織田家の嫡子~藤左衛門家の特異点   作:デトロ!開けろイト市警だ!

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023花も実もある

夜が深くなるほど、奥向きの音は小さくなる。

 

女中たちの足音も、湯を替える気配も、戸を引く手つきも、どれも昼のそれより半分ほど軽くなる。

そうでなければ、ようやく落ち着きかけた姫の気をまた立ててしまう。

 

お市は、一度自分の部屋へ戻ってからも、完全には気を抜かなかった。

 

婚儀の式はなった。

真理姫も、表向きはきちんと座を収めた。

「温かい」とも言った。

 

あれはたしかに偽りではなかったと思う。

けれど、温かいと感じたことと、そのまま安らかに眠れることは、まるで別だ。

 

お市自身がいちばんよく知っていた。

 

だから、夜もだいぶ更けてから、女中をひとりだけ伴って真理姫の部屋の前まで行った。

 

「お市様」

 

控えていた女中が、すぐに小さく頭を下げる。

 

「真理姫様は」

「お休みにはなっておいでですが……」

 

そこで、女中が言葉を少し濁した。

 

お市は、その濁し方だけでだいたい察した。

 

「まだ、浅いのですね」

「はい」

「お声を上げたりは」

「いえ。そういうことは」

「そう」

 

そこまでなら、むしろよかった。

 

悪夢にうなされているわけでも、泣き崩れているわけでもない。

ただ、眠りが浅い。

つまり、身体は横になっていても、心がまだ遠い。

 

お市は、障子の前で一度だけ息を整えた。

 

「少しだけ、入ります」

 

女中が音を立てぬよう障子を開ける。

 

部屋の灯りは落としてある。

真っ暗ではない。

夜半に目を覚ました時、見知らぬ部屋が完全な闇だと、かえって人は心細くなる。

だから、お市は最初から灯りを細く残させていた。

 

その薄明かりの中に、真理姫の姿があった。

 

横にはなっている。

だが、寝入った人の身体ではない。

肩から首へかけての線が、ほんの少し固い。

目を閉じていても、眠れていないのが分かる。

 

お市は、無理に声を掛けなかった。

まずはそのまま、少し近くまで行く。

 

すると真理姫が、やはり気づいたらしい。

うっすらと目を開け、慌てて起きようとした。

 

「そのままでよろしいのですよ」

 

お市がすぐに言う。

 

真理姫は、半ば起きかけた姿勢のまま止まった。

 

「……お市様」

「ええ」

「申し訳ございません」

 

その第一声が、それだった。

 

お市は少しだけ目をやわらげる。

 

「何が、にございますか」

「まだ、眠れておりませぬ」

 

その声は小さい。

だが、妙に張りつめてもいない。

隠しきれないことを、ようやく認めた声だった。

 

「そうですか」

 

お市は、責めも驚きもせず、そのまま受けた。

 

「はい」

「寒うございますか」

「いえ」

「苦しゅうございますか」

「それも、いえ」

「では」

 

お市は、少しだけ声を落とした。

 

「ただ眠れぬのですね」

 

真理姫は、そこでようやく小さく頷いた。

 

その頷きが、ひどく幼く見えた。

 

昼も。

夜の祝言でも。

真理姫はきちんと座っていた。

武田の姫として、治部家へ来た姫として、出来る限り崩れぬようにしていた。

 

だが今は違う。

夜半の部屋で、もうその張りを完全には保てない。

 

お市は、そっと真理姫の枕元から少し離れたところへ座した。

近づきすぎない。

だが、遠くもない。

その距離を取る。

 

「温かい、と仰ってくださいましたね」

 

真理姫の目が、少しだけ揺れる。

 

「……はい」

「あれは、偽りではございませんでしたか」

 

真理姫はすぐには答えなかった。

けれど、やがてはっきりと言った。

 

「偽りでは、ありませぬ」

その声には、むしろ昼より芯があった。

「本当に……思っていたより、温かく」

 

「ええ」

「皆さま、丁寧にしてくださいます」

「はい」

「叔父上も、山県殿も、高坂殿も、ここまでずっと……」

 

そこまで言って、真理姫は少しだけ目を伏せた。

 

お市は、静かに待つ。

 

「ここへ参ってからも、お市様も、上総介様も、勘十郎様も、治部殿も」

その名を一つずつ、真理姫はきちんと置いた。

「皆さま、私を粗末にはなさいませぬ」

 

お市は、小さく頷いた。

 

「それなら、ようございました」

 

真理姫は、そこでほんの少しだけ苦しそうに笑うような顔をした。

 

「だからこそ、かもしれませぬ」

「何が、にございますか」

「温かい、と感じてしまったので」

 

その言い方が、お市にはよく分かった。

 

冷たい場所なら、心は先に固まる。

期待もしない。

傷つく余地も、ある意味では狭くなる。

 

けれど、温かいと感じてしまえば、今度はその温かさの中で、自分の傷が浮く。

 

真理姫は、少し沈黙してからぽつりと言った。

 

「……木曾でも」

 

そこで、また言葉が詰まる。

 

お市は追わない。

ただ、聞ける形の沈黙を置く。

 

真理姫は、自分でその先を継いだ。

 

「最初から、何もかも冷たかったわけではありませぬ」

「ええ」

「ですが、だんだん……」

 

それで十分だった。

 

お市は、昼に信繁から聞いたことを思い出していた。

 

数え六つで木曾義昌へ輿入れ。

初潮が来たのもごく最近。

夜を共にすることもなく、それでいて石女呼ばわり。

その傷は、今ここで無理に言葉にさせるべきものではない。

 

お市は、静かに言った。

 

「温かい場所へ来たからといって、すぐに安心して眠れるとは限りませぬ」

 

真理姫が、お市を見る。

 

「……はい」

「むしろ、温かいからこそ、今まで寒かったところが急に痛むこともございます」

 

その一言で、真理姫の目が少し大きくなった。

 

たぶん、そう言われたのは初めてだったのだろう。

 

「痛む……」

「ええ」

「傷は、冷えている間より、温まった時の方が痛むこともございます」

 

真理姫は、しばらく何も言わなかった。

けれどその沈黙は、否定ではない。

胸の内で何かがぴたりと合った時の沈黙に近かった。

 

やがて、小さく言う。

 

「それ、かもしれませぬ」

「ええ」

「今までより、ずっと怖いというわけではないのです」

「はい」

「けれど、だからといって楽でもなく」

「はい」

「何だか、胸の中がじんとして」

 

お市は、そこでようやく少しだけ真理姫の方へ身を寄せた。

 

「それなら、今夜は眠れなくてもよろしいのですよ」

 

真理姫が、はっとしたように目を上げる。

 

「よろしい……のでしょうか」

「ええ」

「無理に眠ろうとなさらなくてよろしい」

「ですが」

 

「今夜は、長い一日にございます」

お市の声は、ひどく静かだった。

「木曾を離れ、岩村を経て、田代へ入り、婚儀もございました」

 

「……はい」

「眠れぬ方が、自然なくらいです」

 

その言葉で、真理姫の肩がほんの少しだけ落ちた。

 

“眠れないのは駄目だ”

そう思っていた気配が、ようやくほどける。

 

「では」

真理姫は、おそるおそる聞く。

「どうすれば、よろしいのでしょう」

 

お市は、少しだけ考えてから答えた。

 

「眠れぬなら、眠れぬままでよろしいのです」

真理姫は目を瞬く。

「ただ」

 

「はい」

「ひとりで胸の内をきつく握りすぎぬよう」

 

その一言で、お市は自分がここへ来た意味をようやく言葉にした気がした。

 

眠らせるために来たのではない。

眠れぬなら眠れぬままでいいと、言いに来たのだ。

 

「少し、お話しなさいますか」

「……よろしいのですか」

「ええ」

「長くなくてよろしいのです」

 

真理姫は、少しだけ迷った。

それから、昼よりもずっと小さな声で言った。

 

「では、少しだけ」

 

その“少しだけ”でよかった。

 

お市は、無理に何かを聞き出すつもりはなかった。

ただ、真理姫が自分の速さで、少しずつこの部屋の夜へ馴染めるように、その隣にいるだけでよい。

 

真理姫は、しばらく黙っていたあとで言った。

 

「お市様は……」

「はい」

「本当に、お美しゅうございますね」

 

不意打ちのようなその言葉に、お市はほんの少しだけ目を瞬いた。

 

真理姫は、少し恥じたように続ける。

 

「甲斐で聞いていたのです。けれど、実際にお会いすると……」

 

そこまで言って、どう言えばよいか分からなくなったらしい。

 

お市は、わずかに苦笑した。

 

「それは、今の場に必要な話でございましょうか」

 

「いえ……でも」

真理姫は小さく首を振る。

「少し、ほっとしたのです」

 

「私の顔で、ですか」

「はい」

 

「こんなことを申すのは、おかしいのかもしれませぬが」

お市は、その先を促さず待った。

「お美しい方は、怖いのではないかと少し思っておりました」

 

「まあ」

「けれど、お市様は違いました」

 

お市は、その言葉にどう返すべきか少し迷った。

だが、今は変に笑って流すのも違う。

 

「ありがとうございます」

 

そう言うと、真理姫は少しだけ安心したように目を伏せた。

 

夜はまだ深い。

真理姫はまだ眠れない。

けれど、“眠れないままでいてよい”と分かっただけでも、今夜は少し違う夜になるだろう。

 

お市は、そう思いながら、真理姫の小さな声に合わせて、ゆっくりと相槌を返していった。

 

 

田代城を辞したあとの夜道は、来た時とは少し違って見えた。

 

行きは、真理姫を送り届けるための道だった。

まだ相手の城の顔も、迎える者たちの気配も、最後までは読めぬまま進む道。

 

だが今は違う。

 

真理姫は奥へ入った。

岩村で織田本家が受け、田代で治部家が迎えた。

婚礼の儀も、その夜のうちに適宜行われた。

 

送り手としての大きな役目は、ひとまず果たしたと言ってよかった。

 

それでも、武田典厩信繁、山県三郎兵衛昌景、高坂弾正忠昌信の三人は、しばらく口数少なく馬を進めていた。

 

冬の夜気は冷たい。

馬の吐く息が白く、月の光はどこか硬い。

そういう静けさの中では、さっき交わした言葉が妙に長く胸へ残る。

 

最初に口を開いたのは三郎兵衛昌景だった。

 

「……変な若造でありましたな」

 

典厩信繁も弾正昌信も、すぐには返さない。

その沈黙で、昌景の言う“若造”が誰かは十分通じていた。

 

織田治部大輔信繁。

 

桶狭間の前に自ら元服を願い出て、典厩信繁にあやかって名を取った男。

義元を自らの手で討ち、一色左京大夫義龍を討ち、美濃を動かし、お市を娶り、いまや武田の姫を迎える側にいる。

 

昌景が続ける。

 

「だが、嫌いではない」

 

その言い方が、いかにも昌景らしかった。

 

軽口のようでいて、実はかなり重い。

この男は、好かぬ者をわざわざそう評したりはしない。

 

高坂昌信が、わずかに口元を和らげる。

 

「ええ」

 

「気に入ったか」と典厩信繁が問う。

 

「気に入った、と申しますと少々軽うございますが」

昌信は静かに前を見たまま言う。

「真理姫様には、悪くない縁かもしれませぬな」

 

その一言で、夜道の空気が少しだけ深くなる。

 

送り手としての感傷ではない。

ただの外交でもない。

真理姫のこれまでを知った上で、あの田代城での出迎え方と、治部大輔信繁の言葉と、お市の身の処し方を見たうえでの評だった。

 

昌景が、低く鼻を鳴らす。

 

「悪くないどころか、思うていたよりずっとましだ」

 

「まし、ですか」と昌信が少し笑う。

「真理姫様の立場を考えれば、それでも十分重い言葉かと」

 

「そうだ」

昌景はまっすぐだった。

「姫を雑に扱う城ではない」

 

「うむ」と典厩信繁。

「姫をただの札とは見ておらぬ」

 

そこは、三人の見立てが揃っていた。

 

岩村で本家が受けたこと。

田代で治部家が、儀礼より一段深く敬意を尽くして迎えたこと。

十兵衛、左近将監、慶次郎、助右衛門の置き方。

お市が奥から出てきたこと。

そして、最後に治部大輔信繁が口にした、あの願い。

 

――甲斐の味付けに詳しい者を、数日でよいから置いてほしい。

 

昌景が思い出したように言う。

 

「まさか、甲斐の飯の話をするとは思わなんだ」

 

昌信が、わずかに笑った。

 

「そこが、かえってようございました」

「なぜだ」

「贅を張るためではなく、真理姫様に“故郷の味”を食べてもらいたい、と申したのでしょう」

「うむ」

「それは、姫を家の内へ入れる気がなければ、なかなか出ぬ願いにございます」

 

昌景は、そこで短く頷いた。

 

「たしかに」

 

典厩信繁は、無言のまま馬の首筋を軽く撫でた。

 

あの若武者は、本気だった。

見栄でも、武田へのご機嫌取りでもない。

真理姫が尾張の味ばかりでは心細かろうと、そこまで考えた。

 

そして、それを典厩信繁にまっすぐ願った。

そのことの重みを、典厩信繁はまだ静かに噛んでいた。

 

昌信が、少ししてから言う。

 

「お市殿も、ようございました」

 

「うむ」と典厩信繁。

「あの姫がおれば、真理姫様も奥でひどく孤立はせぬだろう」

 

「それが大きい」と昌信。

「お市殿は、ただ美しいのみではありませぬ」

 

「違いない」と昌景。

「あれは強い」

 

そこへ典厩信繁も、珍しく少しだけ笑った。

 

「武家の姫よな」

 

短いが、十分な評だった。

 

少しの沈黙のあと、昌景がふと思い出したように言う。

 

「しかし、最後のあれは何でしょうな」

「何が」と典厩信繁。

 

「啄木鳥の羽は折れる、とか何とか」

 

昌信も、そこで横目を向けた。

 

「あれはたしかに妙にございましたな」

 

典厩信繁は、すぐには答えなかった。

 

夜道の冷えた空気の中で、その一言だけがなぜか妙に残っている。

 

啄木鳥の羽は折れる。

 

ただの戯言、と治部大輔信繁は言った。

だが、あの目は戯れの目ではなかった。

何かを知っている目でもない。

むしろ、言えぬものを、言える形へ無理に縮めて置いた時の目に近かった。

 

「はてな」

典厩信繁は、ようやく低く言った。

「それはいかなる意味で、と問うたが」

 

「ただの戯言、と申したのでしょう」と昌信。

「うむ」

「ならば戯言か」と昌景。

 

典厩信繁は、わずかに口元を動かした。

 

「……そう割り切るには、少し惜しい」

 

昌景が横目で見る。

 

「気になりまするか」

「少しな」

 

昌信は、それを聞いて小さく頷いた。

 

「では、忘れぬことです」

「忘れぬ、か」

「ええ。意味が分からずとも、折があれば思い出せばよい」

 

典厩信繁は、そこでようやく深く息を吐いた。

 

「そうしよう」

 

啄木鳥の羽は折れる。

 

何のことかは分からない。

だが、あの若武者は、真理姫のことをただの札と見ず、故郷の味にまで気を回し、そのうえで最後にあの一言を置いた。

 

ならば、ただの戯言として捨ててしまうのも違う気がした。

 

昌景が、そこで小さく笑った。

 

「まったく、最後まで変な若造だ」

「違いない」と昌信。

「ですが、だからこそ覚えておけるのでしょう」

 

その通りだった。

 

桶狭間。

義龍。

お市。

美濃。

真理姫。

 

大きな盤の真ん中へ立ち続けながら、最後に頼んだのが新しき姫の“故郷の味”で、去り際に残したのが“啄木鳥の羽”では、たしかに忘れにくい。

 

典厩信繁は、夜道の先を見た。

 

真理姫は、もう田代にいる。

あとは織田と治部家の内のことだ。

送り手として出来ることは、今はもう少ない。

 

だが少なくとも、送り先として悪い家ではなかった。

それだけは、はっきりしている。

 

「さ、参ろう」

典厩信繁が言う。

「甲斐へ戻る」

 

「は」と昌信。

「うむ」と昌景。

 

馬が、また静かに進み出す。

 

夜道は冷たい。

だが、その冷たさの中で、典厩信繁の胸には二つのことが残っていた。

 

真理姫を送り出すに足る家だった、ということ。

そして、啄木鳥の羽は折れる、という妙な一言。

 

どちらも、すぐには忘れぬだろうと思えた。

 

 

朝の気配で目が覚めた時、真理姫は一瞬だけ、自分がどこにいるのか分からなかった。

 

障子越しの光はやわらかい。

木曾の朝とも、甲斐の朝とも少し違う。

山の冷えはある。

だが、囲まれた空気の落ち方が違った。

 

見知らぬ天井。

見知らぬ灯りの名残。

見知らぬ部屋。

 

そこでようやく、ああ田代だと気づく。

 

昨夜、岩村を経てここへ入り。

婚儀の骨が通り。

お市と話し。

眠れぬまま少しだけ言葉を交わして。

いつの間にか、浅いながらも眠りへ落ちていたのだろう。

 

真理姫は、布団の上でしばらく動かなかった。

 

胸の内を探る。

 

怖さが消えたわけではない。

木曾を離れた寂しさも、離縁された痛みも、石女と囁かれた記憶も、きれいに消えるはずがない。

 

けれど。

 

昨夜よりは、少しだけ息がしやすい。

 

それに気づいて、真理姫はそっと目を閉じた。

 

“温かい”と言った。

あれは、その場を整えるための言葉ではなかった。

実際にそう感じたから口へ出た。

 

そして今朝も、その感じ方は消えていない。

 

冷たくない。

少なくとも、ここは最初から自分を責めたり測ったりする場所ではない。

そのことが、昨日よりもう少しだけ腹へ落ちている。

 

障子の向こうで、ごく小さく人の気配がした。

 

慌ただしくはない。

こちらが目を覚ますのを、急かさず待つ気配だ。

それだけで、また少し違う。

 

真理姫はゆっくり身を起こした。

 

すぐに障子の外から女中の声がする。

 

「真理姫様」

「はい」

「お目覚めでいらっしゃいますか」

「ええ」

「お湯をお持ちしてもよろしゅうございますか」

 

真理姫は、一拍置いてから答えた。

 

「お願いします」

 

すると、障子が静かに開く。

 

入ってきた女中の手つきは、昨夜と同じく無駄がない。

だが、無駄がないだけで冷たくはない。

水ではなく、まず温かい湯。

朝の顔を整えるための小さな道具類も、手の届きやすいところへ自然に置かれる。

 

真理姫は、その一つ一つを見ながら思う。

 

ここでは、自分が“いきなり立派に振る舞えるはず”とは思われていない。

かといって、子供扱いされているわけでもない。

姫として扱われながら、少しだけ息をつける余白がある。

 

それが、ありがたかった。

 

「昨夜は」

真理姫は、おそるおそる聞いた。

「……お市様は」

 

女中が、すぐにやわらかく答える。

 

「昨夜遅くまで、ご様子を案じておいででした」

 

真理姫の指先が、ほんの少しだけ止まる。

 

「そうでしたか」

「はい」

「今朝も、真理姫様がお目覚めになりましたら、まずは急がせずにと」

 

そこまで聞くと、真理姫の胸の内へ、また違う温度が落ちた。

 

急がせずに。

 

その言葉が、今の自分にはひどくありがたい。

 

木曾では、こういう朝に何を思っただろう。

たぶん、まず“ちゃんとしていなければ”だった。

それが出来ているか。

足りないところはないか。

見られて困る顔をしていないか。

 

今も、それがまるきり消えたわけではない。

だが、ここでは最初に“急がせずに”が来る。

 

それだけで、朝の形はずいぶん違う。

 

真理姫は、湯で手を温めながら、昨夜のお市の言葉を思い出していた。

 

ここへ来た姫として。

眠れぬなら眠れぬままでよい。

温かい場所へ来たからこそ、前の寒さが痛むこともある。

 

あの言葉を思い出すだけで、胸の奥にある痛みが“言ってよいもの”に少し変わる気がした。

 

隠し切れぬ痛みを抱えたままでも、ここにいてよい。

そう言われたに近いからだろう。

 

「真理姫様」

女中が、静かに次を問う。

「朝餉は、少し遅らせますか。それとも、先に軽く召し上がりますか」

 

その問い方もよかった。

 

もう決まっているものを出されるのではない。

選ばせるほど重くもない。

だが、今の自分の息の具合に合わせてよいのだと分かる。

 

真理姫は少し考えた。

 

「軽く、で」

「承知致しました」

 

そこへ、ふと昨夜のことがよみがえる。

 

故郷の味。

木曾の、いえ、もし差し支えなければ甲斐の味を、この田代でも。

 

治部大輔信繁がそう願ったことを、真理姫はまだ知らない。

けれど、城のどこかでその段取りがもう動き始めている。

そう思わせるくらい、この城は“迎えたあとの手”が早かった。

 

真理姫は、髪を整えられながら、障子の外の朝の光を見た。

 

昨日までは、尾張美濃はただ遠いだけの国だった。

そして今も、遠いことは遠い。

知らぬ家であることも変わらない。

 

けれど、遠いだけではなくなった。

 

ここには、お市がいる。

治部大輔信繁がいる。

上総介信長も、勘十郎信勝もいた。

奥の女中たちも、昨夜のうちに自分を“ここで息をついてよい姫”として扱った。

 

そのことを、一つ一つ思い出す。

 

まだ慣れない。

まだ怖さもある。

それでも、今日の朝は昨日の朝とは違う。

 

真理姫は、そっと息を吐いた。

 

「……少しだけ」

 

女中が手を止める。

 

「はい」

「眠れました」

 

それは、誰に向けた言葉でもないようでいて、たぶん自分に向けた言葉だった。

 

少しだけ。

本当に少しだけ。

けれど、それで十分なのだと思えた。

 

女中は何も言わず、ただ静かに頷いた。

 

その頷き方まで、この城らしいと思う。

大袈裟に喜ばない。

けれど、軽くも流さない。

 

朝はまだ始まったばかりだ。

ここから、田代での最初の一日が始まる。

 

真理姫は、ようやく自分の足がこの城の朝に触れ始めた気がした。

 

 

朝の田代城は、昨夜の宴の盛り上がりや外交の張りを少しだけ残したまま動いていた。

 

婚儀の儀は終わった。

だからといって、城がいきなり平生に戻るわけではない。

むしろ翌朝の方が、よほどその家の地力が出る。

 

夜は、どうしても勢いで通せるところがある。

人を揃え、灯を整え、礼を違えず、ひと晩の骨を押し通す。

それはそれで力だ。

 

だが朝は違う。

疲れが残る。

気が緩む。

段取りの粗が見える。

奥も表も、昨夜の続きをそのまま引きずれば、すぐ顔に出る。

 

だから俺は、朝餉の前にまず十兵衛と左近将監を呼んだ。

 

二人とも、顔に露骨な乱れはなかった。

さすがと言えばさすがだが、目の奥には昨夜遅くまで走り回った色が少しだけ残っている。

 

「よく持たせたな」

 

俺がそう言うと、十兵衛は静かに頭を下げた。

 

「皆がよく動きました」

「そういう返しをすると思った」

 

左近将監は、そこで小さく笑う。

 

「十兵衛はそう言うわな」

「違うのか」

「違わんな」

 

そこは即答だった。

 

「だが、治部様が昨日みたいに表で踏ん張ってくれたのもでかい」

「そうか」

 

「そうです」

左近将監は、畳に片手をつきながら続けた。

「岩村からの渡しはよく出来てましたし、田代の城門前も悪くなかった。典厩殿らも“これはひどい”って顔はしてなかった」

 

「していなかった」

「なら上々でしょう」

 

十兵衛が、そこへ整えるように口を入れる。

 

「昨夜の収まりも、まずはようございました」

「申せ」

「祝言の座は違えずに済みました」

「うむ」

「上総介様、勘十郎様、お市殿、それぞれの置き方も自然でした。真理姫様も、過度に崩れず、しかし張り詰めすぎてもおられなかった」

「お市のおかげだろうな」

「大きうございました」

 

そこは、俺も異はなかった。

 

「奥は」と俺。

 

十兵衛は少し考えてから言う。

 

「お市殿がかなりうまく受けておられます」

「かなり、か」

「はい」

「真理姫様を“武田の姫”としてのみ立たせず、かといって軽くも扱わぬ。そのあたりの塩梅が見事でした」

 

左近将監も、そこで珍しく真面目に頷いた。

 

「女中衆の動きまで、あれでかなり違う」

「どう違う」

 

「奥が“新しい側室様を迎える”って空気になってないのです」

それは、かなり大きい。

「“ここへ来た姫様を迎える”になっておりまする」

 

「……なるほど」

 

そこまで出来ているなら、たしかに奥はかなり良い。

 

十兵衛がさらに続ける。

 

「今朝も、真理姫様を急がせぬようにと、お市殿から細かく指示が出ております」

「そうか」

「はい」

 

「ですから」

そこで十兵衛が、少しだけ言葉を選んだ。

「治部殿も、今朝すぐに“夫の顔”で強く出ぬ方がよろしいかと」

 

そこは、俺も同じことを考えていた。

 

「“昼の顔”で会う、か」

 

「はい」

左近将監が、横から雑に入る。

「いきなり距離詰めたら、そら姫様もしんどいでしょう」

 

「雑だが、その通りだ」

 

「雑で結構」

左近将監は肩を竦める。

「昨日の夜は婚礼の骨。今日は、田代での最初の昼です」

 

「うむ」

「なら今日は、“夫婦”を押し出すより、“この城の主”として、姫様が息をしやすいように会う方がよいでしょう」

 

それも、まったくその通りだった。

 

俺は、少しだけ息を吐いた。

 

「では、どう処せばよいか」

 

十兵衛が、もう考えていたらしくすぐ答える。

 

「朝餉ののち、昼に近い刻がよろしいかと」

「うむ」

「真理姫様も、ひとまず朝を越え、奥向きの流れに少し触れられてからの方がよい」

「場所は」

「広すぎぬところを」

 

そこへ左近将監が足す。

 

「昨日の婚礼の間みたいに重い座敷はやめといた方がええな」

「うむ」

「奥に寄りすぎても、“もう奥そのもの”っちゅう圧が出る。表に寄りすぎてもよそよそしい」

 

「では」

俺は少し考えた。

「中の間か」

 

十兵衛が頷く。

 

「よろしいかと」

「人は絞る」

「はい」

「お市は」

 

そこで二人の目が少しだけこちらを見る。

 

俺は続けた。

 

「お市には、最初はいてもらった方がよいな」

 

十兵衛が、静かに頷く。

 

「ええ」

 

左近将監も言う。

 

「いていただいた方がよいでしょうな」

「やはりか」

「昨日からの流れを、奥で一番うまく繋いでるのはお市殿です」

 

そこは異論がない。

 

「ただし」と十兵衛。

「お市殿がずっと話の前に立ちすぎても、今度は治部殿と真理姫様の間が立ちませぬ」

 

「分かっている」

「ですので、最初の気を和らげるところまではお市殿、そのあと少し引いて頂く形がよろしいでしょう」

「そのようにしよう」

 

話がそこまでまとまると、だいぶ見えてきた。

 

今朝は急がぬ。

真理姫に城の朝を少し吸わせる。

昼に近い刻、中の間。

人は絞る。

お市が最初を繋ぎ、途中で半歩引く。

俺は“夫の顔”を押しつけず、まずは“この家の主”として会う。

 

そこへ、障子の向こうから半兵衛の声がした。

 

「入ってもよろしいですか」

「何だ」

 

半兵衛が入ってくる。

すでに台所の朝の流れを一通り見てきた顔だ。

 

「朝餉は、真理姫様に軽く」

「うむ」

「甲斐寄りとはまだ参りませぬが、尾張美濃の味を強くしすぎぬように致しました」

「よい」

「それと、甲斐の賄い方を迎えるための支度も進めております」

 

そこは、昨夜の典厩信繁との約束だ。

 

「早いな」

「城に馴染ませるなら、早い方がよろしい」

 

半兵衛は本当にこういうところが強い。

人の心を直に慰めるのはうまくなくとも、城の流れに乗せてそれをやるのはひどく上手い。

 

「昼の対面は」と半兵衛。

 

「中の間だ」と俺。

「お市も入る」

 

「承知しました」

「茶は」

「濃くしすぎぬ方がよろしいでしょう」

「うむ」

「甘味も、あまり子供扱いに見えぬ程度に少し添えます」

 

左近将監が、そこで少し笑う。

 

「お主、そういうとこはやたら細かいな」

「台所はそういうところです」

「間違ってないけどな」

 

それで、だいたいの骨は決まった。

 

俺は三人を見回した。

 

「よし」

十兵衛、左近将監、半兵衛がそれぞれ姿勢を正す。

「今朝は急がぬ」

 

「はい」と十兵衛。

 

「だが、何もせぬわけでもない」

 

「うむ」と左近将監。

 

「昼に、中の間で会う」

 

「承知しました」と半兵衛。

 

「その時、真理姫様が“昨夜の続き”ではなく、“田代での最初の昼”として座れるようにしてくれ」

 

「はっ」と十兵衛。

「お任せ下さい」と左近将監。

「お任せを」と半兵衛。

 

それで三人は動き出す。

 

十兵衛は、対面の場の礼を違えぬよう女中や小者の立ち位置まで切り始める。

左近将監は、余計な人の流れを止め、中の間のまわりから“見物の気配”を消しに行く。

半兵衛は、朝餉から昼の茶までの流れを頭の中で組み替えていた。

 

三人の背を見送りながら、俺はようやく思った。

 

今日は昨日とは違う。

昨日は迎え、婚礼、礼。

今日は、その先だ。

 

真理姫がこの城で初めて迎える昼。

その時、俺がどういう顔で会うか。

そこから先の治部家の空気が、少しずつ決まっていくのだろう。

 

俺は、一度だけ奥の方角を見た。

 

お市がいる。

真理姫も、今はその近くにいるはずだ。

 

「……さて」

 

小さく呟いて立ち上がる。

 

昼までに、俺も俺の顔を整えねばならない。

 

おろおろしたままでは、さすがにもう会えない。

だが構えすぎても、また違う。

 

難しい。

だが、その難しさごと抱えて行くしかないのだろう。

 

 

茶を少し口にしたあとの真理姫は、昨夜よりも、今朝よりも、いくらか顔の張りがやわらいでいた。

 

まだ緊張はある。

だが、その緊張はもう“逃げ場のない初めて”の固さではない。

目の前にいる人たちが、少なくとも自分を急かしたり押しつけたりするつもりはないと、少しだけ分かったあとの固さだ。

 

だから、田代の内を少しだけ見て回る、という話にも、真理姫は素直に頷けたのだろう。

 

最初は、お市が隣にいた。

俺は少し前。

その少し後ろに、真理姫付きの女房たちが控える。

 

いきなり城中の隅々まで見せるのではない。

奥から近いところ。

湯殿へ続く廊。

庭の見える一角。

女中の控え。

そして、昼の支度でうっすらと火の気のある台所の外側まで。

 

「ここが」

お市がやわらかく言う。

「今朝、お湯を整えさせていたところです」

 

真理姫が、小さく頷く。

 

「はい」

「こちらは、奥向きの者が普段多く通る廊になります」

「ええ」

 

真理姫は、ひとつひとつをよく見ていた。

ただ物珍しさで見るのではない。

これから自分が日々の中で使うことになる場として見ている。

 

そこが、昨夜とは違うところだった。

 

台所の前まで来た時だった。

 

中では、半兵衛が何やら細かく指図している声がする。

いつもの静かな調子なのに、台所に入ると妙に怖い。

あれはもう半分、台所の神様みたいなものだなと、少しだけ思った。

 

お市が足を止める。

 

「ここは、今はまだ慌ただしゅうございますが」

「はい」

「治部殿が、少し味のことを気にしておいででした」

 

真理姫が、そこで俺を見る。

 

「味、にございますか」

 

「うむ」

そこは、もう隠しても仕方がない。

「当家の味付けは尾張もしくは美濃流だ」

 

「はい」

 

「だが、そればかりでは真理姫殿も落ち着かぬだろうと思ってな」

真理姫の目が、少しだけ揺れる。

「それで、甲斐の味に近づけられぬかと、考えていた」

 

その時、真理姫付きの女房たちの中から、一人が遠慮がちに進み出た。

 

年は若すぎず、老いすぎず。

物腰は控えめだが、ただ控えているだけの女ではないと分かる顔つきだった。

 

「恐れながら」

 

お市が、その女へ目を向ける。

 

「申してみなさい」

「はい。真理姫様付きにございまするが……台所のこと、少し心得ております」

 

俺もお市も、少しだけ目を見合わせた。

 

「そなた、料理が出来るのですか」とお市。

 

「人並みには。躑躅ヶ崎館にて、下の者として教わったこともございます」

 

真理姫が、そこで少しだけ顔を上げた。

 

「そなたが」

 

「はい」

女房は深く頭を下げる。

「木曾へ入る折も、わずかばかり覚えたものを持って参りました」

 

そこで、真理姫の顔がほんの少し陰る。

たぶん木曾では、その腕を十分振るう場もなかったのだろう。

 

俺は、その変化を見ながら言った。

 

「なら、まずはそなたに教わるのが早いな」

 

半兵衛が、ちょうど台所からこちらへ顔を出した。

どうやら話の流れは聞こえていたらしい。

 

「治部殿」

「何だ」

「それが一番よろしいかと」

「うむ」

「甲斐の躑躅ヶ崎館から賄い方を呼ぶ手も、もう打っております。ですが、それが着くまで待っていては遅い」

 

そこへ、お市もすぐ乗った。

 

「では、まずはその方に、こちらの台所へ味を教えて頂きましょう」

 

「はい」と半兵衛。

「今日よりでも」

 

女房は、少し驚いたようだったが、すぐに頭を下げた。

 

「恐れ入ります。及ばずながら」

 

真理姫は、その女房を見ていた。

 

甲斐から連れてきた者。

自分付きの女房。

その中に、故郷の味を知る手がある。

そのこと自体が、少し心強かったのだろう。

 

半兵衛が、珍しく少しだけ気を利かせた言い方をした。

 

「真理姫様」

「はい」

「今日はまだ、あまり大きくは変えられませぬ」

「ええ」

「ですが、今あるもので近づけるところまでは近づけます」

 

真理姫は、小さく頷いた。

 

「……お願いいたします」

 

「お任せを」

半兵衛は女房へ向き直る。

「名は」

 

「しの、と申します」

 

「しの殿」

その呼び方が、半兵衛らしくきちんとしている。

「では、まずは一品でよい。甲斐の味を、こちらで整えて頂きたい」

 

しのは深く頭を下げた。

 

「承知致しました」

 

そこからの台所は、妙に早かった。

 

半兵衛が流れを作り。

しのが味を口で伝え、手で示し。

田代の台所衆が、その“少しの違い”に目を丸くしながら真似ていく。

 

味噌の合わせ方。

塩の立て方。

汁の落ち着かせ方。

尾張流より少しだけ輪郭の立つ甲斐の味。

木曾でも、土地が違えば水が違い、火の入り方が違い、同じにはならない。

それでも、しのはどうにか“あの味”へ寄せようとしていた。

 

真理姫は、その様子を最初は少し離れて見ていた。

だが、やがてお市に促されて、台所の手前まで来た。

 

「よろしければ」

お市が言う。

「少しだけ、お味見なさいますか」

 

真理姫は、ほんの少し迷った。

だが、頷いた。

 

小さな椀に、ほんのひと口。

まだ完全ではない。

躑躅ヶ崎館そのままでもない。

けれど、しのが寄せようとした“甲斐の味”が、そこに確かにあった。

 

真理姫は、そっと口へ運ぶ。

 

その瞬間だった。

手が止まった。

 

お市も、俺も、半兵衛も、しのも、誰もすぐには声を掛けなかった。

 

真理姫の目が、はっきりと揺れたからだ。

 

もうひと口。

今度は確かめるように。

それから、ほんの小さく息を吸う。

 

「……これ」

 

声が、うまく続かない。

 

「はい」としのが言う。

「まだ完全ではありませぬが」

 

真理姫は、首を横に振った。

その振り方が、もう言葉より先だった。

 

ぽろり、と涙が落ちた。

 

真理姫自身が、一番驚いたような顔をした。

泣くつもりではなかったのだろう。

だが、味が先に胸へ届いてしまった。

 

「真理姫様」

 

お市が、すぐには触れず、声だけをやわらかく置く。

 

真理姫は、椀を持ったまま、こぼれる涙を止められなかった。

 

「木曾でも……」

 

そこで、また言葉が詰まる。

 

しのが、はっとしたように目を伏せる。

 

真理姫は、涙の混じる声で続けた。

 

「木曾谷でも、味わえなかったのです」

 

その一言は、ひどく重かった。

 

甲斐から嫁いだ。

けれど、木曾では甲斐の味そのものはもう遠かった。

遠慮もあっただろう。

立場もあっただろう。

そして何より、そんなことを望んでよい空気では、たぶんなかったのだ。

 

故郷を離れた姫が、故郷の味を欲しがる。

そのくらいのことすら、木曾ではうまく叶わなかった。

 

だからこそ、今ここで、田代で、それが出てきた。

しかもまだ着いて半日も経たぬうちに。

 

そのことが、胸の堤を一気に切ったのだろう。

 

お市が、ようやく一歩だけ近づいた。

 

「真理姫様」

 

真理姫は、泣きながらもどうにか姿勢を崩さぬようにしている。

それが余計に痛々しい。

 

「申し訳……ありませぬ」

「何が、にございますか」

「私……こんなことで」

 

「こんなことではありませぬ」

お市の声は、はっきりしていた。

「故郷の味にございます」

 

真理姫が、涙の中で顔を上げる。

 

お市は続ける。

 

「それで涙が出るのは、少しもおかしなことではありませぬ」

 

しのもまた、深く頭を下げた。

 

「真理姫様……」

 

真理姫は、しのの方を見て、かすかに首を振る。

 

「そなたが、悪いのではありません」

「はい」

「……嬉しくて」

 

その言い方で、ここにいる者はみな意味を悟った。

 

悲しいだけではない。

辛いだけでもない。

嬉しいのだ。

嬉しいからこそ、木曾で得られなかったものまで一緒に溢れてしまう。

 

俺は、そこでようやく口を開いた。

 

「真理姫殿」

真理姫が、涙を拭いきれぬままこちらを見る。

「甲斐の味は、これからも少しずつ寄せていく」

 

「……はい」

「躑躅ヶ崎館の賄い方も、後日こちらへ来てもらうよう手を打った」

 

その言葉に、真理姫の目がまた大きく揺れた。

 

「そこまで」

「うむ」

「無理のないところからでよい。だが、田代でも“故郷がまるで消えた”とは思わぬようにしたい」

 

真理姫は、もう何も言えなかったらしい。

ただ、深く、深く頭を下げる。

 

お市が、その様子を見ながら静かに言った。

 

「今は、泣いてよろしいのですよ」

 

その声で、真理姫はようやく少し肩を落とした。

 

台所の中は静かだった。

火の音だけが、小さく続いている。

 

そこは、ただの一品だった。

婚礼の大膳でもなければ、豪奢な饗応でもない。

 

だが、たったその一椀が、真理姫にとっては昨夜のどんな言葉よりも深く“ここは違う”と伝えたのかもしれなかった。

 

木曾谷でも味わえなかった甲斐の味が、田代で先に戻ってくる。

 

それは、ひどく象徴的なことのように思えた。

 

 

真理姫の涙が少し落ち着くまで、誰も無理に次の言葉を重ねなかった。

 

お市はすぐそばにいたが、抱き締めるでも、過剰に慰めるでもない。

しのは深く頭を下げたまま、主の涙を見て自分まで胸を詰まらせている。

半兵衛は台所の流れを止めぬよう周りへ目を配りながら、しかし今はこの一椀が持った重みをきちんと見ていた。

 

やがて真理姫がどうにか息を整え、涙を拭ったところで、お市が静かに言った。

 

「では」

真理姫が顔を上げる。

「しのは、このまま真理姫様付きに置きます」

 

しのが、はっとしてお市を見る。

 

「お市様」

「そなたは、これまで通り真理姫様の女房であり続けなさい」

「はい」

「そのうえで、奥の台所とも深く手を繋いで頂きます」

 

そこは実にお市らしい決め方だった。

 

しのを田代の台所へ取り上げるのではない。

真理姫から切り離しもしない。

あくまで真理姫付きの女房のまま、しかし味のために奥の台所へ通す。

その方が、しのの腕も生きるし、真理姫も心細くない。

 

お市は半兵衛へ向き直る。

 

「半兵衛殿」

「はい」

「しのには、奥の台所へ自由に入って頂きたいのです」

 

半兵衛はすぐに頷いた。

 

「承知致しました」

「甲斐の味、木曾での変え方、こちらの水や味噌との差」

「はい」

「そのあたりを、そなたとしので少しずつ田代に移していってくださいませ」

 

半兵衛は、珍しく感心したように目を伏せた。

 

「それにしても」

「はい」

 

「味付け一つで心をほぐすとは」

そこまで言って、真理姫を見、それからお市を見る。

「某にはない発想でございます」

 

その言い方が、いかにも半兵衛だった。

皮肉ではない。

本当に、自分のこれまでの思考にはなかった一手だと認めている。

 

お市は、それを聞いてほんの少しだけ目元を和らげた。

 

「そうでしょうか」

「はい。某なら、水の流れと人の動きを整える方へ先に参ります」

「それも大事にございます」

 

「ええ。ですが」

半兵衛は、台所の方を一度だけ見た。

「人の心が、汁の一椀でここまで解けるとは」

 

そこでお市が、くす、と笑った。

 

「どなたかの食い意地が張っておいでなのでしょうか」

 

半兵衛が少しだけ目を瞬く。

真理姫もしのも、一瞬だけお市を見る。

だが、お市の視線は半兵衛ではなく俺へ向いていた。

 

「……俺か」

 

「上総介兄上に聞きましたが」

お市は、いかにも思い出したように続ける。

「治部殿は、出汁をとりたいがためだけに、椎茸の養殖に取り組まれたとか」

 

真理姫の目がわずかに動く。

しのも、思わず顔を上げた。

半兵衛の口元まで、珍しく少し緩む。

 

お市は続ける。

 

「今では尾張の名産品となっておりますが、昔から食べる物にもうるさかった覚えがございます」

 

そこまで言われると、さすがに苦笑するしかない。

 

「うるさい、は余計だ」

「左様でしょうか」

 

「どうせ食べるなら美味しいものが良い」

俺は、そこで少し肩を竦めた。

「せっかくの美味いものを不味くするのは無粋だし、不味いものを我慢して食べるのは、心までもが貧しくなる」

 

その一言に、半兵衛が静かに頷いた。

 

「……なるほど」

「今さら感心するな」

 

「いえ」

半兵衛は、ほんの少しだけ笑う。

「理屈として聞くと、妙に筋が通っております」

 

お市が、そこで涼しい顔で言う。

 

「物は言い様でございますね」

「何だその言い方は」

「治部殿の食い意地が、天下国家を語る口ぶりになっているだけでは」

「ひどいな」

「ひどくはございませぬ」

 

そこで、俺は真顔のまま言った。

 

「なるほど、どうやらお市は、自分だけ少し甘味を減らした方が良いと言ってるようだ」

 

お市が、ぱっとこちらを見る。

 

「それはひどい!」

 

真理姫が、そのやり取りに目を丸くしたあと、涙の名残のあるままほんの少しだけ笑った。

しのも、慌てて口元を押さえる。

半兵衛に至っては、今度こそはっきりと笑いを漏らした。

 

それでよかったのだろう。

 

泣いたあとの場を、無理にしめやかに戻しすぎない。

かといって、軽薄にもせぬ。

少しだけ笑える。

そのくらいが、ちょうどいい。

 

お市は、まだ少しだけむくれた顔で言う。

 

「治部殿は、本当にそういうところだけは口が回りますね」

「そういうところだけ、とは何だ」

「食べることと、減らすと言う時にございます」

「なら十分だろう」

「十分すぎます」

 

真理姫は、そこでようやく少し肩の力を落としたらしかった。

 

「……お市様」

「はい」

「治部殿は、いつもこのように」

 

お市が、即座に答える。

 

「だいたいこのようなものです」

「おい」

 

「でも」

真理姫は、ほんの少しだけ目を伏せ、それから言った。

「その方が、少しほっと致します」

 

その一言で、場の空気がまた少し静かにやわらいだ。

 

俺が何か言う前に、お市が真理姫へやわらかく頷く。

 

「それなら、ようございました」

そして、すぐ実務へ戻る。

「半兵衛殿」

 

「はい」

「しのを真理姫様付きのまま、奥の台所へ組み込んでくださいませ」

「承知致しました」

「今だけではなく、少しずつ田代の味として根づかせたいのです」

 

「そのように」

半兵衛は、今度は完全に台所方の顔になっていた。

「しの殿」

 

「はい」

「まずは朝夕、どちらか一つを甲斐寄りに致しましょう」

「承知致しました」

「無理に一度で全部を変えませぬ。変えすぎれば、今度は田代の台所が持ちませぬゆえ」

 

そこは、やはり実務家だった。

 

お市も頷く。

 

「少しずつでよろしいのです」

「はい」

「真理姫様が、“ここでも食べられる”と思われるように」

 

真理姫は、まだ少し赤い目で、けれど今度ははっきり頷いた。

 

「……はい」

 

その返事は、さっきよりずっと力が抜けていた。

 

台所の火は、なお小さく鳴っている。

その火の上で、これから甲斐の味が少しずつ田代へ移されていく。

 

それはただの料理ではなく、たぶん真理姫がこの城へ根を下ろすための、一つの土になるのだろうと思えた。

 

 

夕刻の田代は、朝とも昼とも違う落ち着き方をしていた。

 

城そのものはまだ若い。

出来上がった古城のような澄まし方はない。

だが、人が役へ収まり始めると、城は不思議と“その家の城”らしい呼吸をし始める。

 

その呼吸が、夕刻には朝よりも少しだけ見えた。

 

奥向きでは、しのが半兵衛の台所へ入り始めていた。

 

完全に任せるのではない。

かといって、見物のように横で眺めさせるのでもない。

半兵衛は最初から、しのを“教わる者”ではなく“一緒に形を作る者”として扱っていた。

 

「味噌は、こちらのものを使うしかありませぬ」

「はい」

「ただ、立て方はそちらへ寄せられる」

「ええ」

「塩は」

「少しだけ、あとで」

 

しのの返しは、控えめだが確かだった。

躑躅崎館そのままを押しつけるのではない。

田代の水、田代の味噌、田代の火で、どう甲斐の味へ近づけるか。

そこをよく分かっている。

 

半兵衛もまた、そういう手を嫌わない。

 

「なるほど」

「木曾では、水が違いましたので」

「うむ」

「ですから、躑躅ヶ崎館のままではありませぬ。けれど、真理姫様がお口に入れた時、“ああ”と思われるところへは寄せられるかと」

 

その“ああ”が肝なのだろう。

そっくりそのままでなくとも、口へ入れた瞬間に胸のどこかが緩む味。

 

半兵衛は、そこで小さく頷いた。

 

「では、その“ああ”を狙いましょう」

 

しのは、ほんの少しだけ驚いたように半兵衛を見た。

たぶん、そこまで言葉にしてもらえるとは思っていなかったのだろう。

 

「……はい」

 

夕刻の膳は、昼より控えめでよかった。

 

一日のうちでいちばん豪華に見せる必要はない。

むしろ今は、真理姫の心と胃に無理のないことの方が大事だ。

 

だから、数は多くしない。

だが、その中に一つだけ、しのが寄せた甲斐の味を入れる。

 

お市は、その置き方まで見ていた。

 

「前へ出しすぎぬように」

「はい」と女中。

「“ほら、これがそうです”では、かえって構えます」

「承知致しました」

「自然に、けれど埋もれぬように」

 

そこが、お市らしい。

 

善意を押しつけない。

だが、気づいてほしいところはきちんと届くようにする。

 

夕刻、真理姫は昨日より少しだけ自然な顔で膳の前に座していた。

 

まだ完全に落ち着いてはいない。

それでも、着いて二日目にもならぬ姫にしては十分だった。

 

お市がそばにいて、しのは少し離れたところで控えている。

俺も、今度は昨夜ほど構えずに座れていたと思う。

 

真理姫の前へ膳が置かれる。

 

お市が、やわらかく言う。

 

「今宵は、少しだけ趣向がございます」

 

真理姫が、膳へ目を落とす。

 

「趣向、にございますか」

「ええ」

 

それ以上は言わない。

そこで止めるのがよい。

 

真理姫は、まずいつものように一つずつ目で追った。

それから、ある椀のところでほんのわずかに目が止まる。

 

匂いだろう。

見た目もある。

けれど、たぶん先に届いたのは匂いだ。

 

真理姫は、そっと椀を取った。

 

昨日のように、いきなり皆の前で味見という形ではない。

今度は膳の一つとして、静かに口へ運ぶ。

 

その瞬間、真理姫の指がほんの少しだけ止まった。

 

だが、今日は昨日と違った。

 

すぐ涙にはならない。

驚きのあとで、一度きちんと飲み込む。

もうひと口、今度は確かめるように含む。

 

それから、ほんの小さく息を吐いた。

 

「……ああ」

 

その声は、狙いどおりの“ああ”だったのだろう。

 

半兵衛が、少し離れたところで目を伏せる。

しのは、膝の上で手を握り締めている。

お市は何も言わず、真理姫の次の言葉を待った。

 

真理姫は、椀を両手で持ったまま、しばらく黙っていた。

それから、今度ははっきりと口にした。

 

「……おいしい」

 

その一言は、昨日よりずっと静かだった。

 

涙をこぼすでもない。

堪えきれず崩れるでもない。

ただ、自分の中へその味をちゃんと落として、静かに“おいしい”と言う。

 

それが、かえって胸へ来た。

 

しのが、思わず頭を下げる。

 

「恐れ入ります」

 

真理姫は、小さく首を振った。

 

「しの」

「はい」

「これは、甲斐の味にございます」

 

しのの目が、少し潤む。

 

「まだ、まるきりそのままではございませぬが」

 

「それでも」

真理姫は、もう一口含む。

「木曾とも違います」

 

その言い方が、ひどく静かで、ひどく深かった。

 

木曾では得られなかった。

だから昨日は涙になった。

けれど今日は、涙ではなく、ちゃんと味わって“違う”と言える。

 

それは、昨日より一歩進んだということなのだろう。

 

お市が、そこでようやく言う。

 

「ようございました」

 

真理姫が、お市を見る。

 

「はい」

「今宵は、泣かずに済みました」

 

そこへ、お市もほんの少し笑う。

 

「それも、ようございました」

 

真理姫の口元にも、ごく小さな笑みが差した。

 

俺は、そのやり取りを見ながら、ようやく本当に胸の内で思った。

 

昨日は、故郷の味に胸が決壊した。

今日は、その味をこの城の膳として受けて、“おいしい”と言えた。

 

それなら、たぶん田代はもう少しずつ“よそ”ではなくなっていく。

 

半兵衛が、そこで静かに言った。

 

「しの殿」

「はい」

「これは残せます」

 

しのが、すぐに意味を取る。

 

「田代の味として、にございますか」

「ええ」

「まだ一品。されど一品あれば、次がある」

 

お市が頷く。

 

「少しずつでよいのです」

 

真理姫も、その言葉に頷いた。

 

「はい」

「急がずとも、ここへ置いていけるものはございます」

 

その一言に、お市の目がやわらぐ。

 

真理姫自身が、もう“故郷を思い出すだけの味”ではなく、“ここへ置いていける味”と受け始めているのだ。

それは大きかった。

 

俺は、そこでようやく少しだけ口を挟んだ。

 

「真理姫様」

「はい」

「今宵は、どうだ」

 

真理姫は、椀を見下ろしてから答えた。

 

「昨夜より」

一拍置く。

「少しだけ、田代におります」

 

その返しは、見事だった。

 

“慣れました”ではない。

“好きです”でもない。

だが、“少しだけ、田代におります”と言う。

 

自分の足が、もうこの城の床へ少し触れている。

そういう意味だろう。

 

お市は、静かに頷いた。

 

「それで十分にございます」

 

今は、本当にそれで十分だった。

 

 

夜の支度がひと通り済み、女中たちの出入りも少しずつ落ち着いていくと、部屋の中にはようやく静かな間が戻った。

 

昼や夕刻の奥向きは、どうしても人の気配が絶えない。

湯。

膳。

衣。

髪。

細々した用事が尽きぬからだ。

 

けれど今は、そのどれもが一度引いたあとの静けさだった。

 

真理姫は、灯りのそばに座していた。

昼より、夕刻より、いくらか顔の力が抜けている。

それでも、まだ完全にほどけきってはいない。

その半端さが、今の真理姫にはむしろ自然だった。

 

しのは、少し離れたところで明日の支度を整えていた。

だが、主が何か言いたげな時の気配には、長く仕えた者らしくすぐ気づく。

 

「真理姫様」

「うむ」

「お休みになります前に、何か」

 

真理姫は、すぐには答えなかった。

 

その沈黙は重くはない。

ただ、胸の中の言葉がまだ十分に形になっていない時の沈黙だった。

 

やがて、ぽつりと言う。

 

「しの」

「はい」

「今日のあれは……」

 

そこで少しだけ言葉が止まる。

 

しのは急かさない。

こういう時、先回りして言葉を置くと、かえって主の胸の形が崩れることを知っているからだ。

 

真理姫は、椀を持った時のことを思い出しているらしかった。

 

「あれは、甲斐でございました」

 

しのの手が、ほんの少しだけ止まる。

 

「はい」

 

「木曾では」

また少し沈黙が落ちる。

「木曾では、あのようには戻って参りませんでした」

 

その声は責めるものではない。

恨みでもない。

ただ、事実として自分の中に残っていたものを、ようやく口の外へ出した声だった。

 

しのは深く頭を下げる。

 

「……はい」

 

真理姫は続ける。

 

「木曾にも悪い人ばかりではなかったのです」

「ええ」

「皆が皆、私を冷たくしたわけでもない」

「はい」

 

「けれど」

そこだけ、少し胸が詰まる。

「欲しがってよいものと、欲しがってはならぬものが、あちらではもう決まっておったように思います」

 

しのは、唇をきゅっと結んだ。

 

それは女房として、ずっとそばで見てきた痛みだった。

真理姫は、まだ幼い。

初潮が来たのもつい最近。

それなのに石女と囁かれ、子がないことを責めるような目を向けられた。

それだけでも十分に寒いのに、故郷の味を懐かしむことすら、どこか遠慮せねばならぬ空気があった。

 

「甲斐の味が欲しい、と」

真理姫は自分の指先を見ながら言う。

「私、自分でも口に出さぬようにしておりました」

 

「はい」

「申しても仕方ないと思っていたのかもしれませぬ」

 

しのは、そこで初めて小さく声を返した。

 

「真理姫様」

「何です」

「申し訳ございませぬ」

 

真理姫が顔を上げる。

 

「そなたが謝ることではありません」

 

「ですが」

しのは、視線を落としたまま続ける。

「木曾へ参ってより、もっと早く、もっと強く、何とか出来たやもしれませぬ」

 

そこには、女房としての悔いがあった。

ただ付き従うだけでなく、主のために何か守れたのではないか。

少なくとも味の一つくらい、もう少し何とか出来たのではないか。

 

真理姫は、ゆっくりと首を振った。

 

「しの」

「はい」

「そなたは、ようしてくれました」

「……」

「今日の味が戻ったのも、そなたがいたからです」

 

しのの目が、少し潤む。

 

真理姫は、そこでほんの少しだけ笑った。

泣いたあとの、静かな笑みだった。

 

「木曾谷でも味わえなかった甲斐が、田代で先に戻るとは思いませなんだ」

 

その言い方が、しのみならず、この数日のすべてを包んでいた。

 

木曾では得られなかった。

だが、田代で戻った。

それは単に料理の話ではない。

失っていたもののうちの、ひとつがここで先に手へ戻ってきたということなのだ。

 

しのは、ようやく顔を上げた。

 

「真理姫様」

「うむ」

 

「わたくし、今日ようやく」

一度、言葉を切る。

「ここで働ける、と思いました」

 

真理姫が静かに聞いている。

 

「木曾では、真理姫様付きとしておそばにはおりましたが」

「ええ」

「何かを守るにも、何かを差し出すにも、どこか半歩届かぬままでございました」

「……はい」

 

「ですが、ここでは違います」

その声には、控えめながら確かな芯があった。

「お市様は、わたくしを真理姫様付きのまま台所へ入れてくださいました」

 

「ええ」

「半兵衛殿も、ただ下の者としてではなく、一緒に味を作る者として扱ってくださいました」

 

真理姫は、小さく頷いた。

 

「そうでしたね」

 

「ですから」

しのは、今度ははっきりと言った。

「ここなら、真理姫様のために働けます」

 

その一言は、真理姫にとっても大きかった。

 

自分だけではない。

しのもまた、ここへ来て“役に立てる場所”へようやく足を着けたのだ。

主にとっても、女房にとっても、それは救いだった。

 

真理姫は、しばらく黙っていたあとで言った。

 

「しの」

「はい」

「私、今日は泣きました」

「はい」

「昨日も泣きました」

「……はい」

 

「ですが」

そこで真理姫は、ほんの少しだけ背筋を伸ばした。

「今日は、昨日と違う涙でございました」

 

しのは、その意味をすぐに取ったらしい。

木曾でこぼれた涙でもなく、ただ心細くてこぼれた涙でもない。

嬉しくて、戻ってきて、胸がほどけてしまった涙。

 

「はい」

「だから、あまり恥じてはおりませぬ」

 

そこは、真理姫にしてはかなり大きな言葉だった。

 

しのも、その変化を感じたのだろう。

少しだけ顔をやわらげる。

 

「ようございました」

 

真理姫は、そこでまた少しだけ笑った。

 

「お市様が仰いました」

「はい」

「温かいところへ来たからこそ、前の寒さが痛むこともあると」

 

しのの目が、静かに揺れる。

 

「……さようでございますか」

「ええ」

 

「それを聞いた時、ああ、と思いました」

真理姫は自分の胸へそっと手を当てる。

「私、寒かったのですね」

 

その言い方は、ようやく自分にそれを認めた者の言葉だった。

 

しのは深く頷いた。

 

「はい」

「長うございました」

「ええ」

 

「ですが」

真理姫は、灯りを見ながら続けた。

「今日は、少し違いました」

 

しのもまた、その灯りを見る。

 

部屋は静かだ。

外も静かだ。

遠くで夜番の足音がするくらいで、木曾の頃のような、気を張って耳を立てる夜ではない。

 

「しの」

「はい」

「明日も、甲斐の味を教えてくれますか」

 

しのは、今度は迷いなく答えた。

 

「もちろんにございます」

「少しずつでよいのです」

「はい」

「田代の味になるまで」

 

その言い方が、真理姫の口から自然に出たこと自体、しのには嬉しかった。

 

戻すだけではない。

ここで新しく根づかせる。

そういう言い方になっている。

 

「そのように致しましょう」

 

しのが答えると、真理姫は小さく頷いた。

 

夜はまだ続く。

不安が消えたわけではない。

木曾の記憶も、石女と囁かれた傷も、そう簡単にはなくならない。

 

けれど、今夜の真理姫は昨日より少し違う顔で灯りを見ていた。

田代で戻ってきた甲斐の味と、ここで働けるようになったしのの安堵と、その二つが部屋の中に確かな温度を作っていたからだろう。

 

それなら、明日もたぶん少しだけ進む。

 

そう思えるだけで、この夜はもう昨日の夜とは違っていた。

 

 

 

 

 

 

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