織田家の嫡子~藤左衛門家の特異点   作:デトロ!開けろイト市警だ!

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016治部家家臣団

小田井城でのある日のことだった。

 

本当に、何でもない時だったと思う。

 

軍議の最中でもなければ、評定でもない。

慶次郎と助右衛門が珍しく揃って、俺の側でだらだらしていた。いや、助右衛門はだらだらしていたわけじゃないな。あいつは座っているだけで、何となく「待機中の槍」みたいな空気になる。だらだらしていたのは、主に慶次郎の方だ。

 

俺はその日も、何かの帳面を見ていた。

兵糧か、人の出入りか、どっちかだ。こういう時代に生きていると、派手な戦の裏で、結局一番多く見るのは紙と人の顔になる。

 

で、ふと、本当にふとだ。

 

前の人生の知識が、何の脈絡もなく浮いた。

 

前田慶次郎。

有名だ。

有名すぎる。

 

そこまでは、まあいつものことなんだが、その次だ。

 

そういえば、こいつ、滝川一族の出だったはずだよな。

 

その瞬間、頭の中で別の名前が跳ねた。

 

滝川一益。

 

俺は帳面から目を上げて、慶次郎を見た。

 

「なあ、慶次郎」

「何だ、治部殿」

 

「そういえば」

俺は少し首を傾げる。

「織田家家臣団に、滝川左近将監はいないよな」

 

慶次郎が、ちょっとだけ目を瞬いた。

 

驚いた、というより、何で今そこへ飛ぶ、という顔だった。

 

「ああ」

と慶次郎。

「左近将監なら、伊賀か伊勢のどこかにおります」

 

俺は思わず身を乗り出した。

 

「どこかの家中に出仕してるのか?」

「いえ、浪人中です」

 

あまりにもあっさり返ってきて、逆に一拍止まった。

 

浪人中。

 

いや、待て。

それ、待てよ。

 

「おお」

と慶次郎が、そこで少し面白そうに口元を上げる。

「治部殿が雇っていただけるなら、ありがた――」

 

「連れて来て!」

 

慶次郎が止まった。

助右衛門も止まった。

 

空気まで一瞬止まった気がした。

 

慶次郎が、やや遅れて言う。

 

「……は?」

 

「連れて来て」

俺は念を押した。

「今すぐ」

 

「今すぐって」

「今すぐだよ」

 

「いや、治部殿」

慶次郎がさすがに笑う。

「左近将監は、一人でふらっと歩いてるわけじゃありません」

 

「うん」

「一族を連れております」

「一族全員!」

 

今度こそ、慶次郎は完全に黙った。

助右衛門が、静かにこっちを見る。

 

その目は「また始まった」という目だった。

失礼な話だが、完全には否定出来ない。

 

「治部殿」

と慶次郎。

「本気か」

 

「本気だよ」

「左近将監だけでなく?」

「一族ごと」

「食わせると」

「食わせる」

「住まわせると」

「住まわせる」

「武辺だけじゃないぞ」

「分かってる」

「老人も女も子もいる」

「だから一族全員なんだろ」

 

慶次郎は、そこで初めて完全に笑いを引っ込めた。

 

俺の顔を少し見て、それから、ああ、こいつ本当にその気だな、って顔になる。

 

「承知しました」

「よし」

 

「しかし」

と慶次郎は続けた。

「ずいぶん食いつきましたな」

 

「そりゃ食いつくだろ」

俺は思わず言い返した。

「滝川左近将監一益だぞ」

 

「……」

「来るなら、来てもらうに決まってる」

 

助右衛門が、そこで一つだけ低く言った。

 

「そこまでか」

「そこまでだよ」

 

俺は帳面を閉じた。

 

ここは、説明しづらい。

いや、説明しようと思えば出来る。

出来るが、そのまま言ったら俺の頭がおかしいと思われる。

 

前田慶次郎は有名だ。

前の人生でも、名前だけなら知らない方がおかしいくらい有名だった。

 

で、そういう名前の知名度って、時々妙な連鎖を連れてくる。

 

花の慶次。

 

あれを読んでいれば、慶次郎だけ切り離して考える方が難しい。

あの男の横にいるべき奴がいる。

無駄口少なくて、骨太で、慶次郎と並んだ時に妙に絵が締まる奴だ。

 

奥村助右衛門。

 

俺は、目の前の助右衛門を見た。

 

こいつがもういる時点で、だいぶ嬉しい。

嬉しいんだが、そこで終わりじゃない。

慶次郎がいて、助右衛門がいて、さらに滝川左近将監一益まで来るとなったら、そりゃ食いつくに決まってる。

 

前の人生の漫画知識だけで人材登用を決めてるみたいで、我ながら少し嫌だなとは思う。

だが、嫌でも何でも、使える奴が来るなら使う。

しかも、浪人中で、一族ごと抱えられるなら、なおさらだ。

 

「治部殿」

と慶次郎が言う。

「左近将監を何だと思っておる」

 

「有能な武辺で」

「うむ」

「ただ前へ出るだけじゃなくて引き際も判断できる」

「うむ」

「任せたらちゃんと任された分を回せる奴。鉄砲の名手で、城主としても有能。忍の者とも縁がある」

 

慶次郎が、少しだけ眉を上げる。

 

「……ほう」

 

「それに」

俺は助右衛門も見る。

「お前らと並べた時に、締まる。俺の代わりに前線で指揮できる。十兵衛殿とは違った運用が出来るし、左近将監がいれば十兵衛殿をもっと内治に寄せることができる」

 

助右衛門は無言だった。

慶次郎は、そこで吹き出した。

 

「締まる、だと?」

「そうだよ」

「人を掛け軸か何かみたいに言うな」

「実際そういう見方も大事だろ」

「何だその見方は」

「分かる奴が並ぶと、戦の形が締まるんだよ」

 

「理屈のようでいて」

慶次郎は肩を揺らした。

「だいぶ雑ですな」

 

「雑でも合ってるならいいだろ」

 

助右衛門が、そこで短く言う。

 

「間違ってはおりませぬ」

 

俺はそっちを見た。

 

「お前、それ認めるんだ」

 

「その、滝川左近将監が来れば」

助右衛門は淡々としている。

「確かに締まるでしょう」

 

慶次郎が、面白くなさそうな顔を少しだけした。

 

「何だ、助右衛門」

「は」

「お前、左近将監びいきか」

「びいきではない」

「なら何だ」

「強い者が増えるのは良いことだ」

 

その返しに、今度は俺が笑った。

 

本当に、こういうところだよな、助右衛門は。

 

色気がない。

飾りもない。

だが、その実、変なところで話を綺麗に地面へ下ろす。

 

「聞いたか、慶次郎」

「聞いた」

「お前よりよっぽど素直だぞ」

「助右衛門と比べられて嬉しい男は少ないぞ」

「俺は別に嬉しくなくていい」

「治部殿は時々、本当にひどい」

 

慶次郎はそう言いながらも、口元は笑っていた。

 

あいつも分かってるんだろう。

俺が冗談半分で言ってるわけじゃないってことを。

 

「どれくらいで行ける」

 

「そうですな」

と慶次郎は少し考えた。

「今いる場所次第ですが」

 

「うん」

「探して、話をつけて、一族ごと動かすとなると」

「うん」

「少しはかかる」

「でも行くんだろ」

 

「行きます」

慶次郎は頷く。

「治部殿がそこまで言うなら」

 

「よし」

「ただし」

「何だ」

「連れて来たあとで、“何か思ってたのと違う”は無しです」

「ねえよ」

「本当に?」

「本当だよ」

「一族全員だぞ」

「だから一族全員でいいって言ってるだろ」

 

慶次郎は、そこでようやく観念したみたいに息を吐いた。

 

「承知しました」

「よし」

「左近将監一人ではなく」

「うん」

「一族ごと、連れて参ります」

 

それを聞いた瞬間、俺の頭の中で、何か一つ階梯が進んだ気がした。

 

まだ来てもいない。

話もついていない。

道中で何があるかも分からない。

 

だが、それでも分かる。

こういう「まだ居ない奴」を先に手の内へ入れられる時、戦国は少しだけこちらへ寄る。

 

「治部殿」

と慶次郎が、立ち上がりながら言う。

「一つ聞いてよろしいか」

 

「何だ」

「左近将監の名を、どこで聞いた」

 

俺は一瞬だけ考えて、それから肩を竦めた。

 

「何となくだよ。気比大神のお告げとでも思っとけ」

 

慶次郎は、絶対に信じていない顔をした。

助右衛門は、信じるも信じないもない顔だった。

 

「何となきゃ」

と慶次郎。

「治部殿の“何となく”ほど怪しいものはありませんな」

 

「当たるだろ」

「当たるのが困るんです」

「じゃあ、なおさら連れて来い」

「承知しました」

 

慶次郎が出ていく。

助右衛門も続く。

 

二人の背を見送りながら、俺はようやくもう一度帳面を開いた。

だが、さっきまで見ていた兵糧や人足の数字は、もう頭へ入ってこない。

 

滝川左近将監一益。

 

前の人生の知識ってのは、時々こういうふうに、変なところで急に繋がる。

戦場の先手先手だけが改変じゃない。

こういう「拾い漏らしてた名前を、今のうちに拾う」ことだって、立派な改変だ。

 

しかも今回は、一人じゃない。

一族ごとだ。

 

俺は、思わず少しだけ笑った。

 

悪くない。

いや、かなりいい。

 

慶次郎がいて、助右衛門がいて、そこへ左近将監まで来る。

どう考えても、面白くないわけがない。

 

その時点で、俺はもう、滝川一族が来た後の座組を勝手に考え始めていた。

 

 

小田井の来客用の部屋なんて、本来はもっと慎ましい場所のはずなんだが、その日は妙に狭く見えた。

 

人が多いからじゃない。

いや、人も多い。

多いが、それより一人一人の気配が濃い。

 

畳は新しくない。

柱も、那古野みたいに立派な木じゃない。

香なんて焚いてないし、障子の紙だって張り替えたばかりってほど白くもない。

 

なのに、その小座敷へ入った瞬間、俺は思った。

 

ああ、やっぱり濃いな、と。

 

一番奥に座っているのが、滝川左近将監一益。

年の頃は十兵衛と比べると若い。父上とほぼ同年代だろう。

だが、座り方が若くない。

浪人をして、一族郎党ごと連れて歩いてきた男の座り方だ。

 

痩せてはいない。

だが、余計な肉もない。

手も目も、どっちも遊んでいない。

それでいて、あからさまな殺気を出してるわけでもない。

 

こういう男は、戦場へ出しても使えるし、座敷へ置いても使える。

どっちかだけの奴より、厄介で、ありがたい。

 

左近将監の少し斜め向かいに、明智十兵衛。

その隣に竹中半兵衛。

 

こっちの二人は、もう別の意味で濃い。

 

十兵衛は、初めてこの小座敷へ通されたわけでもないくせに、まるでその場の席次ごと飲み込んで座っている。

礼を崩しているわけじゃない。

だが、いざとなれば座敷そのものを仕切れる顔をしている。

 

半兵衛は半兵衛で、十兵衛ほど表へは出ない。

出ないが、障子の紙のたるみから火桶の置き方まで、一通り見てから静かに座ったのが分かる。

あいつはそういう男だ。

何も言わない時ほど、目だけはよく働いている。

 

で、残りが慶次郎と助右衛門。

 

この二人は、もう見慣れた。

見慣れたが、改めてこういう座へ置くと、やっぱり妙だ。

 

慶次郎は、どこにいても慶次郎だ。

武辺の癖に、妙に人の顔と空気を読む。

派手に見えて、見るところは見ている。

助右衛門は逆に、最初から最後まで助右衛門だ。

静かで、硬くて、無駄がない。

あいつは派手さこそないが、座敷の中に一本槍を立てたみたいな安定感がある。

 

俺は座って、五人を一度見回した。

 

うん。

やっぱり濃い。

 

「治部様」

 

最初に口を開いたのは、左近将監だった。

 

声は低い。

だが、低いだけじゃない。

ちゃんと礼を立てた上で、距離を測っている声だ。

 

「このたびは、一族ごと召し抱えていただき、かたじけなく」

 

「いや」

俺は首を振る。

「こっちが来てほしかったんだ」

 

「……」

「左近将監が一人ならともかく、一族ごと抱えるのは重かろう、と言われはしたが」

 

「そうでしょうな」

左近将監は少しだけ口元を動かした。

「軽くはありませぬ」

 

「ならなおさらだ」

俺は笑う。

「軽くないものを、軽くないまま抱えられる時に抱えた方がいい」

 

左近将監の目が、そこで少しだけ細くなった。

 

試すような細まり方じゃない。

ああ、こいつはそういう勘定で動く若か、という細まり方だった。

 

「老人と女が多うございます」

と左近将監。

「槍働きが出来る者は、数えればすぐ尽きましょう」

 

「聞いてる」

「儀太夫益氏もおります」

「それも聞いてる。慶次郎の親父さんだっけ?」

「……」

 

「で?」

と俺は少し肩を竦めた。

「だから切る理由にはならないだろ」

 

そこへ、慶次郎が口を挟んだ。

 

「左近将監の叔父貴」

「何でしょう」

「治部殿は、そこを本当に気にしない」

 

「気にしない、ではあるまい」

と十兵衛が静かに言う。

「気にした上で、それでも要ると判断しておいでなのです」

 

左近将監の目が、今度は十兵衛へ向いた。

 

「明智殿にございますか」

「十兵衛で結構」

 

「では十兵衛殿」

左近将監はわずかに頭を下げる。

「その言い方だと、すでに長くお仕えのようだ」

 

「長くはありませぬ」

十兵衛は平然としている。

「ただ、治部様はそういうお方だと、もう知っているだけです」

 

そこへ、半兵衛が柔らかく重ねた。

 

「抱える人数が多いのは、見方を変えれば根でもあります」

 

「根」

と左近将監。

 

「はい。根のない者は、使い捨てには向きますが、家にはなりにくい」

「……」

「治部様は、人だけでなく家まで抱えようとしておいでです」

 

「買いかぶりだよ」

と俺。

「そこまで立派じゃない」

 

「立派かどうかではなく」

半兵衛は少しだけ笑う。

「やっておいでです」

 

こういうところなんだよな、この二人は。

 

話が早い。

しかも、俺が適当に誤魔化したいところまで勝手に拾って言葉にする。

便利すぎて時々腹が立つが、やっぱりありがたい。

 

左近将監が、今度は半兵衛を見る。

 

「竹中殿、ですかな」

「半兵衛です」

 

「では半兵衛殿」

左近将監は、そこでほんの少しだけ口元を緩めた。

「なるほど、たしかに、説明が半分で済みそうな顔ぶれだ」

 

「半分どころか」

と慶次郎。

「治部殿の妙な話でも、須臾で飲み込むぞ、この二人は」

 

「慶次郎」

と俺。

 

「はいはい」

慶次郎は肩を竦める。

「褒めてる」

 

助右衛門が、その横でぽつりと言った。

 

「事実ではある」

「お前まで乗るなよ」

 

そこだけで、座敷が少しだけ緩んだ。

 

左近将監も、ようやく肩の力を一つ抜いたのが分かった。

新参の一門ごと抱えられた男にとって、一番厄介なのは、無言のまま値踏みされ続けることだ。

そこを少し崩したかったから、慶次郎と助右衛門のこの手の横槍は、正直助かる。

 

俺は左近将監へ向き直った。

 

「左近将監」

「は」

「一つ、先に言っておく」

「何でしょう」

「俺は、貴殿をただの槍働きとして呼んだわけじゃない」

「……」

「戦場で使えるのは前提だ」

「は」

「だが、それだけなら他にもいる」

「……」

「忍び働きが出来るなら、その伝手も使いたい」

 

「ほう」

左近将監の目が、そこで初めてはっきり光った。

「どこまでお聞きで」

 

「甲賀の出だとか、そういう話を少し」

「少し、でございますか」

 

「少しでいい」

俺は言う。

「全部を今ここで明かせって話じゃない」

 

「……」

「ただ、伊賀や伊勢、美濃の境目あたりで、足が速くて、口が堅くて、地べたを知ってる奴は要る」

「おります」

即答だった。

 

それが良かった。

 

変に勿体ぶらない。

出来ることと出来ないことの線が引けてる男だ。

 

「なら、それでいい」

「承知しました」

 

「ただし」

俺は少しだけ笑う。

「忍びばっかり集める気はないぞ」

 

「無論にございます」

「表も裏も、両方いる」

「そのように見えます」

 

左近将監の視線が、十兵衛、半兵衛、慶次郎、助右衛門へ順に流れた。

 

たしかにそうだ。

表で筋を通す十兵衛。

裏で流れを読む半兵衛。

前で突っ込む慶次郎。

黙って割る助右衛門。

そこへ左近将監が入るなら、外の目と横の足が増える。

 

悪くないどころじゃない。

相当いい。

 

「で」

と慶次郎が、わざとらしく言う。

「治部殿」

 

「何だ」

「そろそろ、こっちも片付けていただきたい」

「何を」

「十兵衛と半兵衛だ」

 

俺は、そっちを見た。

 

この二人については、たしかに宙ぶらりんだった。

 

どっちももう、だいぶこっちへ寄っている。

話もする。

考えも共有する。

実際に、美濃の西美濃三人衆や鵜沼の虎、大沢次郎衛門の扱いだって、この二人の頭を借りずに進める気はなかった。

墨俣だってそうだ。

俺がお市との婚姻の陰で、こそこそ築砦の形を練っていた時、この二人はただ感心して見ていたわけじゃない。

見て、測って、どこまで本気かを見定めていた。

 

十兵衛が、静かに口を開く。

 

「治部様」

「うん」

「私は、貴方がただの戦上手ではないと見ました」

「……」

「西美濃三人衆をどう崩すか、鵜沼をどう扱うか、墨俣をどう築くか、それらを、別々の手ではなく、一つの流れとして見ておいでだ」

「買いかぶりだよ」

 

「いいえ」

十兵衛は首を振らない。

「そこが、仕える理由になります」

 

半兵衛が続いた。

 

「私は、築く方を見ました」

「……」

「壊す方は、武辺なら誰でも口にします」

「うん」

「ですが、治部様は壊した後に何を置くかまで、先に考えておいでだった」

「……」

「墨俣の砦もそうです。城ではなく、流れを置こうとしておられた」

「……」

「ならば、仕えるに値します」

 

小座敷が、そこで少しだけ静かになった。

 

慶次郎は、さっきまでの軽さを引っ込めている。

助右衛門も、まっすぐ二人を見ていた。

左近将監は、何も言わずに聞いている。

あいつはたぶん、こういう時の言葉の重みをちゃんと量れる男だ。

 

俺は、一度だけ息を吐いた。

 

「……分かった」

 

そして、まず十兵衛を見る。

 

「十兵衛」

「は」

「仕えてくれ」

「御意」

 

短い。

だが、それで十分だった。

 

次に半兵衛。

 

「半兵衛」

「はい」

「お前もだ」

「承りました」

 

こっちも短い。

短いが、やっぱり十分だった。

 

そこで慶次郎が、ようやく笑った。

 

「やれやれ」

「何だよ」

「これでようやく、口だけじゃなくなった」

「お前、今まで何だと思ってた」

「口と勘の集まり」

「失礼だな」

「当たってるだろ」

「半分はな」

「半分も当たってるなら十分だ」

 

助右衛門が、その横で静かに言う。

 

「違います」

 

「何がだ」

と慶次郎。

 

「口と勘だけでは、ここまでは集まりませぬ」

 

慶次郎が一拍止まり、それから笑った。

 

「……それもそうだ」

 

左近将監も、そこで初めてはっきり笑みを見せた。

 

「なるほど」

 

「何が」

と俺。

 

「この座敷が狭く見えるわけです」

左近将監はゆっくりと言った。

「人が多いのではない」

 

「……」

「人の中身が濃い」

 

「今さら気づいたか」

と慶次郎。

 

「今、確信しました」

と左近将監。

 

俺は、その返しに少しだけ笑った。

 

たしかに狭い。

小田井の、ただの来客用の部屋だ。

那古野みたいな広間じゃない。

清洲の評定座敷でもない。

 

だが、その狭い部屋に今いる五人は、たぶんこれから先の俺の戦と実務の骨になる。

 

十兵衛。

半兵衛。

慶次郎。

助右衛門。

左近将監。

 

表の筋。

裏の流れ。

前へ出る武。

黙って割る武。

そして横から潜る足。

 

俺は、その並びをもう一度見た。

 

悪くない、じゃない。

ここまで揃うなら、相当やれる。

 

「よし」

そう言って、俺は手元の紙を引き寄せた。

「じゃあ、早速働いてもらう」

 

「早いですな」

と半兵衛。

 

「早い」

と十兵衛。

 

「だが、そうでなくては」

と左近将監。

 

「当然です」

と助右衛門。

 

慶次郎だけが、少しだけ面白そうに笑う。

 

「治部殿」

「何だ」

「やっぱり、手柄首の匂いがする」

「首だけ見てると置いていくぞ」

「なら、その少し横を見ることにします」

 

そう言った慶次郎の顔が、妙に嬉しそうだった。

たぶん俺も、似たような顔をしていたんだろう。

 

 

小田井の小座敷で、あの五人が一度に揃った夜、俺はさすがに少しだけ頭を抱えた。

 

抱えたといっても、人が集まりすぎて困った、という贅沢な悩みだ。

だが、戦国の贅沢な悩みは、大抵そのまま兵糧と銭の悩みへ変わる。

 

十兵衛。

半兵衛。

慶次郎。

助右衛門。

左近将監。

 

この五人だけなら、まだいい。

 

問題は、その後ろにいる人間だ。

左近将監は一人で来たわけじゃない。

慶次郎が連れてきた滝川一族は、おおよそ三十人。老人、女、子が多い。槍働きが出来るのは数えればすぐ尽きる。慶次郎の実の父親である儀太夫益氏もいるし、食わせ、住まわせ、冬を越させるとなれば、ただ「面白い面子が増えた」で済む話じゃない。

 

俺の今の知行で不可能とは言わない。

言わないが、かなり赤い。

というより、下手をすると見栄だけで回してる家に見える。

 

それは駄目だ。

 

人を集める時、勢いで集めるのはいい。

だが、集めた後で「やっぱり食えませんでした」は最悪だ。

特に今回は、一族ごと抱えた。

なら最初に詰めるべきは、武功の分け前より先に、食わせる仕組みの方だった。

 

だから翌日、俺は清州城へ上がった。

上総介兄上と勘十郎兄上へ、正式に報告を入れるためだ。

 

小田井で拾ってきた武辺を、勝手に手元へ溜め込んでます、じゃ済まない。

しかも今回は十兵衛と半兵衛まで正式に仕えると決まった。

ここを曖昧にすると、あとで家中の評判が濁る。

 

上総介兄上の前へ出ると、勘十郎兄上も一緒だった。

 

この二人が並んでいると、話が早くて助かる。

その代わり、言い訳はあまり通らない。

 

「太郎左衛門」

と上総介兄上。

 

「ふん、顔が少し渋いな」

「良い渋さならよいのですが」

 

勘十郎兄上が、そこで口元を少しだけ上げた。

 

「人は集めた」

「は」

「で、銭だな」

「……はい」

 

やっぱり早い。

この兄上は、こういうところが本当に早い。

 

「申してみよ」

と上総介兄上。

 

俺は頭を下げた。

 

「まず、ご報告にございます」

「うむ」

「滝川左近将監一益、一族ごと小田井へ入っております」

「聞いておる」

「は」

 

「それと」

俺は続ける。

「明智十兵衛、竹中半兵衛の両名も、正式に某へ仕える旨、定まりました」

 

「……」

「美濃での西美濃三人衆、鵜沼の虎、大沢次郎左衛門への対応、墨俣築砦、それらを見て、決めたとのことです」

 

上総介兄上の目が、わずかに細くなった。

 

「そうか」

 

短い。

だが、悪くない時の短さだ。

 

勘十郎兄上が言う。

 

「慶次郎、助右衛門、左近将監、十兵衛、半兵衛」

「はい」

「ずいぶん面倒な連中が揃ったな」

「ありがたいことにございます」

 

「ありがたいが」

兄上は少しだけ肩を竦めた。

「お前の知行では、腹が苦しかろう」

 

「その通りです」

 

ここで見栄を張っても仕方ない。

 

俺は、はっきり言った。

 

「今のままでも回せぬことはありません」

 

「ほう」

と上総介兄上。

 

「ですが、かなり赤字に近い水準にございます」

「……」

「左近将監一族を抱え、十兵衛と半兵衛を正式に迎えた以上、今のままでは長くは持たせたくありませぬ」

「うむ」

「そこで、お願いがございます」

 

上総介兄上は顎を少し引いた。

 

「申せ」

「椎茸でございます」

 

勘十郎兄上が、そこで先に笑った。

 

「やはりそこへ行くか」

 

「行きます」

俺は真顔で答えた。

「今の俺の手元で、最も確実に銭へ換えやすいのは、椎茸です」

 

「……」

「ですので、椎茸栽培の権利を、織田本家へ買い上げていただけないかと」

 

上総介兄上は、少し黙った。

 

椎茸。

言ってしまえば地味だ。

戦の場で槍や鉄砲の話をしてる時に、急に椎茸と言い出すと、わけが分からなく見えることもある。

 

だが、この兄上はそういうところで笑わない。

 

「どう買う」

と上総介兄上。

 

「本家の名でさらに広げていただく」

「うむ」

「苗床、山の使い方、干しの流れ、売り先、それらを本家へ渡す代わりに」

「……」

「俺の側へ、まとまった銭と、今後の分け前を少し」

 

勘十郎兄上が、そこで指を軽く畳へ当てた。

 

「全部を手放す気か」

「全部ではありません」

「うむ」

「元の仕組みと、次の改良は俺の手元へ残します」

「なるほど」

 

そこが分かる兄上で助かる。

 

ただ売るだけなら、その場しのぎで終わる。

大事なのは、今ある利を本家へ渡し、その代わり次の利を作る余地を自分の手元へ残すことだ。

 

「左近将監一族を養うため、か」

と上総介兄上。

 

「それだけではございませぬ」

俺は答えた。

「十兵衛と半兵衛は、使い捨ての客将で抱えるべき人材ではありません」

 

「……」

「慶次郎と助右衛門も、ただ戦場で働かせるだけでは損です」

「……」

「ここで家の形にしておきとうございます」

 

上総介兄上の口元が、ほんの少し動いた。

 

面白がっている時の顔だった。

 

「家の形、か」

 

「は」

 

「お前は時々、若いくせに年寄りじみたことを言う」

「若いからこそ、急いでおります」

 

勘十郎兄上が、その横で笑う。

 

「上手く返したつもりだろうが」

「つもりではあります」

「半分は出来ている」

 

そこで、上総介兄上が言った。

 

「椎茸は買おう」

 

俺は頭を下げた。

 

「ありがたき幸せ」

 

「ただし」

兄上は続ける。

「買うだけでは足りぬな」

 

「……」

「お前、今どこにおる」

「小田井の城の一角にございます」

「嫁は」

「お市が来ております」

「お市はどこにおる」

「清州の城、にございます」

 

「……」

そこで、兄上は本当にあからさまに呆れた顔をした。

「お前」

 

「は」

 

「よくそれで今まで黙っておったな」

 

俺は返事に少し詰まった。

 

黙っていた、というより、動いていたら後回しになった、が正しい。

だが、正しいからといって褒められる話じゃないのも分かる。

 

勘十郎兄上が、代わりに深く息を吐いた。

 

「兄上」

「何だ」

「これはさすがに、小田井の一角へ部屋住みのまま使っている場合ではありますまい」

「うむ」

「桶狭間、その後の美濃切り崩し、墨俣、家中の人材吸着」

「……」

「ここまで来てなお、小田井の隅へ置いておくのは、働かせ方として下手です」

 

上総介兄上は、そこで即座に頷いた。

 

「光明寺へ入れ」

 

俺は、一瞬だけ言葉を失った。

 

光明寺城。

 

そこはただの寝所じゃない。

城だ。

預かるとなれば、形だけじゃなく実が伴う。

 

「光明寺、にございますか」

 

「そうだ」

と上総介兄上。

「城代として置く」

 

「……」

「知行も増やす」

「……」

「それで左近将監一族も養え」

「は」

 

勘十郎兄上が、そこで静かに重ねる。

 

「ちょうどよい」

「……」

「尾張の内で、お前をただの寄宿の若にしておく時期は、もう過ぎた」

「……」

「光明寺なら、小田井とも本家とも切れぬし、対美濃の最前線にも近い」

「はい」

「その上で、家を立てるには悪くない」

 

俺は、ようやく深く頭を下げた。

 

「ありがたきことにございます」

 

「お市も入れるぞ」

と上総介兄上。

 

その一言が、妙に胸へ来た。

 

戦のこと。

銭のこと。

家臣のこと。

そればかり考えていたが、そうだ。

お市だって、今は小田井の一角へ押し込められてるようなものだった。

 

「は」

と俺。

「それは、ぜひ」

 

「ぜひ、か」

勘十郎兄上が口元を少し上げる。

「その返事は早いな」

 

「そこは早くて当然でしょう」

「今さら素直だな」

「今さらです」

 

上総介兄上が、そこで鼻で笑った。

 

「よい」

「……」

「椎茸は本家で買う」

「光明寺はお前に預ける」

「知行も増やす」

「……」

 

「その代わり」

兄上はまっすぐ俺を見た。

「今まで以上に働け」

 

「はっ」

 

それしかない。

 

だが、その「今まで以上」が、少し嬉しかった。

働きを見た上で、なお次の働きを置かれる。

それはつまり、まだ使う価値があると思われているということだ。

 

備後守様のところへも話はすぐ回ったらしい。

あとで聞けば、

「ようやくか」

と笑ったという。

 

たぶん、そうだろうなと思う。

慶次郎に伝えると、あいつはまず言った。

 

「城か」

「城だ」

「似合うようで」

「うん」

「まだ似合わねえな」

「お前、そこはぶれねえな」

「そのうち似合う」

「前にも聞いた」

 

助右衛門は、短く一言だった。

 

「よろしいかと」

 

十兵衛は、もっと露骨に安堵した顔をした。

 

「これでようやく、身の置き方が整います」

 

半兵衛は頷く。

 

「銭の流れも、だいぶ楽になります。椎茸も無駄にならない。むしろ、広がるでしょう」

 

左近将監は、しばらく黙ってから言った。

 

「治部様」

「何だ」

「よい主に当たりましたな」

「俺がか」

「我ら一族が、にございます」

 

そこは、少しだけ照れた。

 

だが、否定もしなかった。

 

光明寺城。

知行増し。

椎茸の権利売り。

お市の移り住み。

 

一つずつ見れば地味だ。

だが、その全部が揃うと、ようやく「寄ってきた人材を、勢いだけでなく、家として抱える」形になる。

 

その夜、小田井へ戻ってから、俺は一人で少しだけ考えた。

 

桶狭間で首を追った日から、盤がまた一つ進んだ。

十兵衛がいる。

半兵衛がいる。

慶次郎と助右衛門がいる。

左近将監一族もいる。

 

そして、お市が光明寺へ来る。

 

それはただ住む場所が変わる話じゃない。

戦の若が、ようやく「家」を持ち始める話だ。

 

悪くない。

いや、かなりいい。

 

そう思ったところで、俺はようやく本当に息を吐いた。

 

 

光明寺城へ、お市が入った。

 

ただそれだけのことなのに、城の空気が変わるのが分かった。

 

門の内へ入ってくるのは、お市だけじゃない。

下女。

女房。

荷。

衣装箱。

奥で使う小さな道具。

香の匂いが移った布。

そういう「戦の城」には本来まだ薄かったものが、一つずつ入ってくる。

 

俺は城門の内側で、それを見ていた。

 

光明寺城は、まだ俺の城になりきっていない。

いや、城代として預かった以上、名目ではもう俺の城だ。

だが、名目と実感は違う。

 

戦場で首を追うのと違って、城ってのは人が入って初めて主の手触りが出る。

兵だけじゃ足りない。

台所と水と寝所と、奥の空気まで入って、ようやく「ここが家だ」と言える。

 

お市は輿から降りると、まず城そのものを一度見た。

 

じろじろ眺めるんじゃない。

一目で、高さ、動線、奥の置き場、女房衆がどこを通るかまで測ってる目だ。

 

それから俺を見る。

 

「迎えに出てくださったのですね」

「出るだろ、そこは」

「そうですか」

 

口ではそう言うが、お市の目は少しだけ柔らかかった。

たぶん、そこを見ていたんだろう。

城代になったからって、城の中でふんぞり返ってる男じゃないかどうかを。

 

「中はまだ少し雑だ」

と俺は言った。

「普請も残ってる」

 

「雑でもよいのです」

お市は静かに返す。

「筋が通っていれば」

 

そこは、さすがに俺も少し笑った。

 

「耳が痛いな」

「痛がるぐらいなら、まだ大丈夫でしょう」

 

そう言って、お市は下女や女房たちへ短く指示を飛ばした。

それだけで人が散る。

誰がどこへ箱を運び、誰が奥へ先に入り、誰が水場を見るか。

一気に決まる。

 

やっぱり、この人は奥向きの主だ。

 

俺が戦と銭と普請で頭を使ってる間に、お市は城の奥を人が住める形へ変えていく。

この噛み合い方は大きい。

 

そのまま、家臣団との顔合わせを小広間でやった。

 

大げさな評定の間じゃない。

あくまで「家の主筋が入りました」の顔見せだ。

だが、こういう時の置き方を間違えると、あとでじわじわ効く。

 

まず十兵衛。

次に半兵衛。

慶次郎。

助右衛門。

左近将監。

その順で出した。

 

お市は座して、全員の礼を受けた。

受け方がまた良かった。

高すぎず、低すぎず。

本家の姫としての格を落とさず、それでいて「城代の妻としてこの城へ入った」温度で受ける。

 

十兵衛が最初に頭を下げる。

 

「お市様。このたびは、光明寺城へようこそお入りくださいました」

 

「明智十兵衛殿」

とお市。

「治部をよくお支えくださっているとうかがっています」

 

「身に余るお言葉」

十兵衛は静かに答える。

「今後は、お市様にもこの城の奥を整えていただけるかと」

 

お市はわずかに頷いた。

 

「こちらこそ」

 

短い。

だが、それで十分だ。

 

半兵衛はもっと柔らかく出た。

 

「台所と蔵は、後ほど一通りご覧いただければと」

 

「ええ」

とお市。

「そこは、私も早く見ておきたいところです」

 

それを聞いて、半兵衛の目が少しだけ和らいだ。

あいつは台所と蔵を軽く見る奴を信用しない。

だから、今の一言でだいぶ腹へ落ちたはずだ。

 

慶次郎は、いつも通りだ。

 

「お市様」

「慶次郎殿」

「ようやく城らしくなりますな」

 

俺はすぐに横から口を挟んだ。

 

「お前、それ褒めてるようでだいぶ失礼だぞ」

「褒めております」

「どこがだ」

「治部殿一人では、どうしても城が“陣所の延長”で止まる」

「……」

「そこへお市様が入られれば、ようやく家になる」

 

そこで、お市が少しだけ笑った。

 

「では、褒め言葉として受け取っておきます」

 

慶次郎は満足そうに頷いた。

助右衛門は、いつも通り短い。

 

「助右衛門にございます」

 

「よろしくお願いいたします」

とお市。

「治部の前へ立ってくださる方だとうかがっています」

 

「前へは出ます」

助右衛門は言った。

「ですが、背は預かります」

 

その返しに、お市の目が少しだけ真面目になった。

 

「それは、ありがたいことです」

 

助右衛門は頷いた。

こいつは、ああいう言葉を軽く受けない。

だからこそ信じられる。

 

最後に左近将監。

 

「滝川左近将監一益にございます。一族ごと、この城へお世話になります」

 

「こちらこそ」

とお市。

「治部が、是非とも来てほしかったと申しておりました」

 

「ありがたきことにございます」

左近将監は低く返す。

「その言葉に恥じぬよう働きます」

 

顔合わせはそれで終えた。

長くはやらない。

長くやると形ばかりになる。

 

ただ、短くても分かることは多い。

 

十兵衛は、お市を見て奥の筋が通ると判断した。

半兵衛は台所が話せる相手だと見た。

慶次郎は城がようやく家になると思ってる。

助右衛門は「背を預かる」と言った。

左近将監は、主筋の格を見て安心した。

 

悪くない。

相当いい。

 

顔合わせが一段落して、人が少し引いたあとだった。

 

俺は十兵衛と左近将監を残した。

半兵衛も、どうせ勝手に残ると思っていたが、案の定残った。

慶次郎と助右衛門も、そのままいた。

 

お市は奥へ入る前にこっちを見た。

 

「まだ何か」

 

「少しだけ」

と俺。

「鉄砲の話だ」

 

お市は、それで全部察した顔をした。

 

「では、私は奥を見てきます」

「頼む」

「ええ」

 

下女や女房たちを連れて、お市は奥へ消える。

背筋がまっすぐだ。

あの人が入ると、本当に城の奥が奥になる。

 

それを見送ってから、俺は十兵衛と左近将監を見た。

 

「二人とも、鉄砲は分かるよな」

 

十兵衛の目がわずかに動く。

左近将監は、もっと露骨に動いた。

 

「治部様」

と十兵衛。

「分かる、とは」

 

「名手って意味だよ」

「……」

「少なくとも、俺よりはずっと」

 

左近将監が、そこで少しだけ口元を上げた。

 

「そう申されると、否定しにくいですな」

 

「否定しなくていい」

俺は床の上へ簡単な線を指で引いた。

「聞きたいのは別だ」

 

十兵衛も左近将監も、黙って手元を見た。

 

「敵がまっすぐ追ってくるとして」

「……」

「こっちが少し引く」

 

「はい」

と十兵衛。

 

「で、追わせる」

 

「うむ」

左近将監が頷く。

 

「その先で、横から撃つ」

俺は線を交差させた。

「左右から」

 

「……」

「いわば十字で挟む形だ」

「……」

「これ、効くよな」

 

二人とも、そこで完全に黙った。

 

慶次郎が先に反応した。

 

「おい」

「何だ」

「鉄砲の素人が、そこへ気づくか普通」

「気づいただけだよ」

「気づき方が嫌だ」

 

半兵衛は、口元だけ少し動かした。

 

「確かに嫌ですな」

「お前まで言うか」

 

十兵衛が、ようやく息を吐いた。

 

「効きます」

「だよな」

 

「ただし」

十兵衛はすぐ続ける。

「ただ横へ置けばよいわけではありませぬ」

 

「うん」

「撃つ地点へ、敵が十分に入り込む必要があります」

「だから引く」

 

「はい」

十兵衛は頷く。

「しかも、ただ逃げるのではなく、“崩れた”と思わせて引く」

 

「……」

「そこまで考えておいででしたか」

 

今度は左近将監が、少し低い声で言った。

 

「疑似撤退、にございますな」

 

俺は頷いた。

 

「本当に崩れたら意味がない」

「はい」

「だが、崩れたように見せて追わせる」

「……」

「その先で十字砲火」

「……」

「そこで殺し間を発動する」

 

左近将監と十兵衛が、ほとんど同時に俺を見た。

 

その顔が、よく似ていた。

 

鉄砲の素人がそこまで読むか、という顔。

それから、その先に、やはり主に選んだだけはある、という納得が乗る顔。

 

十兵衛が静かに言う。

 

「さすがに」

「何だ」

「そこまで見ておられるなら、こちらも怠けられませぬ」

 

左近将監も、低く頷いた。

 

「ただ撃てる者を集めるだけでは足りませぬな」

「そうだ」

「引く隊」

「誘う隊」

「横で待つ隊」

「それぞれの息が合わねば、ただの崩れになります」

「うん」

「だが、合えば強い」

 

「非常に強い」

と十兵衛。

「敵が勝ちを確信して前へ伸びたところへ、横から火を浴びせるわけですから」

 

慶次郎が、そこで鼻を鳴らした。

 

「嫌な主だな」

「褒め言葉として受け取る」

「そういうところだよ」

 

助右衛門は、いつもの調子で短く言う。

 

「だが、良い」

「お前はいつも結論だけだな」

「十分かと」

 

左近将監が、そこで俺へ向き直った。

 

「治部様」

「何だ」

「今は何挺ございます」

「十あるかないかだ」

「……」

「まだ十名程度の鉄砲隊だよ」

 

「なら」

左近将監は言う。

「今のうちが良い」

 

「うん」

 

「数が少ないうちに、型を叩き込めます」

十兵衛も頷いた。

「多くなってから覚えさせるより、芯を持った十人を先に作る方が早い」

 

「……」

「その十人が、のちの百人を育てます」

 

俺はそこで、ようやく腹が決まった。

 

「じゃあ頼む」

二人とも、こっちを見る。

「十兵衛、左近将監」

 

「は」

「鉄砲隊の育成を請け負ってくれ」

「は」

「今は十名程度でいい」

「……」

「だが、撃てるだけじゃ足りない」

「はい」

「引けること」

「誘えること」

「横で待てること」

「そこまで含めて仕込んでくれ」

 

左近将監は深く頭を下げた。

 

「承知仕りました」

 

十兵衛も、静かに続く。

 

「治部様の狙う形へ届くよう、整えます」

 

その返事を聞いた時、俺の中で光明寺城の意味が、また一つ変わった。

 

ただ住む城じゃない。

ただ預かる城でもない。

ここで、人を育てる。

隊を育てる。

奥を整え、兵を整え、次の戦の癖まで仕込む。

 

そういう城になる。

 

お市が奥へ入り、城が家になり始めたその日に、こっちは鉄砲隊の骨を決める。

我ながら、戦国らしいのか、実務屋らしいのか、よく分からない。

 

だが、どっちでもよかった。

 

城の奥にはお市がいる。

表には、十兵衛、半兵衛、慶次郎、助右衛門、左近将監がいる。

そして手元には、まだ十名ほどの鉄砲隊がいる。

 

少ない。

だが、少ないからこそ仕込める。

 

「よし」

 

そう言うと、慶次郎がすぐに口元を上げた。

 

「また匂ってきたな」

「何がだよ」

「手柄首だよ」

「首だけ見てると、そのうち鉄砲の横撃ちに巻き込むぞ」

 

「なら」

と慶次郎。

「その少し前で止まることにする」

 

十兵衛が小さく息を吐く。

左近将監は、ほんの少しだけ笑った。

助右衛門は黙っていたが、悪くない顔だった。

 

光明寺城の最初の日としては、上出来だった。

 

 

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