織田家の嫡子~藤左衛門家の特異点   作:デトロ!開けろイト市警だ!

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020藤左衛門の嫁

お市のもとを下がったあとも、お栄はすぐには自室へ戻る気になれなかった。

 

廊を歩く足は、ちゃんと前へ出ている。

誰かに見られれば、いつもとそう変わらぬようにも見えただろう。

だが胸の内では、まだ言葉が静かに揺れていた。

 

縁談。

 

左衛門信直殿。

 

その二つが、まだきれいには結び切らぬまま、胸の中を行き来している。

 

自室へ戻ると、ようやく人の目が切れた。

侍女を下がらせて、ひとり座す。

 

静かだ。

けれど、その静けさの中でかえって、さっきお市が言ったことが一つずつ浮かんでくる。

 

筋としては悪くない。

家のためでもある。

けれど、それだけで受ける話でもない。

最後には、自分がどう立つか。

 

「……左衛門信直殿」

 

小さく、声に出してみる。

 

まだその名にも新しさがある。

ついこの前まで又六郎だった相手が、もう左衛門信直として立っている。

そう考えると、自分の方もまた、子のままでいてよい話ではないのだと分かる。

 

お栄は、膝の上でそっと指を重ねた。

 

左衛門信直殿を、よく知らぬわけではない。

同じ本家筋に近い家の者として、顔を合わせたことはいくらでもある。

だが、知っていることと、嫁ぐ相手として考えることは、まるで違う。

 

元服したばかり。

兄は治部家を立てる。

その弟として、藤左衛門家の次に立った。

 

そこまでは、理として分かる。

むしろ、きれいに繋がってさえいる。

 

けれど。

 

「家のためだから」

 

それだけで、はいと頷けるほど、お栄もただ幼くはなかった。

 

もちろん、武家の姫だ。

家のため、という言葉の重さは知っている。

それを知らずに育つことなどあり得ない。

 

だが、お市が言った。

 

嫁いだ先で立つのは、最後には自分だと。

 

そこが、胸に残っていた。

 

家のために嫁ぐ。

では、その先で自分はどう立つのか。

どういう顔で、その家の中へ座るのか。

どういうふうに夫を見るのか。

どういうふうに、その家の人間に見られるのか。

 

そこを考えずに“はい”とだけ言えば、たぶん後で足が止まる。

 

お市は、それを知っている顔だった。

だからこそ、無理に“家のために受けよ”とは言わなかった。

 

お栄は、少しだけ息を吐いた。

 

「左衛門信直殿も、固まられた」

 

そこを思い出すと、ほんの少しだけ口元がゆるむ。

 

それは、少し意外でもあった。

もっと落ち着いて、いかにも家を継ぐ若武者らしく受けたのかと思っていた。

だが、そうではないらしい。

 

それを知って、少し安心した自分もいる。

 

自分だけが突然、重い札を渡されたのではない。

相手もまた、同じようにその重さを受けている。

 

それならば、少しだけ考え方も変わる。

 

ただ“嫁がされる”のではない。

相手もまた、“迎える側として立たされる”のだ。

 

「これからの家を、一緒に作る婚儀」

 

お市の言葉を、胸の中でそっとなぞる。

 

完成した大きな家へ、ただ入るのとは違う。

これから形が整っていく家。

兄は治部家を立て、弟は藤左衛門家の後継として立ったばかり。

その、まだ若い家の次を、共に作る。

 

それは怖い。

けれど、ただ怖いだけでもない。

 

お栄は、そこでようやく自分が少しだけ前向きに考え始めていることに気づいた。

 

まだ受けるとも、受けぬとも決めてはいない。

決められるほど、話は進んでいない。

だが、少なくとも“嫌だ、怖い、困った”だけではなくなっている。

 

左衛門信直殿なら、自分はどう立てるだろう。

あの人は、どういう顔でこの話を受けたのだろう。

兄上や父上の前で、やはり言葉に詰まったのだろうか。

 

そこまで考えて、少しだけ可笑しくなる。

 

「私だけでは、ないのね」

 

小さく漏れた声は、思ったよりやわらかかった。

 

家のため。

それはもちろんある。

けれど、それだけではない。

 

自分がどう立つか。

その先で、どんな夫婦になるか。

どんな家の形を一緒に作るか。

 

そういうことまで考え始めたなら、もうただ“命じられる姫”ではいられないのだろう。

 

お栄は、そっと背筋を伸ばした。

 

まだ答えを出すには早い。

だが、考え始めるには遅くない。

 

左衛門信直殿。

 

もう一度、その名を胸の中で呼んでみる。

 

さっきより少しだけ、響きが変わった気がした。

 

 

その顔合わせは、いかにも“顔合わせ”という大仰なものではなかった。

 

それがよかったのだと思う。

 

いきなり座を設け、あらためて向かい合わせれば、互いに固まるだけで終わる。

特に左衛門信直は、元服したばかりでまだ自分の名にも身体が慣れ切っていない。

お栄の方も、お市から静かに筋を渡されたとはいえ、だからといって平然としていられる段でもない。

 

だから、機会は少しだけ自然なところへ置かれた。

 

本家筋の女房方が集まる内向きの場へ左衛門が父の使いで一度顔を出し、その折に、お栄もまたその近くへいる。

無理に二人だけへはせぬ。

だが、知らぬままではおかしいという程度には、きちんと顔が見える。

 

そういう“ちょうどよい不自然さ”だった。

 

左衛門は、その日、最初から少し顔が硬かった。

 

父から「今日は本家筋へ使いに出る」と言われた段で、何となく嫌な予感はしていたのだろう。

そこへ「お栄殿もおられるやもしれぬ」と、遠回しとも露骨ともつかぬ形で示されれば、なおさらだ。

 

だからといって逃げるわけにもいかぬ。

 

左衛門信直として立った以上、こういう場から逃げるのはもっと悪い。

それくらいは分かっていた。

 

部屋へ入る前、左衛門は一度だけ息を整えた。

 

元服の時もそうだった。

重い話を受ける前、この男はまず呼吸を一つ入れる。

それが癖なのか、胆なのかはまだ分からぬ。

だが悪くない、と俺は少し離れたところで見て思った。

 

左衛門が中へ入る。

女房方の気配。

控えめな笑い声。

本家筋の姫たちのやわらかな衣擦れ。

そういう場へ、若い男がひとり入る時点で、もう少しばかり居心地は悪い。

 

そして、やはりお栄はそこにいた。

 

お市の少し下手。

他の女房方と完全に紛れているわけではない。

だが、あからさまに“ここにおります”と押し出されてもいない。

 

左衛門は、まず上座へ礼をした。

上総介兄上はいない。

内向きの場だから当然だ。

代わりに、お市が座の中で自然に芯になっている。

 

「左衛門信直にございます」

 

その名乗りにも、まだわずかに硬さがある。

だが、それでも前よりはずっとましだ。

 

お市が穏やかに応じる。

 

「ご苦労さまです、左衛門殿」

 

その言い方が、ちょうどよかった。

持ち上げすぎず、だが新しい名をきちんと受ける。

姉としても、治部家の妻としても、見事な受け方だと思う。

 

左衛門は、用向きを簡潔に伝えた。

父上からの書付。

あとは形式ばったやり取りが少し。

 

そこまでは、何とか普段どおりに進んだ。

 

問題は、そのあとだった。

 

用向きが済み、すぐ下がってもよい。

だが、そうするとかえって“逃げた”ように見える。

かといって長居すれば、それはそれで場に馴染まぬ。

 

そんな微妙な間が、わずかに落ちる。

 

そしてその刻に、お市がごく自然に言った。

 

「お栄」

「はい、姉上」

「左衛門殿へ、お茶を」

 

それは、本当に自然な一手だった。

 

お栄が立つ。

左衛門の方へ進む。

部屋の中の誰も、それを不自然には見ぬ。

だが、二人にとっては十分すぎるほど“顔を合わせる理由”になる。

 

左衛門は、その瞬間また少しだけ固くなった。

お栄も同じだった。

それが、かえってよかった。

 

互いに、相手だけが平然としているわけではないと、そこでまず分かるからだ。

お栄が茶を差し出す。

 

「どうぞ」

「……恐れ入ります」

 

左衛門が受ける。

手つきは危なげない。

だが、声はやはり少しだけ硬い。

 

お栄も、その返事を聞いて少しだけ息を入れ直した。

たぶん、ああ、やはりこの方も固いのだ、と思ったのだろう。

 

左衛門も同じことを感じたに違いない。

お栄の「どうぞ」も、きれいではあるが、わずかに張っていた。

 

それで十分だった。

 

最初から、妙に慣れたふうにされるより、よほどましだ。

 

お市が、そこであえて軽く言った。

 

「左衛門殿」

「は」

「まだ新しいお名に、少し緊張なさっておいでですか」

 

左衛門は、そこでごまかすことを諦めたらしい。

 

「……少々」

 

部屋の空気が、ほんの少しだけやわらぐ。

お栄の口元にも、ごくわずかな笑みが差した。

 

お市は、その変化を見逃さない。

 

「お栄も、さきほどから少し固いのですよ」

「姉上」

 

お栄が小さくたしなめる。

だが、その声もさっきよりはやわらかい。

 

左衛門が、そこで初めてお栄の方を正面から見た。

 

ほんの一瞬。

長くは見ない。

だが、その一瞬で、たぶん同じことを思っただろう。

 

――やはり、この方も固いのだな。

 

お栄もまた、その短い視線で同じものを受け取った顔をした。

 

お市が少しだけ笑う。

 

「そのくらいでよろしいのです」

 

「……はい」とお栄。

「は」と左衛門。

 

その返事のずれ方まで、妙に似ていて、部屋の中にまた少しだけやわらかい空気が落ちた。

 

それ以上、無理に話をさせることはしなかった。

そこが、お市のよいところでもあった。

 

いきなり言葉を重ねさせても、かえって崩れる。

今日は、“顔を見た”“相手もまた固い”と分かった、それで十分だと見切っている。

 

だから、あとは本当に短い。

 

お栄が下がる前に、小さく言った。

 

「……お疲れさまでございます」

 

左衛門は一瞬だけ間を置いたが、きちんと返した。

 

「そちらも」

 

それだけだ。

 

だが、それで十分だった。

 

無理にうまいことを言わない。

妙に慣れた笑みも作らない。

それでもちゃんと、相手を相手として受けた。

 

それは、若い二人にしてはかなり上出来だったろう。

 

左衛門が下がったあと、お栄は表向き何も変えなかった。

だが、お市には分かる程度には、肩の力が少し落ちていた。

 

お市が、ごく小さな声で言う。

 

「どうでした」

 

お栄はすぐには答えない。

それから、本当に小さく言った。

 

「……やはり、固い方でした」

 

お市は微笑む。

 

「でしょうね」

 

「ですが」

お栄は、ほんのわずかにためらってから続けた。

「少し、安心致しました」

 

その頃、廊へ出た左衛門もまた、こちらは俺に低く言っていた。

 

「兄上」

「何だ」

「……やはり、固い方でした」

 

それには、さすがに少し笑いそうになったが、堪えた。

 

「そうか」

 

「はい」

左衛門は、少しだけ息を吐いた。

「ですが、少し安心致しました」

 

まったく同じことを、ほとんど同じ刻に言っている。

そこまで来ると、むしろよく出来すぎている気もするが、若い二人というのは案外こういうものかもしれなかった。

 

俺は、そこでようやく少しだけ笑った。

 

「なら、今日はそれで十分だ」

 

左衛門も深く頷く。

 

「はい」

 

本当に、その通りだった。

 

長く語る必要はない。

いきなり何も決める必要もない。

ただ、顔を見た。

相手もまた平然とはしていないと分かった。

その上で、嫌な感じではなかった。

 

最初の一歩としては、それ以上を欲張る方が違う。

 

そういう顔合わせだった。

 

 

左衛門信直とお栄が、ごく短く顔を合わせたあとのことだった。

 

いかにも評定というほどではない。

だが、ただの内輪話でもない。

上総介兄上、勘十郎兄上、父上、俺、それにお市。

この縁談を“家の筋”として見ている者たちが、一度だけ静かに顔を揃えた。

 

最初に口を開いたのは上総介兄上だった。

 

「で」

 

短い。

だが、この兄上がこの「で」で入る時は、もうだいたい芯を掴んでいる。

 

「どう見た」

 

お市が、少しだけ目を伏せてから答えた。

 

「少なくとも、お栄は嫌がってはおりませぬ」

 

父上が、すぐ言う。

 

「左衛門も同じにございます」

 

「うむ」と勘十郎兄上。

「二人とも、驚いてはいる」

 

「はい」と俺。

「ですが、逃げ腰ではない」

 

そこは大きかった。

 

嫌がっておらぬ。

とはいえ、すでに乗り気だ、という話でもない。

そこを急がず、だが臆病にも見過ぎず、どう受けるか。

まさに今はその見極めの段だった。

 

上総介兄上が、口元を少しだけ上げる。

 

「固かったそうだな」

 

お市が、わずかに笑みを浮かべる。

 

「かなり」

 

「左衛門もかなりでした」と父上。

 

それには、さすがに部屋の空気が少しだけやわらいだ。

 

勘十郎兄上が、静かに整える。

 

「それでよろしいのでしょう」

「うむ」

「若い二人が、いきなり妙に落ち着き払っておる方が、むしろ怖い」

 

「違いない」と上総介兄上。

 

俺も頷いた。

 

「相手もまた固い、と分かっただけで、だいぶ違ったように見えました」

 

お市が、そこでこちらを見る。

 

「ええ。お栄も、その一点でかなり気が軽くなったようでした」

 

「左衛門も同じにございますな」と父上。

 

「それなら、いまはそれで十分だ」と上総介兄上。

 

兄上のその見切りは早い。

だが早いだけでなく、余計な押し込みをしない時の切り方でもある。

 

「では」

勘十郎兄上が続けた。

「ここで次を急がず、少しずつ機会を作るべきですな」

 

「うむ」と上総介兄上。

「無理に二人きりへせず、だが全く会わせぬのも違う」

 

「姉妹の集まり、本家筋の内向きの場、そういうところへ自然に」とお市。

「それがよろしいかと」

 

そこは、やはりお市が一番うまい。

 

姫から姫へ言葉を渡したのも、この人だ。

ならばその先、どれくらいの距離で二人を近づけるかも、たぶんこの人が最もよく分かっている。

 

父上が、少しだけ慎重に言った。

 

「左衛門は、まだ元服したばかりでもあります」

 

「分かっておる」と上総介兄上。

 

「だからこそ、いきなり婚儀の日取りまで切るような真似はせぬ」

「ありがたく」

 

「だが」

そこで兄上は少しだけ声を低くした。

「だらだらもさせぬ」

 

その一言で、場が締まる。

 

「嫌がってはおらぬ。筋も悪くない。ならば、あとはほどよく寄せる」

 

「はい」と勘十郎兄上。

「時を置きすぎれば、かえって話が浮きます」

 

「うむ」

 

俺は、その流れを聞きながら、ようやく少しだけ肩の力を抜いた。

 

少しずつ機会を作る。

急がぬ。

だが放ってもおかぬ。

そのくらいが、いまの二人にはちょうどいい。

 

お市が、最後に言った。

 

「お栄には、もう少しだけ私からも折を見て言葉を添えましょう」

 

「頼む」と上総介兄上。

 

「はい」

 

父上もまた、深く頷いた。

 

「左衛門の方は、こちらで少しずつ腹を据えさせます」

 

「それでよい」と勘十郎兄上。

 

「兄と父、姉と兄上。両側から少しずつ支えるのが、いちばん自然でしょう」

 

そこで、部屋の空気はようやくひとまず落ち着いた。

 

二人とも嫌がってはおらぬ。

ならば、次は急がず、だが止めず。

その方針が定まった。

 

 

その頃、甲斐では別の目が動いていた。

 

武田家の三ツ者は、風と噂と人の顔色を拾って帰る。

一つ一つは細い。

だが細いものほど、繋げれば大きな絵になる。

 

その報が、徳栄軒信玄のもとへ運ばれたのは、まだ美濃稲葉山落城の余熱が完全には冷めぬ頃だった。

 

信玄は、報せを聞いてすぐには笑わなかった。

まず静かに聞き切る。

そのあとで、ようやく口元に少しだけ興が浮かぶ。

そういう男だった。

 

「ほう」

低く、しかしはっきりと言う。

「今川治部大輔に続き、一色左京大夫を、あの“小田井の神童”が討ったか」

 

三ツ者は深く頭を下げたままだ。

 

「左様にございます」

 

「随分と面白き男よ」

信玄の目が、そこでわずかに細くなる。

「勘助」

 

すぐ脇にいた山本勘助が、低く応じた。

 

「は」

「取り込むか」

 

そこは、いかにも勘助らしく真っ先に来る問いだった。

 

だが信玄は、ゆっくり首を振る。

 

「いや」

「……は」

 

「取り込むは無駄であろう」

即断だった。

「お市を娶り、治部家を立て、美濃口を開いた。あれはもう、弾正忠家の中で立ち始めておる」

 

「左様にございますな」

 

「引き抜きで動く類ではない」

そこは、勘助も異はないらしい。

 

「だが」

信玄は、そこで少しだけ笑った。

「弾正忠との間に隙を生んでおくのは悪くない」

 

勘助の目が、わずかに冴える。

 

「では、次の一手ということですな」

「そなた、どう思う」

 

勘助は、ほんの少しだけ間を置いた。

この男は、すぐ答える時と、ほんの一拍置く時がある。

一拍置く時の方が、むしろ本気だ。

 

「年ごろの娘を、お館様の養女とし、側室として送り込みましょう」

信玄の目は、すでにその先を見ている。

「歩き巫女であれば、夜の生活で腑抜けにもさせられましょうが」

 

そこまで言ったところで、信玄は鼻で笑った。

 

「それでは弾正忠が警戒しすぎる」

 

勘助は、すぐに頭を下げる。

 

「は」

 

「ふむ」

信玄は、指で脇息を軽く叩いた。

「だが、手としては悪くない」

 

そして、そのまま続ける。

 

「勘助よ」

「は」

「真理を離縁させ、小田井に送れ」

 

勘助の目が、そこでさすがに少し動いた。

 

「は、真理姫様を、ですか」

 

信玄は、平然としている。

 

「あれも儂と三条との娘」

「は」

「武田家正嫡の姫よ。弾正忠めも、断れまいて」

 

その声音には、確信と、少しばかりの愉悦があった。

 

勘助は、なお慎重に言う。

 

「木曾は、いかが致します」

「木曾には、孫六の娘を我が養女として再度輿入れさせよ」

「は」

「ちょうど石女とも言われておったはずじゃ。あれも木曾では過ごしにくかろう」

 

そこまで聞いて、勘助はようやく全体を掴んだらしい。

 

「……なるほど」

「分かったか」

 

「は」

勘助の声が、少しだけ低くなる。

「真理姫様を小田井へ送れば、表向きは武田と織田の縁」

 

「うむ」

「木曾には別の養女を差し向け、こちらの面子も保つ」

「うむ」

「しかも、正嫡の姫を送るなら、弾正忠も軽くは断れませぬ」

 

信玄は、口元をわずかに上げた。

 

「そういうことだ」

そして、その笑みのまま続ける。

「小田井の神童が、どれほど盤面を読むか見てみたい」

 

「は」

「弾正忠の下で光る若鷹か。いずれ別の巣を欲するか。あるいは、そこまで行かずとも、周りがざわつくか」

 

勘助は、静かに頭を垂れた。

 

「えげつのうございますな」

 

信玄が、そこで少しだけ喉で笑う。

 

「戦とはそういうものよ」

「は」

「すぐに奪えぬなら、まずは心と形を揺らす」

 

そこまで言われれば、勘助にももう異はない。

 

「では、真理姫様の輿入れ、木曾への輿入れ、並行して整えます」

「急げ」

「はっ」

 

「美濃を取ったばかりで、弾正忠家中は勝ちに酔うておろう」

信玄の目が、細く、鋭くなる。

「そういう時に差し込む手ほど、よく刺さる」

 

それで話は決まった。

 

甲斐は、すでに次の一手を打ち始めている。

しかもそれは、槍でも鉄砲でもなく、婚姻という柔らかい刃だった。

 

小田井では、左衛門とお栄の距離を少しずつ縮めようとしている。

だが、その外からは、もう武田が別の姫を札として投げ込もうとしている。

 

盤は、勝った一手で終わりはしない。

むしろ勝ったからこそ、次の盤が開く。

 

そういう時代だった。

 

 

十兵衛、半兵衛、左近将監の報が揃ったあと、部屋に残ったのはまた上総介兄上、勘十郎兄上、そして俺だけだった。

 

武田の手の輪郭は、もう十分見えている。

 

真理姫の離縁は本気。

木曾には別の女を差し込む話が動いている。

そして、武田が見たいのは、治部家と本家の間の見えない揺れ。

 

そこまで見えたなら、次は返しだ。

 

だが今回は、ただ武田の観測を外せばよい、という話でもなかった。

 

上総介兄上が、文机の上に置いた書付を指で軽く叩いた。

 

「さて」

短い一言で、場が締まる。

「武田の腹は見えた」

 

「はい」と勘十郎兄上。

「かなりのところまで」

 

「うむ」

「では、どうする」

 

ここが肝だった。

 

断るか。

受けるか。

あるいは、いったん曖昧にして流すか。

 

だが、俺はもう、三つを同じ重さでは見ていなかった。

 

「上総介兄上」

「何だ」

「腹の中では、受ける方向で見た方がよろしいかと」

 

上総介兄上の目が、少しだけ細くなる。

勘十郎兄上は、むしろその答えを待っていた顔だった。

 

「申せ」

 

「はい」

俺は、一度息を置いてから言った。

「武田の狙いは、たしかに治部家と本家の揺れを測ることにございましょう」

 

「うむ」

「ですが、狙いが見えていることと、こちらに利がないことは別です」

 

勘十郎兄上が、小さく頷く。

 

「その通りです」

 

俺は続ける。

 

「いま、美濃は取ったばかりにございます」

「うむ」

「されど、まだ東の背が完全に安いわけではない」

「うむ」

「三河との同盟も、まだ今の段では固まり切っておりませぬ」

 

そこは大きい。

 

この時間軸では美濃を早く取った。

だが、だからといって周囲まで綺麗に定まったわけではない。

むしろ、こちらが前へ出た分だけ、背後の静けさはなお欲しい。

 

「近江に手を伸ばすにせよ」

俺は続けた。

「伊勢へ目を向けるにせよ、東が静まるなら大きい」

 

「うむ」と上総介兄上。

 

「武田との婚姻は、たしかに治部家を揺らす札でもあります」

「はい」

「だが、同時に東を安める札でもある」

 

そこは、もう否定できなかった。

 

勘十郎兄上が、静かに言葉を継ぐ。

 

「しかも今回は、単なる一方的な打診ではありません」

「はい」

「諏訪四郎殿への婚儀まで含め、表向きは婚姻の提案です」

 

「そうだ」と上総介兄上。

「ただの“治部家への色仕掛け”では切れぬ」

 

「はい」

「友好国として縁を深めたい、という顔をされる以上、断るにもそれなりの損がある」

 

そこが、この婚姻のいやらしさであり、同時に強さでもあった。

 

武田は、ただこちらを揺らそうとしているのではない。

揺らす札を、外交の大利の中へ埋め込んでいる。

 

だからこちらもまた、

“揺らされるから嫌だ”

だけでは済まぬ。

 

上総介兄上が、少しだけ笑った。

 

「治部大輔」

「は」

「お前、つい先ほどまで“まだお市殿を迎えたばかりにございますが”と申しておったな」

 

そこは、さすがに少し苦笑した。

 

「はい」

「で、今は受ける方が利が大きい、と」

「はい」

「変わり身が早いな」

 

「某一人の気分で決める話ではございませぬので」

そこは、はっきり返した。

「某がどう思うかはさておき、織田の利として見れば、受ける筋は重うございます」

 

勘十郎兄上が、そこへ入る。

 

「まさにそこです」

 

「何が」と上総介兄上。

 

「“治部大輔がどう思うか”と、“織田家としてどう見るか”を分けておる」

「うむ」

「それならば、こちらも腹を決めやすい」

 

勘十郎兄上は、いつものように静かだった。

だが、その静けさの下で、すでに結論はかなり定まっているのが見えた。

 

「上総介兄上」

「何だ」

「表向きも実際も、織田の利は大きいと存じます」

「申せ」

「まず、真理姫輿入れまでには時がかかる」

「うむ」

「いきなり明日、明後日で入るわけではありませぬ」

「当然だ」

「ならば、“治部家はまだ新婚だ”という生々しさは、その頃にはかなり薄れております」

 

そこは、ご指摘どおりだった。

 

いまこの場では、たしかにお市を迎えたばかりだ。

だが婚姻の話というのは、決まったその日に人が動くわけではない。

支度もあれば、筋もあれば、送り迎えもある。

その間に、空気も変わる。

 

「次に」

勘十郎兄上が続ける。

「戦国の武家として見れば、側室が増えること自体は別段おかしなことではありませぬ」

 

「うむ」

 

「お市の心情はもちろん別に立てるべきです」

そこは、きちんと置く。

「ですが、家の利としては、それだけで大札を退ける理にはなりませぬ」

 

「そうだな」と上総介兄上。

 

「そして、三河との筋がまだ固まり切らぬ以上、東の背を安める価値は大きい」

 

「近江、伊勢」

俺が小さく言う。

「そのあたりを触るにも、なおさらです」

 

「その通りにございます」と勘十郎兄上。

 

そこまで来れば、もうかなりはっきりしていた。

 

武田の手は見えた。

だが、見えたからといって、それを嫌って大利まで捨てる理由にはならない。

 

むしろ、狙いが見えたなら、その狙いを承知の上で、なおこちらが利を取る形へ寄せるのが上策だ。

 

上総介兄上が、そこでようやくはっきり言った。

 

「ならば、受ける」

 

その一言は重かった。

 

「はっ」と俺。

勘十郎兄上も深く頷く。

 

「ただし」

上総介兄上の声が、一段低くなる。

「飛びついて受けるのではない」

 

「はい」

「武田の観測どおり、“治部家が浮かれて甲斐の姫を迎えた”ようには見せぬ」

「もちろんにございます」

 

「本家が握って受ける」と勘十郎兄上。

 

「うむ」

「それが最も自然でしょう」

「申せ」

「まず、返答そのものは上総介様名で返す」

「うむ」

「治部家単独の話ではなく、一門の婚姻として本家が預かる」

「はい」

「そのうえで、真理姫様への敬意は尽くす。武田との和を重く見る姿勢も示す」

「うむ」

「そして“治部家もまた一門のうちにて、この婚儀を軽々しく定めぬ”形を見せる」

 

そこが肝だった。

 

受ける。

だが、受ける形が大事だ。

 

治部家単独で話を呑むのではない。

本家が預かり、家中の再編と一門の筋の中で、きちんと受ける。

 

そう見せれば、武田の観測には半ば逆らいながら、こちらの利は取れる。

 

俺は言った。

 

「つまり、腹の中では受ける」

「うむ」

「だが、文の上では“慎重に量った末に受ける”形へ持っていく」

 

「そのように」と勘十郎兄上。

 

「軽く受けぬ。だが、断るつもりもない。そこを武田へ見せる」

上総介兄上が、少しだけ笑った。

「悪くない」

 

その笑い方なら、兄上の腹も決まったのだと分かる。

 

「武田は、こちらの揺れを見たい」

「はい」

「ならば、揺れてはおらぬ顔で、しかも利だけは取る」

「それがよろしいかと」

 

そこで、俺は一つだけ置いておくべきことを言った。

 

「上総介兄上」

「何だ」

「お市への話は、やはり別に立てて頂きたく」

 

上総介兄上の目が、少しだけやわらいだ。

 

「当たり前だ」

「はい」

「家の利は家の利として取る」

「はい」

「だが、お市の心を“戦国だからよい”で流す気はない」

 

そこは、兄としても夫としても、きちんとしていた。

 

勘十郎兄上も続ける。

 

「お市がどう受けるかを、治部大輔一人へ押しつけるのは違うだろうからな」

「はい」

「だからそこは、本家としても筋を立てよう」

 

それを聞いて、胸の内で少しだけ息が落ちた。

 

戦国の価値観としては、側室が増えること自体は珍しくない。

だが、だからといって何も感じないように扱うのとも違う。

その線を、上総介兄上も勘十郎兄上も分かっている。

 

上総介兄上が最後に言った。

 

「よし」

 

短い。

だが、それで十分だった。

 

「武田の手は読んだ」

「はい」

「だが、利も大きい」

「はい」

「ゆえに、受ける方向で進める」

「はっ」

「ただし、主導権は渡さぬ」

「はっ」

「文はわし名で返す。治部家の話ではあるが、治部家だけの話にはせぬ」

「承知致しました」

 

勘十郎兄上が、静かに締める。

 

「つまり」

「はい」

「武田の観測には乗らず、武田の利だけはこちらが使う」

 

そこまで言われると、いよいよ本当にそうだと思えた。

 

勝ったあとに来るのは、敵の反撃だけではない。

こういう大きな札だ。

しかも、その札を突っぱねるより、飲み込んでこちらの糧にした方がよい時もある。

 

今回は、たぶんそれだ。

 

俺は、ようやく腹の底で納得していた。

 

真理姫打診は、確かに武田の揺さぶりだ。

だが同時に、こちらにとっての大きな利でもある。

ならば、嫌だから拒むのではない。

読んだ上で、利を取る。

 

そういう答えになる。

 

 

こちらが文を練り、筋を整え、どの言い回しなら武田の観測を外しつつ主導を握れるか――そんなことを詰めている間に、甲斐はもう次の手を打っていた。

 

しかも、こちらの“慎重に量る”を、最初から織り込み済みで、だ。

 

その報せが入ったのは、昼も少し傾き始めた頃だった。

 

小田井へ駆け込んできたのは、美濃国境に近い遠山家筋からの早馬だった。

馬も人も土にまみれ、止まるより先に声が飛ぶ。

 

「武田より、輿入れの行列!」

 

その一言で、座の空気が一変した。

 

上総介兄上。

勘十郎兄上。

そして俺。

つい先ほどまで、どう返す、どう保留する、どう筋を立てると詰めていた三人が、揃って言葉を失ったのはほんの一瞬だった。

 

「何だと」

 

最初に立ったのは、やはり上総介兄上だった。

 

早馬は、息を整える暇も惜しむように続ける。

 

「木曾福島城より、すでに出立!」

「……木曾福島から直接か」

 

勘十郎兄上の声が、低く沈む。

 

「はい! 真理姫様の輿に従うは、武田典厩殿、山県三郎兵衛殿、高坂弾正忠殿!」

 

そこまで聞いたところで、俺の背に冷たいものが走った。

 

典厩信繁。

 

俺が前世知識の中で、その名の重さを知らぬはずがない。

しかも、俺が“信繁”を名乗る時、目指すべき人として公言し、心のどこかでどうしても意識せざるを得なかった男だ。

その本人が、今度は武田の使者として、真理姫の輿を連れてこちらへ来る。

 

さらに山県三郎兵衛昌景。

赤備えの名将。

そして高坂弾正忠昌信。

海津城主にして、信玄坊主が特別に目を掛ける相手とまで囁かれる男。

 

ただの婚礼行列ではない。

武田が本気で差してきた札だと、一目で分かる顔ぶれだった。

 

上総介兄上が、ゆっくりと息を吐いた。

 

「……信玄坊主め」

 

その一言に、呆れと感心と苛立ちが全部混じっていた。

 

勘十郎兄上が、すでに次を見ている目になる。

 

「こちらの遅延を、最初から読み切っておりましたな」

 

「うむ」と上総介兄上。

「文の返しを待たぬとは」

 

「はい」

「しかも、木曾福島からもう出しているとなると、ただの脅しでもない」

 

俺も、ようやく息を入れ直した。

 

「今さら、断るわけにはいきませぬな」

 

そこは、もうはっきり言うしかない。

 

こちらが保留の文を返す前に、武田は姫と重臣を乗せた行列を動かしてしまった。

ここまで来て門前払いでもすれば、それはもはや婚儀を退けたというより、武田家の面子を地面へ叩きつけるに等しい。

 

上総介兄上が、喉で笑った。

 

「違いない」

 

「しかも」と勘十郎兄上。

「武田典厩殿、山県三郎兵衛殿、高坂弾正殿。この三人を付けるということは、武田家中でも“軽い姫送り”ではないと見せております」

 

「見せておるどころか、叩きつけてきたな」と上総介兄上。

 

まったくその通りだった。

 

武田の正嫡の姫。

その輿に、武田家の骨とも言うべき男たちが付き従う。

ならば、こちらも治部家の都合がどうのと、今さら言える段ではない。

 

問題は、もう別に移っていた。

 

受け入れの支度が、まだ完全には整っていない。

 

俺は、そこでようやく現実へ引き戻された。

 

「……田代城」

 

「うむ」と勘十郎兄上。

「まだ引っ越しも、きれいには終わっておらぬでしょうな」

 

「終わっておりませぬ」

 

俺は即答した。

 

笠松の田代城。

治部家の拠点として骨を立て始めたばかりの城。

人も物も、まだ“これから整う”の段だ。

そこへ、武田の姫が、しかもこれほどの顔ぶれとともに来る。

 

悪夢じみている。

 

上総介兄上は、むしろその悪夢を面白がるように笑った。

 

「よい」

「よろしいので」

「よいではないか。信玄坊主め、こちらが受けるしかない形まで作って押してきた」

「はい」

 

「ならば受ける。だが、受ける以上は見苦しくはせぬ」

そこから先の兄上は、速かった。

「勘十郎」

 

「は」

「岩村城の中の見苦しいところを、まず塞げ」

「承知」

「治部大輔」

「はっ」

「お前は田代へ走れ。人も物も、見せるべきところから整えろ。引っ越しの途中だろうが何だろうが、今日からは“治部家の城”として見せねばならぬ」

「はっ」

 

そこまで切られると、かえって腹が据わる。

 

狼狽えても遅い。

行列はもう動いている。

ならば、こちらは受け入れ側の形を作るしかない。

 

勘十郎兄上が、すでに指を折り始めていた。

 

「まず、岩村では城中の動線を切ります」

「うむ」

「輿が入る筋。真理姫様の御座所。典厩信繁以下の宿所。随行衆の兵の置き場。馬の扱い。台所。湯殿」

 

「早いな」と上総介兄上。

 

「遅ければ間に合いませぬ」

 

そこへ俺も口を入れる。

 

「田代の奥向きは、まだ治部家仕様に完全には替わっておりませぬ」

 

「ならば今日替えよ」と上総介兄上。

 

「は」

 

「見栄えを整えろ。足りぬものは本家から送る」

「ありがたく」

 

「それと」

勘十郎兄上が、そこでもう一つ切った。

「受け入れの顔ぶれも定めねばなりませぬ」

 

そこは、当然来る。

 

武田典厩信繁。

山県三郎兵衛昌景。

高坂弾正昌信。

あの顔ぶれを、田代城で誰がどう迎えるのか。

雑には決められない。

 

「某が前へ出ます」と俺。

 

「当然だ」と上総介兄上。

 

「治部家へ来る姫だ。お前が出ぬわけにはいかぬ」

「はい」

 

「だが、お前一人でもない」と勘十郎兄上。

 

そこも重要だった。

 

「本家が預かっている筋を見せる以上、上総介兄上の名代も要る」

 

「うむ」と上総介兄上。

 

「お前が姫を受け、こちらの筋からも人を添える」

 

そこまで定まったところで、不意に勘十郎兄上がこちらを見た。

 

「で」

その“で”は、妙に静かだった。

「誰がお市に話をするのです?」

 

俺は、思わず息を詰めた。

 

そこだ。

そこを飛ばしていたわけではない。

ないが、現実の“武田の姫がもう来る”という圧へ押されて、一瞬だけ後ろへ回っていた。

 

だが、後ろへ回せる話でもない。

 

真理姫が来る。

それは、政治だ。

軍略だ。

外交だ。

そして同時に、お市にとっては夫のもとへ新たな姫が入るという話でもある。

 

上総介兄上が、何も言わずこちらを見る。

勘十郎兄上も同じだ。

 

俺は、反射のように答えていた。

 

「……当主たる上総介兄上でしょうね!」

 

上総介兄上が、ぴたりと止まる。

 

「おい」

「いや、そこは兄上しか」

「お前、今それをわしへ丸投げするか」

「丸投げではございませぬ。筋でございます」

 

そこは、半ば本音だった。

 

兄として。

本家当主として。

お市へこの話をまず渡す筋は、やはり上総介兄上が最も強い。

 

だが、そう言い切った瞬間、勘十郎兄上の口元がほんの少しだけ動いた。

半ば呆れ、半ば面白がっている時の顔だ。

 

「治部大輔」

「は」

「たしかに筋はそうだ」

「はい」

「だが、お一人だけ行かせるつもりか」

 

そこへ来る。

 

俺が言葉に詰まるより早く、上総介兄上が言った。

 

「お前らも来い!」

その一喝で、部屋の空気が一度に決まった。

「わしが兄として話す」

 

「は」

「だが、当事者を後ろへ隠して何になる」

「……はい」

「勘十郎、お前も来い。こういう時に、理だけ立てる顔も要る」

「承知致しました」

「治部大輔」

「はっ」

「お前は逃げるな」

 

そこは、痛いところを真っすぐ突かれた。

 

「逃げるつもりは」

「今、少し逃げた」

「……少しだけ」

 

勘十郎兄上が、そこで小さく咳払いをした。

笑いを殺した時のそれに近い。

 

「では、まずお市ですな」

 

「うむ」と上総介兄上。

「そのあと田代。治部大輔は戻って整えろ。勘十郎は人と物を回せ。わしはお市へ話を入れてから本家筋の顔も立てる」

 

そこまで切られると、もう迷う暇はない。

 

武田は、こちらの遅延を読み切って、先に行列を出した。

だったらこちらは、遅れたまま狼狽えるのではなく、間に合わせて迎えるしかない。

 

俺は深く頭を下げた。

 

「承知致しました」

 

上総介兄上が、最後にもう一度だけ、低く言った。

 

「信玄坊主め」

その声には、やはり少しばかりの愉快さも混じっていた。

「面白い手を打ってくる」

 

勘十郎兄上が静かに返す。

 

「ええ。ですが、迎えてみせましょう」

 

「当然だ」

そして兄上は立った。

「行くぞ。まずはお市だ」

 

その背を見た時、俺もようやく本当に腹が据わった気がした。

 

武田の姫が来る。

それももう動いている。

ならば、受ける。

整える。

そして筋も通す。

 

文の駆け引きは、もう終わった。

次は、人が実際に動く盤だ。

 

それだけのことだと、自分へ言い聞かせるしかなかった。

 

 

お市のもとへ向かう道すがら、俺は自分でも分かるくらい口数が減っていた。

 

武田の手が早い。

真理姫の輿はもう動いている。

田代の支度も急がねばならぬ。

その上で、お市へこの話を通す。

 

筋で言えば、まず兄である上総介兄上。

そこへ勘十郎兄上。

そして当事者たる俺。

並びとしては間違っていない。

間違っていないが、だからといって気が楽になるわけでもない。

 

勘十郎兄上が、隣で妙に静かだった。

この人は本当に厄介な局面になると、逆に口数が減る。

頭の中で言い回しを削っているのだろう。

 

上総介兄上だけが、表向きはいつも通りだった。

だが、いつも通りに見える時ほど、この人もそれなりに腹の底では考えている。

 

やがて、お市の部屋へ通された。

 

お市は、すでにこちらが三人揃って来た時点で、軽い話ではないと読んでいたのだろう。

だが、妙に構えた様子もなく、静かに座していた。

 

「兄上」

「うむ」

「勘十郎兄上」

「お市」

 

そして、俺にも視線が来る。

 

「治部殿」

「はい」

 

そこで、ほんのわずかに沈黙が落ちた。

 

切り出すのは上総介兄上のはずだ。

だが、その上総介兄上が、珍しく一拍置いた。

それを横目に見て、俺は胸の内で少しだけ驚いた。

 

兄上でも、こういう時は間を取るのだなと思った。

 

結局、その沈黙を割ったのは上総介兄上だった。

 

「お市」

「はい」

「一つ、話がある」

「はい」

 

お市は、まっすぐ兄を見ている。

怖がっているわけではない。

かといって軽くもない。

ただ、来るものを受ける顔だ。

 

上総介兄上が言う。

 

「甲斐より、婚儀の打診が来た」

 

そこで、また少しだけ間が落ちた。

 

お市の表情は崩れない。

むしろ、その先を静かに待っている。

 

「真理姫を」

兄上が、やや低く続ける。

「治部へ、とな」

 

お市は、それを聞いてもなお大きくは動かなかった。

 

ただ、ほんの少しだけ視線が俺へ寄る。

それから、また兄上へ戻る。

 

「左様にございますか」

「うむ」

 

お市は静かに頷いた。

 

そこで、なぜか男三人の方が、微妙に次の言葉を探していた。

 

俺は自分でも分かるくらい居心地が悪かったし、勘十郎兄上はますます静かだし、上総介兄上に至っては、切り出したくせに、その先を少し選んでいる。

 

その妙な空気を見て、お市が先に口を開いた。

 

「皆さま」

 

「うむ」と上総介兄上。

 

「そのように、おろおろなさらずともよろしいのですよ」

 

それには、さすがに三人とも一瞬だけ動きが止まった。

 

お市の目の奥に、ごくわずかだが苦笑に近いものが差している。

 

「お、おろおろしておるか、わしが」と上総介兄上。

 

「少し」

 

きっぱりしていた。

 

勘十郎兄上が、横で小さく咳払いをする。

たぶん笑いを飲み込んだのだろう。

 

お市は続ける。

 

「戦国の習いにございます」

 

「うむ」と上総介兄上。

 

「夫たる方に、正室のほか姫や側室が入ることそのものは、別段珍しきことではありませぬ」

 

俺は、そこで何とも言えない顔をしていたのだろう。

お市が、今度ははっきり俺を見る。

 

「治部殿」

「はい」

「そのような顔をなさらないでくださいませ」

「……いや、ですが」

 

「ですが、ではありませぬ」

その返しも、妙に落ち着いていた。

「私が、何も分からぬ女子のように“いやでございます”と泣くとでも思われましたか」

 

「そこまでは」

「思っておられなくとも、似たようなものです」

 

そこまで言われると、さすがに返しに困る。

 

上総介兄上が、そこでようやく少しだけ肩の力を抜いた。

 

「お前は、やはり強いな」

 

「そう育てられましたので」

お市は静かに答える。

「兄上方に」

 

その一言に、上総介兄上も勘十郎兄上も、少しだけ言葉を失った。

 

たしかにそうだ。

この人を、ただの泣き暮らす姫には育てなかったのは、他ならぬこの家なのだ。

 

お市は、さらに続ける。

 

「もちろん」

そこで声がわずかに柔らかくなる。

「何も感じぬわけではありませぬよ」

 

そこは、きちんと置く。

 

「武田の姫が入るとなれば、家の中も動きましょう。治部家の形も変わりましょう」

 

「うむ」と勘十郎兄上。

 

「ですが、それを承知の上で嫁いだ身にございます」

 

「……はい」と俺。

 

「ですから、家の利として受けるべきものなら、まずはそうお考え下さればよろしい」

 

そこまで言い切られると、かえってこちらの方が居住まいを正すしかない。

 

上総介兄上が、少しだけ真面目な顔になった。

 

「お市」

「はい」

「それでも、筋は筋として通しておかねばならぬ」

「承知しております」

「だからこそ、兄としてまずお前に話した」

 

お市は頷いた。

 

「ありがたく存じます」

 

「それと」

今度は勘十郎兄上が口を開いた。

「戦国の習いゆえ仕方ない、で済ませるつもりはない」

 

お市がそちらを見る。

 

「と、申しますと」

「真理姫様が入られるなら入られるで、どう置くか、どこまでを治部家の内とし、どこまでを本家の筋とするか、そのあたりはきちんと詰めねばならぬ」

「ええ」

「お市の立場もまた、軽くしてよいはずがない」

 

そこは、勘十郎兄上らしい言い方だった。

感情を煽らず、だが実務としても立場としても軽く扱わぬと言う。

 

お市は、そこで少しだけ表情を和らげた。

 

「ありがとうございます」

 

そして、今度は俺を見た。

 

「治部殿」

「はい」

「治部殿まで、そんなに気まずそうになさらなくてよろしいのです」

「……いや」

「新婚の折に、ではございますか?」

 

そこまで読まれている。

 

「はい」

 

「それもまた、武家にございましょう」

そう言って、お市はほんの少しだけ微笑んだ。

「もっとも」

 

「はい」

「“戦国の習いゆえ仕方ない”と理解していることと、殿方がまるで盗みでも働いたような顔で来られるのとは、少し違いますけれど」

 

それには、今度こそ勘十郎兄上がはっきり咳払いをした。

上総介兄上も、さすがに目を逸らした。

俺など、どういう顔をしていいか分からない。

 

お市は、そこへ追い打ちをかけるように続ける。

 

「兄上は兄上で、いかにも“お市、すまぬ”というお顔ですし」

 

上総介兄上が、低く言う。

 

「そう見えるか」

「かなり」

「勘十郎兄上は、“理を立てねば”のお顔で」

 

勘十郎兄上は、今度は咳払いすらしなかった。

図星なのだろう。

 

「治部殿は」

そこで一度、ほんの少し間を置く。

「一番おろおろしておられます」

 

さすがに、それには上総介兄上まで吹き出した。

 

「違いない」

「上総介兄上!」

「何だ」

「そこで某を斬るのですか」

「斬ってはおらぬ。事実を言うておる」

 

勘十郎兄上も、そこでようやく少しだけ口元を動かした。

 

「たしかに、三人の中では一番そのように見えるな」

「勘十郎兄上まで」

 

お市は、そのやり取りを見て、ようやく少しだけ肩の力を抜いたらしかった。

 

「そのくらいでよろしいのですよ」

 

「何が、にございますか」と俺。

 

「皆さまが、何も感じぬような顔で“ではそのように”とお決めになるより、よほど」

 

それは、思わぬ言葉だった。

 

お市は静かに続ける。

 

「私は、その方が安心できます」

 

そこで、部屋の空気が少しだけ変わった。

 

ああ、そうかと思った。

 

強い。

分かっている。

戦国の姫として受ける覚悟もある。

だがそれでも、周りの男どもが何も感じぬ顔でさっさと決めてしまえば、それはそれで寒いのだ。

 

気を遣いすぎるのも違う。

だが、まったく平然とされるのも違う。

 

その間を、お市はきちんと見ている。

 

上総介兄上が、低く息を吐いた。

 

「なるほどな」

 

勘十郎兄上も頷いた。

 

「それなら、まだよろしい」

 

お市は、そこで最後にきちんと座を締めた。

 

「ですから」

「うむ」

「家として受けるべきなら、お受け下さればよろしいのです」

「はい」

 

「ただし」

今度は、少しだけ真っすぐ俺を見る。

「治部殿」

 

「はい」

「真理姫様が来られるなら、来られるで、私の立場も、あちらの立場も、中途半端にはなさらぬよう」

 

その一言は、静かだが重かった。

 

「承知致しました」

「それなら、異はございませぬ」

 

そこまで言い切って、お市は深く頭を下げた。

 

兄へ。

勘十郎兄上へ。

そして、俺へ。

 

「どうぞ、家の筋にてお決め下さいませ」

 

その姿を見ていると、結局一番腹が据わっているのはお市なのではないかと思えてくる。

 

戦国の習い。

家の筋。

女の立場。

姫の心。

その全部を見た上で、なお受けると決めている。

 

上総介兄上が、少しだけ苦く笑った。

 

「お前を呼んでおいて、こちらの方が諭されたようだな」

「少し」

 

お市の返しも速い。

 

勘十郎兄上が、今度ははっきり笑った。

 

「否めませぬ」

 

俺も、ようやく少しだけ息を吐いた。

 

話は重い。

だが、これで筋は通った。

 

あとは、田代だ。

受け入れだ。

そして真理姫その人を、どう置くかだ。

 

お市が最後に言う。

 

「もっとも」

 

「何だ」と上総介兄上。

 

「だからといって、殿方三人が揃ってあまりにおろおろなさるのも、少々見苦しゅうございますよ」

 

それには、今度こそ全員が少しだけ笑うしかなかった。

 

重い話の場で、こういうふうに少しだけ空気をほどけるのも、たぶんお市の強さなのだろう。

 

 

 

 

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