その声の中で既に分かれている。

 

「柱筋はこっちや! 渡しは向こう! 同じ寸のやつを混ぜるな!」

「剣匙、先に配れ! 柄ぇ差したらすぐ掘れるようにしろ!」

「縄濡らすな! 乾いたのを上へ回せ!」

 

人足が走る。

川並衆が舟を押さえる。

材木が岸へ渡る。

剣匙の先鉄に柄木が差され、縄で締められ、次の瞬間にはもう人の手にある。

 

その少し奥で、柴田勝家が立っていた。

 

動かぬ。

細かい指図もしない。

だが、この人が立っているだけで場が締まる。

浮つく者が減り、声が一本芯を通す。

大将の働きとは、ああいうものだ。

 

勝家が低く言った。

 

「藤吉郎」

「へい!」

「早いな」

「早うせんと、夜が逃げます」

「夜は逃げぬ」

「人の気ぃが逃げるんでございます」

 

勝家の口元が、わずかに動いた。

 

「違いない」

 

その短いやり取りの間にも、岸では穴が刻まれ始めていた。

 

剣匙が土へ突き込まれる。

ざく、ざく、と短く乾いた音が続く。

鍬よりも横へ振らぬ分、狭い場所に人が並べる。

一人が突く。

隣も突く。

そのまた隣も突く。

柄を返して土を割り、抉り、足で寄せる。

 

名人芸ではない。

だが、同じ手が並ぶ。

それが強い。

 

「もっと深う!」

「浅いと柱が浮く!」

「次の組、そこ代われ!」

 

藤吉郎の声が飛ぶ。

小一郎が抜けを拾う。

小六が川筋の流れを見て、次にどの舟を寄せるか決める。

 

材木は、揃っている。

 

完全に寸分違わぬわけではない。

だが、見本に合わせて切られているから、現地で泣くほど狂わない。

だからこそ、受け取った端から渡せる。

穴が掘れたところへ、すぐ柱が立つ。

柱が立てば、次の横木が来る。

横木が入れば、縄が掛かる。

縄が掛かれば、もう“ただの木の山”ではない。

 

見えぬ砦が、少しずつ形になる。

 

俺が岸へ着いた時には、もう最初の列が立っていた。

 

墨俣の川風は冷たい。

だが現場は熱を持っている。

人が多いからではない。

段取りが噛み合っているからだ。

 

「治部大輔殿」

 

振り向くと、藤吉郎だった。

額も首も汗だ。

だが目だけは冴えている。

 

「材木、第一の分は入りました」

「早いな」

「揃うと早うございます」

 

その声には、本気の実感があった。

 

「剣匙も働いとります。鍬やと横へ広がって詰まるところを、あれやと人が並びやすい」

「武器には」

「今んところまだ使わんで済んどります」

「それが一番だ」

「へえ。ですが、持たせとるだけで人足の顔が違います」

 

それは分かる。

 

丸腰で夜の築砦に立つのと、手元に突けるものがあるのとでは、腹の据わり方が違う。

 

そこへ、勝家が来た。

 

「治部大輔」

「は」

「あの道具、よい」

 

短い。

だが、それで十分だ。

 

「恐れ入ります」

「人足が止まらぬ。しかも、手を離さずそのまま次へ移れる」

「墨俣向きにございます」

「うむ」

 

勝家は、出来上がり始めた列を見た。

 

「藤吉郎もよう回しておる」

「はい」

「お前、使う相手を見る目があるな」

 

その言葉は、重かった。

 

桶狭間で首を取ったこととも、西美濃三人衆ともまた違う種類の評価だ。

人を置く目。

それを、この人に認められるのは大きい。

 

俺は深く頭を下げた。

 

「ありがたき幸せ」

 

その時、少し離れたところでざわめきが起きた。

 

皆が一瞬、身構える。

だが敵襲ではない。

単に、二本目の列が思ったより早く立ったのだ。

 

「おお……」

 

誰かが、思わず声を漏らす。

 

夜目にも分かる。

さっきまでただの泥と水だった場所に、もう“線”が出ている。

柱が並び、横木が渡り、柵の気配が立つ。

 

まだ城ではない。

だが、砦だ。

もう誰が見ても、ただの作事ではない。

 

「見え始めたな」

 

と、勝家。

 

「はい」

「こうなると早い」

 

それもその通りだ。

 

築砦というのは、何もないうちが一番心細い。

だが一度、目に見える骨が立つと、人の手も心も一気に乗る。

“出来る”と分かるからだ。

 

藤吉郎が、遠くへ怒鳴った。

 

「そこ、縄張れ! 柱立ったら次を待つな、渡せるもんは先に渡せ!」

「小一郎! 次の束は!」

「もう来ます!」

「小六! 川は!」

「今のうちならもう一艘寄せられる!」

 

全部が、止まらない。

 

婚礼の陰で流れた材木。

鍛冶場で増えた剣匙。

犬山へ向いた噂。

それらが全部、この夜のためにあったのだと分かる。

 

俺は川の方へ目をやった。

 

まだ舟影がある。

つまり、まだ来る。

砦はまだ太る。

 

「治部大輔殿」

 

今度は、小一郎だった。

 

「何だ」

「権六様より、外の見張りを少し厚くしたいとのことです」

「もっともだ」

「犬山へ目は向いておるでしょうが、近くで何か気付く者がおらぬとも限りませぬ」

「慶次郎と助右衛門は」

「もう外へ回しております」

 

やはり早い。

 

表へは出さぬ。

だが、こういう時の即応には使う。

最初から決めていた通りだ。

 

「よし」

 

そう答えた時、不意に、岸の手前で誰かが笑った。

 

喜びというより、昂ぶりに近い笑いだ。

 

「立つぞ!」

「ほんに立つ!」

「墨俣に城が立つぞ!」

 

その声が、夜気を震わせる。

 

まだ“城”と呼ぶには早い。

だが、人はもうそう言いたくなる。

何もなかった場所に、目に見える形が起ち上がる時というのは、そういうものだ。

 

勝家が、その声を聞いて低く言った。

 

「浮かれるな、と言いたいところだが」

「はい」

「今夜くらいは、少し浮かれてもよいか」

 

俺は思わず少しだけ笑った。

 

「その分、手が速ければ」

「違いない」

 

勝家も、ほんのわずか口元を緩めた。

 

そこへ、また一束の材木が届く。

剣匙が土へ入る。

柱が立つ。

縄が鳴る。

声が飛ぶ。

 

見えぬ砦は、もう見え始めていた。

 

そして一度見え始めたものは、もう止まらぬ。

 

夜の墨俣で、川風の中に木と土の匂いが混じる。

その匂いを嗅ぎながら、俺は胸の内で静かに思った。

 

婚礼も、もう戻らぬ。

砦も、もう戻らぬ。

ならば、どちらも立て切るだけだと。

 

墨俣の“一夜城”は、こうして本当に生まれ始めていた。

 

 

夜明けは、誰にも平等に来る。

 

だが、何を照らし出すかは平等ではない。

 

美濃側の見張りが最初に異変へ気付いたのは、空がまだ白み切る前だった。

 

川霧が薄く残っている。

犬山筋を気にしていたせいか、見張りの目も最初はそちらへ向いていた。

実際、ここしばらくの噂は皆そうだった。

犬山から兵が出る。

鵜沼へ抜けるらしい。

西が靡いた今、東を締める気だろう――。

 

だから、最初の見え方は少し遅れた。

 

川霧の向こうに、何か“線”がある。

 

岸辺の木立ではない。

舟でもない。

昨日までそこに無かった、まっすぐな線だ。

 

見張りの一人が、目を擦った。

 

「……何だ、あれは」

 

隣の男も目を凝らす。

 

霧が、少しだけ流れる。

 

そこでようやく、線は線でなくなった。

 

柱。

横木。

柵。

土の盛り上がり。

 

「おい」

 

声が裏返る。

 

「おい!」

 

今度ははっきりと叫んだ。

 

「墨俣だ!」

 

その一声で、まだ眠気の残っていた空気が一気に裂けた。

 

何人もが駆け寄る。

目を凝らす。

そして、同じものを見る。

 

砦だった。

 

一夜で、とは誰も思いたくない。

昨日まであそこは、何もないただの川縁だったはずだ。

泥と葦と、足を取る岸だけのはずだった。

そこへ、今は明らかに人の手が入った形がある。

 

「馬鹿な」

「何でだ」

「犬山ではなかったのか」

 

そこが一番大きい。

 

皆の目は、犬山へ向いていた。

噂も、兵の出入りも、鵜沼筋の圧も、全部そちらを指していた。

だから、墨俣は“まさかそこまでは”という場所に留まっていた。

 

その“まさか”が、夜のうちに形になってしまった。

 

見張りの一人が、歯噛みするように言う。

 

「騙された……」

 

だが、騙されたと気付いた時には、もう遅い。

 

騙しはただの噂ではなかった。

噂の裏で、本当に材木が集まり、本当に人が動き、本当に砦が立った。

だからこそ、この朝の衝撃は重い。

 

城中へ報せが走る。

 

「墨俣に織田の砦!」

「本当にございます!」

「犬山ではございませぬ!」

「いや、犬山も動いてはおりました!」

「では、両方か!」

「違う、違う、犬山は目くらましだ!」

 

その混乱自体が、もう大きな勝ちだった。

 

敵が一番嫌うのは、兵の損害だけではない。

自分が何を見誤ったかを、朝一番で突きつけられることだ。

 

「犬山へ目を向けていた」

「その裏で墨俣に砦を築かれた」

「婚礼で浮き立っていると見ていた織田が、婚礼の陰でここまでやった」

 

その全部が、一度に腹へ落ちる。

腹へ落ちるからこそ、心が冷える。

 

その頃、墨俣の砦では、夜通しの作事を終えた者たちが、まだ完全には気を緩めていなかった。

 

夜が明ければ、敵にも見える。

見えた時が、本当の始まりだ。

 

川霧の向こうでざわめきが立つのを、最初に見たのは慶次郎だった。

 

「来たな」

 

柵の脇で、にやりとする。

助右衛門が低く言う。

 

「気付かれたか」

「気付かれなきゃ困る」

 

慶次郎は、いかにも楽しそうだ。

 

そのすぐ後ろで、藤吉郎はもう次の指図を飛ばしていた。

 

「縄締め直せ! 見えたから終わりやない、見えてからが砦や!」

「剣匙持っとる連中、手放すな! 今からは掘るだけやのうて守る刻や!」

「飯、今のうちに回せ! 腹減った顔で朝を迎えるな!」

 

夜を越えたことで、剣匙の価値も少し変わる。

 

夜の間は、掘るための道具だった。

朝からは、掘れて、そのまま持って突ける道具になる。

人足も兵も、そのことを分かっている。

だから手放さぬ。

 

勝家は、砦の前へ出て川向こうを見た。

 

まだ敵は近くない。

だが、ざわめきの広がり方で分かる。

見えた。

そして慌てている。

 

「よい」

 

小さく、そう言った。

近くにいた俺へ目をやる。

 

「治部大輔」

「は」

「勝ったな」

 

それは、戦そのものに勝ったという意味ではない。

盤面ごとひっくり返した、という意味だ。

 

「はい」

 

俺は頷いた。

 

「少なくとも、朝一番の目は奪いました」

「犬山へ向いていた目を、墨俣へ無理やり引き戻した」

「左様にございます」

 

勝家は、少しだけ口元を緩めた。

 

「よい」

 

短い。

だが、その一言は重い。

 

そこへ藤吉郎が、汗と泥だらけのまま駆け寄ってきた。

 

「見えましたな!」

「ああ」

 

「犬山筋の噂を信じ切ってくれとった分、効きましたわ」

息を切らしながらも、目は冴えている。

「“まさか墨俣”が、そのまま建っとる。あれは効きます」

 

「だろうな」

「しかも、うちは婚礼で浮き立っとると思うとったはずです」

 

そこへ、小六が笑い混じりに加わる。

 

「花嫁の陰で城が建つたぁ、向こうも思わねえわな」

 

「思わんから、やるんじゃ」と藤吉郎。

 

その言葉には、疲れより先に仕事の昂ぶりがあった。

 

俺は川向こうを見た。

 

確かに、騒ぎは広がっている。

伝令が走る。

兵が集まる。

誰もが「なぜだ」と顔に書いている。

 

なぜだ。

 

その答えは、もうこちらにはある。

 

婚礼で城中が浮き立つ。

犬山で目を引く。

噂が走る。

その裏で、材木と剣匙が墨俣へ集まる。

それが一夜で形を持つ。

 

答えはある。

だが、分かってしまえば手遅れなのだ。

 

そこへ、もう一報が入った。

 

「犬山筋、美濃方が兵を少し戻した由!」

 

藤吉郎が、思わず笑う。

 

「ほれ見い!」

「犬山が本命と思うとった目ぇを、慌ててこっちへ戻しよった」

「だから遅れる」

「だから砦が建つ」

 

全部が、噛み合っている。

 

その瞬間、俺は少しだけ遠くの清洲を思った。

 

上総介兄上は、たぶん笑っているだろう。

勘十郎兄上は、静かに頷いているだろう。

お市殿は――どうだろう。

婚礼の陰で、本当に砦が立ったと聞けば、呆れ半分、納得半分かもしれぬ。

 

だが少なくとも、隠れ蓑にするならそれに見合う砦を築け、という言葉には、これでようやく半分くらいは応えられた気がした。

 

「治部大輔殿」

 

藤吉郎が、少しだけ声を落とした。

 

「何だ」

「婚礼の陰でここまで建てば、言い訳は少し楽になりますな」

 

思わず、少しだけ笑った。

 

「半分だけ、だろう」

 

「そらもう」

藤吉郎も笑う。

「残り半分は、あとでお市様にきっちり聞かれる分でございます」

 

「やめろ」

「事実にございます」

 

そこへ勝家が低く言う。

 

「馬鹿を申すな」

二人が口を閉じる。

「砦は建った。だが、これで終わりではない」

 

「は」

「見えた以上、ここからが守りだ。浮かれるのは、もっと後でよい」

 

その一言で、現場の熱がまた締まり直す。

 

そうだ。

夜明けは勝ちでもあるが、同時に始まりでもある。

 

見えぬ砦は、もう見えた。

ならば次は、見えた砦を本当に持たせる段だ。

 

それでも。

 

朝の光の中で、昨日まで無かったはずの線が、木と土の形で立ち上がっているのを見ると、胸のどこかが確かに熱くなる。

 

墨俣に、本当に砦がある。

 

美濃側の目は、犬山からひっくり返された。

婚礼の華やぎは、そのまま軍略の幕になった。

剣匙は土を切り、必要ならそのまま命を守る。

 

その全部が、いま目の前に立っている。

 

夜明けは平等だ。

だが、その朝に何を見るかは、もう決して平等ではなかった。

 

墨俣の“一夜城”は、こうして敵の認識を一夜で塗り替えたのだった。

 

 

その報せが清洲へ着いたのは、まだ朝の気配が城中へ残っている頃だった。

 

婚礼支度で、奥は早くから動いている。

女中の足音。

運ばれる反物。

台所の火。

華やいだ空気は、まだ消えていない。

 

だからこそ、その中へ飛び込んできた「墨俣に砦、成る」の一報は、妙に冷たく、鋭く響いた。

 

上総介兄上は、その文を受け取ると一度だけ目を通した。

 

西美濃三人衆の帰順。

鵜沼。

犬山の陽動。

川並衆。

規格材木。

剣匙。

そして、墨俣。

 

そこまで積み上げてきたものが、本当に一夜で形になったのだと、その文は告げていた。

 

上総介兄上の口元が、ゆっくり上がる。

 

「よし」

 

低く、短い一言だった。

だが、それで十分だった。

 

側に控えていた勘十郎兄上が、兄の手元の文へ目を落とす。

目を通す時間は長くない。

必要なところだけ読めば、もう分かる。

 

「建ちましたか」

 

「建った」

上総介兄上の声には、笑いが混じっている。

「犬山へ向いていた目を、そのままひっくり返しおった」

 

勘十郎兄上は静かに頷いた。

 

「見たい筋を見せておいて、見えぬところへ本命を通す」

そして、ほんの少しだけ目を細める。

「これで婚礼の隠れ蓑も、本当に意味を持ちましたな」

 

その言葉は、軽くなかった。

 

婚礼を隠れ蓑にする。

それ自体は、言うだけならいくらでも言える。

だが実際に、婚礼の華やぎが敵の認識を鈍らせ、その陰で砦が立ったなら、それはもう単なる思いつきではない。

 

意味を持った。

まさに、そういうことだった。

 

上総介兄上は、満足そうに文を畳んだ。

 

「材木は流れ、剣匙は働き、犬山は目を引いた」

「はい」

 

「そして朝には墨俣に砦がある」

上総介兄上は、そこで喉で笑った。

「面白い」

 

勘十郎兄上は兄ほど表へは出さぬ。

だが、その顔には確かな納得があった。

 

「婚礼準備で城中が浮き立つ」

勘十郎兄上が言う。

「誰もがそちらへ目を取られる」

 

「うむ」

「その裏で、兵と荷と人足が動く」

「うむ」

「犬山がさらに目を引く」

「うむ」

 

勘十郎兄上はそこで文を静かに置いた。

 

「ここまで揃って、初めて“隠れ蓑”になります」

 

そこが大きい。

 

婚礼を言い訳に使っただけではない。

婚礼の華やぎそのものを、実際に敵の認識をずらす幕として機能させた。

だからこそ、この婚礼隠れ蓑案は本物になった。

 

上総介兄上は少しだけ天井を見上げた。

 

「あやつ」

「はい」

「本当に、自分の婚礼まで使いおった」

 

その声は、呆れと愉快が半ばずつだった。

 

勘十郎兄上も、わずかに口元を緩める。

 

「しかも、使っただけでなく、きちんと砦まで建てて見せた」

「うむ」

「そこまで行けば、もう文句は言えませぬな」

「言えるのは、お市くらいだろう」

 

その一言に、さすがに勘十郎兄上も少し笑った。

 

「それは、そうですな」

 

上総介兄上は、そこで改めて文を指先で叩いた。

 

「よい」

 

また、その一言だった。

 

だが今度の「よい」は深かった。

 

義元の首。

西美濃。

鵜沼。

墨俣。

婚礼。

 

全部が一つの盤へまとまっている。

しかも、ただ思いついただけではなく、実際に立っている。

上総介兄上にとって、それは十分すぎる答えだった。

 

「これで」

上総介兄上が、静かに言う。

「治部大輔へお市をやることも、ただの褒美ではなくなった」

 

勘十郎兄上は黙って聞いている。

 

「武で取り」

「はい」

「政で寄せ」

「はい」

 

「婚礼すら盤の中へ置いて、その上で砦を建てる」

上総介兄上の目が細くなる。

「同腹の妹を結ぶに足る」

 

そこまで言い切ると、もう迷いはなかった。

 

勘十郎兄上もまた、その言葉を否定しない。

 

「左兵衛佐殿への立て方と、又六郎の置き方」

「うむ」

「そこも、これでいよいよ詰めるべきですな」

「分かっておる」

 

盤はもう、そこまで進んでいる。

 

治部大輔信繁という若武者の話では終わらない。

藤左衛門家。

又六郎。

お市。

本家中枢。

全部が同じ盤へ乗っている。

 

上総介兄上は、そこでふっと笑った。

 

「お市には、どう言おうかの」

「何と申されます」

「“お前の婚礼、きちんと役に立ったぞ”でどうだ」

 

「兄上」

勘十郎兄上が、さすがに少し呆れた声を出す。

「それは、あとで治部大輔が更に困るだけでしょう」

 

「違いない」

 

上総介兄上は、今度は本当に楽しそうに笑った。

 

だがその笑いの奥には、棟梁としての冷静さも残っている。

 

「まずは、墨俣を持たせる」

「はい」

「その上で婚礼だ」

「はい」

「順を違えるな」

 

上総介兄上はそう言って、弟を見た。

 

勘十郎兄上は、やはりすぐ頷く。

 

「分かっております」

 

その返しは、今回は本当に分かっている顔だった。

 

そこへ、廊の向こうで少しだけ衣擦れの音がした。

 

奥方の側の動きだろう。

婚礼支度の気配は、まだ続いている。

その華やぎと、いま兄弟の前にある砦の報せが、奇妙なほどきれいに同じ朝の中へ並んでいた。

 

勘十郎兄上が、静かに言う。

 

「兄上」

「何だ」

「これで、お市があとで治部へ何を言うか、少し楽しみになって参りました」

 

上総介兄上は、そこでまた口元を上げた。

 

「お前までそう言うか」

「これだけのことをしておいて、何も言われぬと思う方が無理にございます」

「違いない」

 

兄弟の間に、小さな笑いが落ちる。

 

和解済みのいま、その笑いは昔より自然だ。

だが、内容の重さは軽くない。

 

婚礼。

隠れ蓑。

砦。

全部が本当に繋がってしまった。

 

上総介兄上は最後にもう一度だけ、文を見た。

 

「墨俣に、本当に砦がある」

その言葉を、少し味わうように口の中で転がす。

「よい朝だ」

 

勘十郎兄上は静かに頷いた。

 

「はい。よい朝です」

 

婚礼の華やぎの中へ、戦の形がきちんと立ち上がった朝。

それは、ただ勝ったというだけではない。

織田の盤が、確かに次の段へ入った朝だった。

 

 

 

 

 

 

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