織田家の嫡子~藤左衛門家の特異点   作:デトロ!開けろイト市警だ!

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025真理姫の馬術

評定を終えて廊へ出ても、頭の中ではまだ話が続いていた。

 

織田家は、本拠を清州から稲葉山城へ移す。

もっとも、それで清州が軽くなるわけではない。尾張を押さえる根拠地であることに変わりはなく、伊勢方面にも三河方面にも目を配るうえで、なお外せぬ城だ。

それでも、美濃を呑み込んだ以上、これまでと同じ構えのままではいられない。尾張一国の家としてではなく、美濃を併せ持つ織田家として、どこに中枢を据えるか。その答えが稲葉山だった。

 

評定の場では、大きな方針までは決まる。

だが、その後に誰が何を受け持ち、どこまで口にしてよいかは、人が引いてから詰める話だった。尾張の後方体制、北伊勢へ向かう順序、そして浅井から届いた盟約打診への返し。評定が終わったからといって、考えることが減るわけではない。

 

「治部」

 

後ろから声がかかって、足を止めた。

 

振り向くと、勘十郎兄上が柱際に立っていた。評定の座では人目もあるが、こうして人がいなくなると、勘十郎兄上はいつもの調子に戻る。

 

「少し話すぞ」

「はい」

 

勘十郎兄上について小部屋へ入る。腰を下ろすと、兄上はすぐに本題へ入った。

 

「浅井の申し出、どう見る」

「軽い使者の挨拶ではありますまい」

「だろうな」

「盟を結びたいという打診にございます。こちらが美濃を手中に収め、稲葉山へ移るところまで見て、北近江として黙ってはおれぬと判断したのでしょう」

 

勘十郎兄上は頷いた。

 

「俺もそう見る。では次だ。あれが浅井家として、どこまで固まった話か」

 

「そこが肝にございますな」

俺は少し考えてから続けた。

「備前守殿のお考えだけなら、話は早うございます。ですが家として動くなら、下野守殿がどこまで腹を括っておられるかを見ねばなりますまい」

 

「備前守殿が前へ出ているだけでは足りん、か」

「はい。逆に、下野守殿だけを見ても見誤ります。あの家で実際に先を見ておられるのがどなたか、そこを確かめる必要がありましょう」

 

勘十郎兄上が小さく息をついた。

 

「面倒だが、飛ばせん話だ」

「浅井ほどの家なら、なおのこと」

 

北近江の大名家が織田家へ目を向ける。

そこには利もあれば、恐れもある。こちらが強くなったからといって、すぐに従うと決めるほど軽い話ではない。この時期に、しかも浅井家からの働きかけだからこそ、浅井は、織田に呑まれるためではなく、織田と並んで立てる形があるかを見に来ているのだろう。そう考えた方が筋が通った。

 

「扱いを違えれば、向こうは身構えましょう」と俺は言った。

「かといって、こちらが下手に出すぎても、織田の面目が立ちませぬ」

「その間を通すわけだな」

「ええ」

 

勘十郎兄上はそこで、少し身を乗り出した。

 

「治部、お前はどう動く」

「本家の前へは出すぎませぬ」

 

そう答えると、勘十郎兄上は薄く笑った。

 

「そこは分かっておるか」

「新しく立った治部家が、浅井のような古い家へ先に口を利けば、見栄えがよろしくありませぬ。返答の表は本家が持つべきにございます」

「うむ」

「ただ、相手がどう受け取るか、どこで角が立つか、その見極めにお力添えすることはできます」

 

勘十郎兄上はそこで頷いたが、すぐに言葉を継いだ。

 

「そのことだがな、治部」

「はい」

 

「無論、治部家へ仕事を投げるつもりで言っておるのではない」

勘十郎兄上の声は穏やかだったが、そこははっきり区切った。

「本家の返書だから、骨子も文の立て方も、まずはこちらでまとめる。使者の人選も、誰を前へ出すかも、先に俺の側で整える」

 

「それが筋にございます」

 

「だが、俺には美濃ほど北近江の人脈が太くない。備前守殿や下野守殿の息遣いを読むなら、お前たちの目も借りた方がよい」

俺は黙って先を待った。

「だからそちらにも回す。お前も見ておけよ、という程度の話だ」

 

その言い方に、俺は少しだけ肩の力を抜いた。

勘十郎兄上は、親しい相手にこそ筋を通す。今の一言で、それがよく分かった。

 

「承知しました」

「十兵衛にも見せろ」と兄上は言った。

「あいつには礼法と文の強弱を見てもらいたい。浅井ほどの家なら、そこを違えた時点で話がややこしくなる」

「ええ」

 

十兵衛なら、どこまでを立て、どこから先を抑えるべきか、文の格で見分ける。相手を軽んじたと取られる言い回しも、逆にこちらが引きすぎて見える文も、あいつなら拾う。

 

「半兵衛にも通してくれ」と勘十郎兄上は続けた。

「備前守殿と下野守殿の間合い、朝倉との距離、浅井家中がどこまで腹を固めておるか。あいつなりに見えているものもあろう」

「それがよろしいかと」

 

半兵衛は表の礼法より、その一文が相手にどう働くかを見る。いま北近江で何が動き、何がまだ動いていないか。備前守殿の考えがそのまま浅井家の総意と言い切れるのか。そういうところを読むには、たしかに向いている。

 

勘十郎兄上はそこで、もう一度念を押した。

 

「ただし、あくまで参考だ。返す文は本家の文として整える。そこは曖昧にしたくない」

「心得ております」

「そこまで見たうえで、最後は兄上にお目通しいただく」

 

俺は頷いた。

 

「細部を任されたとはいえ、この手の返しは兄上のお目を通しておいた方が無難にございましょう」

「俺もそう思う。浅井へどう返すかは、この先の北近江だけの話では済まんからな」

 

そこまで言って、勘十郎兄上は話題を北伊勢へ移した。

 

「浅井ばかり見て、北伊勢の順を乱すわけにもいかん」

「はい。長島本願寺と桑名へいきなり噛みつくのは得策ではございません。安濃津と北畠を先に見るべきかと」

「評定でもそうなった」

「ええ」

「北畠は、お前が見ろ」

 

言い切られて、俺は少し息をついた。

 

「大役にございます」

「まあ、逃がすつもりはない」

 

勘十郎兄上の声は淡々としていたが、中身は重い。

 

北畠は、ただ攻めれば済む相手ではない。顕家公以来の名家としての重みがあり、扱いを間違えれば余計な反発を招く。だが、名家だからといって、ただ残せばよいわけでもない。残して使えるのか、それとも切るしかないのか。その見極めが要る。北畠は、できれば潰さず遺したいが、使えぬなら斬るという方針で進んでいる。

 

「浅井と北畠は、さすがに同じようには扱えん」と兄上が言った。

「浅井は手を結べる相手だ。北畠は、残せるなら残したい相手だ。そこを一緒にするな」

 

「心得ております」

「治部は、話をまとめるのが早い。早いのはよいが、似ている話を一つにしてよい時と悪い時がある」

「耳が痛うございます」

「叱っているわけじゃない。だから任せる」

 

俺は少しだけ肩の力を抜いた。

 

「では、任される間は働きます」

「可愛げのない弟だな」

「今に始まったことでは」

 

勘十郎兄上が小さく笑う。それだけで、部屋の空気が少し和らいだ。

 

だが、勘十郎兄上はすぐに表情を戻した。

 

「よいか、治部。まずは盟の話だ。返書の言葉も、使者の格も、そのつもりで整える」

「はい」

「今の織田は、もう尾張一国の家ではない。戦の力だけ見れば、こちらが勝っておろう。だが、勝っているからといって、雑に扱ってよい相手ではない」

「ええ」

 

それはそのとおりだった。

 

戦で城を取ることはできる。

だが、そのあとで相手の家とどう付き合うかは、別の難しさがある。

 

無理に押せば禍根が残る。

持ち上げすぎれば、こちらの立場が崩れる。

その間を違えずに通す必要があった。

 

「まずは兄上の側で文案を起こしていただき、それを拝見いたします」と俺は言った。

「十兵衛と半兵衛にも目を通させ、礼法と情勢の両面から、気になるところを返しましょう」

 

「うむ。それでよい」

「その後、上総介兄上へお目通しを願う、でよろしゅうございますか」

「そうする。最後の一押しは、兄上ご自身に見ていただいた方がよい」

「承知しました」

 

勘十郎兄上が立ち上がる。俺も続いた。

 

障子を開けると、さっきまでの評定のざわめきはすでに引いていた。だが、話はむしろここからだった。

 

稲葉山へ中枢を移した以上、尾張の治め方も変わる。

浅井からの盟約打診にどう返すかで、北近江との距離も決まる。

北伊勢の手順を違えれば、その先の動きまで狂う。

 

一つずつ順を守って進めるしかない。

 

俺は廊を歩きながら、まず十兵衛を呼ぼうと思った。

本家が起こした文を見て、十兵衛には礼法と格を、半兵衛には北近江の情勢と文の含みを見てもらう。

そのうえで勘十郎兄上が上総介兄上へ決裁を仰ぐ。

浅井への返しを一つ間違えれば、この先の流れが変わる。だからこそ、ここは急がず、だが鈍らずに進めねばならなかった。

 

 

勘十郎兄上との話を終えて廊へ出ると、今度は頭を伊勢へ切り替えねばならなかった。

 

浅井への返しは、本家の側で文案を起こし、勘十郎兄上が整え、上総介兄上の目を通す。そこへ十兵衛と半兵衛の見立ても返す。

ならば、その間にこちらは伊勢筋を洗っておくべきだ。

 

俺は近習へ声をかけた。

 

「左近将監、十兵衛、半兵衛を呼んでくれ。今すぐで構わん」

 

ほどなく三人が揃った。

 

左近将監は座る前から、こちらの顔色を見ていた。

この人は、こちらが何を聞きたいかを先回りしすぎぬ程度に察する。伊勢筋の話なら、まず呼ばれるのは自分だろうという顔でもあった。

 

十兵衛はいつも通り姿勢が崩れず、半兵衛は静かにこちらを見ている。

人選としては悪くない。いや、この話なら他にしようもない。

 

「急に呼び立ててすまん」

 

「いえ」と左近将監が応じた。

「伊勢筋でございましょう」

 

「話が早い」

 

俺がそう言うと、左近将監は小さく笑った。

 

「稲葉山へ移れば、次にどこを見るかは限られます。浅井は勘十郎様の方で詰められましょう。となれば北伊勢、安濃津、北畠。その辺りを洗う頃合いかと」

 

「そのとおりだ」

俺は頷いた。

「まず確認したい。伊勢を見るにしても、あそこは北畠だけ見ておれば済む相手ではあるまい」

 

左近将監の表情が少し締まった。

 

「済みませぬな」

 

そう言ってから、左近将監は言葉を選ぶように続けた。

 

「北畠は、長野工藤家と争って勝っております。しかも、その後に具教卿の御次男、次郎具藤殿が養嗣子となって跡を継いでおる。つまり、北畠と長野工藤家を、まるきり別のものとして切って扱えば、かえって話をこじらせましょう」

 

十兵衛がそこで静かに頷いた。

 

「筋が増えておりますな」

 

「はい」と左近将監が応じる。

「どちらを立て、どちらを抑えるか、表向きの言い方を違えれば、すぐ遺恨に触れます」

 

俺はその言葉を頭の中で転がした。

 

北畠を残せるなら残したい。

それ自体はよい。

だが、残す相手が単純な一枚看板でないなら、こちらも扱いを細かく分けねばならん。

 

「関家はどうだ」と俺は聞いた。

 

左近将監はすぐに返した。

 

「関殿のような周辺国人も、ただ北畠だけを見て動いておるわけではありませぬ。長野工藤家との距離、安濃津との繋がり、こちらの出方、どれも見ておりましょう」

「どこか一つに乱暴に手を入れれば、周りが一斉に硬くなるか」

「その恐れはございます」

 

半兵衛がそこで口を開いた。

 

「今の伊勢は、一枚を押さえれば終わる形ではありますまい」

「どう見る」と俺は促した。

 

「北畠、長野工藤家、周辺国人、本願寺門徒、伊勢商人それぞれに事情が違います。しかも北畠と長野工藤家は、争ったまま切れているのではなく、養嗣子の件で線が繋がっておる。ならば、ただ敵と味方に二つに分ける考え方は危ういかと」

「ふむ」

「どこを攻めるかより、どこをまとめて敵に回さぬかの方が先にございます」

 

十兵衛も続けた。

 

「加えて、北畠は名家。扱いを違えれば、勝ち負け以前にこちらの名分が濁ります」

「長野工藤家との件も、か」

「はい。次郎殿の立ち方をどう扱うかで、こちらが何を重んじるかが見えます。家の継ぎ方にまで土足で踏み込んだように見せれば、名家筋にも国人層にも嫌われましょう」

 

左近将監が苦笑した。

 

「伊勢は、ただ兵を出せば片付く土地ではございませぬな」

 

「だからお前を呼んだ」と俺は言った。

「土地の顔を知らぬまま、地図の上だけで片付けるわけにはいかん」

 

左近将監は、それには素直に頭を下げた。

 

「恐れ入ります。ですが、こちらが助かるのは確かにございます。伊勢筋は、名家と国人と土地の意地が、思うておるより絡み合っておりますゆえ」

 

俺は腕を組み、しばし考えた。

 

北畠をただ潰すのではない。

だが、ただ残すのでもない。

残すなら、こちらにとって使える形に整えねばならん。

そのためには、北畠と長野工藤家の間にある過去と、具藤という現在の結び目と、関家ら周辺国人の様子を、一つずつほどいて見る必要がある。

 

「まず、人を洗うか」と俺は言った。

 

十兵衛が目を上げる。

 

「と、申しますと」

「系図と遺恨と、今の利だ。誰と誰が本気で切れており、誰と誰が見かけほど切れておらぬのか。それを知らねば、使者も文も出しようがない」

 

半兵衛が静かに頷いた。

 

「順としては妥当かと」

 

左近将監も続けた。

 

「関家など周辺国人も、その洗い出しの中へ入れるべきにございましょう。北畠だけ見ておると、周りの足場を見落とします」

「そうだな」

 

俺は三人を見回した。

 

「左近将監。伊勢筋の家と人、北畠・長野工藤家・関家を中心に、今つながっておる線を洗い出してくれ」

「はっ」

「十兵衛。名家筋を相手にした時、こちらがどこまで踏み込み、どこで礼を残すべきか、文書と使者の作法も含めて見立ててくれ」

「承知いたしました」

「半兵衛。誰と誰を同時に敵に回すとまずいか、その並びを見てくれ。安濃津も含めて、伊勢筋で何を先に動かすとどこが動くか、それを知りたい」

「承りました」

 

そこまで言ってから、俺は最後に付け加えた。

 

「北畠は、残せるなら残したい。だが、そのためにこちらが縛られては意味がない。残すにせよ切るにせよ、こちらが主導を取れる形を探る」

 

三人とも、異論はなかった。

 

障子の外では、さっきまでの評定の名残がまだかすかに残っている。

だが、もう話は次へ進んでいた。

 

浅井には、盟への返しがある。

伊勢には、北畠を中心にしながらも、長野工藤家や関家まで含めた見立てが要る。

美濃を取ったからといって、盤面が単純になるわけではない。むしろ、勝った後の方が手筋は細かくなる。

 

「まずは三日」と俺は言った。

「その中で、伊勢筋の人と線を持ってきてくれ」

 

左近将監が静かに頭を下げる。

十兵衛は姿勢を崩さず応じ、半兵衛は短く「はい」とだけ返した。

 

ここを雑に見れば、北伊勢は一気にこじれる。

逆に、線を見極めて手を入れれば、名家も国人もまとめて敵に回さずに済むかもしれない。

 

それなら、やることは一つだった。

まずは、誰が誰と繋がっているかを、正確に知ること。

伊勢は、その先からでないと動かせない。

 

 

田代へ戻ったその日の夜、俺はお市と真理姫を私室へ呼んだ。

 

二人ともすぐに来た。

お市はいつもの落ち着いた顔で、真理姫はまだ少し遠慮を残したまま、それでも以前よりは肩の力が抜けている。田代の空気にも、台所の味にも、人の動きにも、ようやく身体が馴染み始めた頃合いだった。

 

「改まって、どうなさいました」

 

お市が先にそう聞いた。

真理姫も、隣で静かにこちらを見る。

 

俺は二人の顔を順に見てから、正面から切り出した。

 

「子の話をしておこうと思ってな」

 

真理姫の肩が、ほんのわずかに揺れた。

お市は表情を動かさなかったが、視線だけは少し柔らかくなった。

 

避けて通れる話ではない。

この時代、子ができぬ、あるいは作らぬ、というだけで家が揺らぐことがある。最悪、家そのものが危うくなる。分かっている。だが、だからといって、若すぎる身体へ無理を強いてよいわけでもない。

 

「先に言っておく。俺は、子を急ぐあまり、お前たちに危ない橋を渡らせるつもりはない」

そこまで言ってから、お市へ目を向けた。

「ただ、お市については、そろそろ考えてよい頃合いだと思っている」

 

お市がわずかに目を伏せる。

 

「私、にございますか」

 

「ああ」

俺は頷いた。

「幼い頃から、俺に合わせて肉も卵も食わせてきた。牛乳も煮沸して飲ませたし、陽に当たって身体を動かすことも意識させてきた。今のお市は、年の割に身体ができている。背もあるし、息の上がり方も、昔とは違う」

 

お市は少しだけ困ったように笑った。

 

「そこまで見ておられたのですね」

「見てるさ。見てなきゃ、こんな話はしない」

 

お市はそのまま静かに頷いた。

恥じらいはある。だが、逃げる顔ではない。正室として、この話が自分に関わることも分かっている。

 

それから、俺は真理姫へ向き直った。

 

「真理姫は、少なくとも来年以降だ」

 

真理姫が目を上げる。

驚いたようでもあり、信じきれぬようでもあった。

 

「来年、以降……にございますか」

 

「ああ。今すぐではない」

俺は言葉を選びながら続けた。

「田代の暮らしには慣れ始めた。だが、まだ日が浅い。食も眠りも、身体の巡りも、もう少し見たい。子ができた、臨月だ、だが母子ともに危ない、では話にならん」

 

その言い方に、真理姫は一瞬きょとんとしたあと、ふっと笑った。

 

「治部殿は、そこまでお考えになるのですね」

「考えるとも」

「木曾では……そのようなふうに申されたことは、ございませんでした」

 

声は穏やかだった。

だが、その穏やかさの奥に、木曾で味わったものが残っているのは分かる。年も、身体も、何も整っていないうちから子を求められ、できなければ石女と呼ばれる。そんな扱いを受けた相手に、ただ「待てばよい」と軽く言って済む話ではない。

 

「だから確認しておきたい」と俺は言った。

「真理姫については、俺の名と責任で、本家へ『来年以降である』と告げてよいか」

 

真理姫は、少し驚いたように目を見開いた。

 

「よろしいのですか」

「よいも何も、そのために俺がいる」

「ですが……私は武田が送り込んだ者ですよ?」

 

そこで、真理姫は少し笑った。

自分で言ってみせることで、かえってこちらを試しているようでもあったし、痛いところに先に触れて、こちらの逃げ道を塞いでいるようでもあった。

 

俺は、その目をまっすぐ見返した。

 

「信玄入道がどういうつもりかは知らん」

一呼吸置いて、はっきり言った。

「だが、もう真理姫は我が妻だからな」

 

真理姫のまつげが、わずかに震えた。

 

「大事にする。そう決めた相手を大事にするのが、俺の生き方なんだ」

 

しばらく、部屋が静かになった。

 

先に動いたのはお市だった。

お市は口を挟まずにずっと聞いていたが、そこでようやく、穏やかに微笑んだ。

 

「それでよろしいかと存じます」

 

その声音は、正室として場を収める響きでもあり、一人の妻として胸を撫で下ろした響きでもあった。

 

「お市も、異存はないか」

「ございません。私については、治部殿が見てくださっていたのでしょう。ならば、その御判断に従います」

「無理はさせん」

「はい」

 

お市は素直に頷いた。

 

真理姫は、まだ少し目元を赤くしていたが、口元にはかすかな笑みが残っていた。

 

「治部殿は……優しい方なのですね」

 

「優しい、かどうかは知らん」

俺は苦笑した。

「ただ、俺は損をしたくないだけだ。せっかく得た妻を失って、子まで失って、それで家が栄えたと言えるものか」

 

真理姫が小さく笑う。

 

「それを優しいと申すのではございませんか」

「そうかもしれんな」

 

そこでようやく、部屋の空気が少し和らいだ。

 

「では、こう決める」と俺は言った。

「お市については、近く解禁する。真理姫は、来年以降。暮らしと体調を見て、それからだ」

 

二人とも、今度ははっきりと頷いた。

 

「本家への話は、治部殿から」

 

お市が確認するように言う。

 

「ああ。俺から言う」

「真理姫様のことも」

「もちろんだ」

 

真理姫は、今度は泣きそうな顔ではなく、まっすぐこちらを見た。

 

「ありがとうございます」

「礼はいらん。家のことでもあるし、夫婦のことでもある。それだけだ」

 

そう言ってから、俺はふっと息をついた。

重い話ではあったが、言うべきことは言えた。あとは、この約束を本当に守るだけだ。

 

ただ、そこで話を終わらせるのも違う気がした。

真理姫については、待つと決めた。なら、その間をただ座して過ごさせるのも違う。

 

「もう一つ」と俺は言った。

 

二人がこちらを見る。

 

「真理姫には、軽い運動も勧めたいと思っている」

 

真理姫が目を瞬く。

 

「運動、にございますか」

「ああ。無茶をさせる気はない。だが、身体を整えるなら、食と眠りだけで足りるとも限らん。お市は普段から薙刀を振っているし、弓も達者だろう」

 

お市は少し首を傾げ、それから静かに頷いた。

 

「嗜みとしては続けております」

「真理姫は、何かしたいことはあるか」

 

そう聞くと、真理姫は少し考えたあと、思いのほか迷いなく言った。

 

「馬に乗りとうございます」

「馬?」

 

思わず聞き返すと、真理姫はそこで、少しだけ得意そうに笑った。

 

「はい」

 

その顔を見て、ようやく腑に落ちた。

 

「ああ、甲斐のお家芸だからか」

「それもございます」

 

真理姫の声が、ほんの少し弾む。

さっきまで子の話で揺れていたのと同じ人間とは思えぬほど、表情が軽くなっていた。

 

「木曾駒の若いので良いなら、用意させようと思うが」と俺は言った。

「まずは姫の技量を見てからだな。口で乗れると言っても、庭駆けと実際では違う」

 

真理姫は、そこで少しむっとした顔をした。

 

「治部殿、私をあまり侮っては困ります」

「侮ってはおらん。ただ、甲斐での“乗れる”がどの程度か知らんだけだ」

 

お市が袖口で口元を隠すようにして、小さく笑った。

 

「それは、確かに見た方が早うございますね」

 

「では明日にでも」と真理姫が言いかけたので、俺は慌てて手を上げた。

 

「いや、明日は早い。まずは厩にいる馬を選ばせる。大人しいのを回す。話はそれからだ」

「そこまで慎重にございますか」

「妻を落としたくないからな」

 

真理姫はその一言に、今度は本当に声を立てて笑った。

 

「分かりました。では、まずは見ていただきます」

 

そうして数日後、真理姫を連れて馬場へ出たのだが。

俺は、そこで自分の見立ての甘さを思い知ることになる。

 

真理姫は、若い木曾駒へ寄るところから、まるで怖じるところがなかった。

手綱の取り方も、鐙へ足を掛ける動きも、無駄がない。誰かに手を貸されるのを待つでもなく、自然に鞍へ収まる。

 

「おい」

 

思わず声が出た。

 

真理姫は馬上からこちらを見下ろして、少し首を傾げた。

 

「何でございますか」

「いや……」

 

言葉に詰まったのは、乗った後だった。

歩かせる。止める。向きを変える。

どれも妙にきれいだ。無理に押さえつけている感じがない。馬が真理姫の指示に従って、すっと流れるように動く。

 

お市が隣で感心したように息をついた。

 

「真理姫様、お上手なのですね」

 

真理姫は少し照れたように笑う。

 

「甲斐では、珍しくもございません」

「いや、珍しくないで済ますには達者だろ」

 

俺がそう言うと、真理姫は目を丸くした。

 

「そうでしょうか」

「そうだよ」

 

そこで真理姫は、少し考えるように視線を流したあと、馬を馬場の端へ向けた。

風に揺れる枝先に、小さな葉がひとつ、外へ張り出している。

 

「治部殿。これでも、まだ足りませんか?」

 

言うが早いか、真理姫は細槍を受け取り、馬を軽く進めた。

駆けるというほどでもない。だが、歩みを伸ばした馬の上で、すっと穂先が伸びる。

 

ひゅ、と小さく風を切る音がして、枝先の葉が一枚、きれいに落ちた。

 

「……は?」

 

間の抜けた声が出たのは仕方がない。

 

真理姫はそのままもう一度馬を返し、かなりの速度で走り抜けると、今度は低い枝に残った小さな木の実へ穂先を向けた。

こちらは葉よりも狙いが細かい。だが、真理姫は少しも力まず、馬の揺れに合わせるように手を動かし、ころりとヘタの上を穂先で貫くようにして、実だけを落としてみせた。

 

お市が思わず両手を合わせる。

 

「まあ……」

 

俺はしばらく何も言えなかった。

 

馬に乗れる、ではない。

乗ったまま槍を使える。しかも、ただ振り回すのではなく、狙った一点へ通してくる。

 

「あ~、その、真理姫」

「はい」

「それ、甲斐では女子も普通にやるのか」

 

真理姫は少し困ったように笑った。

 

「皆が皆ではございませんが、珍しいほどでは」

 

その返しで、余計に頭が痛くなった。

 

甲斐のお姫様は、えらいことになってるな。

いや、口には出さん。さすがに、妻を前にしてそんなことは言えん。

 

真理姫は、まだ何か足りないと思ったのか、今度は槍を預け、手綱を少し緩めた。

 

「治部殿、鐙も外してみましょうか」

「待て」

 

止めたつもりだったが、遅かった。

 

真理姫はするりと鐙から足を外し、それでも馬上の姿勢をまるで崩さなかった。

腰がぶれない。馬の動きに逆らわず、むしろ一体になっているように見える。

 

「いや待て、何でそれで平気なんだ」

「慣れにございます」

「慣れで済ませるな。騎馬民族か」

 

お市がもう完全に目を輝かせていた。

 

「真理姫様、手綱なしでも乗れますか?」

 

真理姫はそこで、ほんの少し悪戯っぽい顔になった。

 

「ゆるやかに歩かせる程度なら」

 

「やるな、やるな」と言いかけた時には、もう遅い。

 

真理姫は手綱をふわりと馬の首へ預け、膝と腰だけで馬を進めた。

大きな動きではない。だが、それだけで十分だった。馬は素直に歩み、真理姫は何事もないように馬上に座っている。

 

俺は額を押さえたくなった。

 

「……俺より上手かもしれん」

 

お市が、とうとう吹き出した。

真理姫も一瞬きょとんとしたあと、くすくす笑い始める。

 

「治部殿も、お乗りになるのでは」

「乗るが、これは別だ。何というか、身体に入ってる感じが違う」

 

お市がなにかを思い出したかのように笑った。

 

「そういえば昔、治部殿は馬に乗ってから自分の両腕を縛らせて、鐙と手綱なしで馬に乗れるよう訓練するとか言ってましたよね」

「黒歴史を掘り起こさんでくれ」

「え、すごい」

 

「何十回、いや何百回って落馬したけどね。戦場で鐙を踏み外したり、斬り落とされたりって事故を想定してやってたんだ。まあ、曲芸みたいなもんだよ」

俺は真理姫が放り出した手綱を手繰って姫に手渡す。

「真理姫の方が達者なのは変わらんよ」

 

真理姫は馬をゆっくり寄せながら、少しだけ誇らしげに笑った。

 

「では、木曾駒の若いのをお願いしても?」

 

「分かった。お願いする」

俺は頷いた。

「だが、無茶はなしだ。まずは慣らしから。時間も長くは乗るな」

 

「はい」

 

そう言ったところで、お市が、少し遠慮がちに、それでもはっきりと言った。

 

「治部殿」

「何だ」

「私も、乗馬が達者になりとうございます」

 

俺は目を瞬いた。

お市は真理姫を見て、少しだけ頬を染めながら続ける。

 

「真理姫様に教えていただいても、よろしいでしょうか」

 

真理姫の顔が、ぱっと明るくなった。

 

「もちろんにございます。私でよろしければ」

 

お市は嬉しそうに微笑んだ。

薙刀も弓もできる。そこへ乗馬まで加わるとなれば、たしかに悪い話ではない。乱世で生きる武家の女として、覚えておいて損はない。

 

「まあ、覚えておいて損にはならんだろう」と俺は言った。

「だが、乗り過ぎるとお尻の皮が固くなってしまうぞ」

 

言った瞬間、しまったと思った。

 

お市がぴたりと止まる。

真理姫も一度瞬きをしてから、口元を押さえた。

 

「治部殿」

 

お市の声は静かだった。静かだったが、たぶん今のは要らなかった。

 

「いや、その、長く鞍に乗れば痛むしだな、鍛えられるというか――」

 

言い訳を重ねるほどまずい気がして、途中でやめた。

 

真理姫が先に耐えきれず、ふふっと笑った。

 

「それは、気をつけねばなりませぬね」

 

お市も、さすがに怒るより先に可笑しくなったらしく、肩を震わせている。

 

「もう少し……もう少し他に申しようがございましょうに」

「すまん」

「本当に」

 

お市はそう言いながらも、目元はもう笑っていた。

 

真理姫が馬上からこちらを見て、穏やかに言う。

 

「では、お市様には、まず馬に慣れるところからにいたしましょう。いきなり手綱なしなどはなさいませんよう」

「はい。そこは素直に従います」

「頼むから俺にも従ってくれ」

「治部殿は、余計なことを言わなければ、もっと素直に従えます」

 

お市にそう返されて、今度は俺が黙る番だった。

 

真理姫が声を立てて笑う。

つられてお市も笑う。

 

その笑い方を見ていると、来年以降だ、待つのだ、と線を引いたことも、ただ我慢を強いたわけではなかったと思える。

待つ間にも、身につけるものがあり、整えられる暮らしがある。

 

真理姫には、馬がある。

お市には、薙刀と弓があり、これからは乗馬も加わるかもしれない。

そして俺には、その二人を無事に次へつなぐ役目がある。

 

子の時期を決めるだけでなく、そこへ向かうまでの日々も整える。

それもまた、家を守るということなのだろう。

 

 

 

 

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