織田家の嫡子~藤左衛門家の特異点 作:デトロ!開けろイト市警だ!
一色左京大夫(斎藤義龍)、自ら一万五千を率いて尾張へ入る。
西美濃三人衆の帰順。
鵜沼の動揺。
墨俣。
どれ一つ取っても、義龍から見れば座して見ていてよいものではない。
まして、道三入道がなお生きている。
その影がある限り、美濃の正統はどこにあるのかという問いが消えぬ。
ならば、自ら出る。
一度叩き、主導を取り返す。
義龍なら、そう考えてもおかしくはなかった。
報せが入った時、上総介兄上は笑った。
「来たか」
笑ったが、軽くはない。
来るべきものが来たという顔だった。
勘十郎兄上は、すでに地図へ手を置いている。
「一万五千」
「うむ」
「左京大夫自ら、か」
「そうにございます」
俺が答えると、信長は頷いた。
「よい」
「よろしいので」
「こちらが行く前に、向こうから来た。ならば、一度きっちり折る」
その一言で、座が定まる。
織田方は一万六千。
ただし、その一万六千が一枚岩ではない。
前で受ける者。
側面を支える者。
鉄砲をまだ本格とは言えぬまま織り込み始めた者。
そして、俺の手元には、十兵衛、半兵衛、左近将監、慶次郎、助右衛門がいる。
義龍が前へ出るなら、こちらも迎え撃つ。
それだけの話に見えて、実際にはそう単純ではない。
義龍は強い。
強烈なワンマン君主だが、だからこそ自ら前へ出た時の圧がある。
軍が主将の勢いで一つにまとまる類だ。
そして実際、最初に崩れたのはこちらだった。
会戦の地は、尾張と美濃の境へ寄った、開けた地と低い起伏が交じるあたりだった。
前へ押しやすい。
だが、押し過ぎれば横が薄くなる。
斎藤方の先鋒は、重かった。
最初の槍合わせでこちらが押し返される。
続いて、義龍本隊寄りの圧が乗る。
敵は、総大将が近いと知って前へ出る。
こちらの第一陣は、その重みを正面から受けた。
「下がります!」
伝令の声が、泥と血の匂いの中を飛ぶ。
見れば、第一陣の左寄りが崩れている。
総崩れではない。
だが、崩れ始めの嫌な歪みだ。
誰か一人の勇でどうにかなる段ではない。
慶次郎が、馬上で舌打ちした。
「重いな!」
「左京大夫が近い!」
と、左近将監。
そこを一目で読むあたり、やはりこの男はよい。
十兵衛は、すでに別のところを見ている。
「治部殿」
「分かっている」
第一陣が押されている。
左京大夫本隊は、勝ちを固めるため前へ寄ってくる。
押している時の軍というのは、勝ちを大きくしたくなる。
そこに、隙が出る。
半兵衛が、低く言った。
「いまなら、前のめりに寄りますな」
「寄って来る」
「勝勢を確かにしたい刻です」
「だからこそだ」
俺は、すぐ後ろの仮鉄砲組へ目をやった。
まだ“本格の三段”とは言えぬ。
雑賀の理を取り、交代射撃を取り入れ、号令を揃え、流れを刻み始めたばかりだ。
だが、ここで使わぬなら意味がない。
十兵衛。
左近将監。
二人が、それぞれ自分の組を見ている。
「十兵衛!」
「は」
「左近将監!」
「ここに!」
「やるぞ!」
それだけで、通じた。
二人とも、すでに射界を見ていた。
第一陣の退き際。
義龍本隊の寄り方。
横へ少し開いた地。
そこへ仮に伏せていた鉄砲組を、いま使う。
「前へ!」
短い号令が走る。
「構え!」
肩へ当たる。
「目!」
視線が揃う。
「火!」
火縄が走る。
まだ完全ではない。
だが、前よりずっとましだ。
そして何より、十兵衛の静けさと左近将監の崩れぬ流れが、隊へ通っている。
義龍本隊が、さらに寄る。
勝ちを固めるため、前へ。
逃げ腰に見えるこちらの第一陣を呑み込むため、前へ。
その位置が、ようやく入った。
十兵衛が、低く言う。
「いま」
左近将監が、すぐに継ぐ。
「ここだ!」
俺は迷わなかった。
「撃て!」
火が裂けた。
乾いた破裂音が、一つではなく、ずれて、重なって、前へ伸びる。
まだ洗練され切ってはいない。
だが、それでよい。
いま要るのは、美しい一斉射ではない。
前へ寄った義龍本隊の気勢を折ることだ。
一発。
次。
また次。
義龍の馬廻りが、そこで明らかに乱れた。
護衛の一人が馬から落ちる。
もう一人が、脇腹を押さえて崩れる。
義龍自身が、何かを叫んだように見えた。
その次の瞬間、胴のあたりが大きく揺れた。
「当たった!」
誰かが叫ぶ。
だが、そういう時ほど、俺はすぐには乗らぬ。
当たった。
だが死んだか。
それは別だ。
もう一巡、撃たせる。
「前へ!」
「構え!」
「目!」
「火!」
「撃て!」
今度は、義龍の近くにいた旗持ちが崩れた。
馬が一頭、暴れて横へ流れる。
そこへ、さっき被弾したらしい義龍の馬が、明らかに勢いを失った。
左近将監が、息を吐くように言った。
「落ちたな」
十兵衛が、さらに冷静に言う。
「あるいは、致命でございます」
その時だった。
斎藤方の前で、一気にざわめきが広がった。
「あっ……」
「左京大夫様!」
「左京大夫様が!」
そこまで行けば十分だ。
即死か、致命傷か。
その場ではどちらでも同じに効く。
総大将がやられた、という認識が、一度軍へ走れば、それだけで刃になる。
さっきまでこちらを押していた斎藤第一陣が、一瞬だけ止まった。
その止まりが、敗けの始まりだ。
「押せ!」
俺は叫んだ。
「いま押せ! 左京大夫が止まった!」
慶次郎が、待ってましたとばかりに前へ出る。
助右衛門も、槍を引っ提げて走る。
左近将監の鉄砲隊は、なお火を切らさず続ける。
十兵衛は、逆に撃ち過ぎて前へ出ぬよう抑える。
そこから先は早かった。
勝っていたはずの軍が、総大将の急変で一瞬止まる。
止まったところへ、押し返される。
しかも、後ろからは「一色左京大夫討ち死に」の声が勝手に育つ。
流言は、こういう時だけ妙に正確だ。
「左京大夫様討ち死に!」
「退け!」
「退け、退け!」
斎藤軍が、目に見えて崩れ始める。
そこまで見た瞬間、俺の頭の中で、別の絵が一気に繋がった。
義龍が強烈なワンマン君主だからこそ、ここで死ねば、城も定まるまい。
敗走兵は、稲葉山へ走る。
城は、その敗走と義龍討ち死にの報で揺れる。
ならば。
「助右衛門!」
「おう!」
すぐに振り向く。
「斎藤家の侍大将や足軽どもの具足を着けよ!」
助右衛門の目が、一瞬だけ細くなる。
意図を読む目だ。
「……つまり」
「稲葉山まで撤退する者どもといっしょに走れ!」
俺は畳み掛けた。
「我ら本隊が攻め寄せたら内側から呼応せよ! 城が定まる前に乱せ!」
慶次郎が、そこで口を挟む。
「俺は?」
「慶次郎は目立ちすぎる」
即答した。
「よって、今すぐ上総介兄上へ走れ!」
慶次郎の顔が、すっと変わる。
「伝令か」
「我が主治部大輔より、献策あり――そう申し上げろ」
「中身は」
「一色左京大夫討ち死に、斎藤軍総崩れ。助右衛門を敗残兵へ紛れさせましたので、稲葉山を内より乱すべし。いかがなさいますか、だ」
慶次郎が、口元を上げる。
「なるほどな」
助右衛門は、すでに自分の周りへ小勢を集め始めていた。
派手でなく、だが足が速く、顔を覚えられにくい連中。
こういう汚れ仕事に向く者はいる。
「よい」
助右衛門が低く言う。
「内から崩す」
「左京大夫が生きておれば、城もまだ締まる」
俺は言い切った。
「だが今は違う。この一刻で定まる前に、奪う」
半兵衛が、そこで初めて小さく笑った。
「よろしいかと」
「そうか」
「戦場の勝ちを、そのまま城の混乱へ繋げる。盤が切れておりませぬ」
左近将監が、低く言う。
「急げ。城門へ敗残が殺到する前に、混じるんだ」
「分かっておる」と助右衛門。
「行くぞ」
そこへ、慶次郎がもう馬を返した。
「上総介様のところへ飛ぶ!」
「頼む!」
「ああ!」
慶次郎が駆けたあと、戦場はなお騒がしい。
斎藤軍は崩れ、こちらは追い、義龍の周りはなお混乱している。
だが、もう俺の目は半分、稲葉山へ向いていた。
♢
上総介兄上と勘十郎兄上のもとへ駆け込んだ時、兄上方はまだ会戦の後詰めを見ていた。
馬が泥を蹴る。
慶次郎は飛び降りるようにして前へ出る。
「上総介様!」
上総介兄上と勘十郎兄が振り向く。
「何だ」
慶次郎は、その場で深く頭を下げた。
「我が主、治部大輔より献策あり!」
「申せ!」
「一色左京大夫討ち死にもしくは重傷にて斎藤軍総崩れ!」
上総介兄上の目が、そこで鋭くなる。
「うむ!」
「助右衛門を敗残兵へ紛れさせましたので、稲葉山を内より乱すべしとのこと!」
一息で言い切る。
「いかがなさいますか!」
上総介兄上は、ほとんど間を置かなかった。
「この機を逃すな!」
声が鋭く裂ける。
「左京大夫討ち死にで揺れておる間に稲葉山を落とす!」
その一言で、すべてが決まる。
勘十郎兄上も、すぐに頷いた。
「よろしい。後詰めを急がせよ。城が閉じる前に圧を掛ける!」
「はっ!」
「慶次郎!」
「はっ!」
「治部大輔へ伝えよ。策を採る!」
「はっ!」
慶次郎はまた、返す刀のように駆けた。
その頃、助右衛門はもう斎藤の敗残へ混じっていた。
具足は、剥ぎ取ったものと、あらかじめ用意していた似寄りのものを合わせる。
泥と血で汚れていれば、細部はごまかせる。
大事なのは、立ち居振る舞いと、疲弊した敗兵の空気だ。
皆、前しか見ていない。
背後から追われ、主将は死に、どこまでが味方かも曖昧になる。
そういう時、人は意外と“同じ方角へ走る者”を疑わぬ。
助右衛門は、わざと肩を落とし、息を荒くし、敗兵の群れへ溶けた。
「退け!」
「城へ!」
「門を開けろ!」
怒号と泣き声と、血の匂い。
その中で、小勢は黙って混じる。
稲葉山の城門が見える。
門前は、すでに混乱していた。
義龍の敗報が先に着いたのか、まだ曖昧なのか、守る側の顔にも迷いがある。
そこへ敗残兵が押し寄せる。
押し寄せる時の城門というのは、一番危うい。
助右衛門は、小さく言った。
「まだ待て」
周りの小勢が頷く。
いまはただの敗兵。
ここで早まれば終わる。
だが、中へ入れば変わる。
門が半ば開き、敗兵を呑み始める。
怒鳴る声。
押し合う影。
その一瞬の乱れ。
「いまだ」
助右衛門の声が、低く走った。
そこから先は早かった。
一人が門脇へ走る。
一人が詰所へ入る。
一人が「一色左京大夫様討ち死に!」と、わざと半ば裏返った声で叫ぶ。
真偽はどうでもよい。
この時は、声の大きさと早さが刃になる。
「左京大夫様討ち死に!」
「何だと!」
「総崩れだ!」
「門を閉めろ!」
「いや、まだ中に!」
その混乱が、もう崩しだ。
助右衛門は、そういう時にためらわない。
一番邪魔な者から、静かに、だが速く潰していく。
門の内側を押さえる。
詰所の声を止める。
外へ合図を送れる位置を取る。
遠くで、織田勢の喚声が近づいてくる。
上総介兄上の裁可は、間に合った。
ならば、あとは一気だ。
城というのは、守る側が「まだ守れる」と思っているうちは堅い。
だが「誰が命じるのか」「左京大夫様は本当に死んだのか」「開けるのか閉じるのか」が一瞬でも飛ぶと、そこへ刃が入る。
それまでワンマンで義龍が頂点に君臨していた弊害が一気に出た。義龍が欠けたとき、指揮を執る者が確定していなかった。いたとしても混乱の中、越権行為では、という恐れを抱かせる。
そしていま、その一瞬が来ていた。
義龍の死。
敗残の雪崩。
助右衛門の潜入。
上総介兄上の即断。
全部が、一つの刻へ重なっている。
この一刻を逃さぬなら、稲葉山は落ちる。
そういう絵が、ようやく本当に見えていた。
稲葉山が落ちたあとも、城の中はしばらく戦の匂いを失わなかった。
門は開いた。
本丸も押さえた。
斎藤方の主だった抵抗も途絶えた。
だが、落城とは“静かになること”ではない。
敗兵の処置、兵糧蔵の封、負傷者、火の手の見回り、城兵の降伏受け入れ、どこまでを討ち、どこからを生かすか――そういう細かな決めごとが、戦の終わりと同じだけ重い。
上総介兄上と勘十郎兄上は、もうその段へ入っていた。
誰を城内へ残すか。
どの蔵へ封を打つか。
西美濃三人衆や鵜沼へ、どう敗報と落城を繋げるか。
そこへ入ると、兄上方は恐ろしく早い。
俺はその中で、先にやるべきことが二つあると思った。
一つは、ご隠居――道三入道への報せだ。
もう一つは、お濃の方へのことだった。
どちらも、同じ“美濃が落ちた”でも意味が違う。
道三入道にとっては、失った国の帰着だ。
帰蝶様にとっては、生家の完全な断絶に近い。
勝ったからよい、では済まぬ。
その辺りは、上総介兄上も分かっておられた。
城内の一角で短く差し向かった時、俺が口を開くより早く、兄上が言った。
「ご隠居の方は、お前が行け」
「は」
「お濃は、わしが見る」
「恐れ入ります」
それだけで十分だった。
分かっておられる。
しかも、言葉が早い。
こういうところが兄上だ。
「治部大輔」
「は」
「ご隠居にとっては、取り戻した、だけではない」
「はい」
「“息子を失った国が、自分の名で戻る”ことでもある」
「……はい」
「軽く申すな」
「心得ております」
兄上はそこで、ほんの少しだけ声を緩めた。
「お濃も同じだ。勝った負けたの理だけで済まぬ」
「はい」
「だから、わしが行く」
それは、兄としてでもあり、夫としてでもあり、棟梁としてでもある声だった。
「お前はご隠居を頼む」
「はっ」
道三入道は、まだ小田井城中にある仮の居に近い一室で報を待っていた。
待っていたと言っても、ただ座しているだけではない。
碁盤が置かれ、未整理の文があり、地図も広がっている。
もう隠居の体ではある。
だが、完全に世を離れた老人の部屋ではない。
その人が、俺の顔を見ただけで、半分は悟ったらしい。
「……来たか」
「はい」
俺は深く頭を下げた。
「稲葉山城、落ちましてございます」
道三は、すぐには何も言わなかった。
目を閉じるでもない。
天を仰ぐでもない。
ただ、少しだけ視線を落とした。
それだけの沈黙だったが、その間にあの人の胸を何が過ぎたかと思うと、こちらも迂闊には言葉を継げなかった。
やがて、道三が静かに言う。
「左京大夫は」
そこは、まず問われる。
「討ち死ににございます」
「そうか」
それだけだった。
息子の名を聞いて、涙をこぼすでもない。
怒るでもない。
だが、その“そうか”の短さに、かえって深いものがあった。
俺は、頭を下げたまま言った。
「ご隠居」
「何だ」
「このたびのこと、ご隠居の御心中、某には量り切れませぬ」
「当たり前よ」
そこは、少しだけ昔の毒が戻った声だった。
だが、その方がむしろよかった。
「国は戻った。されど、息子は死んだ。美濃を取ったとて、何もかもが丸く収まるわけではない」
「はい」
「そのくらいは、おぬしにも分かるか」
「はい」
道三は、そこでようやくこちらを見た。
「ならば、よい」
少しだけ、目の奥が和らぐ。
「わしに“ご隠居、おめでとうございます”などと申す阿呆でなくてよかったわ」
それには、こちらもほんの少しだけ息を抜けた。
「申しませぬ」
「うむ」
そして、道三はやがて低く続けた。
「だがな、治部」
「は」
「それでも、戻ったものは戻ったのだ」
「……はい」
「それが、わしの名であれ、お主ら織田の力であれ、戻ったものを戻ったと認めぬのもまた、違う」
そこが、やはりこの人だった。
情だけではない。
怨みだけでもない。
失ったものと戻ったものを、両方とも見て言葉にする。
「よくやった」
その一言は、静かだった。
「ありがたき」
「ただし」
来る。
「は」
「わしのためだけに取ったと思うな」
「……はい」
「おぬしは、おぬしの主のために取り、おぬしの盤のために取り、そしてその果てに、わしの国も戻った」
「その通りにございます」
「なら、それでよい」
そこで初めて、俺はきちんと頭を下げた。
「はっ」
道三は、少しだけ遠くを見るように言った。
「左京大夫も、弱い男ではなかった」
「はい」
「だが、強すぎて一人で持ちすぎた」
その見立ては、まさにそうだった。
「城も国も、あやつの気で回りすぎた。ゆえに、そのあやつが戦場で倒れた時、皆が次を決め切れなんだ」
「はい」
「おぬしは、そこを突いたな」
「……突きました」
「よい」
それが、父としての赦しとは限らぬ。
だが少なくとも、政治と戦としては認めたのだと分かった。
「帰蝶の方は」
道三が、ふと口にした。
「上総介兄上が」
「うむ。それでよい」
そこで話は切れた。
長く語る場ではない。
長く語れば、かえって薄くなることもある。
俺は深く一礼し、部屋を下がった。
お濃の方のところから戻ってきた兄上の顔は、いつもより少しだけ静かだった。
勝った時の顔とも違う。
怒っている顔でもない。
ああいう顔の兄上は、むしろ珍しい。
「兄上」
「うむ」
俺が問う前に、兄上が短く言った。
「帰蝶は、泣いてはおらぬ」
「……はい」
「だが、喜んでもおらぬ」
それは、そうだろうと思う。
生家が落ちた。
父は生きている。
兄は死んだ。
夫がその城を落とした。
そのどこを取っても、ただ一色にはならぬ。
「わしも、勝ったからといって、軽くは申さなんだ」
「恐れ入ります」
「当たり前だ」
そう言いながらも、兄上の声は強くない。
「帰蝶には帰蝶の美濃がある」
そこは、信長としてではなく、夫としての声に近かった。
「わしが“取ったぞ、めでたい”などと申えば、あやつを馬鹿にすることになる」
「はい」
兄上は少しだけ息を吐いた。
「だがな」
「は」
「それでも、いずれは言わねばならぬ」
「何を」
「ここから先、この城はもう斎藤の城ではない、とな」
そこには棟梁の声が戻っていた。
「帰蝶も分かっておる。分かっておるが、時が要る」
「はい」
「ゆえに、今はそれでよい」
短い。
だが、十分だった。
ご隠居とお濃の方、それぞれへの報告が済んだあとで、ようやく俺は自分の胸の内に残っていた別の重みを、兄上方へ出す気になった。
これは戦後処理ほど急ぎではない。
だが、先に出しておかぬと、あとで変な澱になる類の話だ。
上総介兄上と勘十郎兄上の二人がそろっている刻を見て、俺は一歩進み出た。
「上総介兄上、勘十郎兄上」
「何だ」と上総介兄上。
勘十郎兄上は黙ってこちらを見る。
「一つ、相談がございます」
上総介兄上の目が、少しだけ細くなる。
こういう時、この人は先に軽口を叩かぬ。
ちゃんと“何の相談か”を量ってから口を開く。
「申せ」
「はい」
俺は、少しだけ言葉を選んだ。
「某、このたび」
「うむ」
「いささか、功を立てすぎたやもしれませぬ」
部屋が静まった。
兄上はすぐには笑わない。
そこがありがたい。
「続けよ」と勘十郎兄上。
「はい。桶狭間では今川治部大輔殿を討ち取り、お市殿を娶り、一門としての地位が上がりました。その上で、此度は一色左京大夫殿の首まで繋がりました」
「うむ」
「上総介兄上や、勘十郎兄上がよしとして下さるなら、某に異はございませぬ」
上総介兄上の口元が、そこでほんの少しだけ動いた。
“兄上”と置いたのを聞いたからだろう。
だが、何も言わない。
「ですが」
俺は続けた。
「他の家中から妬みや反発が出るやもしれませぬ」
そこは、もう曖昧にせず言った。
「今川治部大輔殿と一色左京大夫殿、続けて某が首を取った形に見える。お市との婚礼もあり、稲葉山も落ちた。あまりに功が集まりすぎれば、“あれは何だ”と見る者もおりましょう」
「うむ」と勘十郎兄上。
「そこを気にしたか」
「はい」
「よい」と、上総介兄上。
短いが、嬉しい一言だった。
勘十郎兄上が、静かに言う。
「たしかに、気にせぬ方が危うい」
「はい」
「働きは働きだ。だが、働きが立ち過ぎる時ほど、それをどう見せるかは別に要る」
「左様にございますか」
「うむ」
上総介兄上が、そこでようやく笑った。
「だがな、治部大輔」
「は」
「お前が“少し功を立てすぎたか”と、自分から持って来るなら、まだ大丈夫だ」
その言い方は、いかにもこの人らしかった。
「自分で自分を天下の功臣と思い始めたなら、斬らねばならぬ」
「兄上」
勘十郎兄上が、さすがに少しだけ窘めるように言う。
「ここでその言い方は」
「分かっておる」
だが兄上の目は笑っているだけではなかった。
「だが、本気でもある」
そこが重い。
「功を立てるのはよい。立てねば話にならぬ」
「は」
「だが、“誰のもとで立てた功か”を忘れる者は、早晩おかしくなる」
「はい」
「お前はいま、そこを気にしておる。なら、まだよい」
勘十郎兄上が、その話をきれいに整える。
「治部大輔」
「は」
「反発は、出る」
「……はい」
「出ぬ方が不自然だ」
そこは、きっぱり言われた。
「働きが大きい。しかも、婚礼で一門に入ったばかり。見る者によっては、“急に上へ出た”と映るだろう」
「はい」
「だが」
勘十郎兄上の声は、静かだが冷たくない。
「そこで必要なのは、功を抑えることではない」
俺は少しだけ顔を上げた。
「では」
「功を、“お前一人の顔”で立てぬことだ」
そこは、かなり腑に落ちた。
「左京大夫討ち死にも、稲葉山落城も、お前だけで成ったわけではあるまい」
「はい」
「第一陣は崩れた。十兵衛、左近将監、半兵衛、慶次郎、助右衛門、皆がいた。上総介兄上の即断もあった。ならば、論功も、語り方も、そう立てるべきだ」
「なるほど……」
上総介兄上が、そこで笑った。
「つまり、“治部大輔が全部やりました”みたいな顔をするな、ということだ」
「兄上」
「何だ、違うか」
「違いませぬ」
そのやり取りに、こちらも少しだけ息が抜けた。
勘十郎兄上は続ける。
「お前の功は消さぬ。消す必要もない」
「はい」
「だが、お前が自分で語る時も、立てる時も、“どう皆の働きを乗せるか”を考えよ」
「はい」
「そうすれば、反発は消えぬまでも、筋は通る」
それは、まさに欲しかった答えだった。
上総介兄上が、最後に少しだけ低い声で言った。
「治部大輔」
「はっ」
「功が大きいこと自体を怖れるな」
「はい」
「怖れるべきは、その功の扱いを間違えることだ」
「肝に銘じます」
「うむ」
そして、兄上は少しだけ口元を上げた。
「それにな」
「は」
「今川治部大輔と一色左京大夫、続けて取ったと申しても、お前が狙って“おれが首を取る”と暴れ回った結果ではない」
「……はい」
「戦の流れを見て、流れを作って、その上で首が来た」
「そのようにございます」
「ならば、そこは堂々としてよい」
その言葉は、ありがたかった。
功を怖れて縮む必要はない。
だが、扱いは誤るな。
その線が、ようやく見えた気がした。
俺は深く頭を下げた。
「恐れ入ります」
勘十郎兄上が、静かに締める。
「今後は、論功をどう立てるか、誰をどう表へ出すか、そこも相談せよ」
「はい」
「本家に近い一門となった今は、働くだけでなく、働きの見せ方まで含めて務めだ」
「心得ました」
そう答えた時、ようやく胸のつかえが少し下りた。
今川治部大輔。
一色左京大夫。
二つ続けて総大将の首へ繋がった。
その重さを、自分でも軽くは見ていなかった。
だからこそ、いま兄上方へ出せてよかった。
功が大きいことより、功の扱いを違えることを怖れよ。
その一言は、これからかなり効いてくるだろうと思えた。
♢
稲葉山が落ち、美濃の大半がようやくこちらへ傾いたとはいえ、国そのものが一夜で織田のものになるわけではない。
城は落ちる。
軍は崩れる。
だが、地侍の腹と、国衆の損得と、旧来のしがらみは、そう簡単には落ちぬ。
だからこそ、戦の次に来るのは置き方だった。
誰をどこへ置くか。
誰に何を返し、何を預け、何を預けぬか。
そこを違えれば、せっかく取った美濃は、またすぐに濁る。
稲葉山城の奥まった一室で、その評定が始まった。
上座に上総介兄上。
その脇に勘十郎兄上。
俺は少し下手に控える。
広げられているのは美濃一円の地図、城ごとの書付、国衆・地侍の名寄せ、そして今回こちらへ靡いた者どもの本領の覚えだ。
戦の勝ちを語る場ではない。
勝った後の国を、どう腐らせずに持たせるかを決める場だった。
上総介兄上が、地図の西側へ指を置いた。
「まず、西美濃三人衆と鵜沼だ」
「は」と俺。
勘十郎兄上が静かに言う。
「ここを違えれば、今後の調略が死にます」
そこは、まさにその通りだった。
上総介兄上が鼻を鳴らす。
「此度、あやつらは靡いた」
「はい」
「靡いたから勝った」
「はい」
「ならば、靡いた者に報いねばならぬ」
短い。
だが、かなり重い一言だった。
「西美濃三人衆、鵜沼、いずれも本領は安堵する」
そこで、部屋の空気が一つ定まる。
俺も深く頷いた。
「それがよろしいかと」
「当然です」と勘十郎兄上。
「“織田へ付けば結局土地を削られる”と見えた瞬間、今後どこの国衆も応じませぬ」
「うむ」と上総介兄上。
「今後の離反工作まで含めれば、ここは銭で買えぬ見せ札だ」
まさにそこだ。
調略というのは、成った時の一城一地だけの話ではない。
“付けば報われる”という信用そのものが、次の国の扉を開く。
「ただし」と勘十郎兄上。
「本領を安堵することと、そのまま一塊で大きくさせることは別です」
俺は、その先を受けて言った。
「三人衆は三人衆のまま固めず、軍事上はこちらの与力として束ねるべきかと」
上総介兄上が、こちらを見る。
「治部大輔の与力、か」
「はい」
「理由は」
「本領を返しつつ、勝手に旧斎藤家中の芯として再結集させぬためにございます」
勘十郎兄上が小さく頷く。
「よい」
「三人衆は地に根が深い。だからこそ、自由に一つの腹へ戻せば厄介です」
「はい」
「本領は安堵する。だが、軍役は治部大輔のもとへ入れる」
そこまで切ると、かなりきれいだった。
上総介兄上が、さらに鵜沼へ指を移す。
「大沢次郎左衛門も同じだな」
「はい」と俺。
「鵜沼も本領安堵の上で、軍事上は同じく与力に置くのがよろしいかと」
「うむ」
「義理の筋も立ちますしな」と勘十郎兄上。
「帰蝶様との義兄妹筋、道三入道との縁、そのどれを取っても、“戻った者はきちんと返された”と見える方がよい」
そこまでで、西美濃三人衆と鵜沼の置き方はほぼ定まった。
本領安堵。
ただし軍事上は信繁与力。
報いは見せる。
だが一塊では持たせない。
次に、上総介兄上が少しだけ東へ指を滑らせた。
「竹中はどう見る」
ここは、前から俺の中でほぼ決まっていた。
「菩提山城を回復させるべきかと」
上総介兄上の目が細くなる。
「本領回復、か」
「はい。もともと竹中氏の城にございます。そこを返さぬのは筋が悪い」
勘十郎兄上がすぐ頷いた。
「その通りです」
「半兵衛殿を“ただの客将より”で使うより、竹中家の本領を返した上で治部直臣として置く方が、はるかに座りがよい」
「はい」
上総介兄上が問う。
「だが、半兵衛を菩提山へ貼り付ける気か」
「いえ」
俺は首を振った。
「そこは違います」
「申せ」
「竹中家としては、菩提山城主に戻す。されど、半兵衛本人は某の側近として可動させるべきかと」
勘十郎兄上が、すぐ言う。
「城は持つ。だが本人は国を見る」
「そのようにございます」
それなら、半兵衛の地縁と家格も立つ。
しかも、半兵衛本人は一城の政務へ埋もれず、美濃全体を見る役へ残せる。
上総介兄上が、少しだけ笑う。
「いい取り方だな」
「恐れ入ります」
「半兵衛を一城の主として縛るには、まだ惜しい」
「まことに」
そこもまた定まる。
竹中氏は菩提山城へ本領回復。
半兵衛本人は信繁直臣格として側近に置き、美濃一国の目として動かす。
そこまで定まると、次は明智だった。
上総介兄上が、地図の東寄りへ指を置く。
「では、明智だ」
「長山城にございますな」と勘十郎兄上。
「はい」と俺。
「明智氏の旧拠にございます。ここもまた、返すべきところは返した方が筋が通ります」
上総介兄上が問う。
「十兵衛も、本領回復でよいか」
「よろしいかと」
俺は迷わなかった。
「十兵衛は、美濃筋の旧縁と、人の理を繋ぐ力を持っております。明智長山城を返すことで、明智氏そのものの座が立つ」
「うむ」
「されど、十兵衛を長山へ張り付けてしまっては惜しい」
勘十郎兄上が、そこを受ける。
「竹中と同じだな」
「はい」
「家としては本領回復。だが、十兵衛本人は治部大輔の直臣として引き続き中枢で使う」
「そのように考えます」
上総介兄上は、少しだけ楽しそうに言う。
「お前、よいものは皆手元へ置きたがるな」
「使いどころを違えたくありませぬので」
「違いない」と勘十郎兄上。
「十兵衛を城主として切るのは、いまはまだ惜しい。文・使者・折衝・旧臣の扱い、そのどれもが治部大輔の座と結んだ方が強い」
そこもまた、きれいに定まった。
明智氏は長山城へ本領回復。
十兵衛本人は信繁直臣格として、文と理と折衝の中核へ置く。
上総介兄上が、そこで俺を見た。
「これで、お前の周りはだいぶ太くなるぞ」
「承知しております」
「怖いか」
「少々」
そこは正直に答えた。
勘十郎兄上が静かに言う。
「怖いと思ううちは、まだよろしい」
「はい」
「本当に危ういのは、“太くなって当然”と思い始めた時だ」
「肝に銘じます」
次に出たのは、左近将監――滝川一益だった。
上総介兄上が、少しだけ笑う。
「さて、あれは本領回復ではないな」
「はい」と俺。
「左近将監は、美濃旧族としての名分で立つ者ではございませぬ」
「うむ」
「むしろ新たな秩序の中で、境目と流通と実務を握る者として立てるべきかと」
勘十郎兄上が言う。
「ならば、尾張国内か、あるいは旧一色左京大夫派の没収知行から与えるのがよい」
「そのように考えます」
上総介兄上は、地図の尾張寄りと美濃南縁を見比べながら言った。
「城を一つ与えて座らせるより、まずは知行と役を与える方がよいか」
「はい」
「左近将監は、城の中で偉そうに座るより、外縁の濁ったところでこそ働きます」
「違いない」と上総介兄上。
「伊勢、甲賀、境目、荷、人、火薬。その辺を握らせるなら、むしろ尾張側にも足がある方が動きやすい」
そこもきれいだった。
左近将監には、尾張国内または旧義龍派からの没収知行を新恩として与える。
だが役目はあくまで、境目・流通・実務・鉄砲運用の外縁。
“美濃を回復した旧臣”とは別の筋で立つ。
だから役も分ける。
ここまで来て、上総介兄上がぽつりと言った。
「悪くない」
その一言で、配置の大枠はもうかなり固まった。
だが、最後に残るのはやはり俺自身だった。
勘十郎兄上が、静かに地図の南を指す。
「では、治部大輔」
「は」
「笠松か、田代城か、だな」
そこは、もともと俺から出していた案でもある。
「はい」
「稲葉山へそのまま坐るには、まだ役者不足です」
上総介兄上が、少しだけ口元を上げる。
「自分で言うか」
「言うべきところにございます」
「うむ。続けよ」
「某はいま、“美濃を取った顔”としては使える」
「うむ」と勘十郎兄上。
「だが、“美濃の主”としてそのまま前へ出れば、旧斎藤の者どもも、こちらの家中も、余計にざわつきましょう」
「その通りだ」
「ゆえに、笠松、あるいは田代城級の城代に置き、美濃方面の実務と軍事統括の中核として使うのが、もっとも収まりがよいかと」
上総介兄上は、そこで地図を指先で軽く叩いた。
「笠松は川と流れを握る」
「はい」
「田代もまた、南の押さえとしては悪くない」
「はい」
勘十郎兄上が、静かに整理する。
「治部大輔は、国主然と振る舞わぬ」
「はい」
「だが、実際には美濃方面の軍事と実務の要に置く」
「そのように」
「西美濃三人衆・鵜沼は軍事上与力。明智・竹中は直臣格。左近将監は外縁。そう見ると、笠松・田代級に治部大輔殿がいるのが最も噛み合います」
そこまで言われると、逆にこちらも腹が据わる。
稲葉山へ坐らぬ。
だが、美濃から外れるわけでもない。
立つが、立ちすぎぬ。
動ける位置にいる。
それが、いまの自分にはちょうどいい。
上総介兄上が、そこで最後に言った。
「よし」
その一言で、場が締まる。
「西美濃三人衆、鵜沼、本領安堵。されど軍事上は治部大輔与力」
「はっ」
「竹中、菩提山回復。明智、長山回復。ともに治部大輔の直臣格で使う」
「はっ」
「左近将監には新恩。尾張側にも足を残し、境目と流通を握らせる」
「はっ」
「治部大輔は、笠松か田代級で美濃口の中核」
「はっ」
勘十郎兄上が、静かに付け加えた。
「ただし」
「は」
「これは“与えたら終わり”ではない」
「はい」
「本領安堵した西美濃三人衆も、戻した明智・竹中も、与えたあとの動きを見ねばならぬ」
「もちろんにございます」
「“返したから従え”ではなく、“返した上で、どう繋ぎ続けるか”だ」
そこはまさに、戦後処理の核心だった。
上総介兄上も頷く。
「取るまでは戦。取ってからは政だ」
「はい」
「そして政の方が、えてして長い」
「肝に銘じます」
そこまでで、評定はほぼ終わった。
だが、切れる直前に上総介兄上が少し笑って言った。
「治部大輔」
「は」
「お前、やはり少し顔をしかめておるな」
「……少々」
「何だ、今度は」
「勝つより、勝った後の方がよほど難しいと、改めて」
それには、上総介兄上も勘十郎兄上も、今度ははっきり笑った。
「ようやく分かったか」と上総介兄上。
「そこからが本番だ」と勘十郎兄上。
まったく、同じことを二人で違う声色で言う。
それが妙に可笑しくて、こちらも少しだけ笑った。
だが、その笑いの奥で、腹の底は重いままだった。
本領を返す。
役を与える。
与力へする。
直臣にする。
そういう一つ一つが、これからの織田の“調略の信用”にも繋がる。
違えれば、次は誰も応じぬ。
うまく置けば、次もまた扉が開く。
戦で勝っただけでは届かぬところへ、もう足を掛けているのだと、はっきり分かった。
♢
稲葉山を落とし、美濃の大半をこちらへ寄せたあとで、上総介兄上と勘十郎兄上が次に手を付けたのは、国の仕置だけではなかった。
家の置き方でもあった。
戦の勝ちは、ただ恩賞を増やせば済むものではない。
人が集まり、功が重なり、役が太くなったなら、それを家中の筋へどう落とし込むかまで決めねばならぬ。
でなければ、功はそのまま嫉みになり、人の集まりはそのまま“不自然な膨れ”に見える。
だからこそ、この評定にはもう一人呼ばれていた。
左衛門佐信張、俺の父上。
まだ現役の当主であり、藤左衛門家の主その人だ。
この場を抜きにして、治部だの又六郎だのを決めるのは、さすがに筋が悪い。
上座に上総介兄上。
その脇に勘十郎兄上。
少し下手に父上。
俺はさらに一段下がって座した。
座の空気は静かだ。
だが、軽くはない。
上総介兄上が最初に言った。
「美濃は、わしが持つ」
短い。
だが、それで十分だった。
道三存命。
国譲りの大義。
義龍討ち死に。
稲葉山落城。
どれを取っても、いま美濃を国主として兼ねるのは、上総介上総介兄上で何らおかしくない。
「異はございませぬ」と父上。
勘十郎兄上も頷く。
「そこは、まず定まっております」
俺も頭を下げた。
「は」
上総介兄上は続ける。
「だが、治部大輔」
「はっ」
「お前を、ただの一将のまま置くにも、もう少し無理が出てきた」
そこへ、父上が静かに入った。
「まことに」
父の声として聞くと、少し重い。
「治部は、此度の戦と稲葉山で、人も功も集めすぎた」
「……はい」
「そのままでは、見る者は見るでしょうな」と勘十郎兄上。
「お市殿を娶り、一門としての地位も上がった。義元、義龍と続けて大物の首筋へ繋がった。西美濃三人衆、鵜沼、明智、竹中、滝川まで寄る」
「これでなお“ただの藤左衛門家嫡男”として置くには、かえって不自然だ」と上総介兄上。
そこを、父が受けた。
「ですが、だからといって、藤左衛門家そのものをいきなり治部へ譲る話でもありますまい」
「うむ」と上総介兄上。
「左衛門佐はまだ現役だ」
「は」
「そこを飛ばして家督だ何だとやれば、家中の筋をこちらで乱すことになる」
そこは、はっきりしていた。
つまり、今日ここで決めるべきは、
信繁が藤左衛門家を継ぐかどうかではない。
信繁をどう別立てするかだ。
勘十郎兄上が、その芯をきれいに言葉へする。
「藤左衛門家は、左衛門佐殿がなお率いられる」
「はい」と父上。
「そして又六郎を、後継としてきちんと立てる」
そこまで言われて、ようやく俺の中でも全体が一本に繋がった。
上総介兄上が俺を見る。
「治部大輔」
「はっ」
「お前には、別に一つ家を立てる」
部屋の空気が少しだけ変わる。
「織田治部家だ」
その一言は、重かった。
ただの知行増しではない。
ただの城代任命でもない。
家を立てる。
それは、人と役を束ねる器を制度として与える、ということだ。
父上が、そこで静かに言った。
「それがよろしいかと存じます」
父の口から出たその一言で、座の意味がさらに深くなる。
「治部はもう、ただ藤左衛門家の嫡男として抱えておくには大きくなりすぎた」
「……父上」
「だが、藤左衛門家はまだわしが持つ」
その声は、現役当主の声だった。
「又六郎を後継として立て、元服させ、家の筋を整える」
勘十郎兄上が頷く。
「それでこそ、筋が通ります」
上総介兄上も、少しだけ笑った。
「左衛門佐、お前がそう言うなら早い」
「治部が立つのは喜ばしい。だが、家は家として整えねばなりませぬ」
そこは、まさに父だった。
俺は深く頭を下げた。
「恐れ入ります」
上総介兄上が、そこで地図の美濃南部を指先で叩いた。
「治部家には、美濃の中で拠点を与える」
「は」
「笠松、あるいは田代城級」
勘十郎兄上が補う。
「稲葉山へ坐らせるのではない」
「はい」
「美濃国主はあくまで兄上。されど、治部家は美濃の中で実務と軍事を回す拠点を持つ」
そこが、一番きれいだった。
国主は上総介兄上。
その下で、美濃の中を実務で回す大拠点として治部家を立てる。
「西美濃三人衆・鵜沼は、本領安堵の上で治部家与力」
「はい」
「明智・竹中は、本領回復の上で治部家直臣格」
「はい」
「左近将監は新恩組として治部家へ結ぶ」
「はい」
そうなると、全部が一気に制度へ落ちる。
ただ信繁のもとへ人が集まっている、ではない。
治部家がそれを抱える。
ならば、家中から見ても筋が立つ。
父上が、そこで俺を見た。
「治部」
「は」
「これは、お前に褒美をやる話ではない」
「はい」
「お前の功に、人と役が集まりすぎた。そのままでは、かえって家中の毒になる」
「……はい」
「ゆえに、家を立てて受け止める」
その言葉は、深く腹へ落ちた。
功を立てた。
だから褒美。
ではない。
功が大きくなりすぎた。
だから制度へ落として家中へ収める。
そういう話なのだ。
勘十郎兄上が、静かに締める。
「治部大輔は、美濃の中で実務を回す」
「はい」
「だが、それは“上総介兄上を差し置いて美濃の主になる”ことではない」
「もちろんにございます」
「上総介兄上の国の中で、治部家が一つの大きな手足となる」
「そのように」
「それでよろしい」
上総介兄上が、最後に言った。
「よし。決まりだ」
「はっ」
「美濃はわしの国だ」
その声は、きっぱりしていた。
「その中に、治部家を立てる」
「はっ」
「左衛門佐はなお現役。当主として藤左衛門家を持て」
「は」
「又六郎は後継として立てよ。元服も早々に整えよ」
「承知致しました」
そこまで行けば、あとは全部が繋がる。
信繁は美濃の中で大きな拠点を持つ。
藤左衛門家は父がなお持つ。
又六郎が次を継ぐ筋も立つ。
家中から見ても、外から見ても、収まりがよい。
俺は深く頭を下げた。
「恐れ入ります」
上総介兄上が、少しだけ口元を上げた。
「また顔をしかめておるな」
「……少々」
「何だ」
「美濃を取るより、その後の方が重いと」
それには、父上までもが少し笑った。
「ようやく分かったか」
勘十郎兄上も、静かに言う。
「そこからが本番だ」
そして上総介兄上が締める。
「だが、お前一人で背負うと思うな。家を立てるとは、人に背負わせることでもある」
その一言が、かなり強く残った。
治部家を立てる。
それは、偉くなるというより、一人で抱えていたものを家として受けるということなのだろう。
ならば、その重さごと、きちんと受けねばならぬ。
♢
治部家を立てる。
藤左衛門家はなお左衛門佐父上が率いる。
又六郎を、その後継として立てる。
その筋が評定で定まったあと、父上はすぐには何も言わなかった。
軽い話ではない。
信繁が別家として出る。
それは一人の息子が大きくなったというだけでなく、家そのものの形が一つ変わるということだ。
ならば、次を継ぐ又六郎へ、それをどう渡すかもまた、軽く済ませてよいはずがない。
呼ばれた又六郎は、珍しく最初から顔が硬かった。
薄々、何かあるとは察していたのだろう。
美濃を取った。
兄は治部家として立つ。
ならば次に自分へ何が来るかくらいは、もう子供でも分かる。
部屋には父上と、又六郎、それに俺だけだった。
最初はそうしておくのがよいと思った。
大勢の前でいきなり言えば、又六郎も構えすぎる。
まずは家の中で、父から子へ渡すべきだ。
父上は、しばらく又六郎を見ていた。
「又六郎」
「は」
「お前も、もう分かっておろう」
又六郎は少しだけ息を詰めた。
「……兄上のこと、にございますか」
「うむ」
父上は頷く。
「治部は、もう一つ家を立てる」
「はい」
「美濃の中で、人を束ね、城を持ち、役を受ける。あれを、なお藤左衛門家の嫡男として抱え続けるのは、もはや筋が悪い」
又六郎は、黙って聞いていた。
その横顔に、羨みはなかった。
少なくとも、いま表へは出していない。
兄がここまで来たことも、その兄が別家として立つことも、たぶんそれなりに腹へ入れているのだろう。
父上は、そこで少しだけ声を低くした。
「ゆえに、藤左衛門家はわしがなお持つ」
「はい」
「その上で、お前を後継として立てる」
又六郎の肩が、ほんのわずかに強張る。
「……私を」
「そうだ」
父上の声は、現役当主の声だった。
「お前が、藤左衛門家の次の当主だ」
部屋の中が、少し静かになった。
又六郎はすぐには返事をしなかった。
それは戸惑いというより、言葉の重さをそのまま受けている間に近かった。
やがて、低く言う。
「兄上ではなく」
そこは、やはり一度は通る。
父上は頷いた。
「兄は兄だ」
「……はい」
「兄は治部家を立てる。お前は藤左衛門家を継ぐ」
そこで初めて、又六郎が少しだけ顔を上げた。
父上は続ける。
「どちらが上、どちらが下という話ではない」
「はい」
「家の形が変わるのだ。だから、お前もまた、子のままではおれぬ」
そこまで言われて、ようやく又六郎は深く頭を下げた。
「お受け致します」
その返事は、思っていたよりずっとまっすぐだった。
父上は、少しだけ目を細めた。
「うむ」
「まだ未熟にございます」
「当たり前だ」
そこは即答だった。
「未熟でないなら、親なぞ要らぬ」
それには、こちらも又六郎も少しだけ息を抜く。
だが父上はすぐに続けた。
「だからこそ、いま立てる」
「はい」
「元服も急ぐ」
そこで、又六郎の顔が少しだけ動いた。
やはりそこも来ると思っていたのだろう。
「上総介様が、烏帽子親を務めて下さる」
その一言で、今度こそ又六郎がはっきりと目を見開いた。
「……上総介様が」
「そうだ」
父上は、少しだけ胸を張るように言った。
「治部が治部家を立てる。その上で、藤左衛門家の次も本家がきちんと見ておると、家中へ示す」
そこまで聞けば、この元服がただの成人儀礼ではないことは、又六郎にも分かる。
兄だけが立つのではない。
弟もまた、本家の承認のもとで“次”として立つ。
その意味は大きい。
「名も」
父上が言う。
「定まっておる」
又六郎は、少しだけ息を呑んだ。
「左衛門」
そこは、もう藤左衛門家の流れをそのまま引く名乗りだと分かる。
「そして、信直だ」
その名が落ちた時、部屋の空気が少しだけ変わった。
又六郎は、しばらく何も言わなかった。
だが、その沈黙は悪くない。
名というのは、そう簡単に軽く受けてよいものではない。
やがて、深く頭を垂れた。
「過分にございます」
「そう思うなら、それに足るよう立て」
父上の声は、厳しい。
だが、その厳しさはかなり誇らしげでもあった。
「兄が治部家を立てるなら、お前はお前で藤左衛門家の次として立つ」
「はい」
「兄の名に頼るな。だが、兄を敵とも思うな」
その一言は、かなり肝だった。
又六郎も、それを分かった顔で頷いた。
「はい」
「家の形が二つになるからこそ、なお近うあれ」
「はい」
そこまで言って、ようやく話は定まった。
父上は、少しだけこちらを見た。
「治部」
「は」
「お前からも何か言うか」
俺は少し考えてから、又六郎を見た。
兄として。
だが、いまはもうそれだけではない。
別家を立てる者として、家に残る弟を見る。
「又六郎」
「はい」
「お前が藤左衛門家の次なら、父上の背をよく見ろ」
「はい」
「俺の背ではない。まず父上だ」
又六郎の目が少しだけ揺れる。
「……はい」
「俺はこれから別の家を立てる。だが、お前は藤左衛門家の中で立つ」
「はい」
「なら、俺の真似をしても半端になる」
そこは、はっきり言った方がよかった。
「父上の家を継ぐ者として、父上の仕事を見ろ」
又六郎は、そこで初めて少しだけ口元を引き締めた。
「承知致しました」
父上が小さく頷いた。
それで十分だった。
♢
元服の日は、思った以上にきちんと整えられた。
本家が烏帽子親を務める。
それだけで、もうただの家内儀礼ではない。
家中へ向けた明確な“意思の表明”になる。
上座には上総介兄上。
脇には勘十郎兄上。
父上ももちろんいる。
俺もお市も列の中にいた。
他にも織田家の一門や有力家臣たち。
藤左衛門家の次が、どう立てられるかを見るために、家中の目も静かに集まっていた。
又六郎は、いつもよりずっと静かだった。
緊張している。
それはそうだろう。
上総介兄上が烏帽子親。
その前で元服し、名を受ける。
これで平然としていられる方が、むしろ大したものだ。
上総介兄上は、儀式の場では妙に無駄がない。
軽口も少ない。
遊ばない。
だからこそ、重みが出る。
烏帽子親としての手順が進む。
家中も息を殺して見ている。
やがて、上総介兄上がはっきりと言った。
「又六郎」
「は」
「今日より、お前は子ではない」
声がよく通る。
「藤左衛門家の後継として立つ者だ」
「はっ」
「名を与える」
そこまで来ると、又六郎の肩が一瞬だけきつくなるのが遠目にも分かった。
「左衛門」
まず、その家の流れを継ぐ名。
「信直」
その名が、座の中央へ落ちた。
又六郎――いや、もうその名ではない。
新たに立った若者は、深く頭を下げた。
「ありがたき幸せにございます」
上総介兄上は、その返答を聞いて静かに頷く。
「よい」
それから、ほんの少しだけ声を柔らかくした。
「兄が治部家を立てるなら、お前は藤左衛門家を継ぐ者として立て」
「はっ」
「家の形は分かれる。だが、筋は分けるな」
「はっ」
そこへ、勘十郎兄上が静かに言葉を添えた。
「左衛門信直」
「は」
「今日お前が立つのは、兄が大きくなったからその余りを貰うためではない」
「……は」
「兄が別家として出る。ゆえに、お前もまた藤左衛門家の次として、正面から立つのです」
その言葉は、とてもよかった。
左衛門の顔が、少しだけ変わった。
“兄の代わり”ではなく、“自分の立場”としてここへ立っているのだと、ようやく腹へ落ちた顔だった。
父上もまた、そこで深く頷いた。
「よい顔になったな」
父のその一言が、一番効いたかもしれない。
元服というのは、名を変えるだけではない。
座る顔が変わる。
人に見られる顔が変わる。
そういうことなのだと、あらためて思う。
儀が終わったあと、俺は少しだけ離れたところから新たな信直を見ていた。
背筋が、前より少し伸びて見える。
もちろん、今日一日で中身が全部変わるわけではない。
だが、立場が先に人を変えることはある。
あれは、たぶんその始まりだ。
上総介兄上が、ふとこちらへ目を向けた。
「治部大輔」
「はっ」
「これで、そなたも安心したか」
そこは、少しだけ苦笑した。
「少しは」
「少しか」
「はい。兄が治部家、弟が藤左衛門家と、ようやく形になりましたゆえ」
上総介兄上は、口元を少し上げた。
「形にしてこそだ」
「は」
「人は、曖昧なままでは収まらぬ」
そこも、その通りだった。
父上が、少し離れたところで新しい左衛門信直へ何かを言っている。
父から子へ。
現役当主から後継へ。
その姿を見ながら、俺はようやく思った。
これで、治部家が立つ。
そして、藤左衛門家もまた次へ繋がる。
片方だけを大きくするのではない。
二つをきちんと立ててこそ、家中の支えになる。
そこまで来て、ようやく此度の再編は本当に骨になったのだろう。