織田家の嫡子~藤左衛門家の特異点   作:デトロ!開けろイト市警だ!

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024稲葉山城遷座

美濃を押さえた、という言い方は簡単だ。

だが、押さえたものを、どう持たせるかとなると話は別だった。

 

城は落ちる。

国も落ちる。

けれど、人の腹はそう簡単には落ち着かない。

道は昨日のままでは使えず、銭は昨日の勘定では回らず、旧主に恩を受けた者どもは、口では従っても心まで即座に変えるわけではない。

 

そこまで含めて初めて、平定と言える。

 

稲葉山城の天守に近い一室で、治部大輔信繁は障子を少しだけ開けた。

秋の気配が、長良川から薄く上がってくる。

尾張の風とは違う。

同じ湿りを帯びていても、こちらの方がわずかに高く、少しだけ硬い。

 

「もう、ここが本拠という顔をしているな」

 

後ろから声がした。

振り返ると、上総介信長が、いつもの気楽な顔で入ってくるところだった。

 

「城が、ですか」

「城もだが、景色がだ」

「尾張の城から見えるものとは違う。あれは尾張を見ていた。だがここは違う」

「ここは、もっと先を見る」

 

信繁は小さく頷いた。

 

清州は尾張の城だ。

尾張を押さえ、尾張を守るには向く。

だが、美濃を呑み込んだ今、そのまま尾張の中へ重心を置き続けるのは、どうしても狭い。

 

敵がいるのは尾張だけではない。

西がある。

北がある。

伊勢もある。

近江もある。

京へ至る道筋も、いよいよ視野へ入ってくる。

 

ならば、尾張の城から全体を見るより、美濃の高みから諸方を見る方がいい。

 

分かっていた。

分かってはいたが、こうして実際に稲葉山へ腰を落ち着けようとすると、それは単なる地図上の合理ではなく、家そのものの形を変える話になる。

 

信長は、信繁の脇へ立って外を見た。

 

「清州は残す」

「はい」

「残すが、あれを前のまま使っていては足りぬ」

「はい」

「なら、誰を置く」

 

その問いは、すでに半分答えを持っている声だった。

 

信繁は、あらかじめ頭の中で整理していた札を順に並べる。

 

「孫三郎叔父上が中核に立たれるのが、いちばん収まりがよろしいかと」

 

信長の口元が、わずかに動いた。

 

「やはりそこへ行くか」

「はい」

 

織田孫三郎信光。

上総介の叔父であり、家中においても武と家格と経験の釣り合いがよい。

小豆坂七本槍としての武辺もあるし、主家の外へ飛び出して新国を切る将ではない。

だが、尾張の後ろを持たせるには、あまりに向いている。

 

派手ではない。

だが後ろが荒れぬ。

そして何より、一門衆が余計な勘繰りをしにくい。

 

信長が、少し笑った。

 

「叔父上は嫌がるぞ」

「嫌がられても、結局はお受けになります」

「なぜそう言い切る」

「尾張を人任せにして美濃へ移るなど、家の筋が悪い、とお思いになるからです。お思いになられる以上、自分が入るしかない、ともお考えになる」

 

信長は、そこで声を立てずに笑った。

 

「お前は、あの叔父上の面倒なところをよく分かっておるな」

「面倒でなければ、あの位置に収まってはおられませぬ」

「違いない」

 

笑いは軽い。

だが、決定は軽くない。

 

孫三郎信光を尾張後方統治の中核に置く。

それは単に一人の城主を据える話ではない。

尾張という後背地を、「本拠ではないが、なお最重要の一枚」として再編することを意味する。

 

信長は外を見たまま、次を問う。

 

「叔父上一人で足りるか」

「足りませぬ」

「だろうな」

「左衛門佐父上を副に置く形がよろしいかと」

 

今度は信長も、すぐには笑わなかった。

 

左衛門佐信張。

信繁の父であり、尾張の内をよく知り、一門衆との距離も測れる。

前へ前へと押し出す将ではない。

だが、後ろを持たせれば滅法しぶとい。

しかも信光に対して余計な張り合いをしにくい。

 

「副か」

「はい。中核を叔父上へ置き、父上は支える側へ回るのが、一番摩擦が少ないかと」

「お前の父だぞ」

「父だから分かります」

 

信繁は淡々と言った。

 

「父上を尾張の全面へ単独で立てれば、尾張の一部は安堵し、一部は身内の色を濃く見ます。ですが、叔父上の横で副として立てば、家中は“織田一門が尾張を締めている”と受け取ります」

「父の顔を立てつつ、叔父上の格も立つ」

「はい」

「しかも叔父上は、放っておくと一人で抱え込みすぎる」

「そこへ左衛門佐が入れば、実務も人の間もだいぶ丸くなる」

「父上は人を切るより、人の置き場を先に見ます」

 

信長は「うむ」とだけ言って頷いた。

その一言で、ほぼ決まったのと同じだった。

 

信光が中核。

信張が副。

尾張は、前のままの本拠ではなく、後背地として新たに締め直される。

 

だが、信繁の頭の中では、まだ札はそれだけでは足りなかった。

 

「三郎五郎殿も、尾張へ残した方がよろしいかと」

 

信長が信繁の方を見た。

 

「三郎五郎兄上か」

「はい」

 

織田信広。

三郎五郎。

先代桃巌様の長男だが、母親が側室だったため、嫡男は上総介兄上となった。血筋の重さと、家中での位置の微妙さ、その両方を持つ人だ。

前線へ押し出して大功を争わせるより、本家筋補佐として軍政実務と一門調整へ回した方が、家中の噛み合わせが良くなる。

 

「三郎五郎殿は、前へ出して目立たせるより、後ろで筋を通す方が活きます。軍役の割付、一門衆との調整、清州と周辺の運用、そのあたりに置けば強い」

 

信長は、少し考えるように目を細めた。

 

「本人はどう思うかな」

「不満は持たれましょう」

「だろうな」

「ですが、役があれば呑みます」

「役がなく、名ばかり近い位置に置かれる方が、よほど不満が深くなる」

 

これは、言葉を選ぶ必要のあるところだった。

血筋に近い者ほど、曖昧に置かれることを嫌う。

だが、露骨に切り離されるのもまた傷になる。

 

だからこそ、役を与える。

それも本家筋を支える役を。

 

信長は信繁の顔を見た。

 

「お前は、本当にその辺りを細かく縫うな」

「縫わねば裂けます」

「裂けてから縫えばよいという者もおる」

「裂けてからでは、縫っても跡が残ります」

「その跡が、場合によっては威になる」

「威になる裂け目と、後を引く裂け目は別です」

 

信長は、そこでようやく小さく笑った。

 

「言うようになったな、治部」

「以前から申し上げております」

「前より面の皮が厚くなった」

「美濃の風に当たって鍛えられました」

「よく言う」

 

二人とも笑った。

だが、笑いながらでも、話しているのは家そのものの形だ。

 

信長は、しばらく外を見てから、今度は少し低い声で言った。

 

「左衛門はどうする」

 

そこだけは、信繁も一拍置いた。

 

左衛門信直。

まだ若い。

だが、若いからこそ、どこへ置くかで育ち方が変わる。

そしてその置き方は、家の未来そのものにも触れる。

 

「尾張統治を学ばせるのがよろしいかと」

「稲葉山ではなく、か」

「はい」

「なぜだ」

 

信繁は、窓の外へ目をやった。

城の高みは、見通しがいい。

良すぎるくらいだ。

 

「稲葉山は、これから先の城にございます。見えるものが多すぎます」

「若い者には、まず後ろを持たせる方がよろしいかと。尾張の年貢、人、道、在地の腹、そういうものを覚えた上で、いずれ外を見るべきです」

 

信長は黙って聞いている。

 

「尾張を知る者は、尾張を軽く見なくなります。それは後で必ず効きます」

「左衛門に、その役が務まると見るか」

「今すぐには務まりませぬ」

 

即答だった。

 

「ですが、だからこそ学ばせるのです。叔父上と父上の下で見せる。三郎五郎兄上のような実務の重みも見せる。尾張が“取った国”ではなく“持たせるべき土台”だと、若いうちに腹へ落とすべきかと」

 

信長は長く息を吐いた。

 

「お前は弟に甘いのか、厳しいのか、時々分からぬな」

「両方にございます」

「どちらかにしろ」

「どちらかだけでは育ちませぬ」

 

信長は鼻で笑った。

 

「理屈ばかり達者だ」

「兄上たちの近くにいると、そうなります」

 

その返しには、信長もさすがに声を立てた。

短い笑いだったが、そこには満足が混じっていた。

 

決まっていく。

 

清州は残す。

ただし、前と同じ本拠ではない。

尾張後方拠点として再編する。

孫三郎信光が中核。

左衛門佐信張が副。

三郎五郎信広は本家筋補佐として軍政実務と対一門調整へ回る。

左衛門信直は、後継として尾張統治を学ぶ立場へ入る。

 

国を一つ取るとは、そういうことなのだ。

前へ進むだけでは足りない。

後ろへ役を配り、残すべき土地へ、残すべき顔をきちんと置く。

それで初めて、前へ出た足が後ろから崩れない。

 

信長は、窓際から離れて畳へ腰を下ろした。

 

「叔父上は嫌な顔をしよう」

「されましょうな」

「左衛門佐殿は、最初に一度だけ固辞する」

「されましょう」

「三郎五郎兄上は、不満を隠して承る」

「はい」

「左衛門は分かった顔をして、半分も分かっておらぬ」

 

それには、信繁も少し笑ってしまった。

 

「だいたい、その通りかと」

「お前、自分の家のこととなると、妙に冷たいな」

「冷たく見ておかねば、後で困ります」

「家中を人の腹ごと読む癖、やめる気はないか」

「兄上がやめられれば、私も考えます」

「なら一生やめぬ」

「私もでございます」

 

また、短い笑いが落ちる。

だが、その笑いの下で、家の構図は静かに定まりつつあった。

 

信長は、少しだけ姿勢を崩したまま天井を見た。

 

「清州を離れるとなると、尾張衆は騒ぐぞ」

「騒ぎます」

「寂しがる者もおろう」

「おります」

「離れると見せて、なお残しておるのだと分からせねばならぬな」

「はい。清州を捨てたのではない、尾張を後ろへ下げたのでもない。むしろ尾張を土台として残す、そのように見せるべきかと」

「見せる、か」

「実際そうにございます」

 

信長は、その言葉に頷いた。

 

「叔父上が中核に立ち、左衛門佐殿が支え、三郎五郎兄上が筋を通し、左衛門が学ぶ。そう出せば、尾張衆も“ああ、織田は尾張を捨てたのではない”と受け取るか」

「はい」

「……お前、やはり自分で尾張へ残りたかったのではないか」

 

その問いだけは、少し真っ直ぐ来た。

 

信繁は一瞬だけ黙った。

そして、小さく息をつく。

 

「残りたい気は、ございます」

「ほう」

「ですが、今は稲葉山の傍にいるべきかと」

「なぜだ」

「こちらでなければ見えぬものが増えました」

 

信長は、その答えを面白そうに聞いた。

 

「お前らしいな。寂しいとは言わぬか」

「寂しゅうございます」

「言うではないか」

「ですが、寂しいと残るは別です」

 

信長は、そこで少しだけ真顔になった。

 

「よい」

 

その一言には、軽くないものがあった。

 

「お前はこっちだ、治部」

「尾張の後ろを安心して任せられる形を作った上で、稲葉山へ置く」

「そうでなければ、余も気が散る」

 

それは、信長なりの信任の言葉だった。

ただ手元に置く、ではない。

後ろを任せられる形を整えた上で、その先を見るためにここへ置く。

そこまで含めての命だ。

 

信繁は深く頭を下げた。

 

「承知しました」

「叔父上には、俺からも言う」

「はい」

「左衛門佐殿には、お前が先に口を入れておけ」

「父上は渋ります」

「知っておる」

「ですが最後には受けます」

「それも知っておる」

「なら、話は早うございますな」

 

信長は、そこでまた笑った。

 

「お前、最近ほんとうに可愛げがなくなったな」

「その分、使いではございましょう」

「自分で言うな」

「兄上が仰らぬので」

「言う前に分かれ」

「分かっております」

「ならよい」

 

信長はそこで立ち上がり、もう一度だけ外を見た。

長良川の向こうまで、秋の光が薄く差している。

 

「清州から稲葉山へ移る」

「尾張の家から、美濃の家へ変わるわけではない」

「尾張を背にし、美濃を前にする」

「そういうことだな」

 

信繁は、その言葉を黙って聞いた。

 

それは戦の言葉でもあり、家の言葉でもあった。

どちらか一つではない。

両方を一度に変えるからこそ、本拠の移転は重い。

 

「はい」

 

短く、そう答える。

 

信長は頷いた。

 

「では始めるぞ。騒がしくなる」

「最初から静かに済むとは思っておりませぬ」

「お前がそう言うなら、静かに済む話でも騒がしくなりそうだな」

「私のせいばかりではございません」

「半分はお前だ」

「残り半分は兄上にございます」

「多いな」

「違いありませぬ」

 

最後に、二人とも少しだけ笑った。

 

だが、その笑いが収まった時には、もう決まっていた。

 

清州は残る。

ただし、尾張後方拠点として。

孫三郎信光が中核。

左衛門佐信張が副。

三郎五郎信広は本家筋補佐として軍政実務と一門調整へ。

左衛門信直は、後継として尾張統治を学ぶ立場へ。

 

そして、信繁は稲葉山へ残る。

 

国を取った後、家をどう持たせるか。

その第一の形が、ようやく見えた気がした。

 

外では、長良川の光が少しずつ傾いていた。

清州の夕方とは違う。

だが、ここから見える先は、たしかに前より遠かった。

 

 

浅井家がこの時点で織田家に同盟を申し入れた。

 

家として見れば、理は明らかだった。美濃を呑み、稲葉山を押さえた織田を、なお尾張の一大名とだけ見てよい時期は、もう過ぎている。北近江に座す浅井としては、あれを敵へ回して消耗するより、早めに手を結び、南と東の流れを読む方が得だ。

 

そこまでは、家の理である。

 

けれど、鶴姫にとって本当に気にかかったのは、同盟そのものではなかった。

 

織田の美濃、稲葉山城攻略が七年早まった。

 

その事実が、どうしても紙の上の年表として片付かなかった。早い。ただ早いだけではない。早まり方が、妙なのだ。

 

ひょっとして歴史を加速させているものが、織田家の中枢近くにいるのではないか。

 

そう思ったのが最初だった。

 

最初は、信長その人を疑った。

 

あの男なら、時代を押し倒して前へ進むことくらい、やってのけても不思議ではない。むしろ、そういう側の人間だろう。だから、信長を中心に見れば、たいていのことは説明できるようにも思えた。

 

だが、よくよく拾っていくと、それでは足りない。

 

信長は大きい。人を動かす。前へ出る。決める。遠くを見る。

 

だから、戦の勝ち筋そのものは、あの男のものだろう。

 

けれど、遠くを見る男だけで、ここまで細いところが勝手に噛み合うものか。

 

尾張での銭の増え方。津島の商人どもの口の軽さと、そのくせ本当に大事なことは隠し通される締まり方。瀬戸の器がただの売り物で終わらず、名を持った品になっていること。木曽三川の運上、知多の海、南北の物の流れ。兵だけでなく、金と噂と道が一緒に整っている。

 

勝つだけなら、武で足りる。だが今の織田は、勝った後に必要になるはずのものまで、妙に早く揃っていた。

 

そうして鶴姫の中で、信長そのものではなく、信長のすぐ近くにいる何者か、という見立てが生まれた。

 

特異点は、織田治部大輔信繁だ。

 

その仮説へ辿り着くまでに、さほど長くはかからなかった。

 

治部大輔。若い。だが、妙にいろいろなところへ顔が出る。

 

武だけではない。調略の前後。兵站の継ぎ目。商いの筋。器や噂の立て方。金の流れ。人の出入り。どれも、表立って「この男の手柄」と騒がれるわけではない。だが、なぜかそこを辿っていくと、最後に薄くその名へ触れる。

 

大声で中心に立つのではない。少し斜めの位置から、必要な石を先に置いている。

 

それがかえって、不気味だった。

 

ただ、よくよく調べてみると、さらに妙だった。

 

早い。ただ早いだけではない。

 

美濃攻略が早まった。それだけなら、信長という男の勢いで片付く。だが、その前後にある細い継ぎ目まで見ていくと、どうにも説明がつかぬ。

 

鶴姫は、そこでさらに別の紙を引いた。

 

織田家中の、ここ数年の綻びと、その消え方を追った控えだった。

 

本来なら深くなるはずの兄弟の亀裂。だが、いま織田に見えるのは逆だ。

 

兄弟相克ではなく、むしろ融和。勘十郎信勝は生きているどころではない。今では信長の右腕として、家中第二の席を占めている。

 

犬山の信清も、織田家を割るような反乱へ走っていない。家中がまるで何事もなかったようにまとまっているわけではないが、少なくとも、普通なら一度は停滞につながるようなひびが、大ひびへ育っていない。

 

「……そこまで」

 

鶴姫は、小さく呟いた。

 

これが偶然であるはずがない。いや、偶然もあるだろう。だが、偶然だけで、割れるべきところがここまで割れずに済むものか。

 

ただ早いだけなら、まだ分かる。勝ち筋だけを拾って前倒しすることは、異才ならやってのけるかもしれない。

 

だが今の織田は、それだけではない。

 

勝ち筋を拾いながら、なおかつ家の裂け目まで浅く済ませている。

 

少なくとも、そう見える。

 

信勝が死なぬ。兄弟相克が露わにならぬどころか、むしろ信長の右腕として座している。犬山まで大きく爆ぜぬ。それでいて、美濃は早く落ち、織田の伸びは早い。

 

そこまで来ると、鶴姫は逆に背筋が冷えた。

 

これは、ただ歴史を加速させているのではない。もっと厄介だ。

 

「……傷を浅くしている」

 

口に出した時、自分でもその言葉の重さに少し驚いた。

 

ただ勝てる道を選んでいるのではない。ただ早い道を選んでいるのでもない。裂けるところを、裂け切る前に縫っている。一門の誰かが死ぬところを、全部ではなくとも減らしている。そういう手つきに見える。

 

しかも、その修正は甘さではない。勘十郎信勝を消さず、信長の右腕へ据えたまま織田を早めるなら、それは人を残したまま勝つ筋を選んでいるということだった。

 

もちろん、まだ即断はできない。信勝が信長の右腕として立っていることも、信清が爆ぜていないことも、すべてが一人の手になると決めつけるには早い。

 

だが、もしその中心に治部大輔信繁がいるなら。

 

その男は、ただの異才ではない。

 

知っていて、選んでいる。

 

何を切れば早いかを知りながら、あえて全部は切らない。より傷の浅い枝を拾っている。そういう手つきに見える。

 

そこまで考えたところで、鶴姫の中で、別の問いが立った。

 

では、この時間軸では、浅井が織田を裏切る理由そのものが減っているのではないか。

 

朝倉への義。北近江の均衡。南近江と京のにらみ合い。そうしたものがある以上、何もかもが簡単になるわけではない。だが少なくとも、本来なら織田の中が割れ、いずれ浅井がそこへ乗る余地が生じる、その前提が今は弱い。

 

信長の周りは、思ったより壊れていない。いや、壊れるべきところを壊さぬよう、誰かが先に手を入れている。

 

ならば。

 

浅井が待つ理由も、裏切りへ含みを残す理由も、前より薄い。

 

「……なら、早い方がいい」

 

その呟きは、もはや観察者のものではなかった。

 

同盟は、いずれ結ぶ。ならば遅らせる意味がない。むしろ早く結び、朝倉への義理と織田との実利、その両方を浅井家の中で整理してしまう方がよい。

 

問題は、家中をどう動かすかだった。

 

父・下野守久政は、越前への義理から消極的反対に回るだろう。頭から駄目だと怒鳴るタイプではない。だが、「急ぐこともあるまい」「朝倉との誼を傷つけてまで踏み切るべきか」という形で、足を引く。あの人はいつもそうだ。止めるなら、露骨ではなく、理の顔をして止める。

 

そして兄・備前守長政は、もともと消極的参政だ。愚かではない。むしろよく見ている。だが、自分から家中を押し切るほど前のめりでもない。

 

だからこそ、そこへ一押し要る。

 

鶴姫は、そこでようやく自分の役が見えた。

 

同腹。幼少から、長政は折に触れて自分へ考えを聞きに来た。表へ出るのは兄だが、迷った時の知恵袋としてなら、昔からこちらを頼る。それは今も大きく変わらない。

 

ならば、自分が言うべきだ。

 

これはただの織田贔屓ではない。ただの興味でもない。浅井のために、早く盟約へ寄せるべきだと。

 

しかも、そう動けるだけの材料が、もう揃っている。

 

織田は伸びている。その伸び方は荒いだけではない。家中の裂け目まで浅く済ませる手が入っている。信長の勢いだけではなく、その近くにいる治部大輔信繁という特異点が、壊れを減らす方向へ働いている可能性が高い。

 

ならば、いずれ織田はもっと大きくなる。それも、ただの暴威ではなく、持続する形で。

 

浅井がそこで曖昧な態度を保つのは、得ではない。遅れて結ぶより、早く結ぶ方が傷が浅い。

 

そこまで見えた時、鶴姫の中で、治部大輔信繁への感情もまた少しだけ形を変えた。

 

会ってみたい。確かめたい。どこまで知っていて、どこまで意識しているのか、この目で見たい。

 

それはもう変わらない。

 

だが今は、それだけではない。

 

もし本当にあの男が、壊れの少ない方を選びながら歴史を早めているなら。自分は、その流れへ浅井を乗せる側へ回るべきだ。

 

「困ったわね」

 

鶴姫は、小さく笑った。

 

家のため。盟約のため。兄を動かすため。どれも正しい。

 

その全部の下に、もう一つだけ、私の理由がある。

 

自分と同じく、この時代へ半歩ずれた異分子かもしれない男。しかも、そのずれを言い訳にせず、この時代の理の中へ自分を押し込んで、傷の浅い道を拾おうとしている男。

 

そんなもの、気になるに決まっている。

 

だが先にやるべきは、会うことではない。家を動かすことだ。

 

鶴姫は、机の上の紙を整え直した。

 

久政には、越前への義理を立てつつ、早期同盟でも誼そのものを即座に切るわけではないと説く。長政には、待つことの危うさと、今の織田の伸び方がただの武辺ではないことを示す。家中には、北近江の安定と実利を言う。そうして、浅井から織田へ、早い段で盟約を申し入れる。

 

「兄上なら、聞くわ」

 

長政の顔を思い浮かべる。

 

強引に押せば、あの人はかえって引く。だが、筋が通っていて、しかも今を逃す方が危ういと見えれば、動く。幼少からずっとそうだった。迷った時ほど、よく聞く人だ。だから、自分がそこへ理を通してやればよい。

 

「まずは、兄上からね」

 

そう言った時、鶴姫はもう半分、勝っている気がしていた。

 

浅井と織田の早期盟約。それは家の理で進む。だが、その始まりに自分がいる。

 

そして、その先にようやく、治部大輔信繁と会う機会が生まれる。

 

紙の上でなく。噂の中でなく。この目の前で。

 

歴史を加速させるだけの男なのか。それとも、壊れを減らしながら、それでも前へ進める厄介な男なのか。

 

だが、そこまで思考を進めた時、鶴姫の中で一つだけ、どうしても抜けている札があった。

 

お市。

 

そこが、まだ埋まらない。

 

もちろん、異説は知っている。お市が織田と浅井の婚姻同盟成立までに、一度別家へ嫁いだかもしれぬという話も、同盟そのものの年次が必ずしも一つに定まらぬことも。前世の知識は、そのあたりを曖昧なまま抱えている。

 

だが、だからといって、その札が軽くなるわけではない。

 

お市は、ただの姫ではない。織田家にとって、家と家を結ぶための重大な一枚だ。しかも、信長の妹である。織田が本気で浅井へ手を伸ばすなら、いずれそこへ触れざるを得ない。

 

そして、治部大輔信繁という男を考える時、そのお市の札が、妙に引っかかる。

 

桶狭間で義元を討った。美濃表で義龍を討った。

 

それだけなら、もう少し露骨に前へ出てもよい。いや、この時代なら、むしろ出る方が自然だ。誰が首を挙げた、誰が大将を討った、誰が先陣だった、そういう話は、放っておいても人が広げる。武辺の世とはそういうものだ。

 

けれど、その男は違う。

 

それでいて、この時代人のように手柄を喧伝するでもなく、織田の一門として控えに回る。出るべき時には出る。だが、出たあとに居座らない。そこが、いちばん奇妙だった。

 

「目立ちたくない?」

 

鶴姫は小さく口に出して、すぐに首を振った。

 

違う。少なくとも、それだけではない。

 

本当に目立ちたくないだけの男なら、桶狭間で覚悟を決めたような元服と出撃の仕方はしない。まして、義元公の首へ辿り着くような位置まで入らない。それは、危険を避ける人間の動きではない。

 

では、功名心が強いのかと言えば、それも違う。

 

調べた限り、美濃表での戦いは偶発に近い。墨俣が築かれて焦れた義龍が出撃した結果の返り討ち。森部や新加納のような、歴史に定着した形そのままでもない。そこで義龍を討ってなお、その後の居方は静かすぎる。

 

つまりあの男は、手柄を求めて飛び出しているのではない。だが、手柄が立つところへ入ることは恐れていない。むしろ、必要とあれば自分からそこへ身を置く。

 

「……自分の出方を、決めている」

 

その言葉が、一番近かった。

 

桶狭間を知っている。だからこそ、義元公の首へ辿り着けたのではないか。そう見ることもできる。

 

だが、そこで終わらない。知っていたなら、あとはそれをどう使うかだ。

 

この男は、桶狭間を知っていたとしても、その知識を使って自分の名を最大限に売り込むのではなく、まず織田の勝ちを取り、次に自分がどこまで出て、どこで控えるかを、意識して決めているように見える。

 

それが、鶴姫にはいよいよ普通の若武者に見えなかった。

 

しかも、戦だけではない。

 

枯死したナラ枯れ被害木に、菌を打ち込むナラ打ち。技としては単純でも、発見そのものはもっと後のはずだ。それを幼少期ですでに確立させたという。

 

塩選法。肥料の使用。正条植え。

 

そこまで並べられると、もはや偶然とは言えない。

 

しかも、ここでも同じだ。いかにも異能じみた派手さではない。空から鉄砲を降らせるでもない。見たこともない兵器を突然出すでもない。何でもかんでも一人でやってしまう便利な怪物ではない。

 

「無理のない範囲でやっている……」

 

鶴姫は、そこで少しだけ目を伏せた。

 

そこがいちばん厄介だった。

 

前世知識があるなら、もっと派手にやりたくもなる。もっと早く、もっと大きく、もっと分かりやすく変えたくなる。その方が楽だからだ。その方が、時代を知っている側としては“正しい”ようにすら思える。

 

だが、治部大輔信繁は、そうしていない。

 

塩選法も、肥料も、正条植えも、椎茸も、ナラ打ちも、技術としては届く範囲にある。だが、その“届く範囲”の取り方がうますぎる。

 

一足飛びではない。けれど確実に早い。無理のないように見せながら、全体を前倒ししている。

 

鶴姫はそこで、唇の端だけで少し笑った。

 

「私ですら、色々苦労したのに」

 

浅井家の正室腹、姫として育てられた側ですら、この時代に前世の感覚を馴染ませるのは容易ではなかった。家の理、婚姻の理、女に求められる分別、兄へ言うべきことと、言ってはならぬこと、知っているからこそ苦しいことばかりだ。

 

それを、この男はどうやって潜り抜けているのか。

 

いや、潜り抜けてなどいないのかもしれない。ただ、飲み込んでいるだけかもしれない。

 

そう思った瞬間、鶴姫の中で、お市という札がまた別の重みを持った。

 

もし織田が本気で浅井へ手を伸ばすなら、お市は大きい。そして、治部大輔信繁のような男が織田中枢近くにいるなら、なおさら大きい。

 

なぜなら、お市は家の札であると同時に、その男にとってもまた、何かを測る札になりうるからだ。

 

家を優先するのか。人を優先するのか。あるいは、その間に別の解を置くのか。

 

桶狭間で義元公の首へ辿り着き、美濃表で義龍を討ち、それでも手柄の真ん中へ居座らない男。幼少から時代を少しずつ前倒ししながら、しかも無理のない範囲へ抑えている男。そういう男が、お市という一枚を前にして、何をどう選ぶのか。そこまで見えて初めて、この男の本当の重さが分かる気がした。

 

そして、お市のことを考えると、なおさら分からなくなる。

 

治部大輔信繁は、信長の命とはいえ、お市を娶った時、何を思ったのだろう。

 

歴史改変の主人公になった感動だろうか。ついに自分が、知っている歴史の真ん中へ手を突っ込んだのだと、そういう昂ぶりを覚えたのだろうか。

 

もし、ただ歴史をなぞり替えること自体に酔う男なら、そうなる。信長の妹。織田の姫。本来なら浅井へ渡ってもおかしくない札が、自分の手へ来る。それを「勝った」と思う人間もいるだろう。

 

だが、あの男は、本当にそういう種類の人なのか。

 

鶴姫は、そこですぐに否と決めきれなかった。決めきれないが、それでも、どうしても別の顔が先に浮かぶ。

 

むしろ、青くなったのではないか。

 

信長の命だから逆らえぬ。だが、お市を自分が娶れば、織田浅井婚姻同盟の芽を自分で潰したことになるのではないか。せっかく傷の浅い枝を拾ってきたのに、ここで自分が大きな時代の変更点を抱え込むことで、先の繋がりを狭めてしまうのではないか。

 

まず、そう考える男のように見える。

 

それが正しいかは、まだ分からない。だが少なくとも、手柄を喧伝せず、必要な時だけ前へ出て、壊れを浅くするように石を置いてきた男なら、女を得た喜びより先に、歴史の流れを逸脱してしまったことの重さを数えるのではないか。

 

「……本当に、面倒な人ね」

 

鶴姫は、小さく笑った。

 

嬉しいのか。困るのか。命に従うのが先か。先の同盟を守るのが先か。たぶん、その全部が一度に来る。

 

歴史改変の主人公になった、などと単純に酔える男なら、ここまで織田の傷を浅くしてはいない。なら、お市を娶った時も、きっと綺麗には喜べなかったはずだ。

 

そう思うと、ますます会って確かめたくなる。

 

あの男は、大きな札を手にした時、まず何を失ったと数えるのか。それとも、それでもなお、失わずに済む別の道を探そうとするのか。

 

そこに、その人の本当の重さが出る気がした。

 

そして、そこまで来た時、鶴姫の中でもう一つ、はっきりしたことがあった。

 

少なくとも、六角の若様のような考え無しの悪人ではない。

 

あれはひどかった。多分、自分と同じような側の人間なのだろう。だが、考え無しに結論を急ぎ、手段を整えず、礼儀を弁えず、好き勝手に食い荒らして、結局はしっぺ返しを食らっている。

 

知っていることと、使えることは違う。先を読めることと、人を動かせることも違う。まして、時代の理へ半歩ずれた人間が、そのずれを言い訳にして振る舞えば、周りから見えるのは異才ではなく、ただの無作法と浅慮だ。

 

だが、治部大輔信繁は違う。

 

無理のない範囲でやる。手柄を立てても居座らない。変えるべきところへ手を入れながら、壊れは浅く済ませる。それは少なくとも、周囲の人間を道具として踏み散らすやり方ではない。

 

ならば。

 

「話せばわかる、のかしら」

 

その言葉を口にした瞬間、鶴姫は自分で少しだけ眉を寄せた。

 

危ない思い込みだ。それは分かっている。

 

相手が前世持ちであれ異分子であれ、それだけで話が通じる保証にはならない。むしろ、同類だからこそ厄介なこともある。何を見て、何を切って、何を守るかは、それぞれ違う。

 

だが、それでも期待を抱いてよいのではないか、とも思った。

 

少なくとも、あの六角の若様のように、先を知っているかもしれぬことを振り回して、礼も理もなく食い荒らす側の人間ではない。それだけでも、こちらが言葉を向ける価値はある。

 

話せばわかる。そこまで単純ではなくとも、話せば“どこまでわかり合えぬか”は分かるかもしれない。その差は大きかった。

 

紙の上だけでは足りない。

 

どこで言葉を切るのか。何にだけ反応が遅れるのか。家の理を語る時と、人の理を前にした時とで、目の置き方がどう変わるのか。そこまで見なければ、この男の底は読めない。

 

そして鶴姫は、そこでようやく、自分が何をしようとしているのかをはっきり認めた。

 

浅井が早期に織田と盟約を結ぶ。それを進める。兄を動かす。家中を寄せる。

 

その理由は、もう実利だけではない。

 

自分は、この治部大輔信繁という特異点を、政としても、人としても、この目の前へ引きずり出したいのだ。

 

困った人だ、と鶴姫は思う。まだ会ってもいない相手に、ここまで思考を持っていかれること自体、すでに少し困っていた。

 

だが、その困り方は、もう嫌ではなかった。

 

むしろ、その先が見たいと思っている自分の方が、ずっと厄介だった。

 

 

あと、気になるのは、治部大輔信繁の家臣団だ。

 

桶狭間で一緒に戦ったという、前田慶次郎利益、奥村助右衛門永福。彼らは『花の慶次』を知っていれば辿り着く名前だが、どうも積極的に勧誘したとかではなく、慶次や助右衛門から働きかけたらしい。

 

そこがまた、気持ちが悪い。

 

普通なら逆だ。未来を知っている側なら、使える名を先に掻き集めたくなる。自分から声を掛け、将来名を成す者を囲い込みたくなる。その方が分かりやすいし、話としても綺麗だ。

 

だが治部大輔信繁は、そこでも少し違う。

 

どうも、自分から露骨に集めた形跡が薄い。むしろ、向こうから寄ってきている。慶次郎や助右衛門の方から、あの男へ働きかけたらしい。

 

「それがいちばん、嫌なのよね……」

 

鶴姫は紙の端を押さえながら、少しだけ顔をしかめた。

 

人材を蒐めているのなら、まだ分かる。野心がある。だから名のある芽を拾う。単純な話だ。

 

だが、そうではないならどうなる。

 

治部大輔信繁の方が、知らず知らずのうちに人を引き寄せていることになる。

 

それはもっと厄介だ。

 

しかも、斎藤道三を長良川の戦いで救出しており、その縁で明智光秀や竹中半兵衛を家臣に加えているという。浅井家に是非とも欲しかったのに、間に合わなかった。そこは素直に悔しい。

 

さらに滝川一益も最近は加わったとか。

 

「……オールスターじゃない」

 

思わずそう呟いてしまってから、鶴姫は少しだけ肩を落とした。

 

本当に、どういう集め方をしているのか分からない。

 

いや、集めているのではないのかもしれない。必要な石を先に置いていたら、石の方が勝手に寄ってきた、そんな感じにすら見える。

 

だとしたら、なお悪い。

 

人材コレクターなのか。それとも前世知識を生かしたいのか。目立ちたくないのか。どれも中途半端ではあるのだ。

 

「迷いながら模索している?」

 

多分、それが一番近い。

 

無分別に知識でごり押しするのも怖い。だが、死ぬのも怖い。だから、周囲に影響を与えないように、与えるとしても最小限になるようコントロールしているのか。

 

「だとしても、目立ちすぎ」

 

鶴姫は小さく息を吐いた。

 

それが彼の狙いなのか、はたまた望んでもない結果だったのかは知らないが、少なくとも外から見れば、十分すぎるほど目立っている。

 

 

織田は伸びている。その伸び方は荒いだけではない。家中の裂け目まで浅く済ませる手が入っている。上総介の勢いだけではなく、その近くにいる治部大輔信繁という特異点が、壊れを減らす方向へ働いている可能性が高い。

 

ならば、いずれ織田はもっと大きくなる。それも、ただの一瞬の暴威ではなく、持続する形で。

 

浅井がそこで曖昧を保つのは、得ではない。遅れて結ぶより、早く結ぶ方が傷が浅い。

 

兄に話をするなら、夕刻がよかった。

 

評定の前では遅い。人の口が入り、家中の理が先に立つ。逆に夜が更けすぎると、今度は疲れが勝つ。長政は、疲れている時ほど、露骨に短くなる。

 

だから、陽がまだ障子に残っている頃を選んだ。

 

鶴姫が部屋へ入ると、長政は書付から顔を上げた。

 

「珍しいな」

「兄上に申し上げたいことがございます」

「顔がそう言っておる。軽い話ではないのだろう」

「はい」

 

長政は、手元の書付を脇へ寄せた。昔からそうだ。こちらが本気で来たと分かると、最初に余計なものを退かす。

 

「申せ」

 

鶴姫は、すぐには言わなかった。ここで勢いだけで押すと、兄は引く。理を通すなら、順がいる。

 

「織田とのことにございます」

 

長政の目が、わずかに細くなった。

 

「父上の前ではなく、まず俺にか」

「はい」

「理由は」

「父上は、越前への義理から話を重くされます。もちろん、それは分かっております。ですが、今はその前に、浅井にとって何が傷の浅い道かを、兄上にお考え頂きたいのです」

 

長政は、黙って鶴姫を見た。促しも、遮りもない。だから続ける。

 

「織田は早すぎます」

「美濃のことか」

「それだけではございません」

 

鶴姫は、持ってきた紙を兄の前へ置いた。

 

「稲葉山が落ちたのは結果にございます。問題は、その前後です。兵だけでなく、銭、道、噂、商い、その全部が揃いすぎております。上総介様の勢いだけでは、こうはなりませぬ」

 

長政は紙へ目を落とした。読んでいる。だが、すぐに全面的に呑んではいない顔だ。

 

「上総介殿が勝ちを拾う御方なのは分かる。だが、お前の言いたいのは、それでは足りぬということか」

「はい」

「中心は別にある、と」

「少なくとも、上総介様のすぐ近くに、細いところを先に揃える手がございます」

 

長政はそこで、わずかに息を吐いた。

 

「治部大輔か」

「兄上も、お感じではありませぬか」

「何をだ」

「上総介様と勘十郎様にございます」

 

長政は、そこで少しだけ眉を動かした。

 

「あの二人か」

「はい」

「……正直に言えば、俺は、あの二人は殺し合いでしか収まらぬと思うていた」

 

鶴姫は黙って兄の次を待った。

 

「片や大きすぎる兄だ。片や、その陰で潰れずに立たねばならぬ弟だ。ああいうものは、どこかで血を見て終わる方が、むしろありがちな話だ」

「ですが、今の織田は違います」

「違うな」

 

長政ははっきり頷いた。

 

「勘十郎殿は生きているだけではない。いまや上総介殿の右腕だ。あれは、当人同士が勝手に収まっただけではあるまい」

「兄上も、そうお思いですか」

「思う。だが、誰がどう手を入れたかまでは分からぬ」

 

そこが長政の限界であり、鶴姫の領分でもあった。

 

それでも十分だった。

 

「それで、お前はどうしたい」

 

ようやく、そこへ来た。

 

「早く結ぶべきです」

「織田と、か」

「はい」

「越前への義理はどうする」

「切りませぬ」

 

長政の眉がわずかに動く。

 

「切らぬで、早く結ぶのか」

「だからこそ、今にございます。最初から全てを断ち切る顔で入れば、父上も家中も拒みます。ですが、相互不可侵、街道の安定、六角への備え、商いの利、そこから入るなら、まだ道はございます」

「玉虫色だな」

「今はそれでよいのです」

「父上は、そういう曖昧を嫌うぞ」

「いいえ。父上は露骨な断絶を嫌うのであって、越前への義理を残す言い方があるなら、むしろ飲み込みやすいはずです」

 

長政は、そこで小さく笑った。

 

「父上の扱いに慣れておるな」

「娘にございますから」

「俺も息子だ」

「兄上は真正面から受けます。私は横から見ます」

 

その返しに、長政は少しだけ苦笑した。だが、その笑いで部屋の空気が少し緩んだ。

 

「で、俺には何をしろと」

「決めて頂きたいのです」

「何を」

「待つか、先に行くかを」

 

鶴姫は、そこで言葉を切らずに続けた。

 

「待てば、織田はさらに伸びます。その時に結ぶ道もあるでしょう。ですが、その頃にはこちらが選ぶのでなく、向こうに選ばれる同盟になります。今ならまだ、浅井の側から形を作れます」

 

長政は、はっきり頷かなかった。ただ、否定もしない。

 

「お前は、今のうちにこちらから動いた方が傷が浅いと見るのだな」

「はい。浅井にとっても、兄上にとっても、その方が浅い」

「俺にとっても、か」

「兄上は、争うべきでない争いを後から背負わされるのが一番お嫌でしょう」

 

長政の目が、少しだけ鋭くなった。図星の時の目だ。

 

「……続けろ」

「今の織田は、ただの膨張ではございません。中の傷を浅くしている。ならば、外へも無用の傷を増やさぬよう動く可能性が高い。こちらが早く手を差し出せば、ただの服属を求めるのでなく、きちんと盟約の形にしてくるはずです」

「治部大輔が、そう動くと」

「少なくとも、そういう方向へ石を置く人間に見えます」

 

長政は紙へもう一度目を落とした。沈黙が落ちる。鶴姫は急かさない。急かしたところで、この兄には逆効果だ。

 

やがて長政が、ぽつりと言った。

 

「お前は、その治部大輔を買っておるな」

 

鶴姫は、そこで少しだけ言葉に詰まった。兄はやはり、こういうところで鋭い。

 

「買っている、というより」

「何だ」

「言葉を向ける価値のある相手ではないか、と」

 

長政は、そこで口元だけわずかに動かした。

 

「話せば分かる、とでも言いたい顔だな」

 

鶴姫は小さく息を吐いた。

 

「危ない思い込みかもしれませぬ。ですが、少なくとも六角の若様のような、考え無しに結論を急ぎ、手段も礼もなく食い荒らす人ではございません」

「ひどい言いようだ」

「ひどいのは向こうです」

「それはそうだ」

 

兄妹でそこだけは、すぐ一致した。

 

「治部大輔は、無理のない範囲でやっております。手柄を立てても居座らぬ。変えるべきところへ手を入れながら、壊れは浅く済ませる。少なくとも、こちらが理を持って言葉を向ける価値はある相手です」

 

長政は、そこで初めて大きく息を吐いた。

 

「お前は、俺に織田を信じろと言っておるのか」

「いいえ」

 

鶴姫ははっきり首を振った。

 

「信じろとは申しませぬ。ただ、今の織田は、敵のまま遠ざけておくには惜しい、と申し上げております。早く盟を結んだ方が、浅井の傷が浅い。その判断を、兄上にして頂きたいのです」

 

長政は、しばらく無言でいた。それから、鶴姫が予想していたよりも静かな声で言った。

 

「父上は渋るぞ」

「はい」

「家中にも、越前を気にする者は多い」

「はい」

「それでも押せと」

「兄上が押すなら、私も押します」

 

そこで長政が、ようやく顔を上げた。

 

「お前も、か」

「私が兄上にこの話をしに来たのは、そういうことにございます」

 

長政は、その言葉をしばらく黙って受けていた。幼い頃からそうだった。こちらが本気かどうかを見る時、この兄はまず黙る。

 

やがて、ゆっくりと頷いた。

 

「分かった」

 

鶴姫は、そこでようやく息を少し抜いた。

 

「すぐに父上へ全面でぶつけるのではなく、まず俺から話を置く。越前との義理を切る話ではない、今のうちに浅井の位置を取る話だと、そう持っていく」

「はい」

「お前も、折を見て父上へ言え」

「承知しました」

 

これで浅井は、一歩動く。ただ流されるのでなく、自分で位置を取りに行く。

 

そしてその先にようやく、織田がある。治部大輔信繁がいる。

 

だが、軍事同盟が結べても、それだけでは足りないとも鶴姫は分かっていた。

 

利で結ばれた盟は、利で緩む。

 

今の織田がただの武辺でなく、持続する形で伸びるなら、浅井と織田の結びつきも、戦の利だけではいずれ足りなくなる。

 

そこで、お市の札が立つ。

 

本来なら、織田浅井婚姻同盟の軸としてもっとも分かりやすい一枚。だが、その札はもう別のところへ置かれている。治部大輔信繁が、お市を娶っているからだ。

 

ならば、そこは組み替えるしかない。

 

お犬を浅井へ。そして、自分が織田へ。

 

その形でなら、軍事同盟を相互婚姻同盟へ変えられる。

 

鶴姫はそのことを、最初から恋で考えたわけではなかった。先にあったのは、家の理だ。だが、その相手が治部大輔信繁であると考えると、理だけでは済まなくなる。

 

自分と同じく、この時代へ半歩ずれた異分子かもしれない男。しかも、そのずれを言い訳にせず、この時代の理の中へ自分を押し込んで、傷の浅い道を拾おうとしている男。

 

「困ったわね」

 

鶴姫は、小さく笑った。

 

家のために動く。その理に嘘はない。けれど、その理の先に、自分が会ってみたい男がいる。

 

それを否定する気は、もうなかった。

 

軍事同盟は、やがて相互婚姻同盟へ変わる。お犬と自分が、その札になる。

 

そして1563年、鶴姫は輿入れする。

 

それは、家の理の帰結であり、自分の見立ての結果でもあった。

 

紙の上で追ってきた特異点。歴史をただ加速させるのではなく、壊れを浅くしながら前へ進めているかもしれぬ男。その男を、今度は紙の上でなく、この目の前で確かめる。

 

「本当に、困ったわね」

 

そう呟いた時には、もう困惑よりも期待の方が多く混じっていた。

 

 

湖西方面攻略がひとまず片付き、ようやく息をつけるはずの頃になっても、鶴姫の中では、織田治部大輔信繁という男が、むしろ前より分からなくなっていた。

 

北畠家を残したそのやり方が、あまりにも見事すぎたからだ。

 

力で押し潰すことはできたはずだ。

あの頃の織田なら、少なくともそう見せるだけの勢いはあった。

美濃を呑み、稲葉山を押さえ、兵も銭も流れも、人が思うよりずっと先へ進んでいた。

 

なのに、治部大輔信繁は、北畠をただ折るのではなく、残した。

 

しかも、ただ温情で残したのではない。

家の名を残し、面子を残し、従属同盟という形へ落とし込みながら、実のところは織田の利が最も深く通るように縫っている。

北畠の誇りを立てたように見せて、その実、動かせる範囲も向く先も、じわりと織田の掌へ寄せていた。

 

「……寝業師みたい」

 

鶴姫は、思わずそう呟いていた。

 

正面から斬る男ではない。

いや、斬る時は斬るのだろう。

だが、その前にもう、逃げ道も、引き際も、折れた後の居場所までも作ってある。

そういうやり方だ。

 

工藤家の取り込み方もそうだった。

 

ただ与した、従った、という生易しい話ではない。

向こうが自分から寄ったように見え、しかも周りから見ても「ああ、それが得だろう」と思わせる形で呑み込んでいる。

後から眺めると筋が通っている。

通りすぎていて、かえって怖い。

 

「本当に、何者なのかしら」

 

武辺だけではない。

商いだけでもない。

人の面子と欲と恐れの置き方まで読んで、その場にもっとも無理のない形を先に作ってしまう。

 

そして、最たるものが、知多水軍を使った兵站維持。海から兵を送り、海から支え、陸の消耗が深くなる前に一気に押し切る、あのやり方。

 

鶴姫は、初めて聞いた時、冗談かと思った。

兵站を海上輸送へそこまで預ける。

理屈としては分かる。

分かるが、分かることと、それを実際にやることの間には、深い溝がある。

 

海は気まぐれだ。

ゲームではないのでコンディションは定まらない。陸のように、ただ道が続いていればよいものではない。

風がある。潮がある。船頭がいる。荷がある。揚げる場所も限られる。

そこへ兵の腹と、戦の足を預けるなど、普通の武将なら怖がる。というより、この時代ではそういう発想は採れないだろう。

 

だが、治部大輔信繁は、その怖さを知った上で、なお賭けた。

 

もちろん、準備は周到に進めていたのだろう。

知多水軍の使い方も、船足も、揚陸の段取りも、どこまで崩れたらやめるかも、全部頭へ入れていたはずだ。

そうでなければ、あんな電撃戦めいた動きは取れない。

 

それでも、最後に踏み切るところは、ほとんど賭博師のようだった。

 

「怖い人……」

 

寝業師のように周到で、賭博師のように決断する。

その両方が、一人の中で噛み合っている。

そんな男を、鶴姫は他に知らない。

 

しかも、その結果だけ見れば、傷は浅い。

 

それでいて、六角攻めで見せた決断は、また別種のものだった。

北畠との従属同盟を固めた後、ほぼ返す刀同然間を置かずに六角へ寄せたあの動き。

 

北畠を残し、六角を削り、浅井と織田の結び付きは強まり、南北の通りは前より安定している。

乱暴なのに、乱暴で終わらない。

派手なのに、最後は妙に理が通ってしまう。

 

「困ったわね、本当に」

 

そう呟きながら、鶴姫は机の上の書付から目を離した。

 

目を引いたのは、軍の動きでも、銭の流れでもない。

その脇に添えられた、小さな記述だった。

 

北畠のお姫様が、客将待遇。

 

鶴姫はそこを、しばらく黙って見ていた。

 

客将待遇。

人質ではない。

完全な内の女として囲うわけでもない。

かといって、ただ遠ざけてもいない。

 

実家の名と立場を保たせつつ、織田方の内へ置く。

しかも、無下に扱った気配もない。

 

「……意外と女好きなのかしら」

 

思わずそう口にしたあとで、自分で少し笑った。

 

いや、それだけではないのだろう。

たぶん、相手の立場を見て、一番荒れぬ置き方をしただけだ。

そう考える方が、この男には似合う。

 

だが、それでも女の扱いがあまりに雑な男に、ああいう真似はできない気もする。

 

相手をただ押し込めるのでなく、名を持つ者として扱う。

そのことで、向こうも暴れず、こちらも利を得る。

理に叶っている。

けれど理だけで、ああも綺麗に置けるものだろうか。

 

鶴姫は、そこで妙な方向へ思考が滑るのを、自分でも止めきれなかった。

 

それなら、少しは自分も、治部家に嫁げば暮らしやすくなるのだろうか。

 

口にしてから、さすがに一度、顔が熱くなるのが分かった。

 

何を考えているのだろう。

浅井の姫が。

しかも、これから本当にその話が進みうる立場で。

 

だが、考えてしまったものは仕方ない。

 

少なくとも、あの男は、女をただの札として平たく扱うだけの人間には見えない。

札として見ているのは確かだろう。

この時代に、それを見ぬふりはできない。

けれど、札であることと、人であることを、両方見ようとしているようには思える。

 

それが思い込みかもしれないことも、鶴姫には分かっていた。

分かっているが、それでも期待してしまう。

 

六角の若様のように、思いつきを欲のまま振り回し、周りを食い荒らして破綻する類ではない。

傷を浅くしようとしている。

そのために回りくどく、時に薄気味悪いほど周到に手を打つ。

 

そういう男の家へ入るのなら。

少なくとも、話の通らぬ地獄ではないかもしれない。

 

「話せば、少しはわかってくれるのかしら」

 

危うい期待だと、自分でも思う。

だが期待できるだけ、まだましだった。

 

紙の上で追ってきた特異点。

歴史をただ加速させるだけでなく、できる限り壊れを少なくしようとしているように見える男。

その男の家へ、自分は嫁ぐことになるのかもしれない。

 

浅井と織田の軍事同盟は、もう動いた。

その軍事同盟を、お犬と自分の相互婚姻同盟へ変える話も、もはや絵空事ではない。

むしろ、そこまで行ってようやく、この不安定な結び付きは本当の意味で骨を持つ。

 

分かっている。

これは家の理だ。

私情を先に置いてよい話ではない。

 

けれど、六角攻めが終わり、北畠も収まり、周囲の形が次々と定まっていく今、鶴姫の中では、政略の冷たさだけでは割り切れぬものが、確かに育っていた。

 

会ってみたい。

確かめたい。

この人は、本当にここまで周到で、ここまで怖くて、そのくせ人の置き方だけは妙に柔らかいのか。

それとも、全部こちらの買いかぶりで、実際にはもっと単純な男なのか。

 

その答えは、もうじき嫌でも出る。

 

「本当に、困ったわね」

 

そう呟いた時には、困惑と同じくらい、期待も混じっていた。

 

六角攻めの終わったその先で、鶴姫はようやく、自分の輿入れがただの家の都合だけでは終わらぬことを、静かに悟り始めていた。

 

 

 

 

 

 

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