織田家の嫡子~藤左衛門家の特異点   作:デトロ!開けろイト市警だ!

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018稲葉山城落城

一色左京大夫(斎藤義龍)、自ら一万五千を率いて尾張へ入る。

 

西美濃三人衆の帰順。

鵜沼の動揺。

墨俣。

どれ一つ取っても、義龍から見れば座して見ていてよいものではない。

まして、道三入道がなお生きている。

その影がある限り、美濃の正統はどこにあるのかという問いが消えぬ。

 

ならば、自ら出る。

一度叩き、主導を取り返す。

 

義龍なら、そう考えてもおかしくはなかった。

 

報せが入った時、上総介兄上は笑った。

 

「来たか」

 

笑ったが、軽くはない。

来るべきものが来たという顔だった。

 

勘十郎兄上は、すでに地図へ手を置いている。

 

「一万五千」

「うむ」

「左京大夫自ら、か」

「そうにございます」

 

俺が答えると、信長は頷いた。

 

「よい」

「よろしいので」

「こちらが行く前に、向こうから来た。ならば、一度きっちり折る」

 

その一言で、座が定まる。

 

織田方は一万六千。

ただし、その一万六千が一枚岩ではない。

前で受ける者。

側面を支える者。

鉄砲をまだ本格とは言えぬまま織り込み始めた者。

そして、俺の手元には、十兵衛、半兵衛、左近将監、慶次郎、助右衛門がいる。

 

義龍が前へ出るなら、こちらも迎え撃つ。

 

それだけの話に見えて、実際にはそう単純ではない。

義龍は強い。

強烈なワンマン君主だが、だからこそ自ら前へ出た時の圧がある。

軍が主将の勢いで一つにまとまる類だ。

 

そして実際、最初に崩れたのはこちらだった。

 

会戦の地は、尾張と美濃の境へ寄った、開けた地と低い起伏が交じるあたりだった。

前へ押しやすい。

だが、押し過ぎれば横が薄くなる。

 

斎藤方の先鋒は、重かった。

 

最初の槍合わせでこちらが押し返される。

続いて、義龍本隊寄りの圧が乗る。

敵は、総大将が近いと知って前へ出る。

こちらの第一陣は、その重みを正面から受けた。

 

「下がります!」

 

伝令の声が、泥と血の匂いの中を飛ぶ。

 

見れば、第一陣の左寄りが崩れている。

総崩れではない。

だが、崩れ始めの嫌な歪みだ。

誰か一人の勇でどうにかなる段ではない。

 

慶次郎が、馬上で舌打ちした。

 

「重いな!」

「左京大夫が近い!」

 

と、左近将監。

 

そこを一目で読むあたり、やはりこの男はよい。

十兵衛は、すでに別のところを見ている。

 

「治部殿」

「分かっている」

 

第一陣が押されている。

左京大夫本隊は、勝ちを固めるため前へ寄ってくる。

押している時の軍というのは、勝ちを大きくしたくなる。

そこに、隙が出る。

 

半兵衛が、低く言った。

 

「いまなら、前のめりに寄りますな」

「寄って来る」

「勝勢を確かにしたい刻です」

「だからこそだ」

 

俺は、すぐ後ろの仮鉄砲組へ目をやった。

 

まだ“本格の三段”とは言えぬ。

雑賀の理を取り、交代射撃を取り入れ、号令を揃え、流れを刻み始めたばかりだ。

だが、ここで使わぬなら意味がない。

 

十兵衛。

左近将監。

二人が、それぞれ自分の組を見ている。

 

「十兵衛!」

「は」

「左近将監!」

「ここに!」

「やるぞ!」

 

それだけで、通じた。

 

二人とも、すでに射界を見ていた。

第一陣の退き際。

義龍本隊の寄り方。

横へ少し開いた地。

そこへ仮に伏せていた鉄砲組を、いま使う。

 

「前へ!」

 

短い号令が走る。

 

「構え!」

 

肩へ当たる。

 

「目!」

 

視線が揃う。

 

「火!」

 

火縄が走る。

 

まだ完全ではない。

だが、前よりずっとましだ。

そして何より、十兵衛の静けさと左近将監の崩れぬ流れが、隊へ通っている。

 

義龍本隊が、さらに寄る。

 

勝ちを固めるため、前へ。

逃げ腰に見えるこちらの第一陣を呑み込むため、前へ。

 

その位置が、ようやく入った。

十兵衛が、低く言う。

 

「いま」

 

左近将監が、すぐに継ぐ。

 

「ここだ!」

 

俺は迷わなかった。

 

「撃て!」

 

火が裂けた。

 

乾いた破裂音が、一つではなく、ずれて、重なって、前へ伸びる。

まだ洗練され切ってはいない。

だが、それでよい。

いま要るのは、美しい一斉射ではない。

前へ寄った義龍本隊の気勢を折ることだ。

 

一発。

次。

また次。

 

義龍の馬廻りが、そこで明らかに乱れた。

 

護衛の一人が馬から落ちる。

もう一人が、脇腹を押さえて崩れる。

義龍自身が、何かを叫んだように見えた。

その次の瞬間、胴のあたりが大きく揺れた。

 

「当たった!」

 

誰かが叫ぶ。

 

だが、そういう時ほど、俺はすぐには乗らぬ。

 

当たった。

だが死んだか。

それは別だ。

 

もう一巡、撃たせる。

 

「前へ!」

「構え!」

「目!」

「火!」

「撃て!」

 

今度は、義龍の近くにいた旗持ちが崩れた。

馬が一頭、暴れて横へ流れる。

そこへ、さっき被弾したらしい義龍の馬が、明らかに勢いを失った。

 

左近将監が、息を吐くように言った。

 

「落ちたな」

 

十兵衛が、さらに冷静に言う。

 

「あるいは、致命でございます」

 

その時だった。

 

斎藤方の前で、一気にざわめきが広がった。

 

「あっ……」

「左京大夫様!」

「左京大夫様が!」

 

そこまで行けば十分だ。

 

即死か、致命傷か。

その場ではどちらでも同じに効く。

総大将がやられた、という認識が、一度軍へ走れば、それだけで刃になる。

 

さっきまでこちらを押していた斎藤第一陣が、一瞬だけ止まった。

 

その止まりが、敗けの始まりだ。

 

「押せ!」

俺は叫んだ。

「いま押せ! 左京大夫が止まった!」

 

慶次郎が、待ってましたとばかりに前へ出る。

 

助右衛門も、槍を引っ提げて走る。

 

左近将監の鉄砲隊は、なお火を切らさず続ける。

十兵衛は、逆に撃ち過ぎて前へ出ぬよう抑える。

 

そこから先は早かった。

 

勝っていたはずの軍が、総大将の急変で一瞬止まる。

止まったところへ、押し返される。

しかも、後ろからは「一色左京大夫討ち死に」の声が勝手に育つ。

 

流言は、こういう時だけ妙に正確だ。

 

「左京大夫様討ち死に!」

「退け!」

「退け、退け!」

 

斎藤軍が、目に見えて崩れ始める。

 

そこまで見た瞬間、俺の頭の中で、別の絵が一気に繋がった。

 

義龍が強烈なワンマン君主だからこそ、ここで死ねば、城も定まるまい。

敗走兵は、稲葉山へ走る。

城は、その敗走と義龍討ち死にの報で揺れる。

ならば。

 

「助右衛門!」

「おう!」

 

すぐに振り向く。

 

「斎藤家の侍大将や足軽どもの具足を着けよ!」

 

助右衛門の目が、一瞬だけ細くなる。

意図を読む目だ。

 

「……つまり」

 

「稲葉山まで撤退する者どもといっしょに走れ!」

俺は畳み掛けた。

「我ら本隊が攻め寄せたら内側から呼応せよ! 城が定まる前に乱せ!」

 

慶次郎が、そこで口を挟む。

 

「俺は?」

 

「慶次郎は目立ちすぎる」

即答した。

「よって、今すぐ上総介兄上へ走れ!」

 

慶次郎の顔が、すっと変わる。

 

「伝令か」

「我が主治部大輔より、献策あり――そう申し上げろ」

「中身は」

「一色左京大夫討ち死に、斎藤軍総崩れ。助右衛門を敗残兵へ紛れさせましたので、稲葉山を内より乱すべし。いかがなさいますか、だ」

 

慶次郎が、口元を上げる。

 

「なるほどな」

 

助右衛門は、すでに自分の周りへ小勢を集め始めていた。

 

派手でなく、だが足が速く、顔を覚えられにくい連中。

こういう汚れ仕事に向く者はいる。

 

「よい」

助右衛門が低く言う。

「内から崩す」

 

「左京大夫が生きておれば、城もまだ締まる」

俺は言い切った。

「だが今は違う。この一刻で定まる前に、奪う」

 

半兵衛が、そこで初めて小さく笑った。

 

「よろしいかと」

「そうか」

「戦場の勝ちを、そのまま城の混乱へ繋げる。盤が切れておりませぬ」

 

左近将監が、低く言う。

 

「急げ。城門へ敗残が殺到する前に、混じるんだ」

 

「分かっておる」と助右衛門。

「行くぞ」

 

そこへ、慶次郎がもう馬を返した。

 

「上総介様のところへ飛ぶ!」

「頼む!」

「ああ!」

 

慶次郎が駆けたあと、戦場はなお騒がしい。

斎藤軍は崩れ、こちらは追い、義龍の周りはなお混乱している。

だが、もう俺の目は半分、稲葉山へ向いていた。

 

 

上総介兄上と勘十郎兄上のもとへ駆け込んだ時、兄上方はまだ会戦の後詰めを見ていた。

 

馬が泥を蹴る。

慶次郎は飛び降りるようにして前へ出る。

 

「上総介様!」

 

上総介兄上と勘十郎兄が振り向く。

 

「何だ」

 

慶次郎は、その場で深く頭を下げた。

 

「我が主、治部大輔より献策あり!」

「申せ!」

「一色左京大夫討ち死にもしくは重傷にて斎藤軍総崩れ!」

 

上総介兄上の目が、そこで鋭くなる。

 

「うむ!」

「助右衛門を敗残兵へ紛れさせましたので、稲葉山を内より乱すべしとのこと!」

 

一息で言い切る。

 

「いかがなさいますか!」

 

上総介兄上は、ほとんど間を置かなかった。

 

「この機を逃すな!」

声が鋭く裂ける。

「左京大夫討ち死にで揺れておる間に稲葉山を落とす!」

 

その一言で、すべてが決まる。

 

勘十郎兄上も、すぐに頷いた。

 

「よろしい。後詰めを急がせよ。城が閉じる前に圧を掛ける!」

「はっ!」

「慶次郎!」

「はっ!」

「治部大輔へ伝えよ。策を採る!」

「はっ!」

 

慶次郎はまた、返す刀のように駆けた。

 

その頃、助右衛門はもう斎藤の敗残へ混じっていた。

 

具足は、剥ぎ取ったものと、あらかじめ用意していた似寄りのものを合わせる。

泥と血で汚れていれば、細部はごまかせる。

大事なのは、立ち居振る舞いと、疲弊した敗兵の空気だ。

 

皆、前しか見ていない。

背後から追われ、主将は死に、どこまでが味方かも曖昧になる。

そういう時、人は意外と“同じ方角へ走る者”を疑わぬ。

 

助右衛門は、わざと肩を落とし、息を荒くし、敗兵の群れへ溶けた。

 

「退け!」

「城へ!」

「門を開けろ!」

 

怒号と泣き声と、血の匂い。

その中で、小勢は黙って混じる。

 

稲葉山の城門が見える。

 

門前は、すでに混乱していた。

義龍の敗報が先に着いたのか、まだ曖昧なのか、守る側の顔にも迷いがある。

そこへ敗残兵が押し寄せる。

押し寄せる時の城門というのは、一番危うい。

 

助右衛門は、小さく言った。

 

「まだ待て」

 

周りの小勢が頷く。

 

いまはただの敗兵。

ここで早まれば終わる。

だが、中へ入れば変わる。

 

門が半ば開き、敗兵を呑み始める。

怒鳴る声。

押し合う影。

その一瞬の乱れ。

 

「いまだ」

 

助右衛門の声が、低く走った。

 

そこから先は早かった。

 

一人が門脇へ走る。

一人が詰所へ入る。

一人が「一色左京大夫様討ち死に!」と、わざと半ば裏返った声で叫ぶ。

真偽はどうでもよい。

この時は、声の大きさと早さが刃になる。

 

「左京大夫様討ち死に!」

「何だと!」

「総崩れだ!」

「門を閉めろ!」

「いや、まだ中に!」

 

その混乱が、もう崩しだ。

 

助右衛門は、そういう時にためらわない。

一番邪魔な者から、静かに、だが速く潰していく。

門の内側を押さえる。

詰所の声を止める。

外へ合図を送れる位置を取る。

 

遠くで、織田勢の喚声が近づいてくる。

 

上総介兄上の裁可は、間に合った。

ならば、あとは一気だ。

 

城というのは、守る側が「まだ守れる」と思っているうちは堅い。

だが「誰が命じるのか」「左京大夫様は本当に死んだのか」「開けるのか閉じるのか」が一瞬でも飛ぶと、そこへ刃が入る。

 

それまでワンマンで義龍が頂点に君臨していた弊害が一気に出た。義龍が欠けたとき、指揮を執る者が確定していなかった。いたとしても混乱の中、越権行為では、という恐れを抱かせる。

 

そしていま、その一瞬が来ていた。

 

義龍の死。

敗残の雪崩。

助右衛門の潜入。

上総介兄上の即断。

 

全部が、一つの刻へ重なっている。

この一刻を逃さぬなら、稲葉山は落ちる。

 

そういう絵が、ようやく本当に見えていた。

稲葉山が落ちたあとも、城の中はしばらく戦の匂いを失わなかった。

 

門は開いた。

本丸も押さえた。

斎藤方の主だった抵抗も途絶えた。

だが、落城とは“静かになること”ではない。

敗兵の処置、兵糧蔵の封、負傷者、火の手の見回り、城兵の降伏受け入れ、どこまでを討ち、どこからを生かすか――そういう細かな決めごとが、戦の終わりと同じだけ重い。

 

上総介兄上と勘十郎兄上は、もうその段へ入っていた。

 

誰を城内へ残すか。

どの蔵へ封を打つか。

西美濃三人衆や鵜沼へ、どう敗報と落城を繋げるか。

そこへ入ると、兄上方は恐ろしく早い。

 

俺はその中で、先にやるべきことが二つあると思った。

 

一つは、ご隠居――道三入道への報せだ。

もう一つは、お濃の方へのことだった。

 

どちらも、同じ“美濃が落ちた”でも意味が違う。

 

道三入道にとっては、失った国の帰着だ。

帰蝶様にとっては、生家の完全な断絶に近い。

勝ったからよい、では済まぬ。

 

その辺りは、上総介兄上も分かっておられた。

 

城内の一角で短く差し向かった時、俺が口を開くより早く、兄上が言った。

 

「ご隠居の方は、お前が行け」

「は」

「お濃は、わしが見る」

「恐れ入ります」

 

それだけで十分だった。

 

分かっておられる。

しかも、言葉が早い。

こういうところが兄上だ。

 

「治部大輔」

「は」

「ご隠居にとっては、取り戻した、だけではない」

「はい」

「“息子を失った国が、自分の名で戻る”ことでもある」

「……はい」

「軽く申すな」

「心得ております」

 

兄上はそこで、ほんの少しだけ声を緩めた。

 

「お濃も同じだ。勝った負けたの理だけで済まぬ」

「はい」

 

「だから、わしが行く」

それは、兄としてでもあり、夫としてでもあり、棟梁としてでもある声だった。

「お前はご隠居を頼む」

 

「はっ」

 

道三入道は、まだ小田井城中にある仮の居に近い一室で報を待っていた。

 

待っていたと言っても、ただ座しているだけではない。

碁盤が置かれ、未整理の文があり、地図も広がっている。

もう隠居の体ではある。

だが、完全に世を離れた老人の部屋ではない。

 

その人が、俺の顔を見ただけで、半分は悟ったらしい。

 

「……来たか」

 

「はい」

俺は深く頭を下げた。

「稲葉山城、落ちましてございます」

 

道三は、すぐには何も言わなかった。

 

目を閉じるでもない。

天を仰ぐでもない。

ただ、少しだけ視線を落とした。

 

それだけの沈黙だったが、その間にあの人の胸を何が過ぎたかと思うと、こちらも迂闊には言葉を継げなかった。

 

やがて、道三が静かに言う。

 

「左京大夫は」

そこは、まず問われる。

「討ち死ににございます」

 

「そうか」

 

それだけだった。

 

息子の名を聞いて、涙をこぼすでもない。

怒るでもない。

だが、その“そうか”の短さに、かえって深いものがあった。

 

俺は、頭を下げたまま言った。

 

「ご隠居」

「何だ」

「このたびのこと、ご隠居の御心中、某には量り切れませぬ」

「当たり前よ」

 

そこは、少しだけ昔の毒が戻った声だった。

 

だが、その方がむしろよかった。

 

「国は戻った。されど、息子は死んだ。美濃を取ったとて、何もかもが丸く収まるわけではない」

「はい」

「そのくらいは、おぬしにも分かるか」

「はい」

 

道三は、そこでようやくこちらを見た。

 

「ならば、よい」

少しだけ、目の奥が和らぐ。

「わしに“ご隠居、おめでとうございます”などと申す阿呆でなくてよかったわ」

 

それには、こちらもほんの少しだけ息を抜けた。

 

「申しませぬ」

 

「うむ」

そして、道三はやがて低く続けた。

「だがな、治部」

 

「は」

「それでも、戻ったものは戻ったのだ」

「……はい」

「それが、わしの名であれ、お主ら織田の力であれ、戻ったものを戻ったと認めぬのもまた、違う」

 

そこが、やはりこの人だった。

 

情だけではない。

怨みだけでもない。

失ったものと戻ったものを、両方とも見て言葉にする。

 

「よくやった」

 

その一言は、静かだった。

 

「ありがたき」

「ただし」

 

来る。

 

「は」

「わしのためだけに取ったと思うな」

「……はい」

「おぬしは、おぬしの主のために取り、おぬしの盤のために取り、そしてその果てに、わしの国も戻った」

「その通りにございます」

「なら、それでよい」

 

そこで初めて、俺はきちんと頭を下げた。

 

「はっ」

 

道三は、少しだけ遠くを見るように言った。

 

「左京大夫も、弱い男ではなかった」

「はい」

 

「だが、強すぎて一人で持ちすぎた」

その見立ては、まさにそうだった。

「城も国も、あやつの気で回りすぎた。ゆえに、そのあやつが戦場で倒れた時、皆が次を決め切れなんだ」

 

「はい」

「おぬしは、そこを突いたな」

「……突きました」

「よい」

 

それが、父としての赦しとは限らぬ。

だが少なくとも、政治と戦としては認めたのだと分かった。

 

「帰蝶の方は」

 

道三が、ふと口にした。

 

「上総介兄上が」

「うむ。それでよい」

 

そこで話は切れた。

 

長く語る場ではない。

長く語れば、かえって薄くなることもある。

 

俺は深く一礼し、部屋を下がった。

 

お濃の方のところから戻ってきた兄上の顔は、いつもより少しだけ静かだった。

 

勝った時の顔とも違う。

怒っている顔でもない。

ああいう顔の兄上は、むしろ珍しい。

 

「兄上」

 

「うむ」

俺が問う前に、兄上が短く言った。

「帰蝶は、泣いてはおらぬ」

 

「……はい」

「だが、喜んでもおらぬ」

 

それは、そうだろうと思う。

 

生家が落ちた。

父は生きている。

兄は死んだ。

夫がその城を落とした。

そのどこを取っても、ただ一色にはならぬ。

 

「わしも、勝ったからといって、軽くは申さなんだ」

「恐れ入ります」

 

「当たり前だ」

そう言いながらも、兄上の声は強くない。

「帰蝶には帰蝶の美濃がある」

 

そこは、信長としてではなく、夫としての声に近かった。

 

「わしが“取ったぞ、めでたい”などと申えば、あやつを馬鹿にすることになる」

「はい」

 

兄上は少しだけ息を吐いた。

 

「だがな」

「は」

「それでも、いずれは言わねばならぬ」

「何を」

 

「ここから先、この城はもう斎藤の城ではない、とな」

そこには棟梁の声が戻っていた。

「帰蝶も分かっておる。分かっておるが、時が要る」

 

「はい」

「ゆえに、今はそれでよい」

 

短い。

だが、十分だった。

 

ご隠居とお濃の方、それぞれへの報告が済んだあとで、ようやく俺は自分の胸の内に残っていた別の重みを、兄上方へ出す気になった。

 

これは戦後処理ほど急ぎではない。

だが、先に出しておかぬと、あとで変な澱になる類の話だ。

 

上総介兄上と勘十郎兄上の二人がそろっている刻を見て、俺は一歩進み出た。

 

「上総介兄上、勘十郎兄上」

 

「何だ」と上総介兄上。

勘十郎兄上は黙ってこちらを見る。

 

「一つ、相談がございます」

 

上総介兄上の目が、少しだけ細くなる。

 

こういう時、この人は先に軽口を叩かぬ。

ちゃんと“何の相談か”を量ってから口を開く。

 

「申せ」

 

「はい」

俺は、少しだけ言葉を選んだ。

「某、このたび」

 

「うむ」

「いささか、功を立てすぎたやもしれませぬ」

 

部屋が静まった。

 

兄上はすぐには笑わない。

そこがありがたい。

 

「続けよ」と勘十郎兄上。

 

「はい。桶狭間では今川治部大輔殿を討ち取り、お市殿を娶り、一門としての地位が上がりました。その上で、此度は一色左京大夫殿の首まで繋がりました」

「うむ」

「上総介兄上や、勘十郎兄上がよしとして下さるなら、某に異はございませぬ」

 

上総介兄上の口元が、そこでほんの少しだけ動いた。

“兄上”と置いたのを聞いたからだろう。

だが、何も言わない。

 

「ですが」

俺は続けた。

「他の家中から妬みや反発が出るやもしれませぬ」

 

そこは、もう曖昧にせず言った。

 

「今川治部大輔殿と一色左京大夫殿、続けて某が首を取った形に見える。お市との婚礼もあり、稲葉山も落ちた。あまりに功が集まりすぎれば、“あれは何だ”と見る者もおりましょう」

 

「うむ」と勘十郎兄上。

「そこを気にしたか」

 

「はい」

 

「よい」と、上総介兄上。

 

短いが、嬉しい一言だった。

 

勘十郎兄上が、静かに言う。

 

「たしかに、気にせぬ方が危うい」

「はい」

「働きは働きだ。だが、働きが立ち過ぎる時ほど、それをどう見せるかは別に要る」

「左様にございますか」

 

「うむ」

上総介兄上が、そこでようやく笑った。

「だがな、治部大輔」

 

「は」

 

「お前が“少し功を立てすぎたか”と、自分から持って来るなら、まだ大丈夫だ」

その言い方は、いかにもこの人らしかった。

「自分で自分を天下の功臣と思い始めたなら、斬らねばならぬ」

 

「兄上」

勘十郎兄上が、さすがに少しだけ窘めるように言う。

「ここでその言い方は」

 

「分かっておる」

だが兄上の目は笑っているだけではなかった。

「だが、本気でもある」

 

そこが重い。

 

「功を立てるのはよい。立てねば話にならぬ」

「は」

「だが、“誰のもとで立てた功か”を忘れる者は、早晩おかしくなる」

「はい」

「お前はいま、そこを気にしておる。なら、まだよい」

 

勘十郎兄上が、その話をきれいに整える。

 

「治部大輔」

「は」

「反発は、出る」

「……はい」

 

「出ぬ方が不自然だ」

そこは、きっぱり言われた。

「働きが大きい。しかも、婚礼で一門に入ったばかり。見る者によっては、“急に上へ出た”と映るだろう」

 

「はい」

 

「だが」

勘十郎兄上の声は、静かだが冷たくない。

「そこで必要なのは、功を抑えることではない」

 

俺は少しだけ顔を上げた。

 

「では」

 

「功を、“お前一人の顔”で立てぬことだ」

そこは、かなり腑に落ちた。

「左京大夫討ち死にも、稲葉山落城も、お前だけで成ったわけではあるまい」

 

「はい」

「第一陣は崩れた。十兵衛、左近将監、半兵衛、慶次郎、助右衛門、皆がいた。上総介兄上の即断もあった。ならば、論功も、語り方も、そう立てるべきだ」

「なるほど……」

 

上総介兄上が、そこで笑った。

 

「つまり、“治部大輔が全部やりました”みたいな顔をするな、ということだ」

「兄上」

「何だ、違うか」

「違いませぬ」

 

そのやり取りに、こちらも少しだけ息が抜けた。

 

勘十郎兄上は続ける。

 

「お前の功は消さぬ。消す必要もない」

「はい」

「だが、お前が自分で語る時も、立てる時も、“どう皆の働きを乗せるか”を考えよ」

「はい」

「そうすれば、反発は消えぬまでも、筋は通る」

 

それは、まさに欲しかった答えだった。

 

上総介兄上が、最後に少しだけ低い声で言った。

 

「治部大輔」

「はっ」

「功が大きいこと自体を怖れるな」

「はい」

「怖れるべきは、その功の扱いを間違えることだ」

「肝に銘じます」

「うむ」

 

そして、兄上は少しだけ口元を上げた。

 

「それにな」

「は」

「今川治部大輔と一色左京大夫、続けて取ったと申しても、お前が狙って“おれが首を取る”と暴れ回った結果ではない」

「……はい」

「戦の流れを見て、流れを作って、その上で首が来た」

「そのようにございます」

「ならば、そこは堂々としてよい」

 

その言葉は、ありがたかった。

 

功を怖れて縮む必要はない。

だが、扱いは誤るな。

その線が、ようやく見えた気がした。

 

俺は深く頭を下げた。

 

「恐れ入ります」

 

勘十郎兄上が、静かに締める。

 

「今後は、論功をどう立てるか、誰をどう表へ出すか、そこも相談せよ」

「はい」

「本家に近い一門となった今は、働くだけでなく、働きの見せ方まで含めて務めだ」

「心得ました」

 

そう答えた時、ようやく胸のつかえが少し下りた。

 

今川治部大輔。

一色左京大夫。

二つ続けて総大将の首へ繋がった。

その重さを、自分でも軽くは見ていなかった。

だからこそ、いま兄上方へ出せてよかった。

 

功が大きいことより、功の扱いを違えることを怖れよ。

その一言は、これからかなり効いてくるだろうと思えた。

 

 

稲葉山が落ち、美濃の大半がようやくこちらへ傾いたとはいえ、国そのものが一夜で織田のものになるわけではない。

 

城は落ちる。

軍は崩れる。

だが、地侍の腹と、国衆の損得と、旧来のしがらみは、そう簡単には落ちぬ。

 

だからこそ、戦の次に来るのは置き方だった。

 

誰をどこへ置くか。

誰に何を返し、何を預け、何を預けぬか。

そこを違えれば、せっかく取った美濃は、またすぐに濁る。

 

稲葉山城の奥まった一室で、その評定が始まった。

 

上座に上総介兄上。

その脇に勘十郎兄上。

俺は少し下手に控える。

広げられているのは美濃一円の地図、城ごとの書付、国衆・地侍の名寄せ、そして今回こちらへ靡いた者どもの本領の覚えだ。

 

戦の勝ちを語る場ではない。

勝った後の国を、どう腐らせずに持たせるかを決める場だった。

 

上総介兄上が、地図の西側へ指を置いた。

 

「まず、西美濃三人衆と鵜沼だ」

 

「は」と俺。

 

勘十郎兄上が静かに言う。

 

「ここを違えれば、今後の調略が死にます」

 

そこは、まさにその通りだった。

 

上総介兄上が鼻を鳴らす。

 

「此度、あやつらは靡いた」

「はい」

「靡いたから勝った」

「はい」

「ならば、靡いた者に報いねばならぬ」

 

短い。

だが、かなり重い一言だった。

 

「西美濃三人衆、鵜沼、いずれも本領は安堵する」

 

そこで、部屋の空気が一つ定まる。

 

俺も深く頷いた。

 

「それがよろしいかと」

 

「当然です」と勘十郎兄上。

「“織田へ付けば結局土地を削られる”と見えた瞬間、今後どこの国衆も応じませぬ」

 

「うむ」と上総介兄上。

「今後の離反工作まで含めれば、ここは銭で買えぬ見せ札だ」

 

まさにそこだ。

 

調略というのは、成った時の一城一地だけの話ではない。

“付けば報われる”という信用そのものが、次の国の扉を開く。

 

「ただし」と勘十郎兄上。

「本領を安堵することと、そのまま一塊で大きくさせることは別です」

 

俺は、その先を受けて言った。

 

「三人衆は三人衆のまま固めず、軍事上はこちらの与力として束ねるべきかと」

 

上総介兄上が、こちらを見る。

 

「治部大輔の与力、か」

「はい」

「理由は」

「本領を返しつつ、勝手に旧斎藤家中の芯として再結集させぬためにございます」

 

勘十郎兄上が小さく頷く。

 

「よい」

「三人衆は地に根が深い。だからこそ、自由に一つの腹へ戻せば厄介です」

「はい」

「本領は安堵する。だが、軍役は治部大輔のもとへ入れる」

 

そこまで切ると、かなりきれいだった。

 

上総介兄上が、さらに鵜沼へ指を移す。

 

「大沢次郎左衛門も同じだな」

 

「はい」と俺。

「鵜沼も本領安堵の上で、軍事上は同じく与力に置くのがよろしいかと」

 

「うむ」

 

「義理の筋も立ちますしな」と勘十郎兄上。

「帰蝶様との義兄妹筋、道三入道との縁、そのどれを取っても、“戻った者はきちんと返された”と見える方がよい」

 

そこまでで、西美濃三人衆と鵜沼の置き方はほぼ定まった。

 

本領安堵。

ただし軍事上は信繁与力。

報いは見せる。

だが一塊では持たせない。

 

次に、上総介兄上が少しだけ東へ指を滑らせた。

 

「竹中はどう見る」

 

ここは、前から俺の中でほぼ決まっていた。

 

「菩提山城を回復させるべきかと」

 

上総介兄上の目が細くなる。

 

「本領回復、か」

「はい。もともと竹中氏の城にございます。そこを返さぬのは筋が悪い」

 

勘十郎兄上がすぐ頷いた。

 

「その通りです」

「半兵衛殿を“ただの客将より”で使うより、竹中家の本領を返した上で治部直臣として置く方が、はるかに座りがよい」

「はい」

 

上総介兄上が問う。

 

「だが、半兵衛を菩提山へ貼り付ける気か」

 

「いえ」

俺は首を振った。

「そこは違います」

 

「申せ」

「竹中家としては、菩提山城主に戻す。されど、半兵衛本人は某の側近として可動させるべきかと」

 

勘十郎兄上が、すぐ言う。

 

「城は持つ。だが本人は国を見る」

「そのようにございます」

 

それなら、半兵衛の地縁と家格も立つ。

しかも、半兵衛本人は一城の政務へ埋もれず、美濃全体を見る役へ残せる。

 

上総介兄上が、少しだけ笑う。

 

「いい取り方だな」

「恐れ入ります」

「半兵衛を一城の主として縛るには、まだ惜しい」

「まことに」

 

そこもまた定まる。

 

竹中氏は菩提山城へ本領回復。

半兵衛本人は信繁直臣格として側近に置き、美濃一国の目として動かす。

 

そこまで定まると、次は明智だった。

 

上総介兄上が、地図の東寄りへ指を置く。

 

「では、明智だ」

 

「長山城にございますな」と勘十郎兄上。

 

「はい」と俺。

「明智氏の旧拠にございます。ここもまた、返すべきところは返した方が筋が通ります」

 

上総介兄上が問う。

 

「十兵衛も、本領回復でよいか」

「よろしいかと」

 

俺は迷わなかった。

 

「十兵衛は、美濃筋の旧縁と、人の理を繋ぐ力を持っております。明智長山城を返すことで、明智氏そのものの座が立つ」

「うむ」

「されど、十兵衛を長山へ張り付けてしまっては惜しい」

 

勘十郎兄上が、そこを受ける。

 

「竹中と同じだな」

「はい」

「家としては本領回復。だが、十兵衛本人は治部大輔の直臣として引き続き中枢で使う」

「そのように考えます」

 

上総介兄上は、少しだけ楽しそうに言う。

 

「お前、よいものは皆手元へ置きたがるな」

「使いどころを違えたくありませぬので」

 

「違いない」と勘十郎兄上。

「十兵衛を城主として切るのは、いまはまだ惜しい。文・使者・折衝・旧臣の扱い、そのどれもが治部大輔の座と結んだ方が強い」

 

そこもまた、きれいに定まった。

 

明智氏は長山城へ本領回復。

十兵衛本人は信繁直臣格として、文と理と折衝の中核へ置く。

 

上総介兄上が、そこで俺を見た。

 

「これで、お前の周りはだいぶ太くなるぞ」

「承知しております」

「怖いか」

「少々」

 

そこは正直に答えた。

 

勘十郎兄上が静かに言う。

 

「怖いと思ううちは、まだよろしい」

「はい」

「本当に危ういのは、“太くなって当然”と思い始めた時だ」

「肝に銘じます」

 

次に出たのは、左近将監――滝川一益だった。

 

上総介兄上が、少しだけ笑う。

 

「さて、あれは本領回復ではないな」

 

「はい」と俺。

「左近将監は、美濃旧族としての名分で立つ者ではございませぬ」

 

「うむ」

「むしろ新たな秩序の中で、境目と流通と実務を握る者として立てるべきかと」

 

勘十郎兄上が言う。

 

「ならば、尾張国内か、あるいは旧一色左京大夫派の没収知行から与えるのがよい」

「そのように考えます」

 

上総介兄上は、地図の尾張寄りと美濃南縁を見比べながら言った。

 

「城を一つ与えて座らせるより、まずは知行と役を与える方がよいか」

「はい」

「左近将監は、城の中で偉そうに座るより、外縁の濁ったところでこそ働きます」

 

「違いない」と上総介兄上。

 

「伊勢、甲賀、境目、荷、人、火薬。その辺を握らせるなら、むしろ尾張側にも足がある方が動きやすい」

 

そこもきれいだった。

 

左近将監には、尾張国内または旧義龍派からの没収知行を新恩として与える。

だが役目はあくまで、境目・流通・実務・鉄砲運用の外縁。

 

“美濃を回復した旧臣”とは別の筋で立つ。

だから役も分ける。

 

ここまで来て、上総介兄上がぽつりと言った。

 

「悪くない」

 

その一言で、配置の大枠はもうかなり固まった。

 

だが、最後に残るのはやはり俺自身だった。

 

勘十郎兄上が、静かに地図の南を指す。

 

「では、治部大輔」

「は」

「笠松か、田代城か、だな」

 

そこは、もともと俺から出していた案でもある。

 

「はい」

「稲葉山へそのまま坐るには、まだ役者不足です」

 

上総介兄上が、少しだけ口元を上げる。

 

「自分で言うか」

「言うべきところにございます」

「うむ。続けよ」

「某はいま、“美濃を取った顔”としては使える」

 

「うむ」と勘十郎兄上。

 

「だが、“美濃の主”としてそのまま前へ出れば、旧斎藤の者どもも、こちらの家中も、余計にざわつきましょう」

「その通りだ」

「ゆえに、笠松、あるいは田代城級の城代に置き、美濃方面の実務と軍事統括の中核として使うのが、もっとも収まりがよいかと」

 

上総介兄上は、そこで地図を指先で軽く叩いた。

 

「笠松は川と流れを握る」

「はい」

「田代もまた、南の押さえとしては悪くない」

「はい」

 

勘十郎兄上が、静かに整理する。

 

「治部大輔は、国主然と振る舞わぬ」

「はい」

「だが、実際には美濃方面の軍事と実務の要に置く」

「そのように」

「西美濃三人衆・鵜沼は軍事上与力。明智・竹中は直臣格。左近将監は外縁。そう見ると、笠松・田代級に治部大輔殿がいるのが最も噛み合います」

 

そこまで言われると、逆にこちらも腹が据わる。

 

稲葉山へ坐らぬ。

だが、美濃から外れるわけでもない。

立つが、立ちすぎぬ。

動ける位置にいる。

それが、いまの自分にはちょうどいい。

 

上総介兄上が、そこで最後に言った。

 

「よし」

その一言で、場が締まる。

「西美濃三人衆、鵜沼、本領安堵。されど軍事上は治部大輔与力」

 

「はっ」

「竹中、菩提山回復。明智、長山回復。ともに治部大輔の直臣格で使う」

「はっ」

「左近将監には新恩。尾張側にも足を残し、境目と流通を握らせる」

「はっ」

「治部大輔は、笠松か田代級で美濃口の中核」

「はっ」

 

勘十郎兄上が、静かに付け加えた。

 

「ただし」

「は」

「これは“与えたら終わり”ではない」

「はい」

「本領安堵した西美濃三人衆も、戻した明智・竹中も、与えたあとの動きを見ねばならぬ」

「もちろんにございます」

「“返したから従え”ではなく、“返した上で、どう繋ぎ続けるか”だ」

 

そこはまさに、戦後処理の核心だった。

 

上総介兄上も頷く。

 

「取るまでは戦。取ってからは政だ」

「はい」

「そして政の方が、えてして長い」

「肝に銘じます」

 

そこまでで、評定はほぼ終わった。

 

だが、切れる直前に上総介兄上が少し笑って言った。

 

「治部大輔」

「は」

「お前、やはり少し顔をしかめておるな」

「……少々」

「何だ、今度は」

「勝つより、勝った後の方がよほど難しいと、改めて」

 

それには、上総介兄上も勘十郎兄上も、今度ははっきり笑った。

 

「ようやく分かったか」と上総介兄上。

「そこからが本番だ」と勘十郎兄上。

 

まったく、同じことを二人で違う声色で言う。

それが妙に可笑しくて、こちらも少しだけ笑った。

 

だが、その笑いの奥で、腹の底は重いままだった。

 

本領を返す。

役を与える。

与力へする。

直臣にする。

そういう一つ一つが、これからの織田の“調略の信用”にも繋がる。

違えれば、次は誰も応じぬ。

うまく置けば、次もまた扉が開く。

 

戦で勝っただけでは届かぬところへ、もう足を掛けているのだと、はっきり分かった。

 

 

稲葉山を落とし、美濃の大半をこちらへ寄せたあとで、上総介兄上と勘十郎兄上が次に手を付けたのは、国の仕置だけではなかった。

 

家の置き方でもあった。

 

戦の勝ちは、ただ恩賞を増やせば済むものではない。

人が集まり、功が重なり、役が太くなったなら、それを家中の筋へどう落とし込むかまで決めねばならぬ。

 

でなければ、功はそのまま嫉みになり、人の集まりはそのまま“不自然な膨れ”に見える。

 

だからこそ、この評定にはもう一人呼ばれていた。

 

左衛門佐信張、俺の父上。

 

まだ現役の当主であり、藤左衛門家の主その人だ。

この場を抜きにして、治部だの又六郎だのを決めるのは、さすがに筋が悪い。

 

上座に上総介兄上。

その脇に勘十郎兄上。

少し下手に父上。

俺はさらに一段下がって座した。

 

座の空気は静かだ。

だが、軽くはない。

 

上総介兄上が最初に言った。

 

「美濃は、わしが持つ」

 

短い。

だが、それで十分だった。

 

道三存命。

国譲りの大義。

義龍討ち死に。

稲葉山落城。

どれを取っても、いま美濃を国主として兼ねるのは、上総介上総介兄上で何らおかしくない。

 

「異はございませぬ」と父上。

 

勘十郎兄上も頷く。

 

「そこは、まず定まっております」

 

俺も頭を下げた。

 

「は」

 

上総介兄上は続ける。

 

「だが、治部大輔」

「はっ」

「お前を、ただの一将のまま置くにも、もう少し無理が出てきた」

 

そこへ、父上が静かに入った。

 

「まことに」

 

父の声として聞くと、少し重い。

 

「治部は、此度の戦と稲葉山で、人も功も集めすぎた」

「……はい」

 

「そのままでは、見る者は見るでしょうな」と勘十郎兄上。

「お市殿を娶り、一門としての地位も上がった。義元、義龍と続けて大物の首筋へ繋がった。西美濃三人衆、鵜沼、明智、竹中、滝川まで寄る」

 

「これでなお“ただの藤左衛門家嫡男”として置くには、かえって不自然だ」と上総介兄上。

 

そこを、父が受けた。

 

「ですが、だからといって、藤左衛門家そのものをいきなり治部へ譲る話でもありますまい」

 

「うむ」と上総介兄上。

「左衛門佐はまだ現役だ」

 

「は」

「そこを飛ばして家督だ何だとやれば、家中の筋をこちらで乱すことになる」

 

そこは、はっきりしていた。

 

つまり、今日ここで決めるべきは、

信繁が藤左衛門家を継ぐかどうかではない。

信繁をどう別立てするかだ。

 

勘十郎兄上が、その芯をきれいに言葉へする。

 

「藤左衛門家は、左衛門佐殿がなお率いられる」

 

「はい」と父上。

 

「そして又六郎を、後継としてきちんと立てる」

 

そこまで言われて、ようやく俺の中でも全体が一本に繋がった。

 

上総介兄上が俺を見る。

 

「治部大輔」

「はっ」

「お前には、別に一つ家を立てる」

 

部屋の空気が少しだけ変わる。

 

「織田治部家だ」

 

その一言は、重かった。

 

ただの知行増しではない。

ただの城代任命でもない。

家を立てる。

それは、人と役を束ねる器を制度として与える、ということだ。

 

父上が、そこで静かに言った。

 

「それがよろしいかと存じます」

 

父の口から出たその一言で、座の意味がさらに深くなる。

 

「治部はもう、ただ藤左衛門家の嫡男として抱えておくには大きくなりすぎた」

「……父上」

 

「だが、藤左衛門家はまだわしが持つ」

その声は、現役当主の声だった。

「又六郎を後継として立て、元服させ、家の筋を整える」

 

勘十郎兄上が頷く。

 

「それでこそ、筋が通ります」

 

上総介兄上も、少しだけ笑った。

 

「左衛門佐、お前がそう言うなら早い」

「治部が立つのは喜ばしい。だが、家は家として整えねばなりませぬ」

 

そこは、まさに父だった。

 

俺は深く頭を下げた。

 

「恐れ入ります」

 

上総介兄上が、そこで地図の美濃南部を指先で叩いた。

 

「治部家には、美濃の中で拠点を与える」

「は」

「笠松、あるいは田代城級」

 

勘十郎兄上が補う。

 

「稲葉山へ坐らせるのではない」

「はい」

「美濃国主はあくまで兄上。されど、治部家は美濃の中で実務と軍事を回す拠点を持つ」

 

そこが、一番きれいだった。

 

国主は上総介兄上。

その下で、美濃の中を実務で回す大拠点として治部家を立てる。

 

「西美濃三人衆・鵜沼は、本領安堵の上で治部家与力」

「はい」

「明智・竹中は、本領回復の上で治部家直臣格」

「はい」

「左近将監は新恩組として治部家へ結ぶ」

「はい」

 

そうなると、全部が一気に制度へ落ちる。

 

ただ信繁のもとへ人が集まっている、ではない。

治部家がそれを抱える。

ならば、家中から見ても筋が立つ。

 

父上が、そこで俺を見た。

 

「治部」

「は」

「これは、お前に褒美をやる話ではない」

「はい」

「お前の功に、人と役が集まりすぎた。そのままでは、かえって家中の毒になる」

「……はい」

「ゆえに、家を立てて受け止める」

 

その言葉は、深く腹へ落ちた。

 

功を立てた。

だから褒美。

ではない。

 

功が大きくなりすぎた。

だから制度へ落として家中へ収める。

そういう話なのだ。

 

勘十郎兄上が、静かに締める。

 

「治部大輔は、美濃の中で実務を回す」

「はい」

「だが、それは“上総介兄上を差し置いて美濃の主になる”ことではない」

「もちろんにございます」

「上総介兄上の国の中で、治部家が一つの大きな手足となる」

「そのように」

「それでよろしい」

 

上総介兄上が、最後に言った。

 

「よし。決まりだ」

「はっ」

「美濃はわしの国だ」

 

その声は、きっぱりしていた。

 

「その中に、治部家を立てる」

「はっ」

「左衛門佐はなお現役。当主として藤左衛門家を持て」

「は」

「又六郎は後継として立てよ。元服も早々に整えよ」

「承知致しました」

 

そこまで行けば、あとは全部が繋がる。

 

信繁は美濃の中で大きな拠点を持つ。

藤左衛門家は父がなお持つ。

又六郎が次を継ぐ筋も立つ。

家中から見ても、外から見ても、収まりがよい。

 

俺は深く頭を下げた。

 

「恐れ入ります」

 

上総介兄上が、少しだけ口元を上げた。

 

「また顔をしかめておるな」

「……少々」

「何だ」

「美濃を取るより、その後の方が重いと」

 

それには、父上までもが少し笑った。

 

「ようやく分かったか」

 

勘十郎兄上も、静かに言う。

 

「そこからが本番だ」

 

そして上総介兄上が締める。

 

「だが、お前一人で背負うと思うな。家を立てるとは、人に背負わせることでもある」

 

その一言が、かなり強く残った。

 

治部家を立てる。

それは、偉くなるというより、一人で抱えていたものを家として受けるということなのだろう。

 

ならば、その重さごと、きちんと受けねばならぬ。

 

 

治部家を立てる。

藤左衛門家はなお左衛門佐父上が率いる。

又六郎を、その後継として立てる。

 

その筋が評定で定まったあと、父上はすぐには何も言わなかった。

 

軽い話ではない。

信繁が別家として出る。

それは一人の息子が大きくなったというだけでなく、家そのものの形が一つ変わるということだ。

ならば、次を継ぐ又六郎へ、それをどう渡すかもまた、軽く済ませてよいはずがない。

 

呼ばれた又六郎は、珍しく最初から顔が硬かった。

 

薄々、何かあるとは察していたのだろう。

美濃を取った。

兄は治部家として立つ。

ならば次に自分へ何が来るかくらいは、もう子供でも分かる。

 

部屋には父上と、又六郎、それに俺だけだった。

最初はそうしておくのがよいと思った。

大勢の前でいきなり言えば、又六郎も構えすぎる。

まずは家の中で、父から子へ渡すべきだ。

 

父上は、しばらく又六郎を見ていた。

 

「又六郎」

「は」

「お前も、もう分かっておろう」

 

又六郎は少しだけ息を詰めた。

 

「……兄上のこと、にございますか」

 

「うむ」

父上は頷く。

「治部は、もう一つ家を立てる」

 

「はい」

「美濃の中で、人を束ね、城を持ち、役を受ける。あれを、なお藤左衛門家の嫡男として抱え続けるのは、もはや筋が悪い」

 

又六郎は、黙って聞いていた。

その横顔に、羨みはなかった。

少なくとも、いま表へは出していない。

兄がここまで来たことも、その兄が別家として立つことも、たぶんそれなりに腹へ入れているのだろう。

 

父上は、そこで少しだけ声を低くした。

 

「ゆえに、藤左衛門家はわしがなお持つ」

「はい」

「その上で、お前を後継として立てる」

 

又六郎の肩が、ほんのわずかに強張る。

 

「……私を」

 

「そうだ」

父上の声は、現役当主の声だった。

「お前が、藤左衛門家の次の当主だ」

 

部屋の中が、少し静かになった。

 

又六郎はすぐには返事をしなかった。

それは戸惑いというより、言葉の重さをそのまま受けている間に近かった。

 

やがて、低く言う。

 

「兄上ではなく」

 

そこは、やはり一度は通る。

 

父上は頷いた。

 

「兄は兄だ」

「……はい」

「兄は治部家を立てる。お前は藤左衛門家を継ぐ」

 

そこで初めて、又六郎が少しだけ顔を上げた。

 

父上は続ける。

 

「どちらが上、どちらが下という話ではない」

「はい」

「家の形が変わるのだ。だから、お前もまた、子のままではおれぬ」

 

そこまで言われて、ようやく又六郎は深く頭を下げた。

 

「お受け致します」

 

その返事は、思っていたよりずっとまっすぐだった。

 

父上は、少しだけ目を細めた。

 

「うむ」

「まだ未熟にございます」

 

「当たり前だ」

そこは即答だった。

「未熟でないなら、親なぞ要らぬ」

 

それには、こちらも又六郎も少しだけ息を抜く。

 

だが父上はすぐに続けた。

 

「だからこそ、いま立てる」

「はい」

「元服も急ぐ」

 

そこで、又六郎の顔が少しだけ動いた。

 

やはりそこも来ると思っていたのだろう。

 

「上総介様が、烏帽子親を務めて下さる」

 

その一言で、今度こそ又六郎がはっきりと目を見開いた。

 

「……上総介様が」

 

「そうだ」

父上は、少しだけ胸を張るように言った。

「治部が治部家を立てる。その上で、藤左衛門家の次も本家がきちんと見ておると、家中へ示す」

 

そこまで聞けば、この元服がただの成人儀礼ではないことは、又六郎にも分かる。

 

兄だけが立つのではない。

弟もまた、本家の承認のもとで“次”として立つ。

その意味は大きい。

 

「名も」

父上が言う。

「定まっておる」

 

又六郎は、少しだけ息を呑んだ。

 

「左衛門」

そこは、もう藤左衛門家の流れをそのまま引く名乗りだと分かる。

「そして、信直だ」

 

その名が落ちた時、部屋の空気が少しだけ変わった。

 

又六郎は、しばらく何も言わなかった。

だが、その沈黙は悪くない。

名というのは、そう簡単に軽く受けてよいものではない。

 

やがて、深く頭を垂れた。

 

「過分にございます」

「そう思うなら、それに足るよう立て」

 

父上の声は、厳しい。

だが、その厳しさはかなり誇らしげでもあった。

 

「兄が治部家を立てるなら、お前はお前で藤左衛門家の次として立つ」

「はい」

「兄の名に頼るな。だが、兄を敵とも思うな」

 

その一言は、かなり肝だった。

 

又六郎も、それを分かった顔で頷いた。

 

「はい」

「家の形が二つになるからこそ、なお近うあれ」

「はい」

 

そこまで言って、ようやく話は定まった。

 

父上は、少しだけこちらを見た。

 

「治部」

「は」

「お前からも何か言うか」

 

俺は少し考えてから、又六郎を見た。

 

兄として。

だが、いまはもうそれだけではない。

別家を立てる者として、家に残る弟を見る。

 

「又六郎」

「はい」

「お前が藤左衛門家の次なら、父上の背をよく見ろ」

「はい」

「俺の背ではない。まず父上だ」

 

又六郎の目が少しだけ揺れる。

 

「……はい」

「俺はこれから別の家を立てる。だが、お前は藤左衛門家の中で立つ」

「はい」

 

「なら、俺の真似をしても半端になる」

そこは、はっきり言った方がよかった。

「父上の家を継ぐ者として、父上の仕事を見ろ」

 

又六郎は、そこで初めて少しだけ口元を引き締めた。

 

「承知致しました」

 

父上が小さく頷いた。

 

それで十分だった。

 

 

元服の日は、思った以上にきちんと整えられた。

 

本家が烏帽子親を務める。

それだけで、もうただの家内儀礼ではない。

家中へ向けた明確な“意思の表明”になる。

 

上座には上総介兄上。

脇には勘十郎兄上。

父上ももちろんいる。

俺もお市も列の中にいた。

他にも織田家の一門や有力家臣たち。

藤左衛門家の次が、どう立てられるかを見るために、家中の目も静かに集まっていた。

 

又六郎は、いつもよりずっと静かだった。

 

緊張している。

それはそうだろう。

上総介兄上が烏帽子親。

その前で元服し、名を受ける。

これで平然としていられる方が、むしろ大したものだ。

 

上総介兄上は、儀式の場では妙に無駄がない。

 

軽口も少ない。

遊ばない。

だからこそ、重みが出る。

 

烏帽子親としての手順が進む。

家中も息を殺して見ている。

 

やがて、上総介兄上がはっきりと言った。

 

「又六郎」

「は」

 

「今日より、お前は子ではない」

声がよく通る。

「藤左衛門家の後継として立つ者だ」

 

「はっ」

 

「名を与える」

そこまで来ると、又六郎の肩が一瞬だけきつくなるのが遠目にも分かった。

「左衛門」

 

まず、その家の流れを継ぐ名。

 

「信直」

 

その名が、座の中央へ落ちた。

又六郎――いや、もうその名ではない。

新たに立った若者は、深く頭を下げた。

 

「ありがたき幸せにございます」

 

上総介兄上は、その返答を聞いて静かに頷く。

 

「よい」

それから、ほんの少しだけ声を柔らかくした。

「兄が治部家を立てるなら、お前は藤左衛門家を継ぐ者として立て」

 

「はっ」

「家の形は分かれる。だが、筋は分けるな」

「はっ」

 

そこへ、勘十郎兄上が静かに言葉を添えた。

 

「左衛門信直」

「は」

「今日お前が立つのは、兄が大きくなったからその余りを貰うためではない」

「……は」

「兄が別家として出る。ゆえに、お前もまた藤左衛門家の次として、正面から立つのです」

 

その言葉は、とてもよかった。

 

左衛門の顔が、少しだけ変わった。

“兄の代わり”ではなく、“自分の立場”としてここへ立っているのだと、ようやく腹へ落ちた顔だった。

 

父上もまた、そこで深く頷いた。

 

「よい顔になったな」

 

父のその一言が、一番効いたかもしれない。

 

元服というのは、名を変えるだけではない。

座る顔が変わる。

人に見られる顔が変わる。

そういうことなのだと、あらためて思う。

 

儀が終わったあと、俺は少しだけ離れたところから新たな信直を見ていた。

 

背筋が、前より少し伸びて見える。

もちろん、今日一日で中身が全部変わるわけではない。

だが、立場が先に人を変えることはある。

あれは、たぶんその始まりだ。

 

上総介兄上が、ふとこちらへ目を向けた。

 

「治部大輔」

「はっ」

「これで、そなたも安心したか」

 

そこは、少しだけ苦笑した。

 

「少しは」

「少しか」

「はい。兄が治部家、弟が藤左衛門家と、ようやく形になりましたゆえ」

 

上総介兄上は、口元を少し上げた。

 

「形にしてこそだ」

「は」

「人は、曖昧なままでは収まらぬ」

 

そこも、その通りだった。

 

父上が、少し離れたところで新しい左衛門信直へ何かを言っている。

父から子へ。

現役当主から後継へ。

 

その姿を見ながら、俺はようやく思った。

 

これで、治部家が立つ。

そして、藤左衛門家もまた次へ繋がる。

 

片方だけを大きくするのではない。

二つをきちんと立ててこそ、家中の支えになる。

そこまで来て、ようやく此度の再編は本当に骨になったのだろう。

 

 

 

 

 

 

 

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