織田家の嫡子~藤左衛門家の特異点   作:デトロ!開けろイト市警だ!

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002肉体改造計画

結局、その日のうちに、俺は呼ばれた。

 

「若様、お召し替えを」

 

と言われた時点で、もう逃げられないと分かった。

普段より少しだけきちんとした小袖を着せられ、髪も手早く整えられる。

三歳児の身支度なんて本来たかが知れているはずなのに、周りの手つきが妙に丁寧だ。

 

やめてくれ。

そんなに丁寧にされると、余計に大事っぽい。

 

父上はもう、部屋の外で待っていた。

左衛門佐父上――いや、今後は信張を名乗る流れなのだろうが、俺の中ではまだ父上は父上だ――は、朝よりもずっと静かな顔をしていた。

 

静かな顔をしている時の方が怖い。

 

「参るぞ、又八郎」

「はい……」

 

俺は素直に頷いた。

ここで嫌だと駄々をこねて済む話ではないのは、もう分かっている。輿に載せられ俺は小田井の城から那古野まで連行された。

 

那古野城の廊を歩く。

板の軋む音がやけに大きい。

自分の足が短すぎて、父上に半歩どころか二歩くらい置いていかれるのも嫌だった。

でも急ぐと転びそうだ。

最悪だ。

 

途中で、父上が低く言った。

 

「よいか」

「はい」

「見たまま、考えたままを申せ」

「……ゆめをですか」

「夢そのものを飾るな」

「はあ」

「ただし、怯えて黙るな」

「そっちの方がむずかしいです」

 

思わず本音が出た。

 

父上は一瞬だけこちらを見て、それからほんのわずかに口元を緩めた。

 

「それもそうだ」

「……」

「だが、三郎殿は利発な子を嫌わぬ」

「それ、あんしんしてよいのですか」

「半分は」

「のこりは」

「余計なことを申せば、よく見られる」

 

全然安心できねえ。

 

そうして通された座敷は、思っていたより広く、思っていたより静かだった。

 

まず目に入ったのは、座の奥にいる年嵩の男だ。

 

大殿。

いや、この場では備後守殿と呼ぶべきか。

器用の御仁、織田信秀。

 

病んで伏せている老人、みたいな像をどこかで勝手に作っていたのだが、違った。

たしかに若くはない。

だが、ただ弱っている感じではない。

一線から少し引いた猛獣が、まだ牙は抜いていない、みたいな怖さがある。

 

その少し手前に、もう一人。

 

三郎殿。

 

俺は、思わずそちらを見た。これが、のちの天下人。

 

若い。

思っていた以上に若い。

そして、若いのに、座の中で変に浮かない。

むしろ、この人の周りだけ少し空気の張り方が違う。

 

普通の武士が着るようなきっちりとした服装ではなく、なんというか、雑。色遣いが派手。でもそれが似合っている。

 

なるほど。

これが那古野の嫡男で、今は三郎信長と名乗る人か。

 

地味だな、三郎。

なんて前に思った自分を、今すぐ殴りたい。

目の前で見ると、全然地味じゃない。

名前の響きの問題ではなく、人の方に妙な力がある。

 

父上が平伏し、俺もそれに倣った。

三歳児の平伏なんて形になっているのか怪しいが、やらないよりましだろう。

 

備後守殿が、先に口を開いた。

 

「面を上げよ」

 

低い。

大きくはないのに、よく通る声だった。

 

俺はそろそろと顔を上げた。

父上はなお低くしている。

俺だけが中途半端に小さな顔を上げているのは、何だか変だった。

 

備後守殿は、しばらく俺を見た。

その視線は、神託を聞きに来たというより、まず「こいつは何だ」を量っている感じがした。

 

怖い。

 

三郎殿の方は、備後守殿ほど重くはない。

だが、そのぶん、こちらを面白そうに見ている。

それはそれで怖い。

 

「左衛門佐」

備後守殿が言う。

「これが、その又八郎か」

 

「は」

「枕元に神を見たと申したのだな」

「は」

 

父上の返事が短い。

余計な色をつけない。

その辺りは流石だと思う。

俺なら「いや、その、肉が食いたかっただけで」と言って全部を壊す自信がある。

 

備後守殿は今度、俺へ向けて言った。

 

「又八郎」

「は、はい」

「そなた、何を見た」

 

来た。

 

俺は一瞬、喉が詰まった。

ここで気比大神がどうだの、越前の剣神社がどうだの、朝の勢いで口走ったことをそのまま重ねるのは、たぶん危ない。

嘘を盛れば盛るほど、あとで詰む。

 

だから、父上の言った通り、見たまま、つまり考えたままを申すしかない。

 

「……つよい、かみさまでした」

 

まあ、それはそうだ。

気比大神とか持ち出した時点で、弱そうな神ではない。

 

三郎殿の口元が少し動いた。

笑ってるな、あれ。

 

「それで」

と備後守殿。

「何を申された」

 

俺は唾を飲んだ。

 

「ぶしとして、りっぱなからだになりたくば」

「うむ」

「おにくと」

「うむ」

「にわとりのたまごと」

「うむ」

「……いちど、にた、うしのちちを、のめと」

 

座が静かだった。

 

言い終わってから、自分でも妙なことを言っている自覚はあった。

神託としては随分と台所寄りだ。

天下だ戦だではなく、肉と卵と牛乳である。

 

だが、その妙さゆえか、三郎殿が先に噴き出しかけた。

 

「ははっ……いや」

と、咳払いして取り繕う。

「失礼。面白いことを申す」

 

やっぱり面白がってるじゃねえか。

 

備後守殿は笑わない。

ただ、目だけ少し細くなった。

 

「そなた、何ゆえそのようなことを望んだ」

「え」

 

その問いは、少し意外だった。

 

神を見たかどうかより、何でそんなものを欲しがったのか。

そっちを見るのか。

 

俺は少しだけ考えた。

ここでまた神がどうだのを言うのは違う気がした。

違うし、たぶん備後守殿もそこを聞いていない。

 

だから、もう少しだけ本音を出した。

 

「……じょうぶに、なりたいからです」

 

備後守殿は黙っている。

三郎殿も今度は笑わない。

 

「おれは、まだちいさいです」

「うむ」

「でも、ぶしのこなので」

「うむ」

「つよいからだが、いると、おもいました」

 

そこまで言ってから、俺は少し迷った。

だが、どうせここまで言ったんだ。もう一歩だけ出る。

 

「おさかなも、おしるも、すきです」

「……」

「でも、それだけでは、たりぬきが、しました」

 

沈黙。

 

やばい。

これはやりすぎたかもしれない。

三歳児にしては喋りすぎだし、考えすぎだ。

 

だが、備後守殿は怒らなかった。

むしろ、しばらくしてから、低く言った。

 

「左衛門佐」

「は」

「夢をそのまま信ずるかはさておき」

「は」

「子の申す理は、聞く価値がある」

「……は」

 

父上の返事が、ほんの少しだけ重くなった。

 

三郎殿が、そこで身を少し乗り出した。

 

「父上」

「何だ」

「魚と菜だけで育つ兵と、肉や卵も入る兵、違いが出るやもしれませぬ」

「そなた、まだ試してもおらぬことを」

「だから試すのでしょう」

 

あ、やっぱりこの人、そういう方向だ。

 

信じる信じないじゃなく、面白いから試す。

それで使えるなら拾う。

駄目なら捨てる。

何となく、そういう匂いがする。

 

備後守殿は、三郎殿を一度見た。

その目は厳しいが、全否定ではない。

 

「軽々しく神託を口実にするな」

「承知しております」

 

「だが」

備後守殿は今度、俺へ視線を戻した。

「又八郎」

 

「は、はい」

「そなたは、その夢を見て、すぐ父へ申したか」

「……はい」

「隠さなんだか」

「にくが、たべたかったので」

「……」

 

一瞬だけ、座の空気が止まった。

父上まで止まった。

俺も、あ、しまった、と思った。

 

だが、次の瞬間、三郎殿が今度こそ声を立てて笑った。

 

「なるほど!」

「三郎」

「いや父上、これはよい」

「何がよい」

「神託の真偽はともかく、若の本音がまず肉であったのがよい」

 

何がよいんだよ。

 

だが、三郎殿は面白そうに俺を見る。

 

「又八郎」

「は、はい」

「そなた、肉は好きか」

「すきです」

「卵は」

「たべたいです」

「牛の乳は」

「おなかをこわさぬなら」

 

また笑った。

今度は備後守殿まで、わずかに鼻で息を鳴らした気がした。

 

「左衛門佐」

「は」

「若の口に入るものとして、まずは少し試させよ」

「はっ」

「ただし、いきなり皆へ広げるな」

「承知仕りました」

「鶏卵も、牛の乳も、身体に合わぬ者はおろう」

「は」

「見極めてからだ」

 

ああ。

そう来るのか。

 

神だから信じる、ではなく。

面白いから試す、でもなく。

試し、見極め、合えば広げる。

 

やっぱりこの人たち、戦国の上の人だ。

 

三郎殿はなおも俺を見ていた。

 

「又八郎」

「はい」

「また夢を見たら、父上に申せ」

「……はい」

「ただし」

「はい」

「次も、できればうまい飯の話の方がよい」

「三郎」

「冗談にございます」

 

半分本気だろうな、この人。

 

父上は深く頭を下げた。

俺も慌ててついていく。

小さな額が畳へ着く。

 

そこでようやく、この場は終わった。

 

廊へ出てから、俺は大きく息を吐いた。

三歳児の肺では大した量でもないのに、妙に疲れた。

 

父上はそんな俺を見て、少しだけ目を細めた。

 

「何だ」

「いや……」

「何じゃ」

「いきてるな、とおもって」

「当たり前だ」

 

その一言で、ようやく現実感が戻った。

 

うん。

首は飛ばなかった。

肉も卵も試せそうだ。

牛の乳も、ちゃんと煮る方向で進みそうだ。

 

結果だけ見れば、かなり上出来である。

 

だが、それでも俺は、心の底からは喜べなかった。

 

三郎殿に顔を覚えられた気がする。

 

あれは良くない。

俺の「ほどほどに使えて、ほどほどに無害で、視界の端で生き残る」計画からすると、だいぶ良くない。

 

父上と並んで廊を戻りながら、俺は小さく思った。

 

肉が食いたかっただけなんだけどなあ。

 

それだけで、備後守殿と三郎殿の前へ引き出されるとは、戦国時代はやはり油断ならない。

 

そして、多分いちばん油断ならないのは、あの三郎殿だ。

面白いと思ったら、すぐ拾う。

 

あれは困る。

本当に困るのだ。

 

 

それから数ヶ月、俺の膳は前とは少し違うままだった。

 

毎日ご馳走、というほどではない。

そんな都合のいい話ではないし、そもそも戦国の家である。

だが、それでも確かに変わった。

 

汁に細かく肉が入る日がある。

鳥がほんの少し添えられる日がある。

卵は最初こそ恐る恐るだったが、腹を壊さぬと分かってからは、時折きちんと膳へ乗るようになった。

牛の乳も、必ず一度煮立ててから、冷まして出される。

 

その一つ一つが、最初は「若君だけに」「様子を見るために」だった。

だが、月が変わる頃には、もう台所の者たちの顔つきも変わっていた。

 

「若様、このところお熱が出ませぬな」

「前は冷えるとすぐ頬が赤うなりましたのに」

「走り回っても、夜まで機嫌ようございます」

 

俺自身にも分かっていた。

 

朝、身体が軽い。

 

前は、起きても何となく身体のどこかがだるい日があった。

幼子なんてそんなものだと思っていたが、どうやらそうでもなかったらしい。

飯が変わってからは、目が覚めた時の芯の重さが薄い。

 

熱も出にくくなった。

 

これはかなりはっきりしていた。

少し冷えた、少し遊びすぎた、その程度でぐずぐずと熱っぽくなっていたのが、いつの間にか減っている。

乳母も女房も、最初は「たまたま」と言っていた。

だが、二月、三月と経つうちに、もう「たまたま」では言いにくくなった。

 

「若様、背も少し伸びられたのでは」

「肩のあたりが、前よりしゃんと」

「お顔色もようございます」

 

上振れてる。

 

そこまでは口にしない。

だが、俺の中にはそういう確信があった。

 

そして、半年近く経った頃、父上が言った。

 

「又八郎、那古野へ参るぞ」

 

俺は箸を止めた。

 

「……また?」

 

父上は静かに頷いた。

 

「備後守殿と三郎殿へ、その後のことを申し上げる」

「筋だから?」

「筋だからだ」

 

この人はそういう人だ。

我が子の身体が丈夫になった、それを内輪の喜びで終わらせない。

上へ返すべきことは返す。

そして、使えるものなら家の知恵へ変える。

 

嫌な予感はした。

したが、今回の俺は前回ほど情けなくはない。

少なくとも、あの時よりは身体がしっかりしている。

それだけでも少し違う。

 

那古野へ上がった日、備後守殿と三郎殿の前へ通されると、父上は深く礼をした。

 

「備後守様、先般お耳へ入れました、我が子又八郎の食の件、その後を申し上げます」

 

そう。

 

我が子又八郎。

 

それでいい。

 

備後守殿が、低く言う。

 

「うむ」

 

父上は、前のように夢や神託から入らなかった。

そこを蒸し返さないのが、いかにも父上らしい。

 

「又八郎は、それまで折々に熱を出しやすい子にございました」

「ふむ」

「されど、肉、鶏卵、煮沸した牛の乳を少しずつ口へ入れるようになってから、この数か月、そのような崩れが目に見えて減りまして」

「……」

「乳母・女房らも、前より丈夫になったという見立てにございます」

「そなた自身はどう見る」

 

父上は、そこで少しだけ間を置いた。

 

「なんとなく、我が子は丈夫になったように見えます」

 

派手に言わない。

だが逃げもしない。

見たままだけを差し出す。

 

三郎殿が、そこで俺を見た。

 

前回よりも、ちゃんと見ている目だった。

 

「又八郎」

「は、はい」

「そなた、自分でもそう思うか」

 

俺は少しだけ考えた。

言いすぎると嫌だ。

だが、前より身体が楽なのは本当だ。

 

「……あさ、からだが、まえよりかるいです」

三郎殿の眉が少し動く。

「あと」

 

「うむ」

「ねつが、あまりでませぬ」

「そうか」

「はい」

「走るとどうだ」

「まえより、ながくあそべます」

 

そこで、備後守殿が初めて少しだけ俺を見直したような気がした。

 

「左衛門佐」

「は」

「子の口は正直だ」

「は」

「そなたの見立てと、乳母女房どもの見立てが同じなら、試みは当たりであったのやもしれぬ」

「ありがたきお言葉」

 

三郎殿が、口元を少し緩める。

 

「父上、夢のことはさておき、若子の身で変わりが出るなら早い」

「うむ」

「この手のことは、幼子や病みやすい者にこそ効くのやもしれませぬ」

「軽々しく広げるな」

「承知しております。まずは見て、量って、続けるべき者だけに、でしょう」

「そうだ」

 

やはり、この人たちはそこへ落とすのだ。

 

神託ではなく、結果。

お告げではなく、試し。

面白いと思ったら拾い、使えるかどうかを見る。

 

備後守殿は父上へ言った。

 

「左衛門佐」

「は」

「我が子に続けよ」

「は」

「それで終えるな」

「と、申しますと」

「熱を出しやすい子、痩せた子、産後で弱った者、そういう者から順に試せ」

「……は」

「ただし、一足飛びに家中の常とするな」

「承知仕りました」

「牛の乳も、腹に合わぬ者があるやもしれぬ。肉も卵も同じだ。量を見よ」

「はっ」

 

父上の声が、少しだけ深くなった。

 

分かっているのだろう。

これは単なる「我が子が丈夫になって嬉しい」で終わる話ではなくなってきている。

 

三郎殿が、今度は少し笑って俺へ言う。

 

「又八郎」

「は、はい」

「肉はうまいか」

「うまいです」

「卵は」

「すきです」

「牛の乳は」

「にるとのみやすいです」

 

三郎殿は、今度こそはっきり笑った。

 

「素直でよい」

 

備後守殿も、ほんのわずかに鼻で息を鳴らした。

そこでようやく、座の空気が少し和んだ。

 

俺はその一瞬で、前回より少しだけ違うことに気づいた。

今回は、初対面ではない。

 

前に一度、肉食いたさに引き出された。

その時の「妙な子」は、今日は「少し丈夫になった子」として、結果つきで見られている。

 

それだけの違いなのに、座の中での自分の置かれ方が少し違う。

 

備後守殿が言う。

 

「左衛門佐」

「は」

「我が子のこと、今後も見ておれ」

「承知仕りました」

「変わりあらば、また申せ」

「はっ」

 

またか、と思ったが、前ほど嫌ではなかった。

 

今回ばかりは、ちゃんと意味があったからだ。

 

退出の許しが出て、父上と並んで廊へ戻る。

前回ほど足取りは重くない。

だが、やっぱり疲れはする。

 

「父上」

「何じゃ」

「……おれ、ほんとうにまえよりじょうぶになった?」

 

父上は少しだけ俺を見下ろし、それから静かに言った。

 

「なったように見える」

「ように?」

「人の身は、そう何もかも断じきれぬ」

「……」

「だが、前より熱を出さぬのは確かだ」

「うん」

「走った後の息の上がりも違う」

「うん」

 

「背丈も、この年頃としてはよう伸びておる」

そこまで言って、父上はごくわずかに口元を緩めた。

「我が子ながら、見違えた」

 

その言い方は、派手ではない。

けれど、妙に嬉しかった。

 

俺は少しだけ胸を張った。

ほんの少しだけだ。

あまりやるとまた変に目立つ。

 

それでも、これはたぶん小さな始まりなのだろう。

 

俺一人の肉と卵と煮沸牛乳。

そこから始まった話が、子どもや病みやすい者へ、さらに家中の食と身体の見方へ広がっていく。

その積み重ねが、いつか備後守殿自身や、織田家の人間たちの寿命を少しずつ押し広げるのかもしれない。

 

だが、その時の俺はまだ、そこまで大きくは考えなかった。

 

ただ一つ、はっきりしたことがある。

丈夫になるのは大事だ。

 

戦国時代では、たぶん思っているより、ずっと。

 

 

それから一年も経つ頃には、さすがに誰の目にも分かるようになっていた。

 

又八郎様は、とても元気になられた。

 

家中の見立ては、だいたいそんなところへ落ち着いた。

 

前は少し冷えれば頬が赤くなった。

少し走り回れば、その晩にはぐったりしていた。

機嫌よく遊んでいると思った翌朝には、熱っぽく寝込むこともあった。

 

それが、目に見えて減った。

 

まったく熱を出さなくなった、とまでは言わない。

そんな都合のいい話ではない。

だが、明らかに頻度が違う。

崩れても戻りが早い。

朝の顔色も良い。

背丈の伸び方も、この年頃にしては上振れ気味に見える。

 

家中の女房たちも、乳母も、最初は口を揃えて「たまたま」と言っていた。

それが半年を越え、一年に届く頃には、もうそうは言いにくくなっていた。

 

「若様は、ほんに丈夫になられました」

「前は、ひやりとする日があるとこちらまで構えたものを」

「この頃は、食も進みますし」

「それに、何だか賢うも見えます」

 

賢い、まで来ると少し嫌だった。

 

いや、神童扱いされるほどではない。

そこまでは行っていない。

だが、前よりよく見て、前よりよく言う、くらいの評価は出始めている。

 

そして、俺だけで終わらなかった。

 

父上が備後守殿に返したあと、台所や乳母たちの間で、他の子や病みやすい者にも少しずつ試されるようになったのだ。

肉は無理に増やせない。

卵も、牛の乳も、手に入る量には限りがある。

だから一気には広がらない。

 

それでも、小さく試した者の中で、「そういえばこの頃」「あの子は前より」と言われる例がぽつぽつ出始めた。

 

それが父上の耳へ入り、父上はまた上へ返した。

 

筋だから、である。

そして俺は、また那古野へ呼ばれた。

 

本当に、この時代は一度始まった話が終わってくれない。

 

那古野へ上がる道すがら、父上は前ほど固くはなかった。

俺の方も、前回ほど腹の底が冷えてはいない。

 

それでも嫌なものは嫌だ。

 

三郎殿は、前に俺を見た時より、もう少し俺を知っている顔をするだろう。

それが面倒だった。

 

通された座敷で、父上は礼を尽くした。

 

「備後守様、三郎殿。先般お耳へ入れました我が子又八郎の食の件、その後にございます」

 

備後守殿が頷く。

三郎殿は、最初からこっちを見ていた。

 

「左衛門佐」

「は」

「その後、どうだ」

「我が子又八郎は、この一年、明らかに熱を出しにくくなりまして」

「うむ」

「背丈も、この年頃としてはよう伸びております」

「ふむ」

「また、同様の試みを他の者へも小さく広げたところ、病みやすい子らで、似たような戻りの早さが見え始めました」

 

備後守殿は、そこで静かに息を吐いた。

 

「一人の偶然では済まぬか」

 

父上は深く頭を下げる。

 

「断じきるには早うございます。されど、見た限り、試す価値はあり続けるかと」

 

三郎殿が、そこでふっと笑った。

 

「左衛門佐」

「は」

「そなた、最初よりずいぶん言いようが太くなったな」

「結果が見えましたゆえ」

「よい」

 

その「よい」は軽い。

だが、ちゃんと聞いている声だった。

 

そして三郎殿は、今度は俺へ向いた。

 

「又八郎」

「は、はい」

「前にそなたは、肉と卵と、煮た牛の乳がよいと言ったな」

「はい」

 

「それは当たりであったらしい」

そこで少し間を置き、口元をわずかに上げる。

「今、お前が生活の中で不便に感じること、試したいことはあるか」

 

やめてくれ。

 

俺は一瞬、本気で固まった。

 

そんな軽い顔で聞くな。

それ、俺からすれば罠みたいなものだぞ。

ここでまた変なことを言えば、次の一年が始まる。

黙っていれば黙っていたで、「前は言えたのに今日は言えぬのか」となるかもしれない。

 

最悪だ。

 

でも、聞かれてしまった以上、何もありませんでは終わりにくい。

しかも、俺の中には実際、最近気になっていることがあった。

 

俺は少し考えてから言った。

 

「……そとからかえると」

「うむ」

「なんとなく、のどがいがいがします」

 

座が静かになる。

前回ほどではないが、ちゃんと聞いている静けさだ。

 

「喉が?」

と三郎殿。

 

「はい」

「それで」

「くちのなかを、あらって、ぺっとしたいです」

 

三郎殿の眉が少し動いた。

備後守殿も、わずかに目を細める。

 

俺は続けた。

 

「それと」

「うむ」

「てが、よごれたきぶんが、いやです」

「……」

「なので、てだけでも、あらいたいです」

 

今度は、父上まで黙った。

 

やばい。

またやったかもしれない。

 

だがここで引っ込める方が変だ。

俺は、小さな声のまま足した。

 

「そとからもどると、すなとか、ほこりとか、ついてるきがします」

「うむ」

「そのままだと、ごはんのまえも、なんとなくいやです」

 

三郎殿は、そこで備後守殿を見た。

面白がっている顔ではある。

だが、前のような「ただ可笑しい」ではない。

 

「父上」

「何だ」

「これも、試してみる価値はありそうです」

「口をすすぎ、吐き出す、か」

「はい。手を洗う方も」

「水は要るぞ」

「要ります」

「冬は嫌がる者も多かろう」

 

「それは」

三郎殿が俺を見る。

「又八郎」

 

「はい」

「冬でもやるか」

「……つめたいのは、いやです」

「はは」

「でも、やったほうが、よいきがします」

 

備後守殿が、そこで初めて口元を少しだけ動かした。

 

「正直だな」

「まだ子ですので」

と父上。

 

そこへ、三郎殿がまた言う。

 

「左衛門佐」

「は」

「まずは、我が子又八郎で試せ」

「は」

「外から戻った後、手を洗わせ、口をすすがせる」

「承知仕りました」

「それで、喉のいがらが減るか、熱の出方が変わるか、しばらく見よ」

「は」

 

「他の子へ広げるのは、その後だ」

備後守殿も頷いた。

「前と同じだ。軽々しく広げるな」

 

「はっ」

「だが、理があるなら拾え」

「承知仕りました」

 

俺はそこで、少しだけ肩の力を抜いた。

 

首は飛ばない。

神童にもならない。

ただまた、次の面倒くさい試みが始まるだけだ。

 

……いや、十分面倒くさいな。

 

退出の折、三郎殿が最後に俺へ言った。

 

「又八郎」

「はい」

「お前は、妙なことをよく嫌がるな」

「……いやなものは、いやです」

「だが、嫌だからこそ、どうすればましになるか考える」

「……」

「それは悪くない」

 

その一言は、少しだけ胸に残った。

 

廊へ出てから、父上が低く言う。

 

「また増えたな」

「何が」

「やることがだ」

 

俺はため息をついた。

 

「おれ、ただ、のどがいがいがするのがいやだっただけなんだけど」

 

父上は、ごくわずかに笑った。

 

「それで家が変わることもある」

 

そうなのだろう。

 

肉。

卵。

煮沸した牛の乳。

そして次は、手洗いとうがいだ。

 

大した話に見えない。

見えないのに、こういう小さな不快を潰していくことが、結局は人を丈夫にし、家を長持ちさせるのかもしれない。

 

俺は歩きながら、自分の手を見た。

 

まだ小さい。

だが、この小さな手を洗うところから、また次の一年が始まるらしい。

 

戦国時代、本当に面倒くさい。

 

でもまあ、喉のいがいがが減るなら、悪いばかりでもない。

 

 

食のことでも、口をすすぐことでも、俺は一つ分かったことがある。

 

人は、理にかなっているからといって、すぐには動かない。

 

いや、戦国時代に限らないのかもしれない。

だが少なくとも、この時代の人は、経験則と、迷信と、畏れの上に立っている。

昨日までそうしてきた。

父も祖父もそうしてきた。

その積み重ねの方が、ぽっと出の「そっちの方がいいです」より、ずっと重い。

 

当たり前だ。

 

俺だって、いきなり見知らぬ誰かに

「今日からこうすると丈夫になります」

と言われて、はいそうですか、とは行かない。

 

まして相手が三、四歳児だったら、なおさらである。

 

だから神託を使った。

 

使ったのだが、あれはやはり強すぎた。

通る時は一気に通るが、毎度あれをやると、そのうち俺自身が面倒くさいものになる。

「妙な夢ばかり見る子」なんて扱いは、のんびり生きたい身からすると最悪だ。

 

となると、次からは違う。

 

合理を前へ押し出しすぎない。

神も持ち出しすぎない。

子どもらしい疑問とか、

「やってみてもそこまで面倒ではない」

とか、

「物は試し」

くらいから、少しだけずらす。

 

その方が、たぶん長続きする。

 

そう思っていた頃、俺はまた、ひとつ思い出した。

 

種籾だ。

 

昔どこかで聞いた。

種籾は、重い方がいい。

軽いものは弾く。

塩水へ入れて、沈んだものだけ使うのだ、と。

 

ただ、塩が濃すぎても薄すぎても駄目だった気がする。

どう合わせるんだったか。

 

そこは少し曖昧だったが、別の記憶がくっついていた。

 

生卵。

 

塩水へ生卵を入れて、頭が少し出るくらい。

たしか、それが目安だったはずだ。

 

俺は、その話を、今度はかなり慎重に父上へ持っていった。

 

「父上」

「何じゃ」

「たねもみって、どれをまいても、おなじですか」

 

父上は書付から目を上げた。

 

「同じであるわけがなかろう」

「おもいほうが、よいことって、ありますか」

「……何じゃ、急に」

 

ここで「昨夜神が」とやらない。

そこはもう学んだ。

 

俺は首を傾げた。

 

「みをむすぶものは、おもいほうが、つよいのかなって」

 

父上は、すぐには答えなかった。

だが前より露骨には警戒しない。

そこはこの一年で、俺の妙な言い分にも少し慣れたのかもしれない。

 

「何ゆえそう思う」

 

「わかりません」

そこは本当に分からないので、正直に言う。

「でも、たねがすかすかより、つまっているほうが、よいきがします」

 

父上は俺を見た。

それから、書付を脇へ置いた。

 

「……続けよ」

 

よし。

ここだ。

 

「しおみずに、いれてみるのは、どうでしょう」

「塩水?」

「はい」

「籾をか」

「はい」

 

さすがに父上の顔が少し動いた。

 

「それはまた、何ゆえ」

「うくものより、しずむもののほうが、おもいです」

「……」

「しずんだほうだけ、つかってみるのは」

 

父上は黙った。

俺も黙った。

 

この沈黙は大事だ。

畳みかけると、また余計なことになる。

 

やがて父上が言う。

 

「塩加減はどうする」

 

来た。

 

俺は内心少しだけ安堵した。

反対から入らず、やり方を問うてきたなら、半分は勝ちだ。

 

「たまごを、いれて」

「卵?」

「はい」

「どうする」

「ういて、あたまが、ちょっとでるくらい」

 

そこまで言って、俺は少し手で示した。

 

「ほんのすこし」

 

父上は、そこで初めてほんの少し笑ったような、呆れたような顔をした。

 

「そなた、そのようなことまで考えておるのか」

「……だめですか」

「駄目とは申しておらぬ」

 

そして、短く息を吐く。

 

「物は試し、か」

「はい」

「だが、いきなり田ぜんぶではやらぬぞ」

「はい」

「一部だけだ」

「そのほうが、よいです」

 

そこは本心だった。

全部でやって失敗したら、俺まで危ない。

 

父上はその日のうちに、領内の田を預かる者を呼んだ。

 

男たちは最初、露骨に怪しい顔をした。

 

「塩水へ籾を?」

「わざわざ?」

「卵を浮かべて?」

 

当たり前である。

いきなりそんなことを言われたら、何だそれ、になる。

 

だが父上は、そこを無理に押し切らなかった。

 

「全部でやれとは申さぬ」

「……」

「一枚、二枚でよい」

「はあ」

「沈んだものだけ使った田と、そうでない田、秋に見比べれば分かろう」

「……なるほど」

「手間は増えるが、一度でよい」

 

この辺りが父上は上手い。

 

「若がこう申したからやれ」ではなく、

「比べればよい」

へ落とす。

それなら現場もまだ呑みやすい。

 

塩水を作る時も、一悶着あった。

 

「これでよいのか」

「濃すぎぬか」

「卵が浮きすぎでは」

「いや、まだ足りぬのでは」

 

そこへ俺が口を出しすぎると、また妙になる。

だから俺は少し離れて見ていた。

たまに聞かれたら、

「もうすこし、たまごのあたまがみえるくらい」

とだけ言う。

 

今思えば、かなり綱渡りだった。

 

だが、春は過ぎ、夏を越え、秋が来た。

 

そして、分かった。

 

明らかに違った。

 

すべてが劇的、というほどではない。

だが、比べれば分かる。

沈んだ種籾だけを使った田の方が、穂の揃いがいい。

抜けが少ない。

実入りが良い。

 

田を見慣れた者たちほど、その差に黙った。

 

「……違いますな」

「うむ」

「同じようにやったつもりでしたが」

「種籾が違うだけで、ここまで」

 

父上も、黙ってその田を見ていた。

 

やがて俺の方を見たが、そこで大仰に褒めたりはしない。

ただ一言。

 

「当たったな」

 

それだけだった。

だが、その一言で十分だった。

 

それから家中の空気が、また少し変わった。

 

又八郎様は、とても元気になられた。

四歳児、いや五歳児にしては丈夫だ。

妙にものを見ている。

賢い。

 

まだ、神童ではない。

そこまでは行っていない。

だが、

「あの若様、妙なことを仰るが、やってみると当たることがある」

という見立ては、確かに増えた。

 

俺としては、そのくらいがちょうどよかった。

 

神がかった扱いは困る。

だが、まるで聞かれないのも困る。

「少し賢い」「妙に当たる」

その辺りなら、まだ生きやすい。

 

もっとも、そういう評が増えるということは、また上へ話が行くということでもある。

 

父上は秋の終わり、那古野へ上がる前に言った。

 

「又八郎」

「はい」

「備後守殿と三郎殿へ、また申し上げる」

「……ですよね」

「筋だからな」

 

出たよ、筋。

 

俺は少しだけうなだれたが、もう慣れてきた気もする。

 

「今回は、何の話」

「種籾だ」

「……また、話が大きくなるな」

「そなたが大きくしたのだ」

 

それはそうなのだが、何だか不本意だった。

 

それでも、塩水に卵を浮かべて籾を選る。

それだけで収量が変わるなら、そりゃ上の人間も聞く価値がある。

戦国では、食は兵であり、田は家そのものなのだから。

 

父上は、そういう顔で那古野へ向かった。

 

俺は、その背を見ながら思った。

 

合理だけでは人は動かない。

だが、比べれば分かる、少し試すだけでいい、そこまで面倒ではない。

その程度まで落とせば、人は案外動く。

 

結局、変化というものは、

「正しいからやれ」

ではなく、

「やっても損ではなさそうだ」

の方が通りやすいのかもしれない。

 

戦国時代も、人間も、たぶんそこは同じだった。

 

 

 

 

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