織田家の嫡子~藤左衛門家の特異点 作:デトロ!開けろイト市警だ!
元服の儀が終わったあとも、座の余韻はしばらく消えなかった。
名を与えられる。
烏帽子親を得る。
それだけのことのようでいて、やはり人の見方は変わる。
さっきまで又六郎と呼ばれていた者が、いまは左衛門信直として見られる。
その差は、思っている以上に大きい。
上総介兄上と勘十郎兄上、父上をはじめ、座の中心にいた者たちが少しずつ散っていく中で、俺は少しだけ間を置いてから新たな信直の方へ向かった。
左衛門信直――まだその名で呼ぶのも、どこか新しい。
だが、だからこそ今ここで呼んでおく方がよいと思った。
「左衛門」
呼ぶと、左衛門はすぐに振り向いた。
一瞬だけ、以前の又六郎の顔が出る。
だが、その次にはもう引いている。
本人も、切り替えようとしているのだろう。
「はい」
「少し歩くか」
「はい」
並んで廊へ出る。
人目が完全にないわけではない。
だが、座の中央で話すほどでもない。
ちょうどよい距離だった。
しばらく無言で歩いていると、信直の方から先に口を開いた。
「……まだ、慣れませぬ」
「何が」
「左衛門信直、にございます」
それには、こちらも少しだけ笑った。
「今日いきなり慣れたら、それはそれで怖い」
「はい」
左衛門も、ほんの少しだけ笑った。
だが、やはり緊張は抜け切っていない。
「上総介様に烏帽子親まで務めて頂き、私は……」
そこまで言って、少し言葉を探す。
「重い、か」
「はい」
左衛門は正直に頷いた。
「ありがたくもございます。ですが、それだけではなく」
「うむ」
「本当に、次として立たされたのだと、ようやく腹へ落ちて参りました」
それは、よい答えだった。
元服をした。
名をもらった。
めでたい。
それだけで終わるより、ずっといい。
立場の重さを先に感じているなら、たぶん変な浮き方はせぬ。
「それでよい」
俺は言った。
「軽く受けるより、よほどましだ」
左衛門は、少しだけこちらを見上げた。
「兄上」
そこで、一度だけ言葉が止まる。
「……いえ」
その“いえ”で、何を言い直そうとしているかは分かった。
俺は、少し黙って待った。
左衛門は、意を決したように言う。
「これからは」
「うむ」
「兄上としてだけではなく、治部家当主としても、兄上を見ることになります」
その言い方は、いかにも今の信直らしかった。
まだぎこちない。
だが、ちゃんと考えた上で出した言葉だ。
「そうだな」
俺は頷いた。
「俺も、お前を弟としてだけではなく、藤左衛門家の後継として見る」
そこまで言うと、信直の表情が少しだけ引き締まる。
「はい」
「だから、今まで通りでよいところと、今まで通りでは済まぬところが、両方出る」
「……はい」
「ややこしいか」
「少し」
そこは正直でよかった。
「だが、それも仕方あるまい」
「はい」
しばらく歩いてから、俺は少しだけ口調を軽くした。
「もっとも」
「はい」
「だからといって、いきなり俺へ堅苦しくし過ぎるな」
左衛門が少しだけ目を丸くする。
「よろしいのですか」
「よい」
「ですが、治部家当主に」
「それは外向きの話だ」
そこは切っておく。
「人前、評定、家中の筋、そのあたりでは分けねばならぬ。だが、何でもかんでも急に壁を立てれば、それはそれで不自然だ」
左衛門は、少し考えるように黙ってから頷いた。
「分かりました」
「ゆっくり覚えればよい」
「はい」
そこで、ようやく少し空気が柔らかくなった。
元服のあとの若者というのは、たいてい急に“大人であらねばならぬ”と肩へ力が入る。
だが、力だけで大人になれるわけではない。
立場が変わる。
その立場へ、少しずつ身を入れていく。
それでよいのだろう。
左衛門が、少ししてから言った。
「兄上――」
今度は言い直さなかった。
「何だ」
「いえ、治部家当主という見方も致します、と申しましたが」
「うむ」
「やはり、兄上は兄上です」
それには、こちらも少しだけ笑った。
「そうであってくれ」
「はい」
「いきなり“治部殿”などと呼ばれたら、俺の方が困る」
左衛門も、今度ははっきり笑った。
「さすがに、そこまでは致しませぬ」
「ならよい」
その笑いで、ようやく本当に又六郎の頃の空気が少し戻った。
いや、戻ったというより、新しい立場の上に昔の兄弟の空気が乗った、という方が近いかもしれない。
それで十分だった。
少し廊の先まで来たところで、俺はふと思って言った。
「左衛門」
「はい」
「お前にも、嫁を取らせねばな」
左衛門が、見事なくらいに固まった。
「は……?」
「何だ、その顔は」
「い、いえ」
明らかに動揺している。
そこが妙に可笑しい。
「兄上、急に何を」
「急でもあるまい」
「いや、急にございます」
左衛門の顔が、少し赤い。
元服したばかりの男へ、それは来る話だ。
来る話だが、やはり急に言われるとこうなる。
「お前が藤左衛門家の後継として立つなら、いずれはそういう話も要る」
「そ、それは」
「嫌か」
「嫌と申しますか、まだそのようなことまで頭が――」
そこまで言って、左衛門は言葉に詰まった。
俺は、わざと少しだけ笑ってやる。
「何だ、左衛門」
「はい」
「上総介様が烏帽子親を務めて下さる元服には耐えたのに、嫁の話には弱いのか」
「それとこれとは別にございます!」
そこは、思った以上にきっぱり返ってきた。
それが可笑しくて、つい声を立てずに笑う。
左衛門も、自分で言ってから少しだけしまったという顔をしたが、今さら遅い。
「まあ、急がぬ」
「……はい」
「だが、いずれは考えねばならぬ」
「はい」
「お前が誰を迎えるかで、藤左衛門家の次の形も変わる」
そこまで言うと、左衛門の顔がまた少し真面目に戻った。
「たしかに」
「兄上方がそうであったように、婚姻もまたお家の考えることだ」
「はい」
「もっとも」
俺は少しだけ肩を竦めた。
「俺が言うと、やや説得力があるのかないのか分からぬな」
それには、左衛門も苦笑した。
「お市殿をお迎えした兄上が申されると、なくはないかと」
「微妙な言い方だな」
「ですが、分かります」
そこまで来れば十分だ。
冗談めかして言い出したが、実際にこれは遠からず来る話だ。
左衛門が藤左衛門家の次として立つなら、婚姻もまた家の再編の一部になる。
その重さを、今日いきなり全部背負わせる必要はない。
だが、遠い未来の話でもない。
「まあ」
俺は最後に言った。
「まずは名前に慣れろ」
「はい」
「嫁の話は、そのあとだ」
「そうして頂けると助かります」
「そんなに困るか」
「かなり」
それには、また少しだけ笑いが落ちた。
元服した。
後継になった。
兄は治部家を立てる。
弟は藤左衛門家の次として立つ。
そこまで重い話が続いたあとで、この程度の笑いがある方が、かえってよいのかもしれない。
左衛門は、少ししてから改めて言った。
「兄上」
「何だ」
「……いろいろ、ありがとうございます」
そこは、余計なことを言わぬ方がよかった。
「立て」
それだけ返す。
左衛門は深く頷いた。
「はい」
その顔を見ていると、今日一日で完全に変わったわけではない。
だが確かに、又六郎から左衛門信直へ、一歩は渡ったのだと分かった。
それで十分だ。
♢
左衛門信直の元服が済み、家の形がようやく見え始めた頃のことだった。
治部家は立つ。
藤左衛門家はなお左衛門佐信張が率い、その後継として左衛門信直が立つ。
そこまでは、もう定まった。
だが、家というものは、名と跡継ぎだけで完結するわけではない。
次を継ぐ者が立てば、その次に見えてくるものもある。
その日の座は、ことさら大仰な評定ではなかった。
上総介兄上と勘十郎兄上、俺の三人で、元服後の細かな段取りや、美濃の仕置の続きについて話していた折だ。
話がひととおり切れたところで、俺は少しだけ間を置いてから口を開いた。
「上総介兄上」
「何だ」
「あと一つ、気にかかることがございます」
上総介兄上が、少しだけ面白そうに目を細める。
「またか」
「またにございます」
勘十郎兄上は、横で静かにこちらを見ている。
この二人の前で“気にかかること”と言えば、大抵それなりに大きい話になると、もう互いに分かっている。
「申せ」と上総介兄上。
俺は頷いた。
「左衛門にも、嫁を世話してやりとうございます」
そこで、部屋の空気が少しだけ変わった。
重い話ではない。
だが、軽い話でもない。
元服した。
後継として立った。
ならば、その次に婚姻の話が出るのは、むしろ自然だ。
上総介兄上が、ふむと小さく息をつく。
「たしかに」
そこで、勘十郎兄上が静かに言葉を継いだ。
「藤左衛門家の次期当主であるなら、いずれ必要ではありますな」
「はい」
俺も頷く。
「今すぐというわけではございませぬ。ですが、左衛門が次として立った以上、先を見ておかねばなるまいと」
上総介兄上は、脇息へ軽くもたれたままこちらを見ていた。
その目が、ふと横へ動く。
「勘十郎」
「は」
「どうじゃ」
その口元に、少しだけ笑みが差す。
「お栄をやるというのは」
その一言で、さすがに俺はわずかに目を上げた。
お栄。
信秀公の六女。
上総介兄上や勘十郎兄上、お市、お犬殿とは別腹ながら、まぎれもなく織田家の姫だ。
勘十郎兄上は、少しも驚いた様子を見せなかった。
むしろ、最初からどこかで考え得た札として受けている顔だった。
「良いのではないでしょうか」
返答も早い。
「これで藤左衛門家との縁が切れるのも惜しゅうございますゆえ」
その言い方は、きれいだった。
俺自身は治部家として別に立つ。
だが、だからといって藤左衛門家が本家から遠のくわけではない。
むしろ、そこで次の後継へも本家の姫を入れるなら、
“兄は治部家で一門、弟は藤左衛門家でも一門”
となる。
かなり強い。
だが、こちらとしては簡単に受けてよい話でもない。
「そんな」
思わず、少しだけ前へ出ていた。
「そこまでして頂いて、よろしいのでしょうか」
上総介兄上が、そこで少しだけ眉を動かした。
「そこまで、か」
「はい」
「確かに藤左衛門家は、我が織田家の重要な一門にございます。しかしながらあらためて姫を入れるなど」
「何を申す」
上総介兄上の声は強くはない。
だが、きっぱりしていた。
「勘十郎やお主のいう通り、藤左衛門家は、我が織田家の重要な一門である」
「は」
「それは、お主が独立して治部家を立てたとしても変わらぬ」
そこを、はっきり言い切った。
その一言で、胸の内が少し熱くなる。
治部家を立てる。
だから藤左衛門家が本家から離れるのではない。
むしろ両方が、それぞれ違う形で本家へ結ばれる。
それが兄上の見立てなのだ。
勘十郎兄上も、静かに続ける。
「左衛門信直は、ただ“兄の余り”として立ったのではない」
「はい」
「藤左衛門家の次として、本家がきちんと見ている。その形は、婚姻でもまた示した方がよい」
そこは、まさにその通りだった。
俺が考えていたのは、せいぜい“どこぞに良い年頃の娘があれば”くらいのところだ。
だが、兄上方はそこからさらに一段先を見ている。
ただ嫁を取るのではない。
どの家とどう繋ぐかで、再編後の家の筋を示す。
それが婚姻だ。
「お主」
上総介兄上がこちらを見る。
「どこぞに良い年頃の娘がおれば、と思うたのであろう」
「……はい」
「なら、ちょうどおるではないか」
その言い方には、やはりどこか兄らしい気安さが混じる。
だが札そのものは、軽くない。
勘十郎兄上が、そこで一つ現実に寄せた。
「もっとも」
「は」
「左衛門本人の気質も見ておかねばなりませぬ」
「はい」
「お栄は、ただ奥に置いておけばよい姫ではない」
そこは重要だった。
本家の姫を入れる。
それは家格の上では強い。
だが、人として合うか、家の空気に馴染むか、そのあたりを無視してよいわけではない。
上総介兄上が、少しだけ笑う。
「左衛門は、あの通りまだ少し青い」
「はい」
「だが、青いからこそ、早いうちから本家の縁で囲ってやるのも悪くない」
その物言いは、少し強い。
だが、棟梁として見ればよく分かる。
後継として立てた。
ならば、周りを整える。
それだけのことだ。
俺は、少しだけ息を整えてから言った。
「左衛門にとっては、ずいぶんと過分かと」
勘十郎兄上が、そこへ即座に返す。
「過分と思うなら、それに足るよう立たせればよいのだ」
それは、さっきの元服の時とも通じる言葉だった。
名が重い。
ならば、その重さに足るよう立て。
婚姻も同じだ。
相手が重い。
ならば、その相手に足る家に整えよ。
そこまで筋を通されると、こちらとしても頷くしかない。
「恐れ入ります」
「まだ決まりではない」
上総介兄上が言う。
「まずは左衛門の方も見よう。お栄の方も、どう思うか見よう」
「はい」
「だが、話の筋としては悪くない」
「はい」
部屋の中の空気は、すでに半ば定まっていた。
これはただの思いつきではない。
かなり本気の話として、上総介様と勘十郎殿の中で動き始めている。
上総介兄上が、最後に少しだけ面白そうに言った。
「治部大輔」
「は」
「左衛門に嫁を、と言い出したのはお前だ」
「はい」
「なら、今さら“そこまでして頂いてよろしいのでしょうか”と慌てるな」
そこは、さすがに少し苦笑するしかない。
「そこまでの方が出るとは思っておりませなんだ」
「お前、時々そこが甘いな」と上総介兄上。
「家の再編をやっておるのだ。婚姻もまた、そのうちに入る」
「ごもっともにございます」
勘十郎兄上も、わずかに口元を和らげた。
「それに、治部家と藤左衛門家、両方を本家と強く結び直すなら、これ以上ないほど分かりやすい」
「はい」
「兄はお市。弟はお栄。これで左右にぶれぬ」
そこまで聞くと、もう本当に“婚姻”が一つの政の手であることが、あらためて腹へ落ちる。
兄上は、結局そこまで見ていたのだ。
治部家を立てる。
藤左衛門家の後継を立てる。
そのうえで、どちらも本家の姫で結ぶ。
かなり強い。
俺は深く頭を下げた。
「恐れ入ります。左衛門にも、身の丈を越えぬよう、ですが臆せず立てるよう申します」
上総介兄上が頷く。
「うむ。もっとも」
そこで少しだけ笑う。
「左衛門本人にいきなり申せば、また顔を真っ赤にするやもしれぬがな」
それには、さすがにこちらも笑った。
「大いにありえます」
勘十郎兄上まで、今度は少しだけ明確に笑った。
「まずは、様子を見ながらに致しましょう」
「はい」
話はそこで切れた。
だが、切れたあとも、その余韻は強かった。
左衛門にも嫁を。
その何気ない一言から、本家の姫という札が本気で出る。
それが、この家の大きさでもある。
そして同時に、信繁が立てば弟もまた立てる、という見方を本家がしている証でもある。
それは、ありがたくもあり、重くもあった。
♢
お栄の話を、最初に左衛門信直へ持って行くのは違うのではないかと、俺も上総介兄上も同じように考えていた。
婚姻は、当人同士の話である前に、まず家の話だ。
しかも今回のそれは、ただ「嫁を取る」というだけではない。
治部家を立て、藤左衛門家の次を左衛門信直として立て、そのうえでなお本家との縁を太く繋ぎ直すという、一連の家の再編の延長にある。
ならば、先に通すべきは父上だ。
父信張のもとを訪ねた時、父はちょうど書付を見ていた。
美濃が定まったとはいえ、尾張も止まってはおらぬ。
現役当主の机というのは、いつ見ても余白が少ない。
「父上」
「うむ、治部か」
顔を上げた父は、こちらの顔色を見て、すぐに軽い用ではないと察したらしい。
「何かあったか」
「一つ、兄上方と話がまとまりかけていることがございます」
「申せ」
俺は座し、少しだけ間を置いてから言った。
「左衛門の婚儀の話にございます」
信張の目が、そこで少しだけ動いた。
「……ほう」
「いずれ必要ではないか、と某が申し上げました」
「それは、そうだ」
そこは即答だった。
「左衛門を後継として立てた以上、先を見ておくのは当然だ」
「はい」
「それで、どこぞに良い年頃の娘がおれば、とでも申したか」
「その程度のつもりでおりました」
「その程度、か」
父は、少しだけ笑った。
たぶん、その先がもう見えているのだろう。
「で、上総介様は何と」
「お栄殿を、という話に」
そこまで言った瞬間、父上ははっきりと目を上げた。
「……お栄殿」
「はい」
「大殿六女の」
「はい」
父上は、すぐには何も言わなかった。
驚きだけではない。
話の重さを、そのまま測っている顔だった。
やがて、低く息を吐く。
「そこまでして頂けるなら」
そして、ゆっくりと言った。
「藤左衛門家としても面目だ」
その言葉は、深かった。
本家の姫を、兄だけでなく弟の次代にも入れる。
それは、単なる縁組ではない。
本家が藤左衛門家を、いまなお重要な一門として見ている、という明確な証になる。
「某も、そう思います」
「うむ」
父上は、少しだけ視線を落とした。
「治部が治部家を立てる」
「はい」
「その分、藤左衛門家の方は薄くなるやもしれぬ、と見る者もおろう」
そこは父もやはり見ていた。
「だが、左衛門へお栄殿、となれば話は違う」
「はい」
「兄はお市殿、弟はお栄殿」
父上が、わずかに口元を和らげた。
「本家は、二つに分かれた先までちゃんと見ておると、家中へ示すことになる」
「その通りにございます」
そこまで来ると、話の筋はかなりよい。
だが、父はそこで浮かれなかった。
「ただし」
「はい」
「左衛門に、どう伝えるかだな」
そこが、まさに肝だった。
元服したばかり。
後継として立ったばかり。
その上で、今度は本家の姫との婚儀の話が来る。
若い当人にとっては、さすがに少し重い。
「また固まるでしょうな」と俺。
「まず間違いなくな」
父も、さすがに少し笑った。
「元服の時でさえ、あの顔だった。お栄殿と申したら、今度は言葉ごと止まるやもしれぬ」
「ありえます」
「ありえるな」
少しだけ、部屋の空気がやわらいだ。
だが父は、すぐに真面目な顔へ戻った。
「治部」
「はい」
「左衛門にこの話を持って行く時、軽く申してはならぬ」
「はい」
「若い男に嫁の話は照れもあろう。だが、今回はそれだけではない」
「分かっております」
「藤左衛門家の次として、どう本家と結ばれるか、その話でもある」
そこを、父もまっすぐ見ている。
「ゆえに、まずはわしから申そう」
「それがよろしいかと」
「うむ。兄から茶化されて終わる話ではない」
そこは、少しだけ耳が痛い。
「……心致します」
「お前はお前で、変に笑わせるでなかろうな」
「努力します」
「努力、か」
父は少しだけ呆れたように笑った。
だが、その笑いに怒気はない。
「まあよい。まずは、上総介様のご意向として筋を伝える」
「はい」
「そのうえで、左衛門がどう受けるかを見る」
「はい」
父は、そこで少しだけ遠くを見るようにした。
「お栄殿、か」
その声には、重さと、少しの誇りが混じっていた。
「過ぎた話に見えるかもしれぬ。だが、今の藤左衛門家には、それに応えるだけの筋を通さねばならぬ」
「左様にございます」
「左衛門も、そこは学ばねばなるまいな」
父のその言い方を聞いていると、やはりこれは“次の後継教育”でもあるのだと思う。
元服した。
名を受けた。
次期当主として立った。
そして、いずれは婚儀でまた家を結ぶ。
その一つ一つが、左衛門信直を“ただの若者”から“家を背負う者”へ変えていく。
「父上」
「何だ」
「左衛門、驚くでしょうな」
「驚くであろうよ」
父上は、少しだけ笑った。
「だが、驚いて終わるならそこまでだ。驚いた上で、受けて立つなら、それでよい」
そこが父らしかった。
そしてたぶん、あの人は左衛門をそういうふうに立てたいのだろう。
兄が治部家を立てる。
弟は藤左衛門家の次として、本家の姫を迎える。
片方だけが大きくなるのではなく、両方をきちんと家の筋へ落とし込む。
それが、この数か月で兄上方がやっている再編の意味でもある。
「分かりました」
俺は深く頭を下げた。
「では、左衛門への話は父上より」
「うむ」
「某は、それを受ける形で後ろを支えます」
「それでよい」
父上は頷いた。
「治部」
「はい」
「お前が左衛門の嫁を、と言い出したのはよかった」
そこは、少し意外だった。
「そうにございますか」
「うむ」
「兄が別家を立てる時、弟にもまた次を見ておる。それを、まずお前が気にした」
父は、そこでわずかに目を細めた。
「それだけでも、兄としては上出来だ」
その一言は、案外胸に来た。
戦のこと。
美濃のこと。
治部家のこと。
そういう大きな話ばかりを見ていると、つい足元の“弟の次”のようなことは、他人に任せがちになる。
そこを自分から気にした。
それを父が見ていた。
「恐れ入ります」
「まあ、兄としてはな」
そこで、少しだけ声を軽くする。
「当主としては、まだこれからだ」
「……はい」
その返しで、こちらもさすがに少し笑った。
父は父で、褒めたままでは終わらせぬ。
そこも、らしい。
それで話は切れた。
だが、部屋を出たあとも、胸の内には一つはっきりしたものが残った。
左衛門の婚儀は、単なる“嫁を取る話”ではない。
藤左衛門家の次を、本家がどこまで見ているかの証だ。
だからこそ、雑に扱ってはならぬ。
そして、その話をまず父が渡すというのもまた、筋だった。
兄は兄。
だが、家の筋を子へ渡すのは、まず父なのだ。
♢
左衛門信直が呼ばれたのは、元服の熱もまだ完全には引き切っておらぬ頃だった。
名を改めた。
後継として立った。
烏帽子親は上総介兄上。
そこまでで十分に重い。
普通の若者なら、それだけでしばらくは腹がいっぱいでもおかしくない。
だからこそ、父上も最初から軽くは入らなかった。
部屋には父上と左衛門信直。
少し離れて俺も控えていたが、口を挟む気はなかった。
この話はまず、父から子へ渡るべきだ。
左衛門は、入ってきた時点で少し顔が硬かった。
父がわざわざ改めて呼ぶ。
軽い用ではない。
そこまでは、もう分かるようになっている。
「父上」
「うむ、左衛門」
呼び方が変わる。
それだけで、やはり空気も少し変わる。
父上は、しばし信直を見ていた。
それから、静かに言った。
「ひとつ、さらに重い話がある」
その一言で、信直の背がぴんと伸びた。
「……は」
「怖がるな、と言うても無理であろうな」
「い、いえ」
「怖がっておる顔だ」
そこは即座に切られる。
左衛門は、少しだけ口をつぐんだ。
だが、無理に否定を重ねぬあたり、前よりは少し学んだのかもしれない。
父上は続けた。
「お前を藤左衛門家の後継として立てた」
「はい」
「ならば、次に見るべきものもある」
そこまで言われれば、何となく察するものはある。
あるが、まだ本人の中で形にはなり切っていない。
そういう顔だった。
「家の次、にございますか」
「そうだ」
父上は頷いた。
「家は、名を継げば済むものではない」
「はい」
「誰を迎えるかでも、次の形は変わる」
そこへ来て、ようやく左衛門の顔がわずかに固まり始めた。
たぶん分かったのだ。
これは、婚儀の話だと。
父上は、そこで言葉を切らず、そのまま進めた。
「上総介様と勘十郎様、そして治部とも話が出た」
左衛門の喉が、目に見えぬ程度に動いた。
「……はい」
「お前にも、いずれ嫁を取らせねばならぬ」
そこまでは、まあよい。
当然の話だ。
重いが、理解の外ではない。
だが問題は、その次だった。
父上は、少しだけ間を置いてから言った。
「その話の中で」
「はい」
「お栄殿を、という話が出ておる」
左衛門は、見事なほどに固まった。
声が出ぬ。
目だけが、ほんのわずかに見開かれる。
息もたぶん、一瞬止まった。
父上は、その反応を見て少しだけ呆れたように言う。
「やはり固まったか」
「…………」
「左衛門」
「…………は」
ようやく、かすかに返事が出た。
それだけでもよく出た方だと思う。
「聞こえたか」
「き、聞こえては、おります」
「ならばよい」
父上は平然としている。
だが、その平然さの裏で、息子がどれほど動揺しているかも分かっている顔だった。
「お栄殿、にございますか」
ようやく、左衛門が言葉にした。
「そうだ」
「大殿六女の……」
「うむ」
「本家の姫君にございます、よね」
「そうだ」
左衛門は、そこでまた黙った。
そりゃあ黙る。
元服したばかり。
ようやく自分が左衛門信直だと飲み込み始めたばかり。
その次に、信秀公の姫との婚儀の可能性を告げられれば、頭も追いつくまい。
父上は、そこを見越していたのだろう。
すぐに続けた。
「今すぐ決まりという話ではない」
「……はい」
「だが、筋としては悪くない、と上総介様も勘十郎殿もご覧になっておる」
「はい」
「兄はお市殿を迎え、治部家を立てる」
そこは、信直も頷く。
「はい」
「お前は藤左衛門家の次として、お栄殿を迎える」
父上は、静かに言った。
「そうなれば、治部家と藤左衛門家、どちらも本家と太く結ばれる」
左衛門は、少しずつだが、その意味を噛み砕き始めた顔になっていった。
ただ“過ぎた縁談”というだけではない。
家の再編の延長。
兄が立ち、弟もまた立つ、その形を本家が見ている証。
「父上」
「何だ」
「私には……過分ではございませぬか」
そこは、まずそう来るだろうと思っていた。
父上は頷く。
「過分だ」
即答だった。
左衛門の肩が、一瞬だけ強ばる。
だが、父はすぐ続ける。
「だが、過分であることと、受ける資格がないことは違う」
そこが肝だ。
「お前は、藤左衛門家の次として立った」
「はい」
「ならば、その立場に見合う縁が来ることもある」
「……はい」
「受けるなら、その重さに足るよう立て」
左衛門は、深く息を吸った。
元服の時と同じだ。
重い話を受ける時、この子はまず一度息を入れる。
「分かり、ました」
その声は、まだ硬い。
だが、逃げてはいない。
そこで、俺は初めて口を開いた。
「左衛門」
左衛門が、少しだけ救われたような顔でこちらを見る。
父の前で一人受け続けるのは、さすがにきつかったのだろう。
「はい」
「慌てるな」
「……はい」
「まだ“そうなるかもしれぬ”の段だ」
「はい」
「いきなり明日、婚儀という話ではない」
「さすがに、それは……」
そこまで言って、左衛門は少しだけ表情を緩めた。
ようやく息が入ったらしい。
「兄上」
「何だ」
「父上の前で、そのようなことを申すのも何ですが」
「うむ」
「急にお栄殿、と言われても、私はまだ……心の置き場が」
それには、さすがにこちらも少し笑った。
「それはそうだろうな」
父上も、完全には崩さなかったが、声は少し柔らかくなった。
「誰も、いきなり慣れよとは申しておらぬ」
「はい」
「だが、家を継ぐとは、そういう話も来るということだ」
「……はい」
そこへ、俺が少しだけ軽く言った。
「だからこの前、嫁を取らせねばな、と言ったろう」
左衛門が、あからさまに困った顔になる。
「兄上」
「何だ」
「その時は、まさかここまでの話になるとは思っておりませなんだ」
「俺もだ」
そこは本音だった。
左衛門が少し目を丸くする。
「兄上も、ですか」
「うむ。せいぜい、どこぞに良い年頃の娘がおればと思った程度だ」
父上が、そこで少しだけ呆れたように言う。
「治部も、そこで本家の姫が出るとは思わなんだのだ」
「はい」
左衛門が、今度は少しだけ違う驚き方をした。
「では……兄上も驚かれたので」
「かなりな」
「そう、ですか」
それで少しだけ気が楽になったのかもしれない。
左衛門の肩から、ようやく力が少し落ちた。
父上は、その変化を見て言った。
「左衛門」
「はい」
「大事なのは、驚かぬことではない」
「……はい」
「驚いたうえで、受けて立つことだ」
その言葉は、元服の時とも同じ芯を持っていた。
名が重い。
なら、立て。
縁が重い。
なら、受けて立て。
「はい」
今度の返事は、最初より少しだけ芯があった。
父上は頷く。
「それでよい」
それから、少しだけ視線を和らげた。
「もっとも」
「はい」
「いきなりお栄殿の御前へ出されても、今のお前では石のように固まるだけであろうがな」
それには、さすがに俺も吹き出しそうになったが、堪えた。
左衛門は、顔を赤くしたまま言う。
「父上」
「何だ」
「多分、その通りにございます」
そこまで正直に言われると、かえってよい。
父上も、ようやく少しだけ笑った。
「なら、まずはその通りでよい」
「はい」
「無理に大きく見せるな。だが、怯んで逃げるな」
「はい」
そこで、ようやく話は落ち着いた。
父上が最後に言う。
「この話は、まずわしから通した」
「はい」
「今後、どう進むにせよ、お前は藤左衛門家の次として、きちんと受けよ」
「承知致しました」
「治部」
「は」
「お前も、弟をからかいすぎるな」
「……努力します」
「努力、か」
その返しに、父上も左衛門も少しだけ表情を崩した。
そのくらいでよかったのだろう。
重い話のあとで、少しだけ息が抜ける。
そうでなければ、若い左衛門にはさすがにきつすぎる。
部屋を辞する時、左衛門の顔はまだ完全には定まっていなかった。
だが、元服の時と同じく、ちゃんと一歩は渡っている顔だった。
また一つ、家を継ぐ者としての話を受けたのだ。
それで十分だ。
♢
左衛門へ話を通したあと、日を置かずに父上は本家へ出た。
こういう話は、片側へだけ通して置いておくべきではない。
藤左衛門家の後継へ筋を入れたなら、次は本家へ返す。
そして、先方の姫へどう話を渡すかを決める。
婚儀は、やはり家と家の間で刻みを違えてはならぬ。
座には、上総介兄上と勘十郎兄上。
そこへ信張が入り、俺も少し下がって控えた。
上総介兄上が、父上の顔を見てすぐに言う。
「どうだ」
回りくどい前置きはない。
こういうところは本当に早い。
父上もまた、簡潔に返した。
「左衛門にも話は通しました」
上総介兄上の目が、わずかに細くなる。
「ほう」
「驚きは致しましたが、逃げはしませなんだ」
「それでよい」と勘十郎兄上。
「若い者なら、まずは固まりましょう」
「ええ」と父上。
「ですが、固まった上で、きちんと受けると申しました」
そこまで聞けば十分だった。
上総介兄上は、少しだけ口元を上げる。
「なら、次だな」
その一言で、座はもう次の段へ進む。
「お栄の方へ、どう通すか」
勘十郎兄上が静かに言う。
「そこは、やはり雑には出来ませぬ」
「無論だ」と上総介兄上。
「左衛門は藤左衛門家の次。筋としては悪くない。だが、娘の方へは娘の方の渡し方がある」
そこまで聞いて、俺は一つ思い定めて口を開いた。
「上総介兄上」
「何だ」
「お市ど――」
そこまで言って、ほんのわずかに言い直す。
「……いえ、お市にも出てもらいましょう」
上総介兄上の眉が、少しだけ動いた。
勘十郎兄上は、もう半ば先を読んだ顔になっている。
「ほう」と上総介兄上。
俺は続けた。
「その、武家の姫としてどうするか、どう受けるか、どう立つか」
「うむ」
「そこは、たぶんお栄殿に最も近い立場で言葉を贈れるのは、お市かと」
部屋が、少し静かになった。
父上も、そこで初めてこちらをまっすぐ見た。
たぶん、よいところへ目を付けたと思ったのだろう。
勘十郎兄上が、静かに頷く。
「それは、よろしいかと。左衛門側は、父が筋を通した」
「はい」
「ならば、お栄側には、お栄に近い方から言葉がある方が、よほど座りがよい」
上総介兄上は、少しだけ考えるように目を伏せた。
「お市、か」
その声には、兄としての響きもある。
「たしかに、あやつなら分かる」
「はい」
「本家の姫として、他家へ嫁ぐこと」
「はい」
「しかも、ただ嫁ぐだけではなく、その婚儀が家の筋や政の意味を持つことも、身に沁みて分かっておる」
まさにそこだ。
お栄殿へこの話を持って行くのは、父である上総介兄上でもよい。
勘十郎でも理は立つ。
だが、“姫として嫁ぐ側の気持ち”まで含めるなら、お市以上に近い者はたぶんいない。
父上が、そこで深く頷いた。
「それは、ありがたい。左衛門へ話を通した時も思いましたが」
父は静かに言う。
「若い者にとって、婚儀の話は家の理だけでは受けきれぬところがある」
「はい」
「だが、お市殿のお言葉なら、お栄殿もまた“姫として立つとはどういうことか”を受けやすいでしょう」
上総介兄上が、そこでようやく少し笑った。
「治部大輔」
「は」
「そこへ気が回るのはよい」
「恐れ入ります」
「お前、自分と左衛門のこととなると、妙に身内へ目が寄るな」
そこは少し耳が熱い。
「……そうかもしれませぬ」
「悪いことではない」と勘十郎兄上。
「むしろ、こういう再編の時は、そういう目が要ります。理だけでは収まらぬこともありますゆえ」
そこまで言われると、少しだけ救われる。
上総介兄上は、すでに半ば決めた声になっていた。
「よい」
その一言で、場が締まる。
「では、まず帰蝶ではなく、お市だな」
「はい」
「お栄へいきなり“左衛門へやる”と申すより先に、お市から少し言葉を入れさせる」
「その方が、よろしいかと」
「うむ」
父上が、そこで少しだけ慎重に言った。
「もっとも」
「何だ」と上総介兄上。
「お市殿にとっても、軽い役ではありますまい」
そこは、確かにそうだ。
兄の妻。
本家の姫。
そして今度は、別腹の妹へ“他家へ嫁ぐ姫の立ち方”を言葉にして渡す。
軽いはずがない。
勘十郎兄上が、静かに言う。
「ですが、だからこそでしょう」
「うむ」と上総介兄上。
「あやつも、もう“ただ嫁いだ妹”ではない」
その言い方は、兄としての見方でもあり、棟梁としての見方でもあった。
「治部家の主だった者の妻でもある」
「はい」
「ならば、こういう時に前へ出るのもまた役目です」
そこまで言えば、もう段取りはほぼ定まっていた。
上総介兄上が、最後にきっぱり言う。
「よし」
「は」
「お市へは、わしから話す」
「はい」
「ただし、治部大輔」
「はっ」
「お前も同席しろ」
そこは、少しだけ意外だった。
「某も、にございますか」
「当たり前だ」
上総介兄上は少し笑う。
「お前が“お市にも出てもらいましょう”と申したのであろう」
「はい」
「なら、お前がそこにおらぬのでは筋が半端だ」
そこは、たしかにそうだ。
勘十郎兄上も頷く。
「左衛門信直側の筋を知り、お栄側への配慮も考えたのは治部大輔です」
「はい」
「ならば、その場にいるべきだろう」
そこまで言われれば異はない。
「承知致しました」
父上も、静かに頭を下げた。
「では、そのように」
話は、そこで次の段へ進んだ。
左衛門には話を通した。
次は、お栄。
そしてその前に、お市。
姫が姫へ、武家の縁談の重さと立ち方を言葉にして渡す。
それは、ただの政の手ではない。
家の中の温度まで含めた渡し方だ。
俺は、座の流れが次へ進みながら、胸の内で静かに思った。
やはり、婚儀は家の筋だけではない。
そこへ人の心をどう通すかまで含めて、ようやく本当に縁談になるのだろうと。
♢
呼びがかかった時点で、軽い話ではないと分かった。
上総介兄上から。
しかも、治部も同席せよ、とのこと。
それならば、ただの兄妹の雑談ではない。
家の話が絡む。
お市は、そういうことが分からぬ人ではない。
通された部屋には、すでに上総介兄上がいた。
その少し下手に治部が控えている。
お市は、座に着く前にまず兄を見た。
それから、ほんの一瞬だけ治部へも目をやる。
この二人が同席して、自分へ話がある。
それだけで、だいたいの重さは読めた。
「兄上」
「うむ」
「治部殿」
「はい」
お市が静かに座すと、上総介兄上はいつものように遠回しには入らなかった。
「お市」
「はい」
「お栄のことだ」
その一言で、やはり来たかと分かった。
お栄。
別腹の妹。
年頃でもある。
そして今のこの座で、その名が出るなら、十中八九、婚儀の話だ。
お市は表情を崩さぬまま、静かに待った。
上総介兄上は続ける。
「左衛門へ、という話が出ておる」
そこではじめて、お市の目がほんのわずかに動いた。
驚きがないわけではない。
だが、それを顔へ大きく出さぬのが、この人の強さでもあった。
「左衛門殿、にございますか」
「うむ」
「藤左衛門家の」
「そうだ」
そこで、お市はすぐには返事をしなかった。
左衛門信直。
先日元服したばかり。
だが藤左衛門家の後継として立てられたばかりでもある。
そして治部は治部家を立てる。
それらを並べれば、婚儀の流れとしてまったくおかしいわけではない。
むしろかなり理にかなっている。
それでも、理にかなっているだけで姫を嫁がせる話が済むわけではない。
そこもお市は分かっている。
上総介兄上が、少しだけ声を緩めた。
「いきなりお栄へ話を持って行く前に、お前にも聞いておこうと思うてな」
「私に」
「うむ」
そこで、治部がほんのわずかに頭を下げた。
「某より、申し上げました」
お市が治部を見る。
「治部殿が」
「はい」
「その、左衛門にも、いずれ嫁を取らせねばならぬと」
そこまで聞くと、お市の目の奥が少しだけ和らいだ。
なるほど、治部がそこまで考えたか、とでも言いたげだった。
「そして」
治部は続ける。
「武家の姫として、どう受け、どう立つか、そのあたりの言葉は、たぶんお栄殿に最も近い立場で贈れるのは、お市かと」
そこまで言われると、お市もさすがに少しだけ息をついた。
上総介兄上が、妹のその変化を見て言う。
「どうだ」
お市は、すぐには答えなかった。
兄としての上総介兄上。
夫である治部。
その二人の前で、今度は自分が“姫から姫へ渡す役”を求められている。
それは軽いことではない。
やがて、お市は静かに言った。
「筋としては、悪くないかと存じます」
上総介兄上が頷く。
「うむ」
「左衛門殿は、元服を経て藤左衛門家の次として立たれた」
「そうだ」
「兄上は美濃で家を持ち、治部殿は治部家を立てる」
「うむ」
「その中で、藤左衛門家まで本家の縁を繋ぐなら、たしかに分かりやすい」
そこは、理としてきれいに受けた。
だが、お市はそこで終わらなかった。
「ですが」
「何だ」と上総介兄上。
「それを、お栄がどう受けるかは別です」
治部が、少しだけ身を正す。
上総介兄上は、むしろ満足そうだった。
「そう申すと思うた」
「姫が嫁ぐのは、家のためでもあります」
お市の声は静かだ。
だが、静かな分だけよく通る。
「ですが、家のためだからといって、“はい、そうですか”で済むように育てられておるわけでもありませぬ」
「うむ」
「お栄にはお栄の気質がありましょう」
「あるな」
「左衛門殿にも、左衛門殿の気質がある」
そこで、お市は少しだけ治部を見た。
「治部殿」
「はい」
「左衛門殿、固まられましたか」
その問いには、さすがに少し笑いが落ちた。
上総介兄上まで口元を動かす。
治部は少しだけ苦笑して答えた。
「かなり」
「でしょうね」
お市も、そこでほんのわずかに笑った。
「お栄も、おそらく同じにございます」
その言い方が、とてもよかった。
“嫌がるでしょう”ではない。
“泣くでしょう”でもない。
固まる。
その程度の、けれど確かな動揺。
姫としての躾も分かっているが、心は一瞬止まる。
そこを、お市はよく分かっていた。
上総介兄上が、妹を見ながら言う。
「なら、お前ならどう渡す」
お市は少しだけ視線を伏せた。
考えているというより、もう半ば答えはあるのだろう。
それをどう言葉にするかを選んでいる沈黙だった。
「まず」
やがて、静かに口を開く。
「“家のためだから受けよ”とは申さぬ方がよろしいかと」
治部の目が少しだけ動く。
上総介兄上も、何も言わず先を待つ。
「それでは、お栄は自分の足で立てませぬ」
「うむ」
「姫が嫁ぐのは、たしかに家のためです。ですが、嫁いだ先で立つのは、最後には自分にございます」
そこは、お市自身の言葉だった。
ただ教わった理ではない。
自分が実際に嫁いで、その中で立ってきた者の言葉だ。
「ですから」
お市は続ける。
「まず、話の筋はきちんと申します」
「話の筋」
「左衛門殿は、藤左衛門家の次として立った方。治部家が別に立ってもなお、藤左衛門家は本家に近い一門であること。今回の話は、その縁をあらためて整えるものでもあること」
上総介兄上が頷く。
「うむ」
「その上で」
お市の声が少しだけやわらぐ。
「お栄が“では自分はどう立つか”を、自分で考えられるように申したいと思います」
そこは、実にお市らしかった。
答えを押しつけぬ。
だが、理だけ渡して放り出すのでもない。
相手が自分の足で立てるように、言葉の橋を架ける。
治部が、少しだけ深く頭を下げた。
「それが、もっともありがたい」
お市はそちらへ目を向ける。
「治部殿」
「はい」
「これは、左衛門殿のためだけの話ではありませぬよ」
「……はい」
「お栄のためでもあります」
「承知しております」
「ならば、よろしい」
そこを、きちんと釘のように置く。
やはりこの人は強い。
上総介兄上が、そこで少しだけ声を緩めた。
「お前なら、そう言うと思うた」
「兄上が、最初からそれを望んでおられたのでしょう」
「無論だ」
その返しは速かった。
「お前に“話を通せ”と言うておいて、ただ言い含めろ、で済むと思うてはおらぬ」
お市は、そこで小さく頷いた。
「それなら、お受け致します」
その一言で、場が静かに定まった。
兄から妹へ。
夫から妻へ。
そして姫から姫へ。
それぞれ違う筋が、ようやく一本になる。
治部が言う。
「恐れ入ります」
お市は、そこでほんの少しだけ目を細めた。
「ただし」
「はい」
「治部殿も同席して頂きます」
そこは、少し意外だった。
治部が、わずかに目を上げる。
「某も、にございますか」
「ええ」
お市は静かに答える。
「左衛門殿側の事情も、お栄へ渡るべき筋も、治部殿が最もよくご存じでしょう」
「はい」
「それに」
ほんの少しだけ口元を和らげる。
「治部殿が“お市にも出てもらいましょう”と申したのでしょう?」
そこまで言われると、治部も苦笑するしかない。
「……はい」
「ならば、最後までいて頂きます」
上総介兄上が、そこで喉で笑った。
「違いない」
勘十郎兄上も、静かに頷く。
「きれいに収まりましたな」
本当に、その通りだった。
上総介兄上が最後に言う。
「では、お市」
「はい」
「お栄へ、まずお前から言葉を入れよ」
「承知致しました」
「治部大輔も同席」
「はっ」
「その上で、あとは様子を見る」
それで座は切れた。
だが、切れたあとも、治部の胸の内にはおそらくかなり強いものが残っただろう。
婚儀は政の手だ。
だが、それだけでは足りない。
相手が姫であるならなおさら、心へどう話を渡すかまで要る。
それを、兄でも棟梁でもなく、お市が引き受けた。
その意味は大きかった。
♢
お栄を呼ぶ時、お市はあえて人を絞った。
大仰な座敷ではない。
侍女も最小限。いるのは夫である治部だけだ。
兄である上総介兄上も、勘十郎もいない。
最初の言葉は、姫から姫へ渡した方がよい。
そうお市は考えたし、たぶんそれがいちばん自然でもあった。
通されたお栄は、最初から少しだけ不思議そうな顔をしていた。
姉妹といっても、腹の違いもあり、常にべったりというわけではない。
けれど、お市に呼ばれれば軽い用ではないことくらいは分かる年頃だ。
「姉上」
「よく来ました」
お市は静かに笑って、お栄を座らせた。
春でも秋でもない、少しだけ空気のやわらかい刻だった。
外はまだ明るい。
けれど部屋の内側には、こういう話を受けるのにちょうどいい落ち着きがある。
お栄は座したあとも、少しだけ戸惑ったようにお市を見た。
「何か……ございましたか」
お市は、すぐには本題へ入らなかった。
焦らせるのも違う。
だが、長く引きすぎると、かえって身構えさせる。
「兄上から」
やがて、静かに言った。
「先に聞いておくべき話があると申されました」
その一言で、お栄の背がわずかに伸びる。
上総介兄上から。
先に聞いておくべき話。
それだけで、軽い話でないことは分かる。
「私に、でございますか」
「ええ」
「……何の話でしょう」
ここで、お市は真正面からお栄を見た。
ごまかさない方がいい。
姫として育った子に対しては、変に濁す方がかえって怖い。
「縁談です」
その一言で、お栄は見事なくらいに固まった。
目が少しだけ見開かれる。
指先も、膝の上でほんのわずかに力む。
声は、すぐには出ない。
お市は、その反応を見てもすぐには畳み掛けなかった。
ただ、少しだけ声を柔らかくする。
「驚くのは当然です」
それでようやく、お栄は小さく息を吐いた。
「……はい」
まだそれだけだ。
だが、それでよい。
お市は続ける。
「今すぐ何もかも決めるという話ではありません」
「はい」
「ですが、筋として、先にあなたへも渡しておくべき話だと兄上はお考えです」
お栄は、まだ緊張の抜けぬ顔で頷いた。
「お相手は……」
そこは、やはり最初に聞きたいところだろう。
お市は静かに答える。
「藤左衛門家の左衛門殿です」
お栄は、そこでまた少し止まった。
左衛門信直。
その名を知らぬわけではない。
つい先日、元服を経て立ったばかりの藤左衛門家の後継。
そして、治部が治部家を立てる、その弟。
理として繋がらぬ名ではない。
だからこそ、余計に現実味もある。
「左衛門……信直殿」
「ええ」
「藤左衛門家の」
「はい」
お栄は、少しだけ視線を落とした。
そこから先の言葉が、すぐには出てこない。
その間に、お市はただ待った。
姫が姫へ話を渡す時、最初の一拍は急かさぬ方がよい。
やがて、お栄が低く言う。
「お話としては……分かります」
その答えは、思っていたよりずっとよかった。
お市は小さく頷く。
「そうですね」
「治部殿が治部家を立てられて」
「ええ」
「左衛門信直殿が、藤左衛門家の次として立たれて」
「ええ」
「そのうえで、本家との縁を改めて結ぶ」
「はい」
お栄は、そこで少しだけ顔を上げた。
「だから、私に」
「そうです」
ここで、お市は一つ、はっきりと言葉を置いた。
「ですが」
お栄がこちらを見る。
「筋が通ることと、あなたの心がすぐに追いつくことは、別です」
その一言で、お栄の目の奥に、ほんの少しだけ安堵の色が差した。
たぶん、そこが怖かったのだろう。
“筋が通るのだから、すぐに受けよと言われるのではないか”と。
お市は続ける。
「姫が嫁ぐのは、たしかに家のためでもあります」
「……はい」
「ですが、嫁いだ先で立つのは、最後にはあなた自身です」
その言葉は、お市自身の実感として出ていた。
お栄は、黙って聞いている。
たぶん、この姉はただ理を言っているのではないと分かっているのだろう。
「ですから」
お市は少しだけ声をやわらげた。
「まずは、驚いてよろしいのです」
お栄の肩から、目に見えぬくらいの力が少し落ちた。
「……よろしいのでしょうか」
「ええ」
「私、もっとこう……」
言葉を探している。
“すぐに受けますと言うべきだったのではないか”
そういう迷いが見える。
お市は首を振った。
「いきなり“はい、承知しました”とだけ申せば、かえって怖い」
そこで、お栄は初めて少しだけ笑いそうになった。
「姉上」
「何です」
「それは……そうかもしれませぬ」
その返しで、部屋の空気がようやく少しやわらいだ。
お市は、そこから一歩だけ先へ進める。
「左衛門殿も、やはり固まられたそうです」
お栄は、思わず少しだけ目を見開いた。
「左衛門殿も、でございますか」
「ええ」
「そう、なのですか」
その顔は、少し意外そうでもあり、少しだけ救われたようでもあった。
縁談というのは、つい“嫁ぐ側だけが試される”ように感じやすい。
だが、相手もまた同じだけ突然その話を受けている。
そこを知るだけでも、だいぶ違う。
「元服したばかりで、藤左衛門家の後継として立ったばかりです」
「はい」
「そこへこの話ですから、左衛門信直殿もそう簡単には平然としておられぬでしょう」
お栄は、そこでようやくはっきりと息を吐いた。
「少し、安心致しました」
「そうでしょうね」
お市は微笑んだ。
「姉上は」
そこで、お栄が少しだけためらいながら問う。
「……どう思われますか」
その問いは、重い。
“筋としてどうか”ではない。
“姉として、嫁いだ者として、どう思うか”だ。
お市はすぐには答えなかった。
しばらく、お栄の顔を見つめてから言う。
「悪くないと、思います」
お栄の目が少し動く。
「悪くない」
「ええ」
「左衛門殿は、まだ若く、これから立つ方です」
「はい」
「ですが、だからこそ、これからの家を一緒に作る婚儀にもなりましょう」
そこは、お市らしい見方だった。
出来上がった家へ入るだけではない。
これから整っていく家を共に作る。
それは、若い姫にとって、恐ろしさでもあり、やり甲斐でもある。
「それに」
お市は少しだけ声を落とす。
「治部殿がおられます」
お栄は、少しだけ目を瞬いた。
「治部大輔殿が」
「ええ」
「治部殿が治部家を立てられる。ならば藤左衛門家もまた、ただ切り離されるのではなく、近いところにございます」
その言い方は、お栄にもよく分かっただろう。
左衛門信直へ嫁ぐ。
それは、まったく知らぬ遠い家へ放り出される話ではない。
本家との縁もあり、お市自身もいて、治部も近くにいる。
そういう安心は、かなり大きい。
お栄は、そこで小さく頷いた。
「……そう、ですね」
まだ答えは決まっていない。
だが、少なくとも最初の強張りだけで終わってはいない。
そこまで来れば十分だった。
お市は最後に言った。
「お栄」
「はい」
「これは、あなたが“どう立つか”の話でもあります」
「……はい」
「家のためだけでなく、あなた自身がどう立てるかを考えなさい」
「はい」
「その上で、受けるなら受ける。迷うなら迷う。それでよろしい」
お栄は、深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
その声音は、呼ばれてきた時よりずっと落ち着いていた。
まだ何も決まってはいない。
だが、姫から姫へ、渡すべき筋はきちんと渡った。
それで十分だった。