織田家の嫡子~藤左衛門家の特異点   作:デトロ!開けろイト市警だ!

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022甲斐の真理姫

岩村城は、冬の光の中でいつもより少しだけ硬く見えた。

 

城そのものが変わるわけではない。

石も土も、昨日と同じだ。

だが、迎える側の心持ちひとつで、城の顔つきというものは不思議と変わる。

 

城門前には、すでに並びが整っていた。

 

正使は勘十郎兄上。

その左右に、柴田権六と平手中務丞。

さらに後ろへ、礼を乱さぬ程度に人を絞った織田方の列が続く。

多すぎれば威圧になる。

少なすぎれば軽く見える。

その間を、勘十郎兄上はきちんと取っていた。

 

権六は、立っているだけで兵の芯になる男だ。

中務丞は、立っているだけで場に古い礼の重みが通る男だった。

そこへ勘十郎兄上が正使として立てば、織田本家がこの婚儀を一門の筋として受けていることは、もう形だけで十分に伝わる。

 

城門前の空気は、静かだった。

だが、その静けさは弛んだものではない。

人の息遣いも、馬の鼻息も、どれも少しだけ張っている。

 

やがて、先触れが駆け戻った。

 

「参ります」

 

短いその一言で、場の張りがさらに一段上がる。

 

武田の列は、遠目にも整っていた。

 

先手の乱れがない。

輿のまわりに無用なざわめきもない。

どこが主で、どこが従かが、遠くからでも分かる進み方だ。

 

勘十郎兄上は、わずかに目を細めた。

 

「綺麗だな」

 

中務丞が、小さく応じる。

 

「ええ。こちらを測るだけでなく、向こうもまた自らの面目を見せに来ております」

 

権六は、鼻で息を鳴らすだけだった。

だが、もう十分に分かっている顔だ。

 

列が近づく。

 

真理姫の輿。

その少し前と脇に、典厩信繁、飯富昌景、高坂昌信。

名だけでなく、実際に姿を見てもやはり軽くない。

 

典厩信繁は、華がある。

だが、それだけではない。

花も実もある、と言われる所以が、馬上の姿だけでもよく分かる。

飯富昌景は、押し出しの強い武辺の気が濃い。

高坂昌信は、それを静かに締めるような冷えた整い方をしていた。

 

あの三人が、武田の姫の輿に付いてくる。

 

それだけで、この婚儀がただの女の行き来ではないことが、嫌でも見える。

 

列が止まり、所定の距離で互いに馬を下りる。

 

ここで早すぎても遅すぎても、すべてが崩れる。

だが両方とも崩さない。

そのあたりが、もう家の力だ。

 

最初に一歩進んだのは勘十郎兄上だった。

 

「織田勘十郎信勝にございます」

その声は、高すぎず、低すぎず、よく通った。

「此度は、甲斐武田家より真理姫様をお運び下さり、まことに重く受けております」

 

礼は尽くす。

だが、言葉の芯が沈みすぎない。

見事な入りだった。

 

典厩信繁が応じる。

 

「武田典厩信繁にございます」

 

やはり声がよい。

人へ届く声だ。

 

「此度、徳栄軒信玄の意により、真理姫様をお送り申す」

 

短い。

だが十分だった。

 

そのあとへ、飯富昌景、高坂昌信も名乗りを上げる。

こちらも、権六と中務丞が応じる。

 

柴田権六勝家。

平手中務丞政秀。

 

名乗りの応酬だけで、もう一つの戦が始まっていた。

誰も声を張り上げはしない。

だが一語ごとの重みが、はっきり相手へ届いている。

 

典厩信繁が、ほんのわずかに周囲を見た。

 

岩村城門。

並び。

城兵の置き方。

真理姫の輿へ向ける織田側の視線の運び方。

そういうものを、一息で見ているのだろう。

 

そして、小さく頷く。

 

「織田家のご厚意、痛み入る」

 

そこへ勘十郎兄上が、静かに返す。

 

「真理姫様は、武田家の重き姫にございます」

「うむ」

「ゆえに、軽々しく迎えるわけには参りませぬ」

 

その返しは強かった。

 

真理姫を重く見る。

そのうえで、こちらも軽くはない。

つまり、武田の姫だから縮こまるのではなく、重き姫として重き家が受ける。

そういう筋をきれいに置いている。

 

高坂昌信の目が、わずかに細くなる。

あの男も、今の一言の置き方はきっちり拾ったはずだ。

 

飯富昌景が、低く言う。

 

「真理姫様の道中に不足はなかった」

 

権六がすぐに受けた。

 

「ようございました」

 

短い。

だが、そこに余計な媚びも軽さもない。

武辺の男同士の、必要なだけの礼だ。

 

中務丞が、次に静かに言う。

 

「岩村にて、まずは真理姫様へ御休所を整えております」

 

典厩信繁が頷く。

 

「かたじけない」

「その上で、田代へは筋を通してお送り申す」

 

そこが、この場の核心でもあった。

 

真理姫は治部家へ入る。

だが、まず岩村で本家が受ける。

その筋を、中務丞は一言で自然に見せた。

 

高坂昌信が、そこでやわらかく言葉を返す。

 

「よい置き方にございますな」

 

それは褒め言葉でもあり、同時に“分かっている”という印でもある。

 

勘十郎兄上は、わずかに頭を下げる。

 

「過ぎたるは及ばず、不足もまた礼を欠くかと」

 

「まことに」と高坂。

 

やはりこの男は、言葉で場の理を測ってくる。

そして中務丞も、それを受けるべき言葉で返している。

見ていて、薄い刃が何度も触れ合っているようだった。

 

その間、輿のまわりは静かだ。

 

真理姫の輿は、道中の塵を被ってはいても、乱れてはいない。

織田方もそこへ無遠慮な目を向けない。

まず人と筋を整え、そのあとで姫をお迎えする。

その順を誰も違えぬあたりが、ようやく本当に形になっている証でもあった。

 

勘十郎兄上が、輿の方へ向き直り、少しだけ声を落として言う。

 

「真理姫様」

外へ届くようでいて、姫を脅かさぬ高さだった。

「岩村城にて、まずはひと息お休み下さりたく存じます」

 

輿の内から、直接声はない。

だが、女房を通して「かしこまりました」と返る。

 

その一言で、また場が少しだけ落ち着いた。

 

典厩信繁は、そのやり取りを見ていた。

やがて、勘十郎兄上へ向かって静かに言う。

 

「真理姫様を、よくぞこのように迎えて下された」

 

「重き姫にございますゆえ」と勘十郎兄上。

 

「うむ」

 

その“うむ”は、浅くなかった。

叔父として。

送り手として。

武田の使者として。

三つの意味を含んだ頷きだった。

 

権六が、そこで少しだけ前へ出る。

 

「では、城中へ」

 

飯富昌景も頷く。

 

「参ろう」

 

ここでようやく、列が動き出す。

 

真理姫の輿が、ゆっくりと岩村城門をくぐる。

その前後を、織田と武田の男たちが、互いの距離も筋も違えずに挟む。

 

それはただの案内ではない。

婚儀の最初の一礼であり、家と家の値踏みを終えた後の、次の一歩でもあった。

 

中務丞が、列が動き出したあとで、ほんの小さな声で勘十郎兄上へ言った。

 

「まずは、よろしゅうございましたな」

 

勘十郎兄上も、ごく小さく返す。

 

「ええ」

 

権六は、前を見たまま言う。

 

「武田も、きちんとした迎えだと見たであろう」

 

「見たでしょう」と勘十郎兄上。

「少なくとも、治部家を浮かせてはいない」

 

そこが、一番大きかった。

 

真理姫は武田の姫。

だが岩村で受けるのは織田本家。

そのうえで田代へ送る。

 

その形を、典厩信繁も、飯富も、高坂も、もう十分見たはずだ。

 

城門をくぐる音が、冬の石に小さく返る。

 

緊張はまだ終わっていない。

むしろここから、城の中での細かな礼が続く。

だが最初の一礼は、たしかにきれいに入った。

 

それだけで、織田も武田も、互いに少しだけ息を継げた気がした。

 

♢

 

岩村城の中へ入ると、外の張り詰めた空気とは少し違う静けさがあった。

 

城門前での一礼は、互いに面目を立てる場だった。

だが城内へ入れば、今度は細部が物を言う。

 

真理姫の御休所は、城中でもっとも不足のない一室へ通された。

派手ではない。

だが、寒々しくもない。

灯りも、香も、湯の用意も、女房衆の手の回り方も、どれも過不足なく整っている。

 

典厩信繁は、その一つ一つを見て、何も言葉にはせぬまま頷いた。

飯富昌景も、いかにも武辺らしく大きく褒めたりはしない。

だが、こういう男が黙っている時は、だいたい不足を見つけられていない時だ。

高坂昌信だけが、ほんのわずかに目を細めて言った。

 

「よい御座所にございます」

 

中務丞が、静かに応じる。

 

「真理姫様に不足があっては、織田の名折れにございます」

 

その返しで十分だった。

 

真理姫が奥でひと息ついている間、男たちは別の一室へ通された。

広すぎぬ部屋だったのが、かえってよかった。

広間では、どうしても言葉が公になりすぎる。

狭すぎれば、今度は圧が強くなりすぎる。

このくらいの距離が、互いの値踏みにはちょうどいい。

 

勘十郎兄上が座の中央を取り、左右に権六と中務丞。

向こうは典厩信繁、その脇に飯富、高坂。

形としては、もう十分に整っていた。

 

最初に口を開いたのは高坂昌信だった。

 

「岩村にてまずお受け下さったこと、あらためて御礼申し上げる」

 

勘十郎兄上が静かに頷く。

 

「一門の婚儀にございます」

「はい」

「ゆえに、本家としてまず筋を通すのが当然かと」

 

その一言に、典厩信繁の目がわずかに動いた。

当然。

そう言い切るところが大事だった。

大袈裟に恩着せがましくせず、だが“こちらは分かっている”と見せる。

 

飯富昌景が、低く言った。

 

「では、田代もそのように整っておるか」

 

その問いは、ぶっきらぼうに見えてかなり真っ直ぐだった。

 

武田として見たいのはそこだろう。

岩村がいくら整っていても、送り込む先がまだ引っ越し途中の半端な城では困る。

 

権六が、その問いへ即座に返した。

 

「整えさせておる」

 

「ほう」と昌景。

 

「治部大輔は、先に田代へ走っております」

 

そこで典厩信繁が、初めて少しだけ口元を和らげた。

 

「そうか」

 

短い。

だが、そこにいくつかの意味があった。

 

自ら城へ先に戻った。

それだけで、少なくとも“任せきりにしておらぬ”とは伝わる。

真理姫を迎える城を、当主自身が整えに走っている。

そこは、武田側にも分かりやすい誠意だった。

 

高坂昌信が、柔らかく言葉を足す。

 

「話に聞く治部大輔殿らしい」

 

中務丞が、静かにその先を待つ。

 

「どこが、にございますか」

 

昌信は少し笑った。

 

「盤面の真ん中へ立つだけでなく、最後は自ら手も動かす」

 

権六が、そこで喉で笑う。

 

「それは、否めぬな」

 

勘十郎兄上も否定しない。

むしろ、そこを変に飾らぬ方がよいと分かっている顔だった。

 

「ええ」とだけ言う。

 

典厩信繁が、少しだけ視線を落とした。

 

「信繁」

 

その名が、室内へ静かに落ちる。

 

勘十郎兄上も中務丞も、すぐには反応しなかった。

もちろん、それが“武田典厩信繁”のことでもあり、“織田治部大輔信繁”のことでもあると分かっている。

 

典厩信繁は、どこか面白がるように続けた。

 

「妙な縁ですな」

 

「たしかに」と中務丞。

「典厩様にあやかって名乗ったとか」

 

「そう聞いておる」と典厩信繁。

 

「しかも、ただ憧れただけではない。桶狭間の直前、自ら元服を願い出た」

権六が、鼻を鳴らした。

「変わった若造です」

 

飯富昌景が、短く続ける。

 

「だが、戦で立った」

 

「ええ」と勘十郎兄上。

「今川治部大輔を討ち、一色左京大夫も討ち、美濃でも働いた」

 

高坂昌信が、そこでこちらを見た。

 

「その上で、お市殿を迎え、家を立てる」

「はい」

「忙しい男にございますな」

 

その言い方は、少し笑っていた。

だが、からかいではない。

“あの若さでそこまで背負うか”という意味に近い。

 

勘十郎兄上は、そこで少しだけ声を落とした。

 

「忙しいのは、本人の器量半分、周囲の都合半分でしょう」

 

典厩信繁が、そこを拾うように言う。

 

「半分は周囲、か」

「ええ。立つ男には、どうしても風が寄ります」

 

その返しは、かなりよかった。

 

治部大輔信繁は、自分からばかり渦を起こしているのではない。

立つからこそ、風が寄る。

そういう言い方へ置き直している。

 

飯富昌景が、低く笑う。

 

「たしかに、こちらから見ても、いまはずいぶん風の集まる男だ」

 

「今度は真理姫様まで、でございますからな」と高坂昌信。

 

そこで、ほんの一瞬だけ場の空気がまた締まる。

 

真理姫。

その名が出れば、やはりこの会話はただの武辺話では済まぬ。

 

典厩信繁が、静かに言った。

 

「真理姫様のこと、田代ではどう迎える」

 

この問いも、やはり真っ直ぐだった。

 

勘十郎兄上が、少しも揺れずに答える。

 

「姫として迎えます」

「うむ」

「武田家の重き姫にございます。ゆえに、軽々しくは扱いませぬ」

 

「そのうえで」と中務丞。

「治部家の奥へ入られる方として、不足なく」

 

そこへ権六も珍しく、言葉を足した。

 

「雑にはせぬ」

 

短いが、それで十分だった。

 

典厩信繁は、その三人の顔を順に見た。

たぶん、その短さの中にどこまで真があるかを見ていたのだろう。

 

やがて、小さく頷いた。

 

「よい」

 

その“よい”は、道中で真理姫へ向けたものと同じくらい、重かった。

 

高坂昌信が、そこでさらに柔らかく言う。

 

「治部大輔殿、お市殿との仲も良好と聞いております」

 

勘十郎兄上の目が、わずかに動く。

 

「そうです」

「ならば、真理姫様にとってもいくらかは心安い」

 

そこは、言外の意味が濃い。

お市がどう置かれるか。

真理姫がそこへどう入るか。

男たちの会話でも、その点を完全には飛ばしていない。

 

勘十郎兄上は、そこへ正面から答えた。

 

「お市は、理も心も見る女です」

 

典厩信繁が小さく頷く。

 

「そうか」

「ええ」

 

「ならば」

典厩信繁は、そこで初めて少しだけ息をゆるめた。

「送り手として、いくらか安心が出来る」

 

その言葉は、かなり深かった。

 

飯富昌景も、短く言う。

 

「姫様を、ただの札にはするな」

 

そこは武骨だった。

だが、むしろ武骨な分だけ、真っ直ぐ届く。

 

権六が、正面から返す。

 

「当然」

 

中務丞も続ける。

 

「武田の札として来られたのではなく、武田の姫として来られる」

 

典厩信繁の目が、わずかに細くなる。

 

「よい言葉だ」

 

そこまで来れば、もう十分だった。

 

互いに何もかもを言い切ったわけではない。

言えぬことの方が、むしろ多い。

だが、田代へ送る前に、最低限の“何をどう扱うか”は言葉の上で置けた。

 

勘十郎兄上が、最後に言う。

 

「では、真理姫様には、ここで今しばらくお休みを」

 

「かたじけない」と典厩信繁。

 

「その後、田代へ」

「はい」

「田代にて、治部大輔が待ち受けます」

 

その一言で、この場もまた次へ進む。

 

岩村は、本家が受ける城。

田代は、治部家が迎える城。

その筋が、ようやくきれいに一本になった。

 

典厩信繁が立つ。

昌景も、昌信も続く。

こちらも同じだ。

 

短く、濃い会話だった。

だが、それで十分だった。

 

真理姫の輿は、このあと田代へ向かう。

そこで、本当の意味で“治部家へ入る”ことになる。

 

岩村は、そのための最後の整えの場だった。

 

♢

 

岩村を発ったとの先触れが入ってから、田代城の空気はさらに一段張った。

 

整えるべきところは、もう整えた。

いや、正しく言えば、整え切ったのではない。

整え切ったように見せるところまで持っていった。

それが今の田代に出来る最大限だった。

 

城門前に立ちながら、俺は最後の並びをもう一度目でなぞった。

 

中央に俺。

その斜め後ろ、半歩引いた位置にお市。

その場所は、お市自身が決めた。

 

真理姫を迎えるのは治部家だ。

ならば当主たる俺が前に立つ。

だが、奥を預かる者として、また正室として、お市もまたこの迎えに顔を出す。

それも、ただ形式だけではない位置で。

 

左右には護衛の兵を引き締めて並べ、その前寄りに十兵衛、左近将監、慶次郎、助右衛門を置いた。

 

十兵衛は、やはり中央に近い左。

仮家老職としての落ち着きと典雅さは、立っているだけで城の品位を一段引き上げる。

左近将監はその反対。

言葉と実務、両方の流れを滞らせぬため、少し動きやすい位置に置く。

 

そして、慶次郎と助右衛門。

この二人は左右の外寄りだ。

華やかに見せるためではない。

むしろ逆で、武辺の気配を、見せすぎず、だが隠しもせずに置くためだった。

 

慶次郎は立つだけで目を引く。

助右衛門は、派手さこそ薄いが、逆にそれが“本物”の重さになる。

二人とも、兵の並びの中に置くと、前へ出すぎず、それでいて“ここは弱くない”と見せられる。

 

俺は小さく息を吐いた。

 

これ以上は、もう人の置き方で誤魔化せる段ではない。

あとは、実際に来る武田勢がこの並びをどう受けるかだ。

 

「治部殿」

 

斜め後ろから、お市の声がする。

 

「何だ」

「少しだけ肩に力が入りすぎておいでです」

「……そう見えるか」

「いささか」

 

さっきから、お市は俺が張るたびに、こうして一言で剥がしてくる。

 

「お市も、よくそんなに静かでいられるな」

「静かでおりませんと、殿方が皆さま余計におろおろなさるでしょう」

 

それには、さすがに口元が少しだけ緩んだ。

 

「まだ言うか」

「まだ申します」

 

そこへ、十兵衛が静かに割って入る。

 

「治部殿」

「何だ」

「先触れです。まもなく」

「……分かった」

 

それで、私語は切れた。

 

城門前の空気が、もう一度きゅっと締まる。

 

兵の列。

女中の控え。

奥へ通すべき者の位置。

すべてが、いまは一つの線になっていた。

 

やがて、列が見えた。

 

真理姫の輿。

その前後に武田勢。

そして、岩村で見たのと同じく、典厩信繁、飯富昌景、高坂昌信。

 

田代の前まで来ると、相手の目つきが少しだけ変わるのが遠目にも分かった。

岩村では本家を見た。

今度は、治部家そのものを見る段だからだろう。

 

列が止まる。

 

俺は一歩進み、頭を下げた。

 

「治部大輔信繁にございます」

 

その声が、自分で思ったよりよく通った。

少なくとも震えてはいない。

それだけで十分だった。

 

「此度、真理姫様をお迎え申し上げる」

続けて、少しだけ声を落とす。

「ようこそ、田代へ」

 

典厩信繁が、馬上からではなく、きちんと下りたうえでこちらを見た。

 

そして、その視線が俺の後ろへ流れる。

お市。

十兵衛。

左近将監。

慶次郎。

助右衛門。

兵の並び。

城門の開き方。

奥へ続く気配。

 

一息で全部を見たのだろう。

 

その一瞬のうちに、典厩信繁はたぶんもう判断していた。

 

真理姫を送り出すに足る。

そういう顔だった。

 

飯富昌景の目は、もっと露骨だった。

 

まず俺ではなく、左右へ置いた武辺の気配を見る。

慶次郎。

助右衛門。

その二人へ向いた時、昌景の目がわずかに細くなる。

 

「ほう」

 

本当に、それだけだった。

 

だがその“ほう”には、かなりのものが入っていた。

 

慶次郎の立ち方には、華と危うさがある。

助右衛門には、飾らぬ重さがある。

昌景ほどの武辺なら、一目で分かる。

あれはただの飾りではない。

兵の中に置かれてこそ、余計に武辺の極まりが見える類だと。

 

高坂昌信は、別のところを見ていた。

 

まず左近将監。

立ち位置と視線の流し方。

こちらへ出す気配と、引く気配の配分。

あの男の如才なさは、こういう場でひどくよく見える。

 

次に十兵衛。

落ち着き。

姿勢。

声を出さずとも場を締める気配。

そして、どこか典雅な収まり。

 

昌信の目が、わずかに和らいだ。

 

その視線の動きだけで分かる。

治部家、侮りがたし。

だが同時に、

それでいて誠意は尽きぬ。

そう見たのだろう。

 

典厩信繁が、ようやく口を開いた。

 

「治部大輔殿」

「は」

「……よい迎えにございます」

 

短い。

だが十分すぎた。

 

俺は深く頭を下げた。

 

「痛み入ります」

「真理姫様を、軽々しくは扱わぬと見受けた」

 

そこは、送り手としての言葉だった。

叔父として。

武田家の使者として。

そして、真理姫のこれまでを知る者として。

 

「当然にございます」と俺。

「武田家の重き姫にございますれば」

 

そこへ、俺の斜め後ろからお市が静かに一歩出た。

出すぎず、だが確かに“奥を預かる者”として見える一歩だ。

 

「お市にございます」

 

典厩信繁の目が、そこで少しだけ動く。

 

「お市殿」

「真理姫様には、まずお心安くお休み頂けますよう、奥向きも整えてございます」

 

その言い方が、やはりお市らしかった。

 

奥は任せてよい。

そう言っているのに、決して大きくは出ない。

しかも、真理姫を“ただの姫”ではなく“お心を持つ人”として迎える気配がきちんと出ている。

 

典厩信繁は、小さく頷いた。

 

「かたじけない」

 

飯富昌景が、そこで低く言った。

 

「治部大輔殿」

「は」

「武辺もおるな」

 

その視線は、慶次郎と助右衛門へ向いている。

 

俺は頷いた。

 

「姫を迎えるにも、城を守るにも、どちらも要りますれば」

 

昌景は、そこでほんのわずかに口元を動かした。

 

「そうか」

 

それだけだ。

だが、それだけで十分だった。

 

高坂昌信が、次に静かに言う。

 

「明智十兵衛殿、にございますかな」

 

十兵衛が一歩出る。

 

「明智十兵衛にございます」

「なるほど」

 

昌信の視線が、今度は左近将監へ流れる。

 

「そして、そちらが」

「滝川左近将監にございます」

 

左近将監は、変に崩さず、きちんとした声で名乗った。

そこが良い。

 

昌信は、小さく笑んだ。

 

「治部家、なるほどよう揃えておられる」

 

勘十郎兄上が岩村で見せた“本家としての迎え”に対し、こちらは“治部家としての迎え”を見せる番だ。

そして今、その評価はどうやら悪くないところへ着地したらしい。

 

典厩信繁が、最後にもう一度だけ俺を見た。

 

「真理姫様を、送り出すに足る」

 

その一言で、胸の内に張っていたものが、ようやく少しだけ落ちた。

 

まだ終わっていない。

むしろここからが本番だ。

だが、少なくとも城門前の第一歩は踏み外していない。

 

「恐れ入ります」

 

俺がそう返すと、典厩信繁は真理姫の輿へ向き直った。

 

「姫様」

簾の向こうへ届く声は、やはり柔らかい。

「田代にございます」

 

短い。

だが、その声には

ここなら大丈夫だ

という叔父としての確認が、たぶん少しだけ乗っていた。

 

そのあと、列はゆっくりと動き出した。

 

真理姫の輿が、田代城門をくぐる。

左右には十兵衛、左近将監、慶次郎、助右衛門。

その少し後ろに、お市。

俺は前で迎え、そのまま奥へ続く道を示す。

 

儀礼としては、やや重い。

だが、今回ばかりはそれでよかった。

 

武田の姫を迎える。

しかも、ただ迎えるのではない。

これから治部家の奥へ入る者として、きちんと迎える。

ならば、儀礼のひとつ先まで敬意を尽くすのは、むしろ筋だ。

 

そういう迎えだった。

 

♢

 

輿が城門をくぐり、表の張り詰めた空気が少しずつ奥向きの静けさへ溶けていく。

 

田代の奥は、外の武辺の気配とは違う意味で整っていた。

香は強すぎず、灯りはやわらかく、女中の足音も必要以上に立たない。

慌ただしさは確かにある。

だが、その慌ただしさを真理姫の目に見せぬように、お市と女中衆がぎりぎりのところで抑えていた。

 

真理姫がまず通されたのは、休みのための一室だった。

 

広すぎない。

だが狭くもない。

冷たすぎず、かといって過剰に飾り立てもしていない。

“迎える側が、ちゃんと考えて整えた”と分かる部屋だった。

 

女房衆が手早く動き、真理姫がひと息つけるよう座を整える。

湯も運ばれ、手を温めるための小さな気遣いも無駄がない。

 

そこへ、お市が入ってきた。

 

後ろに女中を二人だけ。

多すぎぬのが、むしろよかった。

大勢を引き連れて来れば、それだけで“迎える側の正室”と“入ってきた姫”の上下が濃くなる。

お市はそこを分かっていたのだろう。

 

だが、真理姫はその姿を見た瞬間、ほんの一瞬だけ息を呑んだ。

 

――これが、お市様。

 

名は前から聞いていた。

織田家の姫。

治部大輔信繁の正室。

そして、美しいと。

 

けれど、噂と目の前の実物は違う。

 

甲斐は田舎だ。

山と土と風の国で、武家の女もまた、どこか骨と気丈さで立つ。

母の三条夫人は京の三条家の出で、たしかに美しい。

だが、あの美はどこか別の世界のものだ。

香と衣と、よく施された化粧によって整えられた、厚い壁の向こうの美しさに近い。

 

お市は違った。

 

薄化粧だった。

もちろん整えてはいる。

武田の姫を迎えるのだから、それに見合うだけの手入れはしている。

だが、塗り固めて隠すような化粧ではない。

 

それなのに、いや、だからこそかもしれない。

 

武家の姫としての張り。

女としてのやわらかさ。

そして、もともとの容貌の強さ。

 

その全部が、まるで燦然と輝いているように見えた。

 

派手ではない。

けれど、目を逸らしにくい。

ただ“きれい”では済まぬ。

部屋へ入ってきた瞬間に、その場の中心が自然にそこへ寄る。

 

真理姫も、自分が美しくないとは思っていない。

武田の姫として、女房たちにもそう言われて育った。

けれど、今はまだ幼い。

数え十一。

最近ようやく初潮を見たばかりの身だ。

 

目の前のお市と並べば、その差はどうしてもある。

 

女として立ち、妻として座し、しかも武家の姫として一歩も揺らがぬ。

そういう完成へ、まだ自分は届いていない。

 

そのことを、真理姫は一瞬で悟った。

 

悟って、少しだけ身が縮むような思いもした。

こんな方のいる奥へ、自分は入るのかと。

 

だが、お市の方はそんな真理姫の内心を見透かしたような素振りもなく、静かに一礼した。

 

「お市にございます」

 

その声で、真理姫もはっとして姿勢を正した。

 

「真理にございます」

 

少し硬い。

自分でもそう分かった。

外では叔父と武田の重臣たちがいた。

だが今は違う。

これから奥へ入る先で、最初に向き合う女が目の前にいる。

 

お市は、すぐには続けなかった。

 

真理姫を急がせぬためでもあるし、たぶん、お市自身が最初の一言を慎重に選んでいたのだろう。

 

やがて、ごく穏やかに言った。

 

「ようこそお越しくださいました」

 

真理姫は、小さく頷く。

 

「……はい」

「道中、お疲れでいらっしゃいましょう」

「いえ」

 

そう答えかけて、真理姫は少しだけ言葉を失った。

 

疲れていないわけがない。

長い道を来た。

木曾を離れ、岩村を経て、田代まで来た。

身体も心も、どこか張り続けている。

 

お市は、その小さな詰まりを見逃さなかった。

 

「今は、気を張っておいででも当然にございます」

 

その一言で、真理姫の目が少し動く。

 

“疲れていない”と整える必要はない。

“気を張っている”でよい。

そう言われるだけで、ずいぶん違った。

 

お市は続ける。

 

「ここでは、まずお休みくださいませ」

「……はい」

「お話は、そのあとでも構いませぬ」

 

そこも、よかった。

 

すぐに家の理を説くでもない。

挨拶を尽くさせるでもない。

まずは休め、と言う。

それだけで、真理姫の胸の奥にあった固いものがほんの少しゆるむ。

 

真理姫は、そっとお市を見上げた。

 

怖い人かもしれないと、心のどこかで思っていた。

美しすぎる人というのは、ともすると近寄りがたい。

だが目の前にいる人は、近寄りがたいほど美しいのに、声はそうではない。

 

やわらかい。

けれど、甘いだけではない。

こちらの息の詰まり方を見て、その詰まり方に合う言葉を置いてくる。

 

真理姫は、少しだけ意を決して言った。

 

「お市様」

「はい」

「私は……」

 

そこから先が、すぐには出てこない。

 

武田の姫。

木曾を離れた姫。

離縁された姫。

再び嫁いできた姫。

 

言える言葉はいくつもある。

だが、どれも最初の名乗りには重すぎる気がした。

 

その迷いを、お市は静かに受けた。

受けたうえで、やわらかく遮る。

 

「いまは、武田の姫として名乗って頂かずともよろしいのですよ」

 

真理姫は、はっきりと目を見開いた。

 

お市は、穏やかに続ける。

 

「もちろん、真理姫様が武田家の重き姫であられることは、皆よう承知しております」

「……はい」

「ですが、少なくともこの奥に入られて最初の刻まで、ずっと“武田の姫として”お立ちにならずともよろしい」

 

真理姫の喉が、小さく動いた。

 

お市の声は変わらない。

 

「いまは、“ここへ来られた姫”として、お休みくださいませ」

 

その言葉が、胸の奥へ静かに落ちる。

 

ここへ来た姫。

 

武田の札でもない。

離縁された者でもない。

木曾で石女と囁かれた者でもない。

 

ただ、ここへ来た姫。

 

その言い方をしてもらえたことが、真理姫には思っていた以上にありがたかった。

 

しかも、それを言ってくれるのが、こんなにも眩しい人なのだ。

 

武家の姫として完成して見えるほどの美貌を持ちながら、こちらへその光を押しつけない。

眩しいのに、刺さるようではない。

その不思議さに、真理姫は少しだけ見入ってしまう。

 

もし自分がもう少し大人であったなら、比べて苦しくなったかもしれない。

だが今はむしろ、こういう人がここにいてくれることへ少しだけ安堵している自分がいた。

 

真理姫は、少しだけ視線を落とした。

 

「……ありがとうございます」

 

その声は、ほんのわずかに震えた。

泣くほどではない。

だが、張っていた糸が少しだけゆるんだ時の声だった。

 

お市は、それ以上追わない。

 

「湯を用意しております」

「はい」

「少し手を温められて、そのあとお休みください」

「はい」

「女中衆も、こちらで一通り整えてございます。気になることがあれば、遠慮なく申してくださいませ」

 

真理姫は、そっと頷いた。

 

お市は、そこで初めてほんの少しだけ自分のことを交える。

 

「私も、嫁いできた身にございます」

 

真理姫が顔を上げる。

 

「はい」

「ですから、最初の刻がどのようなものか、まったく分からぬつもりではおりませぬ」

 

その一言が、過不足なかった。

 

“分かります”と言い切らない。

だが、“分からぬつもりではない”とは言う。

そこに、お市の誠実さが出ていた。

 

真理姫は、少しだけ息を入れた。

 

「お市様」

「はい」

「……私、少しだけ、ほっと致しました」

 

お市は、そこでようやく目元をやわらげた。

 

「それなら、まずは十分にございます」

 

その返しでよかった。

 

いきなり親しくはならない。

無理に心を開かせもしない。

ただ、“ここは少なくとも敵ではない”と思えるところまで連れてくる。

たぶん、お市が最初に狙ったのはそれだったのだろう。

 

外では、まだ人の気配が動いている。

表では治部大輔が典厩信繁たちと礼を交わし、男たちの盤はまだ続いているはずだ。

 

だが、この部屋の中では、別の盤が静かに始まっていた。

 

お市は立ち上がる前に、最後に一つだけ言った。

 

「真理姫様」

「はい」

「ここでは、どうかご無理をなさらず」

 

真理姫は、ほんの少し迷ったあとで頷いた。

 

「……はい」

 

その“はい”は、今日ここへ着いてからいちばんやわらかかった。

 

お市は深く一礼し、静かに下がっていく。

女中たちもまた、音を立てずに動く。

 

真理姫は、その背を見送りながら思った。

 

音に聞こえた美貌とは、こういうものだったのかと。

 

ただ美しいだけではない。

武家の姫として立つ強さと、相手へ無理をさせぬやわらかさが、一つの姿の中に同居している。

自分もいずれ、ああいうふうに立てる日が来るのだろうか。

まだ分からない。

今はまだ幼い。

その差を認めるしかない。

 

けれど、差があるからこそ、ここで学べるものもあるのかもしれない。

 

ここへ来た姫。

 

その言葉を、もう一度胸の中でそっとなぞる。

 

それだけで、少しだけ呼吸がしやすくなった気がした。

 

♢

 

真理姫が奥へ通され、田代の中でひとまず落ち着くべきところへ落ち着いたあと、場の空気は少しだけ変わった。

 

ここから先は、婚家の内だ。

 

今宵の固めの杯。

婚儀の骨を通す場。

そこは、やはり治部家と織田本家の内で立てるべきところになる。

 

武田方は、ここで一歩引く。

真理姫を送り届け、迎える家と人と奥の気配を見極め、あとは託す。

送り手としては、そこが最も重い役目でもあった。

 

典厩信繁、飯富昌景、高坂昌信は、引き際まで崩れなかった。

 

礼を違えず。

だが、未練がましくもない。

真理姫を雑に切り離すようでもない。

さすがに、家を背負って長く立ってきた者たちだと思う。

 

その典厩信繁へ、俺は別れ際に一歩寄った。

 

「典厩殿」

「うむ」

 

典厩信繁がこちらを見る。

その目は、さきほどまでの武田の使者としての目とは少し違っていた。

役目の大きなところは果たした、という落ち着きがある。

 

俺はそこで、一礼した。

 

「実は、一つお願いがございまして」

 

典厩信繁の眉が、ほんのわずかに動く。

 

「ほう、何でござろうか」

 

声音は穏やかだ。

だが、目の奥ではきちんとこちらを測っている。

 

――はて、この者、何を要求するか。器量が量れようぞ。

 

たぶん、そんなところだろうと思った。

 

俺は、変に回らずそのまま言った。

 

「実は、数日間で構わないので、甲斐の味付けに詳しい方を置いて頂けぬかと」

 

典厩信繁の目が、今度は明らかに変わった。

 

一瞬だけ、本当に意外だったのだろう。

後ろの昌景までわずかに視線を動かし、昌信も静かにこちらを見た。

 

「……と、申されると?」

 

俺は続けた。

 

「当家の味付けは尾張流にございます」

「うむ」

「真理姫様にご安心頂くためにも、故郷の味――」

 

そこで一度だけ言葉を選ぶ。

 

「もっと贅沢を申せば、木曾での、いえ、もし差し支えなければ、なのですが、甲斐の故郷の味をこの田代でも味わって頂きたく」

 

典厩信繁は、しばし何も言わなかった。

 

本当に予想外だったのだろう。

武田の姫を迎えた若武者が、この場で求めるもの。

それが知行でも、礼の重さでも、付き従う兵の引き方でもなく、嫁いで来たばかりの姫のため、故郷の味を数日分置いてほしいだったのだから。

 

その沈黙ののち、典厩信繁の胸のうちで何かが変わったのが、顔に出た。

 

――この者、本気で真理姫を家族として迎える気か。

 

そう読める顔だった。

やがて、典厩信繁はゆっくり頷いた。

 

「そういうことでしてたら構いませぬ」

声は、さきほどまでより明らかに柔らかい。

「料理のできる女房がおればお付けしますし、ここから早馬を走らせ、城の賄い方を急ぎお呼びしましょう」

 

「かたじけない」

「こちらこそ。姫へのご配慮、感謝致します」

 

そこへ、後ろの高坂昌信がごく小さく目を細めた。

飯富昌景は、無骨な顔のまま何も言わない。

だが、二人ともこのやり取りの意味はきちんと受けたはずだ。

 

真理姫は武田の姫。

離縁され、遠く尾張美濃へ来た。

その不安の中で、田代城へ馴染むまでに“何を食べるか”は小さく見えて小さくない。

 

家族になるとは、こういうところまで考えることでもある。

典厩信繁は、そう受け取ったのだろう。

 

俺は、そこでさらに一歩だけ踏み込んだ。

 

「それと」

典厩信繁が、静かにこちらを見る。

「これは何かの折に思い出して頂ければよいのですが」

 

「なんでござろう」

 

ここは、さすがに少し迷った。

だが、言える時にしか言えぬこともある。

 

「啄木鳥の羽は折れまする」

 

その一言に、典厩信繁の目がすっと細くなる。

 

昌景も。

昌信も。

今度ははっきりとこちらを見た。

 

典厩信繁が、少し低く問う。

 

「それは、いかなる意味で?」

 

俺は、そこでごくわずかに肩を竦めるようにした。

 

「いえ、ただの戯言にございます」

 

――第四次川中島、八幡原の戦いで死んでほしくないんだよな、この人。これでダメなら仕方ないけどさ。

 

もちろん、そんなことは口に出せない。

だが、せめて何か一つでも引っかかればと思った。

 

典厩信繁は、しばらくこちらの顔を見ていた。

 

冗談ではない。

だが、すべてを言う気もない。

そういう顔をしている若武者を、花も実もある名将はどう見るのか。

 

やがて、典厩信繁はほんの少しだけ口元を動かした。

 

「……戯言、にございますか」

「はい」

「では、そのように、承っておきましょう」

 

声は平らだった。

だが、平らだからこそ、捨ててはいないと分かる。

 

高坂昌信が、横からごく静かに言う。

 

「典厩様」

「うむ」

「忘れぬくらいは、してよろしいかと」

 

昌景は、そこで短く鼻を鳴らした。

 

「妙な男だ」

 

俺は、少し苦笑した。

 

「自分でも否定は致しかねます」

 

昌景の口元が、ごくわずかだけ動く。

 

「そこは正直だな」

 

典厩信繁は、最後にもう一度だけこちらを見た。

 

「治部大輔殿」

「は」

「真理姫様のこと、頼み申す」

 

その一言は、使者としてではなかった。

叔父として。

送り手として。

真理姫をここへ託す男としての声だった。

 

俺は深く頭を下げた。

 

「お任せ下され。あだやおろそかにはいたしませぬ」

 

典厩信繁も頷く。

 

「うむ」

 

それで、ようやく本当に別れの形が整った。

 

武田の名将たちは、ここで引く。

田代の今宵は、ここから治部家の夜になる。

 

だが、その直前に交わした言葉は、たぶんただの別れの挨拶より、少しだけ深いものになったのだと思えた。

 

♢

 

夜の田代城は、昼とは別の意味で張っていた。

 

昼は、迎えるための張りだ。

城門。

並び。

礼。

武田の顔ぶれに対して、こちらもまた顔で返すための張り。

 

だが夜は違う。

 

今度は、婚礼をきちんと成立させるための張りだった。

 

田代の一室は、昼のうちに十兵衛と左近将監が形を整え、奥からはお市と女中衆が細部を詰めていた。

広すぎず、狭すぎず。

いかにも“仮の座”には見せない。

だが、ことさらに飾り立てて浮つかせもしない。

 

今宵は、大広間で諸士を並べての祝宴ではない。

まずは身内中心。

祝言の本体。

固めの杯。

婚礼が婚礼として立つ、その骨を通すための場だ。

 

上座には上総介兄上。

その脇に勘十郎兄上。

さらに少し下がった本家側の控えに、林佐渡守秀貞が座していた。

 

佐渡守がいることには、意味がある。

 

これは治部家の婚礼である。

だが同時に、織田本家が預かり、認め、一門の婚儀として立てる婚礼でもある。

ならば、上総介兄上と勘十郎兄上だけが顔を出せば済む、というものではない。

 

信長だけの家ではない。

織田本家である。

 

そのことを、言葉にせず示すには、佐渡守のような旧臣の重石が要る。

平手中務丞と同様、公家筋との取次も務める男であり、家中の古い礼も、表と奥の間の呼吸も知る。

そりが合う合わぬで言えば、上総介兄上とは決して近い男ではない。

だが、だからこそこの場に座している意味は重かった。

 

佐渡守が控えているだけで、これは若い一門衆だけの思いつきではなく、織田本家の古い家中も認めた婚儀になる。

 

席次の置き方一つにも、今宵の意味が出ていた。

 

治部家の婚礼でありながら、同時に織田本家がこれを預かり、認め、家として立てる。

だからこそ、上総介兄上と勘十郎兄上がいる。

そして佐渡守が、言葉と礼の隙間を崩さぬ位置に控えている。

婚礼成立を見届ける場としては、これでようやく形が締まった。

 

俺は座の下手寄りにいた。

当主として中央に近い位置ではある。

だが、上総介兄上と勘十郎兄上がいて、その後ろに佐渡守が本家旧臣の重みを置き、その上で自分がここにいる。

その並びが、今の治部家の立ち位置そのものだった。

 

障子の向こうには、まだ静かな気配がある。

真理姫は、少しだけ休ませた。

湯も使い、着替えも済ませ、気を落ち着ける刻も取った。

着いてすぐ、はい婚礼、ではない。

そこを急がなかったのはよかったと思う。

 

上総介兄上が、ふとこちらを見た。

 

「治部大輔」

「は」

「顔は、少しましになったな」

 

そこは苦笑するしかない。

 

「昼よりは」

「昼はひどかった」

 

勘十郎兄上が、横から静かに足した。

 

「かなり」

「お二人とも、そこを蒸し返しますか」

 

上総介兄上が喉で笑う。

 

「蒸し返すのではない。今宵の方がましだと言うておる」

 

佐渡守が、控えの位置でわずかに目を伏せた。

笑ったわけではない。

だが、空気が硬くなりすぎぬよう、その軽口をあえて止めない。

止めるべき時と、流すべき時を知っている顔だった。

 

そこへ、控えていた十兵衛が静かに一礼した。

 

「上総介様、勘十郎様、佐渡守殿」

 

「何だ」と上総介兄上。

 

「真理姫様、間もなく」

「うむ」

 

それだけで、座の空気がまた一段締まる。

 

十兵衛は今宵、仮家老職としてこの場を締めている。

奥と表をつなぐ言葉も、動きも、すでにすべて一度は頭の中で通した顔だ。

 

佐渡守は、その十兵衛の動きを静かに見ていた。

値踏みではない。

だが、明智十兵衛という男が、治部家の表をどれほど締められるかを見ている。

旧臣の目は、こういう場では厄介だ。

厄介だが、必要でもある。

 

「お市殿が、お伴にて」

「そうか」

「準備は」

「不足なく」

 

その答えを聞いて、勘十郎兄上が小さく頷いた。

 

佐渡守もまた、ほんのわずかに頷く。

その小さな動きで、十兵衛の段取りが本家側からも認められたことになる。

 

「では、始めましょう」

 

しばらくして、障子が静かに開いた。

 

先に入ったのはお市だった。

 

昼の迎えの時とも違う。

今は奥向きを預かる者として、真理姫をこの座へ導く役だ。

その歩みは静かで、だが少しも迷わない。

 

その後ろに、真理姫。

 

昼よりも装いは整っている。

だが、決して大人びきりった華やかさではない。

数え十一の姫が、いまできる限りきちんと座ろうとしている、その張りがまず見えた。

 

そして、その幼さを無理に隠していないところがよかった。

 

大人びて見せようとしすぎれば、かえって痛い。

だが今の真理姫には、幼さがそのまま弱さではなく、かえって家の手厚さと本人の懸命さを見せている。

 

お市は、真理姫を然るべき位置まで導き、静かに下がる。

ただし、完全に奥へ引っ込むのではない。

この婚礼の前後を支える者として、少し後ろに残る。

その距離の取り方も、見事だった。

 

佐渡守の視線が、一度だけお市へ流れた。

それから真理姫へ、さらに席の置き方へ戻る。

 

表の礼。

奥の受け。

姫の幼さ。

正室のお市の立ち位置。

その全部を見て、佐渡守は口を挟まなかった。

 

口を挟まないということは、不足がないということでもある。

 

真理姫が座に着く。

 

俺も、あらためて姿勢を正した。

 

しばし、誰もすぐには口を開かない。

 

その最初の沈黙を整えるのは、やはり上総介兄上の役だった。

 

「真理姫様」

「はい」

 

真理姫の声は、細い。

だが、きちんと届く。

 

「此度は、ようお越し下された」

 

上総介兄上の声は、昼よりもいくらかやわらかい。

棟梁としてではなく、兄として、そしてこの婚礼を立てる本家の主としての声だ。

 

「武田家の重き姫を、織田家として、また治部家の婚儀として迎えられること、まことに重く思う」

 

真理姫は深く頭を下げた。

 

「恐れ入ります」

 

上総介兄上は続ける。

 

「今宵は、まず身内にて祝言を通す」

「はい」

「大きな披露や広き饗応は、また明日以降に譲る」

「はい」

「されど、今宵の杯をもって、婚儀はきちんと立つ」

 

その言葉で、真理姫の肩がほんの少しだけ強張るのが見えた。

当然だ。

この場は、形式ではある。

だが、形式だからこそ重い。

 

勘十郎兄上が、そこで静かに言葉を継いだ。

 

「真理姫様」

「はい」

「どうか、今宵は過度に張り詰められませぬよう」

 

真理姫が、少しだけ顔を上げる。

 

「はい」

「すでに長道中を越えておられる」

「はい」

「礼は、十分に通っております」

 

その言い方は、実に勘十郎兄上らしい。

“もっとちゃんとしろ”ではなく、“もう十分に通っている”と言って、過度の緊張をほどく。

 

お市が、ほんの少しだけ真理姫へ目を向けた。

その一瞬だけで、たぶんだいぶ違っただろうと思う。

 

佐渡守は、そこで何も言わなかった。

だが、勘十郎兄上の言葉を遮らず、場の礼としても過不足なしと見たらしい。

その沈黙が、今はありがたかった。

 

上総介兄上が、今度は俺を見る。

 

「治部大輔」

「は」

「申せ」

 

そこは、今宵の俺の役だ。

 

俺は、真理姫へ向き直った。

 

昼、城門前では“迎える当主”として立った。

だが今は、それだけではない。

これからこの婚礼の相手として、最初の言葉を置かねばならない。

 

「真理姫様」

「はい」

「此度、ようお越し下さいました」

 

真理姫は、きちんとこちらを見る。

昼よりは、いくらか落ち着いているように見えた。

たぶんお市のおかげだ。

 

俺は続ける。

 

「長道中、さぞお疲れにございましょう」

「いえ」

「その上で、今宵の席までようお整え下されたこと、痛み入ります」

 

真理姫は、ほんの少しだけ息を入れてから答えた。

 

「もったいなきお言葉にございます」

 

そこまで言えれば十分だった。

 

俺は、あえてそれ以上飾らなかった。

 

武田との和だの。

家の筋だの。

そういう大きな言葉は、今ここで俺が重ねすぎるべきではない。

上総介兄上がすでに言った。

勘十郎兄上も整えた。

佐渡守が控えて、この場の筋も本家の礼も崩れていない。

ならば俺は、ここへ来た姫へ、まず来てくれたことへの礼を置けばいい。

 

十兵衛が合図を送り、杯の支度が進む。

 

固めの杯は、派手なものではない。

だが、だからこそ一つ一つが重い。

 

誰がどの順で盃を受けるか。

どこで礼を入れるか。

どの言葉を省き、どの言葉だけは省かないか。

十兵衛がそこを一分の隙なく締め、左近将監が流れの詰まりを見て埋めていく。

 

その流れを、佐渡守が静かに見ていた。

 

十兵衛の締め方。

左近将監の埋め方。

お市の視線。

真理姫の呼吸。

上総介兄上と勘十郎兄上の置いた言葉。

 

どれか一つでも乱れれば、佐渡守はきっと気づく。

だが、気づいたからといってすぐ口を挟む男でもない。

必要な時だけ、場を壊さぬ形で補う。

そういう重石が、今夜は本家側に座っている。

 

お市は後ろにあって、真理姫の呼吸が乱れぬよう見ている。

それが、ひどくよかった。

 

杯が進む。

 

真理姫の手は、小さい。

だが震えてはいなかった。

いや、震えぬよう努めているのだろう。

そのことが、かえって胸に来た。

 

お市の視線が、一度だけこちらへ来る。

“急がせないでくださいませ”

たぶん、そういう意味だ。

 

俺は、ほんのわずかに頷いた。

 

今宵は婚礼のそのものを通す夜だ。

すべてを一夜で終わらせる夜ではない。

真理姫も、お市も、俺も、そのくらいでちょうどいい。

 

上総介兄上が、杯の一区切りで短く言った。

 

「これで、まず婚儀は立った」

 

その言葉は、静かだった。

だが、その静けさの中に、織田本家当主としての重みがきちんとあった。

 

その直後、佐渡守が深く一礼した。

 

「恐れながら、これにて本家としても、婚儀成立を確かに見届け申した」

 

それは余計な言葉ではなかった。

 

上総介兄上の言葉を受け、本家旧臣の口で形を固める。

それにより、今宵の杯がただの内々の情ではなく、織田本家の認める婚儀として立つ。

 

佐渡守がここにいる意味が、その一言で通った。

 

上総介兄上は短く頷いた。

 

「うむ」

 

勘十郎兄上も、静かに頷く。

 

「真理姫様」

「はい」

「今宵はまず、ここまでにて十分」

 

真理姫は深く頭を下げた。

 

「ありがたく」

「治部大輔」

「は」

「真理姫様を、よう支えよ」

「はっ」

 

それは命令でもあり、祝言の場での一言でもあった。

 

勘十郎兄上が、そこで静かに締める。

 

「今宵は、長旅ののちにございます」

 

「はい」と真理姫。

 

「ゆえに、これ以上無理に刻を引き延ばしませぬ」

「はい」

「明日よりまた、田代の内を少しずつご覧下さればよろしい」

 

その言葉に、お市がわずかに目を和らげた。

この人もたぶん、この着地を望んでいたのだろう。

 

祝言は挙げる。

だが、真理姫を今夜のうちにすべてへ慣らそうとはしない。

その塩梅が、ちょうどよかった。

 

杯が収まり、座が少しだけゆるむ。

 

その時、上総介兄上がふと真理姫へ言った。

 

「真理姫様」

「はい」

「今宵の田代、いかが見えた」

 

その問いは、不意打ちのようでいて、実はよく選ばれていた。

奥がどうだ、俺がどうだ、と問うのではない。

まず“田代がどう見えたか”を聞く。

 

真理姫は、少しだけ迷った。

それから、はっきりと答えた。

 

「思っておりましたより……」

一拍置く。

「温かく」

 

その一言で、座の空気が少しだけ変わった。

 

上総介兄上は、喉で小さく笑った。

 

「それなら、まずはよい」

 

お市の目も、静かにやわらいだ。

俺は、ようやく胸の底でひと息つけた気がした。

 

佐渡守もまた、そこでわずかに目を伏せた。

礼は整った。

婚儀は立った。

そして、迎えられた姫が冷えた顔で終わらなかった。

 

旧臣の重石として見ても、この夜はまず崩れていない。

そう認めたように見えた。

 

今夜はこれでいい。

婚儀は立った。

真理姫は、少なくとも田代を“冷たい場所”とは見ていない。

それだけで、この第一夜としては十分すぎる。

 

障子の外では、冬の夜が静かに深くなっていく。

だが、この部屋の中には、たしかに今、治部家の婚礼が立ったあとの温度が残っていた。

 

♢

 

座が完全に引けたあと、部屋の中には急に静けさが戻った。

 

つい先ほどまで、杯のやり取りがあり、女中の足音があり、上総介兄上と勘十郎兄上の声があり、真理姫の細い返答があった。

それらが一つずつ引いていくと、残るのは灯りのゆらぎと、冬の夜らしい冷えた気配だけになる。

 

真理姫は、もう奥へ下がった。

お市もまた、そのまま少し遅れて奥へ戻る。

今夜は、ここから先もおそらくお市の存在が要る。

真理姫が完全に息を落とすまで、奥で見るべきことはまだ幾つもあるはずだ。

 

表に残ったのは、上総介兄上、勘十郎兄上、そして俺だけだった。

 

誰もすぐには口を開かなかった。

 

ようやく終わった、という気持ちがあった。

だが同時に、終わったわけではない、という気持ちもある。

今夜は婚儀の骨を通しただけだ。

明日からは、真理姫がこの城を見て、人を見て、治部家というものを少しずつ知っていく。

 

それでも、今この一夜が違えずに済んだことは大きい。

 

最初に口を開いたのは、上総介兄上だった。

 

「……よし」

 

短い。

だが、その一言にはだいぶいろいろ入っていた。

 

勘十郎兄上が、静かに続ける。

 

「まずは、よく収まりましたな」

 

「うむ」

上総介兄上は、少しだけ肩を鳴らすように息を吐いた。

「岩村も、田代も、どちらも崩れなかった」

 

「はい」

 

「真理姫様も、無理に張りすぎず、かといって崩れもせず」

 

「お市がうまく支えました」と勘十郎兄上。

 

「その通りだ」

 

上総介兄上は、そこで少しだけ笑った。

 

「結局、最後はお市にかなり助けられたな」

 

そこは否定しようがなかった。

 

「……はい」

 

「お前」

勘十郎兄上の目が、こちらへ向く。

「今の返事がいちばん素直だな」

 

「そう言われましても」

「よい。今夜はそのくらいでよい」

 

勘十郎兄上も、わずかに口元を和らげる。

 

「治部大輔」

「は」

「昼の顔より、だいぶましだな」

「またそこですか」

「そこだ」

 

まったく容赦がない。

だが、今はそれが少しありがたかった。

 

上総介兄上が、俺を見たまま言う。

 

「お前、ようやく肩が落ちたな」

 

そこで初めて、自分でも気づいた。

 

たしかに、肩の力が抜けていた。

昼からずっと、城門での迎えだの、典厩信繁たちとの応酬だの、田代の見え方だの、真理姫とお市のことだの、頭の中でいろいろ張ったままだった。

 

それが今、ようやく少しだけ落ちている。

 

「……はい」

「何だ」

「ようやく、です」

 

上総介兄上が、喉で笑った。

 

「そうか」

 

勘十郎兄上が、そこで静かに言う。

 

「気を抜きすぎては困るが」

「分かっております」

「だが、今夜ここまでは、たしかによくやった」

 

その言い方は、勘十郎兄上らしかった。

手放しでは褒めない。

だが、必要なところでは必要なだけ認める。

 

俺は、小さく息を吐いた。

 

「ありがとうございます」

 

上総介兄上が、そこで少しだけ真面目な顔になる。

 

「治部大輔」

「は」

「今夜、よかったのは」

「はい」

 

「真理姫様を“武田の札”としてだけ扱わなかったことだ」

そこは、胸に残る言葉だった。

「お市も、そのつもりで動いておった」

 

「はい」

「お前も、昼よりはだいぶその顔になっていた」

「……昼よりは、ですか」

「昼はひどかった」

「もうよろしいでしょう、それは」

 

勘十郎兄上まで、そこで小さく笑った。

 

「だが、夕刻よりはずっとよろしい」

「勘十郎兄上まで」

「事実だ」

 

そのやり取りで、ようやく本当に座の空気が少しゆるんだ。

 

上総介兄上が立ち上がる。

 

「今夜はここまでだ」

「は」

「真理姫様のことは、まずお市に任せよ」

「はい」

「お前が今すぐ奥へ何度も顔を出せば、かえって姫も落ち着かぬ」

「分かっております」

「ならよい」

 

勘十郎兄上も立つ。

 

「明日からですな」

 

「うむ」と上総介兄上。

「明日から、少しずつ田代を見せる」

 

「はい」

「人を見せる。城を見せる。治部家を見せる」

「はい」

 

そこまで言われると、ようやく本当に“今夜は骨を通しただけ”なのだと実感が出る。

 

婚儀は成った。

だが、夫婦も、奥も、家の形も、明日から少しずつ立っていく。

 

上総介兄上が、最後にこちらを見る。

 

「治部大輔」

「はっ」

「まずは、よく収めた」

 

その一言は、短かった。

だが、兄上の口からそう出るなら十分だった。

 

勘十郎兄上も、隣で静かに頷く。

 

「ええ。今夜としては、上出来だ」

 

それを聞いた瞬間、胸の奥で張っていたものが、ようやく本当にほどけた気がした。

 

俺は深く頭を下げた。

 

「恐れ入ります」

 

上総介兄上が、いつものように軽く鼻を鳴らす。

 

「恐れ入るのは、まだ早い」

「はい」

「明日もある」

「はい」

「だが、今夜ここまでは悪くない」

「……はい」

 

その“はい”は、今度こそ素直に出た。

 

上総介兄上と勘十郎兄上が部屋を出ていく。

その背を見送ってから、俺は一人だけ、しばらくその場に残った。

 

灯りはもうだいぶ低い。

冬の夜気が、障子の向こうからじわりと滲む。

 

婚儀は立った。

真理姫は、少なくとも“温かい”と言った。

お市も、真理姫も、今夜はひとまず違えずに済んだ。

兄上方も、よく収めたと言った。

 

そこまで来て、ようやく肩の力が本当に抜けた。

 

「……疲れたな」

 

誰に聞かせるでもなく、小さく漏れた。

 

だが、その疲れは嫌なものではなかった。

押し切られて終わった疲れではない。

どうにか収めて、次へ繋いだあとの疲れだ。

 

俺は、そこでようやく少しだけ笑った。

 

昼間、お市に“一番おろおろしておられます”と言われた時よりは、たぶんだいぶましな顔をしていたと思う。

 

 

 

 

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