織田家の嫡子~藤左衛門家の特異点   作:デトロ!開けろイト市警だ!

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019信直嫁取物語

元服の儀が終わったあとも、座の余韻はしばらく消えなかった。

 

名を与えられる。

烏帽子親を得る。

それだけのことのようでいて、やはり人の見方は変わる。

さっきまで又六郎と呼ばれていた者が、いまは左衛門信直として見られる。

その差は、思っている以上に大きい。

 

上総介兄上と勘十郎兄上、父上をはじめ、座の中心にいた者たちが少しずつ散っていく中で、俺は少しだけ間を置いてから新たな信直の方へ向かった。

 

左衛門信直――まだその名で呼ぶのも、どこか新しい。

だが、だからこそ今ここで呼んでおく方がよいと思った。

 

「左衛門」

 

呼ぶと、左衛門はすぐに振り向いた。

 

一瞬だけ、以前の又六郎の顔が出る。

だが、その次にはもう引いている。

本人も、切り替えようとしているのだろう。

 

「はい」

「少し歩くか」

「はい」

 

並んで廊へ出る。

人目が完全にないわけではない。

だが、座の中央で話すほどでもない。

ちょうどよい距離だった。

 

しばらく無言で歩いていると、信直の方から先に口を開いた。

 

「……まだ、慣れませぬ」

「何が」

「左衛門信直、にございます」

 

それには、こちらも少しだけ笑った。

 

「今日いきなり慣れたら、それはそれで怖い」

「はい」

 

左衛門も、ほんの少しだけ笑った。

だが、やはり緊張は抜け切っていない。

 

「上総介様に烏帽子親まで務めて頂き、私は……」

 

そこまで言って、少し言葉を探す。

 

「重い、か」

 

「はい」

左衛門は正直に頷いた。

「ありがたくもございます。ですが、それだけではなく」

 

「うむ」

「本当に、次として立たされたのだと、ようやく腹へ落ちて参りました」

 

それは、よい答えだった。

 

元服をした。

名をもらった。

めでたい。

それだけで終わるより、ずっといい。

立場の重さを先に感じているなら、たぶん変な浮き方はせぬ。

 

「それでよい」

俺は言った。

「軽く受けるより、よほどましだ」

 

左衛門は、少しだけこちらを見上げた。

 

「兄上」

そこで、一度だけ言葉が止まる。

「……いえ」

 

その“いえ”で、何を言い直そうとしているかは分かった。

 

俺は、少し黙って待った。

 

左衛門は、意を決したように言う。

 

「これからは」

「うむ」

「兄上としてだけではなく、治部家当主としても、兄上を見ることになります」

 

その言い方は、いかにも今の信直らしかった。

まだぎこちない。

だが、ちゃんと考えた上で出した言葉だ。

 

「そうだな」

俺は頷いた。

「俺も、お前を弟としてだけではなく、藤左衛門家の後継として見る」

 

そこまで言うと、信直の表情が少しだけ引き締まる。

 

「はい」

「だから、今まで通りでよいところと、今まで通りでは済まぬところが、両方出る」

「……はい」

「ややこしいか」

「少し」

 

そこは正直でよかった。

 

「だが、それも仕方あるまい」

「はい」

 

しばらく歩いてから、俺は少しだけ口調を軽くした。

 

「もっとも」

「はい」

「だからといって、いきなり俺へ堅苦しくし過ぎるな」

 

左衛門が少しだけ目を丸くする。

 

「よろしいのですか」

「よい」

「ですが、治部家当主に」

 

「それは外向きの話だ」

そこは切っておく。

「人前、評定、家中の筋、そのあたりでは分けねばならぬ。だが、何でもかんでも急に壁を立てれば、それはそれで不自然だ」

 

左衛門は、少し考えるように黙ってから頷いた。

 

「分かりました」

「ゆっくり覚えればよい」

「はい」

 

そこで、ようやく少し空気が柔らかくなった。

 

元服のあとの若者というのは、たいてい急に“大人であらねばならぬ”と肩へ力が入る。

だが、力だけで大人になれるわけではない。

立場が変わる。

その立場へ、少しずつ身を入れていく。

それでよいのだろう。

 

左衛門が、少ししてから言った。

 

「兄上――」

 

今度は言い直さなかった。

 

「何だ」

「いえ、治部家当主という見方も致します、と申しましたが」

「うむ」

「やはり、兄上は兄上です」

 

それには、こちらも少しだけ笑った。

 

「そうであってくれ」

「はい」

「いきなり“治部殿”などと呼ばれたら、俺の方が困る」

 

左衛門も、今度ははっきり笑った。

 

「さすがに、そこまでは致しませぬ」

「ならよい」

 

その笑いで、ようやく本当に又六郎の頃の空気が少し戻った。

いや、戻ったというより、新しい立場の上に昔の兄弟の空気が乗った、という方が近いかもしれない。

 

それで十分だった。

 

少し廊の先まで来たところで、俺はふと思って言った。

 

「左衛門」

「はい」

「お前にも、嫁を取らせねばな」

 

左衛門が、見事なくらいに固まった。

 

「は……?」

「何だ、その顔は」

「い、いえ」

 

明らかに動揺している。

そこが妙に可笑しい。

 

「兄上、急に何を」

「急でもあるまい」

「いや、急にございます」

 

左衛門の顔が、少し赤い。

元服したばかりの男へ、それは来る話だ。

来る話だが、やはり急に言われるとこうなる。

 

「お前が藤左衛門家の後継として立つなら、いずれはそういう話も要る」

「そ、それは」

「嫌か」

「嫌と申しますか、まだそのようなことまで頭が――」

 

そこまで言って、左衛門は言葉に詰まった。

 

俺は、わざと少しだけ笑ってやる。

 

「何だ、左衛門」

「はい」

「上総介様が烏帽子親を務めて下さる元服には耐えたのに、嫁の話には弱いのか」

「それとこれとは別にございます!」

 

そこは、思った以上にきっぱり返ってきた。

それが可笑しくて、つい声を立てずに笑う。

 

左衛門も、自分で言ってから少しだけしまったという顔をしたが、今さら遅い。

 

「まあ、急がぬ」

「……はい」

「だが、いずれは考えねばならぬ」

「はい」

「お前が誰を迎えるかで、藤左衛門家の次の形も変わる」

 

そこまで言うと、左衛門の顔がまた少し真面目に戻った。

 

「たしかに」

「兄上方がそうであったように、婚姻もまたお家の考えることだ」

「はい」

 

「もっとも」

俺は少しだけ肩を竦めた。

「俺が言うと、やや説得力があるのかないのか分からぬな」

 

それには、左衛門も苦笑した。

 

「お市殿をお迎えした兄上が申されると、なくはないかと」

「微妙な言い方だな」

「ですが、分かります」

 

そこまで来れば十分だ。

 

冗談めかして言い出したが、実際にこれは遠からず来る話だ。

左衛門が藤左衛門家の次として立つなら、婚姻もまた家の再編の一部になる。

その重さを、今日いきなり全部背負わせる必要はない。

だが、遠い未来の話でもない。

 

「まあ」

俺は最後に言った。

「まずは名前に慣れろ」

 

「はい」

「嫁の話は、そのあとだ」

「そうして頂けると助かります」

「そんなに困るか」

「かなり」

 

それには、また少しだけ笑いが落ちた。

 

元服した。

後継になった。

兄は治部家を立てる。

弟は藤左衛門家の次として立つ。

そこまで重い話が続いたあとで、この程度の笑いがある方が、かえってよいのかもしれない。

 

左衛門は、少ししてから改めて言った。

 

「兄上」

「何だ」

「……いろいろ、ありがとうございます」

 

そこは、余計なことを言わぬ方がよかった。

 

「立て」

 

それだけ返す。

 

左衛門は深く頷いた。

 

「はい」

 

その顔を見ていると、今日一日で完全に変わったわけではない。

だが確かに、又六郎から左衛門信直へ、一歩は渡ったのだと分かった。

 

それで十分だ。

 

 

左衛門信直の元服が済み、家の形がようやく見え始めた頃のことだった。

 

治部家は立つ。

藤左衛門家はなお左衛門佐信張が率い、その後継として左衛門信直が立つ。

そこまでは、もう定まった。

 

だが、家というものは、名と跡継ぎだけで完結するわけではない。

次を継ぐ者が立てば、その次に見えてくるものもある。

 

その日の座は、ことさら大仰な評定ではなかった。

上総介兄上と勘十郎兄上、俺の三人で、元服後の細かな段取りや、美濃の仕置の続きについて話していた折だ。

 

話がひととおり切れたところで、俺は少しだけ間を置いてから口を開いた。

 

「上総介兄上」

「何だ」

「あと一つ、気にかかることがございます」

 

上総介兄上が、少しだけ面白そうに目を細める。

 

「またか」

「またにございます」

 

勘十郎兄上は、横で静かにこちらを見ている。

この二人の前で“気にかかること”と言えば、大抵それなりに大きい話になると、もう互いに分かっている。

 

「申せ」と上総介兄上。

 

俺は頷いた。

 

「左衛門にも、嫁を世話してやりとうございます」

 

そこで、部屋の空気が少しだけ変わった。

 

重い話ではない。

だが、軽い話でもない。

元服した。

後継として立った。

ならば、その次に婚姻の話が出るのは、むしろ自然だ。

 

上総介兄上が、ふむと小さく息をつく。

 

「たしかに」

 

そこで、勘十郎兄上が静かに言葉を継いだ。

 

「藤左衛門家の次期当主であるなら、いずれ必要ではありますな」

 

「はい」

俺も頷く。

「今すぐというわけではございませぬ。ですが、左衛門が次として立った以上、先を見ておかねばなるまいと」

 

上総介兄上は、脇息へ軽くもたれたままこちらを見ていた。

その目が、ふと横へ動く。

 

「勘十郎」

「は」

 

「どうじゃ」

その口元に、少しだけ笑みが差す。

「お栄をやるというのは」

 

その一言で、さすがに俺はわずかに目を上げた。

 

お栄。

信秀公の六女。

上総介兄上や勘十郎兄上、お市、お犬殿とは別腹ながら、まぎれもなく織田家の姫だ。

 

勘十郎兄上は、少しも驚いた様子を見せなかった。

むしろ、最初からどこかで考え得た札として受けている顔だった。

 

「良いのではないでしょうか」

返答も早い。

「これで藤左衛門家との縁が切れるのも惜しゅうございますゆえ」

 

その言い方は、きれいだった。

 

俺自身は治部家として別に立つ。

だが、だからといって藤左衛門家が本家から遠のくわけではない。

むしろ、そこで次の後継へも本家の姫を入れるなら、

“兄は治部家で一門、弟は藤左衛門家でも一門”

となる。

 

かなり強い。

 

だが、こちらとしては簡単に受けてよい話でもない。

 

「そんな」

思わず、少しだけ前へ出ていた。

「そこまでして頂いて、よろしいのでしょうか」

 

上総介兄上が、そこで少しだけ眉を動かした。

 

「そこまで、か」

「はい」

「確かに藤左衛門家は、我が織田家の重要な一門にございます。しかしながらあらためて姫を入れるなど」

「何を申す」

 

上総介兄上の声は強くはない。

だが、きっぱりしていた。

 

「勘十郎やお主のいう通り、藤左衛門家は、我が織田家の重要な一門である」

「は」

「それは、お主が独立して治部家を立てたとしても変わらぬ」

 

そこを、はっきり言い切った。

 

その一言で、胸の内が少し熱くなる。

 

治部家を立てる。

だから藤左衛門家が本家から離れるのではない。

むしろ両方が、それぞれ違う形で本家へ結ばれる。

それが兄上の見立てなのだ。

 

勘十郎兄上も、静かに続ける。

 

「左衛門信直は、ただ“兄の余り”として立ったのではない」

「はい」

「藤左衛門家の次として、本家がきちんと見ている。その形は、婚姻でもまた示した方がよい」

 

そこは、まさにその通りだった。

 

俺が考えていたのは、せいぜい“どこぞに良い年頃の娘があれば”くらいのところだ。

だが、兄上方はそこからさらに一段先を見ている。

 

ただ嫁を取るのではない。

どの家とどう繋ぐかで、再編後の家の筋を示す。

それが婚姻だ。

 

「お主」

上総介兄上がこちらを見る。

「どこぞに良い年頃の娘がおれば、と思うたのであろう」

 

「……はい」

「なら、ちょうどおるではないか」

 

その言い方には、やはりどこか兄らしい気安さが混じる。

だが札そのものは、軽くない。

 

勘十郎兄上が、そこで一つ現実に寄せた。

 

「もっとも」

「は」

「左衛門本人の気質も見ておかねばなりませぬ」

「はい」

「お栄は、ただ奥に置いておけばよい姫ではない」

 

そこは重要だった。

 

本家の姫を入れる。

それは家格の上では強い。

だが、人として合うか、家の空気に馴染むか、そのあたりを無視してよいわけではない。

 

上総介兄上が、少しだけ笑う。

 

「左衛門は、あの通りまだ少し青い」

「はい」

「だが、青いからこそ、早いうちから本家の縁で囲ってやるのも悪くない」

 

その物言いは、少し強い。

だが、棟梁として見ればよく分かる。

 

後継として立てた。

ならば、周りを整える。

それだけのことだ。

 

俺は、少しだけ息を整えてから言った。

 

「左衛門にとっては、ずいぶんと過分かと」

 

勘十郎兄上が、そこへ即座に返す。

 

「過分と思うなら、それに足るよう立たせればよいのだ」

 

それは、さっきの元服の時とも通じる言葉だった。

 

名が重い。

ならば、その重さに足るよう立て。

婚姻も同じだ。

相手が重い。

ならば、その相手に足る家に整えよ。

 

そこまで筋を通されると、こちらとしても頷くしかない。

 

「恐れ入ります」

 

「まだ決まりではない」

上総介兄上が言う。

「まずは左衛門の方も見よう。お栄の方も、どう思うか見よう」

 

「はい」

「だが、話の筋としては悪くない」

「はい」

 

部屋の中の空気は、すでに半ば定まっていた。

これはただの思いつきではない。

かなり本気の話として、上総介様と勘十郎殿の中で動き始めている。

 

上総介兄上が、最後に少しだけ面白そうに言った。

 

「治部大輔」

「は」

「左衛門に嫁を、と言い出したのはお前だ」

「はい」

「なら、今さら“そこまでして頂いてよろしいのでしょうか”と慌てるな」

 

そこは、さすがに少し苦笑するしかない。

 

「そこまでの方が出るとは思っておりませなんだ」

 

「お前、時々そこが甘いな」と上総介兄上。

「家の再編をやっておるのだ。婚姻もまた、そのうちに入る」

 

「ごもっともにございます」

 

勘十郎兄上も、わずかに口元を和らげた。

 

「それに、治部家と藤左衛門家、両方を本家と強く結び直すなら、これ以上ないほど分かりやすい」

「はい」

「兄はお市。弟はお栄。これで左右にぶれぬ」

 

そこまで聞くと、もう本当に“婚姻”が一つの政の手であることが、あらためて腹へ落ちる。

 

兄上は、結局そこまで見ていたのだ。

 

治部家を立てる。

藤左衛門家の後継を立てる。

そのうえで、どちらも本家の姫で結ぶ。

 

かなり強い。

 

俺は深く頭を下げた。

 

「恐れ入ります。左衛門にも、身の丈を越えぬよう、ですが臆せず立てるよう申します」

 

上総介兄上が頷く。

 

「うむ。もっとも」

そこで少しだけ笑う。

「左衛門本人にいきなり申せば、また顔を真っ赤にするやもしれぬがな」

 

それには、さすがにこちらも笑った。

 

「大いにありえます」

 

勘十郎兄上まで、今度は少しだけ明確に笑った。

 

「まずは、様子を見ながらに致しましょう」

「はい」

 

話はそこで切れた。

 

だが、切れたあとも、その余韻は強かった。

 

左衛門にも嫁を。

その何気ない一言から、本家の姫という札が本気で出る。

それが、この家の大きさでもある。

 

そして同時に、信繁が立てば弟もまた立てる、という見方を本家がしている証でもある。

 

それは、ありがたくもあり、重くもあった。

 

 

お栄の話を、最初に左衛門信直へ持って行くのは違うのではないかと、俺も上総介兄上も同じように考えていた。

 

婚姻は、当人同士の話である前に、まず家の話だ。

しかも今回のそれは、ただ「嫁を取る」というだけではない。

治部家を立て、藤左衛門家の次を左衛門信直として立て、そのうえでなお本家との縁を太く繋ぎ直すという、一連の家の再編の延長にある。

 

ならば、先に通すべきは父上だ。

 

父信張のもとを訪ねた時、父はちょうど書付を見ていた。

美濃が定まったとはいえ、尾張も止まってはおらぬ。

現役当主の机というのは、いつ見ても余白が少ない。

 

「父上」

 

「うむ、治部か」

顔を上げた父は、こちらの顔色を見て、すぐに軽い用ではないと察したらしい。

「何かあったか」

 

「一つ、兄上方と話がまとまりかけていることがございます」

「申せ」

 

俺は座し、少しだけ間を置いてから言った。

 

「左衛門の婚儀の話にございます」

 

信張の目が、そこで少しだけ動いた。

 

「……ほう」

「いずれ必要ではないか、と某が申し上げました」

 

「それは、そうだ」

そこは即答だった。

「左衛門を後継として立てた以上、先を見ておくのは当然だ」

 

「はい」

「それで、どこぞに良い年頃の娘がおれば、とでも申したか」

「その程度のつもりでおりました」

「その程度、か」

 

父は、少しだけ笑った。

たぶん、その先がもう見えているのだろう。

 

「で、上総介様は何と」

「お栄殿を、という話に」

 

そこまで言った瞬間、父上ははっきりと目を上げた。

 

「……お栄殿」

「はい」

「大殿六女の」

「はい」

 

父上は、すぐには何も言わなかった。

驚きだけではない。

話の重さを、そのまま測っている顔だった。

 

やがて、低く息を吐く。

 

「そこまでして頂けるなら」

そして、ゆっくりと言った。

「藤左衛門家としても面目だ」

 

その言葉は、深かった。

 

本家の姫を、兄だけでなく弟の次代にも入れる。

それは、単なる縁組ではない。

本家が藤左衛門家を、いまなお重要な一門として見ている、という明確な証になる。

 

「某も、そう思います」

 

「うむ」

父上は、少しだけ視線を落とした。

「治部が治部家を立てる」

 

「はい」

 

「その分、藤左衛門家の方は薄くなるやもしれぬ、と見る者もおろう」

そこは父もやはり見ていた。

「だが、左衛門へお栄殿、となれば話は違う」

 

「はい」

 

「兄はお市殿、弟はお栄殿」

父上が、わずかに口元を和らげた。

「本家は、二つに分かれた先までちゃんと見ておると、家中へ示すことになる」

 

「その通りにございます」

 

そこまで来ると、話の筋はかなりよい。

 

だが、父はそこで浮かれなかった。

 

「ただし」

「はい」

「左衛門に、どう伝えるかだな」

 

そこが、まさに肝だった。

 

元服したばかり。

後継として立ったばかり。

その上で、今度は本家の姫との婚儀の話が来る。

若い当人にとっては、さすがに少し重い。

 

「また固まるでしょうな」と俺。

 

「まず間違いなくな」

父も、さすがに少し笑った。

「元服の時でさえ、あの顔だった。お栄殿と申したら、今度は言葉ごと止まるやもしれぬ」

 

「ありえます」

「ありえるな」

 

少しだけ、部屋の空気がやわらいだ。

 

だが父は、すぐに真面目な顔へ戻った。

 

「治部」

「はい」

「左衛門にこの話を持って行く時、軽く申してはならぬ」

「はい」

「若い男に嫁の話は照れもあろう。だが、今回はそれだけではない」

「分かっております」

 

「藤左衛門家の次として、どう本家と結ばれるか、その話でもある」

そこを、父もまっすぐ見ている。

「ゆえに、まずはわしから申そう」

 

「それがよろしいかと」

「うむ。兄から茶化されて終わる話ではない」

 

そこは、少しだけ耳が痛い。

 

「……心致します」

「お前はお前で、変に笑わせるでなかろうな」

「努力します」

「努力、か」

 

父は少しだけ呆れたように笑った。

だが、その笑いに怒気はない。

 

「まあよい。まずは、上総介様のご意向として筋を伝える」

「はい」

「そのうえで、左衛門がどう受けるかを見る」

「はい」

 

父は、そこで少しだけ遠くを見るようにした。

 

「お栄殿、か」

その声には、重さと、少しの誇りが混じっていた。

「過ぎた話に見えるかもしれぬ。だが、今の藤左衛門家には、それに応えるだけの筋を通さねばならぬ」

 

「左様にございます」

「左衛門も、そこは学ばねばなるまいな」

 

父のその言い方を聞いていると、やはりこれは“次の後継教育”でもあるのだと思う。

 

元服した。

名を受けた。

次期当主として立った。

そして、いずれは婚儀でまた家を結ぶ。

 

その一つ一つが、左衛門信直を“ただの若者”から“家を背負う者”へ変えていく。

 

「父上」

「何だ」

「左衛門、驚くでしょうな」

 

「驚くであろうよ」

父上は、少しだけ笑った。

「だが、驚いて終わるならそこまでだ。驚いた上で、受けて立つなら、それでよい」

 

そこが父らしかった。

 

そしてたぶん、あの人は左衛門をそういうふうに立てたいのだろう。

 

兄が治部家を立てる。

弟は藤左衛門家の次として、本家の姫を迎える。

片方だけが大きくなるのではなく、両方をきちんと家の筋へ落とし込む。

 

それが、この数か月で兄上方がやっている再編の意味でもある。

 

「分かりました」

俺は深く頭を下げた。

「では、左衛門への話は父上より」

 

「うむ」

「某は、それを受ける形で後ろを支えます」

 

「それでよい」

父上は頷いた。

「治部」

 

「はい」

「お前が左衛門の嫁を、と言い出したのはよかった」

 

そこは、少し意外だった。

 

「そうにございますか」

「うむ」

 

「兄が別家を立てる時、弟にもまた次を見ておる。それを、まずお前が気にした」

父は、そこでわずかに目を細めた。

「それだけでも、兄としては上出来だ」

 

その一言は、案外胸に来た。

 

戦のこと。

美濃のこと。

治部家のこと。

そういう大きな話ばかりを見ていると、つい足元の“弟の次”のようなことは、他人に任せがちになる。

 

そこを自分から気にした。

それを父が見ていた。

 

「恐れ入ります」

 

「まあ、兄としてはな」

そこで、少しだけ声を軽くする。

「当主としては、まだこれからだ」

 

「……はい」

 

その返しで、こちらもさすがに少し笑った。

 

父は父で、褒めたままでは終わらせぬ。

そこも、らしい。

 

それで話は切れた。

 

だが、部屋を出たあとも、胸の内には一つはっきりしたものが残った。

 

左衛門の婚儀は、単なる“嫁を取る話”ではない。

藤左衛門家の次を、本家がどこまで見ているかの証だ。

だからこそ、雑に扱ってはならぬ。

 

そして、その話をまず父が渡すというのもまた、筋だった。

 

兄は兄。

だが、家の筋を子へ渡すのは、まず父なのだ。

 

 

左衛門信直が呼ばれたのは、元服の熱もまだ完全には引き切っておらぬ頃だった。

 

名を改めた。

後継として立った。

烏帽子親は上総介兄上。

そこまでで十分に重い。

普通の若者なら、それだけでしばらくは腹がいっぱいでもおかしくない。

 

だからこそ、父上も最初から軽くは入らなかった。

 

部屋には父上と左衛門信直。

少し離れて俺も控えていたが、口を挟む気はなかった。

この話はまず、父から子へ渡るべきだ。

 

左衛門は、入ってきた時点で少し顔が硬かった。

父がわざわざ改めて呼ぶ。

軽い用ではない。

そこまでは、もう分かるようになっている。

 

「父上」

「うむ、左衛門」

 

呼び方が変わる。

それだけで、やはり空気も少し変わる。

 

父上は、しばし信直を見ていた。

それから、静かに言った。

 

「ひとつ、さらに重い話がある」

 

その一言で、信直の背がぴんと伸びた。

 

「……は」

「怖がるな、と言うても無理であろうな」

「い、いえ」

「怖がっておる顔だ」

 

そこは即座に切られる。

 

左衛門は、少しだけ口をつぐんだ。

だが、無理に否定を重ねぬあたり、前よりは少し学んだのかもしれない。

 

父上は続けた。

 

「お前を藤左衛門家の後継として立てた」

「はい」

「ならば、次に見るべきものもある」

 

そこまで言われれば、何となく察するものはある。

あるが、まだ本人の中で形にはなり切っていない。

そういう顔だった。

 

「家の次、にございますか」

 

「そうだ」

父上は頷いた。

「家は、名を継げば済むものではない」

 

「はい」

「誰を迎えるかでも、次の形は変わる」

 

そこへ来て、ようやく左衛門の顔がわずかに固まり始めた。

 

たぶん分かったのだ。

これは、婚儀の話だと。

 

父上は、そこで言葉を切らず、そのまま進めた。

 

「上総介様と勘十郎様、そして治部とも話が出た」

 

左衛門の喉が、目に見えぬ程度に動いた。

 

「……はい」

「お前にも、いずれ嫁を取らせねばならぬ」

 

そこまでは、まあよい。

当然の話だ。

重いが、理解の外ではない。

 

だが問題は、その次だった。

 

父上は、少しだけ間を置いてから言った。

 

「その話の中で」

「はい」

「お栄殿を、という話が出ておる」

 

左衛門は、見事なほどに固まった。

 

声が出ぬ。

目だけが、ほんのわずかに見開かれる。

息もたぶん、一瞬止まった。

 

父上は、その反応を見て少しだけ呆れたように言う。

 

「やはり固まったか」

「…………」

「左衛門」

「…………は」

 

ようやく、かすかに返事が出た。

それだけでもよく出た方だと思う。

 

「聞こえたか」

「き、聞こえては、おります」

「ならばよい」

 

父上は平然としている。

だが、その平然さの裏で、息子がどれほど動揺しているかも分かっている顔だった。

 

「お栄殿、にございますか」

 

ようやく、左衛門が言葉にした。

 

「そうだ」

「大殿六女の……」

「うむ」

「本家の姫君にございます、よね」

「そうだ」

 

左衛門は、そこでまた黙った。

そりゃあ黙る。

 

元服したばかり。

ようやく自分が左衛門信直だと飲み込み始めたばかり。

その次に、信秀公の姫との婚儀の可能性を告げられれば、頭も追いつくまい。

 

父上は、そこを見越していたのだろう。

すぐに続けた。

 

「今すぐ決まりという話ではない」

「……はい」

「だが、筋としては悪くない、と上総介様も勘十郎殿もご覧になっておる」

「はい」

「兄はお市殿を迎え、治部家を立てる」

 

そこは、信直も頷く。

 

「はい」

 

「お前は藤左衛門家の次として、お栄殿を迎える」

父上は、静かに言った。

「そうなれば、治部家と藤左衛門家、どちらも本家と太く結ばれる」

 

左衛門は、少しずつだが、その意味を噛み砕き始めた顔になっていった。

 

ただ“過ぎた縁談”というだけではない。

家の再編の延長。

兄が立ち、弟もまた立つ、その形を本家が見ている証。

 

「父上」

「何だ」

「私には……過分ではございませぬか」

 

そこは、まずそう来るだろうと思っていた。

 

父上は頷く。

 

「過分だ」

 

即答だった。

 

左衛門の肩が、一瞬だけ強ばる。

 

だが、父はすぐ続ける。

 

「だが、過分であることと、受ける資格がないことは違う」

そこが肝だ。

「お前は、藤左衛門家の次として立った」

 

「はい」

「ならば、その立場に見合う縁が来ることもある」

「……はい」

「受けるなら、その重さに足るよう立て」

 

左衛門は、深く息を吸った。

元服の時と同じだ。

重い話を受ける時、この子はまず一度息を入れる。

 

「分かり、ました」

 

その声は、まだ硬い。

だが、逃げてはいない。

 

そこで、俺は初めて口を開いた。

 

「左衛門」

 

左衛門が、少しだけ救われたような顔でこちらを見る。

父の前で一人受け続けるのは、さすがにきつかったのだろう。

 

「はい」

「慌てるな」

「……はい」

「まだ“そうなるかもしれぬ”の段だ」

「はい」

「いきなり明日、婚儀という話ではない」

「さすがに、それは……」

 

そこまで言って、左衛門は少しだけ表情を緩めた。

ようやく息が入ったらしい。

 

「兄上」

「何だ」

「父上の前で、そのようなことを申すのも何ですが」

「うむ」

 

「急にお栄殿、と言われても、私はまだ……心の置き場が」

それには、さすがにこちらも少し笑った。

「それはそうだろうな」

 

父上も、完全には崩さなかったが、声は少し柔らかくなった。

 

「誰も、いきなり慣れよとは申しておらぬ」

「はい」

「だが、家を継ぐとは、そういう話も来るということだ」

「……はい」

 

そこへ、俺が少しだけ軽く言った。

 

「だからこの前、嫁を取らせねばな、と言ったろう」

 

左衛門が、あからさまに困った顔になる。

 

「兄上」

「何だ」

「その時は、まさかここまでの話になるとは思っておりませなんだ」

「俺もだ」

 

そこは本音だった。

左衛門が少し目を丸くする。

 

「兄上も、ですか」

「うむ。せいぜい、どこぞに良い年頃の娘がおればと思った程度だ」

 

父上が、そこで少しだけ呆れたように言う。

 

「治部も、そこで本家の姫が出るとは思わなんだのだ」

「はい」

 

左衛門が、今度は少しだけ違う驚き方をした。

 

「では……兄上も驚かれたので」

「かなりな」

「そう、ですか」

 

それで少しだけ気が楽になったのかもしれない。

左衛門の肩から、ようやく力が少し落ちた。

 

父上は、その変化を見て言った。

 

「左衛門」

「はい」

「大事なのは、驚かぬことではない」

「……はい」

「驚いたうえで、受けて立つことだ」

 

その言葉は、元服の時とも同じ芯を持っていた。

 

名が重い。

なら、立て。

縁が重い。

なら、受けて立て。

 

「はい」

 

今度の返事は、最初より少しだけ芯があった。

 

父上は頷く。

 

「それでよい」

それから、少しだけ視線を和らげた。

「もっとも」

 

「はい」

「いきなりお栄殿の御前へ出されても、今のお前では石のように固まるだけであろうがな」

 

それには、さすがに俺も吹き出しそうになったが、堪えた。

 

左衛門は、顔を赤くしたまま言う。

 

「父上」

「何だ」

「多分、その通りにございます」

 

そこまで正直に言われると、かえってよい。

 

父上も、ようやく少しだけ笑った。

 

「なら、まずはその通りでよい」

「はい」

「無理に大きく見せるな。だが、怯んで逃げるな」

「はい」

 

そこで、ようやく話は落ち着いた。

 

父上が最後に言う。

 

「この話は、まずわしから通した」

「はい」

「今後、どう進むにせよ、お前は藤左衛門家の次として、きちんと受けよ」

「承知致しました」

「治部」

「は」

「お前も、弟をからかいすぎるな」

「……努力します」

「努力、か」

 

その返しに、父上も左衛門も少しだけ表情を崩した。

 

そのくらいでよかったのだろう。

重い話のあとで、少しだけ息が抜ける。

そうでなければ、若い左衛門にはさすがにきつすぎる。

 

部屋を辞する時、左衛門の顔はまだ完全には定まっていなかった。

だが、元服の時と同じく、ちゃんと一歩は渡っている顔だった。

 

また一つ、家を継ぐ者としての話を受けたのだ。

それで十分だ。

 

 

左衛門へ話を通したあと、日を置かずに父上は本家へ出た。

 

こういう話は、片側へだけ通して置いておくべきではない。

藤左衛門家の後継へ筋を入れたなら、次は本家へ返す。

そして、先方の姫へどう話を渡すかを決める。

婚儀は、やはり家と家の間で刻みを違えてはならぬ。

 

座には、上総介兄上と勘十郎兄上。

そこへ信張が入り、俺も少し下がって控えた。

 

上総介兄上が、父上の顔を見てすぐに言う。

 

「どうだ」

 

回りくどい前置きはない。

こういうところは本当に早い。

 

父上もまた、簡潔に返した。

 

「左衛門にも話は通しました」

 

上総介兄上の目が、わずかに細くなる。

 

「ほう」

「驚きは致しましたが、逃げはしませなんだ」

 

「それでよい」と勘十郎兄上。

「若い者なら、まずは固まりましょう」

 

「ええ」と父上。

「ですが、固まった上で、きちんと受けると申しました」

 

そこまで聞けば十分だった。

 

上総介兄上は、少しだけ口元を上げる。

 

「なら、次だな」

その一言で、座はもう次の段へ進む。

「お栄の方へ、どう通すか」

 

勘十郎兄上が静かに言う。

 

「そこは、やはり雑には出来ませぬ」

 

「無論だ」と上総介兄上。

「左衛門は藤左衛門家の次。筋としては悪くない。だが、娘の方へは娘の方の渡し方がある」

 

そこまで聞いて、俺は一つ思い定めて口を開いた。

 

「上総介兄上」

「何だ」

 

「お市ど――」

そこまで言って、ほんのわずかに言い直す。

「……いえ、お市にも出てもらいましょう」

 

上総介兄上の眉が、少しだけ動いた。

勘十郎兄上は、もう半ば先を読んだ顔になっている。

 

「ほう」と上総介兄上。

 

俺は続けた。

 

「その、武家の姫としてどうするか、どう受けるか、どう立つか」

「うむ」

「そこは、たぶんお栄殿に最も近い立場で言葉を贈れるのは、お市かと」

 

部屋が、少し静かになった。

 

父上も、そこで初めてこちらをまっすぐ見た。

たぶん、よいところへ目を付けたと思ったのだろう。

 

勘十郎兄上が、静かに頷く。

 

「それは、よろしいかと。左衛門側は、父が筋を通した」

「はい」

「ならば、お栄側には、お栄に近い方から言葉がある方が、よほど座りがよい」

 

上総介兄上は、少しだけ考えるように目を伏せた。

 

「お市、か」

その声には、兄としての響きもある。

「たしかに、あやつなら分かる」

 

「はい」

「本家の姫として、他家へ嫁ぐこと」

「はい」

「しかも、ただ嫁ぐだけではなく、その婚儀が家の筋や政の意味を持つことも、身に沁みて分かっておる」

 

まさにそこだ。

 

お栄殿へこの話を持って行くのは、父である上総介兄上でもよい。

勘十郎でも理は立つ。

だが、“姫として嫁ぐ側の気持ち”まで含めるなら、お市以上に近い者はたぶんいない。

 

父上が、そこで深く頷いた。

 

「それは、ありがたい。左衛門へ話を通した時も思いましたが」

父は静かに言う。

「若い者にとって、婚儀の話は家の理だけでは受けきれぬところがある」

 

「はい」

「だが、お市殿のお言葉なら、お栄殿もまた“姫として立つとはどういうことか”を受けやすいでしょう」

 

上総介兄上が、そこでようやく少し笑った。

 

「治部大輔」

「は」

「そこへ気が回るのはよい」

「恐れ入ります」

「お前、自分と左衛門のこととなると、妙に身内へ目が寄るな」

 

そこは少し耳が熱い。

 

「……そうかもしれませぬ」

 

「悪いことではない」と勘十郎兄上。

「むしろ、こういう再編の時は、そういう目が要ります。理だけでは収まらぬこともありますゆえ」

 

そこまで言われると、少しだけ救われる。

 

上総介兄上は、すでに半ば決めた声になっていた。

 

「よい」

その一言で、場が締まる。

「では、まず帰蝶ではなく、お市だな」

 

「はい」

「お栄へいきなり“左衛門へやる”と申すより先に、お市から少し言葉を入れさせる」

「その方が、よろしいかと」

「うむ」

 

父上が、そこで少しだけ慎重に言った。

 

「もっとも」

 

「何だ」と上総介兄上。

 

「お市殿にとっても、軽い役ではありますまい」

 

そこは、確かにそうだ。

 

兄の妻。

本家の姫。

そして今度は、別腹の妹へ“他家へ嫁ぐ姫の立ち方”を言葉にして渡す。

軽いはずがない。

 

勘十郎兄上が、静かに言う。

 

「ですが、だからこそでしょう」

 

「うむ」と上総介兄上。

「あやつも、もう“ただ嫁いだ妹”ではない」

 

その言い方は、兄としての見方でもあり、棟梁としての見方でもあった。

 

「治部家の主だった者の妻でもある」

「はい」

「ならば、こういう時に前へ出るのもまた役目です」

 

そこまで言えば、もう段取りはほぼ定まっていた。

 

上総介兄上が、最後にきっぱり言う。

 

「よし」

「は」

「お市へは、わしから話す」

「はい」

「ただし、治部大輔」

「はっ」

「お前も同席しろ」

 

そこは、少しだけ意外だった。

 

「某も、にございますか」

 

「当たり前だ」

上総介兄上は少し笑う。

「お前が“お市にも出てもらいましょう”と申したのであろう」

 

「はい」

「なら、お前がそこにおらぬのでは筋が半端だ」

 

そこは、たしかにそうだ。

 

勘十郎兄上も頷く。

 

「左衛門信直側の筋を知り、お栄側への配慮も考えたのは治部大輔です」

「はい」

「ならば、その場にいるべきだろう」

 

そこまで言われれば異はない。

 

「承知致しました」

 

父上も、静かに頭を下げた。

 

「では、そのように」

 

話は、そこで次の段へ進んだ。

 

左衛門には話を通した。

次は、お栄。

そしてその前に、お市。

 

姫が姫へ、武家の縁談の重さと立ち方を言葉にして渡す。

それは、ただの政の手ではない。

家の中の温度まで含めた渡し方だ。

 

俺は、座の流れが次へ進みながら、胸の内で静かに思った。

 

やはり、婚儀は家の筋だけではない。

そこへ人の心をどう通すかまで含めて、ようやく本当に縁談になるのだろうと。

 

 

呼びがかかった時点で、軽い話ではないと分かった。

 

上総介兄上から。

しかも、治部も同席せよ、とのこと。

それならば、ただの兄妹の雑談ではない。

家の話が絡む。

 

お市は、そういうことが分からぬ人ではない。

 

通された部屋には、すでに上総介兄上がいた。

その少し下手に治部が控えている。

 

お市は、座に着く前にまず兄を見た。

それから、ほんの一瞬だけ治部へも目をやる。

 

この二人が同席して、自分へ話がある。

それだけで、だいたいの重さは読めた。

 

「兄上」

「うむ」

「治部殿」

「はい」

 

お市が静かに座すと、上総介兄上はいつものように遠回しには入らなかった。

 

「お市」

「はい」

「お栄のことだ」

 

その一言で、やはり来たかと分かった。

 

お栄。

別腹の妹。

年頃でもある。

そして今のこの座で、その名が出るなら、十中八九、婚儀の話だ。

 

お市は表情を崩さぬまま、静かに待った。

 

上総介兄上は続ける。

 

「左衛門へ、という話が出ておる」

 

そこではじめて、お市の目がほんのわずかに動いた。

 

驚きがないわけではない。

だが、それを顔へ大きく出さぬのが、この人の強さでもあった。

 

「左衛門殿、にございますか」

「うむ」

「藤左衛門家の」

「そうだ」

 

そこで、お市はすぐには返事をしなかった。

 

左衛門信直。

先日元服したばかり。

だが藤左衛門家の後継として立てられたばかりでもある。

そして治部は治部家を立てる。

それらを並べれば、婚儀の流れとしてまったくおかしいわけではない。

むしろかなり理にかなっている。

 

それでも、理にかなっているだけで姫を嫁がせる話が済むわけではない。

そこもお市は分かっている。

 

上総介兄上が、少しだけ声を緩めた。

 

「いきなりお栄へ話を持って行く前に、お前にも聞いておこうと思うてな」

「私に」

「うむ」

 

そこで、治部がほんのわずかに頭を下げた。

 

「某より、申し上げました」

 

お市が治部を見る。

 

「治部殿が」

「はい」

「その、左衛門にも、いずれ嫁を取らせねばならぬと」

 

そこまで聞くと、お市の目の奥が少しだけ和らいだ。

なるほど、治部がそこまで考えたか、とでも言いたげだった。

 

「そして」

治部は続ける。

「武家の姫として、どう受け、どう立つか、そのあたりの言葉は、たぶんお栄殿に最も近い立場で贈れるのは、お市かと」

 

そこまで言われると、お市もさすがに少しだけ息をついた。

 

上総介兄上が、妹のその変化を見て言う。

 

「どうだ」

 

お市は、すぐには答えなかった。

 

兄としての上総介兄上。

夫である治部。

その二人の前で、今度は自分が“姫から姫へ渡す役”を求められている。

それは軽いことではない。

 

やがて、お市は静かに言った。

 

「筋としては、悪くないかと存じます」

 

上総介兄上が頷く。

 

「うむ」

「左衛門殿は、元服を経て藤左衛門家の次として立たれた」

「そうだ」

「兄上は美濃で家を持ち、治部殿は治部家を立てる」

「うむ」

「その中で、藤左衛門家まで本家の縁を繋ぐなら、たしかに分かりやすい」

 

そこは、理としてきれいに受けた。

 

だが、お市はそこで終わらなかった。

 

「ですが」

 

「何だ」と上総介兄上。

 

「それを、お栄がどう受けるかは別です」

 

治部が、少しだけ身を正す。

上総介兄上は、むしろ満足そうだった。

 

「そう申すと思うた」

「姫が嫁ぐのは、家のためでもあります」

 

お市の声は静かだ。

だが、静かな分だけよく通る。

 

「ですが、家のためだからといって、“はい、そうですか”で済むように育てられておるわけでもありませぬ」

「うむ」

「お栄にはお栄の気質がありましょう」

「あるな」

「左衛門殿にも、左衛門殿の気質がある」

 

そこで、お市は少しだけ治部を見た。

 

「治部殿」

「はい」

「左衛門殿、固まられましたか」

 

その問いには、さすがに少し笑いが落ちた。

 

上総介兄上まで口元を動かす。

治部は少しだけ苦笑して答えた。

 

「かなり」

 

「でしょうね」

お市も、そこでほんのわずかに笑った。

「お栄も、おそらく同じにございます」

 

その言い方が、とてもよかった。

 

“嫌がるでしょう”ではない。

“泣くでしょう”でもない。

固まる。

その程度の、けれど確かな動揺。

姫としての躾も分かっているが、心は一瞬止まる。

そこを、お市はよく分かっていた。

 

上総介兄上が、妹を見ながら言う。

 

「なら、お前ならどう渡す」

 

お市は少しだけ視線を伏せた。

考えているというより、もう半ば答えはあるのだろう。

それをどう言葉にするかを選んでいる沈黙だった。

 

「まず」

やがて、静かに口を開く。

「“家のためだから受けよ”とは申さぬ方がよろしいかと」

 

治部の目が少しだけ動く。

上総介兄上も、何も言わず先を待つ。

 

「それでは、お栄は自分の足で立てませぬ」

「うむ」

「姫が嫁ぐのは、たしかに家のためです。ですが、嫁いだ先で立つのは、最後には自分にございます」

 

そこは、お市自身の言葉だった。

 

ただ教わった理ではない。

自分が実際に嫁いで、その中で立ってきた者の言葉だ。

 

「ですから」

お市は続ける。

「まず、話の筋はきちんと申します」

 

「話の筋」

「左衛門殿は、藤左衛門家の次として立った方。治部家が別に立ってもなお、藤左衛門家は本家に近い一門であること。今回の話は、その縁をあらためて整えるものでもあること」

 

上総介兄上が頷く。

 

「うむ」

 

「その上で」

お市の声が少しだけやわらぐ。

「お栄が“では自分はどう立つか”を、自分で考えられるように申したいと思います」

 

そこは、実にお市らしかった。

 

答えを押しつけぬ。

だが、理だけ渡して放り出すのでもない。

相手が自分の足で立てるように、言葉の橋を架ける。

 

治部が、少しだけ深く頭を下げた。

 

「それが、もっともありがたい」

 

お市はそちらへ目を向ける。

 

「治部殿」

「はい」

「これは、左衛門殿のためだけの話ではありませぬよ」

「……はい」

「お栄のためでもあります」

「承知しております」

「ならば、よろしい」

 

そこを、きちんと釘のように置く。

やはりこの人は強い。

 

上総介兄上が、そこで少しだけ声を緩めた。

 

「お前なら、そう言うと思うた」

「兄上が、最初からそれを望んでおられたのでしょう」

「無論だ」

 

その返しは速かった。

 

「お前に“話を通せ”と言うておいて、ただ言い含めろ、で済むと思うてはおらぬ」

 

お市は、そこで小さく頷いた。

 

「それなら、お受け致します」

 

その一言で、場が静かに定まった。

 

兄から妹へ。

夫から妻へ。

そして姫から姫へ。

 

それぞれ違う筋が、ようやく一本になる。

 

治部が言う。

 

「恐れ入ります」

 

お市は、そこでほんの少しだけ目を細めた。

 

「ただし」

「はい」

「治部殿も同席して頂きます」

 

そこは、少し意外だった。

 

治部が、わずかに目を上げる。

 

「某も、にございますか」

 

「ええ」

お市は静かに答える。

「左衛門殿側の事情も、お栄へ渡るべき筋も、治部殿が最もよくご存じでしょう」

 

「はい」

 

「それに」

ほんの少しだけ口元を和らげる。

「治部殿が“お市にも出てもらいましょう”と申したのでしょう?」

 

そこまで言われると、治部も苦笑するしかない。

 

「……はい」

「ならば、最後までいて頂きます」

 

上総介兄上が、そこで喉で笑った。

 

「違いない」

 

勘十郎兄上も、静かに頷く。

 

「きれいに収まりましたな」

 

本当に、その通りだった。

 

上総介兄上が最後に言う。

 

「では、お市」

「はい」

「お栄へ、まずお前から言葉を入れよ」

「承知致しました」

「治部大輔も同席」

「はっ」

「その上で、あとは様子を見る」

 

それで座は切れた。

 

だが、切れたあとも、治部の胸の内にはおそらくかなり強いものが残っただろう。

 

婚儀は政の手だ。

だが、それだけでは足りない。

相手が姫であるならなおさら、心へどう話を渡すかまで要る。

それを、兄でも棟梁でもなく、お市が引き受けた。

 

その意味は大きかった。

 

 

お栄を呼ぶ時、お市はあえて人を絞った。

 

大仰な座敷ではない。

侍女も最小限。いるのは夫である治部だけだ。

兄である上総介兄上も、勘十郎もいない。

 

最初の言葉は、姫から姫へ渡した方がよい。

そうお市は考えたし、たぶんそれがいちばん自然でもあった。

 

通されたお栄は、最初から少しだけ不思議そうな顔をしていた。

 

姉妹といっても、腹の違いもあり、常にべったりというわけではない。

けれど、お市に呼ばれれば軽い用ではないことくらいは分かる年頃だ。

 

「姉上」

「よく来ました」

 

お市は静かに笑って、お栄を座らせた。

 

春でも秋でもない、少しだけ空気のやわらかい刻だった。

外はまだ明るい。

けれど部屋の内側には、こういう話を受けるのにちょうどいい落ち着きがある。

 

お栄は座したあとも、少しだけ戸惑ったようにお市を見た。

 

「何か……ございましたか」

 

お市は、すぐには本題へ入らなかった。

 

焦らせるのも違う。

だが、長く引きすぎると、かえって身構えさせる。

 

「兄上から」

やがて、静かに言った。

「先に聞いておくべき話があると申されました」

 

その一言で、お栄の背がわずかに伸びる。

 

上総介兄上から。

先に聞いておくべき話。

それだけで、軽い話でないことは分かる。

 

「私に、でございますか」

「ええ」

「……何の話でしょう」

 

ここで、お市は真正面からお栄を見た。

 

ごまかさない方がいい。

姫として育った子に対しては、変に濁す方がかえって怖い。

 

「縁談です」

 

その一言で、お栄は見事なくらいに固まった。

 

目が少しだけ見開かれる。

指先も、膝の上でほんのわずかに力む。

声は、すぐには出ない。

 

お市は、その反応を見てもすぐには畳み掛けなかった。

ただ、少しだけ声を柔らかくする。

 

「驚くのは当然です」

 

それでようやく、お栄は小さく息を吐いた。

 

「……はい」

 

まだそれだけだ。

だが、それでよい。

 

お市は続ける。

 

「今すぐ何もかも決めるという話ではありません」

「はい」

「ですが、筋として、先にあなたへも渡しておくべき話だと兄上はお考えです」

 

お栄は、まだ緊張の抜けぬ顔で頷いた。

 

「お相手は……」

 

そこは、やはり最初に聞きたいところだろう。

 

お市は静かに答える。

 

「藤左衛門家の左衛門殿です」

 

お栄は、そこでまた少し止まった。

 

左衛門信直。

その名を知らぬわけではない。

つい先日、元服を経て立ったばかりの藤左衛門家の後継。

そして、治部が治部家を立てる、その弟。

 

理として繋がらぬ名ではない。

だからこそ、余計に現実味もある。

 

「左衛門……信直殿」

「ええ」

「藤左衛門家の」

「はい」

 

お栄は、少しだけ視線を落とした。

 

そこから先の言葉が、すぐには出てこない。

その間に、お市はただ待った。

姫が姫へ話を渡す時、最初の一拍は急かさぬ方がよい。

 

やがて、お栄が低く言う。

 

「お話としては……分かります」

 

その答えは、思っていたよりずっとよかった。

 

お市は小さく頷く。

 

「そうですね」

「治部殿が治部家を立てられて」

「ええ」

「左衛門信直殿が、藤左衛門家の次として立たれて」

「ええ」

「そのうえで、本家との縁を改めて結ぶ」

「はい」

 

お栄は、そこで少しだけ顔を上げた。

 

「だから、私に」

 

「そうです」

ここで、お市は一つ、はっきりと言葉を置いた。

「ですが」

 

お栄がこちらを見る。

 

「筋が通ることと、あなたの心がすぐに追いつくことは、別です」

 

その一言で、お栄の目の奥に、ほんの少しだけ安堵の色が差した。

 

たぶん、そこが怖かったのだろう。

“筋が通るのだから、すぐに受けよと言われるのではないか”と。

 

お市は続ける。

 

「姫が嫁ぐのは、たしかに家のためでもあります」

「……はい」

「ですが、嫁いだ先で立つのは、最後にはあなた自身です」

 

その言葉は、お市自身の実感として出ていた。

 

お栄は、黙って聞いている。

たぶん、この姉はただ理を言っているのではないと分かっているのだろう。

 

「ですから」

お市は少しだけ声をやわらげた。

「まずは、驚いてよろしいのです」

 

お栄の肩から、目に見えぬくらいの力が少し落ちた。

 

「……よろしいのでしょうか」

「ええ」

「私、もっとこう……」

 

言葉を探している。

“すぐに受けますと言うべきだったのではないか”

そういう迷いが見える。

 

お市は首を振った。

 

「いきなり“はい、承知しました”とだけ申せば、かえって怖い」

 

そこで、お栄は初めて少しだけ笑いそうになった。

 

「姉上」

「何です」

「それは……そうかもしれませぬ」

 

その返しで、部屋の空気がようやく少しやわらいだ。

 

お市は、そこから一歩だけ先へ進める。

 

「左衛門殿も、やはり固まられたそうです」

 

お栄は、思わず少しだけ目を見開いた。

 

「左衛門殿も、でございますか」

「ええ」

「そう、なのですか」

 

その顔は、少し意外そうでもあり、少しだけ救われたようでもあった。

 

縁談というのは、つい“嫁ぐ側だけが試される”ように感じやすい。

だが、相手もまた同じだけ突然その話を受けている。

そこを知るだけでも、だいぶ違う。

 

「元服したばかりで、藤左衛門家の後継として立ったばかりです」

「はい」

「そこへこの話ですから、左衛門信直殿もそう簡単には平然としておられぬでしょう」

 

お栄は、そこでようやくはっきりと息を吐いた。

 

「少し、安心致しました」

「そうでしょうね」

 

お市は微笑んだ。

 

「姉上は」

そこで、お栄が少しだけためらいながら問う。

「……どう思われますか」

 

その問いは、重い。

“筋としてどうか”ではない。

“姉として、嫁いだ者として、どう思うか”だ。

 

お市はすぐには答えなかった。

しばらく、お栄の顔を見つめてから言う。

 

「悪くないと、思います」

 

お栄の目が少し動く。

 

「悪くない」

「ええ」

「左衛門殿は、まだ若く、これから立つ方です」

「はい」

「ですが、だからこそ、これからの家を一緒に作る婚儀にもなりましょう」

 

そこは、お市らしい見方だった。

出来上がった家へ入るだけではない。

これから整っていく家を共に作る。

それは、若い姫にとって、恐ろしさでもあり、やり甲斐でもある。

 

「それに」

お市は少しだけ声を落とす。

「治部殿がおられます」

 

お栄は、少しだけ目を瞬いた。

 

「治部大輔殿が」

「ええ」

「治部殿が治部家を立てられる。ならば藤左衛門家もまた、ただ切り離されるのではなく、近いところにございます」

 

その言い方は、お栄にもよく分かっただろう。

 

左衛門信直へ嫁ぐ。

それは、まったく知らぬ遠い家へ放り出される話ではない。

本家との縁もあり、お市自身もいて、治部も近くにいる。

そういう安心は、かなり大きい。

 

お栄は、そこで小さく頷いた。

 

「……そう、ですね」

 

まだ答えは決まっていない。

だが、少なくとも最初の強張りだけで終わってはいない。

そこまで来れば十分だった。

 

お市は最後に言った。

 

「お栄」

「はい」

「これは、あなたが“どう立つか”の話でもあります」

「……はい」

「家のためだけでなく、あなた自身がどう立てるかを考えなさい」

「はい」

「その上で、受けるなら受ける。迷うなら迷う。それでよろしい」

 

お栄は、深く頭を下げた。

 

「ありがとうございます」

 

その声音は、呼ばれてきた時よりずっと落ち着いていた。

 

まだ何も決まってはいない。

だが、姫から姫へ、渡すべき筋はきちんと渡った。

 

それで十分だった。

 

 

 

 

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