織田家の嫡子~藤左衛門家の特異点   作:デトロ!開けろイト市警だ!

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015治部の嫁お市

その報せは、奥へ入る頃には、すでに少しだけ言葉を変えていた。

 

「墨俣に、ほんに砦が建ったそうです」

「一夜で、と申しますが」

「犬山表へ皆の目が向いているうちに」

「婚礼の陰で――」

 

そこまで聞こえたところで、お市は静かに顔を上げた。

 

奥の空気は、まだ婚礼支度の明るさを帯びている。

反物の色見。

紐の取り合わせ。

小さな箱の出入り。

女中たちの足音。

すべてが“めでたきこと”へ向いているようでいて、その実、もうただの祝いでは済まなくなっている。

 

お市は、運ばれてきた文を受け取った。

 

封を切る。

広げる。

目を落とす。

 

犬山からの陽動。

墨俣。

そして――砦、成る。

 

その一つ一つを追っていくうち、胸の内で、あの日の自分の言葉が静かに返ってきた。

 

私を隠れ蓑に使うのであれば、それに見合うだけの砦をお築きなさい。

 

あれは、半ばは試しだった。

半ばは、本音でもあった。

 

ただ婚礼を軍略の幕にされたのでは困る。

本当にそれに見合うだけの意味がなければならぬ。

そう思ったから、あえて言った。

 

けれどいま、文の上にあるのは、曖昧な言い逃れではなかった。

本当に、砦が建っている。

 

お市は、しばし黙したまま文を見ていた。

脇に控えるお犬が、小さく息を潜める。

 

「姉上……」

 

お市はすぐには答えなかった。

ただ、もう一度だけ同じ箇所を読む。

 

犬山へ目を向けさせた。

材木と剣匙を動かした。

夜のうちに墨俣へ砦を築いた。

朝には、美濃側がそれを見て騒いだ。

 

そこまで来て、ようやく小さく息をつく。

 

「……本当に」

その声は、驚きとも呆れともつかない。

「本当に、築いてしまったのですね」

 

お犬が少しだけ身を乗り出す。

 

「やはり、治部大輔殿の」

 

「ええ」

お市は頷かれた。

「上総介兄上のお考えだけでは、こういう形にはなりますまい。上総介兄上なら、もっと大きく、もっと乱暴に盤自体をひっくり返す」

 

それは兄を低く見ているのではない。

むしろ逆だ。

信長は大きく見る。

だからこそ、この“婚礼の華やぎと犬山の噂を重ね、見えぬ砦を墨俣へ建てる”という手の細やかさは、やはり治部大輔殿の色が濃い。

 

「では、姉上のお言葉が」

お犬は少しだけ笑いを含んだ目になる。

「“それに見合う砦を”が、そのまま形になったと」

 

お市は、そこでようやくごく小さく口元を緩めた。

 

「そうなのでしょうね」

 

怒っていないわけではない。

困った方だとも思う。

婚礼を告げられてすぐ墨俣を言い出すなど、やはり普通ではない。

 

けれど、それでも。

 

言ったからには、本当にそれを形にして見せた。

そこは、認めぬわけにはいかなかった。

 

土田御前が、少し遅れて部屋へ入ってきた。

 

お市の手元の文を見て、もう何が届いたか察したらしい。

 

「読みましたか」

「はい、母上」

「どうでした」

 

その問いに、お市は少しだけ考えた。

 

「困った方にございます」

 

土田御前の目が、ほんの少し和らぐ。

 

「それだけですか」

 

「いいえ」

お市は文を静かに畳んだ。

「困った方ですが、軽い方ではございませぬ」

 

それは、かなり深いところまで含んだ答えだった。

 

土田御前は何も言わない。

だが、娘がそこまで言うなら十分だと受け取った顔だった。

 

お市は続けた。

 

「婚礼の隠れ蓑、という言い方は、やはり好きにはなれませぬ」

「ええ」

 

「ですが」

そこで一度言葉を切り、改めて母と妹を見た。

「隠れ蓑に使うと言ったその場で、本当にそれに見合う砦を考え、そのまま築いてしまうのなら」

 

胸の内で、あの人の顔が浮かぶ。

 

婚礼祝いに“丸い世界図”だのと真顔で言い出す。

剣匙のような妙な道具も本気で形にする。

自分が何を言ったか分かっているのかと問い質したくなるのに、実際にはその一つ一つが盤の先へ繋がっている。

 

「……少なくとも、言葉だけのお方ではないと分かります」

 

お犬が、小さく笑った。

 

「それは、最初からそうではございましたが」

 

「そうね」

お市も少しだけ笑う。

「ですが今は、前よりはっきり致しました」

 

文の上にあるのは、ただの成功報告ではない。

治部大輔信繁という人が、どこまで重いものを盤に乗せ、その重さごと前へ進むつもりなのか、その答えでもあった。

 

土田御前が、静かに言った。

 

「お前が“それに見合う砦を”と申した時、あの子はきっと引かなかったのでしょう」

 

お市は頷く。

 

「はい」

 

「ならば」母の声は穏やかだった。

「これからも、そういう子なのでしょう」

 

それは、少し可笑しくもあり、少し厄介でもある言い方だった。

けれど、お市にはよく分かった。

 

きっと、そうだ。

婚礼の陰で砦を築く。

丸い世界図を贈ると言い出す。

剣匙などという妙な道具を本気で試す。

そういうことを、これからもやる人なのだろう。

 

だからこそ、こちらもただ受け身ではいられない。

 

お市は、文を膝の上へ置いた。

 

「あとで、話はきっちり伺う」

 

その言葉を、今度は口の中で静かに確かめる。

 

前よりも、少し意味が変わっていた。

 

ただ問いただすだけではない。

なぜそこまでやるのか。

どこまで見ているのか。

その先に、自分もどう置かれているのか。

そこまで含めて、きちんと聞く必要があると思った。

 

「姉上」お犬が、少し楽しそうに言う。

「いまのお顔は、怒っているのか、感心しているのか、よく分かりませぬ」

 

お市は、少しだけ妹を見た。

 

「両方にございます」

 

その答えに、土田御前もお犬殿も、ほんの少しだけ笑った。

 

お市自身も、そこでようやく自分の胸の内が少しほどけるのを感じた。

 

怒りだけではない。

呆れだけでもない。

たしかに、感心もある。

 

言ったからやった、のではあるまい。

最初からやるつもりでいたのだろう。

けれど、その一言を受けて、なお本当に形にした。

そこに、あの人の覚悟のようなものが見える。

 

「母上」

「何です」

「婚礼支度は、このまま進むのでしょう」

「もちろんです」

 

土田御前が頷く。

 

「では」

少しだけ目を伏せる。

「墨俣の砦も、婚礼も、どちらも軽くせぬようにしなければなりませぬね」

 

その言葉に、土田御前ははっきりと頷いた。

 

「もちろんです」

 

母の返事は短かったが、十分だった。

 

婚礼は、ただの祝いではなくなった。

墨俣も、ただの軍功ではなくなった。

その二つが同じ盤の上で結ばれた以上、どちらも軽くしてはならない。

 

お市は、もう一度だけ文へ目を落とした。

 

墨俣に、本当に砦がある。

 

その事実が、静かに、しかし確かな重みで胸へ残る。

 

「治部大輔殿」

 

心の中で、その名を呼んだ。

 

困った方だ。

けれど、やはり軽い方ではない。

 

そのことだけは、もう疑いようがなかった。

 

 

墨俣の報が清洲へ届いてからというもの、城中の空気は妙に二重になっていた。

 

表向きは婚礼支度で華やいでいる。

奥では反物が運ばれ、道具が揃えられ、女中たちが声を潜めながらもどこか浮き立っている。

だがその裏では、墨俣の砦が本当に立ったという報せが、静かな熱となって城の芯を走っていた。

 

婚礼。

砦。

どちらも、もう冗談では済まない。

 

俺はその日、ようやく少しだけ間を見つけて奥へ通された。

 

正確には、間を見つけたというより、

「そろそろ参らねば本当にまずい」

と腹を括っただけだ。

 

墨俣が建った。

建った以上、言い訳は一つ消えた。

だが、お市殿の

“あとで話はきっちり伺います”

が消えたわけではない。

 

むしろ、砦が本当に建った分だけ、逃げ場は綺麗に塞がったとも言える。

 

案内の者が、静かに一礼した。

 

「お市様がお待ちにございます」

「……承知した」

 

声が少し低くなったのは、自分でも分かった。

 

障子の前で一度息を整え、手をつく。

 

「治部大輔にございます」

「お入り下され」

 

中から返る声は、思っていたより穏やかだった。

 

それが、逆に怖い。

 

障子を開ける。

 

お市殿は、几帳の脇に静かに座していた。

派手な顔ではない。

だが、織田弾正忠家の嫡流の姫として育った人の気配が、その静けさの中にある。

華やかさがないのではない。

華やぐ必要のない座り方をしているのだ。

 

俺は進んで、深く頭を下げた。

 

「このたびは」

「はい」

「婚儀の件、まことにありがたく」

「はい」

「また、墨俣の件につきましても」

「はい」

 

そこまで来て、俺は少しだけ言葉に詰まった。

 

逃げ場がない。

 

いや、最初から無いのだが、

こうして目の前で静かに“はい”と返されると、余計に無い。

 

お市殿が、わずかに首を傾けられた。

 

「続けて下さらぬのですか」

「……いえ」

「では、まず申し上げます」

 

それは、柔らかい声だった。

 

柔らかい。

だが、容赦がある声ではない。

 

「墨俣成功は見事にございました」

 

俺は思わず顔を上げかけ、すぐに止めた。

 

「恐れ入ります」

 

「本当に、見事です」

お市殿は続けられる。

「婚礼の陰に隠すと申され、その場で砦の話を持ち出し、実際に一夜で形にしてしまわれた」

 

一つ一つが、その通りだ。

 

「私も、母上も、兄上方も、文を読みました」

「は」

「ですので、その働きそのものに異を唱えるつもりはございませぬ」

 

その一言で、胸の内に少しだけ安堵が走る。

 

だが、安堵した瞬間に分かる。

これは前置きだ。

 

案の定、お市殿は静かに言った。

 

「ですが」

来た。

「話は、別です」

 

きっちりと、切られた。

 

墨俣成功は成功。

婚礼を隠れ蓑にした話は別。

その線を、曖昧に混ぜて赦されはしない。

 

「……ごもっともにございます」

 

俺は深く頭を下げた。

 

お市殿はしばらく黙って見ていた。

その沈黙の間に、俺は自分で自分の言ったことをもう一度反芻していた。

 

婚礼を告げられて、即座に

“だったら、それを隠れ蓑に、墨俣に砦を築きましょう”

だ。

 

今思い返しても、我ながらどうかしている。

 

だが、あの時は本当にそれしか見えなかったのだ。

婚礼の華やぎ。

城中の視線。

敵の油断。

犬山。

墨俣。

盤が一気に繋がってしまった。

 

「治部大輔殿」

「は」

「私を、何だと思っていますか」

 

それは前にも、ほとんど同じ形で聞かれた。

だが今は、前よりずっと重い。

 

俺は少しだけ顔を上げた。

お市殿の目は、怒っているというより、測っている目だった。

 

「……承知して下さる方だと」

 

正直にそう答えるしかなかった。

 

お市殿の目が、ほんのわずかに細くなる。

 

「ずいぶんと勝手な見立てにございますね」

「はい」

 

否定しようがない。

 

「では、なぜそのように思われたのです」

 

そこは、逃げずに答えるべきところだった。

 

「お市殿は」

一度息を置く。

「ただの姫君ではございませぬ」

 

「はい」

「上総介様と勘十郎様の同腹にして、本家中枢の御方にございます」

 

お市殿は何も言わない。

先を待っている。

 

「ゆえに、婚礼の重みを最も分かっている」

「それで」

「それでも、謀の先に意味があるなら、その意味ごと受けて下さる方だと思いました」

 

言い切ってから、自分でも少し無茶だと思う。

だが、それが本音だった。

 

「つまり」

お市殿が静かに言う。

「私なら、婚礼を軍略の隠れ蓑にされても、意味があるなら呑むだろうと」

 

「……はい」

「ひどい見立てにございます」

「はい」

 

また、それしか言えない。

 

だが、お市殿の口元が、ほんの少しだけ動いた。

 

怒っている。

呆れている。

けれど、全部が全部、見当違いとは思っていないのかもしれない。

 

「ですが」

お市殿は続けた。

「まるきり外れてもおりませぬね」

 

その一言で、胸の奥が少しだけ熱くなる。

 

「恐れ入ります」

 

「恐れ入るところではございませぬ」

ぴしゃりと返された。

「そこを先に私へ申さず、ご自分の中だけで“お市なら承知する”と決めてしまわれたことが問題です」

 

そこだ。

 

まったく、その通りだった。

 

上総介兄上へは言った。

勘十郎兄上へも通した。

土田御前も知っていた。

だが、一番その婚礼を差し出される本人へは、後回しになっていた。

 

「申し開きは出来ませぬ」

「出来ぬでしょうね」

 

「はい」

お市殿は、そこでようやく少しだけ肩の力を抜いたようだった。

「墨俣は、本当に見事でした」

 

もう一度、そう言われる。

 

「“隠れ蓑に使うなら、それに見合う砦を”と申し上げた私の言葉を、きちんと形にして見せた。そこは、認めます」

「ありがたき幸せ」

「ですが、それで帳消しには致しませぬ」

「はい」

 

逃がしては下さらぬ。

だが、それでよいとも思う。

 

むしろここで曖昧に笑って流される方が、こちらには堪える。

 

「ところで」

お市殿が、少しだけ話の向きを変えた。

「丸い世界図とやらは、どうなりました」

 

思わず、目を上げた。

 

「……え」

「お作りになるのでしょう」

「はい、もちろんにございます」

「もちろん、なのですね」

「はい」

 

そこは即答できた。

お市殿の目が、少しだけ和らぐ。

 

「墨俣は墨俣。話は話。ですが、あれはあれで楽しみにしております」

それは、かなり助け舟だった。

「ただし」

 

やはり、付く。

 

「それを渡せば、こちらが全部水に流すと思わぬことです」

「心得ております」

「本当に、心得ていますか」

「今、肝へ刻んでおります」

 

その返しに、お市殿は今度こそ少しだけ笑った。

 

「……刻むのは、剣匙だけで十分にございます」

 

それには、さすがに俺も少しだけ息が抜けた。

こんな時にそういう言葉が返るなら、まだ完全に見放されてはいないのだろう。

 

「それで」

お市殿は静かに言う。

「今後も、私を隠れ蓑に使う時は、先に申して下さるのですね」

 

一瞬、言葉に詰まりかけて、すぐに答えた。

 

「はい」

「本当に」

「本当にございます」

「なら、よろしい」

 

その“よろしい”は、赦しではなく、条件付きの停戦に近かった。

だが今は、それで十分だ。

 

俺は深く頭を下げた。

 

「このたびは、まことに」

「はい」

「申し訳ございませなんだ」

 

お市殿は、その謝りをしばらく受け止めるように黙っていた。

 

やがて、静かに言う。

 

「婚礼も、墨俣も、どちらも軽くせぬように」

「必ず」

 

「そうして下さるなら」

そこで、ほんの少しだけ声が柔らかくなる。

「頭が上がらぬままでも、よろしいかもしれませぬ」

 

それは冗談のようでいて、半分は本気の声だった。

 

「……それは、しばらくそうなりそうにございます」

「たぶん、しばらくでは済みませぬね」

「かもしれませぬ」

 

そこで、二人の間にようやく少しだけ笑いが落ちた。

 

重い話だった。

逃げ道もなかった。

だが、きっちり別立てにしたうえで、なお話が前へ進むなら、それは悪い結果ではない。

 

お市殿は最後に言った。

 

「治部大輔殿」

「は」

 

「墨俣成功、あらためて見事でした」

今度のその言葉は、前より少しだけ温度があった。

「ですが、今後は私のことも、盤の上だけでなく、少しは盤の外でもお考えなさいませ」

 

胸の奥へ、その言葉が静かに落ちる。

 

「……肝に銘じます」

「よろしい」

 

障子の外へ出た時、俺はようやく大きく息を吐いた。

 

墨俣の砦を築いた夜より、よほど疲れた気がする。

だが、不思議と足は軽かった。

 

きっちり怒られた。

逃げ道も塞がれた。

それでも話は切れていない。

 

ならば、次は本当に、丸い世界図をきちんと形にして持って行かねばなるまいと思った。

そしてたぶん、しばらく本当に頭は上がらないのだろう。

 

それでも、まあ悪くはない。

そう思えたあたり、たぶん俺も相当にどうかしているのだろうが。

 

 

婚礼の座は、賑やかでいて、どこか不思議な静けさもあった。

 

ただ騒がしいだけの祝宴ではない。

織田本家の当主と同腹の姫、お市殿。

それを迎えるのが、桶狭間で名を立て、西美濃を動かし、墨俣まで築いた清州三奉行の一角、藤左衛門家の嫡子治部大輔信繁。

誰もが笑っている。誰もが杯を取っている。

けれど、その笑いの下には、この縁がただの婚礼ではないことを、皆が分かった上での緊張が薄く通っていた。

 

それでも、めでたいものはめでたい。

 

膳は並び、酒は注がれ、奥も表もどこか浮き立っている。

若い二人が並ぶ座へ向けられる視線も、ただの政の目ばかりではない。

本当に、よかったな、と。

そういう素直な目も、今日は多かった。

 

信繁は、さすがにいつものようにはいかなかった。

 

桶狭間でも、西美濃でも、墨俣でも、腹が据わっていた男が、今日ばかりはどうにも勝手が違う。

盃を受ける手は乱れていない。

挨拶も滞りなく返している。

けれど、お市殿のすぐ隣に座っている、その事実だけで、妙に呼吸の置き場が違っていた。

 

お市殿は、そんな信繁の様子に気付いているらしい。

気付いているのに、あえて何も言わない。

ただ、時折ほんのわずかに目を向けて、そのたびに信繁が少しだけ居住まいを正す。

その様子を見て、近くの者たちは声を立てずに笑いを噛み殺していた。

 

上総介信長が立ったのは、座が一通り温まった頃だった。

 

長々とは語らない。

もとより、そういう人ではない。

だが、短いからこそ残る言葉というものがある。

 

信長は、場をぐるりと見渡し、最後に若い二人へ目を止めた。

 

「本日は、まことにめでたい」

ただ、それだけで座が締まる。

「お市は、わしにとって大事な妹だ」

 

その言葉に軽さはない。

同腹の妹。

その意味を、ここにいる誰もが知っている。

 

「そして治部大輔は、いまさら申すまでもなく、働きで自らの座を取った男よ」

盃を持つ手が、あちこちで少しだけ止まる。

「家柄だけでもない。武功だけでもない。ここまで来たのは、おのれで来た」

 

信長はそこで、ほんの少しだけ口元を上げた。

 

「ゆえに、この縁はよい」

 

短い。

だが、それで十分だった。

 

「二人とも、末長くよくあれ」

 

それだけ言うと、信長はもう座へ戻った。

長広舌ではない。

けれど、その短さの中に、兄としての情も、棟梁としての認めも、きちんと入っていた。

 

「見事なご祝辞にございますな」

 

誰かがそう囁くと、別の誰かがすぐに

「上総介様らしい」

と返した。

 

たしかに、その通りだった。

 

その少し下手では、左衛門佐信張がもうどうにもならぬ顔をしていた。

 

酒のせいばかりではない。

もともと今日は、朝から妙に口数が少なかった。

当主として、父として、いろいろなものが胸に込み上げていたのだろう。

 

「父上」

 

信繁が小さく声を掛けると、信張は一度きつく目を閉じ、それから鼻をすすった。

 

「……お前が」

「は」

「嫁を取るとは」

 

その言葉だけで、周りに小さな笑いが落ちた。

 

だが信張は、すぐに続けた。

 

「しかも、本家の姫君ぞ!」

 

今度は、本当に何人かが肩を震わせた。

笑ってよいのか、泣いてよいのか分からぬ声だった。

 

信張は袖で目元を押さえた。

大げさにわあわあ泣くのではない。

けれど、抑えようとしても滲むものは滲む。

それがかえって、父としての本音に見えた。

 

「幼い頃は、妙なことばかり言い出してな」

信張は、酒気を含んだ声で言う。

「木の枝だの、泥だの、きのこだのを前にして、あれこれ試しては、母を困らせておった」

 

「父上」

 

信繁が少し困った顔になる。

その顔を見ると、また笑いが起きる。

 

信長が、そこで杯を傾けながらふと思い出したように言った。

 

「そういえば、今使うておるこの椎茸も、幼き治部が戯れに始めて、それで栽培に成功したのだったな」

 

お市殿が、少し驚いたように信繁へ目を向ける。

 

「そうなのですか?」

 

信長は、いかにも愉快そうに頷いた。

 

「うむ。親父殿が面白がってやり方を聞いて再現してみたら、すぐに軌道に乗ってな」

 

そこで、信張が涙声のまま鼻を鳴らした。

 

「戯れに始めたように見えて、こ奴は妙に細かいところまで見ておった」

 

信長が続ける。

 

「今では、我が織田家の大事な財源じゃ」

 

お市殿の目が、ほんの少し和らいだ。

 

「本当に治部殿は、昔から働き者だったのですね」

 

その言葉は、からかいでも何でもない。

素直に、少し感心したような響きだった。

 

信繁は一瞬だけ言葉を探すように息を置き、それから静かに答えた。

 

「これまでは、働くだけの無粋者でございました」

 

その言い方に、座のあちこちが少し笑う。

お前がそれを言うか、という笑いだ。

 

だが信繁は、そのままお市殿へ向き直った。

 

「ですが、これよりは」

一度きちんと頭を下げるように、言葉を置く。

「お市殿を大事にすることこそ、第一にしとう存じます」

 

座が、ほんの一瞬静まった。

 

軽口ではない。

冗談でもない。

ちゃんと場を見た上で、きちんとその場で言うべき言葉として置いたのだと分かる。

 

お市の目が、わずかに見開かれる。

 

「まぁ……」

 

その声は小さい。

だが、その一言の中に、照れと驚きと、少しの嬉しさがちゃんと混じっていた。

 

すぐ近くで、お犬殿が口元を押さえた。

土田御前は目を伏せているが、笑みを隠しているのが見える。

勘十郎信勝は、盃を口に運ぶふりをして視線を逸らした。

信長に至っては、もう露骨に面白がっている。

 

「ほう」

と、信長。

「ようやく盤の外も見る気になったか」

 

座に、どっと笑いが広がる。

 

信繁はさすがに少しだけ耳が赤くなったが、逃げなかった。

 

「そのよう努めとうございます」

 

「努める、では困る」と、信長は即座に返す。

「努めた上で、きちんとやれ」

 

「は」

 

そこへ、又六郎が少し遠慮がちに口を挟んだ。

 

「兄上」

「何だ」

「その……めでたき席に、少しばかり申してよろしゅうございますか」

 

信張が目をやる。

信長も見る。

お市殿も静かに又六郎へ視線を向けられる。

 

まだ幼名のままの次男。

だが、近頃は前より少しだけ顔つきが締まっている。

 

又六郎は、少し緊張したように背筋を伸ばした。

 

「兄上が、ここまで大きくなられた今」

 

信繁が少しだけ目を細める。

何を言い出すかと思ったのだろう。

 

「某の元服のことも、いずれお考え頂かねばならぬかと」

 

その一言に、場の空気が少し変わった。

 

めでたい席の軽い笑いの中へ、確かな家の話が差し込まれる。

けれどそれが不自然でないのが、今日の婚礼の重みでもあった。

 

信張が、涙の残る顔のまま小さく頷く。

 

「そうだな」

 

勘十郎信勝が静かに言う。

 

「又六郎も、もうその話をしてよい頃合いか」

 

信長も杯を置いた。

 

「うむ。治部大輔がここまで大きくなった以上、藤左衛門家の次も整えねばならぬ」

 

お市殿が、そのやり取りを静かに聞いている。

 

ただ若い夫婦を祝うだけの宴ではない。

その背後で、家もまた次の形へ移っていく。

それが今日という日なのだと、改めて皆が知る。

 

又六郎は深く頭を下げた。

 

「まだまだ未熟にございますが」

 

信張が、そこで息を整えながら言った。

 

「未熟だからこそ、今から備えるのだ」

その声には、さっきまでの父としての涙と、当主としての厳しさが両方入っていた。

「兄が前へ出たからといって、家が軽く見えてはならぬ。又六郎、お前も立て」

 

「はっ」

 

その返事は、思ったより強かった。

それを聞いて信繁も、ほんの少しだけ安堵したように見えた。

 

信長が、その様子を見て笑う。

 

「よいな。今日は一人の婚礼でありながら、家中の先まで話が伸びる」

「上総介様らしい」と、誰かがまた小さく言う。

 

信長は構わず続けた。

 

「治部大輔」

「は」

「お市を大事にすること第一、と申したな」

「はい」

「ならば、藤左衛門家も、お市も、墨俣も、丸い世界図とやらも、みな投げ出さずに持て」

 

さすがに最後の一つで、座がまた少し笑った。

お市殿も、今度はほんの少しだけはっきりと笑った。

 

「兄上」

「何だ」

「丸い世界図は、兄上が一番楽しみになさっているように見えます」

「当たり前だ」

 

即答だった。

 

それには、さすがに信繁も苦笑した。

 

「まずはお市殿へお渡し致します」

「分かっておる」

 

信長はそう言いながら、まるで分かっておらぬ顔をしている。

そのやり取りで、また座が和む。

 

婚礼の席は、そうして少しずつ本当に“宴”らしい顔を見せ始めていた。

 

重い話もある。

家の先の話もある。

だが、それでも若い二人が並んでいるのを見ると、皆どこか嬉しいのだ。

 

信張はもう一度だけ信繁を見て、それからお市殿へ目を向け、深く頭を下げた。

 

「姫君」

「はい」

「不束かな愚息にございますが」

「父上」

 

信繁が慌てる。

それすら、今日はどこか微笑ましい。

 

信張は構わず続けた。

 

「どうか、今後とも」

 

お市殿は、静かにその言葉を受けられた。

 

「こちらこそ」

 

それだけだった。

だが、その短い言葉の中に、姫としての品も、これからこの家へ入る覚悟も、ちゃんと入っていた。

 

信繁は、その横顔を見て、一瞬だけ何も言えなくなった。

 

桶狭間でも。

西美濃でも。

墨俣でも。

ここまで詰まることは、そうなかった気がする。

 

それを見たお犬殿が、小さく笑って言う。

 

「治部大輔殿は、やはり戦場よりこちらの方がお困りなのですね」

「……否定できませぬ」

 

その返しで、今度こそ座は大きく笑った。

 

婚礼の夜は、こうして更けていった。

 

若い夫婦のぎこちなさ。

兄の短い祝辞。

父の涙。

弟のこれから。

そして、きのこと丸い世界図にまで話が飛ぶ。

 

それら全部が不思議なくらい自然に一つの座へ収まっているのは、たぶんこの婚礼が、ただのめでたい席ではなく、ここまで積み上げてきた多くのものの帰着でもあったからだろう。

 

そして信繁は、たぶん本当に、この日から少しずつ変わっていくのだ。

 

働くだけの無粋者から。

盤の外も、見ねばならぬ男へ。

 

 

宴の熱が、ようやく少し遠のいた頃だった。

 

人の声はまだある。

笑いもある。

だが、さっきまでのように、次から次へと盃が回り、誰かが何かを言って場が揺れる、という刻は過ぎている。

 

若い夫婦に与えられた部屋は、さすがに静かだった。

 

灯りは明るすぎず、暗すぎず。

婚礼の席の華やぎをそのまま持ち込んだような飾りはある。

けれど、妙に気取ってはいない。

あくまで織田の家の中の、きちんとした一室だ。

 

俺は、正直なところ、ここへ来るまでの記憶が少し曖昧だった。

 

桶狭間でも。

墨俣でも。

何をどう動いたかは後からでも順に思い出せる。

だが今夜ばかりは、誰に何を言われ、どう返し、どこで何に笑ったのか、妙に細切れだ。

 

緊張しているのだと、認めざるを得ない。

 

俺が部屋へ入った時、お市殿はすでに座していた。

 

昼間から幾度も目にしているはずなのに、こうして二人きりの座で向かい合うと、まるで違って見える。

主君と同腹の姫君。

上総介様の妹君。

そういう肩書きが消えたわけではない。

だが今は、それに加えて“妻”という、まだ実感の追いつかぬ言葉が静かに重なっていた。

 

俺は、まず深く頭を下げた。

 

「……本日は」

 

お市殿が、少しだけ首を傾けられる。

 

「はい」

「まことに」

 

そこまで言って、少し言葉に詰まる。

お市殿の目が、ほんの少し和らいだ。

 

「治部殿」

「は」

「まだそのように畏まられるのですか」

「畏まらずに済むほど、腹が据わっておりませぬ」

 

それは、我ながら情けない返答だった。

だが、取り繕っても仕方がない。

 

お市殿は、その答えを聞いて小さく笑った。

 

「それは、少し安心致しました」

「……安心、にございますか」

 

「はい」

お市殿は、静かに言った。

「桶狭間でも、西美濃でも、墨俣でも、治部殿は何でも当然のようにやってしまわれるので」

 

そこまで言って、ほんの少しだけ目を伏せた。

 

「婚礼まで同じように当然の顔で来られたら、私の方が困っていたやもしれませぬ」

 

その一言で、胸のあたりの強張りが少しほどける。

 

「……そうでございましたか」

 

「ええ」

お市殿は、膝の上に置いた手を少しだけ整えた。

「ですから、少しは緊張していると分かって、よかった」

 

それは、かなり優しい言葉だった。

 

優しい。

だが、甘やかすための優しさではない。

こちらが変に気負わぬよう、座を少し平らにして下さるような優しさだ。

 

俺は、ようやく少しだけ息をつけた。

 

「では」

お市殿が言う。

「いまは、あらためて聞いてもよろしいですか」

 

来た、と思った。

 

墨俣のことか。

婚礼の隠れ蓑のことか。

あるいはその両方か。

 

「何を、にございましょう」

 

そう返すと、お市殿は本当に少しだけ呆れたように微笑んだ。

 

「何を、ではございませぬ」

「はい」

 

「今日は」

そこで、ほんのわずかに声が柔らかくなる。

「夫婦になった日なのでしょう」

 

その言葉が、妙にまっすぐ胸へ入った。

 

ああ、そうか。

墨俣でも。

犬山でも。

剣匙でも。

丸い世界図でもない。

 

まずそこなのだ。

 

「はい」

 

今度の返事は、さっきより少しだけ素直に出た。

 

お市殿は頷かれた。

 

「では、まずそれとしてのお言葉を、きちんと伺いたいのです」

 

そう言われて、俺は少しだけ視線を落とした。

 

宴の席では言った。

これよりは、お市殿を大事にすることこそ第一にしたい、と。

だがあれは、人のいる座での言葉だ。

ここでは、もう少し違う言い方をせねばならぬだろう。

 

しばらく考えたあと、俺は静かに言った。

 

「……某は」

お市殿がじっとこちらを見ている。

「働くことばかり、先に立つ男にございました」

 

「はい」

「桶狭間でも、墨俣でも、その時に必要と見えたものへ、まず手が伸びます」

「はい」

 

そこまでは、たぶんお市殿も分かっている。

 

「ですが」

俺は顔を上げた。

「今日からは、それだけでは足りませぬ」

 

お市殿の目が、少しだけ静かになる。

 

「お市殿は、某にとって、盤の上の一手ではございませぬ」

これは、ちゃんと言わねばならぬと思った。

「あの日、婚礼を隠れ蓑に墨俣をと言い出したのは、たしかに某です」

 

「はい」

「ですから、盤の外でも考えよと申されたこと、今も胸に残っております」

 

お市殿は何も言わない。

だが、先を待っているのが分かる。

 

「某は、まだ不器用にございます。たぶんこれからも、まず働く方へ走ることがございましょう」

「ええ」

 

「ですが、そのたびに、お市殿を“承知して下さる方だろう”と勝手に決めて済ませることは、もう致しませぬ」

そこは、きちんと切るべきところだった。

「先に申し上げるべきことは、先に申し上げる」

 

「はい」

「お市殿に聞くべきことは、聞く」

「はい」

 

「そして」

少しだけ息を置く。

「大事にするとは、たぶんそういうことから始まるのだろうと、今は思っております」

 

言い終えたあと、自分でも少し青臭いかと思った。

だが、他にもっと上手い言い方が見つからなかった。

 

お市殿は、しばらく黙っていた。

 

その沈黙が長すぎるとは思わなかった。

たぶん、言葉を受け止めているのだと分かったからだ。

 

やがて、静かに言う。

 

「……治部殿」

「は」

 

「それは」

ほんの少しだけ目を伏せる。

「たぶん、十分にございます」

 

胸の内で、何かが静かに下りた。

 

ほっとした、と言うのが一番近い。

だが、ただ楽になったのではない。

むしろ、これで本当に始まってしまった、という重みも一緒に落ちてきた。

 

「ありがたき幸せ」

「まだ幸せと申すには早うございます」

「……はい」

 

お市殿は、少しだけ笑った。

 

「これから本当にそうして頂けるかどうか、見なければなりませぬから」

「ごもっともにございます」

 

「ですが」

そこで、また声が少し柔らかくなる。

「少なくとも、治部殿がそう考えていると分かったのは、よかった」

 

その言葉が、思った以上にありがたかった。

 

部屋の外では、もう宴の声もだいぶ遠い。

夜が静まっていく音だけがある。

 

お市殿は、そこでふと表情を変えた。

 

「ところで」

「はい」

「丸い世界図のことですが」

 

やはりそこへ来る。

 

思わず少しだけ背筋が伸びる。

 

「はい」

「兄上が、先ほどから“あれはいつ出来るのだ”と申していました」

「でしょうな……」

 

ほとんど反射でそう返してしまった。

 

お市殿は、それを聞いてほんの少しだけ声を立てずに笑った。

 

「本当に、治部殿も兄上のことがよくお分かりですね」

「長く見ておりますゆえ」

「私も長く見ておりますが、ここまでぴたりとは申せませぬ」

 

その言い方に、少しだけ親しみが混じっていた。

夫婦になったばかりなのに、そういう温度がもう少し出ているのが、不思議でありがたい。

 

「……あれは」

と、お市殿。

「本当に、私への贈り物にございますか」

 

そこは、前にも少し問われた。

だが今は、もう少し違う響きだ。

 

「もちろんにございます」

「兄上も大喜びなさるでしょうが」

「それは否定致しませぬ」

「否定はされぬのですね」

「はい」

 

お市殿は、また少し笑った。

 

「正直でよろしいこと」

それから、静かに付け加える。

「ですが、私も楽しみにしております」

 

その一言に、また胸の内が少し温かくなる。

 

「急ぎます」

「墨俣の次は、丸い世界図にございますか」

 

「いえ」

俺も少しだけ口元を緩めた。

「その前に、まずはお市殿へ、きちんと頭の上がらぬまま日々を過ごすことにございます」

 

お市殿は、今度こそはっきりと笑った。

 

「それは、よい心掛けにございます」

 

そして、その笑みが少し静まったあと、ほんの少しだけ真面目な目で言った。

 

「治部殿」

「は」

 

「私も、治部殿が前へ出る方だということは分かっております」

その声には、さっきまでのやわらかさとは別の、静かな芯があった。

「ですから、ずっと盤の外へだけいて下されとは申しませぬ」

 

「……はい」

「必要な時は、前へ出て下さいませ」

 

その言葉は、意外だった。

いや、意外というより、ありがたすぎて少し驚いたのかもしれない。

 

「ですが、そのあと戻って来ること」

そこで、目がまっすぐにこちらを見る。

「それは、お忘れなきよう」

 

その一言で、ようやく本当に分かった気がした。

 

お市殿は、前へ出るなとは言わない。

前へ出る人だと分かった上で、戻って来いと言っているのだ。

 

その言葉は重く、そして救いでもあった。

 

「……必ず」

 

そう答えると、お市殿は静かに頷いた。

 

「なら、よろしい」

 

それだけで十分だった。

 

部屋の中に、少しだけ穏やかな静けさが落ちる。

 

夫婦の初夜に何を話しているのだ、とどこかで思わなくもない。

婚礼、墨俣、丸い世界図、盤の内と外。

どう考えても普通ではない。

 

だが、たぶん俺たちには、これでよかったのだろう。

 

変に気取った甘い言葉よりも、

前へ出ること、戻って来ること、先に言うこと。

そういう約束を置く方が、ずっと本当の始まりに近い。

 

お市殿は最後に、少しだけ首を傾けた。

 

「治部殿」

「はい」

「さきほど宴の席で、“働くだけの無粋者”と申されましたね」

「申しました」

「それは、半分だけ当たりにございます」

「半分、にございますか」

「ええ」

 

お市殿はほんの少し笑っる。

 

「残り半分は、妙なものを本気で作り、妙なことを本気で考え、そして時々きちんと困っている方です」

 

それには、さすがに俺も笑った。

 

「……それは、かなり言い得て妙にございます」

「でしょう」

 

そう言って、お市殿もまた静かに笑った。

 

その笑いを見た時、ようやく少しだけ実感が湧いた。

 

ああ、本当にこの方と夫婦になったのだと。

 

そしてたぶん、ここから先も、俺は何度も困らせ、何度も助けられ、何度も頭の上がらぬままになるのだろう。

 

それでも悪くない。

 

いや、むしろ、それがよいのかもしれない。

婚礼の夜は、そうして静かに更けていった。

 

 

翌朝は、驚くほど普通に来た。

 

昨夜が婚礼であろうと、墨俣に砦が立とうと、朝は朝だ。

障子の向こうは白くなり、どこかで水を使う音がして、廊ではもう人の気配が動いている。

 

目が覚めた瞬間、俺は一瞬だけ、自分がどこにいるのか分からなかった。

 

いや、分からなかったというより、

分かっているのに、頭が一拍遅れた。

 

婚礼の夜。

お市殿。

夫婦。

その言葉が、起き抜けの頭へ少し遅れて落ちてくる。

 

「……あ」

 

間の抜けた声が漏れたところで、すぐ脇から静かな声がした。

 

「おはようございます、治部殿」

 

飛び起きかけて、寸前で止まる。

 

お市殿は、もう身支度の半ばまで整えていた。

乱れ切った様子ではない。

かといって、朝から完全に作り込んだ姫の顔でもない。

夜と朝の間にある、ごく自然な姿だった。

 

それが妙にまぶしく見えて、俺は少しだけ視線の置き場に困った。

 

「お、おはようございます」

 

自分でも驚くほどぎこちない。

 

お市殿は、その返しを聞いてほんの少しだけ目を細めた。

 

「昨日より少し硬うございますね」

「……否定できませぬ」

「よろしいことです」

 

そう言われると、褒められているのか見られているのか、少し分からない。

 

俺は慌てて姿勢を直した。

 

「お市殿は、早うございますな」

「普段から、このくらいには起きております」

「左様でございましたか」

「治部殿は、起き抜けが少し遅いのですね」

 

そこを突かれると弱い。

 

桶狭間でも、墨俣でも、起きられぬわけではない。

だが張り詰めた後の朝は、どうしても一拍遅れる。

 

「……面目ございませぬ」

 

「責めてはおりませぬ」

お市殿はそう言ってから、わずかに口元を和らげた。

「ただ、“前へ出る方は、朝もきびきびしているのだろう”と少し思っておりました」

 

「それは、買い被りにございます」

「いま分かりました」

 

さらりと返されて、こちらは苦笑するしかない。

 

朝の光はまだ柔らかい。

部屋の中も静かだ。

昨夜のような重い話をする空気ではない。

むしろ、こういう刻だからこそ、ちょっとしたことがそのまま日常の形になるのだろう。

 

お市殿は、少しだけ考えるように俺を見ていたが、やがて言った。

 

「治部殿」

「はい」

「これから、朝はどうなさるおつもりですか」

「朝、にございますか」

「ええ」

 

その問いは何気ないようでいて、実のところかなり本質だった。

 

夫婦になった。

ならば、朝をどう始めるのかもまた、二人の間で少しずつ決まっていく。

 

俺は少し考えてから答えた。

 

「急ぎの用があれば、もちろんそちらへ向かいます」

「はい」

 

「ですが、そうでない朝は」

そこで、少しだけ言葉を選ぶ。

「まず、お市殿へ顔を見せるべきかと」

 

お市殿の目が、ほんのわずかに柔らかくなる。

 

「“べき”にございますか」

「まだ、そのくらいの言い方しか出来ませぬ」

「十分にございます」

 

そう言われると、少し救われる。

 

お市殿は続けられた。

 

「では、私もそう致します」

「はい」

「朝、治部殿が先に出る日でも、一度はお顔を見ます」

 

その言葉は、昨夜の

前へ出るなら、戻って来ること

と、同じ芯を持っているように思えた。

 

行く。

だが顔を見せる。

戻る。

その当たり前のようで当たり前でなかったことを、一つずつ形にしていく。

 

「ありがたき幸せ」

 

そう答えると、お市殿は少しだけ笑った。

 

「治部殿」

「はい」

「幸せ、と申すのがお好きですね」

「そのように聞こえますか」

「ええ。昨日から、幾度か」

 

言われてみれば、その通りかもしれない。

うまく言葉にならぬ時、とりあえずそう言ってしまっている気がする。

 

「……いまのところ、それが一番近いのでございましょう」

 

お市殿は、その答えを聞いてほんの少しだけ頷いた。

 

「では、しばらくはそれでよろしいかもしれませぬ」

 

そうして会話が一度切れた時、不意に障子の向こうで人の気配が止まった。

 

「姫様」

 

女中の声だ。

 

「湯の支度が整いました」

 

お市殿が返す。

 

「分かりました」

そしてこちらへ向き直る。

「治部殿も、もう少しすれば皆の前に出られるのでしょう」

 

「はい。父上や上総介様方にも、ご挨拶を」

「ええ」

 

その“ええ”のあと、ほんの少しだけ間があった。

 

お市殿は、どうやら何かを考えているらしい。

 

「どうなされました」

 

そう問うと、お市殿は静かに言った。

 

「皆の前では、たぶん治部殿はまた治部殿のお顔になられるのでしょう」

「……たぶんは」

「では、その前に一つだけ」

「何でございましょう」

 

お市殿は、わずかに首を傾けた。

 

「治部殿は、今朝、起き抜けに“あ”と仰いました」

 

思わず固まる。

 

覚えていたか。

 

「……はい」

「何に驚かれたのです」

 

そこを聞かれるか、と心の中で少しだけ天を仰いだ。

 

だが、お市殿は完全に面白がっているわけではない。

たぶん、本当に気になったのだろう。

 

「それは」

少しだけ咳払いをする。

「起きた瞬間、婚礼とお市殿のことが、一拍遅れて腹へ落ちてきたためにございます」

 

お市殿の目が、少しだけ丸くなった。

 

「一拍遅れて」

「はい」

「私は、すぐ脇にいたのですが」

「おりました」

「それでも、ですか」

「それでも、にございます」

 

そこまで正直に言うと、さすがにお市殿も少しだけ笑った。

 

「治部殿は」

「はい」

「やはり少し、面白いお方ですね」

「妙なものを作ったり考えたりするだけではなく、にございますか」

「ええ」

 

その返しで、二人とも少しだけ笑った。

 

たぶんこれが、最初の朝の形なのだろうと思った。

甘やかに寄り添うというより、

少しずつ相手の癖を見つけ、言葉の置き方を覚え、

時々こちらが一手遅れて、それを向こうが静かに拾う。

 

その時、また障子の向こうで女中の気配が動く。

 

本当に、朝が始まる。

 

お市殿は立ち上がった。

 

「では」

「はい」

「治部殿、まずはお顔をお洗い下さいませ」

「……はい」

「そのまま皆の前へ出られるのは、さすがに少し」

 

そこまで言って、お市殿は言葉を切った。

 

「少し、にございますか」

「かなり、にございます」

 

今度は、俺もさすがに笑った。

 

「承知致しました」

「よろしい」

 

その“よろしい”は、昨夜のものより少しだけ軽い。

夫婦としての最初の朝にふさわしいくらいの重さだ。

 

お市殿が障子の方へ向かわれる。

その背を見ながら、俺は小さく息を吐いた。

 

桶狭間とも。

西美濃とも。

墨俣とも違う。

 

だが、この朝のやり取りもまた、たぶん一つの始まりなのだろう。

 

盤の外でも考えろ。

先に申せ。

戻って来い。

顔を見せろ。

 

そういう言葉が、少しずつ日常の形へ変わっていく。

 

「……これは」

一人になってから、思わず小さく呟く。

「たしかに、頭が上がらぬな」

 

だが不思議と、それは苦いばかりではなかった。

 

むしろ、少しだけ心地よかった。

 

 

朝餉が済む頃には、座の空気もすっかり落ち着いていた。

 

上総介兄上は最後まで丸い世界図の話を蒸し返しかけたが、土田御前に一度きっちり目で制され、さすがにそこで引いた。

勘十郎兄上は最初からその流れを見越していたらしく、淡々と食を進めていた。

父上は、まだ時折ふっと「本家の姫君ぞ」と思い出している顔をしていたが、宴の夜ほど涙に寄ることはなかった。

又六郎は、昨夜より少しだけ背を伸ばして座っていた。

 

そうした一座を離れたあと、俺はお市殿と並んで、少し奥まった一室へ移った。

 

大げさな場ではない。

ただ、文を広げたり、手元の細工物を見せたりするにはちょうどよいくらいの部屋だ。

 

お市殿が座に着かれる。

俺もその向かいへ座し、一度だけ息を整えた。

 

「治部殿」

「はい」

「兄上がいないと、少し静かですね」

 

その言い方に、思わず少しだけ笑った。

 

「たしかに」

「ですが、その方が下絵は見やすいかもしれませぬ」

「それも、たしかに」

 

お市殿は、もう少しこちらの扱い方を掴み始めているらしい。

こういうふうに一言軽く置かれると、こちらの肩の力が少し抜ける。

 

俺は文箱から、巻いた紙を二つ三つ取り出した。

 

お市殿の目が、静かにそこへ向く。

 

「それが」

「はい」

「丸い世界図の下絵にございます」

「“地球儀”でしたか」

 

そこを拾われて、俺は少しだけ口元を緩めた。

 

「その名は、まだ兄上方の前で申しても“何だそれは”になりますゆえ」

「私も、最初はそう思いました」

「はい」

「ですが今は、少なくとも“丸いものへ世界を写す図”なのだろうとは分かります」

 

それだけで十分だった。

 

俺は最初の紙を広げる。

 

そこには、球へ写す前段として、平たく置いた世界の粗い割り付けがある。

東西南北も、前世の知識そのままではない。

今の時代に見聞として通っている地名や海路と、俺の知識をどう重ねるか、その折り合いを付けた下絵だ。

 

お市殿は、すぐには口を開かなかった。

その静けさは、戸惑っている静けさではない。

“見ている”静けさだ。

 

やがて、少しだけ首を傾けられる。

 

「思っていたより」

「はい」

「ずっと細かいのですね」

 

「丸いという話だけでは、珍しさで終わります」

俺は答える。

「ですが、写す中身が粗ければ、ただの妙な球にございます」

 

お市殿が、そこでわずかに目を細められる。

 

「やはり、治部殿はそういうところまできちんと詰めるのですね」

「詰めぬと、あとで自分が気に入らぬので」

「それは、少し分かる気が致します」

 

そう言われると妙に嬉しい。

 

お市殿は、紙の端へ指先を寄せた。

 

「これは」

「はい」

「日の本」

「はい」

「こちらが明国」

「はい」

「では、その向こうは」

「南蛮に近うございます」

「このように、遠いのですか」

 

そこは、説明し甲斐のある問いだった。

 

「遠うございます。ですが、海は一続きゆえ、繋がってもおります」

お市殿は黙って聞いている。

「ゆえに、丸いものへ写す意味がございます」

 

「平たき図では足りませぬか」

「足りぬことはございませぬ」

 

俺は、二枚目を広げた。

 

こちらは、球へ巻くための帯状の割り付けだ。

まだ荒い。

だがどう切れば歪みが少ないか、そこを見せるには十分だった。

 

「ただ、平たき図では、遠いものほど伸びたり縮んだりしやすい」

「伸びる」

「はい。無理に平たくするからにございます」

 

お市殿は、少し考えるようにその紙を見つめられた。

 

「ですから」

「はい」

「こうして幾つかに分けて、丸いものへ貼るのですね」

 

そこをすぐ拾われるのは、やはりお市殿らしい。

 

「まさしく、その通りにございます」

「兄上なら、最初の“丸い”で喜んでおしまいですが」

「ええ」

「治部殿は、その後を詰める」

「詰めてこそ、上総介兄上も後で何度も見返して下さいます」

「それはそうでしょうね」

 

お市殿が、ほんの少し笑った。

 

その笑みを見ていると、これがただの贈り物選びではなくなっているのが分かる。

俺が考えたものを、お市殿へ見せる。

お市殿がそれを見て、問い、拾い、少し手を入れる。

それは、まだ小さい。

だが確かに、二人で一つのものを形にする最初の作業に近かった。

 

お市殿が、次の紙へ目を移す。

 

「これは、台座にございますか」

「はい」

「ここへ軸を通して」

「回せるように」

「兄上が大喜びなさいますね」

「そこは、否定致しませぬ」

「否定なさらぬのですね」

「はい」

 

お市殿は、また少しだけ笑った。

 

「では、兄上に長く取られぬように、先に私が見ておくべきですね」

「そのための下絵にございます」

 

その言い方に、お市殿の目が少しだけ和らぐ。

 

「そうでしたか」

「はい」

 

少し間があいた。

 

部屋は静かだ。

外では、まだ婚礼支度の名残のような人の気配がある。

だがここは、別の時間が流れている。

 

お市殿は、その静けさの中で、もう一度紙を見て言った。

 

「治部殿」

「はい」

「これは、婚礼祝いなのでしょう」

「はい」

「ですが、ただ私を驚かせるためのものではありませんね」

 

その問いは、たぶん本質だった。

 

俺は少しだけ考えてから答えた。

 

「驚いて頂けるなら、それは嬉しゅうございます」

「はい」

「ですが、それだけではございませぬ」

「では」

「お市殿が、兄上方とは別の仕方で見て下さると思うたので」

 

それは本音だった。

 

信長は面白がる。

信勝は理で追う。

信張は“また妙なことを”と言いながら結局働きに変える。

だが、お市殿はたぶん、それだけではない。

 

「別の仕方」

「はい」

「どういう」

「……それは、まだ某にも、うまく申せませぬ」

 

お市殿は、その答えに少しだけ目を細められた。

 

だが責めるふうではない。

 

「では、見てから考えることに致します」

「ありがたき幸せ」

「また、それにございますか」

「いまのところ、それが一番近いので」

「よろしいことです」

 

そのやり取りで、また少しだけ空気が柔らかくなる。

 

お市殿は、紙の一角を指先で示した。

 

「ここは、もう少し見やすくならぬのですか」

「どこにございます」

「この海と、この陸の境」

 

俺はそちらへ身を乗り出した。

 

なるほど、たしかに少し詰まりすぎている。

球へ貼ることを考えるあまり、境が細かくなりすぎていた。

 

「……たしかに」

「ここは、もう少し太く引いた方が、遠目にも分かりやすいかと」

「その通りにございます」

 

そう言って、俺はすぐ脇へ控えていた小さな板へ、修正の走り書きを置いた。

 

お市殿が、それを見て少し驚いたように言われる。

 

「すぐ直されるのですね」

「良いと思えば、すぐ入れた方が忘れませぬ」

「そういうところも、働き者ですこと」

「そこは、もう否定致しませぬ」

「よろしい」

 

お市殿は、静かに頷いた。

 

こうして一つ、また一つと見ていくうち、いつしか時間の流れ方が少し変わっていた。

 

見せる。

聞かれる。

答える。

直す。

 

それだけのことだ。

だが、その繰り返しの中で、昨日までにはなかった“並び”が少しずつ形になっていく。

 

お市殿が、最後に下絵を見渡して言った。

 

「これは」

「はい」

「本当に、兄上が先に持って行ってしまいそうですね」

「それが、一番の懸念にございます」

 

「でしたら」

お市殿は、ほんの少しだけ楽しそうに言われる。

「出来上がったら、まず私の部屋へ持って来なさいませ」

 

その言い方は、命とも違う。

頼みとも違う。

もっと自然に、“そうするもの”として置かれた言葉だった。

 

「承知致しました」

「そのあとで、兄上へ見せましょう」

「はい」

 

「順を違えれば」

そこで、ほんの少しだけ目を細める。

「また、墨俣の時のように話は別です、と申します」

 

思わず、こちらも少し笑った。

 

「今度は違えませぬ」

「よろしい」

 

その“よろしい”が落ちた時、ようやく思った。

 

ああ、これはたしかに、最初の共同作業だったのだろうと。

 

砦でもなく。

婚礼の段取りでもなく。

二人で一つのものを、見て、話して、少し直して、形にしていく。

 

それは小さい。

だが、小さいからこそ、きっと大事なのだ。

 

外では、まだ誰かが廊を走っていた。

城の時間は止まらない。

だがこの部屋の中では、丸い世界図の紙の上に、少しだけ別の時間が流れていた。

 

 

 

 

 

 

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