織田家の嫡子~藤左衛門家の特異点 作:デトロ!開けろイト市警だ!
お市の部屋を辞したあと、廊へ出たところで、三人そろってしばらく無言になった。
さっきまで、こちらが筋を通し、話を整えに行ったつもりだった。
だが、終わってみれば、いちばん腹が据わっていたのはお市だった気がする。
先に口を開いたのは、上総介兄上だった。
「……おろおろしておったか、わしは」
ぼそりとした声音だった。
勘十郎兄上が、すぐには返さない。
俺も同じだった。
何と答えても、少し損をする気がする。
結局、勘十郎兄上が静かに言う。
「少し」
上総介兄上が、横目で見る。
「お前までそう言うか」
「お市が、かなりきっぱり言いましたので」
俺も、そこで小さく頷いた。
「某など、一番おろおろしておったそうです」
上総介兄上が、喉で笑った。
「違いない」
「そこで私をぶった斬りますか」
「事実だ」
勘十郎兄上まで、ほんの少しだけ口元を動かしている。
たぶん笑っている。
だが、笑ってばかりもいられなかった。
真理姫の輿入れ行列は、もう動いている。
武田典厩信繁、山県三郎兵衛、高坂弾正まで付けて、木曾福島から出た。
こちらは、もう“受けるか受けぬか”ではない。
どう迎えるかの段へ入っている。
俺が先に言った。
「では」
上総介兄上と勘十郎兄上がこちらを見る。
「国境までの出迎えは、どうします?」
そこを雑にしては終わる。
「下手な家臣では、呑まれてしまいますぞ」
その一言で、空気がまた実務へ戻った。
武田典厩信繁。
山県三郎兵衛昌景。
高坂弾正忠昌信。
あの顔ぶれに対して、軽い使者や若手だけを出せば、こちらの格まで見透かされる。
迎える側も、それ相応でなくてはならぬ。
上総介兄上が、少し考えるより早く勘十郎兄上へ向いた。
「勘十郎」
「は」
「お主、頼めるか」
勘十郎兄上は、すぐに頷いた。
「承知致しました」
上総介兄上は続ける。
「権六と平手の爺を副使につける」
それなら十分どころか、かなり強い。
柴田権六勝家。
平手中務丞政秀。
どちらも、本家の重さを武田へ見せるには申し分ない。
勘十郎兄上が、もう岩村城の動線まで見ている顔で言う。
「岩村城にて出迎えまする」
そこもよかった。
美濃国境を越えてすぐ、いきなり田代へ雪崩れ込ませるのではない。
まず岩村で受け、本家としての礼でもって出迎え、その上で治部家へ送り込む。
筋としても見栄えとしても、かなりいい。
「それがよい」と上総介兄上。
「まず岩村で織田家として受ける」
「は」
「その上で、田代へ入れる」
そこまで決まれば、あとは俺の役目も明らかだった。
「それでは」
俺は深く頭を下げた。
「某は一足先に田代城を整えます」
上総介兄上が、すぐに頷く。
「うむ」
勘十郎兄上も続ける。
「奥向き、御座所、随行衆の宿、馬の置き場、湯殿、台所。そのすべてを“治部家の城”として見せられる形へ」
「承知致しました」
「雑にするな」と上総介兄上。
「はい」
「引っ越しの途中だろうが何だろうが、真理姫を迎える以上は、途中の城では済まぬ」
「心得ております」
そこへ、勘十郎兄上がさらに言葉を足した。
「治部大輔」
「は」
「真理姫様だけでなく、典厩信繁、山県、高坂も見る」
「はい」
「姫の御座所だけ整えて、随行が粗末では逆にみっともない」
「そこまで気を配ります」
上総介兄上が、そこで最後に言った。
「よし」
短い。
だが、それで十分だった。
「勘十郎、お前は権六と爺をまとめろ」
「は」
「岩村で受けよ」
「承知致しました」
「治部大輔」
「はっ」
「お前は田代だ」
「はっ」
「二人とも、行け」
「はっ!」
それで、三人の動きは一気に決まった。
勘十郎兄上は、本家の顔として国境の出迎えを整える。
権六と平手中務丞まで付ける以上、武田も織田がこの婚儀を軽く扱っていないと分かるだろう。
俺は俺で、田代を本当に“治部家の城”として見せる形へ整えねばならぬ。
もう途中だ、まだこれからだ、とは言っていられない。
廊の曲がりで別れる直前、上総介兄上が一度だけ俺を呼び止めた。
「治部大輔」
「は」
「お市のことは、もう腹へ入れたな」
そこは、短く頷くしかなかった。
「はい」
「なら、あとは迎え方だ」
「はっ」
「お前がうろたえれば、城中がうろたえる」
「心得ます」
上総介兄上が、ほんの少しだけ口元を上げた。
「先ほど、お市に一番おろおろしておると言われた男とは思えぬ顔をしてみせろ」
それには、さすがに少し苦笑した。
「難題にございます」
勘十郎兄上が、横で静かに言う。
「ですが、やるしかない」
「はい」
それで本当に、もう後ろはなかった。
武田の姫は来る。
本家は岩村で迎える。
治部家は田代で受ける。
文のやり取りは終わった。
これからは、人と城と顔で返す番だ。
俺は深く一礼し、そのまま田代へ向かうため足を速めた。
やることはいくらでもある。
だが、やるしかない。
そういう顔で城へ戻らねばならぬのだと、自分へ言い聞かせながら。
♢
岩村へ向かう前に、まず押さえるべき顔ぶれがあった。
柴田権六勝家。
平手中務丞政秀。
この二人を副使に付けると上総介兄上が言った時点で、筋はもう定まっている。
武田の姫を、ただ治部家の縁談として国境で受けるのではない。
織田家全体が、一門の婚儀として本気で迎える。
その顔を、武田へ見せるための人選だった。
勘十郎兄上が二人を呼んだのは、無駄のない小座敷だった。
評定ほど大きくはない。
だが、ここで決まることの重さを考えれば、かえってこのくらいの広さの方がよい。
権六の親父殿は、いつものように座しても身体が大きい。
押しの強さが、そのまま部屋へ入ってくる男だ。
平手中務丞は、その隣で静かに座している。
織田家生え抜きの老臣というだけではない。
尾張の古い礼、信秀公以来の家中の重さ、そして京や朝廷筋へ通じる目配りまで、そのまま一人の姿に収まっているような男だった。
この場に平手中務丞がいる意味は大きい。
武田の姫を迎える。
典厩信繁、山県三郎兵衛、高坂弾正忠が付き従う。
その相手に、ただ武辺の顔だけを並べても足りない。
織田には礼を知る者がいる。
古い家中を押さえる者がいる。
公家や朝廷筋の間合いを知る者がいる。
それを示すためには、平手中務丞ほど分かりやすい顔はなかった。
勘十郎兄上は、回りくどくは入らなかった。
「権六」
「は」
「中務丞」
「は」
「武田の姫を迎える」
それだけで、二人の顔つきが変わる。
権六の親父殿が先に口を開いた。
「武田の、姫にございますか」
「ああ」
勘十郎兄上は頷いた。
「真理姫様だ」
平手中務丞が、静かに続ける。
「それは、ひょっとすると治部家への御輿入れにございますな」
「そうだ。ただし、もう“治部家だけの話”ではありえなくなった」
そこが、この場の芯だった。
勘十郎兄上は、二人の目を順に見て言う。
「真理姫様の輿は、すでに木曾福島城を出ておるとのこと」
権六の親父殿の眉が動く。
「もう、か」
「左様」
平手中務丞が、わずかに目を細めた。
「徳栄軒入道殿、手が早うございますな」
その一言には、感心よりも先に、相手の重みを正しく測る響きがあった。
武田が軽くない。
この婚姻を、単なる姫の移動として扱っていない。
そう読んでいる声だった。
勘十郎兄上は続ける。
「しかも、付き従うは」
そこで一拍置く。
「武田典厩信繁」
権六の親父殿の目が少し細くなる。
「ほう」
「山県三郎兵衛昌景」
今度は平手中務丞の顔が、さらに静かに締まった。
「武だけで済む相手ではございませぬな」
「高坂弾正忠昌信」
そこまで来ると、権六の親父殿がはっきり言った。
「使者というより、武田の面目そのものですな」
「その通りだ。ゆえに、下手な迎えでは呑まれてしまう」
その言葉に、二人とも深く頷いた。
権六の親父殿は、武辺の男だ。
だが、こういう時にただ“槍で押せばよい”とは言わない。
むしろ面子の掛かった出迎えほど、人の格と並びが大事だと分かっている。
平手中務丞は、礼法と取次の男だ。
ただ古いだけではない。
古さを、家の面目として使える男である。
信秀公以来の家中、京との細い糸、朝廷筋への礼。
そういうものを、場へ置ける。
「で」と権六の親父殿。
「それがしらは、どこまで出るので」
「岩村だ」と勘十郎兄上。
「まず岩村城にて、織田家として受ける」
平手中務丞が、すぐにそこを拾う。
「田代へそのまま入れる前に、織田本家が一度受ける。そういう形にございますな」
「ああ」
「よろしゅうございます。武田から見れば、治部家へ直接入るよりも、本家が筋を握っていることが明らかになる」
勘十郎兄上は、そこでようやく少しだけ息を抜いた。
「そうでなければ、治部家だけが武田の姫を抱え込んだようにも見られる」
権六の親父殿が、鼻を鳴らす。
「なるほど。あくまで本家が受け、本家が治部家へ送る、と見せるわけですか」
「左様」
「治部家は立った。されど、まだ本家一門のうち。その筋を、岩村で見せる」
「よき置き方にございます」
平手中務丞が静かに言った。
そこまで説明されれば、二人とももう腹は入った顔だった。
権六の親父殿が、少しだけ身を乗り出す。
「では、何を整えます」
勘十郎兄上は、すでにそれを待っていた。
「まず、迎えの並びだな」
「うむ」
「某が正使」
「はい」
「権六と中務丞が副使」
「は」
「岩村の城中へ入れる前に、城門前でまず一度、織田家としての礼を尽くす」
平手中務丞が、小さく頷く。
「外で一礼。中で一礼。城門前では織田本家の出迎えを示し、城中では御座所へ移る前の礼を整える。そういうことにございましょう」
「そのように」
「よろしゅうございます。門の前で雑に済ませば、姫様を軽く見たことになる。かといって城中だけで済ませれば、武田勢を城へ呑み込んだようにも見える。外と内で礼を分けるのは、筋が立ちます」
こういうところが、平手中務丞だった。
岩村城での出迎えは、ただ頭を下げれば済むものではない。
どこで馬を止めるか。
どこで輿を下ろすか。
姫の御休所をどう見せるか。
典厩以下の宿所をどこへ取るか。
武田方の兵をどこまで入れ、どこからは外へ置くか。
そういう細部が、そのまま家の格になる。
勘十郎兄上が、指を折るように続ける。
「真理姫様の御座所は、岩村城内で最も不足のないところへ」
「当然にございます」と平手中務丞。
「ここを雑にすれば、その時点で負けます」
「典厩信繁以下の宿所もまた、姫に準ずる形で」
「はい」
「権六」
「は」
「そなたには、武田勢の兵の置き場を見てもらいたい」
権六の親父殿は、そこで少しだけ口元を上げた。
「なるほど。向こうがどこまで連れて来ようと、城の息を乱さぬよう見るわけですな」
「その通りです」
「任された」
「中務丞」
「は」
「そなたには、礼の筋と口上を」
平手中務丞は、静かに頷いた。
「典厩殿、山県殿、高坂殿。誰も軽くあしらえる相手ではございませぬ。表の一語で、こちらの格も腹も量られましょう」
「だからこそ、だ」
「承知いたしました。武田を重く扱う。されど、織田が下に立ったようには見せぬ。その間を取るのが役目にございますな」
「その通り」
権六の親父殿が、そこで少し笑った。
「よい役振りですな、勘十郎様」
「さようか。だが権六は兵、中務丞は礼。どちらも織田の面目よ」
「違いない」
勘十郎兄上は、そこでさらに低く続けた。
「ただし」
二人の顔が締まる。
「此度は、武田の姫を迎える場」
「は」
「されど、下手にへりくだるな」
権六の親父殿が、すぐに頷く。
「当然」
平手中務丞もまた静かに言う。
「礼は尽くす。されど、媚びぬ。武田の面目を立てつつ、織田の面目も落とさぬ。そこを違えれば、婚儀そのものへ傷が入りましょう」
そこを違えると、武田に“こちらが押された”と見える。
だが逆に、張りすぎれば婚儀そのものへ傷が入る。
その間を取るのが、今回の一番厄介なところだった。
勘十郎兄上が、最後の芯を置く。
「真理姫様を迎えるのだ」
「は」
「ゆえに、姫を軽く扱う気配は一切見せぬ」
「は」
「ですが、織田家が武田家に呑まれたような顔も、また見せぬ」
権六の親父殿が、低く笑った。
「難しいことを申される」
「難しいことをやる場なのだ」
「それこそ、婚儀の出迎えにございます」
平手中務丞が言った。
「戦場なら、勝ち負けはまだ見えやすい。こういう場では、頭の下げ方一つ、席の置き方一つで、後からいくらでも言われます。だからこそ、先に形を整える」
そこまで来れば、もう十分だった。
権六の親父殿は大きく息を吐く。
「面白い」
「何が」
「戦場でなく、城門前で武田と勝負するか」
「勝負ではあるな」と勘十郎兄上。
「しかも、弓矢を遣わぬより細いところで」
平手中務丞が、そこで珍しく少しだけ笑った。
「だからこそ、こちらも出るのでございましょう」
勘十郎兄上も、わずかに口元を和らげた。
「そうだ。権六や中務丞に出てもらう以上、“本家が本気で迎えている”と武田も読む」
「読ませるためでもある」と権六の親父殿。
「そのように」
そして勘十郎兄上は、きっぱりと言った。
「岩村にて、武田を迎える」
「は」と平手中務丞。
「承知」と権六の親父殿。
「それ以後、田代へは我らが付き従い送り届ける」
「その間、治部家の側が整っておることも前提にございますな」と平手中務丞。
「左様」
そこはもう、田代へ先に走った俺の仕事になる。
勘十郎兄上は最後に、少しだけ声を強めた。
「これは、ただの輿入れの出迎えではない」
「は」
「真理姫様を迎える」
「は」
「同時に、織田家の面目を示すのだ」
それで、場は本当に決まった。
権六の親父殿も。
平手中務丞も。
もう余計な言葉は要らぬ顔をしていた。
武田の姫を迎える。
しかも、付いて来るのは典厩信繁、山県、高坂。
ならばこちらもまた、それに見合う顔と城で受ける。
そういう段だ。
勘十郎兄上が立つ。
二人もそれに続く。
「急ぎ向かうとする」
「うむ」と権六の親父殿。
「承知いたしました」と平手中務丞。
だが、障子際まで来たところで、権六の親父殿がふと足を止めた。
「しかし」
「何だ」と勘十郎兄上。
権六の親父殿が、わずかに苦笑する。
「また、あの治部が台風の目ですな」
平手中務丞も、そこで小さく息を漏らした。
「まことに。あの方は、どうにも大きな事の真ん中へ立たれる」
その声音には、呆れより先に、どこか感心に近い温度があった。
「義元をめぐり」と権六の親父殿。
「義龍をめぐり」
「今度は武田の姫にございますか」と平手中務丞。
「本当に、周囲が落ち着かせぬ男だな」
「落ち着かせぬ、というより」と平手中務丞。
「気がつけば、周囲があの方を中心に事を組み直しているようにも見えます」
勘十郎兄上が、そこで静かに言う。
「半分は周りも巻き込まれておる」
「ほう」と権六の親父殿。
「半分は、あの者自身のせいではあるが」
それには、権六の親父殿も平手中務丞も少しだけ笑った。
「違いない」と権六の親父殿。
「飛び込んだ先で、さらに大きくして戻ってくる」
「しかも今回は、戻るどころか田代で待ち受ける側に回らされております」と平手中務丞。
「それは少々、気の毒でもございますな」
「少々どころではあるまい」と権六の親父殿。
そこまで言うと、三人ともほんの一瞬だけ黙った。
義元。
義龍。
稲葉山。
お市。
治部家。
そして今度は真理姫。
並べれば、たしかに台風の目としか言いようがない。
権六の親父殿が、最後に小さく言った。
「まあ、あの治部が立つなら、周りも立たねばならぬ」
「そのために、今度は我らが岩村に立つのでございましょう」と平手中務丞。
勘十郎兄上が静かに頷く。
「そうだな」
それで、今度こそ三人は廊へ出た。
苦笑はしている。
だが、気は軽くない。
軽くないからこそ、今のような一言が出るのだろう。
またあの治部が台風の目ですな。
本当に周囲が落ち着かせぬ。
そう言いながら、それでも結局は、皆がその渦の縁へ自分の足で立つ。
たぶん、それがこの家の強さなのだと思えた。
♢
田代城へ戻った時、最初に胸へ来たのは、静けさではなく半端さだった。
城は、もう治部家の拠点になると決まっている。
人も入っている。
荷も入り始めている。
だが、だからといって“整っている”とは到底言えなかった。
廊にはまだ運び切れていない長持ちがある。
奥向きも、形だけは出来ても、細々した気配りまでは届いていない。
台所は火が入るたびに動線の粗が見え、宿所に回す部屋も、まだ「使える」と「迎えられる」の間にある。
そこへ、真理姫が来る。
しかも武田典厩信繁、山県昌景、高坂昌信まで付いて来る。
笑うしかない、と一瞬だけ思った。
だが、笑っても城は整わない。
「間に合わせるしかない」
口へ出すと、ようやく腹が据わった。
幸い、人はいる。
しかも、使いどころを違えなければ、かなり強い顔ぶれだ。
俺はまず、城内の者を一気に集めさせた。
十兵衛。
半兵衛。
左近将監。
慶次郎。
助右衛門。
そこへ、奥向きの差配に入るお市と、本家から回ってきた女中衆の顔触れも合わせて確認する。
全員が揃ったところで、俺は前置きを削った。
「真理姫様の輿は、もう動いている」
空気が締まる。
「武田典厩、山県三郎兵衛、高坂弾正が付き従う」
慶次郎が、小さく口笛でも吹きたげな顔をしたが、さすがに吹かなかった。
十兵衛は静かに目を細め、左近将監はすでに面倒の種類を数えている顔、半兵衛は城の中の線を頭で引き始めている。
「つまり」
俺は続ける。
「今日は“引っ越しの途中”では済まぬ」
「ええ」と十兵衛。
「治部家の城として見せねばなりませぬな」
「そうだ」
「では」と左近将監。
「誰がどこを持つか」
その一言で、場が実務へ降りる。
そこがありがたい。
俺は、まず十兵衛を見た。
「十兵衛」
「はい」
「仮家老職を頼む」
十兵衛の目が、わずかに動く。
だが、驚きというほどではない。
むしろ当然来るか、という受け方に近い。
「年長者で、礼儀作法にも最も明るいのはお前だ」
「承知致しました」
「城内の格式、迎えの順、真理姫様および武田方重臣への対し方、下の者どもの所作まで含めて、お前が締めろ」
「お任せを」
そこは、もう迷いがない。
十兵衛を一段上へ置くと、場の空気が自然に整う。
こういう時はやはり強い。
次に左近将監を見る。
「左近将監」
「おう」
「仮副家老職だ」
左近将監が、少しだけ片眉を上げる。
「俺が副か」
「文武両道、しかもこういう土壇場で如才なく動けるのはお前だ」
「ずいぶん買ってくれるじゃないですか」
「買っているから使う」
左近将監は、そこで小さく笑った。
「で、何を持つ」
「十兵衛の下で、迎えの実務全般を回せ」
「うむ」
「使者筋との細かな受け答え、男衆の配置、荷の出し入れ、城門から客間までの流れ。礼が要るが、礼だけでは回らぬところをお前が埋めろ」
「なるほどな」
左近将監は、そこで一度だけ頷いた。
「十兵衛が表の“筋”を立てる。俺はその筋が詰まらんように回す」
「その通りだ」
「任せとけ」
そこも早い。
次に、奥向きへ目を向ける。
お市は、もう半ば覚悟を固めた顔でそこにいる。
本家の女中衆も、さすがに顔つきが違う。
単なる片付けではなく、姫を迎える奥向きだと分かっている。
「お市」
「はい」
「奥は、お願いする」
お市は静かに頷いた。
「承知致しました」
「真理姫様の御座所、女中衆の置き方、衣、湯、香、細々した気配りまで、俺では手が届かぬ」
「ええ」
「織田家の女中も、今はお市の差配に入ってもらう」
「承知しております」
そこへ、年嵩の女中頭格も深く頭を下げた。
「お任せを」
お市がいるなら、奥は強い。
しかも今回は、“正室としての格”と“武家の姫を迎える側”の両方が要る。
それを両立できるのは、この人しかいない。
その次に、半兵衛を見る。
「半兵衛」
「はい」
「そなたは台所だ」
半兵衛は、一瞬だけ目を瞬かせた。
そこは少し可笑しい。
「……台所、にございますか」
「そうだ」
「某に」
「お前、今、少しだけ意外そうな顔をしたな」
「少しだけ」
「台所を甘く見るな」
俺は、少しだけ口調を強めた。
「姫が入る。重臣が入る。随行が入る。湯も、膳も、茶も、水も、全部が滞れば城全体が止まる」
半兵衛の目が、そこで静かに変わった。
「なるほど」
「台所等の采配は、お前が一番向いている」
「なぜ、そう思われます」
「お前が常に全体の流れを見るからだ」
半兵衛は、黙って先を待つ。
「どこで火を入れ、どこで詰まり、どこで不足し、どこへ人を回せば城全体が持つか。お前は、そういう“見えぬ流れ”を一番よく見る」
そこまで言うと、半兵衛は小さく頷いた。
「承知致しました」
「膳の順、湯の順、裏方の人足の割り振り、食材と水の流れまで、お前が握れ」
「お任せを」
「台所は戦場ではない。だが、城が一番正直に乱れる場所だ」
半兵衛が、ほんの少しだけ口元を和らげた。
「治部殿は、そういうところで時々ひどく正しい」
「時々か」
「台所に関しては、です」
そこは、今は突っ込まないでおいた。
次に、慶次郎と助右衛門を見る。
この二人には、やはり分かりやすい役の方がいい。
だが、分かりやすいだけで軽く見せてはならない。
「慶次郎」
「おう」
「助右衛門」
「は」
「力仕事を全部持て」
慶次郎が、にやりとした。
「待ってました」
助右衛門も、短く頷く。
「よい」
「長持ち、几帳、畳の替え、屏風、寝所まわり、武田方宿所への荷入れ、人足の締め、重いものの移し替え。力と勢いが要るところは、お前たちが叩き込め」
「分かりやすくていいな」と慶次郎。
「ただの力仕事ではないぞ」と俺。
「うむ」と助右衛門。
「雑に動けば、城中が乱れる」
「そうだ」
慶次郎も、そこで少しだけ真顔になる。
「どこまで壊していい」
「壊すな」
「ですよね」
「だが、遅い奴は引っ張れ」
「それは得意だ」
「人足が足りぬところは、そこらの若いのを掴まえてでも回せ」
「任せろ」と慶次郎。
「持ち上げるだけなら、いくらでもやる」と助右衛門。
そこまでで、方針は立った。
十兵衛が表の格式。
左近将監が実務の詰まり。
お市と女中衆が奥。
半兵衛が台所と裏方全体。
慶次郎と助右衛門が力仕事と人足の押し込み。
あとは、これを一つの城として噛み合わせるだけだ。
俺は全員を見回した。
「よいか」
皆の目がこちらへ集まる。
「これは、ただの片付けではない」
「はい」と十兵衛。
「真理姫様を迎える」
「はい」とお市。
「同時に、武田典厩、山県、高坂に“治部家はもう立っている”と見せる場でもある」
左近将監が、そこで低く笑う。
「結局、また面倒な見栄の張り合いですな」
「そうだ」
「嫌いではない」
「知っている」
半兵衛が、静かに補う。
「つまり、城中のどこ一つ“まだ途中です”という顔を見せるな、ということですな」
「その通りだ」
慶次郎が、腕を鳴らすように肩を回した。
「じゃあ、途中でも完成した顔にするしかねえな」
「そういうことだ」と俺。
助右衛門が短く言う。
「時間は」
「多くない」
「十分だ」
そこが、この男は強い。
俺は最後に言った。
「誰か一人が良くても駄目だ。城全体で迎える」
「はい」と十兵衛。
「承知致しました」と半兵衛。
「お任せを」とお市。
「任せとけ」と左近将監。
「暴れすぎぬ程度にやる」と慶次郎。
「きっちり通す」と助右衛門。
それで、ようやく本当に城が動き始めた。
十兵衛はすぐに下の者を呼び、立つ位置から口の利き方まで切り始める。
左近将監は廊の詰まりを見て、その場で荷の向きを変えさせる。
お市は女中頭を呼び寄せ、奥向きの御座所を見に歩き出す。
半兵衛は台所へ向かいながら、途中でもう水場と薪の量を聞いている。
慶次郎と助右衛門は、人足を半ば脅し半ば担ぎ上げるようにして長持ちの山へ突っ込んでいった。
その動きを見て、俺はようやく胸の内で思った。
間に合うか、ではない。
間に合わせるしかない。
そして、この顔ぶれなら、たぶんやれる。
武田の姫を迎える。
それも、まだ引っ越しの匂いが残る城で。
普通なら無理筋だ。
だが無理筋でも、こうして役を噛ませていけば城は立つ。
治部家が立つとは、結局こういうことなのかもしれなかった。
人を役へ落とし、役を一つの家へ束ねる。
それが出来るなら、城は途中でも城になる。
俺は、そこで初めて少しだけ声を張った。
「よし、動け!」
あちこちから「はっ!」が返る。
その響きで、田代城はようやく“引っ越しの途中の城”から、“姫を迎える城”へ変わり始めた。
♢
奥向きは、表よりも静かで、だからこそ誤魔化しが利かない。
どれほど城門で立派に迎えても、姫が奥へ入った途端に寝所が寒い、湯が遅い、女中の手がばらばら、では、その時点で城の底が見える。
お市は、そのことをよく知っていた。
だから、田代へ入るなり、まず見るべきところを順に見た。
真理姫の御座所。
寝所の設え。
湯殿への動線。
女中衆の控え。
衣装を掛ける場所。
香の匂いが強すぎぬか。
障子の立て付けに無作法な音は出ぬか。
そういう細かなところを、一つずつ確かめていく。
「その几帳は、もう少し奥へ」
「はい」
「寝所の灯りは、明るすぎぬように。けれど暗くもなさらぬよう」
「承知致しました」
「湯を使う順は、真理姫様が先です。そのあと付き添いの女中衆。こちらの者が慌てて先に使うことのないよう」
「はい」
本家から付いてきた女中頭も、田代の者たちも、お市の声には素直に従った。
強く怒鳴るわけではない。
だが、どこを外してはならぬかが、言葉の選び方だけで自然に分かる。
一通り見回ったところで、ようやく俺が奥向きへ顔を出した。
「入ってもよいか」
お市がこちらを振り向く。
「ええ」
周囲の女中衆が、すぐに少し距離を取る。
完全に下がるわけではない。
だが、夫婦の間で交わされる短い相談くらいは妨げぬ距離だ。
俺は、部屋の中を見回してから言った。
「さすがに早いな」
「早くせねば間に合いませんもの」
「違いない」
そこまでは軽い。
だが、今ここへ来たのはそれだけではなかった。
お市は、すぐにそれを察したらしい。
「何か、ございましたか」
「いや」
俺は少しだけ言葉を探した。
「真理姫様のことを、もう少しちゃんと伝えておいた方がよいと思ってな」
お市の目が、静かにこちらへ向く。
「はい」
俺は、廊下の向こうに人がいないのを一度だけ確かめてから、低く言った。
「真理姫様は、たしか五年ほど前に木曾左馬頭殿――義昌殿に輿入れなさっている」
お市の目が、そこでわずかに動く。
「……そうでしたか」
「その時、数えで六つだったとか」
「!」
お市の息が、ほんの少しだけ止まる。
「戦国の世においても、お若いですね」
「若い」
そこは、はっきり言う。
「木曾は信濃でも屈指の名族だ。徳栄軒殿も、一門へ取り込むのに急がれたのであろう」
お市は、少しだけ目を伏せた。
「六つで」
「うむ」
「だが、子が生まれたとは聞かぬ」
お市は、そこで小さく頷いた。
「今でまだ数えで十一ですから、無理なものは無理でしょう」
「そうだ」
そこは、理屈では分かり切っている。
だが、分かり切っているからこそ、その“子がない”を離縁の理の一つにされると、姫の側にはどうしても寒いものが残る。
俺は続けた。
「しかも、唐突に離縁させられ」
「ええ」
「真理姫様から見れば、隣国信濃のさらにまた遠国の尾張美濃へ嫁ぐことになった」
お市は、そこでようやく息を吐いた。
「……そう、ですね」
木曾から見れば、尾張美濃は地続きとはいえ、幼くして入った姫にとってはほとんど別の世界だ。
しかも、一度入った家を離れ、また別の家へ入る。
ただの婚儀ではない。
幼い身で、二度目の“知らぬ家へ行く”を強いられる。
お市が、静かに言った。
「慰めて差し上げる、いえ」
少しだけ言い直す。
「御心に寄り添うことが必要ですね」
その言い方で十分だった。
真理姫が可哀そうだから、ただ甘やかす。
そういう話ではない。
姫としての格を保ったまま、その心へどう触るか。
お市が言うと、そこが自然に見える。
「頼む」
俺は、そこでまっすぐ言った。
「それは多分、お市にしかできぬ」
お市は、少しだけこちらを見た。
その目は柔らかいが、軽くはない。
「私にしか」
「うむ。上総介兄上でも、勘十郎兄上でも、俺でもない」
そこは、はっきりしていた。
「姫として嫁いだ者」
「……はい」
「しかも、家の筋の中で嫁ぎ、家の利も知り、そのうえで自分の足で立っている者」
お市は、その言葉を黙って受けた。
受けたあとで、ゆっくりと言う。
「治部殿」
「何だ」
「そのように申されると、断れませぬ」
「断るとは思っておらぬ」
「そういうところです」
少しだけ呆れたように言う。
だが、その声はもう半ば引き受けている。
「ですが」
お市は、視線を少しだけ部屋の奥へやった。
「たしかに、幼い頃に一度木曾へ入り、今またこちらへ来る姫に、最初に必要なのは“ここで泣いてよい”でも“気丈であれ”でもないでしょう」
「うむ」
「まずは、ここで無理に強くならなくてよい、と分かることかもしれませぬ」
それが、お市らしい言い方だった。
“慰める”ではない。
“無理に強くならなくてよいと分かる”。
その方が、ずっと深い。
俺は、少しだけ息を吐いた。
「やはり、お市に頼んで正解だった」
「そうでもありませぬ」
「何が」
「治部殿が、そのように真理姫様の年やこれまでを気に掛けておられたこと自体、悪くないと思いました」
そこは、不意を突かれた。
「そうか」
「ええ」
お市は、静かに微笑む。
「殿方は時に、政の利だけで人を見てしまいます」
「耳が痛いな」
「ですが治部殿は、真理姫様が何歳で木曾へ行き、今いくつで、どのくらいの距離を越えてまた来るのか、そこを見ておられた」
そこまで言われると、たしかに少しだけ救われる気がした。
俺は、どうしても武田の手を読む方へ頭が寄る。
政。
軍略。
家の利。
もちろんそれも要る。
だが、実際に来るのは十一の姫だ。
そこを忘れたくはなかった。
お市は続ける。
「ならば、私もきちんと迎えます」
「頼む」
「ええ」
その“ええ”は、もう迷いがなかった。
「真理姫様が来られたら、まずは姫としての格を崩さぬように」
「うむ」
「その上で、ここが二度目の“追われる場所”ではないと、少しずつ分かって頂けるように致します」
そこまで言えるなら、もう十分だった。
俺は、ようやく少しだけ肩の力を抜いた。
「助かる」
「その代わり」
お市が、少しだけ真面目な顔に戻る。
「治部殿も、真理姫様を“武田の札”としてばかりご覧にならぬよう」
そこは、きちんと刺さる。
「……ああ」
「武田の思惑は、兄上方が見ておられます。治部殿は治部殿として、迎えた姫をどう置くか、そちらも見てくださいませ」
「承知した」
それで、ようやく本当に話が落ち着いた。
奥向きの外では、まだ慶次郎や助右衛門の怒鳴り声が小さく響いている。
半兵衛が台所で水の数を数え、十兵衛が表の礼を締め、左近将監が廊下の荷を動かしている頃だろう。
城は、受け入れのために動いている。
その中で、お市は奥を整え、真理姫を迎える覚悟も定めた。
それなら、こちらももう迷っている暇はない。
俺は一礼した。
「では、表へ戻る」
「ええ」
「お市」
「はい」
「頼んだ」
お市は静かに頷いた。
「お任せくださいませ」
その顔を見ていると、真理姫が最初に触れるべき相手がこの人でよかったと、心底思えた。
♢
輿は、揺れ方にも性格があるのだと、真理姫は知っていた。
木曾へ入った時の揺れ。
今、そこを離れていく揺れ。
同じように見えても、胸の内に落ちる重さは少し違う。
数え六つで木曾へ入った時、真理姫はまだ「嫁ぐ」ということの全部を分かってはいなかった。
けれど、周りの大人たちが丁寧にしてくれること。
自分が武田の姫として、大事な縁を背負っていること。
そのくらいは、幼いなりに感じていた。
今は違う。
数えで十一。
それでも、まだ子といえば子だ。
だが、何も分からぬままではいられない年にもなっている。
木曾を離れる。
しかも今度は、隣国信濃の家へ入るのではない。
尾張美濃。
山を越え、国を越え、さらに遠いところへ行く。
それがどういうことか、ぼんやりとではあっても、もう分かってしまう。
輿の中で、真理姫はそっと膝の上に手を重ねた。
泣いてはいなかった。
泣けば済む話ではないことくらい、もう知っている。
だが、胸の内が静かであるわけでもない。
木曾での日々が長かったわけではない。
それでも、見知った山の色があり、空気があり、女房たちの顔があり、道の曲がり方にも覚えが出来ていた。
そういうものを後ろへ置いていく。
しかも、その理由は自分では決められぬ。
離縁。
再びの輿入れ。
そういう言葉を、周りの大人たちは露骨には口にしない。
だが、言われずとも分かるところまで、真理姫はもう来ていた。
ただ、それでも。
輿の外にいる顔ぶれを思うと、少しだけ胸の内の寒さが和らぐ。
武田典厩信繁。
山県三郎兵衛昌景。
高坂弾正忠昌信。
この三人が付いてくれている。
そのことの意味は、真理姫にもよく分かった。
典厩信繁は、花も実もある武将だと、幼い頃から聞かされてきた。
ただ強いだけではない。
ただ美しいだけでもない。
戦場で働き、家中でも重く見られ、それでいて人当たりも軽くなりすぎぬ。
しかも真理姫にとっては、実の叔父でもある。
叔父上が付いていてくださる。
それだけで、どれほど心強いか。
言葉にするのは難しかった。
山県昌景も、高坂昌信も同じだった。
二人とものちに武田四名臣に名を連ねるほどの名将だ。
真理姫ほどの年でも、そのくらいは耳に入る。
山県は猛るが冷静で。
高坂は静かに鋭い。
どちらも、父信玄が深く信を置く男たちだ。
そういう男たちが、ただ命だから付いてきているわけではないことも、なんとなく分かる。
真理姫を無下に扱わぬ。
幼い姫だからと、荷の一つのようにはせぬ。
そういう気配が、道中のほんの小さなところからも伝わってくる。
輿の進みが少し荒れた時、すぐ外から「ゆるめよ」と声が飛ぶ。
休む時も、風の向きや日差しの強さまで気にしているらしい。
女房たちへの指示も、雑ではない。
そういう一つ一つが、真理姫にはありがたかった。
自分は、ただ切り札のように送り出されるのではない。
少なくとも、この道中では、武田の姫としてきちんと扱われている。
それだけでも、かなり違う。
輿の簾の向こうで、馬の気配が近くなる。
真理姫は、その音でだいたい誰か分かるようになっていた。
「姫様」
低く、しかし柔らかな声が掛かる。
典厩信繁だった。
「はい」
「揺れはきつうございませぬか」
「だいじょうぶにございます」
そう答えると、外でわずかに気配が和らいだ。
典厩信繁は、無理に励まさない。
泣くなとも言わない。
強くあれとも言わない。
ただ、今つらくないか、寒くないか、疲れていないかを聞く。
その聞き方が、真理姫にはありがたかった。
「そうであれば、よろしゅうございます」
それだけで引く。
だが、それだけだからこそ、かえって心に残る。
山県昌景は、声を掛けるというより、道を整える方で優しかった。
石の多いところでは自然と進みをゆるめる。
馬の足音が荒れぬよう気を配る。
いかにも武辺の男らしく不器用そうに見えて、やることはひどく誠実だ。
高坂昌信は、その二人の間を埋めるような気遣いを見せた。
言葉は少ない。
だが、女房衆が詰まらぬようにし、休みの刻を計り、姫の輿のまわりに落ち着きを作る。
どこか静かな水のような男だった。
真理姫は、そういう三人の気配を感じながら思う。
ありがたい。
怖くないわけではない。
尾張美濃は遠い。
二度目の輿入れなのだと思うと、胸の奥が冷えることもある。
けれど、叔父上と、父が信を置く二人の名将が共にいてくれる。
それは、たぶん真理姫に対する武田家の誠意でもあるのだろう。
自分が厄介払いのように出されるのではなく、
ちゃんと大事な姫として、重い縁を背負って送り出されている。
そう思えるだけで、心の持ちようは少し変わる。
輿の中で、真理姫は小さく息を吐いた。
「姫様」
今度は女房が、そっと声を掛ける。
「はい」
「少し先でお休みになります」
「そうですか」
「典厩様が、そのように」
やはり叔父上だ。
きっと真理姫の顔色を見て決めたのだろう。
言葉にせずとも、そういうところを拾ってくれる。
真理姫は、膝の上の手を少しだけ握り直した。
木曾を離れた。
また遠くへ行く。
それは寂しい。
不安もある。
たぶん、尾張美濃へ着くまでに、何度も胸の内は揺れる。
けれど今は、まだ一人ではない。
叔父上がいて。
山県がいて。
高坂がいて。
武田の名ある者たちが、自分を雑にせず、誠実に共を務めてくれている。
だから真理姫は、幼いなりに思った。
せめて、うつむいてばかりではいまい。
武田の姫として送られるなら、それに見合うように座っていよう。
尾張美濃へ着くまでの道を、泣き崩れた顔で埋めるのではなく、
叔父上たちが恥じぬ顔で進もう。
そう思えたのは、たぶんこの三人が付いてくれているからだった。
輿が少しだけ速度をゆるめる。
休みの場所が近いのだろう。
その時、簾の向こうからまた典厩信繁の声がした。
「姫様」
「はい」
「少し休みましょう」
「はい」
短いやり取りだった。
だが、その声を聞くだけで、真理姫は少しだけ背筋を伸ばせた。
まだ怖い。
まだ寂しい。
それでも、ありがとうございます、と胸の内でそっと言う。
叔父上。
山県殿。
高坂殿。
この三人が、自分と一緒にこの道を歩いてくれていることへ。
それは、確かな感謝だった。
♢
輿の中で揺れていると、身体の内側まで揺れているような気がする時がある。
ただ道が悪いからではない。
胸の奥に、まだ固まり切らぬものがあるからだと、真理姫は幼いなりに分かっていた。
木曾へ入ったのは、数え六つの頃だった。
その時はまだ、本当に何も分からなかった。
嫁ぐ。
離れる。
家のため。
そういう言葉は耳に入っても、その重みまでは届かない。
だが今は違う。
数え十一。
まだ子といえば子だ。
けれど、何も知らぬふりでは済まぬ程度には、もう色々なことが分かる。
女房たちの囁き。
年嵩の者の目配せ。
言葉にされぬ侮り。
そして、じわじわと胸へ沁みてくる恥。
初潮が来たのも、つい最近だ。
それまでは、本当にまだ子だった。
自分でもそう思っていたし、身体もそうだった。
それなのに。
「石女」
その言葉だけは、妙にはっきり覚えている。
誰が最初に言ったのか、今では分からない。
女房の口だったか。
木曾家中の奥向きだったか。
あるいは、もっと遠くの侍女の口から洩れたのか。
ただ、その響きだけは、冷たい水のように胸へ入った。
石女。
子がない女。
役に立たぬ女。
けれど真理姫は、まだ最近ようやく初潮を見たばかりなのだ。
身体そのものが、やっとその段へ入ったくらいなのに、もう“産めぬ女”のように言われる。
おかしい。
ひどい。
そんなことは、幼い真理姫にも分かった。
しかも、木曾左馬頭義昌はすでに側室を数名抱えていた。
夜を共にすることも、真理姫とはほとんどない。
少なくとも真理姫の記憶にある限り、夫として向き合われたと言えるほどの時はなかった。
それなのに、子がないのは真理姫のせいになる。
それが、いちばん痛かった。
無理なものは無理だと、誰か一人でも言ってくれればよかった。
まだ幼いのだと。
夜を共にしないのに、子が出来るはずもないのだと。
けれど、そうはならなかった。
誰も真正面からは言わぬ。
だが、空気だけがそうなる。
だから真理姫は、木曾を離れることになった今も、胸のどこかでまだ傷ついていた。
離縁。
再びの輿入れ。
それもまた痛い。
けれど、その前からもう、真理姫の胸には違う痛みがあったのだ。
自分は、まだ子であったのに、役に立たぬ女のように見られた。
そのことが、何よりも寒かった。
だから今、尾張美濃へ向かう輿の中で、不安と同じくらい別の怖さがあった。
今度は、どう見られるのだろう。
また同じように、見られるのか。
子がない。
若すぎる。
役に立たぬ。
そういう目で見られるのだろうか。
まだ十一だ。
それでも、もう“姫”としては幼いだけでは済まされぬ。
その曖昧な年頃にいることが、真理姫には苦しかった。
だが、その苦しさを、道中で少しだけ和らげてくれるものがあった。
典厩信繁。
山県昌景。
高坂昌信。
この三人が、真理姫を雑に扱わない。
それは、ただ丁寧にしてくれるというだけではない。
真理姫の年を、身体を、置かれている事情を、ちゃんと分かった上で接してくれている気配がある。
そこが、ありがたかった。
典厩信繁は、叔父だ。
花も実もある武将として名高いが、真理姫にはまず“叔父上”だった。
その叔父が、今は何も無理に強くあれとは言わない。
泣くなとも言わない。
ただ揺れはつらくないか、寒くないか、疲れていないかを聞く。
その聞き方には、真理姫が“まだ幼い”ことを恥とせぬ温度があった。
山県昌景は、もっと不器用だ。
不器用だが、不器用な分だけ誠実だった。
道が荒れれば進みをゆるめる。
休む場所は風の当たらぬところを選ぶ。
女房たちが慌てぬようにする。
言葉ではなく、やることで“姫を雑にしていない”と伝わる。
高坂昌信は、その二人の間を埋めるように、言葉で真理姫の心を支えた。
尾張美濃は遠い。
だが軽んじる家ではない。
相手である織田治部大輔信繁殿は、海道一の弓取りと言われた今川治部大輔殿を討って桶狭間で名を上げ、一色左京大夫義龍殿を討ち、美貌で音に聞こえた織田家の姫であるお市殿を娶り、いまもっとも話題の人物だ。
しかも、織田上総介信長殿を助けるため、桶狭間の直前に自ら元服を願い出て、典厩信繁にあやかって信繁と名乗った――そんな話まで、如才なく聞かせてくれる。
そこへ昌景が、不器用ながらも頷いて言う。
「奥を大事にする者だと聞いております」
その一言が、妙に胸へ残る。
奥を大事にする。
真理姫にとって、その言葉は思っていた以上に重かった。
木曾で、真理姫は“妻”としてきちんと見られたことがどれほどあっただろう。
側室たちがいる中で、夜もほとんど共にせず。
それでいて石女と囁かれる。
ならば、次に行く先でいちばん怖いのは、また同じように“妻でありながら妻ではない”置かれ方をされることだった。
だからこそ、
奥を大事にする者
という言葉に、真理姫の胸は少しだけ縋るように動いた。
本当にそうなら。
少なくとも、ただ役に立つか立たぬかだけで置かれるわけではないなら。
その違いは大きい。
典厩信繁は、真理姫の表情のわずかな変化を見たのだろう。
だが何も追わなかった。
追わず、ただ静かに言う。
「姫様」
「はい」
「尾張美濃へ着かれても、すぐ何もかもを背負わねばならぬわけではございませぬ」
その一言に、真理姫はほんの少しだけ目を見開いた。
すぐ何もかもを背負わねばならぬわけではない。
その言葉を、これまで誰かからきちんと受けたことがあっただろうか。
少なくとも木曾では、あまりなかった気がする。
嫁いだのだから。
武田の姫なのだから。
子をなさねば。
役に立たねば。
そういう“ねばならぬ”ばかりが、いつも先に来た。
けれど叔父は、違うことを言う。
高坂昌信も、静かに添えた。
「まずは、無事に着かれることです」
昌景も短く言う。
「急ぐ話ではない」
その三つの言葉が、真理姫にはありがたかった。
たしかに、自分はまた嫁ぐ。
しかも遠い。
しかも今度は、武田と織田の家の思惑まで背にある。
それは分かっている。
けれど、着いたその日から“役に立て”“子をなせ”“正しく座れ”とだけ見られるのではないかという怖さに、この三人は違う言葉を置いてくれた。
急ぐ話ではない。
まずは無事に着くこと。
何もかもをすぐ背負わねばならぬわけではない。
真理姫は、膝の上の手をそっと握り直した。
胸の傷が消えるわけではない。
石女と呼ばれた痛みも、木曾での冷たさも、そう簡単には消えない。
けれど今は、その傷をむりに隠さねばならぬ空気ではない。
少なくとも、この道中では違う。
それだけで、輿の揺れ方も少し違って感じられた。
真理姫は小さく頭を下げた。
「ありがとうございます」
典厩信繁は、いつものように大仰には返さない。
「はい」
ただそれだけだった。
だが、その短さが逆にありがたい。
昌景は、不器用に目を逸らしながら一つ頷く。
昌信は、ごくわずかに笑みを湛える。
この三人が付いてくれていてよかった。
真理姫は、心からそう思った。
木曾を離れる痛みはある。
尾張美濃へ行く怖さもある。
けれど、武田の姫として、こうして丁寧に送り出してくれる人たちがいる。
ならば自分も、泣き崩れてばかりではいまい。
傷ついていることを抱えたままでも、せめて顔は上げて行こう。
そう思えた。
♢
山の気配が、少しずつ変わってきていた。
木曾を離れてから続いた冷えた空気の中にも、どこか美濃へ入る手前らしい湿りが混じる。
道はまだ険しい。
だが、ただの山道ではない。
もうこの先には、織田の城がある。
岩村城。
そこでまず一度、織田家は真理姫の輿を受けるはずだった。
典厩信繁は、馬上で前を見たまま言った。
「そろそろですな」
山県昌景が短く応じる。
「ええ」
高坂昌信は、少しだけ周囲を見回してから静かに言った。
「道そのものは、まだ迎えの色が濃く出るところまでは行っておりませぬが、先の気配は変わっております」
典厩信繁が、わずかに口元を動かす。
「さすがに、木曾福島からの出立を聞いて、慌てて整えたか」
「慌てて整えたとしても、整えるべきところを外しておらねば、それで十分にございます」
昌景が鼻を鳴らした。
「逆に、取り繕いだけが見えれば浅うござる」
「左様。さて、織田はどう迎えますかな」
その問いは、誰に向けたともつかぬものだった。
だが、三人ともそれぞれに答えを持っている顔をしていた。
最初に口を開いたのは昌景だった。
「治部家だけでは受けぬでしょう」
「うむ。そこは間違いあるまい」
昌景は続ける。
「真理姫様が行かれる先は治部家だ。だが、付き従うのが我らである以上、織田本家が顔を出さねば面目が立たぬ」
「まことに。むしろ、そこで本家が出ぬなら、治部家を浮かせて見せることになります」
典厩信繁が、そこで小さく頷いた。
「ならば、まず国境近くで本家が受ける」
「ええ。その上で、田代へ送る」
「筋としては、そうでございましょう」
しばし、馬の足音だけが続いた。
やがて、典厩信繁がぽつりと言う。
「織田上総介は、どう出ると思う」
昌信がすぐ答える。
「ご本人が出るかは微妙にございます」
「ほう」
「真理姫様の輿入れを、一門の婚儀として重く扱うなら、家中の重臣に名代を立てるのが自然」
「たしかに。しかも、その方が“本家が預かる”形も見せやすい」
昌景も頷いた。
「上総介その人が動けば、逆に大きすぎる」
「ええ。だが、迎える重臣を軽くすれば、こちらがそれを量る。そこも織田は分かっておりましょう」
そこまで聞いて、典厩信繁は少しだけ笑った。
「では、誰が来る」
昌信は少し考えた。
「武辺を一人は出すでしょう」
「柴田権六あたりか」
昌景が言うと、昌信は頷いた。
「ありえます。勘十郎殿の側に近く、武辺としても重い。武田の姫を迎える場に、武の顔を置くなら不足はございませぬ」
「もう一人は」
典厩信繁が促す。
昌信は、そこで少しだけ目を細めた。
「礼法と取次を心得た者。平手中務丞か、林佐渡守。あるいは若手実務を見せるなら丹羽五郎左あたりもありましょう」
「幅があるな」
昌景が言う。
「幅があって当然にございます。織田は速い。だが、古い家中を捨てたわけでもない。武辺だけで押すか、礼を置くか、実務を置くかで、こちらへの見せ方が変わります」
典厩信繁は、軽く頷いた。
「柴田に、平手か林。あるいは丹羽。なるほどな」
「ただし」と昌信。
「何だ」
「治部大輔殿は、先に田代か、あるいは岩村の奥で整えに回っている可能性が高いでしょうな」
その名が出ると、三人の間に少しだけ違う種類の沈黙が落ちた。
治部大輔信繁。
いまの尾張美濃で、もっとも話題に上る若武者の一人。
桶狭間。
墨俣。
義龍。
美濃取り。
そして、お市を娶り治部家を立てた男。
典厩信繁が、どこか親しみのにじむ声音で言った。
「妙な縁だな」
昌景が横目で見る。
「何がでござる」
「向こうの“信繁”よ」
「典厩様にあやかった、という話にございますな」
「そうだ」
典厩信繁は、喉で小さく笑った。
「織田上総介を助けるため、桶狭間の直前に元服を願い出て、この名を望んだとか」
昌景が短く言う。
「変わった若造だ」
「変わっておる。だが、その変わり方がただの軽薄ではないのであろう」
昌信が、そこをきれいに継いだ。
「花もあれば実もある、と。そういう評に育ちつつあります」
典厩信繁は何も言わず、少しだけ前を見た。
花も実もある。
その評は、本来は自分に向けられてきたものでもあった。
だが、そこへ自分の名を望んだ若武者が、今度は同じような形で話題になっている。
それは、悪い気はしない。
むしろ、少し面白い。
昌景が、いかにも昌景らしく言った。
「戦で立つ。家でも立つ。女も得る」
「おい」
「言い方が雑ですな」
昌信も少し笑う。
「だが、外れてはおるまい」
昌景は真顔のままだ。
「お市殿を娶り、なお奥を大事にすると聞く」
「そこは大きい。真理姫様にとっても」
典厩信繁が、そこでようやく静かに言った。
「少なくとも、姫をただの外交の札とだけ見る男ではあるまい」
そこは、道中での真理姫の様子を見てきた者の声だった。
数え十一。
初潮もようやく来たばかり。
木曾では十分に妻として扱われもせず、それでいて石女とまで言われた。
その傷を、典厩信繁は知っている。
昌景も、昌信も、詳しい言葉にはせずとも察している。
だからこそ、この先で迎える男がどういう男かは、ただの興味ではなく重みのある話だった。
昌信が、やわらかく言う。
「治部大輔殿は、周りを巻き込む男のようですが」
昌景が低く笑う。
「かなりな」
「ですが、周りを巻き込むことと、雑に扱うことは別にございます。お市殿との仲も良好と聞きますし、少なくとも奥を荒らして歩く類ではない」
典厩信繁が小さく頷く。
「なら、よい」
その“よい”は短いが、かなり深かった。
真理姫の行く先として。
武田の姫を預ける先として。
そのくらいの重さを含んだ声だった。
やがて、先行の者が戻ってきた。
「典厩様」
「何だ」
「岩村城側、迎えの用意あり」
三人の目が、わずかに変わる。
「顔ぶれは」
昌信が尋ねた。
「正使は、織田勘十郎殿」
そこで、三人の間に短い沈黙が落ちた。
典厩信繁が、ほんの少しだけ眉を上げる。
「勘十郎殿が出るか」
昌景も目を細めた。
「そこまで重く見るか」
昌信は、すぐに言葉を継がなかった。
読みが外れたからではない。
勘十郎信勝という名の意味を、改めて量っている顔だった。
「副使は」と典厩信繁。
「柴田権六殿、平手中務丞殿にございます」
そこで、昌信が静かに息を吐いた。
「なるほど」
昌景が頷く。
「武辺に柴田。礼に平手」
「そして正使に弟御である勘十郎殿」
昌信の声は、先ほどより少し深くなっていた。
「これは、こちらを軽く見ておりませぬ」
典厩信繁は、しばらく前を見た。
勘十郎信勝。
信長の弟。
一時は織田家中を割りかねなかった人物。
だが今は、信長と和解し、本家次席として立つ男。
その勘十郎が正使として岩村へ出る。
これは、単なる重臣の名代ではない。
織田本家が、兄弟の修復後の形をそのまま武田へ見せている。
「なるほどな」
典厩信繁が、低く言った。
「織田は、治部家だけでなく、本家の筋を見せに来たか」
「はい」
昌信が答える。
「しかも、勘十郎殿を正面に立てることで、織田家中の内が整っていることも見せている。柴田殿で武を置き、平手殿で礼を置く。かなり丁寧な返しにございます」
昌景が鼻を鳴らす。
「丹羽あたりかと思ったが」
「丹羽殿なら実務の顔になります。平手殿なら、礼と古い家中の顔になる」
昌信は静かに言った。
「武田の姫を迎えるなら、今回はこちらの方が重い」
典厩信繁が頷いた。
「そうだな」
真理姫の輿へ、典厩信繁は一度だけ目をやった。
この先でまた、新しい家へ入る。
だが、国境での最初の迎えは見苦しいものにはならぬらしい。
それどころか、こちらが思っていたよりも一段重い。
叔父としては、少しだけ気が軽くなる。
「よい返しだ」
典厩信繁は言った。
「武田の面目も、織田の筋も、どちらも立てておる」
昌信も頷く。
「はい。こちらが典厩様、山県殿、高坂を出したことへの返答として、不足はございませぬ」
昌景が、わずかに肩を動かした。
「ならば、こちらも受けるまで」
典厩信繁は、静かに息を吐いた。
「参ろう」
「は」
「真理姫様を、織田の城へ送る」
三人の馬が、ほぼ同じ歩調で前へ出た。
岩村城は、もう近い。